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Kuroda Kouta(黒田康太)
■音楽(BGM用)
かつてあった満州国で生まれた。 その元号が「康徳」であったので「康太」という名前になった。「太」のほうは「康徳元年」であったとも、「久太」という父の名前に由来したともいうが、もはや確かめるすべがない。 父も母も、かなり以前に死んでいるからです。
満州国で生まれたと言っても、物心がつかないうちに台湾、鎌倉と次々に引っ越したらしい。だから、引き揚げにはならなくて、とても幸福だった。 新京の特別市(今の長春(ちゃんちゅん))にいたそうであるが、まったく覚えはない。しかし、子どもの品評会(?)で「健康優良児」になったらしい。生後1年2ヶ月になっていたときであるが、表彰状には満州国となっていないので、本国の主催だったのかもしれない。あるいは、もしかしたらすでに台湾に行っていたのかもしれません。 とにかく、父母や回りの皆さまのお陰で、幼時のころは「健康優良児」であったらしい。 しかし、その後の成長にともなって学生時代から社会人まで、次第に不摂生があって、40歳のときには医者から「寿命が残り1年もないでしょう」と言われるほどになってしまった。幼児のころのことを考えると、何と愚かな間違った生活を続けていたのであろうかと反省をする。 仕事に追われて、生活が不規則になったころのことである。
■にぎにぎしく「身体の発育最優良ノ旨」を表彰していただいた
私は、必ずしも『孝経』を信奉するものではありません。とくに「孝の最後が大臣や大将になること」などとは、夢にも思っていないからです。しかし、その冒頭 <身体髪膚これを父母に受く。敢(あえ)て毀傷(きしょう)せざるは考の始めなり。> については、まったくもっともなことだと思います。 「孝の始め」ではなく「自分自身の一生のため」にも当然なことだからです。 そして、『論語』の「泰伯篇」にある曾子(そうし)が臨終のときに言った <死んだら私の足と手を開いてみろ。傷などは何もないはずだ!> という記述も、何となくわかるような気がします。
それはともかく、台湾では総督府の官舎にいたということだが、その建物などに覚えはない。それでも池があって、その中に入り、裸で大きな魚をつかまえたのを覚えている。胸に抱き込んだときに、背丈くらいあって恐ろしかった。 回りで、大人が見守っていたんでしょう。何でも食用の鯉が放してあったらしい。4歳くらいのことであろうか。 始め、鯉が暴れたので、誰かが助太刀をしてくれたようだ。
鎌倉の思い出は、小学生になるちょっと前だからたくさんある。 佐助の化粧坂(けわいざか)に大きな毛蟹がいて、とても恐(こわ)かった。今思えば、せいぜい10センチくらいなのだか、切り通しの水が、しみ出た崖にはい出ていて不気味だったのを覚えている。 そういえばその当時、題名は忘れたが「海の彼方に薄霞む、……帰ってみればこは如何に」という歌があった。私は「臼が住んでいる国」が実際にあって、そこから帰ると「恐い蟹」がいるものとばかり思っていた。 その後、兵庫県の龍野というところに「疎開」をして、敗戦後に父の仕事の関係で三鷹の上連雀に上京をした。
疎開というのは「空襲」を避けるために、地方に行くことである。空襲とは、アメリカのB29という飛行機が「焼夷弾」を落とすことだ。その焼夷弾とはメラメラと地上のものを焼き尽くす、いわば原爆の幼い孫のような爆弾。 当時、「疎開の歌」というのがあって「太郎は父の古里へ、花子は母の古里へ」などと歌った。太郎であり、一太郎ではない。また、戦後は「リンゴの歌」や、かなり後に「岸壁の母」などが流行(はや)った。その岸壁では「一太郎や〜い」と、母が行方不明の子を呼ぶのがあったと思う。 三鷹の上連雀の六軒長屋(曙住宅)から牟礼(今の井の頭4丁目)に移り、そこから通学をして何とか卒業をした。そして、その後は仕事の都合で転々とした。
