総トップページにジャンプ

 図形問答・図形なぞ


ヴィレンドルフのヴィーナス

これはパイプではない

 ここには、ちょっと考えてみて「脳のリフレッシュ」になるような図形を集めてみました。
 また、中には考えるのではなく、何となく笑えるような図形もあるでしょう。「笑う門には福が来る」などと言って、笑うことは健康によいらしいから、そんなときは笑ってください。
 ここにある図形は、すでにこのホームページのどこかにあるものもあります。しかし、ここにだけしかないものも、あるはずです。そして、それらの図形に対して、私なりの感想や考え方を添えたものもあるでしょう。
 しかし、もしかしたら間違って解釈をしている場合があるかもしれません。
 そのようなときは、どうぞご指摘・ご指導をしてください。



 下の各図形をクリックしてください。

        

        

        

        

        

        

    



ペンローズの三角形


 

 この物体を作るとき、いったいどうしますか?
 設計図に基づき制作するのですから、まず材料と道具をそろえます。
 そこで、3cm角・長さ20cmくらいの材木を3本、それに6cm程度の釘を数本用意します。さらに、手ごろな大きさの金槌(かなづち)を手配すれば、準備完了です。
 それでは早速、図の三角形を制作しましょう。
 しかしここで、私たちは妙なことに気づきます。それは、一見気軽に考えたこの簡単な物体が、いざ実現しようとすると、思うようにできないことです。
 その結果、それではこんな構造が、本当に実現できるだろうかという不安が脳裏をよぎります。そのような疑問は、実際の製作にかかり始めてからでなく、初めに見ればわかりそうなことですが、……
 これは「ペンローズの三角形」といい、もともと空想上の図形です。このような図形は、エッシャーの作品にもありますが、しっかりと見ないと何となく実態のように錯覚をしてしまいます。また「だまし絵」なども、この範疇に入るでしょう。
 このように、基本的な設計や構想自体が最初から不完全であると、いかにその素材を組み合わせても、実現できないことがあります。
 今後、ものを作る場合には、初めにしっかりと考え、基本設計をすることが大切です。

Topへ戻る


芸術家の絵


 

 この絵は、いったい何を表現しているのでしょうか。
 これは、若い新進画家が成功した経営者から、応接間に飾る近代的タッチの肖像画を依頼され、ようやく完成した作品なのです。
 画家は、この絵の出来映えがピカソや岡本太郎の作品を、はるかにしのぐだろうと内心秘かに考えました。力作を完成した充実感と、力量を誇る自尊心に満たされ、意気揚々と依頼者に見せます。
 すると、これはいったいどうしたことでしょう。
 しばらく唖然としていた依頼者は、やがて興奮して言い始めました。
 「私は、自分の肖像を新しい感覚で、君に書いてもらいたかった! だからこそ依頼したのだ。このような二人の顔を、お願いした覚えはない」
 さらに続けて、今度は怒って大声で言います。
 「それに、なぜあの二人は、あのように人目も考えず、あんな激しいキスをしているのか?」
 初め画家は、依頼者が発狂したのだと思いました。しかし、心を沈め考えるうちに、ようやく誤解の理由がわかってきました。作品が一人の顔の左右でなく、別な二人の横顔と勘違いをしたようです。
 そのため、二人の顔が少しの隙間もないほどくっつき、ぶちゅっと接吻している男女の姿に、おそろしく狼狽した様子です。
 そこで、画家は何とか落ち着きを取り戻し、
 「これは、あなたの前向きの肖像で、あなた自身を描いたものです。そして、この作品は私の生涯においても大作なのです」
と一所懸命になって依頼者に説明をしました。しかし、期待を裏切られ失望した依頼者は、がんとして納得しません。
 画家はこの絵を依頼者の要求どおりに作ったといい、一方、依頼者は自分の希望とはまったく異なると言い張ります。
 とうとう我慢がしきれなくなった画家は、依頼者に向かって、
 「あなたは、芸術を理解しない人だ!」
と激しく避難をします。すると、その博識な成功者も、真っ赤になって、
 「君こそプロのくせに、ちっとも芸術をわかっていないじゃないか!」
と怒り狂います。
 そのようにして、この取引は決裂しました。
 むろん、この絵をどう見るか、一人と思うか二人と考えるかは、主観の相違です。人によって異なるのも、仕方のないことでしょう。
 画家は、自分が心をこめて作ったという事実と、依頼者の満足とは全然別であることを、空しく認識しました。仕方がないので画家は、「一つの幸福」と題名をつけて売りに出します。すると、すぐ買い手がつきました。

 実は、この図はシェーファとマーフィの「知覚に及ぼす賞罰の効果」という資料です。左半分の図を見せながら誉め、次に右半分を見せながら叱るという経験を繰り返すと、やがて全体の図を見たときも、注意が左半分にのみ向くというものです。
 最初の取り決めがあいまいだと、テーマや対象の勘違いをして、自分本位に解釈し、完成後に依頼者の要求と異なり、問題を生じることがあります。
 今後、依頼されてものを作る場合には、初めにしっかりと、仕様を確認することが大切です。

