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 私の哲学(サマリー)


○はじめに=なぜ哲学なのか?
○西田幾多郎の日記帳
○萸子嵩『荘子』を読む
○郭象の『荘子』解説書
○井上哲学堂
○樫山欽四郎著『哲学叙説』

○私の哲学とは何か?
○人間とは何か?
○哲学と死
○考えるという重い病気?
○無意味の意味
○科学で答えが出ないとき
○時間と空間
○『タルムード』からの教え
○ソクラテスとプラトン
○ソクラテスとデカルト=「汝みずからを知れ」と「我思う、故に我あり」
○パスカル
○キルケゴール

○体外離脱について


○なぜ哲学なのか?

 また、なぜ「私の哲学(サマリー)なのか?
 「私の」と付けたのは、いわゆる学問の哲学と扱う範疇が異なっているのでなないかという心配からです。また「サマリー」と断るのは、その体系や理論が中途半端なのではないかと恐れているからです。
 私は、まず
   時間の問題
そして、そのサブテーマから
   死の問題
などをぼつぼつ真剣に考えてみたいのです。
 「時間の問題」については、必ずしも物理学に言うように整然としたものでなくてもよろしい。むしろ、直感で感じる内容でいいんです。あたかも、道元が『正法眼蔵』に書いているように。そこには、数式などはまったく必要ありません。
 「死の問題」に関してもそうです。
 むろん、死んだ人に体験を聞くわけにいきません。そこで、自分なりに考えるのです。つまり、私が死んでも困らないようにです。私は、「死後の世界」などは信じていません。仮に、「死後の世界」と言っても、丹波哲郎さんのようなことを考えているのではない。
 私が言いたいのは「死後の世界」があるとかないとか言うのではなく、単に死んでも、つまり心臓が止まっても、感覚は残るのではないかという恐ろしさからなのです。なぜならば、俗に言う「魂」などという感覚が一種のエネルギーと考えるからです。
 そして、そのエネルギーは消滅しないで、空間と時間の中に形を変えて残ってしまう恐れを何となく感じているからです。

 つまり、私にとっては「時間」と「死」が切り離せない重要な概念なのです。
 そんなわけで、私なりに今後の考え方の基礎にするための「哲学のあらまし」を少しばかり勉強しておこうと思います。
 また、「○無意味の意味」などというテーマは、もしかしたら哲学の範疇をこえているのかもしれません。しかし、「私の哲学」ですから臆面もなく記述しておくのです。
 そんなことをする一方、ご承知のとおり、いわゆる哲学は難題ですから、なかなか理解ができません。そこで、自分なりに今までに考えたことをいくつかここにまとまておきましょう。

 デカンショではないが、「デカルトがこう言った」「カントの説はこうなんだ」「ショーペンハウエルはこのように考えた」などと理解を深めていくのは、老いてしまったんで私にはムリでしょう。
 したがってこのページでは、ヤスパースがどういったとか、ヴィルトゲンシュタインがこう書いているというようなことは、あまり問題ではありません。
 ……

 それでも、ベーコンは「知は力である」と言い、「洞窟のイドラなど4つを避けて心理に達する方法」を薦めました。
 また、アメリカのプラグマティズム(実用主義)の代表者デューイは「真理は道具である」と言って、「役に立たない真理は道具じゃない」などと親切に教えてくれる。
 そのようなことも、私にはとても理解できないと思います。

 さらに、ハイデッカーに至ると「自分は死にかかわる存在である」などと言って、かなり還暦を過ぎてしまった私をドキッとさせます。その学問の体系は、直感的に何となくブッダの教えにも似ているように思うんですが、……。

 しかし、それぞれに言ったこと自体、その哲学者が何を言っているかが、鈍い私にとっては今ひとつ。
 そのほとんどが、私には何のことかさっぱり。いずれも、何となく難しすぎてわからないんだ。

 そこで、少々巡りの悪い「自分自身用の哲学の体系」を作ってみることにしました。
 「哲学の体系」なんて言っちゃいけないのであれば、単に「考え方の指針」としてもいい。とにかく、余すところあまりない人生をある意味で、自分なりに問題を解決をしておきたいからです。

 そんなために、誤解をされないようにタイトルを「私の哲学(サマリー)」としました。
 もしかしたら、こんなことで「哲学」という言葉自体を使っちゃいけない、つまり「哲学」にふさわしくない内容なのかもしれませんが、……