学生時代に実習で体験をした電子計算機 LGP-30で、すっかりコンピュータのとりこになった。 米軍のお古が教材として大学に寄贈されたものであったが、それでも素晴らしい経験ができたのである。 それは今から考えると、かなりの代物で、メインメモリに磁気ドラム(4000バイト)、加算機などのフリップフロップに双三極管(12AX7)を使ったものであった。しかし、それが動いているときは、何とも感動をしたものだった。 その感動が、今でも鮮やかに甦ってくるようだ。
そんなわけで、卒論には「三値素子」というのをやった。 それは「YES」と「NO」のほかに、「曖昧性」をも、記録としてもたせたものである。しかし当時、すでに三値素子としてはサイラトロンという陰極線管があった。そのサイラトロンは、その後「シリコン制御整流素子」、そして「SCR」へと発展をした。しかし、私が考えたような三値の記憶素子には、なることはなかったようだ。 卒論研究では、故 野本尚志教授にいろいろと暖かい指導を受けた。私一人のグループだったからだ。今思えば、そのことは私の一生の宝でもあった。
その後、学校推薦で三菱系の製紙会社に入り、「装置の制御」や「事務の計算」などを担当した。専門技術係という立派な職名であったが、実のところはコンピュータの雑用係のような感じだった。そして、本社採用ではあったものの、工場のある兵庫県の高砂市に転勤を命じられたのである。 工場での仕事は、すべて初めての体験であったので、日々が充実してとても面白かった。 また、その土地も穏やかな気候で、なかなか住みやすかった。海岸には、まだ一面に塩田があったころだ。
やがて、東京の電子顕微鏡を作っている会社が、コンピュータの部門を始めるというので、転職を決心して参加をした。そこでは、従来からあるその会社の高い技術力を用いて、新たにコンピュータを設計・製作をするという。そんなわけで、仕事は日々忙しかったけれども、何とも楽しかった。 今考えてみると、夢のようである。 直属の上司に、故 高橋勘次郎氏(当時専務)がおられて、厳しくも暖かい指導を受けることができた。何とも、私は幸福であった。 ここに、私が作成を担当したコンピュータシステムと、その発表当時の日本経済新聞(朝刊)の切り抜きを示しておきましょう。
■ソフトウエアの作成を担当させてもらったコンピューター
■当時の新聞切り抜き、ホンダなどと並んで、かなりの成長株の会社だったようだ
しかし、その会社で、それなりに頑張ってみたが、世界の情勢には勝てなかったようだ。
もしも昭和十年代の後半に、私が「戦艦大和や武蔵などのような大きなものを作らないで、小型の戦闘機をたくさん作ったほうが、近い将来のためによいのではないか?」と言ったとします。(もっとも、その頃の私は小学校に上がる前であったから、そんなことは言えないんですが、これは例えとして聞いてください) すると、どうなるでしょうか?
おそらく、憲兵がやってきて連行をされてしまうでしょう。そして、再び日の目を見ることができなくなってしまったかもしれないのです。そんな体験が生涯に3回ありました。 その最初の体験が、電子顕微鏡を作っている会社でした。私が発言をした意見は、おそらく正論なのでしょうが、従来の方針を貫く人たちには、わかってもらえなかったのです。 さらに、もう一度そんなことがあって、最近は健康問題に関して同じような体験をしました。
ついでに、ここにそのことも記しておきましょう。 それは、人体に化学物質や環境ホルモンを摂取すると、やがてホメオスタシスが失調するので、注意をする必要があるということです。そのようなことを、かなり前から健康サークルで何回か言いました。しかし、誰も相手にしてはくれませんでした。 また、市の関係職員にも話をしたのですけれど、何とも馬鹿にされたようで相手にはされません。 ちょうど戦艦大和と同じように、それを現時点では言ってはいけないことなのでしょうか?
