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 死の準備メモ(メメントモリ入門)



はじめにのはじめに=言葉の意味など
システムとは何か?
「空」とは何を意味するか?=「空」と「無」と「ゼロ」
システムの三要素=念仏の方法
自分とは何か?=生きていて何をなすべきか?
人生の目的は?
アヴェロンの野生児
友を選ばば……=友達とは何か?
宗教とは何か?
どの宗教がよいか?
既存宗教の不都合?
なぜ宗教に入らなかったか?
宗教は一人のため?
物質的空間と精神的空間
考えるということ
勘違いと誤判断
アプローチの方法=研ぎすました直感力
神に対する考え方
身近な神や仏=無限遠にいる神仏
グールモンの神・ニーチェの神
ウィトゲンシュタインと孔子とホーキングとの神
考えられた神=ラプラスの鬼
美しいヘタイラのお化粧
固定概念を除く
いつ・どこに自分がいるか?
目と耳
ムダとムリとムラの多い一生
日々の生活と将来のために


生きていることの意味
死にたくない
眠りと死
「死」のあらまし
死後の存在について
死は背後から追いかけてくる?
メメント・モリ=死を忘れてはいけない
死とは何か?
死の国や死からの帰還
私の死にかかった記憶
自分の死後の準備=葬式の配慮=遺骨の処理=親鸞と檀林皇后
前世の記憶をもつ人たち
オーパーツという物体
「神の存在」と「死後の世界」
家畜の世界と昆虫の世界
空間と時間の中にいる自分とは何か?
祖先をまつる意味と墓の意味・墓の無意味
葬儀の意味と費用
平素から物の整理をしておく
貸借などを明確にする
なぜ死後の問題などを考えるのか?=用心するにこしたことはない
私たちの死後の状態は?
生まれ変わり
仙人・超能力者・スーパーマン
死を体験した人がいるかもしれない
証明のできないこともある
既視感(デジャビュ)
幻肢痛(げんしつう)
恐れの知覚


「捨」のあらまし
布施太子とフランチェスコ
ハワード・ヒューズ
お金について=金がすべてではない
対人関係について=ポトラッチ
孤独に耐える=孤独のすすめ
社会制度と教育制度
物がありすぎるという愚
許由・孫晨・顔回
清貧のすすめ
現代の遁世=私の不徹底
ボヘミアン=ソーロー、ペスタロッチたち
持ち物について
この身は借り物?
捨てるということ
ほう居士の故事
捨聖(すてひじり)


「無」のあらまし
無と空=「無」と「空」の概念
『般若心経』の「空」
『伝道の書』の「空」
無は生有るものなり
エックハルトのいう無所有とは何か?
ペスタロッチの無の意味
無を求めた人=乃木希典
「無意味」の意味
空の概念=目立たないことの意味
生活を小さくしていく時期
最後の最後


はじめにのはじめに=言葉の意味など

 いったい、このページには何をどのように書けばいいのだろうか?
 「死の準備メモ」ないしは「メメントモリ入門」などという大げさなタイトルで、いわゆる「死の準備教育」を書こうとしているんだ。むろん、自分自身のためにである。私には、ぼつぼつそれが必要になったから。しかし、あまりにも突飛な内容なので、馬鹿にされたり、軽蔑をされるかもしれない。

 私は、まだ死んだことがない。そうは言っても、もうじき死ぬということは否めない事実である。とくに、昨年の入院で運が悪く、カテーテルから院内感染をしたらしく、体内に肝炎やエイズ菌のようなものが入り込んでしまったらしい。以前から入っていたであろう歯周菌やクリプトコッカスとともに、激しく自分を苛む(さいなむ)のでわかる。
 そんなわけで、あまり先行きは長くないであろう。ただし、その先行きと言うのは、この世においてのことである。

 昔から「生老病死」と言われる。そして、人生の残り時間が少なくなって、いわゆる老人になると愚かしいことを始める人がいます。このうち、「」(生まれる意味ではなく、生きる意味)と「」については「健康のページ」、「」については「老化予防のページ」で扱いました。そんなわけで、ここでは「」の問題について、改めて考えてみましょう。
 ここに記す内容が、一部「安心立命のページ」と重複をするかもしれません。しかし、それは別の角度から考えたことですので、あらかじめご了承下さい。

 人生には、いろいろな区切りがあるようだ。
 仕事をやめることや停年などというのも、一つの大きな転換と言えるだろう。

    停年というは機械の磨滅せし部分を棄てることのごときか(『やさしい短歌入門』より抽出)

 そのころから、いろいろと考えるようになった。いったい、私たちの人生とは何なんだろうか。
 還暦(数え年61歳)を過ぎたころから、ぼつぼつ死ぬ覚悟をしておくことが、必要なのかもしれない。
 『葉隠』にある有名な言葉ではないが、実際に「死」を「見つけ」てというよりは「見つめ」ているのと、それをまったく考えずに忘れているのでは、その生き様(いきざま)が大きく異なってくるようだ。

 ここで言うことは、かなり特殊な問題です。なぜならば、死の準備メモ(メメントモリ入門)とは、還暦をすぎたものが死について考えておかなければならないことを知って、その心の準備をすることだからです。つまり、いつ自分が死んでも悔いのないように身の回りを整理したり、考えをまとめておくことなのです。
 しかし、そのような考えについては誰でもそうあるかと言えば、必ずしもそうではありません。考え方にも、かなりの個人差があるからです。そんなことは、まったく必要がなくて、無意味だと考える人もいるでしょう。また、愚かしい無駄なことだと思う人がいるかもしれません。

 そのように自分自身に対してのことですから、お互いに内容は大きく異なってくるでしょう。そこでここには、私の考えていることを少しばかりメモしておきましょう。また、このホームページの各箇所で断片的に述べた「神に関する記事」や「死に関する記事」(メメントモリに関する文章)なども、今後ここに改めてまとめ、理解をしやすいようにするつもりです。

 このページに書かれていることは、学問ではありません。また、経験や体験によって書かれたことでもありません。つまり、学問でも体験的事実でもないのです。なぜならば、さきほど書きましたように「私はまだ死んだことがない」からです。
 つまり、未経験のことを想像や直感などによって扱うので、無責任のそしりを受けても仕方のない内容なのです。仮説というよりは、むしろ単なる個人的意見とでもいったものなのです。

 また、いっぽうでは最近になって「死後の状態」のほかにも、「神と言われるもの」が何となく存在するように私には思われるのです。しかし残念ながら、それを証明することができません。それでも、そのような状況を記すことが自分自身のために必要なので、ここにメモを残しておく次第です。

 どうぞ、皆さんもご自身の「晩年の過ごし方」と「死後の考え方」を忘れないでください。
 私の場合は、「安心立命」の問題から入ったテーマでしたが、それこそそもそも「人生の目的」というような内容だったかもしれないのです。


 人間の目や耳は、宇宙のごく一部分しか体験ができません。
 目は、紫外線、可視光線、赤外線、……短波などのうちで、「可視光線」の範囲だけを見ることができます。そして耳は、「可聴周波数」以外は聞くことができません。

 『荘子』第二冊(外篇)(岩波文庫版 102ページ)に、

  <視乎冥冥 聴乎無声>(天地篇第十二 三章)

とあります。
 そんなわけで、目で見えて、耳で聞こえたからといって安易にそれがすべてだと信じてはいけません。また、見えなかったり、聞こえなくても決して決して否定することはできないでしょう。必ずしも、「新約聖書」の福音書に出てくる「疑い深いトマス」が言ったようなわけにはいかないのです。

 ともすると、人間はわずかな学問や技術で過信をしすぎて、誤判断をすることが多いからです。それは、歴史的に見ても多くの実例がありますし、また現在でも行われていることでしょう。むしろ、ある場合では「研ぎすました直感」のほうが正しい認識ができることがあるのではないでしょうか。そんなわけで、『般若心経』などをテキストとして用いたのです。


 ここでは、いろいろな言葉を使って説明をします。
 「内管」「外管」「カタストロフィー」「スレッショルド」などという言葉を従来と異なった意味で用いるとともに、『般若心経』のほかにも『歎異抄』や『伝道の書』などの内容も、新しい見解で引用します。また、非常にあいまいなことがらを直感で述べている箇所があります。

(1) ある本の「私の告白」という章に、仏教学者が「死後の世界」について、それがあるかないかについて書いていました。その内容は、

 <明日は、今のところ雨が降るかどうかわからない。雨が降らなくても、傘を持っていくくらいの用心があってもよい。>

というような意味のことでした。
 確か、渡辺照宏という人だったと思います。記憶違いで間違っていたら、ごめんなさい。

(注) (1)の「ある本」を後で調べたら、本多顕彰 『歎異抄入門 この乱世を生き抜くための知恵』 (光文社)でした。そこに、著者が高等学校のとき聞いた東大教授の村上専精博士が行った「霊魂論」という講演でのことということでした。


(2) 私(黒田康太)は、誰もが生きているうちから、すでに「生と死」を体験しているのだと考えます。例えば、「眠り」などはかなり死に近い状態なのです。そんなためにとりたてて「死後の世界」などという考え方はしないのです。

(3) この私の考え方を理解していただかないと、私のバカバカしい考えに鋭い追究がなされそうです。そこで、何とか答えるためにくどくどとこれから述べようと思うのです。


 最初に、特殊な使い方をしている言葉について触れておきましょう。

 内管=トポロジー的に、両端が開いた管(くだ)を言います。例えば、口から肛門までなど。

 外管=片方が閉じている管。例えば、人体で言えば尿管、毛穴など。盲腸などは内管にできた外管と考えざるをえません。

 カタストロフィー(catastrophe)=悲劇的な結末。破局ともいえる現象。したがって、ふつう小説・戯曲などの悲劇的な最後なども言います。しかしここでは、いわゆる通念的な死を伴う現象であるから、その意味で私は用います。

 スレッショルド(threshold of consciousness)=識閾(しきいき)のことです。意識作用が起こったり消えたりする境界を言います。通常的に、連続的でない大きく変化をする状態。「しきいち」ということもあるようです。


 また、引用をしたり考えの基本にした書物には、次のようなものがあります。

 『般若心経
 『歎異抄』=親鸞のことを弟子が書いた本
 『伝道の書』=非常に運がよくて、最後まで削除されなかった「旧約聖書」の中にある特異な本


 以上の言葉や書物などが、言おうとしている「生死」に関するキーワードになるでしょう。
 これから説明をしようとしていることは、いわゆる学問ではないので、私もやはり唯円の言うような「親鸞の捨てぜりふ」を言わざるをえません。そしてまた、最終的には『伝道の書』が反復をするように「空の空」なのです。

 まず、疑似体験として

  「現代お伽シリーズ」の最後にある『小石』

をお読み下さい。
 その箇所には朗読が付いていますので、聞きながら文を見ることもできるでしょう。

 そうは言っても、私はいわゆる「死んだ経験」がまだないので、感覚で知覚した範囲のことしか書いてありません。文中で、女の子がデッキから海中に小石を投げるところが、カタストロフィーでありスレッショルドでもあるのです。そして、さらに後のスレッショルドが、最後に『歎異抄』の地獄の文章の引用があるところにも、再び起こっているのです。


システムとは何か?

 あなたは、むろん「システム」という言葉をご存じですね?
 日常、わたくしたちはこの言葉をよく用いますが、それでは「システムとは何か?」と改まって聞かれると、ちょっと答えにくいのも事実でしょう。深く考えずに、何気なく用いる言葉で、それで話すほうも聞くほうも互いに意味が通じるわけですから、そんな具合のいい概念はありません。
 他にも例えば、「時間」とか「心」などという言葉のようにです。

 このシステムという言葉は、非常に大きな意味をもっています。
 最近では、この言葉もすっかり日本語として定着したようです。今日、システムという言葉は企業内部や新聞紙上で、日常茶飯事のことのように用いられています。
 しかし、ノーバート・ウィーナーの『サイバネティックス』(池原他3名訳、岩波1969年発行のものを参照)には、日本語としてこの言葉は、まだ見あたりませんでした。そこには、原文で「self-organizing system」とあるのを、システムという言葉を用いずに、わざわざ「自己組織系」と訳されています。
 その当時は、まだシステムという言葉が定着をしていなかったためでしょう。

 ふつう、「システムとは有機的に結び付いた集合体」と考えます。また、その集合体が何らかの目的をもっていないと、システムとはいえないと考える人もいます。集合体ですから1つのシステムを観察すると、全体がさらにいくつかの構成要素から成り立っていることが分かります。それを、サブシステムまたはモジュールといいます。
 そしてさらに、モジュールはいくつかの機能単位から構成されているのです。

 別な角度からシステムを観察すると、インプットアウトプットがある有機体ともいえるでしょう。
 有機体というのは、その部分部分が、互いに作用をしあって、一つのまとまりを作っているということです。その有機体にはインプットに対するアウトプットの比、すなわちOUT/IN 関数の値を、常に最大化しようとする機能があることも分かります。つまり、これがシステムの目的といえます。

 このような説明をしたものの、このページで言うシステムとはもっと簡単な意味なのです。
 軽い気持ちで、

  「システムとは、始終、総てを、適度に、結び付けているもの」

とでもお考えになってください。
 あまり学問的な細かい理論付けは、このページでは必要ありません。むしろ、直感を研ぎすまして物事の真理を見抜いていくというような姿勢が必要だからです。


「空」とは何を意味するか?=「空」と「無」と「ゼロ」

 「空」の概念は、非常に重要です。
 「空」と「無」は、似たような概念ですが実際にはかなり異なっています。老荘が「無」を説くのに対し、仏教は空を説いているようです。「無」の箇所で、「無」との関係などを説明しますが、ここでは簡単に

    生死(しょうじ)  取捨  有無

を含む概念であるとだけ言っておきましょう。
 
 おわかりのように、今までの解釈とだいぶ異なっています。
 そして、「空」とは「宇宙にとけ込んだ状態」とも考えるのです。つまり、「空という境地」があって、自分自身が「空」の中に置かれていると意識する必要があるのです。それは、いわゆる「悟り」を得た状態とも、かなり似ているでしょう。

 小乗仏教では、「生老病死」にこだわりすぎる感がします。しかし、私は「悟ったことにもこだわらない」ことが大切と考えます。それは、ちょうど魚が水の中にいても、水を意識しないのと似ているでしょう。水から揚げられて、初めて水の存在に気づくようなものです。それまでは、わからなかったからです。

 私たちの目で見える範囲や、耳で聞こえる範囲ばかりが、現実ではないでしょう。そんな意味で、「空」は「自由」という意味かもしれません。そして、それと同時に「無」は執着をしないという意味になるでしょう。

 「ゼロの意味」や「ゼロの概念」も大切です。また、「ゼロの発見」に至った経過も大いに考える必要があるでしょう。
 ローマ数字には、「ゼロ」つまり「0」を表現する文字がありません。つまり、数の体系は

    T、U、V、W、X、……… X、Z、………

のようになっています。桁も含めて表すので、最後から読んでも同じ値になるというメリットはあるでしょう。

 しかし、インド数字には古くから「0」がありました。その「0」の意味は、

(1) 何もないことを示す
(2) 位取りを示す

という二つの働きがあって、この「0」の発見には大きな意味があるのです。
 なお、ゼロの概念を最初に考えたのはインド人ではなく、マヤ族だという人もいます。


 ヨーロッパ的な「ある」と「ない」の思想に対して、インドでは「無」と「空」の思想の関係にまで発展をしたのではないでしょうか。

 私は、「空」を「空間があるが、時間のない宇宙である。」と考えた。つまり、「空」は「無」でもないし、「ゼロ」でもない。また、「空しい」という意味でもないし、「空」(から)のことでもない。
 『般若心経漢訳原文』によってわかったことであるが、総文字数262字の中に、「空」が7文字、「無」が21文字も含まれているので、つい勘違いをしやすい。10パーセント以上もの割合だから。
 私は、「空」を「生死」(しょうじ)、「取捨」、そして「有無」などの概念を含む「意思や計らいを捨てた」空間だと思った。


システムの三要素=念仏の方法

 さらにここでいうシステムは、「死」と「捨」と「無」の概念から構成されます。
 最初に、それらについて簡単に説明しておきましょう。

(1) 「死」とは、「いつ死んでもよいという心構え」の概念です。
 すなわち、「死の裏側で生きている」という認識をすることが必要なのです。

(2) 「捨」とは、「不要な物は持たない」ことを意味します。
 さらに、物品以外にも、心の「計らい」や思いの「執着」なども捨て去るのです。

(3) 「無」とは、いわゆる「大自然に溶け込む」こと。
 そして、自分自身は無であるという境地になるのです。ここで、「無」は「空」とほぼ同じ概念と考えてもかまいません。

 以上の3つをマスターできると、心が大いに安らかになって、日々の生活がいっそう意義のあるものになるでしょう。なぜならば、価値観によって人生の意味合いが大きく異なってくるからです。つまり、簡単にいうと「生きるのではなく死ぬ」「拾うのではなく捨てる」「有でなく無」なのです。
 しかし、これは覚悟の問題で、死んでしまえばよいということでは決してありません。

 自己を上のような概念で満たして、宇宙に溶け込むことが必要なのです。そして、その念仏の方法は簡単です。

  「南無死 南無捨 南無無」(なむし なむしゃ なむむ)

のわずか9文字でいいのです。
 なお、「南無捨」は「なむしゃ」でなく「なむすて」と読んでもよいでしょう。

 これは、白隠禅師の「南無仏、南無法、南無僧」とも同じような意味合いになるのです。ただ、ここでは「仏」でなくて「死」、「法」でなくて「捨」、「僧」でなくて「無」なのです。そして、その読み方としてはただ「なむし なむすて なむむ」と唱えれば、それでよいのです。
 急に念仏の話がでてきて、驚くかもしれません。念仏と言ってしまいましたが、この九字は自分自身に対する気持ちを確認するための言葉なのです。


自分とは何か?=生きていて何をなすべきか?

