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 私のキリスト教(サマリー)


  はじめに

  ○はじめにのはじめに大風呂敷
  ○聖書に関する私(rik こと 管理人)の個人的大仮説1
  ○聖書に関する私(rik こと 管理人)の個人的大仮説2
  ○なぜキリスト教なのか?
  ○神さまと創世記=アダムとイブ
  ○ビリケンや弁天さま、そしてラムセス二世
  ○妬(ねた)む神と愛の神=旧約の神さまと新約の神さま
  ○神と人間と悪魔
  ○ソドムとモゴラ
  ○聖書の巨人
  ○エノクとUFO
  ○近親相姦の構図
  ○リストラやオナニーという言葉
  ○聖書の言葉や地名・人名
  ○聖書のたとえ話
  ○割礼の意味
  ○キリスト教の歴史
  ○江戸時代の邪宗門
  ○エホバ 物売りお断り
  ○イエスという人
  ○ハナミズキと黄色い十字架
  ○エゴーエイミー
  ○ヒレルの言葉
  ○聖書の暗号
  ○キリスト教の愛
  ○イエスはいつも私のよろこび=『こころと口と行いといのち』
  ○作られた聖人?
  ○イエスの弟子たち
  ○イエスと民衆たち=ホサナと十字架
  ○イエスの子?
  ○キリスト教と仏教
  ○キリスト教やユダヤと日本
  ○聖書の医者
  ○十三日の金曜日と六六六
  ○死について
  ○死海文書とグノーシス文書
  ○外典と偽典
  ○日本の信者(内村鑑三ほか)
  ○芥川龍之介と新約聖書
  ○太宰治とキリスト教
  ○キリスト教関係の創作
  ○教典の大きさ

  旧約聖書の体系

  ○旧約聖書の内容
  ○『創世記』
  ○『出エジプト記』
  ○『レビ記』
  ○『民数記』
  ○『申命記』
  ○『ヨシュア記』
  ○『士師記』
  ○『ルツ記』
  ○『サムエル記』(一)(二)
  ○『列王記』(一)(二)
  ○『エズラ記』
  ○『ネヘミヤ記』
  ○『エステル記』
  ○『ヨブ記』
  ○『詩篇』
  ○『箴言』
  ○『伝道の書』
  ○『雅歌』
  ○『イザヤ書』
  ○『エレミヤ書』
  ○『哀歌』
  ○『エゼキエル書』
  ○『ダニエル書』
  ○『ホセア書』
  ○『ヨエル書』
  ○『アモス書』
  ○『オバテヤ書』(アブディアの書)
  ○『ヨナ書』
  ○『ミカ書』
  ○『ナホム書』
  ○『ハバクク書』
  ○『ゼバニヤ書』
  ○『ハガイ書』
  ○『ゼカリヤ書』
  ○『マラキ書』
  ○『シラの書』(旧約のカソリック版)
  ○『ソロモンの知恵』(旧約の外典・偽典など)
  ○『ベンシラの知恵』(旧約の外典・偽典など)
  ○『エノク書』(旧約の外典・偽典など)

  新約聖書の体系

  ○新約聖書の内容=福音書という言葉
  ○『マタイによる福音書』
  ○『マルコによる福音書』
  ○『ルカによる福音書』
  ○『ヨハネによる福音書』
  ○『使徒行伝』
  ○『ローマ人への手紙』
  ○『コリント人への手紙』(一)(二)
  ○『ガラテヤ人への手紙』
  ○『エペソ人への手紙』
  ○『ピリピ人への手紙』
  ○『コロサイ人への手紙』
  ○『テサロケニ人への手紙』(一)(二)
  ○『テモテへの手紙』(一)(二)
  ○『テトスへの手紙』
  ○『ピレモンへの手紙』
  ○『ヘブル人への手紙』(『ヘブライ人への手紙』)
  ○『ヤコブの手紙』
  ○『ペテロの手紙』(一)(二)
  ○『ヨハネの手紙』(一)(二)(三)
  ○『ユダの手紙』
  ○『ヨハネの黙示録』
  ○その他(新約の外典・偽典など)

  キリスト教の人々

  ○マリアとユダ
  ○ルカ
  ○パウロ
  ○フランチェスコ
  ○ペラギアとドミニナ=自殺をした二人の女性

  イ短調愚問集     

  ○なぜイ短調愚問集なのか?
  ○賢い神さまと愚かな民(旧約聖書関係)
  ○天国その他(聖書全般)
  ○先生と弟子たち(新約聖書関係)


○はじめにのはじめに大風呂敷

 私は宗教、とくにキリスト教に対しては、非常に変わった意見をもっています。
 それは、なかなか証明がしにくいことで、単に私の推論・試論の域でしかありません。つまり、単なる私論なのです。
 また、仮説と言ってもよいほどに、あまり根拠を示せない内容のものです。
 だから、それを言っても始まらないので、このページでは以下「○なぜキリスト教なのか?」からは、その仮説をあまり前提として考えない範囲で、それなりの意見を申し上げましょう。

 でも、かつてそれがどういう内容かと、私に問うた人がいました。
 そこで、恐る恐るそのときにした説明のあらましを、ここに簡単にメモしておきましょう。


○聖書に関する私(rik こと 管理人)の個人的大仮説1

 私は、「新約聖書にある福音書は、小学生が習作として作った書物」だと思っているのです。
 つまり、子どもの思いつきの作品なのです。そして、さらに「マルコ」「マタイ」「ルカ」の三福音書は、同じ作者が次々と作ったものと考えます。
 ただし、「ヨハネ」については少し年上の別な子ども、おそらく姉か兄にあたる子ども、つまり中学生か高校生くらいの年代が作ったのではないかと、薄々(うすうす)思うのです。
 なぜ、そのようなことを考えるかというと、今までに1000回くらい読んでみて、次第にそう感じるようになったからです。

 ただし、ここで「子ども」と言っても、私たちが想定しているイメージとはかなり異なります。
 異星人というか、神と呼ばれていた存在か、いずれにしても私たち人類とは異なるいわゆる知的生命体です。そして、その知的生命体は、人間とは比較にならないほどに高度な知能をもっていて、彼らの科学などは想像もつかないほどに発達しているのでしょう。

 例えば、時空つまり「時間」と「空間」についての知識などです。
 時間に関しては、1955年にアルバート=アインシュタインが言った

  <過去と現在と未来との区別は、いかに根強いと言っても、単なる幻想に過ぎない。>

というようなことは彼らの場合、子どもでさえ常識を通り越して、すでにそのコントロールさえも可能にしていると見受けられます。

 いっぽう、旧約のほうはいわゆる大人の書いたものです。
 ここで大人と言っても、せいぜい高校生くらい。なぜならば、モーセ五書の原文に暗号などを隠しているからです。そのやりかたは、私たちがクロスワードパズルを楽しむような方法で、です。
 また、モーセ五書は原型の聖書で、単語と単語の間の空白を除くと30万4千8百5文字あるといいます。これは、和訳されたものを私自身が実際にインプットしてみても、かなりの大きさだということがわかりました。
 したがって、私は「小学生の作品ではない」と考えた次第。また、その内容からも。

 この驚天動地・支離滅裂な考えに及んだときに、実を言うと自分自身でも疑心暗鬼になったものです。
 しかし、私は次のようなことを考えて、さもありなんと納得をした次第。

(1) 局地的には文明を誇ったマヤなどがポルトガルだったか、スペインだったかに滅ぼされた歴史的事実。

(2) フェゴ島だったか、ダーウインが探検をした島の原住民は、角砂糖一つでたいがいのことをしてくれた。

(3) パガニーニのヴァイオリン協奏曲を演奏不可能と考えたり、サラサーテの『チゴイネルワイゼン』を超技巧の曲と考えた時代のこと。後に、カール=フレッシュなどが教本を書き、技法の研究が進んだので、現在はNHKの「趣味の講座」などで弾く小学生がいる。
 もはや、ヴィオッティから連綿と続いた系統はなくなってしまったようだ。

(4) 日本の鉄道建設に携わった外国人、つまり英米の技術者たちが、ダイヤを隠した。日本の技師は、どうしてそのような運行計画ができるのかを長い間、不思議に思った。

(5) 広大な養鶏場で飼育されているニワトリが、将来フライドチキンになることを知っているだろうか。でっぷりとして、完爾しているサンダーさんの計画など、おそらく知るよしもあるまい。

(6) そんなに飛躍しなくても、将棋をやってみるとわかる。
 同じ駒、同じ盤面でも、有段者クラスとど素人では大違い。やってみると、想像も及ばない展開をしてくる。
 そして、けちょんけちょんに負けてしまう。


○聖書に関する私(rik こと 管理人)の個人的大仮説2

 私は、宗教は単なる道具にすぎないとも考えます。そしてその道具とは、支配者が被支配者をマインドコントロールするためのものです。したがって、そのような内容にマッチさせるようになっている箇所が多いのでしょう。
 しかし、科学が進んで宗教では制御が効かなくなってきました。すると、今度はその科学でもってマインドコントロールをしようとします。「教育」という制度によってです。だから、いつまでたっても、人間の社会には争いが絶えないという現実が残ります。

 確かに現在の『聖書』は、素晴らしい内容です。
 「新約聖書」の前に「旧約聖書」が、不自然ながらコンビネーションしてあるのも、何となくわかります。また、「旧約聖書」が最初の「創世記」はともかく、「出エジプト記」からはかなり歴史的事実に基づいて書かれていることもわかります。しかし、そうは言っても考えれば考えるほど、何となく「テキスト化したツール」じゃないかと揣摩臆測するのは、不真面目な私だけでしょうか。
 とにかく、邪悪とまでは言いきれませんが、人為的というか何らかの意思の働きを感じるのです。人為的という言葉が正しくなければ、神がかり的と言ったほうがよいかもしれません。
 そしていったい、誰がそんなことをするのかと問われると、私は恐る恐る「フィアフィル魔亜尊」という実態を考えざるをえないのです。

 以上の二大仮説については、詳しく書くとものすごい大きさになるでしょう。
 この箇所も、ある程度お読みになった人が納得できるようにしておかなければなりません。しかし、それは将来のこととして、今日(きょう)はこの辺でやめておきましょう。


○なぜキリスト教なのか?