○西田幾多郎の日記帳

 西田幾多郎(にしだ きたろう)は、日記帳の表紙の見返しに、

 <他人の書を読まんよりは、自(みずか)ら顧(かえり)みて深く考察するを第一とす 書は必ず多を貪(むさぼ)らず……
 第一の思想家は多く書を読まざりし人なり>

と書いてあるそうだ。
 私も、まったくその通りだと思う。
 情報過多の時代に、いくら読んでもキリがないし、目が悪くなってからは読むのが面倒くさいこともある。


○萸子嵩『荘子』を読む

 萸子嵩(ゆしすう)が『荘子』を読み始めました。
 しかし、巻を開いて一尺ほど進むと

 <わしの考えとまったく同じだ!>

とつぶやいて、放りだしたということです。
 萸子嵩は、中国の学者です。
 また、「巻を開いて一尺」というのは「2〜3ページ」くらいということでしょう。なぜならば、当時の書物は巻物であったからです。


○郭象の『荘子』解説書

 郭象(かくしょう)は、『荘子』の解説書を残しました。
 しかし、それは郭象の考えを荘子の記述に沿って述べたもので、『荘子』自体の内容とは異なっています。
 つまり、自分自身の考えを述べるのに、荘子の記述を利用したのです。したがって、『荘子』を理解しようとするときに、その本を解説書や参考書とすると、解釈を間違ってしまいます。

 郭象は優れた才能の持ち主であったものの人柄が軽薄であったといいます。
 そのような人物は現代にも多くいて、同じようなことがこれまた多くなされているようですね。
 自分自身のことを棚に上げて、ちょっと心配ですが……


○井上哲学堂














 井上円了博士が四聖(孔子・釈迦・ソクラテス・カント)を祀(まつ)る小堂を建て、国家社会に報いるために精神修養的公園とし、哲学や社会教育の道場にした場所です。
 現在は、東京都中野区の公園になっています。

 1枚目の写真は、一番目の「哲学関」です。

 2枚目は、二番目の「哲理門」の説明です。すべての施設について、このような説明表示板が設置してあるので、親しみやすくわかりやすいので、とてもありがたいです。

 3枚目は「四聖堂」です。前に井上円了博士の記念碑があります。右半分にレリーフがあるのですが、光線の関係で光ってしまいましたが、おわかりでしょうか。

 4枚目の紅い建物は「六賢台」です。
 東洋の六賢人として、聖徳太子・菅原道真・中国の荘子・朱子・インドの龍樹・カピラの6人が祀られています。

 私は、ときどき散歩がてらに行くんですが、なかなか落ちついてよいところです。
 以前はJRの中野駅から歩いたものですが、最近になって足が弱ってしまい、西武線の新井薬師駅から歩きます。長距離が、かつてのようには歩けなくなったからです。


○樫山欽四郎著『哲学叙説』

 学生時代に、授業のテキストとして買った本です。
 その先生に、直接習ったからです。
 思い直して全部を読んだのであるが、何とも大変でした。
 内容が、「誰が何を言った」とか「誰がどう考えたと」いう記述がほとんどであるので、ちょっとうんざりしたのです。そして、ふと空海の言葉を思い出しました。

 <我の習う所は古人の糟粕(そうはく)なり。目前に尚も益なし。況(いわん)や身斃(み たお)るるの後をや。この陰すでに朽ちなん。真を仰がんには如かず。>(『空海僧都伝』)

 つまり、私(黒田康太)なりに訳してみると、

 「私が習っているものは、古代の聖人が唱えた言葉の糟粕、つまり死んだ知識です。生きているこの瞬間にとって何の役にも立たないし、ましてや死後のためにに役立てるとは言うことさえも愚かだ。こんな知識には、もう意味がない。真の道、つまり仏の教えに精進するに勝るものはない。」

というような意味でしょうか。

 私は、むろん空海ほどの聡明な人間ではないでしょうが、それでもそのようなことを考えたのは事実なんです。
 これは、実際に教えを受けた樫山先生だから言うのではなく、例えば田辺元著『哲学通論』などについてもまったく同じなんです。
 もっとも、目が悪いので知らず識らずいやになって、そんな感じがするのでしょうか。


○私の哲学とは何か?