なお、後で調べたら海軍の大西中将が<戦艦(大和)はやめて、航空機を作るべきだ>というような意見をもっていたらしいと言うことです。しかし、それは公に論文として発表をしたり、国に意見具申をしたりしたということではないようです。やはり、誰でも考えることを実際にするかしないかの問題なのでしょう。 話は変わりますが、阿部定(あべ さだ)という女性がいました。愛人を殺して、そのオチンチンを切り取って逃亡をしました。そして、逮捕をされて調書を取られたときに言った言葉です。 <私のようなことは、女なら誰でも考えるでしょう。でも、誰もしないだけなのです。>
価値観は、時代の背景によって大きく変わるもののようです。 必ずしも歴史的に見て、正しい判断とは思えないものが、その当時には正論かのように罷(まか)り通るものらしいのです。いつの時代にも、そのような傾向が多かれ少なかれあったようです。 例えば、日清戦争について福沢諭吉は<文明と野蛮の戦い>と評しました。しかし、それは遣隋使や遣唐使のことを考えると、ちょっと極論のようです。また、漢字に引き続いて、紙や墨が高句麗の僧曇徴によって日本に伝わったのが610年(推古天皇の時代)ということを考えると、果たしてどうなのでしょうか?
また、内村鑑三は日清戦争を<義戦>と言って擁護したそうです。後で考えてみると、クリシチャンである彼の言動としては、やはり不可解で不思議です。なお、さらに彼がキリスト教会の内部における人間関係の醜さや矛盾を暴いていることなどを考えると、どうも本心でそのようなことを言っていないように私は思うのですが、…… つまり、黙っているわけにはいかない立場の人たちが、それぞれ世論や国に阿(おもね)って、仕方なしに言ったことなのでしょう。 さらに言えば、日清戦争の特派記者として従軍した国木田独歩や正岡子規の記事にも、その戦争に対する批判的な視点などは、今読んでみてもまったくありません。 やはり、彼らはその立場上、ふつう考えてわかるようなことも、言えなかったのではないでしょうか。
かつて、ソフトやアプリケーションの利用許諾契約書などが煩わしくなって、パソコンの利用をやめてしまいました。あまりにも一方的な内容であり、しかもそれに同意をしないと利用ができないからです。そんなために、そのソフトやアプリの利用自体、さらにはパソコンの所有までを諦めてしまったのです。 また、一方では掲示板の対応なども何となく面倒で億劫でした。当時はインターネットではなく、パソコン通信という方式で互いにメッセージを交換しましたが、テンポがやや遅いだけで内容は現在と似たようなものでした。
お互いに顔の見えない付き合いというのは、コミュニケーションがうまくいかない欠点があるようです。また、ハンドルネームや匿名の通信が、ともすると無責任な発言になることも経験をしたのです。 とくに、相手が自分と違う立場のときには、つい勝手なことを言ってしまいます。 私は、伝言板の文面から知識のあまりない人と考えて、大失敗をしたことがあります。後になって、その人は自分よりも数倍も偉大な人とわかったからです。世の中には、ちょっと馬鹿のように見えても奥が深くて、すごい人がいるようです。
そもそも無記名や自分の名を明かさないで、意見を言うこと自体、私は好きではありません。なぜならば、責任の所在がないからです。そして、そのような意見は互いに役に立たないことが多いからです。 さらに、ちょっと気に入らないからと言って、掲示板に堂々と身勝手な意見をインプットする人がいました。おそらく、その人は自分が誰だかわからないといった安心があったのかもしれません。現在のようなウイルスを送りつけるというような陰湿な行動は、まだ当時にはなかったのですが、それでも電話の発信者がわからなかった時期ですので、今のワンギリなどのようなものや電話を鳴らし続ける嫌がらせが、ときどきあったものです。
当時は、今のようにブロードバンドの常時接続がなく、電話回線だけが唯一の通信の手段だったので、回線をふさがれると、とても困ります。したがって、そんなことを知って相手を妨害するという陰湿な人も、わずかですがいたようです。 おかしな人は、どこの分野にもいます。そして、そのおかしな人にとっては、こちらのほうを「おかしな人」と考えているところに問題があります。したがって、互いに言い合ってもキリがありません。そこで、そのような場がいやであれば、自分がその場から去ればよいのです。 そんなことも当時のBBSから、大いに学んだものでした。