Topへ戻る


■不気味なエイリアン


 

 この不気味な姿をしたものは、いったい何でしょうか?
 宇宙から地球へ侵略してきたエイリアンにも見えます。もしも、この怪物が人間の身体に入ってきたら、あわてて「取ってくれ!」と叫ぶかもしれません。こんな生物が内部から、人間を支配したらどうなるでしょうか。
 それにしても、本能的にいやな形をして、気持ちが悪いですね。
 ロールシャッハテストというインキのしみにより作った図形が、何に見えるかをたずね、精神状態を検査する方法があります。単にインキの濃淡によって描かれた模様で、図そのものには特定の意味がなく、見る人によってそれぞれ異なります。
 この図は、ちょっとそれにも似ています。しかし、これは実在する生き物です。もっとも、単独では生存できないかも知れませんが、……
 正体がわからないものは、おぞましく不気味です。
 子どもは、本能的に未知で不可解なものを恐れます。例えば、おばけ、幽霊、暗闇(くらやみ)などです。だから、これを幼い子どもが見たら、おびえるかもしれません。イーデン・フィルポッツの『闇からの声』に、そのようないたましい場面が書かれていました。
 いっぽう、大人は形が恐ろしいくらいでは平気です。
 大人には理性があるからでしょうか。無間地獄や悪魔の絵を見ても嘲笑します。そのような世界の実在さえも軽蔑し、まったく馬鹿にする人がいます。
 それでは、大人はいったい何を最も恐れるのでしょうか。
 それは、「自尊心を傷つけられる」ことです。例えば、恥をかかされたり、軽蔑され、無視されることを心から嫌います。自分が知らないと、自分のわずかな知識から類推し、処理することに慣れています。そのような安易な考えと、自己本位の解釈で、見当違いの行動を繰り返します。
 すなわち、一般に大人は「自分が知らないということ」を知りたがりません。
 アポロ神殿の扉に刻まれた「汝自身を知れ」という言葉についてソクラテスやカントが考えたことは、この辺りを指摘したのでしょうか……。
 ここで話を戻し、もう一度問題の図を見てください。
 実は、これは人間の脳の前額断面を示したものなのです。
 この中で、私たちの知的な思考活動が行われます。さらに、怒ったり、愚痴をいったり、貪欲になるのもこの中です。すべての感情をはじめ、人間のあらゆる次元の概念が、この脳に存在します。
 日蓮は、「地獄は地下にあり、極楽は西の方にあると経にあるが、よくよく調べると、それらは自分の身体の中にある」と言われました。さらに、もっとつきつめれば結局、脳の中にあるということでしょう。
 不思議といえば、不思議なことです。
 私たちは仕事をする場合、自分の経験したパターンに基づいて行動を決めます。ここで、先入観や偏見をもたないことが大切です。さらに、新しい知識を自分自身に取り入れていくことも必要です。
 なぜならば、身近なものでも別な角度からながめると違って認識され、なかなか正体がわからないこともあるからです。
 安易に判断して、いやな形だから取り除いたりすると、後で取り返しがつかない大事を招くことがあります。
 今後、問題の中心点が明確でない場合には、まずその部分を解明することが大切です。

Topへ戻る


■メビウスの帯


 

 いったい、裏のない面などが存在するのでしょうか?
 この無限大の記号のような形をした輪に含まれる意味は、意外に大きいようです。この輪の裏面は、一周して元のところで表面になっています。この面を1回ねじった構造を「メビウスの帯(おび)」といいます。
 これは、紙で簡単に作ることができます。作ったら、帯のまん中を続けて、初めのところまで切ってください。ふつう、物を二分すれば2つになります。この場合は、どうなるでしょうか。
 実際に、この簡単なしくみがドット式プリンタのリボンなどに利用されました。回転する帯状のカーボン面が、一様に打たれるための工夫です。
 メビウスの帯と似たものに、内側のない容器「クラインの壺」があります。それは、トポロジー(位相幾何学)的に考えて可能でも、常識では異次元世界のように見えます。容器の内側がいったん外へ出て、さらに外側に続いていたりすることは、どうも現実的ではありません。
 裏のない面や、外側のない容器などは、はじめから考えなければ気楽です。しかし、一方では何とか実現する方法を考えることも必要でしょう。
 今後、ホームページを作ったり、何かをするときは、各要素のつながりや関係をしっかりと見極めることが大切です。

Topへ戻る


■抽象と具体の間(はざま)


 