 ここでは、哲学の理論を展開しようというわけではありません。
 いちばん最初に述べたことを本論に入る前に、ここでもう一度確認しておきましょう。
 私が必要になった最小限のことをメモっておいて、忘れないようにするのが目的なのです。
 むろん、ご参考になさっていただいてかまわない内容のものです。しかし、手前味噌のところや片手落ちな部分があることを初めにお断りしておきましょう。
 また、常識では哲学と考えないような問題や異なった考えなども含まれているかもしれません。つまり、哲学者ではない人が哲学者と取り扱われる場合もあります。
 そんなことをお断りしておきましょう。


○人間とは何か?

 いろいろな考え方がありましょうが、ここでは単にトポロジー的に考えます。
 つまり、人間は一つの革袋というよりも筒、つまりパイプといったほうがよい。「あなたのすべてを愛します」といったときは、その内部にある糞尿までを含めるのであるが、それが排泄されたときに見ると不思議なことである。内部にあるときは何でもないものが、外部に出ると直ちに汚物になるからです。

 外管と内管、外管は開いた管。内管は閉じた管。
 平中の話(○○にあるうんこを盗む話)
 ○○僧都の話(鴨長明『発心集』に出ている貴族の妻に恋をする話)


○哲学と死

 死を理解するには、宗教よりも哲学を理解するほうが、私の場合には手っ取り早いと思う。
 三木清(哲学者)は、

  <人間を理解するためには、死から理解することが必要である。>

と言った。
 いったい、死ぬということは、どういうことであろうか。おそらく誰でも考えることである。それでは、なぜそのようなことを考えるのか? 私には、よくわからない。
 しかし、私は

 「死ぬと、時間(という概念)がなくなって、単に空間になる。」

つまり、「空間に溶けこむ」ことになると思う。
 アドルフ=シュタイナーなども、そう考えているふしがある。


○考えるという重い病気?

 そもそも「考える」ということは、どういうことか? また、意識とは?
 脳について考えると、奇妙なことに気づくでしょう。
 脳の表面積は、新聞紙一枚程度。そして、脳を構成する細胞のほとんどは、配線状の神経線維。
 それでは、意識とは? 心とは?
 脳が生理的に働いているから、その結果として意識が発生。
 意識は「後出しジャンケン」のようなもの。
 また、脳は心を作った。


 シュリーマンが書いた『パパラギ』という本に、

    「考えるという重い病気」

という章がありました。
 もしかしたら、それはヒトの脳に関する鋭い指摘かもしれません。
 それはそうと、私はアナトール=フランスの言葉(「エピキュールの園」)

  <無知はわれわれが生きていくために必要な条件である。>

を思い出して、いつもうんざりすることも事実です。
 また、つい私が考える哲学が、宗教の範囲にまで入っていくので、ジグムント=フロイトの言葉(「幻想の未来」1927年)で、

  <宗教はすべて幻想に他ならないものである。>

と言っているのを考えたりして、これまたやれやれです。
 そして、さらに次のような言葉でダブルパンチのアッパーカットを食らってしまうのです。

  <心して矛盾にかかり合うなかれ、賢人も一旦痴者と争えば痴者に堕するが故に。>(ゲーテ)

  <人は一人ずつでは、少しは賢く、分別があるようだが、一緒になると、すぐ馬鹿に化ける。>(シラー)

 つまり、私(黒田康太)は何となく意味のないことをして人生の時間を食いつぶしているのではないかと疑心暗鬼になって、つい考えたり、言ったり、書いたりすることを投げ出したくなるのです。
 あなたは、いったいどのようにお考えでしょうか?


○無意味の意味

 「無意味の意味」などという言葉自体が、すでに無意味なのかもしれない。
 ちょっと、アントニム(反義語)やトゥトロジー(同義反復)の関係とも異なり、まったくナンセンスなテーマでもある。
 しかし、現実にはチグハグな現代社会のようである。歪(いびつ)に育ってしまった(と私は思わざるをえない)文明・科学など。そして、科学の発達が先行をして、いわゆる心の発達が遅れている。したがって、戦争や事故が後を絶たない。

 道具を使うのは人間だけと考えた時代があった。しかし、最近では猿の一種や烏が器用に道具を使うことがわかった。例えば、カレドニアカラスは餌を取るための道具を自作するというようなことが、観察の結果わかった。
 ヒトは、もっと謙虚になって自らを反省しなければいけないのではないか。少なくとも、私はそのように思っている。