パソコンを辞めてからは、実にのどかで健康的な生活が10年以上も続いたのです。そして、逆に「もっと早くやめればよかった」とさえ考えたほどです。 そんなわけで、あまり多くの人と付き合うこともなくなってしまいました。 精力的に日々、散歩に行ったり、博物館や美術館などの見学に行ったものです。 しかし、そんな日が十数年経ったころ、再びパソコンを始めなければならない羽目になってしまったのです。 それは、今から1年2ヶ月前のことです。(2004年6月現在)
■計画をしたのが、パソコンを始める前であったので、パソコンの合間を見て計画を完遂した多摩の博物館巡り
参加をしている市の健康サークルで、地味なボランティア活動をしていたのですが、打ち合わせのときに「広報にホームページを作ったら、いいじゃないか」という発言を私はうっかりしてしまいました。そして、「それはいいことだ」という賛成の意見がありました。しかし、それを誰も引き受けないままに、私に「お鉢が回ってきて」実際にしなくてはいけないことになったのです。 ちょっと「隗より始めよ」で、言い出しっぺとして私が責任を取らされた感じで、何となくパソコン再開となったのです。
それでも、新しいパソコンとスキャナー、プリンタ、デジカメなどを買ったときは、とにかくうれしかったのです。何だか、なつかしい人たちに会ったときのような気がしたことも事実です。 ハードウエアが一式揃うと、生まれて初めてのWindowsをひもときました。とても斬新で面白かったです。前に仕事でやっていた時代は、まだMS-DOSの時代だったからです。 そんなわけで、「健康」と「老化予防」と「安心立命」に関するホームページを作成することになったんです。
しかし、パソコンを始めるとなぜか体重が増えてしまったり、目が悪くなっていくようです。 「健康」には注意をしているので、内科の医者には十数年間かかっていません。しかし、正直言って目と歯はダメなんです。学生時代の不摂生が、現在でも影響をしているからです。いっぽう体重の増加は、パソコンにへばり付いているために、運動不足気味になるからでしょう。 そしてまた、このまま進むと以前に感じたような煩わしい問題から、どうしても避けられないのではないでしょうか? そんな心配も、ぼつぼつ出てきたところなのです。
つまり、そのような問題を含めて (1) 何がなんだかわからないままに頻繁に行うアップデート (2) 細かい文字でぎっしりの一方的な使用許諾契約書 (3) すぐにハングアップする Word や Windows 本体 (4) 不安定なタスクバー回りの表示と勝手に変わってしまう常駐プログラム (5) 頻繁に来るウイルスメールやCATV常時接続に来るトロイの木馬 (6) デフラグをしても、次第に動作速度が遅くなってくるシステム などに、うんざりし始めたところなんです。 まぁ、グチっても仕方ありませんので、当分は前向きに行きましょう。
『荘子』(天地篇第十二)に、こんな話があります。 子貢が、漢水のほとりを歩いているときです。老人が、井戸から水を甕(かめ)に入れて運び出して畑にかけている。何回も何回も繰り返しているが、さっぱり効果が上がらない。そこで、子貢は見るにみかねて老人に、「ポンプを作ったら、いいぢゃないか?」と言った。 すると、老人はむっとして顔色を変え、「わしは、ポンプの作り方を知っている。しかし、ポンプは人を堕落させるので使わないのぢゃ」と言い返した。 子貢は、目がくらむほど恥ずかしくなって黙っていた。……
(漁夫篇第三十一)子貢が帰って孔子に報告をした。 孔子は、それを聞くと急に身支度をして、老人に会いに行った。そして、二度の礼拝をしてから言った。 「わたくし、幼いころから学問をして今日まで69年も経っていますが、最高の教えを聞く機会がありませんでした。どうか、心を開いてご教示をいただけないでしょうか。」 すると、老人は答えた。 「ああ、大したものだな。あなたの学問好きは。」
(養生主篇第三)の冒頭に、 「われわれの生命は有限だが、心の働きは無限なのだ。だから、その有限の身で無限のことを追い求めるのは、まったく危ういことだ。」 とあります。 また、先の(天地篇第十二)には、堯(ぎょう)が祝福を辞退するくだりで、 「子どもがたくさんいると心配が多く、金持ちになると面倒な出来事が多く、長生きをすると恥ずかしいことが多い。だから、子どもも金も長寿も、いらないんです。」 とあり、この「命長ければ恥多し」が『徒然草』にも引用されています。