 ここで、今後の考え方の基礎になるように、何とかキリスト教の勉強をしておこうと思います。ご承知のとおり、いわゆるキリスト教は難題で、なかなか理解することができません。
 そこで、自分なりに考えたことをまとまておきましょう。

 まったく関係のないことであるが、書物狂(bibliomania)の語源は聖書(Bible)である。

 また、私は直感的に次のようなことを考えるようになった。
   神(とあいまいに呼ばれている生命体のようなもの)は、永遠の命をもっているみたい。
   しかし、その神は、人間には永遠の命を与えなかった。
   神は、かなり大きな身体らしい。人間は、神と相似形をしているが、神と比べると小さい。

 さらに、

 <信ぜよ、しからば与えられん>

というような記述は、何となくキリスト教が信仰を救済の交換条件としているように思う。したがって、キリスト教が作られる以前の考え方などを知る縁(よすが)ともなるでしょう。
 そしてまた、キリスト教やユダヤ教などのセム系の宗教が、霊肉の分離を説く二元論を採用したことも、大いに考えさせられるテーマなのです。


○神さまと創世記=アダムとイブ

 神さまが、「この世のすべてをお作りになった」と創世記には書いてあります。確かに、その通りかもしれません。現代の科学では、生命を合成することも満足にできていないからです。

 とにかく、第一号の人間であるアダムは神さまの似姿をモデルとして作られたようです。土から裸の姿で作られましたので、もしかしたら神さまも裸であられたのかもしれません。偉大な方ですから、身体を着飾る必要などはまったくないのでしょう。

 私は、人類の祖先がアダムとイブであることについて、とくに異論はありません。
 突然変異のY染色体を調べると、実際の家系がわかるらしい。例えば、アメリカの第三代大統領ジェファーソンの祖先は、ヨーロッパ系ではなく、カナン人だったといいます。
 アダムが生まれたのは、6万年前。そして、アダムはヨーロッパ人ではない。ジェファーソンはヨーロッパ人の顔をしているが、…… それはともかく、そう考えると聖書によって描かれた絵は、ほとんど違っていることになってしまう。


○ビリケンや弁天さま、そしてラムセス二世

 戦後の一時期に、アメリカの「福の神」ということで「ビリケン」が尊ばれたことがありました。なぜか、頭の先が尖っている神さまでしたが、やはり裸でした。たまたま陸相 寺内正毅元帥の頭の形と似ていたので、寺内内閣までがビリケン内閣と言われたのです。「非立憲」(ひりっけん)という言葉をもじった意味も、あったようです。

 もっとも、日本でも七福神の「弁天さま」は女性であられますが、ほとんど裸同然のお姿です。しかし、蛇にそそのかされて智恵の実を食べて、前部をかくしたエバよりもあけすけではなく、薄手の何かを羽織っているようにも思うのですが、……
 それはともかく、旧約聖書の最初の『モーセ五書』の内容は、実に素晴らしいものです。

 堂々として、かなりの説得力があります。
 ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教が教典にしていることが、なるほどと頷(うなづ)けます。
 そしてさらに、その原典には恐るべき暗号が隠されているともいいます。
 本当なのでしょうか?


 また、記述自体に関しても理解できないことがあります。
 それは、モーセたちが渡った水の退いた海底の道を追って、紅海を渡ろうとしたら水が戻って溺死をしたとうラムセス二世のことです。そんなことが「旧約聖書」には書かれている一方では、きわめて保存状態のよいラムセス二世のミイラが、カイロ博物館にあるという事実です。

 それは、コロンブスの頭が2つあることと似ているのでしょうか。
 キューバのハバナ博物館には、コロンブスの頭蓋骨が二つあるそうです。一つはコロンブスが子供のころのもの、そしてもう一つは彼が大人になってからのものだといいます。


○妬(ねた)む神と愛の神=旧約の神さまと新約の神さま

 私は聖書を読むたびに、いつも思うことがあります。
 それは、「旧約聖書の神さま」と「新約聖書の神さま」が、別の神さまであらせられるのではないかということです。

 新約聖書でイエスが説かれる神さまは、「愛の神さま」のように思います。しかし、旧約聖書の神さまは厳しくて何となく一方的にわがままな神さまのようですから、わからないままに恐ろしく感じているのです。
 また、嫉(そね)んだり、仕返しをする神さまのようでもあり、あまりご判断に理路整然としたところがなく、そのときどきで気ままなような感じさえするのです。


 旧約聖書の神さまについては、ご自身のお言葉として「出エジプト記」に、

  <あなたの神、主であるわたしは、妬(ねた)む神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。>(第二十章5〜6節)

とあります。
 なお、上記は旧約聖書でもいわゆる「モーセの十戒」の中で仰有られるお言葉ですから、クリシチャンはあまねく周知していることなのです。
 あなたは、どうお考えでしょうか?

 また、旧約の神さまが「バールの神」を嫌うことに関しては、徹底しています。あらゆるところで、バールの神を目の敵(かたき)にしているからです。むろんバールの神像を壊すのですが、その前にバールの信者を皆殺しにさせるからです。物語としては面白くても、何となく理不尽のようにも思う人がいるかもしれません。

 ここで、考えなければならないことがあります。
 それは、現在では一冊になっている『聖書』についてです。
 ふつう、39の物語を含む「旧約聖書」と27の物語を含む「新約聖書」が、ご承知のように一冊の合本になっていることです。それは、おそらくキリスト教、とくにプロテスタントが「新約聖書」を権威のある内容にしようと考えて、別な系統の古い歴史のある「旧約聖書」をもってきて、その前に付けたのではないかということです。
 そのように考えると、「旧約の神さま」と「新約の神さま」が、互いに異なっているのも不思議ではありません。
 つまり、もともと別な神さまだったからです。


○神と人間と悪魔

 神が絶対的なものに描かれていますが、実際にはどうなのでしょうか。
 神が、思うように動かない人間を「項(うなじ)の固い民」といって、投げ出しかかるシーンの記述がたくさんあります。
 また、バールの神その他の異国の神を嫌うことが徹底しています。もしかしたら、互いに争っていたのかもしれません。つまり、それは神と異国の神々が、家畜化をしようとしていた人間の取り合いになっているような構図なのです。

 イエスは、悪魔のことを「サタン」と呼びました。何かと唆(そそのか)して、邪魔をするからです。しかし、この「サタン(悪魔)」という語自体は旧約には見られず、新約になって出てくるのです。サタンの原語はヘブル語「サーターン」で、その意味は「敵対する者」ということです。

 『ヨブ記』に出てくるのは、……

 簡単に考えれば、二つの勢力の間でうろうろするのが人間ということになるのでしょうか。


○ソドムとモゴラ

 ソドムとモゴラは、神を信じない退廃した悪徳の町を言います。しかし、もしかしたら文明の発達した進歩的な街だったのかもしれません。
 ロトが、その土地に住みたいと言って選んだ土地だからです。
 悪徳の町。今でも、ソドムやモゴラのような町や国があるかもしれない。豊かな日々のようでも、考え方によっては悪徳の町に住んでいることになるのでないか。

 老人でも、孤独に耐えられない人が増えているらしい。
 ロトの年齢を考えると、やはりすでに人がいたところの近くに住みたかったのかもしれない。
 ソドムとモゴラについては、紀元前4000年くらいの事件だと思われている。実際には神の怒りではなく、地震と硫黄によって町が滅びたらしい。私は、そんなふうに思うのですが、……。


○聖書の巨人

 聖書には巨人、つまり「大きな人間」の記述があります。
 オグサムソンゴリアテは、かなり身体が大きかったようです。
 「サムエルの書 下」21章5〜22節には、数人の巨人に関する記述があります。中には、手と足の指が6本ある背の高い巨人のことが書いてありました。

 ゴリアテは、ゴリヤテと言うこともありますが、ペリシテ人です。
 そして、ゴリアテがダビデに敗れた場所に、「ゴリアテの墓」という小高い山があるそうです。しかし、そこを実際に発掘をしてゴリアテの骨が巨人だったということを確かめた者はまだいません。
 オグ王も、聖書に書いてある箇所を読む限り、巨人だったらしい。


 ヘンリオンという人は、

 <アダムの身長は39メートル、イブは36メートル、ノアは8メートル、アブラハムは6メートル、そしてモーゼは4メートルもあった。>

と書いているそうです。
 何を根拠にして彼らの身長を調べたのか私にはわかりませんが、時代が下るとともに小さくなっていくようです。神さまは「人間をその形に似せてお作りになった」と言いますが、もしかしたら形は同じでも、大きさを何分の一かに縮尺をされたのかもしれませんね。

 ぜんぜん話は違いますが、「モアイ島の石像」や「ナスカの地上絵」なども初期の巨人が作ったり、描いたりしたとしたらどうでしょうか。


○エノクとUFO

 旧約聖書の外典または偽典と言われるエチオピア『語エノク書』およびスラブ語『エノク書』、さらに『ヨベル書』などを読んでみると、「もしかしたらエノクが、神と呼ばれた超能力者の異星人によって外宇宙を見せられたのかも知れない」などと考えるのは、私だけであろうか。
 そしてさらに、そのときにはUFOのような乗り物を用いたのではないだろうかなどと想像をしてしまう。

 『エノク書』についての覚えは、ここをクリックしてください。

 また、『エノク書』をカバーする意味で、『ヨベル書』から関連をする部分を抽出してみました。
 『ヨベル書』については、ここをクリックしてください。

 なお、上記2つのページは Wordによる仮原稿です。


○近親相姦の構図

 聖書には、父と娘二人が互いにセックスをしたり、兄がいやがる妹を犯したりする記述があります。いったい、神聖な内容の書物に何となく卑猥な記述がなぜあるのかが、私にはわかりません。さらに、娘たち二人の考えや兄のセックス終了後の妹に対する言葉などが、私の常識ではどうしても理解できません。


 「創世記」の中頃にある記述です。

 <…… こうしてロトの二人の娘たちは、父によって孕(はら)んだ。姉娘は子を産み、その子をモアブと名付けた。これは今のモアブ人の先祖である。妹もまた子を産んで、その子をベニアミンと名付けた。これは今のアンモン人の先祖である。>(第十九章37〜38節)


 次は、「サムエル記(一)」にある記述です。
 ダビデの子のアムノンが、美しい妹タマルに恋をしたのである。そして、自分を病気と詐(いつわ)って妹に看病をさせるというようなたくらみで、妹をベットに引き入れて、無理矢理にセックスをしたのである。

  <…… 兄はタマルを捕らえて彼女に言った。「妹よ、来て私と寝なさい。」 タマルは言った。「いいえ、兄上よ、私を辱(はずかし)めてはなりません。……>(第十三章11〜12節)

というように妹が言うのも聞かずに、力ずくで妹の処女を奪ってしまいました。その後のタマルに関する記述は、何とも哀れに綴られています。


○リストラやオナニーという言葉

 日ごろ使う言葉で、聖書から内容をとられたものがあります。
 例えば、リストラです。
 リストラは、どうやら聖書に出てくる小アジアのリカオニアが語源のようです。しかし、私はその詳細を知りません。

 また、オナニーという言葉があります。
 実際のセックスをしないで、処理をすることで、男ばかりでなく女性も激しくするそうです。私は、現実にそれを見たことはないので、もしかしたら勘違いかも知れません。しかし、この言葉が、旧約聖書の『創世の書(=創世記)』から出ていることは、間違いがないでしょう。