 私たちは、すでに宇宙に溶け込んでいる状態、つまり「空」にいるのではあるが、脳の幻影があるために誤った考えをしてしまいがちです。ふつう、つい皮膚に囲まれた一連の閉じた状態を自分自身だとばかり思うのです。そこで、「自我」や「エゴ」が生じるのです。そうかと言って、それを解決するためにすることは、とくにありません。
 ただ、

(1) 自分にできることで、求められたことをする
(2) 相談を受けたことをその人の立場になって考える。

のような最低基準であることだけでよいのかもしれない。つまり、自分自身のことは自分自身のメンテナンス以外にはしなくてもよい。自分の欲望を満たす必要はないからである。


人生の目的は?

 「人生の目的などはない」と言ったらどうでしょうか。驚き慌てて、さっそくに文句を言う人がいるにちがいありますまい。少なくとも、私はそう思います。私が「そう思う」とは、「人生に目的などはない」ということではなくて、「文句を言う人がいる」ということなのです。

 私は、生物の観察が大好きですから、動物園や植物園によく行きます。なかでも多摩動物公園は年間フリーパスをもっているので、週に数回行くときがあります。そして、オランウータンやチンパンジーの飼育場の前で、小一時間も見ているのです。いつまで見ていても、飽きないからです。そこでは、彼らの細かい動作を観察します。

 いま、何が言いたいかというとオランウータンやチンパンジーが、その「人生の目的」を考えているかどうかを私がどう考えているかということです。結論から言うと、どうも彼らはそのようなことを考えていないみたいなのです。もっとも、言葉などで確認をしたわけでないから、もしかしたら私の考えが間違っているかもしれないのですが、……

 人間の脳は異常に発達をしたので、試行錯誤をしたり、あせりや葛藤を感じます。そして、存在しないものをあえて作るようなことさえあるのです。数多くある抽象名詞などを考えると、おわかりでしょう。したがって、「人生には目的があるべきで、もしもなければ人生の意味がない。」などとも考えるのです。
 その辺のことに考えが及べば、いろいろな疑問も解決したり、さらに深まったりするでしょう。

 「我思う。ゆえに我あり。」ではなくて、むしろ単に「我があって、思う。」だけなのではないでしょうか。
 もしかしたら、「人生には目的もなければ、意味もない。」のかもしれません。
 それを別な定義で錯覚をして、思いわずらったり、焦(あせ)るのです。
 ドン=キホーテと同じで、敵がいないのに敵と錯覚をして、向かっていくのではないでしょうか。そのときの真理としては、向かっていってやっつけなければ、向こうから攻めてくるのではないかと考えることです。
 動物園に飼育された動物たちですが、少なくともそれを見ると、何となくそうも思うのですが、……


アヴェロンの野生児

 動物園のオランウータンの観察だけでは、ちょっと心細い限りです。そこで、もう少し考えを拡げてみましょう。例えば、

(1) ターザン、山川惣治『少年王者
(2) ソーローの『森の生活』、鴨長明『方丈記
(3) アマラとカマラアヴェロンの野生児

などです。

 (1)は創作ですから、面白くはあっても実際にはその作者自身の考えです。したがって、実体験の記録としては参考になりません。また、アフリカのコンゴ奥地でゴリラに育てられた野生の少年、真吾(しんご)が文明社会に戻った状態は、アヴェロンの野生児の場合の記録とは、かなり大きく異なっているのも気がかりです。
 真吾少年が怪人アメンホテップに励まされ、赤ゴリラや古代の恐竜、そして豹の老婆や魔神ウーラと戦うくだりは素晴らしい物語ですが、どうも現実に起こりえることとは考えにくいようです。つまり、戦後の渾沌とした時代に描かれた単なる一つのヒロイック・ファンタジーなのです。

 (2)は、ともに作者が体験をした実際の記録でしょう。
 作者は自分をその状態に置いて、それをかなり忠実に記録をしているものと思われます。とくに、ソーローの場合は科学的な視野で状況を捉えているのが魅力的です。いっぽう、ながあきらの文章からは、何となく「世を拗(す)ねた」気持ちや見方を感じ取ってしまうのは、私だけでしょうか。

 そんな意味で、(3)が私たちにとって貴重なテキストになるのです。
 成長期の大切さとともに、それが取り戻しのきかないほど、重大なことがわかるからです。私は、インドで狼(おおかみ)に育てられたというアマラカマラの姉妹について、科学的な記録を知りません。そこで、主にイタールの書いたアヴェロンの野生児に関する二つの論文をもとにして考えてみました。

 イタールは情熱をもってアヴェロンの野生児を観察して、矯正や指導をしようとしています。そして、その過程におけるさまざまな様子を書き残しています。そんな論文を読むと、私(黒田康太)は

 「すべての子どもに一律に行う現行の義務教育の制度」

について疑問を抱かざるをえません。そして、むしろ学校へ上がる前の時期が大切なのではないかと思うのです。できたら、その期間にもっと適切なモチベーションができたらと考えます。

 むしろ、学校で行っているような一把一絡げ(いっぱひとからげ、正しくは十把一絡)な教育をするのではなく、それぞれの個性や適性に合った能力を個別に引き出せたらよいのではないかと思います。そして、実際には七歳くらいまでの教育、つまり就学前の教育や躾(しつ)けのほうが、その後の人生に大きく影響をすることを知るべきではないでしょうか。


友を選ばば……=友達とは何か?

 高齢者センターなどに行くと、

 「私には友達がたくさんいる」

と自慢をする人がいます。しかし、その人をよく観察すると、何となく『論語』にある「巧言令色」タイプのような感じで、どうしても私には馴染(なじ)めない人なのです。
 かつて、私(黒田康太)も「年賀状を1000枚以上も出した」ことがあります。当時は、仕事上の付き合いが増えてしまったからです。しかし、考えてみると単に年賀だけの付き合いのようになってしまった人が多い。むろん、年賀状は「その年も無事であった」という互いの情報交換としては有意義でしょう。

 考えてみると、一年に1000人以上の人とコミュニケーションを親しくするためには、1日に二人以上の人と会わなければならないことになる。それも、日々別な人にである。実際に親しい市会議員がいるが、その人は精力的にそうしているようです。しかし私には、とてもムリなことであろう。

 とどのつまり、自分よりも優れていると思われる人とだけ付き合えばよいのである。しかし、自分よりも劣っていると思われる人であっても、求められたときは喜んで付き合うべきであろう。その人から自分が学ぶことがない人であったとしても、その人にとっては自分(私)が何かの役に立つかもしれないからです。

 単に閑(ひま)な時間をつぶすだけの相手であれば、もはや付き合う必要はないでしょう。それは、相手にとっても言えることなのです。若い世代なら、人生をいろいろと経験をするために多くの人と会う必要があるかもしれません。
 例えば、善哉童子がヘタイラやドラビア人にまで会いに出かけていったように。

(注) 善哉童子は、『華厳経』の後半に出てくる「求道(ぐどう)の物語」です。インド全国を尋ね歩いて、53人の人々に面会をしました。最後に会ったのは、普賢菩薩だったでしょうか。なお、この53という行程数は、十返舎一九の『東海道五十三次』などにも意味合いを持たせて、数だけが引用されているという人もいるようです。

 元来、人間は一人なのである。
 「新約聖書」に書いてあるイエスの処刑のときを思い出してください。あれほどにイエスを慕っていた弟子たちも、ことごとく蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったのです。ただ、ペテロだけが城門の中までついて行ったと福音書には書いてあります。しかし、ペテロはイエスについていったのではなく、現実に何が起こっているかを知りたかったのです。ペテロのような実直な性格の人が「知らない」などというのは、本当に知らなかったと考えるほうが妥当だからです。
 さらに、ナポレオンや西郷隆盛の最後を考えるまでもなく、最後は誰もいなくなってしまいます。

(注) ペテロが、「鶏が3回目に鳴いたときに、イエスの言葉を思い出してさめざめと泣いた。」という人間の弱さを思い出させるような記述は、何となく私(黒田康太)にとっては信じられないのです。「剣をもって闘う」と言った人が、その晩のうちに自分の保身のために「知らない」などとは、しかも3回も言わないと考えたほうがよさそうだからです。なぜならば、ペテロは「牽(ひ)かれていった人が師のイエスではない」ような気がしてしかたなかったからです。

 私は、愚かな技術者でした。ある一部上場の企業で、パソコンの基本ソフトを「アジアの漢字圏を含めて開発しよう」と提案をしました。そのほうが、最終的には英語圏のソフトウエアを包括しやすいからです。つまり、英語圏のOSを日本語にタイアップするよりも開発期間が少なくて、確実なものが作れると考えたです。

 しかし、その窓画面(現在のWindowsのようなもの)についての企画は、私の下にいた部長が根回しをして粉砕をしました。そして、そのころから何となく部下の様子がおかしくなったのです。誰もうわべだけの行動で、企業の存続などを真剣に考えていなかったようです。

 やがて、その会社はパソコン事業を撤退をして、電子顕微鏡などの作成に止まってしまいました。
 そのときに私は、つくづくと思いました。企業の中でさえ可能性を追求して進む仲間は、なかなか得にくいものだということを。そして、無難なことを互いに続けているほうが、ベストだと考えている人が多いと言うことを。しかし、もしも考えていることを互いに理解し合えるような人がいたら、それは至福の人生でしょう。

 源信僧都のような当時第一の秀才でも、『往生要集』の最後に「中国の皆さんの中に理解してくださる人がいたらうれしい」と書いています。つまり、道元が『正法眼蔵』で言っているように、当時から日本には愚かな人が多くて賢い人が少なかったのです。
 もっとも、その源信僧都に対する評価もまちまちです。芥川龍之介のような人でさえ『邪宗門』では、源信僧都のことをバカにしたような書き方をしているのですから。
 さて、あなたはどうお考えでしょうか。


宗教とは何か?

 宗教というのは、自分の目にフィルターをかけるようなものではないでしょうか。
 それは、ちょっと競走馬の目隠しに似ています。目的を狭い範囲で見るようにするからです。なぜならば、自分自身の無限の可能性をわざわざ閉じてしまって、一部分のみを考えたり見ようとするからです。
 既存の宗教も初めから見事にできあがったものが、で〜んと厳かにあったわけではないでしょう。それらは、人間がある目的のために作ったものと考えたほうが事実に近いのではないでしょうか。そして、ほとんどの場合が「救い」や「平安」のためにではなく、「統治」や「支配」のために作られたと考えられるからです。

 また、いっぽうでは人間は誰もが利己的であり、そして寂しいのです。そこで、宗教や学問が一種の幻影として発達をするのです。そして、それらはグローバル的でなく歪(いびつ)の状態で進みますから、現実的に不都合なことも内在することがあるでしょう。
 畢竟(ひっきょう)、すべてが脳のもたらした幻影なのですから、宗教といえども個人個人によって違った価値観を生じるのです。ある人にとって有意義であっても、別な人は意味がない場合があります。そのようなことがあるので、江戸時代に「踏み絵」などの方法が考えられたのでしょう。

(注) 踏み絵は、当時禁制であったキリスト教の信者を見分けるために考えられました。その方法は、単にイエス様の像を踏ませるのです。キリスト教でない人は平気で踏みつけますが、キリスト教の信者は躊躇して踏まないので見分けられるのです。


どの宗教がよいか?

 自分にとって、「どの宗教がよいか?」という疑問が生じます。しかし、そのことはなかなか解決がつかないでしょう。なぜならば、全体を見回して、とくに私の場合にどれがよいかなどと言っている意見がないからです。

 もっとも、空海(弘法大師)の『三教指帰(さんごうしいき)』では儒教と道教と仏教の三つを比較して、仏教がいちばん優れているといいます。そして、後になって日蓮(立正大師)は仏教の中でも、法華経に基づくのが最善で、その他は全部ダメだと言いました。

 パスカルは『パンセ』の中で、キリスト教を薦めています。実際には、キリスト教を薦める論文の草稿が『パンセ』に載せられたのですが、……
 とにかく、空海や日蓮にしても、さらにパスカルにしても私のことを知っていたわけではありません。したがって、それらが私に合っているかどうかは、彼らにもわからないのです。何となく横柄な言い方ですが、そのことから『葉隠』の記述を思い出します。

 <釈迦も孔子も楠公(なんこう)も信玄公も、なるほどすぐれた聖人や武将であろう。しかしながら、その人たちは一度も龍造寺・鍋島の家に、家来として仕えたことはないのであるから、当家の家風に合うとは言えないだろう。>

 このしばしば問題になるフレーズには、私(黒田康太)もまったく同感です。結局は、いくら偉大なものであっても自分に同化できなかったら、まったく意味のないことなのです。そんなわけで、自分自身があるべき宗教を定めなければなりません。「猫に小判」や「豚に真珠」では、仕方のないことですから。

 まったく宗教に接しないで生きる方法もあるでしょう。しかし、私は40歳代のときに

 「還暦をすぎても信仰がない人間は何ともわれなものだろうな。」

と、ふと思ったことがありました。そんな意味で、私にはやはり信仰が必要なのです。
 そこで、西田幾多郎の『善の研究』序にあった言葉などを思い出します。

 宗教は、何となく自分なりに人生の目的を明確にできるからです。目的がわからないままに過ごす人生は、「目的地を決めないでドライブをする」ようなものでしょう。それは、ドライブそのものが目的になってしまうからです。
 現実には、そのようなことも大いにありえるとは思いますが。


既存宗教の不都合?

 私はいまだにどの宗教にも入信していません。(2007年3月18日現在) おそらく、このページにある「私のシステム」を信仰するほかは、一生どの宗教にも入らないでしょう。
 以前、仏教系の教団から加入の誘いがありました。しつこく誘われたので、その教義を細かく聞いて質問をしたのです。かれこれ1ヶ月くらいしたときでしょうか。その知人は怒ってしまって、もう私とは話をしないと言って諦めてしまったようです。おそらく、自分自身がやっていることの矛盾を私に指摘されたからでしょう。

 キリスト教のある団体からも、聖書などをくださって入信を進められました。そのときは、それまでに感じていた聖書の疑問点が100以上あったので、次々と尋ねたのです。すると、その人はまったく答えられなかったので、教会の司祭に聞いたりしてくれたのだが、結局は何一つ解決になりませんでした。

 私は、その程度の宗教経験しかないので、決してすべての既存宗教が不都合だなどと言っているのではありません。もしかしたら、即座に入信をしたくなるような信仰があるかもしれないが、それを探すために一つずつ尋ねるわけにはいかないのです。もはや私は高齢で、余命がいくらあるかわからない状態だからです。

 そこで、十把一絡げにしてしまって、自分自身の感じ方で捕らえてしまいました。もしも、間違っていたら許していただきたい。なぜならば、真実や事実を知らないということは、独りよがりになる場合が多いからです。また、老いて先行きが短くなると短絡的に結果を導いたり、行動を起こすからです。

(注) もしも、私が善哉童子のように若かったならば、あちこちを尋ねてみたいと思うでしょう。また、もしも私がパウロのような体験をしたら、考えが180度変わるかもしれません。しかし、すでに私は地方や都内でも、出かけるのに何となく疲れてしまって、外出が思うようにならないのです。また、魯鈍なので神の啓示のような経験をしたことも、今までに一度もないのです。

 多くの既存宗教の不都合なところは、信仰の対象を偉大にして自(みずか)らを卑小にすることにあるようです。それは、尊大とか謙虚というような問題ではありません。それでは価値観が変わるだけで、本当の救いは得られないでしょう。
 少なくとも私の場合には。本来ならば、いわゆる神や仏を自分自身の中にあると考えたほうがよいのであるが、逆に無限遠のところへもっていってしまうのです。

 高守益二郎先生がお書きになったご本に、『神我顕現への道』(宇宙環境保全センター)があります。
 その本意は、神や仏の存在が身近にあるのにそれに気づかない愚さが書いてありました。私は、なるほどと思ったので、その著者に質問をするために、何回か久我山まで通ったことがあります。(2003年から2004年にかけて) そして、その度にごていねいなアドバイスをいただきました。


なぜ宗教に入らなかったか?