 もしも、
(1) 「平面上に存在する3個の点A、B、Cを、それぞれ対応する点A’、B’、C’と連続した線分で結べ。ただし、線分は直線の必要はないが、平面上で互いに交差してはいけない」
という問題が与えられたらどうするでしょうか。
 記述がぎこちなく、また「与えられ」たりすると、何だか幾何の問題を思い出し、どうもおっくうになりがりです。

 それでは、
(2) 「ここにコンピュータの回路を作る1枚の基盤があります。基盤の表面の端子間を、それぞれ対応するように布線設計をしてください」
といえばどうでしょう。
 ICなどをセットする板を基盤といい、その基盤上の配線を布線といいます。布線設計は、素子間の接続をどのようにしたらよいかを考えることです。その配線はプリント方式ですから、互いに交わることができません。
 つまり、そこにもう他の線があれば、それを回り道して交差しないルートを探します。これで、幾何の問題から何とか、現実の回路製作のテーマになりました。

 さらに、次のようなのはいかがでしょうか?

 

(3) 「むかし、北の地方に小さな国がありました。そこに、王様とお后と王子さまが住んでいました。長い冬が去った暖かい日に、3人は外出なさいます。それぞれ、多くのお供を連れて遊山(ゆさん)です。
 王様は、山の斜面にある宝物がしまってある倉に、お后は垂水(たるみ)のさわらびの新芽を見に、そして王子さまは、冬眠をしていた兎がはい出してくる西の野原に、それぞれ向かいます。
 夫婦、親子でも互いに気位が高く、お供も一緒です。他のものが通った道を避けて進みます。他人の歩いたところを自分が行くことは、自尊心が傷つくと考えたからです。
 王様、お后、そして王子さまは、どのように進めばよいのでしょうか?」

 これら(1)(2)(3)は、同じことを意味しています。
 ただ、その表現が抽象と具体で異なっています。むろん、初めから物事を抽象で考えることができれば、応用もできて好ましいことです。しかし、慣れないうちから抽象的に考えるのは、なかなかめんどうでしょう。
 今後、具体と抽象との間を思索がスムースに移行できるように、しっかりと習慣づけることが大切です。

Topへ戻る


■直感と錯覚の周辺




 子供のころ、どこかの旧家へ母に連れられて訪問したときの思い出です。
 そこで出されたのは、扇形をした落雁(らくがん)でした。それは、お皿に2つのせてありました。そのとき、手前にあるほうが大きく見えてなりませんでした。
 こっそりと重ねて大きさを確かめたことを、今でもよく覚えています。
 人間の目は、欺かれやすいものです。非常に精巧なその機能も、ともすると誤判断を平気でします。

 わたくしたちの目は、物があまり近すぎても、また遠すぎても見えません。
 非常に近い対象は、盲点に入ってしまうからです。また、距離が遠いと識別できないほど、ぼやけてしまいます。
 それでは人間の目は、どのくらいの距離まで見えるのでしょうか。
 肉眼で、いちばん遠くに見えるものはアンドロメダ星雲です。それは、この地球から光が200万年もかかって到着する距離なのです。わたくしたちの目は、すばらしいものですね。

 もしも、対象を正しく見ることができない目なら、くりぬいて捨てなさいと激しいことをいった偉人もいます。
 目が欺かれてしまわないように、正しく事物を見ることが大切です。

 

 冬の曇った日に、閑静な住宅街を歩いていたときのことです。
 たどたどしいタッチのピアノ曲が流れてきました。私は、とっさにその曲が「雪やこんこ」だと思いました。そのとき、私は雪が降りそうだと考えていたのです。
 そして次は、「あられやこんこ、降っても降っても……」と続くのだろうと考えました。でも、進むにつれてちょっと違うようです。やがて、ふとわかりました。
 それは、バイエルのピアノ教則本内88番の練習曲だったのです。

 このようなことはよくあります。シューベルトの「アルペジオーネソナタ」も出だしのところで、てっきりこれは「未完成交響曲」だと思ったりします。その部分の旋律が互いによく似ているからです。
 似たようなことは、何も音楽にかぎらず、日常の会話にもあります。
 実際に、どちらの意味にもとれる言葉があったり、抑揚で意味が異なることもあります。例えば「結構」という言葉は了承したときも、辞退するときにも用います。
 お見合いなどで「結構でございます」といわれて待っていると、あのときに「お断りしたはずなのに」ということがあります。
 耳も、自己本位で聞き違いをしないようにすることが大切です。

 

 新進の研究員が、助手とともに実験をしています。
 はじめ、ビーカーに1匹の細胞がいます。それが、1分間隔で2匹になり、4匹になり、8匹になるというように、次々と2倍に分裂をします。そして、ちょうど24分でビーカーが一杯になりました。
 研究員は、助手に言いました。
 「君、ちょうどビーカーの半分になった時間数を書いてくれたまえ」
 見るからに利発そうな助手は、
 「はい」
といって、機敏に12分とノートに記入しました。
 そのようにして、細胞がビーカーの半分になる時間の測定を続けました。
 しかし、結果がどうも思わしくありません。彼女の手慣れた作業の中にも、何か重大な誤りがあるのでしょうか。