 第三十八章の【神の怒りによるエルとオナンの死】という箇所を見てください。

 <01 ユダは兄弟たちと別れて、アドラム人のヒラという人の近くに天幕を張った。
 02 ユダはそこで、カナン人のシュアという人の娘を見初めて結婚し、彼女のところに入った。
 03 彼女は身ごもり、男の子を産んだ。ユダは、その子をエルと名付けた。
 04 彼女はまた身ごもり、男の子を産み、その子をオナンと名付けた。
 05 彼女はさらにまた男の子を産み、その子をシェラと名付けた。彼女がシェラを産んだとき、ユダはケジブにいた。

 06 ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えた。
 07 ユダの長男エルは、神の意に反したので、神は彼を殺した。
 08 ユダは、オナンに言った「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫を残しなさい」

 09 オナンは、その子孫が自分のものとならないのを知っていた。そこで、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。
 10 彼のしたことは、神の意に反することであったので、彼もまた神に殺された。
 11 ユダは、嫁のタマルに言った「私の息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、寡婦(やもめ)のまま暮らしていなさい」 それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからである。タマルは、自分の父の家に帰って暮らした。>

 つまり、この01節から11節にあるオナンがオナニーの語源なのです。
 04節は、出生に関する記述ですから問題はないでしょう。
 しかし、問題は09節と10節です。
 子種を地面に流すためには、それなりの準備が必要です。そして、それがオナニーなのです。それをすることによって、神に殺されたというのも注意が必要です。つまり、なるべくしないほうがよい行動だということが、旧約聖書からもわかります。


 その他にも、「アイドル」や「タレント」などが聖書から作られたという人がいます。聖書がヘブル語からギリシャ語に移された前後のことで、もしかしたら聖書に直接関係しないかもしれません。
 タレントは、ギリシア語エイドーロン(神像、偶像)から。また、ギリシア語タラントン(貨幣の単位)は雀の値段として、アサリオンなどと同時に使われていたようです。
 そもそも、英語「talent」は(神から人間に委託された)才能、天分などのこと。


○聖書の言葉や地名・人名・たとえ話

 聖書には、実に多くの名言があります。
 私も、学生時代から聖書を読んでいますが、一生の戒めとしたい言葉やショックを受けたことばなどが多くありました。それらに関しては、「旧約聖書の体系」と「新約聖書の体系」にある具体的な文書の中に、それぞれ記しておきましょう。
 イエスが言ったといわれる

 <我よりも父、母を愛するものは、我にふさわしからず。>

やパウロの

 <金銭を愛する者は、……>

などは、私に別な次元の考え方を与えてくれました。
 私は、パウロの言葉を味わうと、なぜか心がおののくことがあるのです。

 新約聖書でも、かなり書き換えられたためでしょうか。言葉とその背景がマッチしないように思うことがあります。例えば、イエスが「ラクダが針の目を通る比喩」を言ったときです。
 おそらく、ダマスコからエルサレムへ上京するときのことでしょうか。イエスは、歩きながら弟子たちに話しておられた。すると、向こうからラクダの隊商が次々とやってきてすれ違ったのです。そしてそのとき、イエスはこの譬えを言ったのではないかと私は思います。
 つまり、話した背景は、「山上の垂訓」(マタイ)でも「平地の説教」(ルカ)でもないのだ。

 また、地名や人名もべらぼうに出てきます。
 その中には、何となく日本語と似た響きをもつ言葉があるので不思議です。例えば、地名では
   シバ→芝  イシュマエル→石丸  ミシマ→三島  エブス→夷、恵比寿
などや、オグ、オジヤ、ガド、ハガルなど。
 また、人名では
   ピラト→平戸  マルタ→丸田  ミカ、ミカヤ→三河  ロト→呂登(登呂の反対)
   シロ  ダン  ノミエ(ナオミ)。

 そんなことに屁理屈をつけて、「日本人はユダヤ人?」などという人もいるほどです。
 しかし、地名や人名はどの民族でも似ていることが多いのではないでしょうか。女の子に付けるマリーという名前が、真里と似ているようにです。
 なお、私は個人的な考えで五十鈴(いすず)という名前は「イエズス」から来たのではないかと考えているのですが。
 また、戎呉(じゅうご)という胡(えびす)がありますが、戎も「えびす」と読みます。そして、「ユダヤというエベス」というのが、岡本綺堂『中国怪奇小説集』にありました。(盤瓠というところのp39)


○聖書のたとえ話

 聖書の中に出てくるたとえ話にも、似たものがあります。
 「プロディガル・サン」(放蕩息子)の話なども、『法華経』にほとんど同じストーリで出てきます。
 また、聖書に直接的には書かれていない伝承などにも、似た内容があるようです。

 ペテロの母は、生前にはよいことをしなくて、地獄に堕ちました。そのことを悲しんで、ペテロがイエスに哀願をします。すると、生前によいことをしたただ一つ。ネギを乞食に与えていたのです。そこで、ネギの葉が長くなって地獄に降りてきます。
 ペテロの母は、それにすがって登り始めますが、……。

 しかし、芥川龍之介が中国の民話でしょうか、それを元にした『蜘蛛の糸』とまったく同じ結果になるのです。

 ついでに、釈迦の弟子、目連?の母は、死後地獄に落ちました。しかし、そこの責め苦に耐えかねて逃げ出し、蓮の穴にかくれていたといいます。そんな話も、聖書のどこかにあったように思うのですが、……


○割礼の意味

 旧約聖書に出てくる神との契約の一つに「割礼(かつれい)」があります。
 割礼とは、オチンチンの包皮というのでしょうか、回りを囲んでいるカバーの部分を切り取ることです。すると、亀頭(きとう)といわれる部分が丸出しになります。ふつう、生まれて間もなく割礼の手術をするようですが、信仰のために大人になってからする人たちもいます。

 もともと、旧約聖書が展開する土地は雨が少なく、また水も乏しい地域です。そのために割礼の本来の理由は、オチンチンの皮が被っていて、不潔になることを避けるための工夫だったのでしょう。

 日本人の大人は、オチンチンの皮が剥けて(むけて)いる人が多いようです。しかし、剥けていない人もいて、そのような状態を包茎(ほうけい)と言います。

 ギリシアの彫刻などを見てもわかるように、本来は皮がかぶっている状態がふつうなのでしょう。もともと、裸で過ごした原始時代には大切なものを守るため、皮膚がかぶさって保護をしていたと考えられます。だから、皮がかぶっているほうが生物学的には、おそらくノーマルな状態なのかもしれません。未開の人たちが、いまだに筒状のペニスサックを付けたりしていることで、保護の意味が何となくわかります。
 それは、ともかく衛生の面から考えると男性は剥けているほうがよいようです。

 聖書の中では、敵のことを「割礼を受けていない者たち」というような言葉で、軽蔑的に言うことがあります。
 また、ある民族を仲間になろうと騙して、すべての男性に割礼の手術を受けさせ、その晩に襲って男すべてを殺したという経過も、旧約聖書には書かれています。最初のいきさつはどうであれ、なかなかずるい方法だと思います。なぜならば、オチンチンの皮を切り取られただけですが、回復するまでには痛かったり、力が入らないからです。オチンチンを手術して、よたよたしている相手を討ち滅ぼすのは、いたって簡単なことだったと旧約聖書にはありました。


 しかし、日本人でも老いてくると次第にオチンチンが小さくなっていきます。そして、皮の部分が余ってしまい、被さってくるのです。日本では、割礼の習慣はありません。おそらく、水が豊富でいつでも洗えるからでしょう。包茎の人は、少なくとも1日おきくらいにお風呂かシャワーで、オチンチンをまくって汚れを取る必要があるでしょう。
 割礼のことについては、あまり知識がないので今後もう少し調べてみるつもりです。女性のクリストスを切り取る割礼もあったようですが、そのことについても私は意味を知りません。


○キリスト教の歴史

 イエスご自身の出自についてはフェデリコ・バルバロの「イスラエルの歴史」(13ページ 『聖書』に付いていたもの)に、次のような記述がありました。

 <西暦三〇年の四月七日、ニサンの月の十四日、イエズスはゴルゴダの丘で十字架にかかって死んだ。イエズスが死んだのは三十四歳半か三十五歳半のときであった。>


(注) 「ニサンの月」は、古いユダヤのしきたりによる呼び名でしょうか。『ネヘミヤ記』第二章1節に「アルタシャスタ王の第二十年、ニサンの月に、……」とあります。また、『エステル記』第三章7節にもありました。
 他にも、『列王記 上』第六章1節に「ジフの月」、『エステル記』第八章9節に「第三の月、シワンの月」、同じく『エステル記』第八章12節に「アダルの月」がありました。なお、「アダル」で「アダルト」ではありません。


 イエスの布教期間としては、イエスが教えを説き始めてから、十字架にかかるまでのわずか一年半ばかりの期間であったという。(三十歳ころに家を出て、ヨハネから洗礼を受けた。)
 イエスの布教時代から、すでにローマや旧体制、パリサイ人などから迫害された。

 コンスタンティヌス帝によって、キリスト教が公認され、ローマ国教になってからも十字軍や魔女狩りなどの多くの問題があった。
 1537年ローマ法王パウロ三世は、それまでの考え方を改めて

 <インド人や黒人や新大陸のアメリカ土着民も、ほんものの人間である。>

と宣言をしました。

 また、魔女裁判と称して異端者や異教徒、さらには無罪の人を多く処刑したのですが、その実態を調査したり公表することもなく、冤罪の場合も被害者の名誉の回復、謝罪、損害賠償なども満足にしていないようです。

 ただ、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が2000年3月12日にバチカンのサンピエトロ寺院で、過去2000年間にキリスト教会が犯した罪を認め、神の許しを請うミサを行ったそうです。つまり、「私たちも悪かった。ごめんなさい。』と言ったのです。
 そして、名誉の回復、謝罪、損害賠償などは不問にしています。


○江戸時代の邪宗門

 江戸時代には宣教師によって、キリスト教を日本にも普及をしようとしました。

 慶応4年(1868年)3月、明治政府になっても旧幕府の政策を踏襲して、キリスト教と邪宗門を禁じました。
 なお、実際の明治元年は1868年9月からです。下記は、むろん縦書きで板に書いたものですが、調布市郷土博物館に実物が残っています。(2002.03.22(金)現在)


          定

  一 切支丹宗門之儀は
    是迄御制禁之通
    堅く可相守事
  一 邪宗門之儀固く
    禁止之事
    慶応四年三月
           太政官


 北原白秋ほどのインテリでも、次のような作品を残している。

 <われは思ふ、末世(まっせ)の邪宗(じゃしゅう)、切支丹(きりしたん)でうすの魔法。
 黒船の加比丹(かぴたん)を、紅毛の不可思議国を、
 色赤きびいどろを、匂(におい)鋭(と)きあんじやべいいる、
 南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍詑(ちんた)の酒を。>