『徒然草』(第七段)に、こんなくだりがあります。 「飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心ちこそせめ。住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも、四十(よそぢ)にたらぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。」 また、(第百十二段)には、もっと強烈な 「日暮れ、塗(みち)遠し。吾が生既に蹉蛇(さだ。時期を失うこと。「だ」は足偏)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。」 とあります。ここで、いつも私はがっくりとくるんです。
私は、すでに老人のせいか最新の技術には、何となく馴染みにくいというのが現実です。グチめいた言い方で恐縮ですが、やはりそれは致し方のないことでしょうか? 技術屋でありながら、急速に進歩する技術について行けないという現実は、なかなか厳しいものです。 上の『荘子』のポンプの話や、このホームページにある『インターネットの入門』の「まず、通信の歴史を見てみよう!」などを読みますと、何だか自信がなくなってしまうのです。そして、アモン派(アーミッシュ)の人々のことなどに思いが馳せていきます。
さらに、中近東の一時は文明の流れに逆行をした国のことなども、何となく必然的に考えてしまうのです。そのやり方は、極端であったり一方的であったりして、とても賛同ができる内容ではありません。それでも各個人としては、ある程度セーブをしたらどうかとも考えます。 とくに、最近になってからは、そう考えるようになりました。 あまりにも早い技術について行こうとすると、ともすると自分自身を見失ってしまうからです。そして、いつしか何のために何をしているかが、わからなくなってしまうのです。
そうかと言って、兼好(けんこう、『徒然草』)のように隠遁生活に入ったり、長明(ながあきら、『方丈記』)のように世を拗(す)ねたりもできません。現代の快適で便利な生活に、どっぷりと浸かっているからです。 むろん、私生活においては具体的な行動こそ起こしませんが、ある程度の反省と改善をするように努力をしているのです。それは何となく付け焼き刃で、その場限りのご都合主義と言われても、言い開きができないような粗末な内容でしかありませんが、…… そこで、思い切ったことができずに、仕方がないので甘んじながら、だらだらと生活を継続している次第なんです。
六無斉を指向して、生活を改善する。 「健康」「老化予防」「安心立命」などの問題を確立する。 『ダンマパダ』、『サンユッタニカーヤ』などの仏典を信奉する。 『クー』(Q資料)などのキリスト教原典を信奉する。 『荘子』『徒然草』などの一部を生活信条とする。
ここのところ、十数年、私は自分自身の体内に化学薬品、環境ホルモン、界面活性剤などが入らないような努力を続けてきました。なぜならば、そのような物質は身体にとって毒物や異物ですから、決してよい結果をもたらさないはずです。 近年になって、食べ物に多くの食品添加物が用いられるようになりました。また、野菜や果物などには多量の農薬を用います。なぜならば、収穫量を増やしたいからです。育成のために用いたり、害虫から保護するために用いたりします。
さらに、ポストハーベイといって保存のために用いる収穫後の薬品もあります。ジャガイモやタマネギ、ニンジンなどが芽を出さないようにする発芽防止剤や放射線照射などは、人体には好ましくないのではないでしょうか。 有吉佐和子さんの著書に『複合汚染』というのがありますが、もはやそのような状態が私たちの人体の中で起こりつつあるようです。したがって、最近になって救急車の出動回数が増えたり、原因不明の病気が頻繁に起こるようになったのではないでしょうか。
おそらく、体内に蓄積をした化学薬品、環境ホルモン、界面活性剤などは、なかなか体外に排出されずに複雑な働きをして、アトピー、アレルゲン、内臓の障害、おできや腫れ物などの皮膚の障害などを引き起こしているのではないでしょうか。そして、その原因が特定しにくいために、医者にかかっても対処しにくく、ステロイド剤などの投薬によって、いっそう悪化をするような心配があります。