 驚くことですが、科学者が0乗した数を0と勘違いをしたり、電気技術者が電源スイッチの「○」をONと間違えたりするそうです。何気なくすることの中に、思い違いがあるのは困ったことです。
 考えずに動作するのは、誤りのもとです。必ず、逆の場合にどうなるかも思い出してみる必要があります。
 論理や約束を、直感で思い違いしないようにすることが大切です。

 

 日常生活にも、結構思い違いがあります。私の父は自分の額にかけた眼鏡を、しばしば探していました。
 私も、かつてコンピュータの専門家の一人でした。
 コンピュータ技術で生計をたてていました。いままで、ずいぶんとプログラムを作りました。しかし、いかに思い違いやミスが多かったかを思うと、恥ずかしくなります。
 そのたびに、自信をなくして暗い気持ちになりました。それは、湯川秀樹博士が書いておられる「この道を離れたならば、何の取柄のない人間であることを、思わねばならぬ」ということです。
 だから、一生かかっても何とか間違いを減らしていこうと思います。自分ができないと思ったら、もうそれが最後です。

 いちばん思い違いで困るのは、能力があるのにないと思ったり、さらには、自分を「ダメ」と思い込むことです。「老化予防」を難しいと考えたりしないで、もっと自信をもってください。
 「健康」や「老化予防」の問題は、思ったよりも簡単です。
 図形を見るときには平面的な広がり、話や音楽を聞くときには時間的な広がりに注意できる視聴覚をもっていればよいからです。そしてさらに、それらの情報を処理する脳そのものの判断を慎重にすることで実現が可能になるでしょう。

Topへ戻る


■トコとは?


 

 ある人が、インターネットやホームページに関して自身がついたので、その仕事を始めようとしました。そして、さっそく大きな看板を2枚作り、事務所のドアに取り付けます。

 しかし、ちょっと変です。
 並べ方を間違えたのでしょうか。また、そもそも何という名前なのでしょうか。カタカナで「トコ」と描いてあります。また、もしかしたら「凹凸照会」か「でこぼこ会社」とでもいうような商号にしたのでしょうか。
 「凹凸」ならば、縦に付けるのを横にして、向きまで間違えたようです。

 あなたはここで、デフォルメしてある「凹凸」に惑わされてはいけません。一度「凹凸」だと思ったら、それにいつまでもこだわるのもダメなんです。横になった「凸」と「凹」がことさらに黒いのも目をあざむきます。
 それでは、このデザインはいったい何を意味するのでしょうか?
 凸型のでっぱりが凹型のへっこみに、スライドをして入るのだなどと、まだ言っていませんか。全体が一体のものなのか、それとも2つに分かれた集合体なのでしょうか。

 いったい何を意味するか、どうもよくわかりません。そこで、思い切って彼に聞いてみました。そると、実は「C」と「E」という2つの文字であり、それは「Computer Engineer」のイニシャルだそうです。

 この「だまし絵」は、ダリやエッシャーのものと比べると単純、幼稚です。
 人は、同時に2つの見方をしないようです。2つ物があると、どうしても内側のものを認識します。また、意識にも作用と反作用があります。そして、作用が強すぎると反作用は希釈されてしまいます。

 ふつう、知っている身近なほうから類推をして認識します。そこで、それにこだわってしまうのです。外側を見ると内側を見ることができなくなり、逆に内側を見ると外側の観察がおろそかになります。
 片方ばかりに意識が傾くことは、困ったことです。とらわれないやわらかい頭、フレキシブル(柔軟)な思考が必要です。「C」と「E」が大きくても、あざむかれないようにしてください。
 つまり、部分を見て全体の意味を見失ってはいけません。

 ホームページを作るときも、まったく同じ要領です。細かいことは後回しにして、全体から考えていくことが必要です。このホームページは、そのようなことを注意して作成をしています。
 口はばったいことですが、実際の経験から得たことや、先輩としての老婆心がはたらいたのも事実です。なぜならば、自分が知ったことをすべてあなたに伝えたいと思っているからです。しかし、「安直に人の先生になってはいけない」という吉田松陰の言葉も思い出され、少々気後(きおく)れがするのも事実です。

 それは、認識の世界や自分の位置が、個人ごとに違っているからです。
 この図形から、私たちは多くのことを考えます。まず、考えることに慣れるということが、いかに大切かということです。「考える」ということを考えることができるのは、どうやら人間だけのようだからです。
 自分自身の宇宙を構築したり、自由奔放に精神界を移動できることは人間にとって実にすばらしいことと思います。
 今後、問題が提起されたら、高い次元からいくとおりの角度も考えるということを忘れないことが大切です。