○科学で答えが出ないとき

 若かったときに読んだラブクラフトの小説。
 何となく荒唐無稽ではあるが、なぜか不安感や胸騒ぎなどをひしひしと感じた。しかし、最近になってラブクラフトの小説が、「クトゥルー神話」と似た内容をもっていることがわかった。つまり、「異次元世界の実在」を暗示していたことになる。
 その時点では信じられないようなことも、後になって当然の現実になることもある。そんなために、論理的に考えることに終始をしないで、直感を研ぎ澄ました状態で考えることも、時には必要であろう。バカバカしいと言ってしまえば、それでお終(しま)いになってしまうことが多い。

 『Xファイル』というやはり荒唐無稽のストーリがある。
 例えば、設定である。事実はどうであるか知らないが、マグネタイトという物質は、宇宙戦士の組織を破壊してしまうらしい。ある一話は、そんな前提のもとにストーリは展開する。しばし(小一時間ほど)の時間であるが、かなりスケールのでっかい別次元の空間に浸(ひた)る。
 登場人物は、FBI捜査官(CIAではない)のフォックス=モルダー、そしてその後任者としてのジョン=ドゲット(ドーゲット)、相棒は、女性捜査官ダナ=スカリー、やはりレイエス(レイチェス)が後任。彼らの上司に、スキナー長官がいる。

 この他愛のない連続劇から、哲学の不足分(?)を私は大いに学んだ。哲学の範疇では、考えることが限られてしまうからだ。それは、一日中遊園地で乗り物に乗って、すべての乗り物を体験したというのと似ていることかもしれない。
 現実の乗り物よりも、すごいのもあろう。しかし、限られた時間を限られたスリルで味わうために作られたものなのだ。

 『Xファイル』のすごいところは、

 <私たちの想像をはるかに超えるものがあるかも……>

などと軽く言っているところである。(ファイナルSEASON 9−13「数秘術」でレイエスの言葉)

 また、

 <科学で答が出ないときは、超自然も……>

などと言わせている。
 2007年4月9日(月)の903「ダイモニカス(ラテン語で悪魔)」で、スカリー捜査官が学生たちの講義で言う場面。ドーゲットは、それを後ろで聞いている。そして、あるときスカリーに「科学で答が出ないときは、超自然も……」と言ったことを思い出す。
 183(ファイナルシーズン9-1「リターン トウー ウオータ」 part1 901)では、水に関する問題を提起していると(私は)思う。

 <−−本日は何事もなし−− イギリス国王が「アメリカが独立をした日」に書いた日記。>

という引用から始まる。
 何となく暗示的である。
 レイチェスに監視役の調査官の言葉として、

 <君が挑(いど)んでいるのは○○○という巨大な組織だ。>

という直後、スカリー調査官はスキナー長官に

 <私は答が知りたいの。黙っているのが、耐えられないの。>

と言う。
 183と184(part1とpart2)。「クロラミン」という消毒剤が塩素に混ぜてあって、それは突然変異で無敵戦士を作るためのもの。すでに遺伝子の操作などが行われるので、おっかない。
 一方では、「存在と時間」という意味深長なタイトルがあった。
 そこには、「人知を超えた大いなる知恵」が存在するという。そして、「信は理解なり。」とタイトルの後に出る英文の表示。

 2007年2月20日(火)の801「サーチ フォー モルダー(part1)」から、タイトルの図形がちょっと変わったみたい。モルダーの代わりに新しい捜査官の名札が出る。しかし、スカリーはそのまま。
 スカリーの魅力は、赤毛・考えるとき額に何本もできる小皺・ちょっと眇(すがめ)。
 支離滅裂・マカ不可思議・奇想天外・動天驚地の内容。これを見ていると、「何事にも驚かない練習」ができるのではないか。
 「異次元というところとは、本当にはないのだろうか?」と、改めて考え直してしまう内容。
 荒唐無稽ではあるけれど、思わず心が戦慄する。要は、ラブクラフトと同じで、何が心胆寒からしむのかがわからない。科学や哲学を超えて、なおかつそれらの部分集合を含んでいるためかもしれない。