 今までに既存宗教に入らなかった大きな理由は、次の3つです。それは、

(1) 「脳の移植が無意味である」ことの意味合いと同じ理由
(2) 人間以外の生物には、宗教という概念がないらしいこと
(3) 宗教は人類に対する戦略かもしれないという危惧

なのです。いずれも、私の取り越し苦労かもしれませんが、ここに一通り簡単な補足をしておきましょう。

 宗教に入信するということは、あたかも脳を取り替えるのと似ています。価値観までが変わるからです。人体の移植技術が進んでも、おそらく脳を取り替える人はいないのではないでしょうか。なぜならば、脳を取り替えるということは別人になることと同じですから。そして、それは自分にとって意味のないことになってしまうでしょう。

 しかし、ある人が家畜を飼っているような場合には、その中に欠陥家畜が生じたらある家畜の脳を別の家畜の身体に移植するでしょう。つまり、そのある人にとっては家畜の人格に相当するものが必要なのではなく、肉などのパーツが取れればよいのですから、生かしておくだけでよいのです。

 動物園などに行って動物を観察していると、彼らの間に宗教というような概念はないように感じます。実際に話をして直接に聞いたわけではありませんが、宗教の時点よりももっと深い本能のレベルで動物たちは判断をしているようです。
 哺乳類のオランウータンやチンパンジーなどを見ていると、人間の社会と似たような価値観がしばしば見られることがあります。しかし、やはり自然界の生き物や飼われている人間以外の動物には、宗教という概念がないと私(黒田康太)は思います。

 もしかしたら、宗教は人類に対する一つの戦略として考えられたものかもしれません。そんな懸念が20年くらい前から出てきました。宗教の多くがトラブルのもととなったり、さらには戦争の原因になったりしているからです。
 そのことは、放し飼いにしてある家畜や動物に餌を与えるようなものではないでしょうか。つまり、与える側と与えられる側があって、それぞれに利害が対立したり、同じであったりするからです。非常に精巧に作られた人間社会をコントロールする一つのツールではないかという懸念があるのです。それが、単に私だけの杞憂であったらいいのですが、……

 さらに具体的に述べると、「なぜ独自の宗教か?」になったかを細かい視点で考えたとき、私のいろいろな疑問に的確に答えてくれる人が、たまたまいなかったからという問題もあります。
 例えば、キリスト教に関する疑問として、

(1) 十字架上のキリストの言葉(祈り)。もしかしたら、別人か? 本人ならば、黙っていたのではないでしょうか。
(2) ペテロが、鶏が鳴く前に三回「知らないと」言うだろうというストーリ。これは、本当に知らなかったのではないか。
(3) 復活に対する考え方、その疑問。

などです。
 また、仏教に関する疑問として、

(4) お経の「如是我聞」。
 実際に聞かなかった人が、如是我聞と言います。聞いた人から、聞いた、つまり又聞きをしているうちに内容が変貌してしまったケースもあるでしょう。また、書写をするうちにも、内容が異なってきたのではないでしょうか。
(5) 説教の参列者に疑問がある。神、竜などの人非人(にんぴにん)などもいること。少しばかり、デフォルメが強すぎるようです。しかし、もしかしたらそのような参列者が、当時は本当にいたのかもしれません。
(6) 仏教がインドで廃(すた)れてしまったこと。そして、島国のスリランカ(セイロン島)では盛んであること。

など、他にも何となく不思議に思ったり、納得できないことが多くあったからです。


宗教は一人のため?

 いくつかの宗教があり、それぞれ独自に教義をかかげて活動をしている。古くからある既存の宗教以外にも、新たに興る宗教も多い。そのように、少しずつ改められて新しい宗教ができるわけである。そんなことが進んでいったら、やがてどうなるのであろう。

 仏教やキリスト教に、非常に多い分派があるのはなぜでしょうか。また、そもそも仏教とキリスト教、そしてその他の宗教が別々にあるのはなぜなのでしょうか。
 宗教は、極限をすれば一人のため、つまり自分自身のためにあるのだと私は思います。そのために、各自の考えが異なっているだけ宗派が増えて、最終的には一人一派のようなことになるのではないでしょうか。つまり、その人の人生観、生き方などに合った宗教が一人に一つあることになる。
 もっとも、それを必要としない人もあるでしょう。いわゆる無宗教の人である。

 考えてみれば、人間は同じ地球の上に住んでいながら、互いに異なった考え方をする。風土によって、価値観自体が違うのである。例えば、極楽のイメージである。インド人は涼しい場所、そしてイヌイットの人であれば温かい場所を想像するであろう。つまり、求めるもの自体が異なっているのだ。

 『歎異抄』の結びで、唯円(ゆいえん)は

 <弥陀の五劫思惟(ごこう しゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、……>

と師の言ったことを書いています。おそらく、それは事実だったのでしょう。

 また、親鸞は「弟子を一人ももたない」と言い切ります。
 そのような極端な考え方をすると、一人一宗教の場合であったら、当然のことながら伝授の師や弟子という関係が存在しないでしょう。そして、「弟子をもつ」という必要も、まったくなくなってしまいます。

 芥川龍之介は、自分用の福音書を作ったと私(黒田康太)には思われます。それは、最晩年に書かれた二つの作品

  『西方の人』
  『続西方の人』

の二冊です。
 私は、つい「西方の人」となどいうと、つい阿弥陀如来の住んでいるところを考えてしまいます。『西方の人』の最後には、「37 東方の人」という章(または節でしょうか)があって、

 <ニイチエは宗教を「衛生学」と呼んだ。それは宗教ばかりではない。道徳や経済も「衛生学」である。それ等は我々におのづから死までの健康を保たせるであらう。…… 老子は時々無何有(むかゆう)の郷に仏陀と挨拶をかはせてゐる。しかし我々は皮膚の色のやうにはっきりと東西を分かってゐない。クリストの、−−或はクリストたちの一生の我々を動かすのはこの為である。老子はそこに年少の孔子と、−−或は支那のクリストと問答をしている。クリストは「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし」と言った。彼の言葉は恐らくは彼自身も意識しなかった、恐しい事実を孕(はら)んでゐる。我々は狐や鳥になる外は容易に塒(ねぐら)の見つかるものではない。(昭和二・七・十)>

と書かれていました。


物質的空間と精神的空間

 ある程度の生活が維持できるのであれば、こころを豊かに暮らすことを考えるべきです。金儲けばかりが人生ではありますまい。キケロの言葉ではありませんが、人間は働くために生きているのではなく、生きるために働くのだからです。

 つまり、経済的にではなくて、むしろ精神的にも豊かな空間で生きていきたいものです。
 そのために、物質的空間よりも精神的空間を大切にするということなのです。こころの豊かさは、すばらしいものであるということがおわかりになるでしょう。


考えるということ

 「我思う、故に我あり。」などと言います。それは、カントが残した言葉と言います。
 また、「人間は考える葦である。」などとも書いてありました。パスカルの『随想録(パンセ)』にです。
 思ったり考えたりするのは、人間のもつ大きな特徴だと誰もが思っています。しかし、実際にはそうなのでしょうか。

 もしかしたら、すべてが「脳のもたらす幻影や意味づけ」に過ぎないものかもしれません。
 つまり、高度に発達をしたヒトの脳が、勝手に意味のないことを思考している場合があるでしょう。人間社会を全体的に大きな立場から、冷静になって見てください。すると、無意味なことが非常に多いことに気づきます。そして、そのことを考えると脳の存在に関して、不思議な気持ちがします。

 ヒト以外の動物を観察していると、ヒトの場合がかなり異質であることがわかるでしょう。
 高度に脳が発達したと言っても、健康的に正常な方向ではなく、もしかしたら異常に病的に発達をしてしまったのかもしれません。脳自体が考えるのですから、少々おかしなことを考えても自分自身の思考の過程ではチェックがなされずに、実際の事件になって問題にされることが最近になって多いからです。

 身体の一部でありながら、あまり身体のことを考えないというのも理解ができません。
 それを喩えて言うと、ワンマン経営者がいて「勝手気ままなことを社員に強いる会社」の運営のような感じでしょう。それでは会社の発展も覚束なく、もしかしたらやがて倒産をしてしまいます。会社の責任者が会社の責任をあまり考えていないからです。


勘違いと誤判断

 考える材料が少ないと、勘違いをしたり、誤判断をしてしまいます。また、似ているような状況を正確には分別できないこともあるでしょう。

 例えば、サツマイモは根ですが、ジャガイモは茎(くき)であることなど、なかなかわかりません。しかし、ふつうの人にとって、そんなことはどちらでもよいことなのです。
 ギリシア時代の偉大な科学者であるアリストテレスも、鯨と魚をいっしょに分類をしたということです。つまり、魚類と哺乳類がいっしょになってしまったのです。当時の科学で鯨を見たのですから、それでもOKだったのでしょう。
 また、アリストテレスは「金属は地下において育つ」と考えたといいます。鉱物が化学変化をしたり、放射性物質に半減期があったりするのではなく、植物のように育つというのです。

 どうでもよいことかもしれませんが、私がまだ若く、ワープロがなかった時代には「勘違い」と書くべきところを久しく「感違い」と書いていました。うろ覚えた言葉を注意することなしに、それが正しいと思って、勘違いをしたまま使っていたのです。
 不注意な私には、そのような経験がかなり多く、いつも恥ずかしい思いをします。


アプローチの方法=研ぎすました直感力

 ここでは、誤謬(ごびゅう)をともないがちな価値判断よりも、研ぎすました直感力を大切にします。なぜならば、それは長年培(つちか)った経験にもとづくものだからです。遺伝子に組み込まれた情報なども、大いにフル活用するのです。なぜそのようなアプローチの方法を用いるかというと、私たちはふつう「死後の状態などを実際に確かめてみる」わけにいかないからです。
 そこで、正しい判断ができるように自分自身の直感力を研ぎすましておく必要があるのです。その方法として、

  アンドール・ワイルの「ストーンド思考」(『ナチュラル・マインド』に述べられている方法)
  イグナティオ・レヨラ(ロヨラともいう)の『霊操』による方法

などを効果的に利用することにしました。

 なお、レヨラの『霊操』による直接的判断と「禅の応答の関係」が、何となく似ているように私(黒田康太)は思います。
 あれこれと理屈で考えても、なかなか正しい判断が得られません。そこで、私たちの遺伝子に記憶されている35億年の歴史に培(つちか)った直感を利用しようというのです。それは、インスピレーションとして天啓を得たかのように、突然と閃(ひらめ)く考えなのです。


神に対する考え方

 「神」という概念には、かなり奥深いものがあるようです。しかし、ヒトの脳が考え出したものの中では、まだまだ未完成の概念ではないでしょうか。また、哲学的な要素のほかに、単に人々を統治するための手段に用いられた時代がありました。つまり、誰かが考え出した「狡猾な束縛方法」だったのです。そして、そのことに気づかれないように巧妙にカモフラージュ、言い換えれば絡繰り(カラクリ)を用意したのです。
 したがって、その秘密は当事者の他に、ごく少数の賢い人だけしか見抜けませんでした。

 そんなわけで、当初から神に対する理論的な矛盾や誤謬はかなりあるでしょう。むろん、神を考えたものたちは、それに対しても用意周到なのです。そのことをわかりやすくするために、ジョークのような例で示すのもよいでしょう。

 ある人が神さまに

 「あなたは、あなたよりも偉大なものを作ることができますか?」

と聞いたとします。しかし、神さまが

  「むろん、できるぞ。」

と答えても、あるいは

  「そんなことは不可能だよ。」

と言っても、いずれも「神さまの限界」を示したことになるのです。したがって、この問い自体が行われるのを何とか防(ふせ)がなくてはなりません。そこで、

  「神を試みてはならない。」

などという姑息な方法で、言葉の制約を設けるのです。
 ここで言う「姑息」(こそく)とは、本来の意味で「根本的な解決をしないで、一時の間に合わせにすること」を言います。したがって、神さまに対して失礼な言葉ではありません。為念。

 当然のことながら、その仕組みを為政者は知っていて広めてきたのです。しかし、私がふとしたきっかけでそのことを知ったのは、2002年の春でした。そして、それ以後はすべてのことが「仕組まれたからくり」ではないかと、何となく思うようになったのです。
 異常に発達をした人間の脳は、やはり異常なものを作り出すようです。その一つの幻影が、ここでいう「神」なのです。つまり、誰も見ることのできないものでさえ、ヒトの脳は作ることができるのです。そして、作っただけではなく、それを次々と複雑化して支配や政治に利用していくのです。

 本来ならば、政治や宗教はもっと簡素なものであってよいはずです。しかし、それに支配をするための付帯物が付くと、どうしても複雑になってしまうようです。あたかも、『オズの魔法使い』のように、人民を支配するためには不必要なほどに複雑な仕組みでないと、いけないのかもしれません。

 エドガー=アラン=ポー(1809−1849)は、公然と神の存在を否定しました。当時としては、かなり勇気のある発言だったでしょう。そして、

 <この宇宙に自分よりも優れたものが存在すると考えただけで腹が立つ>

と嘯(うそぶ)いたそうです。しかし、晩年には泥酔状態になって病院に担ぎ込まれ、

 <神よ、私のあわれな魂を救いたまえ!>

とこの世の最後の言葉を言って、四十年の生涯を閉じました。


身近な神や仏=無限遠にいる神仏

 吉野せいの『洟をたらした神』のような、私たちに身近な存在の神もあるでしょう。
 また、無限遠にいてそこからすべてを支配している神がいるかもしれません。
 私たちが、イメージとして構成した神は考え方によって、いろいろな概念になってしまいます。

 古くから、「触(さわ)らぬ神に祟(たた)りなし」などとも言います。ここで、神を「さわる」(触る)と言っているのにも、注意が必要かもしれません。
 日本人は、過去にいったい神や仏をどんなイメージでとらえてきたのでしょうか。ここでは、親が子に教え残したり、主人から家来に伝えられた言葉で、文章になっているものを拾ってみましょう。そのようにすることによって、建前(たてまえ)ではなく神仏に対する考え方の本音(ほんね)を知ることができると考えたからです。

(注) 出典は、第一勧銀経営センター編『家訓』によりました。なぜならば、そこには「信頼がおける文書」になって書き残された資料が、多く残されているからです。その「武家篇」と「富豪・商家篇」から漢文(漢字だけの文章)表記のものを除いて、私の判断でいくつかを選びました。原本の表現は旧仮名遣いになっていて、さらに原文には「つ」と「っ」の区別がありません。
 なお、カッコの中のふりがなや漢字などは、私(黒田康太)がおぎなったものです。

 

・ 平重時の家訓

 鎌倉幕府の重臣で、駿河守(するがのかみ)・相模守・陸奥守を歴任した北条重時(1198−1261)が書き残したもの。武士の家訓として最も古いもので、「極楽寺殿御消息」とも言われる。その前書きに続く冒頭に、次の記述がある。

 <一(ひとつ) 佛神を朝夕あがめ申(もうし)、こころにかけ(懸け)たてまつる(奉る)べし、神は人のうやまう(敬う)によりて威(い)をまし(増し)、人は神のめぐみ(恵み)によりて運命をたもつ、しかれば佛神の御まへ(前)にまいりては、今生の能には正直の心をたまはらんと申(もうす)べし。そのゆへは、今生にては人々もちゐられ、後世(ごせ)にては必(かならず)西方極楽へまいり給ふべきなり、かたがたもつてめでたくよき事也、此(この)むねを能々あきらめ給ふべく候なり、>

 上記は、百条ある文章の第一条。なお、すべての条は「一」で始まり、句点(。)ではなく、読点(、)で終わっています。また、第四十八条と第五十二条に、次のような内容がありました。

 <一 仏法をあがめ、心を正直にもつ人は、今生すなをに、後世も極楽にまいり、親のよきには、子も天下にめしいださるる事おなじ、我が力にあらず、神仏の加護し給ふゆへなり、何事も弓箭(きゅうせん)をはじめて上として、名をあらはし徳をしらせ給ふ事、定法正直にすぎてはなし、親のなをき子は、其身の心ならで人にしられ、諸人はうしんのきあり、されば子孫はんじやう、何事かこれにしかん、仏法盛(さかん)なれば、萬法さかなり、すゑの世に仏法を本とせん人、子孫○(一字欠)きにやなるべしと申候事あるべし、佛神は人をわろかれと思給ふべからず、天魔人をよかれとおもふべからず、しかれば善事悪事につきて、子孫昌又たえぬべし、ふるきこと葉(古き言葉)にも、一寸善尺魔と申事あり、能々心得て物にさまたげられ給ふべからず、>

 <一 佛神の御前をとをり(通り)、又は沙門(しゃもん)にゆきあひ(行き逢い)申候はん時は、馬よりおり給ふべし、人などうちつれ、又かつせんの庭などにて、おもてあしき事あらば、かたあぶみをはづし、くらにふして三礼いたすべし、よき程ならばおり給ふべし、>


・ 北條早雲廿一箇條

 関東において、戦国時代に武名の誉れが高かった北條氏の家訓。早雲は伊豆韮山(にらやま)から小田原城に入り、北條五代の基礎を築いた。佛神を述べた第一条は、他の条よりも短く、簡潔である。