Topへ戻る


■ルビンの盃(さかずき)


 

 この……

 「RIKOホームページへようこそ!」の「このホームページの考え方」にある
ルビンの盃(さかずき)」を参照してください。

Topへ戻る


■象を飲み込んだうわばみ


 

 「RIKOホームページへようこそ!」の「このホームページの考え方」にある
象を飲み込んだうわばみ」を参照してください。

Topへ戻る


■昼と夜


 

 「RIKOホームページへようこそ!」の「このホームページの考え方」にある
昼と夜」を参照してください。

Topへ戻る


■ジンメンカメムシ


 

 上のでっかい顔みたいなものは、いったい何でしょうか?
 何となく、どこかのオッサンに見られているような気がするのは、私だけでしょうか。
 多摩動物公園で世界の昆虫展というのがありました。そのとき珍しかったので、デジカメで撮影しました。しかし、上の図では全体がわかりにくいので、もう少し大きなアングルで下に示しておきましょう。
 小さな金魚鉢のようなケースに、大鋸屑(おがくず)のようなものを引き詰めて、その中にもぐっているものもいました。虫の名前はジンメンカメムシと言います。

 

Topへ戻る


■パンジー


 

 パンジーでも、私には何となく顔に見えます。
 その部分をでかくしてみると、ますます不気味です。
 もっとも、下のように小さくて全体を見ても、やはり顔に見えちゃいますね。

 

Topへ戻る


■孔子の壺


 

 あなたは「孔子の壺」をご存じでしょうか?
 この美しい形の容器は、空(から)のまま置こうとすると倒れてしまいます。また、水をいっぱい入れても、ころんでこぼれてしまうんです。しかし、ちょうど半分くらいの分量にすると、まっすぐ立つというものでした。
 壺の内部は、いったいどのような構造をしていたのでしょうか。

 孔子(こうし 前551−前479)は、中国春秋時代の学者です。両親を大切にすることや、人に対する思いやりを人間の理想と考えました。諸国を巡って、その道を説きましたが用いられず、晩年は教育と著述に専念をしました。
 後に、孔子や弟子たちの言行をまとめたのが『論語』です。
 この壺の内部は非対称になっていて、半分だけが空間だったのです。
 水を入れる容器として、あまり実用的でなかったこの壺は、別な意味で有用でした。それは、孔子が中庸(ちゅうよう)の大切さを説くときに用いる道具だったのです。
 壺を人間にたとえ、知識が何もないと不安定でころび、またあまり詰めすぎても、倒れてしまうことを教えたのです。
 今後、ものの外形から内部を想像するのではなく、その機能から本質を見定めることが大切です。

Topへ戻る


■クラインの壺


 

 あなたは「クラインの壺」という容器を、いったいどう考えますか?
 形が似ていても、溲瓶(しびん)じゃないので汚くはありません。安心をしてください。
 ここにその構造を、簡単に説明しましょう。
 首の長い花瓶を考えてください。まず、この首の部分を伸ばします。次に、首を徐々に曲げていき、胴の一部に穴を開けて内部に差し込みます。そして、底の部分につないだら完成です。
 つまり、この容器には外側だけがあって、内側はありません。

 クライン(Felix Klein 1849−1925)は、ドイツの数学者でした。関数論や群論を研究して、新しい分野を開きました。
 ここに描いた容器は、実物と大きく異なっています。つまり、この図は偽物なのです。なぜならば、クラインの壺は位相的な想像の産物であり、実現ができないからです。
 本物は穴なしで、通り抜けができなければならないのです。それは物理的に不可能であり、そのような実物は作れません。
 ふつう容器は、液体を入れます。現実の社会では、壺は思考の対象ではなく、また位相幾何学(トポロジー)の素材でもありません。
 その意味でこの壺も、あまり実用的ではないようです。

 私たちは、仮定でものを考えることが多いようです。
 「……をしたら……する」という方法です。しかし、このアプローチは初めの「……」の部分が完成をしないと、後の「……」が未解決のまま終わることになります。
 例えば、
   基本的な技術をマスターしてから、システムを構築する
というような場合です。
 しかし、基本的な技術が何かは一概に言えません。また、後の目的によって大きく異なってくる場合があります。
 そこで、このホームページでは目的と手段の実現を並行して進めています。不明なことがあっても、とりあえず先に進むというような方式なんです。

 世の中には、理論と現実の食い違いが多く見受けられます。学校や社会でも、矛盾していることがたくさんあります。しかし、しばらくするとそれが当然に思えてくるから不思議です。
 そのようなことを、昔の人たちは「いすかのはしの食い違い」と言いました。「いすか」という鳥の「くちばし」の長さが、上と下では大きく異なっていたことによります。
 これは、疑問をすべて解き明かしてから問題にかかる愚を、武士に向かって町人や百姓たちが、軽い気持ちでなじった比喩のようです。(もしも、間違っていたらごめんなさい。)

 ホームページを作成したり、プログラミングをする技術は、何となく武道や作法に似ているところがあります。職人は長い経験で身につけたことを、当然なこととして教えます。あまり理論は述べません。
 落語に、「どんどん行くと最後にどこに着くか」という話があります。空間を行く場合に、やがて宇宙の広さ、果ては宇宙全体が歪(ひず)んでいる問題になり、異次元の論理に変化をしてしまいます。
 今後、問題が提起されたら最初に実用的な立場を考え、次に理論的な見方をすることが大切です。

Topへ戻る


■動物の頭だろうか?


