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  豊ヶ丘(橘さん)



はじめに
橘さん


はじめに

 私たちが、新しく越した豊ヶ丘グリーンヒルの管理人であられ、私が日医大に入院したときに保証人になってくださった。奥様が素晴らしい人で、私の妻がいろいろとご指導いただいている。その橘さんについて、思いついたことを自分自身の老化予防のためにメモとして記しておこう。


橘さん

 私たちが、多摩市関戸に住んでいたころ、近くに立花浴泉という浴場があって、よく行った。小さい風呂屋だが、サウナが付いていて、気持ちがよい。若旦那と親しかったが、その姓が立花であったかどうかを聞いたことがなかった。
 聖蹟桜ヶ丘駅の周辺を歩いていると、佐伯姓がかなりある。佐伯姓は、弘法大師の末裔であることが多い。
 したがって、姓名にはいわれがあるので、調べてみると面白いことがあるようだ。

 橘さんの「橘」という文字は、柑橘類(かんきつるい)からわかるように、いわゆるみかんのことである。
 この姓をもっている人は、おそらく皇族か、もと貴族であった人だと、私は思う。
 また、私の知っているこの橘姓を次に挙げてみよう。

(1) 橘曙覧(たちばなのあけみ)
 橘 曙覧(文化9年(1812年) - 慶応4年8月28日(1868年10月13日))は、歌人。 越前国石場町(現・福井県福井市つくも町)に生まれる。生家は、紙・筆・墨などと家伝薬を扱う商家。長男として生まれ、名は五三郎茂時。後に、国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられ、橘曙覧と改名する。そして、橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称した。
 橘曙覧の『独楽吟』という歌集に、

 たのしみはまれに魚煮て児等皆がうましうましといひて食ふ時

というのがあったと思う。
 その意味は、
 橘曙覧の家は貧乏であった。そんなわけで、久しぶりに魚を煮ると、大ご馳走。そして、子供たちが「おいしい、おいしい」と言って食べる時が、楽しみである。
というのであろう。

 橘曙覧は、歌人として、あまり有名ではないが、平成6年、天皇皇后両陛下が訪米をなされたときに、クリントン大統領は歓迎式辞の中で、『独楽吟』から

 たのしみは 朝おきいでて 昨日まで なかりし花の 咲ける見るとき

という歌を引用し、両国の新たなる親善によって「昨日までなかりし花」を築いていこうという趣旨の挨拶をしました。
 当時は日本人でさえ、橘曙覧の名を知る人は少なかったことでしょう。

(2) 三筆
 日本の書道史上3人のすぐれた能書家。いくつかの三筆があるが、私の知っているのは、平安初期の嵯峨天皇・空海・橘逸勢(たちばなのはやなり)。
 弘法も筆の誤りという言葉がある。三筆に数えられるような人にも、文字の間違いがあるのだという。あるとき、弘法大師が額の文字を書いた。そのときに、太の文字の「」を忘れて、高いところに掲げてしまう。そこで、筆に墨を付けて、下から投げ上げたら「」が、ちゃんと書けたという。

(3) 橘嘉智子(たちばなのかちこ 786〜850)
 橘清友のむすめで、後に嵯峨天皇の皇后になった。檀林寺を創建したので檀林皇后(だんりんこうごう)とも呼ばれる。

 死後のことを言い残す者は多い。
 例えば、自分の死を隠す。そして、元の木阿弥(もとのもくあみ)などと言う。それはある戦国大名が病死したとき、声の似ていた木阿弥を影武者として自分が病気で寝ているようにみせかけ、子供の順慶が幼い間は自分が生きていることにして、長ずるに及んで初めて順昭の死を公にしたという。
 すると、木阿弥はもとの市人となったという故事である。いったん良い状態になったものが、再びもとの状態にもどってしまうことを「元の木阿弥」と言うようになった。

 しかし、死後のことではなく、自分自身の死体について言ったものは、あまりいないと思う。
 私の知っている範囲では、親鸞と橘嘉智子の二人である。
 親鸞。『歎異抄』ではなかったと思うが、「自分が死んだら、葬式などをしないで、鴨川に投げ捨てて、魚の餌にしなさい」のような記述があった。
 また、橘嘉智子は「死体を庭に捨て置き、犬の餌にしなさい」と言い残したそうである。
 親鸞も橘嘉智子も、残念ながら後の者たちが、手厚く葬ったので、魚や犬の餌にはならなかった。
 また、橘嘉智子には死体がどのように変化していくかを示した「九相図」がある。死んだら、肉体がどのように変化をしていくかを示す図である。



 上は何枚目かの図で、死体が犬や鳥に食べられていく図である。
 この図の他に、身体から無数の蛆(うじ)が湧き出しているグロテスクな図もある。

Kuroda Kouta (2014.08.08/2014.08.11)