つまり、人体に入った毒物や異物は排出されないままに体内のホメオスタシスのバランスを崩しているのです。その結果、いきおい体調が悪くなるのは当然のことではないでしょうか。体内の複雑な化学変化や口腔内の異常、そして皮膚のグルミュー機能の消失などは、いずれも健康な日々の生活を阻害してしまいます。 そんなわけで、私は十年くらい前から自分自身の体内に、化学薬品、環境ホルモン、界面活性剤などの物質を取り込まない努力をしてみました。 そして、お陰様で何とか健康で楽しい日々を過ごさせていただいています。
あまり技巧に凝らず、簡単な方法で作りました。したがって、デザインなどは素人の域を出ない感じです。また、画面のコピーなども縮小をしないで、そのままの大きさで用いました。なぜならば、小さくすると文字が読みにくくなって、理解しにくい部分が生じてしまうからです。 文字を最初から大きくして、行間を空けたのも、読みやすくするための工夫です。画面全体のデザインを決めてから文字だけを大きくすると、何となく読みにくくなって、目に負担をかけるからです。
しかし一方では、細かいデザインを施さなかったり、小細工をしていないので、だんだんとホームページが大きくなってしまい、その動きが、かなり重くなってきたのも事実です。 さらに、Javaアプレットのプラグインなどがあって、ますますその傾向が大きくなってしまいました。 やはり、ぼつぼつ何とかしないといけないのでしょうか?
健康サークルの広報として始めたホームページですが、なかなか計画通りにはいきません。 最初は、業者に依頼をして作成をする計画でしたが、実際に打ち合わせをしてみると、相手方に主旨がなかなか理解してもらえません。そして、むしろ自分で作ってしまったほうが、費用の問題はともかく、半分以下の時間でできることがわかったのです。 そんなわけで、業者と最初に打ち合わせをした私が、ホームページの作成担当になったのです。 そして、それ以来ずっと私は、このホームページの作成にあたっています。
最初は、三橋さん(元経団連の事務局長)がこのサークルの会長でした。 とても、健康にご関心があって、お元気な方でした。しかし、成城のご自宅を処分されて千葉の高齢者ホームに入り、一年も満たないうちに、あっけなく亡くなってしまったのです。風邪をこじらせて肺炎を併発し、それが原因で亡くなられたということです。 考えてみれば、傘寿を過ぎておられましたから、すでに90歳前後であられたと思います。 生前に「インドに120歳の人がいるというニュースがあった。だから、それに挑戦するのだ」とおっしゃっていたことが、とても印象的です。
■三橋さんからいただいた資料
そこで次に、私と同じ建物に住んでいて、親しくしていたタカクさん(元宮さま?)にお願いすることにしました。 いろいろと今後のお話をしたのですが、「すでに肝炎に冒されているために自覚症状があって、どうも健康には自信がない」と言うのです。そこで、私は「そのような状態でしたら、なおさらのこと会長になって広報をなさられては?」と言ったものです。 しかし、残念ながら1年後には、あっけなく亡くなってしまったのです。 やはり、タカクさんは私よりも少しばかり歳をとった人生の先輩で、来年は古希を迎えるのだと言っておられたのですが、……
自分よりも高齢の人の場合には、どうしても先行の心配があるということは現実のようです。 そこで、近くの健康食品販売をやっているお店の若主人にお願いをしてみました。とても、性格のよい明るい人で、まだ30歳代でした。もっとも、健康に関する知識などはまだまだ浅く、今後の成長が大いに期待できそうと考えたからです。 なによりも大きなメリット(?)は、実はその人の名前が「健二」だったからなのです。 なぜならば、私の名前が「康太」ですから、その人に会長になってもらうと、会長の横に事務局長として私の名前を並べると、横書きのときは縦に、縦書きのときは横に、続けて読むと『健康』の文字が並ぶという、そんなことを期待したのです。 しかし、健二さんのご両親が現れて、何となく健康自体とは見当違いの商売の話が主になってきたのです。そして、父親と母親が単に健二さんを配達員としての労働力のような感じでしか考えていないように思われたので、その計画は取りやめました。