 

 上の図は、私が原図からコピーしたものです。
 いったい何の図でしょうか?
 何となく動物の頭にも似ています。しかし、それにしては目がちょっと小さすぎるかもしれません。
 実は、この図は左側が上にあったのです。実際には図の上が東ですから、図の左側が北に当たるのです。
 つまり、ふつうの地図では北を上にして描きますから、わざわざ左に90度だけ回転をして描いたのであって、そのために目がくらまされて余計にわかりにくいのです。

 実は、単にアフリカの地図をトレースしただけのものです。
 つまり、目に当たる部分がビクトリア湖なのです。実際には、その目がタンザニア連合共和国とケニア共和国にまたがっているほど大きいのです。全体で3千万平方キロメートルもあるアフリカ大陸を上のようなラフな図で表したことも、なかなかわかりにくい理由かもしれませんね。
 目はあざむかれやすいものということが、この『RIKOホームページ』の「老けないために」にある「脳の活性化をしましょう」というところの「直感と錯覚の周辺」に書いてありました。

Topへ戻る


■この影絵は何をしているのだろうか?


 それでは、次の影絵は二人の人物がいったい何をしているところでしょうか。
 実際には「二人」というのも「人物」というのも、もしかしたら間違っているのではないかとも思います。
 なぜならば、「二人」といわないで「二柱」といわなければいけないのかもしれませんが、……

 

 実は、上の図はかつて宮武外骨が編集をしていた『滑稽新聞』(九十号 明治38年)に掲載されていた嵌め絵(はめえ)の写しなのです。何となく二人の男女がぴったりとくっついて、ぶちゅっとキスをしているような図柄です。少なくとも私は、あまり性格が高潔ではないので、最初そのように思いました。
 なお、宮武外骨については、この『RIKOホームページ』の「語句・人物など覚え」に簡単な説明がありますので、ご関心があったら見てください。

 私が、いつも散歩をしている多摩川のコースで、宮武外骨はよく釣りをしていたということです。
 先の戦争で、彼が疎開を多摩市にしていたころのことです。
 それはそうと私は、宮武外骨の「墳墓廃止論」を読んで、まったく同意見です。
 それとは関係がありませんが、彼は生涯に結婚を4回もしたということです。それについては、まったく精力のある人と感心をしています。もっとも、すべての結婚が前妻との死別によるということらしいですが、…… そして、それはそれなりに、もしかしたら精力絶倫の人であったのではないかとも思うのですが。

 時代が異なるので、私は宮武外骨と話などをしたことがありません。したがって、よくはわからないのですが、何となく尊敬のできる人ではないでしょうか。
 先に示しました嵌め絵の表は、恵比寿と大黒が並んでいるという図柄でした。

 

Topへ戻る


■月とドーナツ・遠近法の限界


   

 左が「月」で、右が「ドーナツ」です。ドーナツを大きく、月を小さく描くと何となくイメージが損なわれるかもしれません。
 「月」は陰影の練習にペイントで描いたものです。書き方は、この『RIKOホームページ』にある「HPの作り方入門」の「絵の作り方」にあります。
 「ドーナツ」は、私がかつて蒲田の学校へ行っていたころに、学習用にC(シー)というプログラミング言語で作った教材です。
 上のように並べて置くと、実際の大きさの比率になっていないために、月は月には見えませんし、ドーナツはドーナツに見えないのです。
 しかし、月の実物はかなり大きい物ですが、ふつうは小さく描いて月と思うわけです。
 これは、誰もが月の大きさを知っているからです。
 しかし、もしも実物の大きさを知らない人は、それが遠くにあるか、あるいは近くにあるかを認識できないのです。つまり、遠近法が通じないのです。
 例えば、絵に描いた自動車が、こちらに向かって次第に大きくなっていると、それはふつう近づくと思います。よほどの人でないと、別の数台の大きさの自動車が置き換えられたとは思わないでしょう。
 しかし、実物を知らないと遠近法が役にたちません。