 白秋の第一詩集『邪宗門』の中にある「邪宗門秘曲」である。タイトルからして、かなり自信があったのであろう。まったく、いい気なものである。ここでいう「邪宗門」とは、江戸時代に邪教と目されたキリシタン宗とその信者を言っている。そのキリシタンに寄せて、白秋なりの繊細な神経で、摩訶不思議なムードが歌われている。

 なお、言葉について若干の補則をしておこう。
 「末世(まっせ)の邪宗(じゃしゅう)」とは、キリスト教のこと。切支丹(きりしたん)も同じ。「でうす」は創造主。「加比丹(かぴたん)」は、ポルトガル語で船長。つまり、キャプテン。「びいどろ」は、ガラス。「あんじやべいいる」は、オランダ石竹。「桟留縞(さんとめじま)」は、インド渡来の織物。「阿刺吉(あらき)」は、舶来の酒。「珍詑(ちんた)」も、同じ。
 つまり、内容はともかく言葉の斬新さなどを考慮に入れた作品であろう。


○エホバ 物売りお断り

 数年前(2001年夏)に町田市小山田を散歩していましたら、トンボ池の手前にある農家の入り口に、

    <エホバ 物売り お断り>

とありました。
 つまり、「エホバの宗教」と「押し売り」は入ってくるのを断るという意味なんでしょう。私は、それを見て俳句でも短歌でもないので、ちょっと残念に思ったことを覚えています。

 「キリスト教の歴史」というと、うんと遡ってしまうと「聖書」の最初に出てくる人間、つまりアダムとエバに始まるのかもしれません。
 しかし、ある本には聖書について、

 <現代においても全世界のクリスチャンにとって聖書は生ける神のことばなのである>

のように書いてありました。
 私には、「生きている神」ともとれるんだが、実際には「生きている『神のことば』」という意味なのであろう。すなわち、「生きていることば」なのである。なぜかというと、「神が生きている」というようなことを文の中で、ことさらに言う必要がないからである。


○イエスという人

 イエスと言うと、新約聖書に書いてあるような個性のある人物を考えます。
 しかし、実際にはどうなんでしょうか。
 イエスと同時代に、アポロニウスという人がいて、イエスと同じような行動をしていました。しかし、弟子や賛同者が少なかったために名が残らなかったようです。何となくイエス=キリストの原形と考えられます。
 しかし、学者によってはイエス=キリストの伝承を元にしてアポロニウスの伝記を作ったともいう。今となっては、すでにわからないことです。いずれにしても、複数の人物の伝承がイエス一人に凝縮されたような感じが、私にはするのです。

 「イエスは神である」という人がいます。また、三位一体(さんみいったい)として神が三つの形をとったとも言います。しかし、ここではあえて偉大な人物としてイエスをとらえてみようではありませんか。

 イエスは、いつも祈っていたようです。そして、弟子たちにも祈りを勧めています。
 そして、イエスほどの方でも、祈りのほかに呪ったことがあるのです。
 イエスの呪いは、『マルコによる福音書』第十一章にある「イチジクの木」に対するものが有名です。また、「石臼を付けて海に入ったほうがよい」とか「山に海の中へ入れ」などというくだりもそうです。
 さらに、悪魔を豚の中に入れて崖から落とした話は有名でしょう。
 悪魔を入れられた豚と、枯らされたイチジク。人間以外の生物に対する考え方は、仏教とはちょっと異なっています。


 イエス=キリストは、豚肉とタマネギを口にしなかったと言います。
 豚肉を食べないというのは、ユダヤ人の慣習だからです。レビ記に、食べてはいけないものとして、

 <爪の割れていない動物、反芻をしない動物、……>

とあるからです。
 また、豚については

 <真珠を豚に投げ与えてはいけない。>
 <悪霊を豚に入れて、崖から落とした。>

などの記述があります。

 しかし、タマネギを食べなかった理由については、なぜかわかりません。
 曹洞宗など禅宗の寺の山門にある「不許葷酒入山門」つまり「葷酒を帯びて寺に入ることを禁ず」というのと同じような理由だったのでしょうか。
 ヨーロッパでも、ネギ、タマネギ、ニラ、ニンニクなどを忌諱する風習は古くからあったようです。セルバンテスの『ドン・キホーテ』にも、そのような記述がありました。
 ネギ類は精力が付くので、修行の妨げになってしまうのかもしれません。
 過酷な労働をしたエジプトのピラミッド工事担当者に、報酬としてニンニクが配られたそうです。

 ついでながら、ニンニクは朝鮮語で「ピル」といい、古い時代の日本語では「ヒル」と言いました。
 『源氏物語』の「月夜の品定め」章に、ヒル(ニンニク)を食べる博士の娘のことが書かれていました。その娘の側に行くと、臭(くさ)くてたまらなかったそうです。


 イエスは、30歳そこそこで十字架にかけられて死にます。
 その十字架にかけられたところをラテン名で「カルバリの丘」、そしてヘブル名で「ゴルゴダの丘」と言ったそうです。


○ハナミズキと黄色い十字架

 「†」(グガーマークまたはダガーマーク)について、イグナティウス・デ・ロヨラは面白いことを言っています。
 つまり、物事は「論理で考えるのではなく、研ぎすました直感」を大切にして、正しく判断をしなければいけないということです。例えば、「道に麦わらが十字架の形になって落ちていたら、何かの暗示か?」と考えることについて、そんなことは気にすべきでなく、たまたまそんな形になっただけだからと言うのです。



 ふつう、「十字架は、もともと刑罰の道具だ」などと言われるが、しかし私はもっと深い意味をもっていると思う。簡単に言うと、女性を表す象形文字ではないか。長さと太さの関係で、十字架も太くなると赤十字の形になってしまう。しかし、もともとは楔(くさび)状の縦棒と横棒だったらしい。
 つまり、中央の原型が発達し細くなって左方の十字架になり、反対に太くなると右の赤十字マークである。それは、女性の本能である「恨み・嫉妬」などの具現であるとともに、いっぽうでは「愛・慈しみ」などの表れであるのかもしれない。
 あまり、大きな声では言えないが、本当のことを言えば、その二つは女性の横向きの上の口と、縦向きの下の口を示しているのだ。そして、本来の動物のような発情期を示す兆候を失った人間は、横向きのほうを赤く塗ったりもするのだ。
 チンパンジーやオランウータンなどは、人間の本来の姿をいまだに残しているので、その時期には下の口が赤くなるとともに、お尻も赤くなって、外部に発信をする。20年ほど前に、このことを妻に話したら、それから口紅を塗らなくなった。ちゃんと考えると、人間がずいぶんと露骨なことをしてることがわかったらしい。
 妻が言うには、ご主人と死別した親しい友が、急にお化粧をくどくするようになったということだ。

 ついでながら、キリスト教が考えている十字架についても述べておこう。
イエスの背負った十字架は節(ふし)のない檜のような素直に伸びた「アメリカ山法師」と呼ばれる花水木(ハナミズキ)であったらしい。
 十字架の実物を見たことがないので、ことの真偽はわからない。共観福音書などを何回も読んでみたが、十字架自体については書いていないようだ。具体的に、例えば「レバノンで取れた杉製」だとか、「ナザレにいた大工が作った」などという記述がないのである。
 しかし、ハナミズキはイエスを磔(はりつけ)にしたことを大いに悔いて、その後は節だらけの曲がった木になってしまい、二度と十字架には用いられないように自ずからなったという。人間はピラトのように頑固だったが、植物はとても素直であるらしい。


 ついでに、黄色い十字架
 ヨーロッパにペストのはやったころは、多くの黄色い十字架が立てられた。
 また、キリストを裏切ったというユダは黄色の衣服を着ていたという。そんなことから、黄色は裏切りや陰謀を表す色とされた。あるいは、逆かもしれない。さらに、私の間違った記憶かもしれません。為念。


(注) なお「†」は十字架マークではなく、実際には「短剣符」と呼ばれます。また、「‡」は「二重短剣符」です。いずれにしても、十字架マークが短剣などのイメージを含んでいることに一考する必要があるでしょう。


○エゴーエイミー

 私(黒田康太)には、よく理解できないのですが「エゴーエイミー」という言葉があるそうです。@@@
 それはギリシア語で、英語に訳すと「I AM」という意味になるそうです。
 また、ヘブル語でそれは「ヤハウェ」となるということです。

(注) 「ヤハウェ」はまた「エホバ」とも言います。ユダヤ教では、神の名を直接に呼ぶことは恐れ多いので、「わが主よ」と言いました。


 その言葉は、三つの「共観福音書」と後の「ヨハネのもの」つまり四つすべての福音書

   『マタイによる福音書』  第十四章27節
   『マルコによる福音書』  第六章50節  第十三章6節
   『ルカによる福音書』  第二十一章8節
   『ヨハネによる福音書』  第六章20節  第十八章4節

に、それぞれ出ています。
 例えば、『ヨハネによる福音書』第十八章4節以下には、

 <イエスはご自分の身に起ころうとしていることをすでに知っておられ、進み出て兵卒たちに言った。
 「誰を捜しているのか?」
 「ナザレのイエスを。」
 「わたしが、それである(エゴーエイミー)。>

とあります。
 他の箇所には、直接の形でなく

 <あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。
 多くの者が私の名をなのって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。>

のような形になっているので、ちょっと気づきにくいのです。
 でも、この「エゴーエイミー」という言葉は福音書の重要なキーワードになっているように私は思います。そんなわけで、注意をして読んでいるのです。


○ヒレルの言葉

 ヒレルは紀元前のユダヤの偉大なラビ(教師)です。
 非常におとなしい礼儀の正しい人だったそうです。そして、多くの言葉を残しました。そして、その中には後にイエスが引用をしたものがいくつかあると言います。
 ここでは、ヒレルの残した言葉をいくつかあげてみましょう。


 < 忍耐力のない人は、教師にはなれない。>

 <あなたの回りに優れた人がいなければ、あなたが優れた人にならなければならない。>

 <自分で自分のためにしなければ、誰があなたのためにやってくれるのだろうか。>

 <いま、それをしなかったら、いつできる日があるのだろうか。>


○聖書の暗号

 旧約聖書のモーセ五書、つまり最初の律法五書『創世記』・『出エジプト記』・『レビ記』・『民数記』・『申命記』には暗号が隠されていると言います。それは、ヘブライ語の秘密文字と言われるメラヒム文字で書かれているらしいのです。そして、その暗号は、驚くべきものです。
 私たちの人知をはるかに超えたもので、誰がどのようにして文章に織り込んだかは不明です。

 私たちが、例えば「ピタゴラスの定理」をニワトリに教えても、おそらく理解してもらえないでしょう。
 その私たちに当たる何物かが存在して、ニワトリに当たる私たちに科学を示しているようなものです。そして、その何物かが現在も存在しているか、あるいは過去に存在していたのかはわかりません。
 しかし、そのことが実際には超大型の高性能コンピューターによって少しずつ明らかになっています。