○時間と空間

 ちょっと言うのに躊躇をすることであるが、私は「現代の科学では、まだまだ説明ができないことも多くある」と思う。本当は、ほとんどが説明できていないのではないか。例えば、私たちの身体の構造や遺伝子などはすでに研究され、かなりのことがわかった。ヒトとミミズの違いなども、ある程度はわかっているだろう。
 しかし、なぜ私がヒトでミミズではないとか、逆にミミズがなぜ私ではないのかなどということは、よくわからない。そんなことはわかる必要ないというが、そこが哲学にとっていちばん大切な要(かなめ)なのではないか。

 ふたたび、2007年2月9日(金)午前8時に見た『Xファイル』716「キメーラ」。
 モルダー曰く。

 <科学ですべてを説明するのはむずかしい。>

 そして、モルダーがUFOに誘拐されてから、ドゲットがスカリーと組むようになる。
 そもそも、フォックス=モルダーとは変わった名前。フォックスは、狐。アメリカ人に多い名前なのだろうか。あだなのような感じの名前である。イエスを処刑したピラトを福音書の中で、イエスは「狐」と呼んでいた。

 さらに、哲学を根底から覆す発言。
 スカリーが言う。

 <一人の人間が、別々の場所にいるなんて>

 そして、さらにスカリーがドゲットに向かって、

 <私たちが求めるのは真実のはずよ>。

 「時間と空間」については、『猿の惑星』(#5)に

 <同時に複数の場所に存在できる>

というのがあった。
 これは、『金剛般若経』にもある。
 そこには、私たちの毛穴の一本一本にまで仏がましますというようなことが書いてあったり、空間とか時間に対しては私たちの常識とは異なった考え方をしているようである。中村元さんの講習会でも、そのようなことを強調されていたことを私は覚えている。


 時間と空間について、三人の学者の意見を記しておこう。


・ 樫山欽四郎(1907〜1977)

 <瞬間をおいて時はない。が、だからといって「つらなり」がないわけではない。「つらなり」があるからといってそれに任せるならば、「自己の時なる道理」は消え去るであろう。だから「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時々」である。時は過ぎたのではあるが、過ぎたのではない。つらならないのでもなく、つらなるのでもない。

 「自己の時なる道理」をおいて、「われありの時」をおいて、時はない。がしかし、同時に時がわれを時としたのでもある。時は因縁である。が因縁というものがそれ自身にあるのではない。因縁は「この時」においてでなければ因縁ではない。それゆえ「尽時を尽有と究尽するのみ、さらに剰法なし」である。時の真実は存在の真実である。>(『哲学概説』から)

 私は学生時代に、樫山先生の講義に出たことがある。しかし、とにかくわかりにくかった。でも、かろうじて単位だけは取れたのである。


・ 唐木順三(1904〜1980)

 <つねに生じ、つねに滅するという生滅無常が時間の裸形である。時間は本来無目的、非連続である。刹那生滅・刹那生起、いわば無意味なことの無限の反復が時間というもののあらわな姿といってよい。目的へ向かって進んでいるのではないという点からいえば、虚無・死・寂静へ向かって進んでいるのではないということになる。

 反って、時間は、念々が虚無につながっている。無始無終の非連続の谷間には、虚無の底なき深淵がのぞいている。反復の間は虚無である。そして、これこそまさにニヒリズムといってよい。

 時間は虚無を根底とする無意味なことの、果てしないくりかえしである。人生も諸行も森羅万象も、この時間においてあるよりほかにないのだから、結局は虚無・無意味である。
 無常はかくして虚無・無意味をあらわに示しているということになる。無常は、詠嘆の感情、情緒などとは全く無縁な冷厳な事実・現実である。

 道元はくりかえし時間の装飾化、有意味化を否定して、ありのままの時間、裸裸の時間に面面相対する。無始無終の時間に無為無作で向かい合う。刹那生滅・刹那生起の時間のリアリティに、まばたきもせずに対面する。ここは通過せねばならぬ関門である。ここを透関せずして禅はない。>
 (『無常の形而上学』-道元)


・ 梅原 猛(1925〜)