 <一 第一佛神を信じ申べき事、>


・ 伊勢貞丈家訓

 江戸時代中期の幕臣(ばくしん)。「五常」「五倫」「先祖」「家業」「衣食住」「神佛」などの一五章から成り立っている。

    <神佛の事

一 日本国中の人は、皆昔の神の御子孫なれば、をあがめうやまひ貴むべし、なれなれしくちかづきて、神をけがすべからず、ちかづく神にばちあたると云事あり、心正直正銘ならば、いのらずとも神は守り給ふべし、されば正直のかうべに神やどると云也、必正直ならず、五常五倫の法をとりうしなはば、いのればとても守り給ふべからず、却てばちあたるべし、

は天竺国(てんじくこく=インド)の神也、日本の神にてはなけれども、昔よりあがめうやまひ来りたれば、世の習はしに隋て貴むべし、佛は人の死たる後の世の事を守り給ふと云也、是も先此世にて心正直にして、五常五倫の法をとりうしなはず、人の人たる身持をせば、来世にては必佛になるべし、此世にて五常五倫の法にそむき、我ままにて畜生同前の身持をせば、来世にては必畜生に生るべし、いか程後生をねがひ、佛に供養し、堂寺を建立(こんりゅう)するとも、悪心にて悪(あし)き身持をせば、地獄に落る事うたがひなし、>


・ 小津家の家訓

 小津家は、代々木綿商を営んだ。明治時代、全国に知られた伊勢(三重県)松坂の商家である。
 八箇条の短い家訓の最後に神仏が出てくる。

 <八 神佛信仰の念を忘つつ事勿(なか)れ>


・ 片倉家の家憲

 長野県で片倉組を組織して、洋式製糸工場を作り、片倉製糸の基礎を固めた。
 十条の家憲の最初に神仏がある。

 <一 神佛を崇敬し祖先を尊重するの念を失ふべからざる事>


・ 本間家の家訓

 本間家は、出羽酒田(山形県)にあって、江戸時代は庄内藩の大地主であった。大地主でありながら、二百年間にわたって小作争議が一度も起きなかったという。
 十二箇条の家訓の一番目「忠君愛国」に続く二番目に神仏がある。

 <二、を敬ひを崇ぶは誠心誠意を喚起する所以(ゆえん)なり。一日も信仰の念を匆にすべからず。>


 以上、思いついたままに家訓から抽出してみた。諺(ことわざ)などと異なって、その家族集団の内部では大切に信奉されたことではないかと私なりに考えたからである。そんな意味で、何らかの参考になろう。


グールモンの神・ニーチェの神

 レミ・ド・グールモン(Remy de Gourmont 1858−1915)は、反キリスト教的見地から思い切ったことを言ったものです。ここでは、それがちょっと恐れ多いので、孫引きをすることにしましょう。
 芥川龍之介『西方の人』の「20 エホバ」章に、

 <「我我を造ったものは神ではない、神こそ我我の造ったものである。」−−かう云ふ唯物主義者グウルモンの言葉は我我の心を喜ばせるであらう。>

とあります。この芥川龍之介自体の記述も、驚くべき内容ではないでしょうか。

 堀口大学は、たまたま「レミ」を「ルミ」と訳しています。しかし、グールモン自身は反キリスト教的立場から、洗礼名「レミ」から故意にアクセントを外して「ルミ」と変更しているのです。


 ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844〜1900)は、ドイツの哲学者です。ギリシャ古典学や東洋思想に深い関心をもって、近代文明の批判と克服を図りました。そして、キリスト教の「神の死」を宣言したのです。さらに、善悪を超越した永遠回帰のニヒリズムにまで至りました。

 <人間とは神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。>

と言っています。


ウィトゲンシュタインと孔子とホーキングとの神

 ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』に、

 <語りえないことについては、沈黙をしなければならない。>

と書いています。つまり、神についての命題は真偽の区別ができないので、無意味であるというのです。しかし、もしもそうしたら現在ある無数の宗教は、ことごとく意味を失ってしまいうでしょう。
 科学が進むと、神に対する考え方は大きく変わってくるようです。
 孔子が死後のことを弟子に尋ねられて、

 <まだ生きていることさえわかっていないので、死のことなどわかるはずがない>

と言い逃れみたいに答えています。
 しかし、ホーキングは『時間への旅』に

 <宇宙は自己充足的な存在であり、神の居場所はない。>

と自信たっぷりに述べています。また、ホーキングは

 <我々は過去を記憶することはできる。しかし、未来を記憶することはできない。>

とも言っています。


考えられた神=ラプラスの鬼

 ソクラテスは、「ダイモニオン」というイメージで神を意識しました。それは神というよりか、ある行為に対する「実践的考え方によって得られる適不適の確信」なのです。つまり、自分自身の中にある良心を基準にした明確な判断であろうか。

 クセノフォーン『ソクラテスの思い出』p9に、そのような記述がありました。
 しかし、グールモンは「理性は哲学者先生の発明?」と言って揶揄(やゆ)をしています。
 そして、先に芥川龍之介の言葉として述べたように、

 <神が人間を造ったのではなく、人間が神を造ったのである>

とはっきり書いています。
 実際には、「人間が神を造った」というよりは「人間の異常に発達をした脳が神をでっち上げた」と言ったほうがよいかもしれません。いずれにしても、そんな単純明快なことを何度言っても理解できない人たちがいるということも、歴史的に事実でありましょう。

 さらに、最近になって私(黒田康太)は「もしかしたら『人間の脳は、人間に寄生をした生物』かもしれない」とさえ考えざるをえないようになりました。なぜならば、人間社会には奇怪なことがあまりにも多いからです。つまり、いわゆる人間の脳が行っていることには、非常に奇妙なことが多いのです。
 「考える」ということ自体にも、何となく非生産的なことが多く含まれているのではないでしょうか。他の動物、仮に哺乳類のゴリラやオランウータン、そしてチンパンジーなどの類人猿と比べても、人間の「考えるという行動」が、いかにも異常のように思われるのは、私だけなのでしょうか。

 パールマンでしたっけ『パパラギ』という書物に、サモアの酋長ツイアビの演説集の一つとして「考えるという思い病気」というテーマのものがありました。

 ニュートン物理学によって、すべてがあらかじめ定まっている宇宙の運命があるとします。そして、それを見守っている仮想の存在を物理学者は「ラプラスの鬼」と呼んでいるようです。物理学者だけあって、「神」という言葉を使わないで、「仮想の存在」などと言っているところが、私には何となく事実らしく感じるのですが、……


美しいヘタイラのお化粧

 手塚治虫の作品に、『ガラスの城の記録』という作品があります。お読みになった人もいると思いますが、近未来を暗示した何とも恐ろしいストーリなんです。
 ヒルンという名の2000年も以前の女性が出てくるんですが、その価値観がずいぶんと直截(ちょくせつ)的なんです。
 なお、この作品は全一冊ですが、完結をしていません。私のもっている秋田書店の初版は、「第1巻」となっています。おそらく、忙しいためか内容の展開が困難なために、作者は続きを書かなかったのでしょう。それでいて、それなりの効果がある素晴らしいストーリです。
 それはちょうど、芥川龍之介の『邪宗門』などと同じように、ふっきれてしまって読者の想像をかき立てる余韻を残した一つの方法ともいえましょう。

 このヒルンについて、私(黒田康太)なりに未完の第2巻以後の内容の1コマを想像してみましょう。
 ヒルンは、おそらく旧約聖書時代のヘタイラだったのでしょう。もしかしたら、ソドムとモゴラの時代だったかもしれません。発見されたときは、布にくるまれていたのですが、とても美しいプロポーションでした。

 そのヒルンが、お化粧をします。睫(まつげ)の一本一本を美しい形に整えたり、手の爪ばかりか足の爪までマニュキアをして形を整えます。むろん髪を美しい色にしたり、目張りを入れたりして、まるでクレオパトラのようになるんです。しかし、性格は粗雑で残忍性までをもっているので、近づいてくる男に何をするかわかりません。

 いくらお化粧をして上辺(うわべ)を整えても、中身がないのですから愚かしいことが次々と続くことでしょう。そのようなことを考えると、まず素材として一通りのことを整えてから、外形を作っていくことが必要だということがわかります。思いついたことを次々と外側にしてみても、かえって混乱が広がるだけです。それで、惑わされる者が多くいるからです。

 ここで、「いったい、お前は何が言いたいのか?」と聞かれそうなので、ちょっと私は躊躇(ためら)ってしまいます。なぜならば、さっきから言ってはいけないことを言おうとしているからなのです。それは、近代文明が基礎もないままに先へ先へと発達をしたために、世界が崩壊をしようとしているということなのです。

 クレオパトラのように、幼いころからそれなりに帝王学を学び、責任と自分なりの価値観をもって政治に当たるのなら問題はないでしょう。しかし、ヘタイラが感情の向くままに刹那的に自己満足で行う価値観は、回りの者を混乱させてしまいます。

 あなたは、ここで私がしどろもどろになって言ったことをどう思いますか?
 話をはぐらかすようですが、コンピュータについてもシステムと同様のことがいえるでしょう。コンピュータにも入力があり、出力があります。コンピュータ自体はハードウエアですが、それでも通信システムの中枢を占める1つの構成要素ということになるからです。


固定概念を除く

 まず最初に、既成概念や固定概念を取り除く必要があります。
 これからはフレキシブルな考えで対処していかないと、解決ができない高度というよりか複雑怪奇なテーマをたくさん扱うからです。そのような準備がないと誤解がつのって、このページの意味がなくなちゃうからなんです。そんなために、まず次のようなことを考えてください。

 原生人類の歴史は、およそ3万年と言われています。
 直立猿人・北京原人などといわれる原始人類がはじめて現れた旧石器時代でも、今から50万年前のことだそうです。しかし、当時でもゴキブリは今の形とほとんど同じで、二億七千万三十三年前から地球に住んでいたそうでです。つまり、ゴキブリくんたちは私たちヒトの大先輩にあたる生物といえましょう。

 ヴォルテールの『ミクロメガス』に、こんな話があります。
 そこには、はじめて太陽系以外の生物として、シリウス宇宙人が登場。何と、その身長が13キロメートルもあって、彼らの高性能顕微鏡で調べても地球人を発見できませんでした。つまり、地球人は彼らから見たらバクテリア以下の存在だったのです。そしてこれは、今から200年以上も昔に作られた物語なんです。
 ヴォルテールはフランスの哲学者であり、作家でもありました。

 『金剛般若経』だったか(もしも間違っていたらご免なさい)、「人間の毛穴の一つ一つ」のような小さい空間にも「無数の仏さま」がましまして、活動をしているといいいます。毛ダニや顔ダニ、そしてウイルスなどではありません。実際の仏さまが毛穴の中に住んでいるんです。大きい・小さいということは、人間が軽率な概念で作った相対的なことなんでしょうか。

 私は、かつてアリがヒトの進化の最終過程に近い形だと思いました。しかしここ10年くらい前から、もしかしたらそれはゴキブリではないかと思うようになりました。なぜならば、彼らが大いにヒトの未来を暗示しているからです。ヒトは単一の種類で、自分たちを維持できないほどに増えすぎてしまいました。
 しかし、昆虫は分化をすることによって莫大な種を構成して、なおかつ確実に繁栄をしています。

 アリの胴体を見ると、ミツツボアリではありませんが、やがて機能分離のためのセパレート化を実現可能なように、きわめて細くなっている部分がわかります。おそらくあと2万年くらいで、身体が次々と二分化するのでしょう。その準備が、すでになされているように思うのですが、…… 細胞分裂と同じようなことが、個体について行われるのです。
 あなたも、そう考えませんか

 ハチの羽が退化してアリになったのか、アリに羽がついてハチになったのか、昆虫学者ではないのでわかりません。また、どちらでもないのかもしれません。それでも、アリとハチは、ずいぶんと似ているように私は思います。ヒトのほうから見ると、昆虫などはどうでもよいことなのでしょうか。アリとハチとの関係などは、ホモ-サピエンスにとって下らないことかもしれません。
 フランス語では、蝶と蛾の名前を区別をしないようですが、本当なのでしょうか。どうしても区別をしたいときには、「昼のパピヨン」とか「夜のパピヨン」というそうです。

 その昆虫の名前は忘れましたが、小さい羽があって飛ぶものがいるそうです。しかし、昆虫学者や物理学者は、「その羽では、物理学的に飛べないはずだ」と結論を付けたそうです。実際に飛んでいるのに、その昆虫は飛べないのです。つまり、学者の研究した対象の中にも、人知で計り知れないものがあったのです。

 ハナアルキ(ハナマルキじゃありません)という昆虫(動物だったかな)を知っている人がいますか。
 鼻が進化をして、鼻で歩いたり飛んだりするんです。共立出版だったと思うが、日高さんが訳した学術書(の体裁をしている本)があるんですが、…… 実物が見られないので、眉唾ものと考えたほうがよいのでしょうか?

 そんな思い入れは、よくあることです。
 多摩動物公園でマレーバクを見ると、いつも象に発達をする途中と思うのは私の間違っている観察なのでしょうか。キリンの首が長くなっていく理由を述べて、学会から追放された学者もいたということですが。名前は、忘れましたがマルクス、レマルク、マルレスクのような感じだったと思います。

 私たちが地球に乗っていること自体が、かなり高速の中に置かれていることになります。それが、ふつうの状態ですから微動だにしませんが、考えてみれば新幹線の屋根にしがみついている状態よりももっと大変なはずです。相対的に物事を観察して処理をしていく物理学では、どのように考えたらよいのでしょうか。

 生物学でも同じです。生物は、簡単な形の原生動物から次第に発達をしてきました。現在の生物学の系統樹を見ると、つくづく納得をさせられて学問やその研究の成果を素晴らしいものだと感嘆します。しかし、それではゴキブリが何でゴキブリになったかの理由がわかりません。
 つまり、ゴキブリはゴキブリでありたく進化・発展をしてきたのでしょうか。
 そして、ヒトはヒトでありたく……


いつ・どこに自分がいるか?

 どういう時代に自分が生まれ、そして生きているかを考える必要があります。そして、それらを背景にして「いかに生きるべきか」「何をするか」などを決める必要があります。ただ闇雲に進むばかりが、能ではありません。
 なぜならば、東に4キロメートル行くところを西に4キロメートル行くのであれば、むしろ止(とど)まっていたほうがよいからです。

 とくに現代のように情報過多の時代には、それに流されることのないように、何をするかをよく考えて行動をする必要があるでしょう。無考えで情報に流されてしまうと、いきおい人生はあくせくと幻想を追うことのみの意味のない過ごし方になってしまうからです。


目と耳

 人間の見ているもの。聞いている音。
 それらは、自然界のごく限られた小さい範囲ということがわかります。そもそも全宇宙の中において、そんな範囲の観察や実験において、すべてを論じたと考えるのは正しいことなのでしょうか。

 ソクラテスの言葉ではないが、何となく科学や技術の傲慢性を垣間見るようです。そして、近代科学を推し進めることによって、地球全体が損なわれていくんじゃないかというような危惧をするのは、私だけの杞憂でしょうか。


ムダとムリとムラの多い一生

 人間の一生には、何とムダとムリとムラなどの愚かしさが多いことでしょうか。むしろ、意味のないことを繰り返しているのは、いったいどうしたことでしょうか。
 ムダは、しなくてもよいこと、持たなくてもよいもの、そのような役に立たないことやものを言います。
 ムリは、道理に反して物事の筋が通らないことです。「無理が通れば道理が引っ込む」とは昔から言われたことでしょう。
 ムラは「斑」という字を書いて、ばらばらになっていたり、安定をしていないことです。

 「ダリラ」または「ダラリ」と覚えておけば、忘れないかもしれません。
 ダリラは旧約聖書に出てくる『サムソンとダリラ』のダリラです。デリラということもあるようです。また、『葉隠』に「だらり急」「急だらり」「だらりだらり」というような言葉が出ていたと思います。
 いつも、ムダとムリとムラのないように注意をする必要があります。人生を豊かにするためには、どうしてもムダとムリとムラがないようにしなければなりません。


日々の生活と将来のために

 安らかな日々を過ごし、さらに明るい将来を何年か続け、そして安らかに死んでいけるような考え方を確立したいと考えます。はじめは既存の宗教に入信をして、安らかな状態を得たいと考えました。そして、自分なりにいろいろと研究をしてみたのです。その程度ですから、奥義や秘儀などを知るよしもないが、それでもいろいろと学ぶべきものがありました。
 そして、結論としては「いずれの宗教でも救われないような気がした」次第です。

 そんなわけで、自分なりに教義をメークアップしてみました。それは、普遍性のある考えではないかもしれません。とにかく、自分が納得できればよいと考えたからです。そんな概要を「三つの観点」から捕らえたのです。その「三つの観点」というのは「死」と「捨て」と「無」なのです。そのキーポイントは、従来の考え方よりは個別的には簡単なわかりやすい概念であるでしょう。
 そこで、「死」と「捨て」と「無」の概念について、次に記しておきましょう。