 人名なども多く含まれていて、あたかも未来のことをすでに言いつくしているようです。
 さらに、「日本」とか「イスラエル」というような国名も、すでに織り込まれていて、とくにこの2つの国は「終わりの日」という言葉とともに用いられているそうです。
 「日本」に関しては、単独の記述として「2000年から2006年の間に、国が滅びるほどの規模の大地震がある。」という不気味な記述さえもあるということです。
 本当でしょうか。


 私はヘブライ語はおろか、ギリシア語もわからないのですが、理解をしていただくために、いちおう考えたことを参考までに記しておきましょう。隠されているという暗号の方式を理解していただくためです。
 実際にやってみると、この「聖書の暗号」は実に簡単にできるのです。おそらく、子供でも作ることができたでしょう。
 しかし、解読は大変です。
 組み合わせが莫大にあるので、ものすごく時間をかけるか、スーパーコンピューターによるほか、今のところ解決法がないみたいです。人類の知恵をニワトリの知恵に例えれば、人間のレベルの知恵をもっていないと解けないということになるようです。


 次の文章を見てください。

   くるしみは、思うがままに、ならぬゆえ、うろうろしつつ、日々過ごしおり。なに故に、
   こころ未だに、落ち着かず、生き続けたる、あわれ魂。ここにおり、かしこにおりぬ、わ
   ざわいを、我に与うる、悪魔のごとき。そは誰ぞ、恐れおののき、たすけをば、求めたり
   しが、未だかなわず。ばかみたい、気ちがいみたい、ほどほどに、かかわりあいに、なる
   をやめねば。くれぐれも、気を付けなさい、ことばには、ついとげのある、表現になる。


 まったく、下手くそな文章ですが、漢字や句読点も1字と数えて、いちおう40文字ずつ横に並べてみました。実際には、横に並ぶ文字が何文字であっても、暗号自体には関係がありません。ここではただ、わかりやすくしただけなのです。実際の暗号には、漢字などがなくギリシャ文字のような感じのアルファベットだけですから、もっと単調な面白くない作業になるでしょう。

 この200字に含まれた暗号がおわかりでしょうか。
 暗号の文字数は、6文字の部分と4文字の部分に含まれて、合計で10文字の文章になっています。最初の6文字が固有名詞、そして次の4文字がその固有名詞を特徴づけています。もっとも、上記は聖書の暗号がどうなっているかを理解していただくためのもので、内容には意味がないんですが、……
 回答は、このページの最後に付けておきましょう。


○キリスト教の愛

 キリスト教では、愛ということが主要な概念になっています。
 「隣人(となりびと)」を愛せよなどというからです。
 しかし、「キリスト教の愛」とは異なった愛があるので、注意をしてください。
 プラトン(久保勉訳)『饗宴』という本によると、ソクラテスは

 <愛は、所有しないものに対する一種の憧憬または渇望である。>

と言っています。
 それは、愛について数人が対話する形式なのですが、パウロの『コリント人への手紙』(一)の愛とは、まったく異なる概念なのです。


 

○イエスはいつも私のよろこび=『こころと口と行いといのち』

 バッハのカンタータ第147番『こころと口と行いといのち』(イエスはいつも私のよろこび)は、いつ聞いても素敵です。音楽は、私をいつも楽しい気持ちにしてくれます。しかし、聞いていて不思議に思うこともあるのです。
 それは、歌詞によると次のようなことなのです。

 <マリアは身重になって、エリザベートを訪問しました。実は、エリザベートも妊娠中だったのです。そして、二人が話していると、エリザベートのお腹の中で赤ちゃんが動いたのです。そして、その赤ちゃんが動いたことで、エリザベートは「マリアのお腹の中にいる子がキリストだと知った」>

ということです。
 いったい、ほんとうのことなのでしょうか。


○作られた聖人?

 以下この節は、『ジューダスの福音書』を書いた大庭加奈子(おおばかなこ)の意見です。
 教会によって、その歴史を『イザヤ書』に合わせて作りかえられてしまった偉大な人がいます。そのことは、『トマの福音書』や『Q』をよく読むと、私には何となくわかるのです。

 なお、『Q』に関しては『RIKOホームページ』の「安心立命とは?」にある「宗教と信仰について」ページから

   ○Q(クー)のオリジナル版=『Q資料』=『先生の言葉』

によりました。


(注) 『トマの福音書』は、『トマスの福音書』ともいいます。
 ふつう、キリスト教では「外典」に分類します。また、『Q』は単に『クー』ということも、『クー資料』ということもあるようです。「Q」をドイツ語で「クー」と読むからです。
 実際のイエスの言葉を集めたものが、いわゆる『Q』なのです。

 日蓮のように、他派批判が宗教にはよくあることです。しかし、『Q』の中ではまだパリサイ派、律法学者、サドカイ派などに対する厳しい批判はなされていません。『Q』の成立後に、イエスを殺したのがパリサイ派だったと言ってよいでしょう。


 ペテロ(シモンのことです)の愚鈍ともいってよいほどの実直さと、パウロ(もとの名はサウロです)の稀にないほどの優秀な頭脳によって作られた思想の体系! そして、バチカンで1000年以上にわたって改訂をなされた書類。むろん取捨選択どころではなく、根本的に書き換えられたものもあるでしょう。

 それは、『歎異抄』が真宗の八代目、中興の祖といわれる蓮如上人によって文庫に隠されていたなどというレベルではないスケールで行われたのでしょう。『歎異抄』のほうは、単に「内容が一般の人に誤解されやすく、危ういものだったから」ですが、……

(注) ペテロのような人が、「あの人を知らない」と言ったことは3回でなくても、また鶏が鳴いても鳴かなくても、「実際に知らなかった」と私(大庭加奈子)は思う。意志が弱かったり、命が惜しくて「あの人を知らない」などというはずはない。
 後で、「師を裏切ったと、さめざめと泣いた」などとは、とんでもないことだ。とさえ、私は思うのであるが、……。


 イエスは、非常にすぐれた思想家であったらしい。人物として実際には、孔子のような性格であり、また大男であったかもしれない。
 そして、行われた奇跡などについては、私(大庭加奈子)に思い当たるふしもあるのです。
 もしかしたら、その現象は海抜(標高)マイナス200メートルという地のためかもしれません。地球上で、そのような場所は人工的(というよりか生物によって)に作られた場所を除いて、他にはないからです。

(注) ガリラヤ湖の湖岸で海抜マイナス200メートル、死海はマイナス400メートルです。地球上で、このような場所は、とても珍しい。
 そこから、最近になってキリスト教の初期文献である『死海文書』が発見されました。クムラン僧院から発見されたので、『クムラン文書』ともいいます。


○イエスの弟子たち

 イエスの弟子というのは、ふつう次の12人です。「十二使徒」ともいわれています。

ペテロ(本名シモン、アンデレの兄)


アンデレ(ペテロの弟)


ヤコブ(イエスのいとこ、ヨハネの兄)


ヨハネ(ヤコブの弟)
 おそらくいちばん若かったのではないでしょうか。このヨハネは、『ヨハネによる福音書』の著者ではありません。
 また、『ヨハネの手紙』や『ヨハネの黙示録』の著者でもないようです。

ピリポ


パルトロマイ(本名ナタナエル)


マタイ(本名レビ)


トマス(本名ユダ)


ヤコブ(マタイの弟)


タダイ(本名ユダ、ヤコブの弟かあるいは息子)


シモン


ジューダス(イスカリオテのユダ)
 モーリヤック『イエスの生涯』(p105)には「ケリオテのユダ」となっています。一説では、暗殺者の家系だといわれています。「イスカリオテ」自体が暗殺を意味しているのかもしれません。
 また、他の弟子に「熱心党」に入っているものがいました。しかし、それは一種のテロ組織みたいなものだったようです。つまり、イエスの弟子たちは最初から経歴や職業などを問われなかったのです。


 どうしても天国を信じられなかったと思われるイスカリオテのユダその人の初期の行動や考え方は、福音書には記されていません。したがって、私には新約聖書に書いてあること自体が、何となく後世にゆがめられてしまったのではないかと懸念をせざるをえないのです。

 イエスの死後にイスカリオテのユダ(ジューダス)が死んだので、補充をするために籤(くじ)で

マッティア


を選びました。
 十二部族などというように「12」という数を大切にしていたからです。


○イエスと民衆たち=ホサナと十字架

 「ホサナ、祝福あれ」と熱中してイエスをたたえた群衆は、数日後「十字架だ、死刑だ」とイエスをののしった。
 これは、いったい何を意味するのだろうか。
 買収をされて行動をした人たちが、そこに何人かが混じっていたからといって、やはり一般の民衆たちが期待を裏切られたときの心の変化が大きかったことを示しているのではないでしょうか。
 私は、いつもナポレオンや西郷隆盛が最期に近くなったときのことを思い出すのです。


○イエスの子?

 イエスの墓は、カトリック教会が認める「聖墳墓教会」ということになっている。
 しかし、2007年のディスカバリーチャンネルによると、新たに「イエスの墓」についての考古学的発見がなされたという。そして、六体もの一家の棺桶があることから、その子もいたと考えられるらしい。
 その墓にあった棺(ひつぎ)は、「マリア」「ヨセフ」「マタイ」「イエス、ヨセフの息子」「ユダ、イエスの息子」「マラのマリアム」と判読された。

 以下の文は、私(黒田康太)の勝手な想像で創造。

 「マリア」と「ヨセフ」は、イエスの母と父。「マタイ」は、イエスの兄弟。そして、「イエス、ヨセフの子」はイエスご自身。「ユダ、イエスの息子」は、イエスとマリハムの子。そして、「マラのマリアム」はマリハムのこと。このマリハムが、後で「マグダラのマリア」と呼ばれた女性。

 一つの墓に多くの人が埋葬されるのは、「先祖代々の墓」のように珍しいことではない。
 そして、「マタイ」「ユダ」などという名前は、かなり多いのではないか。むろん、ユダは「イスカリオテのユダ」ではない。例えば、ユダは個人の名前ばかりか「イスラエル十二部族」の一つの名前や「ユダ王国」の名前になっている。
 もしかしたら、日本の「湯田温泉」も関係があるかもしれないなどという人が出てくるかもしれない。

 かつて、私は「ジューダスの福音書(ユダの福音書)」という試作をしようと考えたときに、「ユダ、イエスの息子」を女の子と勝手に解釈をしてしまった。そして、カソリックの義姉に諌(いさ)められて、自信がなくなってしまい、完成をすることなしに投げ出してしまった。まだ、「ダヴィンチコード」が言われる前のことであったことも、我ながら無責任だと考えて計画が中途半端で挫折してしまった理由でもある。