 <ハイデッガーの時間性の自覚の内容は、やはり徹底的有限性の自覚である。過去は、すでにそのような有限なものとして彼があったということであり、未来は、死が彼の前にやって来るべきものとしてあることであった。こうした時間性の自覚を通じて、全自己が、そこにあらわれる。道元のいう全機の思想であろう。ここにたしかに、思想の類似があるが、道元の場合、過去といっても一人間の過去ではない。生きとし生けるものが、宇宙永遠の昔からずっとつらなって今に至ったという意味の過去である。彼の自覚する仏性は、同時に如浄の仏性であり、達磨の仏性でもあり、釈迦の仏性でもあり、山の仏性でもあり、川の仏性でもあるというのが、彼の過去性の自覚内容である。そういう仏性がまた同時に未来にもつらなってゆくというのが、彼の未来性の自覚内容である。ここで時間は2つの無限に長い尾をもったそれ自身完結した円となる。このような時間観は、ハイデッカーの孤独な自己の自覚、有限性の自覚の時間論とは、本質的に異なっている。>
 (『道元の人生と思想』から)


○『タルムード』からの教え

 『タルムード(TALMUD)』とは「偉大な研究」という意味で、ユダヤ民族が5000年にわたって支えた生活規範です。
 その中に、次のような記述があります。


・ 賢人になるための七つの条件

(1) 自分よりも賢い人がいるときには沈黙をしなさい。
(2) 人の話の腰を折ってはいけません。
(3) 答えるときには、慌ててはダメ。
(4) 質問は的を得る(射る)ように、返答は筋道を付けるように。
(5) 必要なことから始め、後回しにできるものは最後にする。
(6) 自分の知らないことは、「知らない」ということを認める。
(7) 「真実」を認める。


・ どうすれば、どうなる

(1) 甘い果実には虫も多く付き、財産が多いと心配も多い。
(2) 女が多ければ、叱言も多く、女中が多ければ風紀が乱れる。
(3) 男の召し使いが多ければ、家財も多く盗まれる。
(4) 師より深く学べば、人生がより豊かになる。
(5) 瞑想に長い時間をかければ、知恵もますます増える。
(6) 人から有益な話を聞けば、よい道が開ける。
(7) 慈善を多く施せば、より平和が訪れる。


○ソクラテスとプラトン

 私は、いわゆるソクラテスの言ったことも哲学と考えます。

 ソクラテスは醜男(ぶおとこ)であり、奇人でもあったともいう。
 しかし、当時の腐敗した社会で堕落をした人々に「汝自身を知れ」と警告をした。ある日、神託を得たからである。そして、

 <私は何も知らない。しかし、知らないということを知ってしる。人々は知っていないということを知らない>

とも言った。
 つまり、「無知の智」である。(聖書にも同様の言葉がある)

 ソクラテスの存在は、当時の為政者にはなはだ都合の悪いものであった。その結果、毒杯をあおがされたのである。

 ソクラテスは、自ずからは一書も残していない。
 しかし、プラトンの「ソクラテスの弁明」などから当時の事情を垣間(かいま)見ることができる。
 プラトンがソクラテスの名を借りて、書物に書き残したかもしれないという懸念がないでもないが、そのようなことはよくあることで致し方がない。


○ソクラテスとデカルト=「汝みずからを知れ」と「我思う、故に我あり」

 ギリシアのデルフォイの神託「汝みずからを知れ」。
 ソクラテスは、この言葉に深い意味を与えた。しかしこの言葉は、はじめは

 <身のほどを知れ。>

という程度の意味であったようだ。
 デカルトの「方法序説」第四部および「哲学原理」第一部7節にある

 <我思う、故に我あり。>

というのも、結果的には同じ思想であろう。


○パスカル

 まず、パスカルとキルケゴールについて知っておこう。
 パスカルの『パンセ』やキルケゴールの『死にいたる病』は、いずれもキリスト教を原点に考えているので、それを知らないとわかりにくいからです。


・ 『パンセ』



○キルケゴール

  <人間とは精神である。精神とは何であるか。精神とは自己である。自己とは自分自身に関わる一つの関係である。>(「死に至る病」)

  <絶望である事を知らない絶望。言いかえれば、人が自己を、しかも永遠的な自己を持っているという事についての絶望的な無知。>(「死にいたる病」)

  <絶望とは死にいたる病である。自己の内なるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである。それは死を死ぬことである。>(「死にいたる病」)

  <罪は消極的なものでなく、積極的なものである。>(「死にいたる病」)