生きていることの意味

 何にでも意味があると考える人が、かなり多いようです。生きていることの意味などを考えるのは、もしかしたら時間の浪費なのかもしれません。生きていることの意味は、「生きていること」だからです。

 『顔面問答』ではありませんが、それぞれにそうなっているからそうなのです。それは、中国清朝の時代に、兪曲園(詩人)が作った随筆。内容は、口・鼻・眼・眉毛が言い合いをする。その概要は、次のとおり。

 <あるとき、口が「自分は、三度の食事をして生命を維持しているにもかかわらず、顔の中でも最も下位にいるのは納得がいかない」と考えて、鼻に言った。「おい、君は飲み食いのような重要な働きをしないのに、僕の上に胡座(あぐら)をかいているのは酷い(ひどい)じゃないか」 すると、鼻は笑って「僕は君よりも、重要な呼吸という任務に服してる。食事は二、三日しなくとも死なないが、呼吸は待ったなし。不眠不休の大活動であるから、顔の中で最高の地位を占めているのだ。」 そのことについては、口も同意した。しかし、続けて口は鼻に言った。「それでは、眼は飲み食いも呼吸もしないのに、一つならずとも二つまでも鼻の上で僕らを見下して(みくだし)いる。不合理ではないか。」

 そして、口と鼻は、眼に向かって「僕らは、日頃から飲食と呼吸をして生命をつないでいる。しかし、君らは重要な任務をなすこともなく、僕らの上位にあって始終僕らを眼下に見下ろしているのは、怪(け)しからんじゃないか」と文句を言った。すると、眼は「いかにも、僕は飲食も呼吸もしない。しかし、僕が種々の危険物を高いところから監視しているからこそ安全なんだ」

 これには、口も鼻も反駁できない。しかし、さらに口はまだ腑に落ちないことがある。それは、眉毛の存在。ほとんど無能でありながら、顔の最上位にいる。それが、気に入らない。そこで、口は鼻と目を連れだって眉毛に談判をした。「僕らは、飲食とか呼吸とか監視などの重要な任務を負っている。しかし、君はいかなる任務を負って顔の最高位を占め、しかも多数の同族で群居をしているのか」
 眉毛は、眉をひそめることもなく、平然と答えた。「君たちの労苦には、感謝している。ただ、僕自身が何をしてるかということになると、自分でも判らない。ただ、昔からこうしろと言われるままに、こうしているだけだ」>

 以上が『顔面問答』のあらましです。ここで、眉毛の存在と言い分が面白いではありませんか。もしかしたら「生きていることの意味」などないのかもしれません。なぜならば、意味づけをするということは、科学の方法かもしれませんが、意味のないこともそれ自体は科学なのです。


死にたくない

 生きている限り、誰もが「死にたくない」というのは本音でしょう。
 聖書を読んでも、賛美歌を聞いても天国に行きたいと思わないのはいかがなものであろうか。
 また、『歎異抄』の中で唯円が「勇躍歓喜して極楽へ参りたきなきものを?」というくだりなども、本音ではないでしょうか。


眠りと死

 私は、「眠り」と「死」が非常に近い概念と考えています。例えて言ってみると、

 「目覚めることがない眠りが死。」

というような考え方です。
 また、「生」と「死」も同じ概念でとらえます。いわゆる「知覚」や「意識」というようなものがあって、それは身体が機能しなくなっても感覚があるのではないかと思うのです。つまり、肉体が死んでも「感覚」が残ってしまうのではないかと恐れるのです。しかし、まだ実際に確かめたわけではなく、いろいろなことから想像をしただけのことですから、もしかしたらそうではないかもしれません。
 いずれにしても、「死後の世界」があるなどとは思いませんが、「意識」が永遠とはいわないまでも、かなり長期間にわたって死後も機能をしているのではないでしょうか。


「死」のあらまし

 ふつう、よく

 「そのころは、私はお墓に入っているから関係ない。」

などと、安易に言う人がいます。
 しかし、死んでも問題は解決しないのではないでしょうか。自殺を禁止している宗教もあるくらいです。よほど、意味のあることとしか思えません。おそらく、自分の意思で死ぬということが神の摂理に反しているなどということではなく、そのこと自体が解決にならないということを洞察したからではないでしょうか。
 また、「死」を単に「生」と並べて、『六韜』(りくとう)」にある太公の言葉のように、

 <すべて人というものは、死ぬことを嫌い、生きることを楽しもうとする。>

というように、鋭く観察をします。これはで、『三略』にある

 <端末未だ見(あら)われずば、人能(よ)く知ること莫(な)し。>

になってしまいます。つまり、「ものごとは全体がはっきりしないと、その実体をつかむことができない」からです。
 また、『虚堂録』にあるように

 <鹿を逐(お)う者、山を見ず。金をつかむ者、人を見ず。>

になりがちです。『虚堂録』は宋代の禅僧の語録。
 なお、漢代の『淮南子』(えなんじ)には

 <獣を逐(お)う者は太山を見ず>

となっています。いずれにしても、双方がわからないと片方がわからないのです。
 「木を見て森を見ず」というのは、英語の

 <You cannot see the wood for tree.>

の訳語です。
 私(黒田康太)は、

 「死は、宇宙(私の言う意味のシステム)にとけ込むための単なる帰還である。」

と考えています。それについては、ちょっとわかりにくいので別なところで詳細に説明をします。

 メメント・モリ(=死を忘れてはいけない)という言葉があります。
 人間は誰でも、死と隣り合わせにいるということを忘れてはいけないのです。そしてこれは、もしかしたら『葉隠』の思想に近いかもしれません。なぜならば、そこにある

 <武士道というは死ぬことと見つけたり。>
 <相手に知られない恋が最上。>

などという考え方にも通じるからです。
 つまり、やけくそになって死んでしまうのではなく、常にいつ死んでもよいという覚悟をすることによって正しい判断ができるというのです。そして、有意義に生きる道が開けてくるということなのです。それは、生きる術の逆説的教訓なのではないでしょうか。


 自分が死んだ後のことを考える必要もありそうです。
 そして、決してルイ15世のようであってはいけません。ルイ15世の言葉で、

 <わが亡き後は、大洪水も何のその。>

というのが有名です。
 しかし、それは一般にルイ15世の言葉と言われていまが、実際には側近の女性が補った言葉ではないかとも考えられます。ケセラセラ(なるようになる)よりも、もっとすごい言葉で、さすがルイ15世ですね。
 私たちは、まず死の問題を解決する必要があります。旧約聖書の『箴言』に、

 <死を恐れることは、知識の始めである。>(第一章)

とあります。また、三木清という哲学者は、

 <人間を一般的なものとして理解するためには、死から理解することが必要である>

と言っています。
 まったく、諾(むべ)なるかなです。しかし、孔子は弟子に死について問われ、

 <生もわからないのに、どうして死がわかるか>

と突っぱねました。では、生と死が反対概念ではなく、いずれかがいずれかの部分集合であるときは、どうなのでしょうか。私は、生の中に死が含まれ、また死の中に生が含まれているような気がしてなりません。

 『菜根譚』には、

 <死時に心を動かさざらんとせば、すべからく生時に事物を看(み)えて破るべし。>

とあります。
 ぼつぼつ私も、安心をして死んでゆける心の準備をしなければいけない。あらかじめ葬式のことなどを決めておくのもよいでしょう。死んでしまった後のことなど「どうでもよい」というルイ15世のような考えであってはいけません。
 どこに何があるか? そして、それを直ちに取り出して利用できる。そんな心の準備が必要なのです。また、死んだときに不要になる持ち物などは、早い時期に整理をしておくべきです。
 そのためには、

(1) 無用のものを捨ててしまう。物だけではなく「はからい」なども。
(2) 無の境地になる。
(3) 空の中に自分を置く。

などが必要なのではないでしょうか。
 そして、「無と空」の状態や「真空というような何もない」状態についても、考えておくほうがよいかもしれません。


死後の存在について

 だいたい死後の存在なんてあるのでしょうか。
 でも、次のように考えます。私には、いったい老年なんてあるのでしょうか。そんなことを30歳代に考ええていたのです。なぜならば、重度の糖尿病を患ってしまって、数年しか生きられないと医者に言われたからです。しかし、いちおう老年もあると考えることにしました。もしも、若くして死ななかったときのことを配慮したからです。
 そんな状態でしたが、糖尿病も全快をして健康な身体になりました。そこで、死後の存在もあると考えるのです。ないかもしれないし、あるかもしれないので、あってもよいように「ある場合」も考えておくのです。そのほうが安全だからです。つまり、用心のために「もしもあった場合」のことも考えておくのです。

 ちょうど、火災保険に入るような状況でしょう。火事にならないかもしれないが、安心のために保険金をかけておくのです。さらにいうと、雨が降りそうな日に傘をもっていくのと似ています。雨が降ったときの用心なのです。ここで考えているのは、お天気な日も傘を持ち歩くようなものかもしれません。もしかしたら、それがまったくの杞憂であるかもしれないのです。

 しかし、それでも用心のために傘をもって外出をしようというのです。
 何とも用心がよいので、驚く人もいるようです。


死は背後から追いかけてくる?

 死は、前から突然にやって来ると思っている人が多いようです。しかし高齢者の場合、実際は後ろから忍び寄るように徐々に近づいて来るのです。したがって、常に死の準備をしておく必要があるのです。『徒然草』や『葉隠』にも、似たような記述があることから、古来そのような考えが日本人にはあったようです。

 もっとも、若いころの死は前から来ることがかなり多いようです。しかし、還暦を過ぎたころからの死は、後ろからじわじわと近づいてくることがほとんどでしょう。例えば、交通事故や事件で死ぬのは「死が前からやって来た」とも言えるのではないでしょうか。それに反し、病気や老衰で亡くなるのは「死に追いつかれた」という感じなのです。

 つまり若いうちは活力があるので、ふつうは前向きに死を迎えます。死にぶつかるというような感じです。いっぽう老いてしまうと、もたもたしていて何が何だかわからないままに、あっけなく死んでしまうのです。それは、ちょうど後ろから忍び寄った死に、追いつかれた様相なのです。そして、気づかぬままに自分に追いついて包み込んでしまうのです。

 このようなことに対する心がけの問題も、老いてくると考えなくてはなりません。ずいぶんと人生経験を経た人でさえ、死を自分自身のことと実感をしないのです。そして、死を何か自分に関係のないことのように思っているのです。


メメント・モリ=死を忘れてはいけない

 死がいつ来てもよいという心の準備をしておかなければなりません。また、身の回りの整理も必要です。
 そして、さらに死の意味を知っておく必要があります。35億年の終末として、自然(宇宙)に溶け込むのですから。それは宇宙への帰還ともいえる一つの儀式なのです。したがって、悲しんだり慌てる必要はありません。

 しかし、常に死を忘れてはいけません。やがては自分も死ぬ身であることを深く認識をすることから上のような観念が固まるからです。金持ちも貧乏人も、賢い人も愚かな人も、すべて間違いなくやってくるのが死なのです。
 ブリューゲル(父親のほう)の作品に『死の勝利』というのがあります。「死を忘れるなかれ」という思想を絵画化したものです。私はブリューゲルの絵に、何となく先達のボスの影響を感じるのですが、いかがなものでしょうか、……。

 「メメント・モリ」という言葉に対して、ヨーロッパではふつう骸骨や髑髏(どくろ)の絵で表現をしました。日本でも良寛の骸骨詩などは、同じ考え方によるものでしょう。
 マルクス=アウレリウスの言葉や荘子の言葉が重くのしかかってきます。
 マルクス=アウレリウスの『自省録』にある言葉。

 <あたかもよく熟れたオリーブの実が、自分を産んだ地を讃(ほ)めたたえ、自分を実らせた樹に感謝をささげながら落ちていくように。>

 いっぽう、荘子のほうはもっと厳しい。

 <死は、雄大な帰省(きせい)>


死とは何か?

 孔子が弟子の季路から「死」について尋ねられたときのことです。その答えは、

 <まだ生のことも知らないのに、死のことなど知っているわけがないだろう>

というような内容でした。『論語』にある記述です。

 そんな有様ですから、『論語』には「来世(らいせ)」や「原罪」などは説かれていません。しかし、生を考えることは死も考えることになるのではないでしょうか。つまり、生と死は別々のものではなく、互いに関係をもった概念なのです。それは「ある」と「ない」との概念のように、互いに他があって初めて成立をするようです。

 私は、実は死が何であるかの確証はないのです。(2005.08.12現在) しかし、自分自身が死ぬ前に「死が何であるかを知ること」、それを自分なりに理解しておくことが非常に大切だと思います。そしてそのことは、「知らない場所に初めて行ったり」、「西洋料理を初めて食べた」ときの戸惑いや経験に似ているのではないでしょうか。
 それらの体験は、後になって何でもなかったことが、その前には心配になってしかたがなかったからです。


死の国や死からの帰還

 それが実際の記録か人間の脳がもたらした幻影なのかわかりませんが、死の国や死からの帰還について、今までにいろいろと記録があるようです。

『古事記』には、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が死んだ妻を訪ねて黄泉国(よみのくに=死の国)へ行っき、そこで見た伊弉冉尊(いざなみのみこと)に追われる話があります。これは、生と死を扱った日本最初の重大な神話です。

ギルガメッシュ物語

 黄泉国は、ふつう「よみのくに」といいます。また、ときには「よもつくに」といわれることもあります。死んだものが行く、穢れた闇の世界というイメージです。実際にそこに行って、帰ってきたものは少ないといいます。
 記紀に出てくるのは、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)だけです。時代が下った伝説では、小野篁(おののたかむら=歌人)、平賀源内(本草学者)、甲賀三郎(甲賀流忍者の祖)たちです。
 ヨーロッパでは、スエーデンボルグもその一人でしょう。


私の死にかかった記憶

 高校生のときに、海で溺れかかって死にそうになったことがあります。
 記憶に残っている「もう死ぬんじゃないかな?」と私が思ったのは、そのときが一度だけの経験なのです。ですから、今まで大きな病気もしないで、ずいぶんと幸福な日々を過ごしてきたものだとつくづく不思議にも思い、そのことをつくづく幸福に思っています。

 それはともかく海で溺れかかったのは、ちょっと沖の方へ出たところで足がつってしまって、立ち泳ぎもできなくなってしまったのです。そんなわけで、沈みかかって「あっぷあっぷ」としていました。手だけでは浮けませんので、どうしても沈みがちになっていきます。だいぶ海水を飲んでしまって、「もしかしたら、もうダメかな?」という思いが、突然に脳をよぎりました。そして、なぜか過去のことを次々と思い出したのです。私の場合、一瞬にすべてを思い出したのではなく、次々と際限もなく記憶が現れては消えていったように思います。つまり、ゆっくりと死んでいく状態のときに、脳が考える速さだったんでしょう。

 そんなことを考えていると、誰かが後ろから近づいてきました。そして溺れかかっている私を仰向けにして引いてくれたのです。10分以上かかったでしょうか。浅瀬の背の立つところで、介抱をしてくれました。始めて顔を見てわかったのですが、その人は若くて元気そうな青年でした。おそらく前に回ると、溺れかかった私がその人に抱きついて身体の自由を奪ってしまうと考え、後ろからずっと引いてくれたのです。

 私は、助かったうれしさで心から「ありがとうございました。」と言いました。するとその人は、私が大丈夫なのを見ると笑って「気を付けてくださいね。」という言葉を残して、すたすたとどこかへ行ってしまいました。ですから、私は「命の恩人」の名前も住所もわからないのです。しかし、その人のことを思うといつも感謝にたえません。その人がいたからこそ、今日の私があるのですから。
 そして、私もその人のように回りの人を助けてあげることができたらよいなぁと、いつも考えるようになったのです。


自分の死後の準備=葬式の配慮=遺骨の処理=親鸞と檀林皇后

 あらかじめ死の準備をしておいたほうが好ましいでしょう。突然に死ぬと、後のものが困る場合があります。物がどこにあるかわからなかったり、知人との約束や貸し借りなども問題です。預金通帳などは、ふだんから保管をしっかりしておいて困らないようにしたいものです。
 しかし、隠し財産があったりすることがあります。もっとひどいのは隠し子などが名乗りを上げてくることです。そのようなことで、残ったものが戸惑わないようにしておきたいものです。

 葬式の方法なども、生前に考えておいたほうがよさそうです。そして、回りのものに周知をさせておきたいものです。
 私は、火葬場で焼いてもらいますが、その後の葬式はしないつもりです。つまり、骨壺に入れるまでを考えているのです。
 親鸞や檀林皇后(だんりんこうごう)のことを考えると、それでもていねいだと思いますが、いかがなものでしょう。

 親鸞は、

 <自分が死んだら加茂川に死体を流して、魚の餌にしなさい。>

と書き残しています。
 さらに、檀林皇后はもっとすごく

 <死体は庭に放り出して、犬の餌にせよ。>

と側近に命じたそうです。つまり、死体を犬に食わせてしまえば、墓もいらないと言ったわけですが、嵯峨天皇のお后であった人の言葉としては、何とも思い切ったものと思います。
 いずれの場合も、それなりのお考えがあるのでしょうが、信仰が徹底していたことと思います。