 下の絵をご覧ください。
 これは、モルモットやハムスターでなく、専門の画家が羊を描いたものなのです。
 なぜ、こんなに小さくなってしまったかというと、画家が実際の羊の大きさを知らなかったからです。この絵は、実際の風景を見て写生をしたものではなく、絵を見て描いたものなのです。安土桃山時代の南蛮画を見本にして、日本人の画家が描いたのです。さすが、専門家ですからタッチはいいのですが、残念ながら元の絵に小さく描かれていた羊が、遠いから小さいのか実際に小さいものなのかが、区別できなかったのです。
 つまり、実物を知らない場合には、遠近法が効かないのです。

 

 なお、この絵は種村季弘・高柳 篤共著『だまし絵』(河出書房新社 昭和62年)から、引用をさせていただきました。

Topへ戻る


■十字架の秘密


 

 「†(グガーマークまたはダガーマーク)」について、イグナティウス・デ・ロヨラは面白いことを言っています。
 つまり、物事は「論理で考えるのではなく、研ぎすました直感」を大切にして、正しく判断をしなければいけないということです。例えば、「道に麦わらが十字架の形になって落ちていたら、何かの暗示か?」と考えることについて、そんなことは気にすべきでなく、たまたまそんな形になっただけだからと言うのです。

 ふつう、「十字架は、もともと刑罰の道具だ」などと言われるが、しかし私はもっと深い意味をもっていると思う。簡単に言うと、女性を表す象形文字ではないか。長さと太さの関係で、十字架も太くなると赤十字の形になってしまう。しかし、もともとは楔(くさび)状の縦棒と横棒だったらしい。
 つまり、中央の原型が発達し細くなって左方の十字架になり、反対に太くなると右の赤十字マークである。それは、女性の本能である「恨み・嫉妬」などの具現であるとともに、いっぽうでは「愛・慈しみ」などの表れであるのかもしれない。
 あまり、大きな声では言えないが、本当のことを言えば、その二つは女性の横向きの上の口と、縦向きの下の口を示しているのだ。そして、本来の動物のような発情期を示す兆候を失った人間は、横向きのほうを赤く塗ったりもするのだ。
 チンパンジーやオランウータンなどは、人間の本来の姿をいまだに残しているので、その時期には下の口が赤くなるとともに、お尻も赤くなって、外部に発信をする。20年ほど前に、このことを妻に話したら、それから口紅を塗らなくなった。ちゃんと考えると、人間がずいぶんと露骨なことをしてることがわかったらしい。
 妻が言うには、ご主人と死別した親しい友が、急にお化粧をくどくするようになったということだ。

 ついでながら、キリスト教が考えている十字架についても述べておこう。
イエスの背負った十字架は節(ふし)のない檜のような素直に伸びた「アメリカ山法師」と呼ばれる花水木(ハナミズキ)であったらしい。
 十字架の実物を見たことがないので、ことの真偽はわからない。共観福音書などを何回も読んでみたが、十字架自体については書いていないようだ。具体的に、例えば「レバノンで取れた杉製」だとか、「ナザレにいた大工が作った」などという記述がないのである。
 しかし、ハナミズキはイエスを磔(はりつけ)にしたことを大いに悔いて、その後は節だらけの曲がった木になってしまい、二度と十字架には用いられないように自ずからなったという。人間はピラトのように頑固だったが、植物はとても素直であるらしい。

Topへ戻る


■果物の亡骸(なきがら)


 

 いったい、このデジカメで撮った写真は何かおわかりですか?
 実は、食後の果物の亡骸(なきがら)なんです。
 何となく、エイリアンのようにも見えますね。
 私は野菜や果物を食べるとき、そのままの形で食卓に出します。最初に切ってしまったりはしません。食べる食前に、ナイフで切るのです。上の右のほうに見えているのが、そのときに使っているナイフです。
 そのようにすることによって、果物が酸化をしてしまうのを防いでいるのです。なぜならば、酸化をした食べ物は身体にとって有害だからです。
 なお、手前にあるのはトマト(切った部分が手前になっている。葉がついていたのがおわかりでしょう。)、その右のほうはキュウリの蔕(へた)、そしていただいた一つの果物の中に、種が6個ほどありました。

Topへ戻る


■部分と全体


 さっきの気味の悪かったものはなんでしょう? 部分だけをみたら、何となく不気味な形をしていますね。しかし、実際には頭の部分じゃなくて、尻のほうを見ていたんです。
 そして、それは実物じゃなくて大きく作った一種の芸術作品かな?