  <人間とは一つの総合――無限と有限、時間的なものと永遠的なもの、自由と必然――である。<(「死にいたる病」)

  <青年は希望の幻影を持ち、老人は想起の幻影を持っている。>(「死にいたる病」)


・ 生い立ち

 セーレン=オービュエ―=キルケゴール(So゙ren Aabye Kierkegaard 1813−1855)は、デンマークの毛織物商の子に生まれ、虚弱な体質ながら厳格に育てられたそうです。はじめ神学を学んだが、父がかつて神に貧困を呪ったり、女中に自分を生ませたことを知って、神の怒りを感じた。
 そして、罪の意識に悩まされ「大地震」と呼んだ精神的危機に陥り、二十代後半に婚約したレギーネという女性を心から愛していながら、自己の内面的苦悩を理由に一方的に破棄するという「レギーネ体験」をする。

 また、この事件と前後して父を亡くす。

 以後、父の財産を食いつぶしながら『不安の概念』などの著書を偽名で発表し、スキャンダラスな大衆週刊誌『コルサール(海賊)』にけんかを売ったりした。しかし、徹底的な反撃にあって誌上で侮辱され、市民中の笑いものになった。(「コルサール事件」)

 また、アドラーという牧師を宗教改革的人物と思いこんだが、その期待は無惨に裏切られた。(「アドラー事件」)
 その後は、宗教批判へと傾倒したが、主著『死にいたる病』を執筆する。

 さらにまた、彼はデンマーク国教会にもいちゃもんをつけた。
 国教会監督の死に際し、彼が「真理の証人」と讃えられたことで大衆に迎合し、世俗主義に堕落した国教会の偽善的体質をパンフレットなどで告発したが、その最中に路上で倒れて死んだ。42歳であった。

 彼の哲学は独特のもので、それまでの近代哲学が世界や自然、社会など、普遍的な問題を中心課題としてきたのに対して、彼は人間、それも特定の個人としての生き方を問題として採り上げた。それは後に「実存哲学」と呼ばれ、ヤスパース、ハイデッガー、サルトルらの後継者を次々と得て、今日に至った。


・ 『死にいたる病』

 新約聖書には、イエスがある病人の死に臨んで

  <この病は死には至らず>

と言ったと書いてある。
 つまり、肉体が滅びることは死ではないと言う。
 それでは、「死にいたる病」とは何か。それは「絶望」であり、その「絶望」が最大の罪なのだ。

 そもそも、人間は「精神」つまり「自己自身に関係する関係」だから、この自己はつねに分裂という危機に頻している。「絶望」は自己自身を放棄することであり、それまでの自己を脱し、自分で勝手に決めた別の自己になろうとする。したがって、「死」を生き続けなければならないことになるのだ。

 しかし、神の前にあって絶望的になって自己であろうとしないことは、当然のことながら「罪」である。
 人間は、神の前においても自己であらなければならない。ここで必要になるのは、謙虚に神に応えるという信仰であり、この信仰をもたない者が「絶望」へと陥るのである。キリスト教のいう「罪」は、正しいことを知らないということではなく、知ろうとしないこと、そして知っても行動をしないことある。


○体外離脱について

 体外離脱なんて言うと、何となくまがまがしくなってきます。
 しかし、私は以前からさもありなんと考えています。

 次の記事が、私にとって大いに参考になりました。
 2007年11月2日、ロイター発の脳内に電極を埋め込んだ男性が、体外離脱を経験したという内容です。それは、

 <耳鳴り治療のために、脳内に電極を埋め込まれた63歳の男性患者。彼は、その影響で体外離脱を経験したという。その詳細をベルギー・アントワープ大の研究者たちが、学術誌『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』発表した。
 電極に刺激を与えると、患者は20秒間ほどの体外離脱を体験。医者が、CTスキャンによって脳内のどの部分が活発になっているかを調べた。

 心停止から生還した人が報告する体外離脱の感覚から、一部の人は「死後の世界」があるのだと論じている。しかし一般に、科学者の多くは懐疑的で、脳が錯覚を起こさせる現象だと考えるようだ。アントワープ大の研究者たちは、患者の耳鳴り治療に脳内電極を試したが、その成果は上がらなかった。そのときに、その患者は自分の身体から50センチほど後ろに離れていて、左側に行く感覚を経験したという。


Kuroda Kouta (2004.09.21/2007.11.21)