 ここまでが、勝手な想像。


 一説には、マグダラのマリアの子、つまりイエスの子は「サラ」という名前の女の子であったという。教会にとっては、まったく驚天動地の説といえるかもしれない。

 現在、ミトコンドリアのDNA配列の検査を行っているという。
 もしかしたら、今までの考え方を覆(くつがえ)すような結果になるかもしれない。その結果とは、イエスには子どもがあって、しかも偉大な人間であったということに書き換えられるらしい。
 と、私は思う。


○キリスト教と仏教

 「作られた聖人?」などといっても、それなりに大いに感激をするのも事実です。
 つまり、先生と弟子の織りなす人間模様に感激をする大きな特徴があるのでしょう。

 私は、いつもパウロという人と親鸞が、何となく性格的にも似通っているようにも思えてなりません。それは、新約聖書の『テモテへの手紙』などを読みますと、必ず唯円(ゆいえん)の『歎異抄』や倉田百三(くらたひゃくぞう)の『出家とその弟子』などを思い出すからです。

 そして、夏目漱石の『こころ』の先生の頼りなさや手紙にまで、ついつい思いが馳せるのは、いったいなぜでしょうか。
 さらに、ウナムーノの『殉教者 聖マヌエル・ブエノ』に出てくるドン・マヌエルと若い女弟子のアンヘラ・カルバリーノの関係を思い出します。その『殉教者 聖マヌエル・ブエノ』という小説が、何となく『こころ』の構図とも似ているからでしょうか。

 また、そのカルバリーノという名前が、『フランチェスコ』という映画を作った女性監督と同じ名前ですから。
 後に作った方のフランチェスコは、ポルノ俳優のミッキー=ロークでした。
 そんなわけで、一連のシソーラスが次々と脳の中に構築されるようです。
 あなたの場合は、いかがなものでしょうか?


○キリスト教やユダヤと日本

 かつて、ユダヤ人と日本人が同系の民族などと言った人がいました。
 また、旧約聖書にある十二部族の一部が日本に来たという人もいました。
 例えば、

   現在のイスラエル(共和国)に、三島(ミシマ)という地名がある。
   イシュマエルとは、石丸のことである。
   イシュマエルの子は、三島(ミシマ)という名前である。
   シバというのは、芝なのだ!

などということです。

 さらに、日本には「モーセの記念物」があったり、「イエスの墓」までがあるともいいます。
 その真偽のほどはわからないが、青森県にイエスキリストの墓があって、現在でも参拝をしている人もいるようです。
 私は、木村鷹太郎(キムタカ)の「日本古代史」はともかく、山根キクのような性格の人が、いいかげんな「出任せ」や「嘘」を言わないと信じているのですが、……
 いったい、それらのことは本当なのでしょうか?


○聖書の医者

 ルカは、『ルカによる福音書』と『使徒行伝』を残しているが、十二使徒ではありませんでした。
 上記の2冊は、いづれもルカのスポンサーであるティラピア殿下に捧げられたもので、内容が続いています。それが、『ヨハネによる福音書』が間に入ったことで、不自然な形に分割されてしまいました。

 とにかく、ルカは医者だったのです。
 しかし、当時の医者はあまり身分の高い職業ではありません。社会的には、床屋さんなどと同じレベルで考えられていました。もしかしたら、床屋と兼業をしていたのかもしれません。何となく私は「セビリアの理髪師」という言葉を思い出します。

 今日の「聖ロカ病院」は、ルカの名前を記念として付けたのです。
 また、医者は聖書の中で「死刑執行人」のような書き方をされているくだりがあります。
 それは、『シラの書』にある

 <おのが創造主の御前に罪を犯す者を、医者の手に陥らしめよ>(第三十八章15節)

という部分です。
 このような記述があるところを見ると、当時は医者にかかって死ぬものが多かったようです。
 バルバラ神父の訳した聖書には、「そんな人間は医者にかからせて、うんと費用をかけさせよ。」つまり「金を搾り取れ」というような、何となく苦し紛れの解説をしていました。


 床屋さんと医者が兼業していたことは、何となくサインボールからもわかります。
 現代の散髪屋さんの店頭で回っている「三色ねじり棒」の正式名をサインボールといいます。その三色の意味は、赤が動脈、青が静脈、白が包帯を表しています。
 その昔、外科医と散髪屋さんが同じ職業、つまり兼業だった名残(なごり)でしょう。


○十三日の金曜日と六六六

 イエスの処刑が行われた日が、十三日で金曜日に当たると言います。
 そんなために、不吉な日ということになったのでしょう。また、旧約などでは部族数であった十二を大切にする習慣が聖書からわかります。
 イエスの弟子たちも、十二人でした。イスカリオテのユダが抜けた後も、籤(くじ)でマッティアを補充したほどです。
 しかし、そのようなことは気にするほどのことはありません。(と、私は思います。)

 また、ヨーロッパでは「666」を不吉なナンバーと考えるようです。
 映画『悪魔の黙示録』などにも「666」のマークがあって、獣の印と言われてました。何となくキリスト教に関係があるようで、なぜかエホバの神に対する悪魔にも「666」が付いているそうです。

 日本でも「四」と「九」が「死」と「苦」に通じるので、病院の部屋番号になかったりするのと同じようなことかもしれません。


○死について

 聖書には、実に多くの箇所で「死について」書かれています。
 例えば、『詩篇』六−六から七−一四、『シラの書』四一−一から四など、かなり長い文章もあります。


○死海文書とグノーシス文書

・ 死海文書(クムラン文書)

 1947年にパレスチナのクムランで発見された。
 アラブ人の羊飼いが、死海にほど近い断崖の横穴で、きわめて古い写本の入った陶器の壺を見いだしたことに始まる。成立年代は、紀元前300年から70年にかけてである。つまり、イエスが語った教理の多くは、すでにこの文書の中に見いだせるという。
 もしかしたら、イエスがこの文書を学んだのではないかと思われる。あるいは、後にできた聖書の時代設定が改められているのかもしれない。

・ グノーシス文書(ナグ・ハマディ文書)

 1945年にエジプトのナグ・ハマディで発見された。
 これも、現在の福音書のルーツとも言える内容である。つまり、現在の福音書が幾度となく書き換えられているのに対し、当時の姿をそのまま残しているからである。


○外典と偽典

 聖書は、最初アラム語で書かれていたらしい。
 そして、イエスはアラム語を話していたらしい。

 『マリアの福音書』や『ラザロの大盃』などは、後世に作られたものらしい。しかし、今となっては事の真偽がわからない。


○日本の信者(内村鑑三ほか)

 京王線上北沢駅南にある日本キリスト教団松沢教会には、賀川豊彦博物館がある。


○芥川龍之介と新約聖書

 芥川龍之介も聖書に関しては、いろいろなことを述べています。
 『侏儒の言葉』には、
 なお、「侏儒」(しゅじゅ)は「朱儒」とも書き、「背丈がとても低い人」つまり「こびと」のことを言いますが、「学問や見識のない人をあざける場合も使います。
 『西方の人』(さいほうのひと)『続西方の人』は、『共観福音書』の内容のサマリおよび意見のメモのような形式をしています。なお、『共観福音書』は「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」です。それらは、内容や構成に一致点が多く、相互に参照が可能なために『共観福音書』と呼ばれます。また、『Q資料』と呼ばれる一つの資料から作られたとも言われます。

 私は、聖書の記述が長いので読んでいてうんざりすることがあります。
 もともと、「福音書」は「幸福な音信(いんしん)」という意味ですから、『共観福音書』のような伝記風の記述ではなかったのではないでしょうか。それこそ、最初は「パウロの手紙」のような内容が追加・訂正されるうちに膨大な記述になったように思われます。
 したがって、長々とした文章を読むのは、忍耐が必要です。なぜならば、すぐに眠くなるからです。
 ホテルの部屋に聖書が置いてあるのは、もしかしたら睡眠をうながすためかもしれません。つまり、眠りにつくための書と言ってもよいでしょう。


○太宰治とキリスト教

 太宰治の作品で、キリスト教に関係するものとして『駆込み訴え』と『パウロの混乱』がある。
 もしかしたら、他にもあるかもしれないが、あまり読書をしない私はそれを知らない。

 『駆込み訴え』は、イスカリオテのユダが、自分自身の正当性を主張して訴え、主を売り渡すという内容であるが、考え方によっては理解ができる。太宰の考えであろうが内面的なものが、実によく描かれている。
 ちょうど、映画『ジーザーズ・クライスト・スーパー・スター』と同じ構図である。その映画でも、イスカリオテのユダの言い分が非常にわかりやすかった。

 『駈込み訴え』の冒頭は、次のように始まる。

 <申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷(ひど)い。酷い。はい。厭(いや)な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇(かたき)です。>

 つまり、自分自身の感情の変化から、それなりの結論まで一気に述べ、続いて一連の述懐が始まります。

 <あの人よりたった二月(ふたつき)おそく生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。人と人との間に、そんなにひどい差別は無い筈だ。それなのに私はきょう迄(まで)あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。…… 私は今まであの人を、どんなにこっそり庇(かば)ってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑(けいべつ)するのだ。…… あの人は、なんでもご自身で出来るかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。ばかな話だ。世の中はそんなものじゃ無いんだ。>

 <私はあの人を、美しい人だと思っている。私から見れば、子供のように慾が無く、私が日々のパンを得るために、お金をせっせと貯(た)めたっても、すぐにそれを一厘残さず、むだな事に使わせてしまって。けれども私は、それを恨みに思いません。>

 そして、その述懐の中にはデリケートな心の揺れまであるのです。
 あるとき、ユダの寂しさについてイエスは太宰なりの考えで言いました。

 <「…… わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかっていて下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」 そうおっしゃってくれて、私はそれを聞いてなぜだか声出して泣きたくなり、いいえ、私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。>


 私(黒田康太)は、何となく『論語』にある孔子の言葉、

 ≪人不知而不チ、不亦君子乎≫

を思い出しました。
 そして、太宰ほどの博学の人ですから、やはりおそらくこの概念を想定したんじゃないかと思います。
 そして、それをさらにユダの愛情に変えていきます。

 <…… ずいぶん広い桃畠(ももばたけ)もあります。春、いまごろは、桃の花が咲いて見事であります。一生、安楽にお暮しできます。私がいつでもお傍について、御奉公申し上げたく思います。よい奥さまをおもらいなさいまし。…… 「ペテロやシモンは漁人(すなどり)だ。美しい桃の畠も無い。ヤコブもヨハネも赤貧の漁人だ。あのひとたちには、そんな、一生を安楽に暮せるような土地が、どこにも無いのだ」と低く独りごとのように呟(つぶや)いて、また海辺を静かに歩きつづけたのでしたが、後にもさきにも、あの人と、しんみりお話できたのは、そのとき一度だけで、あとは、決して私に打ち解けて下さったことが無かった。>

 これはまた、私に芥川龍之介の『杜子春』の最後のくだりを、何となく思い出させるのです。
 いよいよユダの気持は逼迫をしていくのです。そして、最後のほうになって、恐ろしい結論と開き直りが待っていたのです。

 <あの人は嘘つきだ。言うこと言うこと、一から十まで出鱈目(でたらめ)だ。私はてんで信じていない。けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんな美しい人はこの世に無い。私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ。>

 <私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。おお、それにちがい無い。あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。>

 この最後のユダの捨てぜりふは、何となく太宰のやりすぎの感じがしないでもありません。
 あなたは、どのようにお考えでしょうか?