 

Topへ戻る


■電車の連結部分

 眼鏡ではありません。おわかりだったでしょうか。
 実は、電車の「連結部分」なのです。
 吉祥寺からJRで八王子へ行く途中、乗った電車が「豊田行き」でしたから、いったん降りてホームで待ち合わせたときに撮ったデジカメ写真。

Topへ戻る


■ssvt

 これは、私の住んでいる聖蹟桜ヶ丘ビュータワーを下から見上げたところです。



 ベランダに草木などを置いている部屋があるのがわかるでしょう。

Topへ戻る


■玉の中の私

 町田の芹が谷公園にある直径が1メートル以上もある玉です。
 それでは、何でこの光る玉が「玉の中の私」なんでしょう。
 それでは、大きな「640×640ピクセルの画面」の別画面で、真ん中に写っている人物らしきものを見てください。

Topへ戻る


■さかさとうろう

 まったく変な形ですが、そもそも何を表しているのでしょうか。何となく、女性の身体の一部のような感じもするでしょう。




 実際には、日野市の真照寺にある下のような灯籠の一部を逆さまにしたのです。
 逆さまにするまえに、私はふと「ヴィレンドルフのヴィーナス」を思い出しました。そもそも、この灯籠自体のこの部分は何を意味しているのでしょうか。




 「ヴィレンドルフのヴィーナス」は、紀元前15000から10000年くらいに石で作られた像です。
 オーストラリアで発見された高さ11センチメートルのもの。おそらく、部族繁栄の祈願に使ったであろうと言われる。当時は顔の女性の形など、どうでもよかったのであろう、頭全体が図のようになっている。しかし、素晴らしいのは胸から腹にかけてのデフォルメ。もしかしたら、実際の形であったかもしれないが、……。
 この「ヴィレンドルフのヴィーナス」と似ていると、私は見た瞬間に思った次第。そして、灯籠になぜヴィーナスがあるのだろうかとも。ご存知の方は、ご教示ください。




 その後、2008年2月15日(木曜日)に百草園に行った。「梅祭り」をしていたからである。
 そこに、やはり下のような石灯籠があった。




 その左側の一面を上下反転して示すと。いったい、何を意味しているのだろうか。




 もう一つ、参考までに石灯籠を示しておきましょう。多磨霊園の東南角にあった石材屋の置き場のようなところにあったものです。とくに寺院ではなく、むしろ個人のお宅のような感じです。




 下は、上の石灯籠の右側に回って、上下反転をせずに写したもの。




 だいぶ後で、わかったことである。このようなデザインの石灯籠が多く、一つのパターンとなっている。しかし、虎と牡丹などを彫ったものもあるようだ。この山形の図形にも、いろいろなモディファイがある。小田急喜多見駅から南に少し行った喜多見七丁目にある「にごりや」という酒店には、下のような大きな石灯籠があった。その山形の模様は、いままでの三つではなく、かなり多いようだ。大きさは、優に私の背丈を越すものである。



Topへ戻る


■国芳の顔

 実は、下の写真はテレビ画面をデジカメで写したものです。
 もう一度、見てください。目は、提灯。眉は、ふんどし。そして、ちょんまげは黒子が二人がかり。これが、顔に見えますか?




 国芳の『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』というタイトルの浮世絵に描かれている顔を、実際にNHKがやってみた番組なんです。もっとも、当時のスタイルと現代の若者のスタイルは、足長になっていたりして異なり、ちょっとムリがあるのではないか。高橋克彦さんも、そんな意見でした。




 歌川 国芳(うたがわ くによし 1798〜1861)は、江戸末期の浮世絵師です。
 同時代に活動をした葛飾北斎や歌川広重らの人気絵師に比べると、あまり知られていないようだ。しかし、奇想天外な作品がある。30歳を過ぎてから、人気絵師となる。河鍋暁斎は、国芳の弟子。
 猫好きでもあったらしい。猫・狸・雀・蛸などを擬人化して、世相を風刺した。「寄せ絵」のような遊び心のある作品も得意とした。

Topへ戻る


■これはパイプではない

 これは、私がデジカメで撮った「これはパイプではない」なのです。世田谷区喜多見五丁目を歩いていたときに、たまたま見た造形です。大きさから言って、また穴が空いていませんので、「これはパイプではない」ことは明らかです。下の垂直に立っている木材は、かつて枕木としてレールの下にあったものでしょう。
 この同じ場所に、「木の変容」に示した「白樺の鹿」がありました。



 私の書架には、ミシェル=フーコー著(豊崎光一・清水正 訳)「これはパイプではない」(哲学書房)という本があります。その最初のページには、マグリットの描いたパイプの絵が置かれています。三脚に額に入ったパイプが吸い口を右にして描いてあって、その下に「これはパイプではない」(Ceci n'est has une pipe)と書いてあるのです。
 そして、さらにその上には大きなパイプの絵があるのです。つまり、大きなパイプ、床の上に置かれた画架にある説明文付きのパイプ、そして床右下に「magritte」とサインがあるのです。参考までに、この図のようになっています。
 わざわざ、そのような絵を描くことは、パラドックスの解法に向かって増殖する相似に関して、見る人の注意を向けようとしているのです。簡単に言ってしまうと、実物のパイプではなくて、ただ単にそれを描いた絵ということなのでしょう。

Topへ戻る

Kuroda Kouta (2003.05.15/2012.02.01)