 沢庵は、遺戒を漢文で書きました。それは、

 <全身を後の山に埋めて、ただ土を掩(おお)って去りなさい。経を読むこともいらない。>

と言い残したそうです。

 荘子は変わった人だったようですが、やはり「自分が死んだら青蝿の餌食になってしまえばよい。人から弔問に来てもらうような厄介をかけることもいらない。」と言ったそうです。
 そのことは、久須木文雄著『寒山拾得』(p62)に書いてありました。そして、それに似た記述が寒山詩にもあったことを何となく覚えています。

 アメリカの日本大使であられたライシャワー氏は、遺言で遺骨を太平洋に撒いたそうです。海に灰が散っていくというのは、何となく自然に帰る最短コースでもあるように思うのですが、……

 バーナード=ショーは、奥さんの遺骨といっしょに混ぜて撒くことを望んだそうです。実際にその遺言によって、バーナード=ショー自身とシャロット夫人との遺灰は一つに混ぜ合わされ、生前に彼がよく散歩をしていた庭園の小径にまき散らされたそうです。


前世の記憶をもつ人たち

 輪廻転生などということが、実際にあるのだろうか。
 また、「人間はどこから来て、どこへ行くのだろうか」などと考えることは愚かなことであろうか。

 前世の記憶などというと、いったい何のことかわからないのがふつうの人の場合であるが、中には自分自身の前世の記憶をもっているという人がいる。そして、その子供のいうことがすべて科学的に裏付けをされ、確かに過去の状態を知っていたということがわかるそうである。ふつうの人には信じられないことだろうが、実際に確かめると事実なのである。

 むろん、すべての人がそうではないだろうが、中には前世の記憶をもって生まれてくる人もいるらしい。あるいは、すべての人が前世の記憶をもっているのだが、鈍ってしまったために何も思い出せないのかもしれない。
 ダライラマも、前世の記憶を鮮やかに蘇らせている覚醒をした一人ではないでしょうか。


オーパーツという物体

 オーパーツということをご存じでしょうか。オーパーツというのは「場違いの加工品」という意味で、ふつうの常識では考えられないようなことが過去にあることを言います。つまり、オーパーツは「アウト オブ プレース アート ファクツ」の略で、「そこにあってはならないもの」あるいは「そこにありえないもの」を意味する言葉です。
 例えば、

(1) 50万年も過去に金属加工物があった。
(2) 9000年前に石でできた歯車があった。
(3) 古代エジプトに電気があった。

などの事実をどう考えたらよいのでしょうか。


「神の存在」と「死後の世界」

 「神はいるかいないか?」とか「死後の世界はあるかないか?」などと昔から喧しく(かまびすしく)言われているようです。そして、それがいっぽうに偏った場合には、敬虔な宗教信者または無神論者などという立場になるようです。そのような状態を示す言葉が多くあります。

 近世中期の儒者であった新井白石(1657−1725)は、その著書『古史通』に<神とは人也>(かみとはひとなり)と述べています。つまり、高天原(たかまがはら)は実在をした土地であり、神話を歴史的事実の比喩であると考えたました。その趣旨は、ギリシアの神話学者であるエウヘメルスの学説と同じ内容であって、画期的な合理主義解釈であったようです。

 しかし、本居宣長(もとおりのりなが、1730−1801)は、『古事記伝』に「人間をはるかに超える神という存在」を認めました。そして、
 <そもそも天地のことわりは、すべて神のご所為で、いとも妙(たえ)に奇しく(くすしく)、霊しき(あやしき)物にあれば、人の限りある智り(さとり)もては、測りがたきわざなるを、いかでかよく極めつくして知ることのあらむ、……>
と書いています。

(注) 引用文は、必ずしも原文とは同じ表現でない。私が、わかりやすく文章や文字を書き改めた部分があるからです。つまり、文語の一部を口語にしたり、旧仮名遣いを改めたりしました。また、中には記憶違いによる誤りもあるでしょう。したがって、その部分の文責はすべて私(黒田康太)にあります。
 もしも引用などをするときは、必ず原文に当たってくださることをお願いします。以下同様。

 そして、さらに

 <この世の中のことは、すべて神のご所為なり。四季の移り変わり、風雨が吹くこと、さらに国や人々の吉凶などもそうだ。しかし、神には善悪ともにあって、行いもそうであるからふつうの常識では予測ができないことだ。>

のうように書いてあります。これは、何となく運命論者の意見と似たところもあるようです。

 日本の神話については、イギリス人のチェンバレン(Basil Hall Chamberlain)は、『アイヌ学より見たる日本の言語・神話・地名呼称』にの中に詳しく述べているのに驚かされます。とくに、神話については日本人がまだ神話について概念を意識していなかった時代だからです。
 なお、チェンバレンは学校の文法の教科書を作っています。むろん、日本語の文章でです。その中の名付け数詞については、私もよく言ったものだと感心をしています。そして、それよりもその序に、これほどの大学者が、

 <我は外国(とつくに)の人でありながら、皆さんの教科書を作る名誉を担いました。……>

と言っている謙虚さに驚きました。

 神や神話については、いろいろな意見がありますが、近くになって柳田国男は、その『民俗学辞典』で

 <日本民俗学で神話という場合、それは語る者が言い伝えた内容を堅く信じ、神祭の日の如き改まった機会に、必ずこれを信じようとする人々の耳へ一定の形式をもって、厳粛に語り伝えたものを指すことにしている。>

と言っています。つまり、「神がいるかいないか?」については「信じようとする」かしないかによると言っているようです。ここで、私(黒田康太)は何となく宗教の問題に入っていきそうなので恐れているのですが。

 「神はいるかいないか?」について、だらだらと思いつくままにインプットしましたが、「死後の世界はあるかないか?」については以下に分散をして記していきましょう。


家畜の世界と昆虫の世界

 まず、家畜の世界を考えてみましょう。


 次に、昆虫の世界です。


空間と時間の中にいる自分とは何か?

 ここでは、まったく独断で考えをメモしておこう。
 人間社会の個と昆虫の個。独りと群れ。

 ヒトは「一連の皮膚で囲まれた個」を自分と考える。つまり、独りよがりや我田引水が生じる。さらには、その単位で金儲けや名誉などを欲する。その愚かさは、言うまでもない。
 内管と外管。血管の中は体内。胃の中は体外。ドーナッツを考えていただきたい。人間は、トポロジー的に単純に考えると一つの(くだ)である。

 昆虫の世界ではどうであろうか?
 アリの社会。女王蟻が偉いから大きいのではないだろう。単に一族の機能の一部を分担しているのではないか? ミツツボアリでも、そのようなことが言える。単位や範囲を区切って考えると、どうしてもその大きさでの「」(が)が出てくる。
 
 『顔面問答』
 インターネット入門の「インターフェースとは、いったい何かしら?」にあるような話。

 空間と時間。時空に関する間違った概念。同じ物が同時に別の場所にありえない。これが、現代の常識。金剛般若経では、そうでない。おそらく、先哲の思考から知り得て、書かれたことであろう。常識で考えられなかったことが過去にあることから、現代の知識が覆(くつがえ)されるようなことがあるかもしれない。同じ状態なのに、地動説が天動説に置き換えられたりしたように、近い将来に………

  地球上に別の次元があって、別の生命体がいる
  私たちは神という概念(フィアフィル魔亜尊)に飼育・観察されている
  個と思っている単位は、……
  空間とか時間という概念は、ヒトの脳が単に考えただけのものである。
  ヒトの脳は、ヒトとは無関係。
などの驚天動地なことが、近い未来に常識になるかもしれない。


祖先をまつる意味と墓の意味・墓の無意味

 大きな墓を作る。ピラミッド、前方後円墳、……
 チンギスハーンの墓。いまだにどこにあるかがわからない。
………

 死の直後は大切にするが、やがて忘れてしまう。また、墓に来る人がいなくなってしまう。そして、多くの墓が無縁仏になってしまう。ちょっと大きな寺の墓地には、処分していない墓が隅のほうに置いてあるのを見かける。



 したがって、自分の墓を守ってくれる人が絶えてしまいそうな人は、例えば

  「多磨霊園(多磨墓地)」にある「みたま堂」
  「高尾駅・高尾山口駅周辺(高尾山を含む)」にある「みころも霊園」

などのようなシステムのほうがよいかもしれない。


葬儀の意味と費用

 いったいどのくらいの費用がかかるか? ピンからキリまであるようだが、少ないほうでざっと見積もると、

 祭壇と仏具(各宗派によって違うが、おおよその金額) 50万円
 棺桶(仏衣・足袋・杖・草鞋・念珠・六文銭など) 10万円
 ご遺影(四つ切り、額・リボン付き) 3万円
 会葬礼状(100枚、清め塩付き) 1万円
 式場設備(焼香台・焼香具・式場内設営) 5万円
 通夜式司会(専門業者に依頼) 2万円
 枕飾りと位牌(神道・キリスト教などによって異なる) 3万円
 霊柩車(寝台車のこと。30キロメートルまで) 3万円
 ドライアイス(15キログラム2回分) 3万円

のようになるだろう。そして、その他の細かい費用を考えるて合計を締めてみると、やはり100万円近くなっちゃう。
 地獄の沙汰も金次第などと言うが、まだ死んだばかりでも金がかかるものである。あまり経験をしたことがないので知らないことばかり。いきおい、言われるままになってしまう。
 仏衣や念珠はわからないでもないが、足袋(たび)や草鞋(わらじ)を履(はい)いたり、杖や六文銭をもって棺に入るのは何とも滑稽な感じ。おそらく銭は三途の川の渡し賃になるのだろう。時期が時期だけに、黙ってそうする人が多いようだ。本人はともかく、家族が勘違いをしているからです。
 写真などは、あらかじめ用意をしておかなければならない。


平素から物の整理をしておく

 常日頃から物品の整理をしておく必要があります。身の回りの整理は、死ななくても必要なことです。
 同じ物や類似する物は、同じ場所にまとめて置く。また、使わないものは思い切って整理をしてしまうことが必要です。
 道具家具のほかにも、図書書類の整理も大切でしょう。
 どこに何があるかわからないということは、物がないのよりも困ったことになるからです。

 例えば、パソコンの契約などは後に残されたものにはわかりません。ホームページの運営などは、引き継ぐ人がいなければ終わりになってしまうでしょう。また、カードの扱いやインターネット上のパスワードなどは、わからないと誰も手がつけられなくなってしまいます。そんなことのないように、あらかじめ準備をしておく必要があるでしょう。


貸借などを明確にする

 どこに何があるかを明確にしておくと同時に、物品の貸借などもわかるようにしておく必要があります。
 柳田国男が編集をした『遠野物語』には、次のような話がありました。

 <ある農家でキノコを食べて赤ちゃんを除く全員が死んでしまった。すると、たくさんの人が来て「これは私が貸した物」とか「生前に形見としてくれる約束をしていた」などと言って、すべての物を持ち出したので、家の中には何もなくなってしまった。>

 そんな実話を読んで、「東北の純朴な人たちの間でも、そのようなことがあるのだなぁ」と、ため息を漏らしたことがあります。私は、経団連におられた三橋伝三郎氏から「健康に関する資料一式」をいただく約束がしてありました。しかし、成城学園から霞ヶ浦のゆうゆうの里へ移られ、あっけなく亡くなってしまいました。そこで、遺族の方に丁重な手紙を書いたのですが、いっさい返答はありませんでした。

 ご生前に見せていただいたときは、段ボール箱いっぱいくらいあったのですが、それをいただくという書類はなかったので、すばらしい資料一式をあきらめてしまいました。ホームページの「健康」という箇所に全部をアップデートする予定でしたので、非常に残念な思いがします。


なぜ死後の問題など考えるのか?=用心するにこしたことはない

 あした晴れるか、雨が降るかはわからない。用心のいい人は傘をもって出かける。それと同じことである。

 死後の生命などあるかどうかわからない。そこで、もしかしてあったときにも慌(あわ)てないようにしておこう。
 「命」は、どうやら「身体」に付帯しているものではなく、単独の一種のエネルギーらしい。そして、水が冷えて氷になったり、高温になって水蒸気になるように、形態は変わるがエネルギーとしての存在は失われないのではないか。


私たちの死後の状態は?

 ここにメモしてあることは、あくまでも私の安心立命。


生まれ変わり

 ダライラマ
 生まれながらの天才がいること……クレッチェマー『天才の心理学』
 前世の体験


仙人・超能力者・スーパーマン

 昔から言い伝えが多く残っている。


死を体験した人がいるかもしれない

 『十王経』、源信『往生要集』。『聖書』。
 菅原道真。
 文学ではあるが、トルストイ『イワン・イリッチの死』は死を実際に体験した人でなければ、とても書けない内容ではないかと私は思う。
 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』なども。
 あまりにも多い民話や伝説、さらに小説などはどう考えたらよいのだろうか。単なる人間の脳が作り出したイメージなのであろうか。


証明のできないこともある

 実際に証明のできないこともあるだろう。
 プラトンほどの偉大な学者であっても証明ができなかったのだから。


既視感(デジャビュ)

 デジャビュはフランス語であるが、既視感ともいう。デジャブということもあるようだ。自分がそのことを一度も経験しないのに、いつかどこかで経験したことがあるように感じることを言う。
 『徒然草』第七十一段後半に、次のような記述がある。

 <またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。>

 そのようなことは、遺伝子の中に組み込まれているのだろうか、脳のもたらす幻影なのだろうか。


幻肢痛(げんしつう)

 身体の失われた部分が痛む。交通事故で右足を失った人が、右足の親指が痛いなどと言う。


恐れの知覚

 子どもはお化け・怪獣など。
 それに対して大人は「自尊心を傷つけられること」。したがって、死んで潔白を晴らすなどということもある。
 これは、ヒトの脳が発達したために生じる概念であろう。




「捨」のあらまし

 「すべてを捨て、すべてから忘れられる、そして死ぬ」 つまり、これが建前なんですが、どうもなかなか、…… そこで、せめて「身の回りの物や事を整理する。」「不要な物は持たない。」などから始めました。「ものを持たないという幸福には、束縛からの自由」があるようです。

 「六無斉」という言葉があります。この六無斉は、林子平の号です。それは、

 「親も無し 妻無し 子無し 板木無し 金もなければ 死にたくも無し」

によると言われます。なお、版木とは書物を印刷するときに使う原板のようなものでしょう。
 何も求めないということは、むろん金銭や名誉も求めないということです。金銭がないと貨幣経済が発達した今日では、非常に不便です。すべての流通が金銭によって行われるからです。また、名誉は人間の基本的な欲求のようですから、なかなか捨て切れません。空しい気持ちで、謙遜を心がけなければならないゆえんです。

 私は、レオ13世著デランジェラ訳の『けんそんのしおり』を愛読しています。ローマ法王ほどの人でも、そのように考えるかということを多く学べるからです。レオ13世についてはベルツ『ベルツの日記』の中で、その品性と人格について感心をしたような書き方をしていました。


 「太った豚よりも、痩せたソクラテスになりなさい。」と卒業生に言った学長がいました。
 はからいや自尊心を捨てることも大切でしょう。
 ブッダやイエスの場合、そして布施太子やフランチェスコなどを考えてみると何となくわかるようです。
 しかし、ここで「はからいを捨てる」というが、その意識がすでにはからいなのである。
 『マルコによる福音書』に「誰でも私についてきたいと思ったら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私について来なさい。」(8・34)という厳しい記述がありました。


布施太子とフランチェスコ

 布施太子の話をご存じでしょうか?
 王子でありながら、仏心を起こして出家をするのです。最初は、妃(きさき)と子どももいっしょでした。しかし、乞われるままに子どもを布施し、続いて妃まで布施に差し出してしまうのです。何とも凄まじいばかりの求道で、私は思わず鳥肌がたってしまいました。

 フランチェスコの話は有名です。
 ミッキー・ロークというポルノ俳優が演じた『フランチェスコ』も見事でした。リリアーナ・カバーニ監督のこだわりでしょうか、「聖」の字がタイトルについていません。学生時代に見た『ブラザーサン・シスタームーン』とは、また異なった感じでした。カットバック方式で、話題がキアラの思い出をもとにして次々と飛ぶからです。
 フランチェスコは十字軍の遠征から帰ると、すっかり変わってしまいました。すべてを施して、神の道に入ろうとしたのです。なかなか動機がむずかしいのですが、かなりインパクトの強い啓示が遠征中にあったのでしょう。

 私は躊躇(ためら)ってしまう例として、いつも『マタイによる福音書』にある金持ちの男の話を思い出します。「尊(たっと)き先生……」と呼びかけた男です。イエスが、

 <すべてを捨てて、私について来なさい。>

と言うと、悲しそうな顔をして去っていったのです。なぜならば、その男は財産があって、何一つ不自由のない生活をしていたからです。
 ここで、また私は宮沢賢治のことも思い出します。『銀河鉄道の夜』にあるジョバンニの言葉です。それは、「なんでもあげてしまう」です。前に弓月光でしたか、『みんなあげちゃう』というシリーズマンガを全部読みましたが、それとはニュアンスがちょっと異なって、『銀河鉄道の夜』のほうが思想的にはかなり深刻でした。