 私(黒田康太)も、イスカリオテのユダのような他の弟子たちと比べると非常にインテリジェンスの高かった人物の一連の行動について、何となく不思議に思い続けてきました。それは、例えばペトロの鶏の話のように、どうも直感的に納得できないのである。ペトロのような謹厳・単純な人が師を「知らない」などと言えるであろうか。また、ユダのような実直・博識な人が師を「売り渡したりはしない」のではなかろうか。

 それらを、「人間の意志の弱さ」とか、「サタンが入った」として単純に短い記述をしているほうが、何となく不自然に感じられるのであるが、いかがであろうか。そして、実際には隠された意味があるのではないかなどと、つい考えてしまうのであるが、……


 それは、ともかくパウロについても多くの疑問がある。
 やはり、太宰治の作品『パウロの混乱』から参考までに引用してみよう。

 <「義人(ぎじん)は信仰によりて生くべし。」 パウロは、この一言にすがって生きていたように思う。パウロは、神の子ではない。天才でもなければ、賢者でもない。肉体まずしく、訥弁である。 …… 四書簡の中で、コリント後書が最も情熱的である。謂わば、ろれつが廻らない程に熱狂的である。しどろもどろである。>

 そして、太宰はパウロについて、

 <一、彼の風采上らず、その言語野卑なり。例えば、「その書は重く、かつ強し。その逢うときの容貌は弱く、言は鄙(いや)し。」と言われ、パウロは無念そうに、「我は何事にも、かの大使徒たちに劣らずと思う。われ言葉に拙けれども知識には然らず、凡ての事にて全く之を汝らに顕(あらわ)せり。われ汝らを高うせんために自己を卑(ひく)うし、価なくして神の福音を伝えたるは罪なりや。」と反問している。
二、横暴なり。破壊的なり。
三、自家広告が上手で、自分のことばかり言っている。
四、臆病なり。弱い男なり。意気揚らず。
五、不誠実。悪巧(わるだくみ)をする。狡猾であり、詭計を以て掠め取るということ。
六、彼の病気。癲癇ではないか。「肉体に一つの刺(とげ)を与えらる云々。」
七、彼が約束を守らぬということ。>

のようにまとめている。
 実は私にも、「まったくそうだ」と思う箇所と「さもありなん」と思い当たるふしがあるんです。


○キリスト教関係の創作

・ 『修道士カドフェル』

 なかなか見ごたえのあるストーリである。中世の修道院の中の様子が、垣間(かいま)見れる。時代考証なども、しっかりしているのかもしれない。
 カドフェル役は、デルフ=ジャコビ。
 印象のある台詞(せりふ)。(カドフェルが尼僧に言った言葉)

 <天の確かさに比べれば、我々の確かさは明日(あす)まで。昨日(きのう)という日が、あっただろう。>

 なぜか、同じ番組を何回見ても面白い。
 2回目に見たときの私のメモには、「天の値(あたい)に比べたら、我々の確かさは明日(あした)までだ。」とある。その箇所は、カドフェルが昔恋人だった人(リチリデュス?)に言ったのであるが、前以上に感動をした。
 彼女が別れぎわに、「もう一度、会えるでしょうか?」と聞いたときの言葉である。


○教典の大きさ

 キリスト教の教典(けいてん)の大きさをあげると、

   旧約聖書  59万2439語
   新約聖書  18万1253語
    合計    77万3692語 これは 356万5480字

だそうです。
 ついでに、仏教経典(ぶっきょう きょうてん)の大きさの例として二つの経

   大般若経(だいはんにゃきょう)  全600巻  約500万字
   般若心経(はんにゃしんぎょう)  わずか262字

をあげておきましょう。


○旧約聖書の内容

 聖書にある順番によって、教典名を並べてみました。もしかしたら、間違っているかもしれません。
 旧約聖書が39書、新約聖書が27書あると言います。しかし、カソリックの聖書には「智慧の書」があったりして若干書名が増えているようです。

 旧約聖書を勉強すると現在の世界情勢などもある程度理解できるようになるのではないでしょうか。
 例えば、中近東で起こっている問題です。
 それは、旧約聖書に記された「サムソンとデリラ」のいちゃもん以前からの戦いでもあったようです。「パレスチナ」の語源が旧約聖書にある「ペリシテ人」ということを知ると、その争いが長期間にわたって、かなり根強いということがおわかりになるでしょう。

 それは、『創世記』から『出エジプト記』にかけてあるモーセに率いられたイスラエル人とエジプトのパロ(ファラオ)の関係で、そこにすでに根深く応酬があったからです。そして、片方が滅びるまで戦うという思想も、かなり古いものです。執念深いというか、日本人からみれば一種の偏執狂ともいうような病気ではないでしょうか。
 したがって、それがエスカレートしたアメリカとPLOの問題なども、そう簡単には片づきますまい。


 また、新約聖書でいう「キリスト」の意味も旧約聖書を読むと何となく理解ができます。
 なぜならば、メシアが「油を注がれた者」という意味で、それをギリシャ語で「クリストス」つまり「キリスト」を意味するからです。ここで「油を注がれた者」とは、高価な油によって清めの儀式を受けて王になった者を言います。
 ですから、「最初のキリスト」は預言者サムエルが油を注いだ「サウル王」なのです。
 しかし、ふつうメシアというとダビデ王をさすことが多いようです。

 なお、モーセの十戒(デカローグ)には次のようなものもあります。

   五 つねに父母をうやまうこと
   六 人を殺してはいけない
   八 盗みをしてはならない
   十 他人の持ち物を欲しがってはいけない

 すべての十戒については、『出エジプト記』をご覧ください。

 ついでながら、ヨーロッパでは十戒と並んで「七つの大罪」というのがあります。
 ヒエロニムス・ボスが描いた作品には、甦ったイエスを中心にして円形に「憤怒」「傲慢」「淫欲」「怠惰」「大食」「貪欲」「嫉妬」の場面が描かれています。

 私は、「旧約聖書を物語として読むと、非常に面白い」と思います。しかし、内容自体には何となく理解できないところが多いことも事実です。
 『ベルツの日記』明治37年(1904年)6月18日(宮の下)には、

 <まるでうそのような話だが、今日なお、われわれの子供に、古いユダヤ教のあらゆる下らぬことが押附けられているのだ。全く余計なことだ。野蛮人がかれらの天地創造の話をすれば、世間では笑うけれど、旧約聖書の話に比べて、別段大いに未開なわけでもない。肉欲にふけり、偶像崇拝を事とする王が、神の寵児・智の権化として描き出されているのだ。旧約聖書を入念に、しかも公平な眼で読んだ後に、なおその『神秘的な』起源説を信じようとする者があれば、それは二重人格の持主に相違ない。>

というような記述がありました。
 なお、日付の後にあるかっこ内の「宮の下」は、箱根でこの文章を書いたということではないでしょうか。


 しかし、私は旧約聖書を読むたびに、実によくできたストーリだと感嘆します。
 例えば、ヨセフの幼いころの夢の話などです。後で考えると、それらの他愛のない内容が、ちゃんとモチーフになっているからです。それが、兄弟ばかりではなく、2回目には父母を含めてのものであることなど、将来の暗示を含めて、実によくできています。

 ヤコブの四番目の息子ユダは、イシマエル人の隊商に弟のヨセフを売ることを他の兄弟に提案をしました。
 そして、その部分だけを読むと憤りを感じるのですが、後に七十人ほどでエジプトに行き、そして一つの民族の起原になるほどに人口が増えていくことなどを考えると、やはり何かの力、もしかしたら神のご計画を考えるのですが、……
 あなたは、いったいどのようにお考えでしょうか?


○『創世記』

 この「創世記」から「申命記」までの五つを「モーセ五書」と言います。なお、「律法五書」という場合もあるようです。
 天地創造からモーセの死までの物語と律法について記されている。

 <見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、さらに園の中央に命の木と、善悪を知る木をはえさせられた。>(第二章7節)

 <あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。>(第二章16節)

 <あなた(人)は塵(ちり)だから、塵に帰らねばならない。>(第三章19節)


○『出エジプト記』

 有名な十戒(じゅつかい・じっかい)です。
 英語では、「The Ten Commandments」と言われますが、デカローグということもあります。「デカ」は「デカメートル」のデカで、10倍ということでしょう。

 <私はあなたの神、主である。あなたは私のほかに、何ものも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
 安息日を覚えて、これを聖とせよ。あなたの父と母を敬え。
 あなたは殺してはならない。あなたは姦淫をしてはならない。あなたは盗んではならない。
 あなたは隣人について、偽証してはならない。あなたは貪(むさぼ)ってはならない。>(第二十章2〜17節)


○『レビ記』



○『民数記』

 「荒野の書」とも言います。


○『申命記』

<私は、私の神、主が命じられたとおりに、定めと掟(おきて)とを、あなたに教える。あなたがたは、これを守って行わなければならない。
 これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示すことである。>(第四章5〜6節)

(注) 創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書には、古くから暗号が隠されていると言います。それは、ヘブライ語の秘密文字といわれるメラヒム文字で書かれているらしいのです。
 でも、はっきりしたことは私には言えないのです。なぜならば、マイケル・ビーン『第七の予言』(1988年アメリカ、字幕)という映画で見ただけだからです。そこで、ユダヤの男の子(学生)が言った言葉だったからです。なお、もしかしたらタイトルは「予言」ではなく、「預言」だったかもしれません。
 ちょっと、無責任でごめんなさい。


○『ヨシュア記』

 この「ヨシュア記」から「エステル記」までの12書を「歴史書」と言います。
 カナン侵入から捕囚の中頃までについてのイスラエル民族の預言的歴史です。


○『士師記』

 「刑事の書」ということもあります。


○『ルツ記』

 旧約聖書の中で、この『ルツ記』と『エステル記』は、その内容から小説と言ってもよいでしょう。


○『サムエル記』(一)(二)



○『列王記』(一)(二)



○『歴代記』(一)(二)

 <王は荒野に櫓(やぐら)を建て、また多くの水溜(みずため)を掘った>((二)第二十六章10節)


○『エズラ記』



○『ネヘミヤ記』



○『エステル記』

 旧約聖書の中で、この『エステル記』と『ルツ記』は、その内容から小説と言ってもよいでしょう。


○『ヨブ記』

 「ヨブ記」から「雅歌」までの五書を「詩と知恵文学」と言います。古代イスラエルの宗教が産んだ文学です。

 <わたしは裸で母の胎(たい)を出た。また裸でかしこに帰ろう。>(第章節)