今まで、会長が候補にあがっていたときは、一所懸命に作っていたホームページですが、責任者がなくなると面倒くさくなって、つい遅れがちになります。ようやくインターネットのしくみやホームページの作成方法がわかったところで、これから本論を進めることができる状態になったところなのですが。 つまり、今まではホームページを作るための準備・学習期間だったのです。そんな次第ですから、本論のページ「健康」と「老化予防」そして「安心立命」に関しては、まだ3分の1くらいしか記述がないのです。むろん、原稿やメモはすべてもっているのですが、それをこのホームページにまだ反映していないのです。(2005.05.06現在)
本来ならば、国や行政が行うレベルのことを個人サークルがしようとしているのですから、ちょっと気後れがしないでもありません。さらに、会長がいなくなって私が一人で預かっている状態のホームページですから、どうしても進捗がはかどらないのです。 もっと悪いことがあります。それは、このホームページの内容が誰にも必要なことですから、100人に1人くらいは見ていただけると思ったことです。つまり、国民を1億人と少なく見積もって、100万人が1年間に1度くらい見てくださるともくろみました。しかし、実際には2年間でアクセスカウンタがわずか20000ちょっとです。 したがって、1年で1万ヒットと考えても、計画の100分の1しか達成できなかったのです。そんな事実に、すっかりがっくりとしてしまったのです。 何となく私が投げ出した言い訳のようなことになってしまい、すみませんでした。
このホームページのメインテーマは、「健康」と「老化予防」と「安心立命」です。 そして、このホームページを作る過程で必要になった「インターネットの入門」や「ホームページの作り方入門」なども、覚えとしてまとめ、添付してあります。つまり、かなり内容が満艦飾なのです。 しかし、メインテーマである「健康」「老化予防」「安心立命」は、ともに人生には非常に大切なことです。そこで、このホームページが未公開ではありますが、関係のある方々にみていただくことにしました。なぜならば、ホームページが完成をして、正式に公開をしてからにしようとすると、かなり先になってしまうからです。
このホームページの内容は、実際に私が体験をしたり、あるいは研究をしたことがらがほとんどです。 しかし、もしかしたら私が未熟なために、思い違いや間違いがあるかもしれません。そんな心配があるのです。それでも、お役に立つことが多く含まれていると考えて、ご参考にしていただくことにしました。 間違いや不都合な箇所については、どうぞ申し出てください。 少しずつ修正をして、完全なホームページにしていきます。そして、人生の場面において大いに役に立つホームページにしたいと考えています。 よろしくお願いいたします。
そのような次第ですが、未完成のものを公表するのは、ちょっと厚かましいような気がしないでもありません。 しかし、MB社の「自動車の危険性」やMS社の「OSの脆弱性」などを考えると、許されるのではないかと思ったのです。つまり、商品であっても、MB社やMS社のような、いわば未完成品を社会に大量に出しているのです。 このホームページは、商品ではありません。また、この内容をそのまま利用していただきたいなどとも言っていません。私が経験をしたことや研究をしたことを、関係者にも分かちあって、ご参考にしていただきたかったのです。 そんな意味で、どうぞこのホームページを利用頂き、健康でいつまでも若々しく、高齢になっても心が安らかであられるよう、心から祈っております。
■音楽(BGM用)は、『青空ライブラリ』にある「音楽(BGM)の作り方と扱い方」の「主旋律のない練習曲(ギター版)」を利用しました。 その表紙には、次のように書いてありました。「
風(かぜ) −− ギターのための主旋律のないエチュード イ短調 −− 風は南に吹き、また転じて北に向かい、めぐりめぐって再びもとのところに帰る。(旧約聖書から『伝道の書』 第1章6)
(1) 春のうららかな日の風 (2) 夏の執拗に吹く風 (3) 秋の木の葉を散らす風 (4) 小春日和(こはるびより)に暖かくそよぐ風 (5) 冬の粉雪(こゆき)を舞わす風 (6) 積もった雪に吹き当たる風」
なお、この曲は私が作成をして、渡辺雅志さんがシンセサイザー採譜をしてくださったものです。渡辺さんには、大いに感謝をしています。
総トップページにジャンプ (2004.06.04/2011.02.02)