 さらに、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を読むと、何となく「形も悪く」「つぶれて」「ギタギタになった」「見る影もない」どんぐりがいちばん偉大なのであって、その状態にはなかなかなれないという気持ちがします。
 布施太子やフランチェスコのように、己がボロボロになりながら求道(ぐどう)や求道(きゅうどう)をし続けた人は、あまり多くはないのではないでしょうか。どんぐりや布施太子はともかく、フランチェスコは実在をした人です。


ハワード・ヒューズ

 ハワード・ヒューズ(Howard Robard Hughes 1905−1976)は、アメリカの実業家です。
 いくつかの企業を経営するほか、自演の映画製作事業をしたり、自ら飛行機を操縦して世界記録を樹立しました。つまり、世界的にもトップクラスの有名人で大金持ちだったのです。それが、晩年にはホテルに引きこもってしまったのです。そして、誰にも面会をせずにモルモン教徒の数人の男性が世話をするようになったのです。
 私は、ヒューズ自身が信仰に入ったどうかは知りませんが、いくつかの世界的企業をもちながら、おそらく遁世の道を選んだのだと思います。

 最後は、服もYシャツも靴ももっていなかったと言います。移動するときは、バスタオルに包まれたまま屈強なモルモン教徒の一人に担がれていったということです。また、極端にウイルスなどのバイ菌を恐れて潔癖症になっていたようです。部屋を移動するときは、むろん靴を履かずに新品のティッシュペーパー2つを用意して、左右の足に履いたということです。
 はなやかな過去をもつ世界でも有数の金持ちの晩年に、いったいどのような心境の変化があったのでしょうか。

 当時の貨幣価値で100億ドル以上の金をもっていて、超有名人であったのに引きこもってしまいました。そして、バイキンを恐れて部屋の掃除をさせなかったり、髪も爪も切らずに、排泄をした尿を捨てなかったり、不潔きわまりない状態でした。そんなうちに、とうとう体重が93ポンド(41キログラム)になって、脱水状態になって死んだのでした。

 どうやら彼の目的は、金や名誉などではなく、何とかしてバイキンから逃れることだったようです。なぜならば、有り余るほどの金と世界的な知名度をすでに有していたからです。


 

お金について=金がすべてではない

 『ゼリンスキーの法則』(p222)という本に、

 <お金は悪用されたり乱用されることが多く、賢く使われるほうがまれである。>

という記述がありました。私は、なるほどと思うとともに、自分自身がお金を有効に使う自信がないことに気がつきました。
 お金は「貨幣経済」というように、最初は流通の効率を考えて作られたものでしょう。物々交換の時代には、まだお金がなかったようです。確かに、ないと困りますが多すぎても問題が生じるようです。

 世の中には、お金を増やすことのために生きているような人もいます。お金の額というスケールで、自分自身の生き甲斐を評価するのですから、それはそれでよいのかもしれません。しかし私は、かなり以前から「お金はあまり多く持たないほうが無難だ!」と悟ったのです。そして、なるべくそのように心がけてきました。

 桃井かおりたちが出演した映画に『木村家の人々』というのがありました。守銭奴のような木村家ですが、見かねて祖父が若い息子、つまり孫に諭(さと)そうとします。そのときに、なぜか新約聖書の『テモテへの手紙(第一)』

 <金銭を愛することは、すべての悪の根である。>(第六章10節)

という言葉を引用していたのが印象的です。なかなか見応えのある映画でしたが、物語のディフォルメが非常にうまくできていたので、つくづくと人間の愚かさを知らされる内容になっていました。
 あなたは、ご覧になったでしょうか?

 トーマス=エジソン(Thomas Alva Edison 1847−1931)は、二十世紀最大の発明家と言われます。
 死に際して、1300件以上の特許を所有していて、大金持ちでした。しかし、実際には銀行にいくらあるのかも知らなかったそうです。大金持ちになった後も、エジソンは金に興味を示さず、発明家としての仕事以外に専念したことは、ただ一つしかありませんでした。それは、心霊の世界だったといいます。

 エジソンには、死の間際まで取り組んだ秘密の機械があったそうです。それは、この世を去った霊の姿や声を記録して、彼らとの交信をすることを目的としていたのです。しかし、人間の心に宿っている霊的な「ミクロ人間」と実際に交信ができたかどうかは、記録が残されていません。


対人関係について=ポトラッチ

 人間はそれぞれ考え方も異なっているので、何かをしようとするとうまくいかないことがあります。つまり、もともと競争心があったり、ライバルであったりするのです。さらに、人間は脳が発達をしたために、互いに思惑が激しすぎるのです。そして、利害関係が対立すると小競り合いや闘争になることが多いようです。
 それは個人どうしではなく、国家間のような大きなスケールでも、やはり同じです。戦争が絶えず生じているのは、そのためです。結局は利害関係と言っても、競争心から芽生えたものではないのでしょうか。

 ポトラッチ(potlatch)という言葉があります。
 北アメリカ北西海岸地方のインディアン社会では、自分の社会的地位を高めたり、称号を得るために、客を招いて贈り物をしたりご馳走を出して大きな消費をした饗宴のことです。そして、ふるまわれた客は自分の名誉のために、それ以上の返礼をしなければなりませんでした。かつての日本の農村にもあった風習ですが、愚かといえば愚かなことではないでしょいうか。つまり、人間は相手との関係を気にする愚かな性質があるのです。


孤独に耐える=孤独のすすめ

 孤独に耐えて、その孤独を楽しむくらいでなくてはいけません。
 西行の「松を擬人化して太刀をはかようと考える」話をご存じでしょうか。
 小林一茶の場合も、同じようなことが言えます。
 無に溶け込むことが、慣れてくると容易にできるようになるでしょう。

 永井荷風という人は、孤独を楽しんだような感じがあります。



 上のポスターには、

 <ひとり>の悦楽、戦略としてのエロス、老いへの周到な準備
 --荷風スタイルには今を生きるヒントがある。

とあります。とくに、「老いへの周到な準備」ということは、私(黒田康太)にとっても素晴らしいことだと驚嘆。ぜひ、学んでみたいと考えている次第です。


社会制度と教育制度

 社会制度や教育制度にも、何となくムダが多いようです。理想的な素晴らしい社会制度や教育制度が実施されていると、犯罪などはなくなっているでしょう。また、国が互いに争ったり、戦争が起きることもないはずです。

 考えてみれば、それなりの理由を掲げてはいるものの制度は複雑になっていくばかりです。もっと簡単に、基本的なことだけですみそうですが、やはり万全をはかるために細かい法令が必要になるのでしょう。
 税法などは、かなりわかりにくく複雑になっているようです。また、国や地方公共団体の組織やシステムなども、複雑に分担化をしたために、かえって効率が悪くなっているようです。それは、交通や通信の制度や方法についてもいえることではないでしょうか。

 しかし、そんなことを言っても仕方がありません。なぜならば、自分がその中に入っているからです。そして、教育制度によって学びましたし、社会制度の中に生きているからです。このような事情ですから、せめて自分自身のことだけでも、ムダのない日々にしたいと考えた次第です。
 自分自身の一度しかない人生をムダに過ごすのではなく、有意義に過ごしたいからです。そのようなことを取り立てて考えるのは、やはりムダなことなのでしょうか。
 あなたは、どうお考えでしょうか?


物がありすぎるという愚

 品物を持ちすぎたり、物がありすぎると、一見豊かなようではあるが、その豊かさの反面、煩わしいことも生じてしまいます。『菜根譚』に「物を減らせば、……。友を減らせば、……」というような記述がありました。つまり、そのようにすると煩わしさが少なくなるというのです。
 さらに、具体的に言うと「物を欲しがらない」「物に執着をしない」ことが大切です。


許由・孫晨・顔回

 許由孫晨、そして顔回ほどではないにしても、いつごろからか私も貧乏生活になってしまいました。そして、当初は考えられないようなことがわかってきたのです。それは、簡単に言ってしまえば何とも素晴らしい日々の時間がもてるということなのです。若い時代にあくせくと働いて貯蓄をしたり、物を次々と買っていたことが今になってみると、まったく愚かしいことだとわかったのです。

 そして、なるほど昔の賢人は「それなりに真理を知っていた」ものと感心をしたのです。
 なお、許由と孫晨については、『徒然草』第十八段に記述がありました。また、顔回については第百二十九段に関連記事があります。

(注) 孔子の愛弟子だった顔回は、『論語』の中によく名前が出てきます。しかし、他の文献にもその名前は、残っているのでしょうか?
 ついでながら、パウロの弟子であったティモテも『使徒行伝』以外の文献に、その名前が残っているのでしょうか?
 ご存じでしたら、教えてください。


清貧のすすめ

 <学道の人はすべからく貧なるべし>

といいます。道元『正法眼蔵』にある言葉です。
 私も、20年ほど前から貧の生活をするようになりました。驚いたことに、それまでの生活と比べると経済的には不自由をするものの、気持ちは考えられないほど楽なのです。方丈記に、長明が誇らしげに書いていることが、負け惜しみではないということを始めてわかった次第です。

 パスカルは、

 <私は貧を愛する、彼(イエス・キリスト)もそれを愛されたから。>

と言います。また、別なところでは

 <神のない人間は悲惨である>

とも言いました。
 確か、『パンセ(瞑想録)』の中にあったと思います。つまり、パスカルにとってはイエス・キリストは神であって、その神が貧を愛されたというのです。

 ワーズワースは、イギリスの詩人です。そのロマン主義の作品の詩句に、

 <低く暮らし、高く思う。>

というくだりがあります。これは、清貧の暮らしの中で知的空間に飛翔して、心を豊かに暮らすということでしょうか。
 イギリスにも、そのような人がいたことを知って、何となく親しみを感じます。


現代の遁世=私の不徹底

 あまり科学が進んでしまうと、自給自足ができない環境になってしまう。完全に支配をされた管理社会の中にいると、もはや遁世などは不可能であろう。すでに、日本人は自己家畜化されてしまったようだ。そこで、精神面だけでも何とか遁世の状態を作ってみたいものだ。

 だいぶ以前のことであるが、唐木田の高齢者福祉センターに行ったときに、次のような相談を受けた。

 <お金もある程度たまったし、子どもたちも大きくなって三人とも独立をした。そこで、余生の住処(すみか)として津久井湖の湖畔に家を建てたいと思うのだが、……>

 私は、「それよりも都会のマンションで静かなところがよいでしょう」と答えた。さらに、できるならばホテルなどに常住することであるが、費用の関係でなかなか無理ではないかと思うとも答えておいた。ハワード・ヒューズや岡本太郎は、そのようにしていたようだ。

 実は、私も貧しくはあるが、そうしているのである。ホテルはとてもできないので、公団の賃貸住宅である。
 聖蹟桜ヶ丘駅から3分のところにあり、超高層でてっぺんにヘリポートの付いている30階くらいある建物の12階の一室に、妻と二人で住んでいるのだ。阪神の大地震があった翌年に起工しているので、設計の大変更をして強度を増したともいう。とにかく、がっしりとした建物です。

 雨の日にも傘なしで駅まで行けるし、またスーパにもそのまま行けるのでとても便利である。そして、何よりもよいことは友達がよく尋ねてくれることである。同じ建物(というよりか同じ番地)に市役所の出張所があって、そこに大きなロビーがある。そこを自分の客間のように使えるのでありがたい。

 日に3回、近くの寺で鐘が鳴る。鳶(とび)がピーヒョロロと鳴く。側(そば)を流れている大栗川の上を飛ぶ大鷺(ダイサギ)や小鷺(コサギ)が目の高さで行く。晴れた日には、富士山がくっきり見える。駅には、特急も止まる。大きな書店や家電店もある。また、新宿にも出やすい。
 そんな環境で、あやしげな遁世をしているのだが、『方丈記』の鴨長明の捨てぜりふではないが、こつがいの身でもすばらしい環境なのである。

 自分自身の身体が借り物であるから、公団の賃貸住宅などなんでもない。が、家賃がべらぼうに高いことと室内にスプリングクーラーが付いているのは、何となく困ったことだ。そんなわけで、私の遁世は徹底していない。世の中をきょろきょろ見ながら、遁世ぶっている次第である。ちょっと、それは『徒然草』の卜部兼行の生き方にも似ているのかもしれません。

 もう30年以上も前に、丘永漢(きゅうえいかん)という人は、

 <老いたら田舎に引っ越すのではなく、都心のデパートの隣のマンションのほうがよい。>

と経営の本に書いておられた。もしかしたら、私もそんな意見に同調させられたのかもしれません。


ボヘミアン=ソーロー、ペスタロッチたち

 ヨーロッパでは、俗世間の掟や決まりに従わないで放縦な生活をする人がいます。芸術家などに多いのですが、ホームレスのような人もいるようです。ボヘミアンはボヘミアからできた言葉のようですが、ドイツ語のベーメンにあたります。

 ソーロー『森の生活』などは、一つの試行的チャレンジではないでしょうか。
 「ゼリンスキーの法則」というのがあって、それに「働かないことのススメ」というのがありました。
 ソーローの試みやペスタロッチ『隠者の夕暮』のようにはいかないでしょうが、それでも隠遁者のような生活も可能です。しかし、現代でそれを実行すると、何となく引きこもりのような状態になってしまうようです。

 卜部兼行(うらべ けんこう)や鴨長明(かもの ちょうめい)のような生活は、貧しくとも心が豊かですから、非常に幸福です。そして、近年になってからは徳富蘆花国木田独歩、そして中西悟道たちは、やはり同じような方向を志向したのではないでしょうか。

 ロシア映画で、黒澤明が監督をした『デルス・ウザーラ』という名作がありました。その主人公デルス・ウザーラは、まさしく「森の生活」をしていたのです。そして、視力が衰えてその末路に向かうのです。自然児でいるためには、五感が非常に大切だということを物語っています。素晴らしい映画ですから、まだご覧になっていない人はぜひ見ていただきたいと思います。

(注) デルス・ウザーラは、ゴリド人です。背はあまり高くなく、がっちりとした体型です。どっちかというと、ちょっと太った感じを受けます。森を放浪して生活をしていたのですが、ロシアの測量隊と出会います。そして、奥地のガイド役を引き受けたのです。ある日、夕空に太陽と月がかかっていました。そして隊長(映画では「私」になっている)に
 「キャピタン、あれ一番えらい人」
と言います。そして、月を指さして、
 「次にえらいのは、あれ」。
 測量の長い旅が終わって、ウザーラもハバロフスクの隊長の家に来ました。そして、窮屈な生活をして弱っていきます。住宅地ですから、鉄砲も撃てませんし、街を放浪するのも御法度です。
  「鉄砲、撃つ、悪い?」「わし、息がつまる。」「街で寝るのも悪い?」
などと文明に対する鋭い批判が、独り言(ひとりごと)で出てきます。
 隊長から新品の鉄砲が送られ、それを持って山へ戻る途中に、その鉄砲を盗もうとしたものに殺されてしまうのです。死体の検証に隊長が行って、思い出すところで映画は終わっています。
 何となく、ツイアビの『パパラギ』にまで、想像が馳せる内容の映画だったと私は思います。

 なお、ペスタロッチについてはこのページの
   「「無」について」章の「ペスタロッチの無の意味」節
もご参照ください。

 また、森の生活ではなく南洋の島などに行って、そこに住み着く人もいます。
 例えば、画家のゴーギャンはタヒチ島にたどり着き、そこで自然と原始への回帰を試みようとしたようです。
 さらに、エックハルトのように現在の場所で活動を続け、束縛から「離脱」をして、心の平安と自由を求めようとした人もいます。つまり、世を捨てたり、隠者となって山や森に入ったり、荒野で独居をしたりしないで、その状態のままで隠遁をしようという試みなのでしょう。


持ち物について

 私は貧乏なせいか、持ち物があまりありません。住んでいるところは公団の賃貸住宅ですし、自動車はもっていません。むろん、免許証は大型と自動二輪があって、かつては2台も車をもっていたんです。それが考えが変わって「無所有」を求めるようになったのです。そんなわけで自動車は、はやばやとやめてしまいました。免許証が惜しいような気もしたのですが、それは身分証明書として利用できますので、せめての慰(なぐさ)みでそのために資格更新などはちゃんとやっています。

 家具類などはきわめて少なく、電子レンジなどもありません。テレビでさえも買って見るようになったのは、5年ほど前のことです。妻が仕事をしなくなってからのことです。ちょっと手持ちぶさたになってしまって、あまりにもかわいそうであったからです。しかし、新聞はまったく取っていません。むろん、妻と違って私は今でも、ほとんどテレビや新聞を見ないのです。

 目があまりよくないので、パソコンだけでもうんざりなのにテレビまでは見る気にならないからです。2時間以上、パソコンやテレビを見ていると目が痛くなってくるのです。

 いまでもずっと同じ考えなのですが、「すでに持っているものは、すべて使って終わり」と諦めていました。なぜならば、自分自身の身体さえもガタピシでいつ壊れるかわからない状態だからです。したがって、ことさらに新しい複雑なものを欲しいとは思わないのです。しかし、実際にやってみるとテレビも新聞もない生活は、なかなか静かでよいものです。ニュースは在宅時には、お昼のFM放送で聞くようにしています。

 近くの寺で正午の鐘が鳴るので、同時にラジオをつけるのです。
 実はパソコンもなかったのですが、2年ほど前(2003年3月)に仲間に勧められてホームページを始めるために買ったのです。本当は薦められたというよりか、ホームページの作成を押しつけられたような感じで、パソコン一式を買って、仕方なく渋々と始めた次第なんです。

 目が悪いこともあって、テレビや新聞を見ないんですが、パソコンは何とか続けなければなりません。しかし、2時間以上すると目が疲れてしまって、肩まで凝ってくるので困ります。いままでのいきさつについては、このホームページにある「プロフィール」をご覧ください。


 

この身は借り物?

 考えてみると、自分自身が借り物であることが何となくわかります。つまり、80年レンタルと考えればよいのです。
 粗末に使うとレンタル期間の前でダメになることもありましょう。また、レンタル期間を無事に過ぎて無償サービス期間になって、料金無しで利用できるかもしれません。そのような考えになると、住宅などを購入するのがあまり意味のないことと思われてきます。

 つまり、レンタル車を入れるために立派なガレージを費用をかけて作ることです。そこで、住むところも身体に見合うように公団の賃貸住宅にしたのです。身体のことについて無考えで何も知らなかったときは、私も大きな家に住んでいました。鉄筋の総二階の家や100坪ほどの家でした。しかし、考えてみると自分自身を入れるのに必要な広さは限られています。
 そんなわけで、子どもが独立をしてしまった後は、小さな部屋でじゅうぶんに満足をしています。そして小さいところのほうが、なぜか心が安らぐのです。

 また、還暦を過ぎたころから、「ぼつぼつ身の回りの整理の時期」かなと思いました。そして、それまでにあった不必要な大量の持ち物を処分して、狭いところに引っ越したのです。そして、さらにここのところまだ残っている小物や資料などを整理し始めている次第です。
 若い時代はともかく老年になってみれば、物を持ちすぎると生活があわただしくなって疲れてしまいます。そんなことは、若いころには夢にも思いませんでした。しかし、最近になってしみじみとわかり始めてきました。人生の残り時間が、砂時計のようにさらさらと確実に減っていくときに、何をしなければいけないかが遅まきながらうすうすとわかってきたのです。


捨てるということ

 最近になって、ぼつぼつ身の回りのものを整理し始めました。還暦を過ぎたら、生活を清楚にして身を楽にしたいと考えたからです。めったに使わない道具や今後おそらく読まない本などは、すべて処理をしてしまいました。日々の生活の中に情報があまりにも多く、その処理だけでかなりの時間を費やしてしまいます。そして、何をしても時間が足りないので中途半端なことしかできません。

 したがって、積極的に物事をした若い時代とはだいぶ異なってしまいました。ホームページもそうでしたが、自分に求められたことだけをするような生活になってきました。とくに60歳台の後半になりますと、疲れやすく飽きっぽくなるようです。そんなわけで、あまり動き回るのではなく、静かに考えるような生活にしたいものです。
 そんな意味で、生活に不要なものを思い切って捨てるようにした次第です。

 ほう居士の故事なども考えて、持ち物を少なくしたほうがよいのではないでしょうか。
 整理をすること、つまり捨てるということについて

(1) 自分にとって本当に必要なものは何か?
(2) 最小限の必要なものは何か?
(3) それがなければ自分自身の意味がなくなってしまうものは何か?

のようなチェックポイントをもうけておくと、作業がスムーズに進んでよいでしょう。
 そのようにして最終的に残されたものは、氾濫をしている今日の情報や芸術の中で、自分自身の心の慰めになるものが選ばれたことになります。つまり、それらは自分の心と同期・共鳴するもので、あわただしい現代にあっても自分自身には必要なものとしてあり続けるのです。そして、それらのものはあまり多くはないでしょう。


ほう居士の故事

 ほう居士に関する記述は、『正法眼蔵』『正法眼蔵随聞記』に見られます。作者が違いますので、それぞれ違った切り口で人物が描かれています。道元が何となく冷たい目でほう居士を見ているのに対し、懐奘(えじょう)はとても暖かい目でほう居士の故事を留めています。
 それは、『正法眼蔵随聞記』の中にある記述です。

(注) ほう居士の「ほう」という字は、「まだれ」の中に「龍」と書きます。つまり、「麻」という字の「林」の部分が「龍」なのです。しかし、なぜか私のパソコンでは出てきません。もしかしたら、常用漢字でないかもしれないからです。

 ほう居士が、参禅をしようと決心をしました。そして、家財道具をすべて荷車に積んで海の崖(がけ)になっているところへ、うんうんいって運んでいます。何をしているのかと聞くと「この品物を海に捨てるのだ。」と答えます。聞いた人は、「もったいないから、それを施しにでもしたらどうか。」と言います。
 しかし、ほう居士は「自分が身のためによくないと思って、処分をしようと考えている。それを誰かに施しても、その人が迷惑をするだろう。」と言って、すべてを海に捨ててしまいました。

 私も果物などをいただくと、そのまま不燃物のところに捨ててしまいます。住んでいる建物が超高層で、ゴミなどは専用タンクがあります。投入口には鍵が付いていますが、住民なら誰もがいつでも使用できるので便利です。
 見事なほど大きくなった桃や梨を段ボールの箱から取り出して、そのまま投入口に入れます。そして、パッキングは別の不燃物の投入口に、段ボール箱は折りたたんで専用のトレイに捨てるのです。むろん、それを誰かに見られることがあります。また、監視カメラが付いていますから、管理室からは常に見られているのです。

 見事なアレキサンドリアやメロンなども捨てているので、不思議に思う人がいるようです。果物は大好きですから、むろん桃や梨、栗なども買います。ただし、無農薬や低農薬のものを決まったところへ注文をして取り寄せているのです。だから、いつも食べているものよりも一回り以上も大きく、形が見事なものを捨てるのはちょっと残念です。また、誰かにあげたいというような誘惑にかられることもあります。
 しかし、農薬と殺虫剤をふんだんに使用した見事な果物を食べる気にはなりません。

 栗なども、無燻蒸といってスーパーなどに流通しているものとは違った行程のものを注文して食べます。無燻蒸ですから、ときには虫がいることもあります。しかし、それでも安全ですからおいしくいただけるのです。
 また、お米なども私は玄米が主食ですが、ときどき底のほうに生きたコクゾウムシがいたりします。最近のお米には、ものすごい消毒の行程がありますから、ふつうの流通行程で買ったものにコクゾウムシがいたりすることは、まずないでしょう。しかし昔は、コクゾウムシがいるのがふつうでした。
 ちょっと、ほう居士の居士から話がそれました。ここで、閑話休題をしましょう。


捨聖(すてひじり)

 一遍(いっぺん)は「捨聖(すてひじり)」と呼ばれました。
 なぜならば、一遍聖人の考え方は「一切を捨てて、ただ念仏を続けて死を迎えよう」とするものだったからです。日本の開教祖師のなかでも、一遍がいちばん釈迦に近い生き方をしたと言われます。
 彼は、家・妻・子を捨てて、日本国中を称名念仏をして歩きました。また、一遍には寺もありませんし、著述もないのです。つまり、すべてを捨て去ったからです。そのような人が、かつていたこと自体に私は驚嘆いたします。




「無」のあらまし

 「はからいを捨てる」というはからいも捨てる。つまり、あるがままにある。独自な自分自身である。それでいて、少しも全体の秩序を乱さないのである。
 無我、夢中、無心、無理、無口、無言などという言葉。
 自分自身が無という認識をする。
 大自然に溶け込んだ状態になる。

  シェークスピア『アテネのタイモン』五幕一場に、

  <無こそが、すべてのものをわたしにもたらす。>

とありました。「すべてのもの」とは、いったい何でしょうか。
 人間の愚かさについては、まったく絶望的です。もしかしたら、無こそが愚かさに繋がっているのかもしれません。やはり、シェークスピアの『真夏の夜の夢』では、

  <まったく、人間とは何と愚かなんだろう。>

と嘆息しています。
 私は、社会通念や競争なども捨てたのです。執念も捨てて、無になろうとしているのです。つまり、宇宙に溶け込んだ自然な状態になりたいのです。しかし、凡庸なためかなかなか実現ができません。うすうす気づいたことは、無に近づくよろこびや楽しみが、かなり大きいということです。
 そしてそれは、物を増やしていくこととは、異質な充足感があるように思います。今後、大いに精進をしなければいけないところです。


無と空=「無」と「空」の概念

 無と空について、大雑把に考えてみましょう。
 まず、無は「ない」という意味で、有に対する反対の概念ということを理解してください。つまり、二進数の「0」と「1」の意味なのである。
 それに対して、空はあってもなくてもどちらでもよく、そのすべてを含む概念です。つまり空は「カラ」や「むなしい」ということではなく、空気のようなものをいう。なぜならば、空気は静止していると感じません。しかし、移動をするときに風となり、それがわかる。

 <風は東に吹き、西に吹く。またあるときは南に吹き北に吹く。>

 旧約の『伝道者の書』にある「空なるかな空」とは「むなしいことのむなしさ」というよりも、むしろ「何もないように見えるのが空の状態である」というような意味でしょう。
 それに対して『般若心経』にある「五蘊みな空なり」とは「五蘊、つまり宇宙のあらゆる存在を構成するものは、もともと空である」という意味であろう。そして、その空とは……


『般若心経』の「空」

 『般若心経』については、別ページをご覧ください。


『伝道の書』の「空」

 旧約聖書に『伝道の書』という特異な本があります。『コヘレットの書』といわれることもあって、それはソロモンが話している形式にした文体で、人生に関するさまざまな問題を吐露しているのです。とくに、時間や時については、鋭い観察が見られます。


無は生有るものなり

 <無有v生者也。>(無は生有るものなり。なお「v」は「返り点」、つまり漢文を読むときの「レ点」です。)

 孫引きで恐縮ですが、「西医学健康原理実践宝典」(323ページ)に

   漢誰縣華陀元化撰『華陀神医秘伝』巻一の7ページ

にある言葉だそうです。
 これは、ここでも非常に大切な概念をもっているので、改めて記しました。
 華陀(かだ)は思想家ではなく、名医だったからです。そして、魏の武帝が侍医にしようしたが応じないので、殺されてしまいました。
 なお、華陀の「陀」は「にんべん」を書く場合もあります。


エックハルトのいう無所有とは何か?

 簡単に考えると最低限に必要なもの以外は、何も持たないという状態ではないでしょうか。
 エックハルト『エックハルト説教集』に、

 <無所求、無知、無所有>

というような奥行きの深い言葉を残しています。
 ものを持ちすぎるということは、人体に例えていうと肥満の状態なのです。あまり太りすぎると、身動きをするのも息苦しいほどになってしまうでしょう。

 また、『エックハルト説教集』には

 <自分自身を脱ぎ捨てるということについて>

というタイトルで、『ローマ人への手紙』(第一三章14節)からパウロの言葉を引用して、

 <最も低いものが最も高いものに向かい合っていると、最も高いものが最も低いものへいつでも流れ込むというのが自然なことである。>

と書いている。そして、

 <あなたが望めば、いっさいの事物も神も、あなたのものとなる>

と結論を結んでいるのである。これは、なかなか素晴らしいことではないか。

 <捨て去るということの意味について>

というタイトルでは、

 <あなたはそういうあなた自身を捨て去らなければならないのである。しかも完全に。>

と書いて、さらに

 <自分自身を捨て去った人は、真に純粋であり、この世が彼を苦しめることはもうない。>
 <神はすべてのものに等しく与える。しかし、すべてのものはそのわざにおいては全く異なるのである。>

とも述べている。
 これも、なかなか素晴らしいことである。
 エックハルトは心の自由と平安の問題を取り上げて、苦しみや悲しみの中でもそれを越えた<離脱>の境地を説いている。しかし、なぜか教会から異端者として遠ざけられ、無視をされてきた事態が長く続いたようだ。

 私(黒田康太)は、エックハルトから中国の顔回、許由、孫晨などの名前を思い出す。そして、鴨長明や一遍、さらには橘曙覧などに思いが馳せるのである。なぜならば、私にとって現時点では「物や金でなく、安心が必要である」からである。その理由は、自分が何となく、「経済は一流、文化は二流、そして政治は三流の国」に住んでいるからであろう。


ペスタロッチの無の意味

 ペスタロッチは墓標に、

 <すべてを他人の為に、おのれには無>

と記したそうです。
 ペスタロッチ(Johan Heinrich Pestalozzi 1746−1827)は、スイスの教育家です。ルソーやカントの影響を受けて、孤児教育や小学校教育に生涯を捧げました。『隠者の夕暮』などを残しました。
 彼の墓標にある「無」の意味は、どういうことなのでしょうか。


無を求めた人=乃木希典

 乃木希典(のぎ まれすけ)は、すべてを犠牲にしていっさいの利益を捨てました。そして、そのことで名を得たのです。実際には、利を求めないばかりが、名も求めてはいませんでした。
 若いころの怠惰な性格も、自分自身で反省して直していけるもののようです。


「無意味」の意味

 同じような意味合いの言葉に「無智の智」というのがあります。
 これは、ソクラテスもいった言葉です。ソクラテスの場合は、「知らないということを自分は知っている」というような意味です。
 しかし、「「無意味」の意味」は非常に深い概念です。

 「何かをしなくてはいけない。」「人生には、目的をもたなくてはいけない。」などという一種の脅迫概念は、おそらく人間だけがもつものでしょう。人間には、意味づけをする悪い癖があるからです。すでに、基本的なものを持っていたり、達成しているのに果てしなく次々と求めていく愚を改める心のゆとりさえないのです。


空の概念=目立たないことの意味

 空の概念は、無の概念と密接な関係があります。あるいは空は、タブララサと考えてもよいでしょう。何もないのではなく、「白紙の状態がある」のです。

 現代の常識とは異なって、このシステム教の概念では目立たないことが最高・最善の状態なのです。つまり、理想的な状態が「空の状態」なのです。そして、その「空の概念」を身につけるのが人生の目的とさえいえるでしょう。
 例えば、『葉隠』では忍ぶ恋が最上だといいます。つまり、それ自体が空に溶け込んでいるからでしょう。自分の立場からいうと、それでは何のための恋かわかりません。しかし、相手を含めて大きな時点で考えると、そうなるのかもしれないのです。

 レオ13世『けんそんのしおり』などを読みますと、まったく意味がわからないほどにへりくだります。それは、目立たないことを意図しているようです。キリスト教のアモン派(アーミッシュ)の人たちも、そのように考えているようです。
 日本の宗教家では、親鸞が目立たないことを心がけていたようにも思うのですが、いかがなものでしょうか。


生活を小さくしていく時期

 老いてきたら、少なくとも広げる時期ではない。(金儲け、有名人、活躍など)
 預金口座の数、契約プロバイダの数。
 整理整頓をして、どこに何があるかを明白にする。


最後の最後

 何のことはない。「死」「捨て」「無」などと言ってみても、単に脳が満足をする「心地よさ」を求めていただけなのかもしれません。宇宙空間に溶け込んだ感じは、なんとも言えない「心地よさ」だからです。仏教でいう悟り(ニルヴァーナ)の境地が、おそらく私が考えていたものなのでしょう。

 アプローチの方向が違っていますから、私は「悟り」そのものは体験していません。しかし、それと同じ状態の「心地よさ」には到達したと思います。それは、宇宙空間を漂っている感じなのです。また、何かに見られているようにも感じました。おそらく、その気配は自分自身が自分自身を見ていることによるものでしょう。

 自分の回りの境界をなくして、宇宙に溶け込む。最初は、はからいがあるのでなかなか具現しません。しかし、慣れてくると簡単です。そして、そのようにすると束縛のない自分自身が得られ、自我が消滅して、いわゆるニルヴァーナと似た状態が得られるのです。
 そのときに、自分自身でありながら自分自身でない脳の存在をどう配慮するかによって、実現が可能になりうるかそうでないかの分岐点が生じます。そのことは、個人差があるのでなかなか難しい問題になることがあります。

 もしかしたら、「何も言わないで、何も残さない」のがよいのではないかと考え始めました。つまり、歴史から消えて死んでいきたいのです。歴史に名前を残そうとするのは、あたかも絨毯(じゅうたん)にしみを付けたまま去ってしまうのに似ているのではないでしょうか。後世の評価を気にするなどというのは、まったく無意味なのです。

 それは、脳のもたらした幻影なのかもしれません。
 貧しかった時代に、例えば『孝経』のように「将来は大臣になったり、大将になるのが親孝行の終着点である」というような意味の教育、つまり動機付けがなされた時代が長く続きました。しかし、一人一人の人生観、価値観、そして考え方、宗教などは、自分なりに作ればよいのです。
 このホームページなども、その意味では無意味なのかもしれません。


Kuroda Kouta (2004.09.21/2011.01.30)