 <女から生まれる人は日が短く、悩みに満ちている。
 彼は花のように咲き出て枯れ、影のように飛び去って、とどまらない。>(第一四章1〜2節)

 上の文章は、「女から生まれた人間は、命のある日が短い。そして、その日々は心がかき乱されることでいっぱい。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません」と訳したほうがよいかもしれません。


 <人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。
 女から生まれた者は、どうして正しくありえよう。>(第一五章)


○『詩篇』

 篇が、第一巻第一篇から第五巻第一五〇篇に分類されています。

   第一巻  第一篇から第四一篇
   第二巻  第四二篇から第七二篇
   第三巻  第七三篇から第八九篇
   第四巻  第九〇篇から第一〇六篇
   第五巻  第一〇七篇から第一五〇篇

 しかし、「巻」を表示しなくても「篇」だけで場所がわかりますので、「巻」は省略する場合もあるようです。

 <私たちに おのが日を数えることを教えて、知恵の心を得さしめたまえ。>(第九〇篇12節)

 上の言葉が、メメント・モリ(Memento mori=[ラテン語]死を忘れるな)の由来ともいわれています。

 <その口はのろいと、欺きと、しえたげとに満ち、その舌の下には害毒と不正とがある。>(第一巻 第一〇編)

 <われらのよわいは七十年にすぎません。
 あるいは健やかであっても八十年でしょう。
 しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、
 その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。>(第四巻 第九〇編)

 <人は、そのよわいは草のごとく、
 その栄は野の花にひとしい。
 風がその上を過ぎると、うせて跡なく、
 その場所にきいても、もはやそれを知らない。>(第四巻 第一〇三編)

 <涙とともに播くものは
 歓喜(よろこび)とともに収穫(かりと)らん。
 種をたづさへ涙をながして出(い)でゆけど、
 束をたづさへ喜びてかへりきたらん。>(第一二六篇5〜6節)

 何となく「ルバイヤート」を思い出させる数節です。
 井田俊隆訳の『ルバイヤート』には、

    いずれの日か 土に還るわれら、
    せめてその日まで楽しもう いまひとときの人生(いのち)。
    −−土は土に還り 土として眠る、
    酒も詩(うた)も舞姫もなく そして終りもなく。

    まこと ゆく川の 流れる水のごとく
    いずこよりか この世に来て、
    広野(ひろの)吹く 風のごとく
    いずこへか去る この縁(えにし)しれぬ私。

などとあるからです。


 <人は息のようなもので、その日々は過ぎ去る影のようである。>(第一四四篇)

 <死は永遠>(詩篇九十篇(モーセの祈り?))か一時的(仏教 輪廻転生)か

 <あなたが、どんなに死を軽蔑したとしても、これによりどのような得をしたというのか。>(マルティン・ルターが一五三四年に行った詩編九〇篇の講解)


○『箴言』

 「格言の書」とも言います。

 <死を恐れることは、知識の始めである。>(第一章)

 <知恵は、これを捕らえる者には命の木である、これをしっかり捕らえる人はさいわいである。>(第三章)

 <自分を知恵のあるものと思うな。>(第三章)

 <愚かなものは恥を得る。>(第三章)

 <人の心の高ぶりは滅びにさきだち、謙遜は栄誉にさきだつ。>(第一八章)


○『伝道の書』

 「伝道の書」または「コヘレットの書」とも言います。コヘレット(伝道者)が話した言葉をそのまま記した形式の書だからです。
 形としては、ソロモンの作品をよそおっているのです。ここには、文学的な言葉も多くあって、多くの教訓を私たちに与えたり、また小説の素材などにもなっているようです。
 作者は誰にせよ、ソロモンが人生の目的について、とくに得られなかったことを述懐している形式ですから、ペシミズム的な内容になってしまったのかもしれません。つまり、何となく厭世観をともなった悲観論のような内容なのです。


 <風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る>


 知者と愚者についても、大きな疑問を投げかけており、また私たちは死についても考えさせられます。

 <知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう>

 <みな一つの所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る>

 <金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。>

 <富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼす。>

 <富は不幸な出来事によってうせて行く>

 <人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある。>

 <死ぬる日は、生まるる日に勝る>

 <人の労苦はみな、自分の口のためである。その食欲は決して満たされない。>(第六章7節)

 <人は、賢者愚者、富者貧者、義人悪人、老若男女を問わず、その一生は空、死をもって終わるのみ。>(第三章19節)

 <実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。>

 <「昔のほうが今よりよかった」というな。それは、知恵が出す問題ではない。>


 「伝道者の書」の結論は、一口に言うと平凡な毎日の生活に満足を見い出すということであろうか。次のような文章があることを思えば。

 <平凡な日常生活の中に満足を見出すほかはない。>(第二章)

 以上のように『伝道の書』には、かなり多くの重要な概念が含まれています。
 <生まれるには時があり、死ぬにも時がある>などというのは「時間の概念」を言うことによって、「死を人生の現実として理解して、その上にはからいを捨てて、無の心境になる」というような意味合いになってくるのではないでしょうか。
 その部分をちょっと長くなるが、下に示しておきましょう。

 <天(あま)が下のすべての事には季節があって、
 すべてのわざには時がある。
 生まるるに時あり、死するに時あり。
 殺すのに時あり、癒すのに時あり。
 泣くに時あり、笑うに時あり。
 抱くに時あり、抱くことをやめるのに時あり。
 愛するに時あり、憎むに時あり。
 戦うに時あり、和らぐに時あり。
 神のなしたまうところは、皆その時に適(かな)いて美麗(うるわ)しい。>


 この本には、「空」や「無」の概念や言葉自体が多く含まれているので、何となく仏教的な教義を思い出させます。
 なお、「伝道者」という言葉は新約聖書の「テモテへの第二の手紙」にもありました。


○『雅歌』



○『イザヤ書』

 この「イザヤ書」から「マラキ書」までの17書を「預言書」と言います。
 私は、『イザヤ書』を読むと、なぜか宮沢賢治の『どんぐりと山猫』のストーリを思い出したりもするんです。
 『イザヤ書』には、第五十三章に

   今までと異なったヒーローのイメージ(1節)
   打たれ、苦しめられている人が本当は英雄である(4節)
   ここでイエス・キリストの出現を預言している(6節)

などと、ちょっと意外なことが記されています。


○『エレミヤ書』

<私は、彼らの行いとその手の業(わざ)に応じて彼らに報いる。>(第二十五章14節)

<主の謀(はかりごと)は偉大であり、御業(みわざ)は力強い。あなたの目は人の歩みをすべてご覧になり、各人の道、行いの実りに応じて報いられます。>(第三十二章19節)


○『哀歌』

 <乳飲み子の舌は渇いて上あごに付き、幼子はパンを求めるが、分け与える者もいない。>(第四章4節)

 <飢えは熱病をもたらし、皮膚は炉のように焼けただれている。人妻はシオンで犯され、おとめはユダの町々で犯されている。 …… 長老は敬われない。 …… 踊りは喪の嘆きに変わった。>(第五章10節〜15節)


○『エゼキエル書』



○『ダニエル書』



○『ホセア書』

 <私は、彼らの行いにしたがって罰し、悪行にしたがって報いる。>(第四章9節)


○『ヨエル書』



○『アモス書』



○『オバテヤ書』(アブディアの書)

 旧約聖書の中で、小さい書である。カソリック系の聖書では、『アブディアの書』と言うらしい。
 内容は、エドム人がヘブライ人を虐待することと、エドム人へ対するヘブライ人への反抗を詩の形で歌っている。この二つの民の敵対は、古くからあった。『創世記』第二十五章にも記述がある。

 <見なさい。私は民の中であなたがたを小さいものとする。あなたがたは、人々の中で軽蔑の的となる。>(2節)

 <あなたがたは、兄弟のヤコブを皆殺しにして、暴力をふるったので、恥をかかされ、永久に消え去る。>(10節)

 <ヤコブの家は、火となる。ヨセフの家は、炎となる。エサウの家は、藁(わら)となる。>(18節)


 なお、敵対する民族どうし関係は、エドム人との間の問題以外にも聖書には書かれている。
 例えば、ユダヤ人とペリシテ人である。サムソンとデリラの関係を思い出すと、古くからそれが根深いことがわかるでしょう。したがって、現在のイスラエル(ユダヤ人)とパレスチナ(ペリシテ人の末裔)との関係が、そう簡単には解決しないということが、私(黒田康太)にはわかるような気がする。


○『ヨナ書』



○『ミカ書』



○『ナホム書』



○『ハバクク書』



○『ゼバニヤ書』



○『ハガイ書』



○『ゼカリヤ書』

 <主は、……私たちの歩んだ道と行った業にしたがって、私たちを扱う。>(第一章6節)


○『マラキ書』



『シラの書』(旧約のカソリック版)

 <おのが創造主の御前に罪を犯す者を、医者の手に陥らしめよ>(第三十八章15節)

 <力量以上のことに無駄な努力をするな。>


 なお、『トビアの書』『ユディトの書』『マカバイの書(上)』『マカバイの書(下)』『智恵の書』『シラの書』『バルクの書』『エレミアの手紙』の8書はカソリックの聖書にあって、共通訳版聖書にはありません。


『ソロモンの知恵』(旧約の外典・偽典など)

 <学問を振りかざして、労働を厭(いと)うな。行き詰まったときには、対面にこだわるな。>(第十章26節)


『ベンシラの知恵』(旧約の外典・偽典など)

 <子よ、(あんまり)多くの事業に手を出すな。やり過ぎると、手を汚さずにはすまされなくなろう。>(第十一章10節)

 <「やれやれこれで安心、自分の財産で食っていける身分になった」と言ってみても、それがいつまで続くのやら知りようもなく、死んだら他人の手に渡るのである。>(第十一章19節)

 <「自分なんか何の役に立つのだろう、自分には将来どんな幸運が巡ってくるというのか」と言うな。>(第十一章23節)

 <死の到来が手間取ることはなく、黄泉(よみ)の定めはあなたに示されていないことを忘れるな。>(第十四章12節)

 <死なないうちに友人には親切にし、あなたの力の及ぶかぎりこれを助けよ。>(第十四章13節)

 <すべての業は朽ち果て、工人もその作品の後を追って消えていく。>(第十四章19節)

 <済んだと思ったときは、まだほんの序の口。途中で一休みなどしていると、はたと行き詰まる。>(第十八章7節)

 <人間とは何か。彼はどういう役に立つのか。また、彼の長所は何か、短所は何か。>(第十八章8節)

 <人の寿命は、せいぜい百歳。>(第十八章9節)

 <喋る前に学べ。病を得る前に養生せよ。>(第十八章19節)

 <鞍を置いたことのない馬は強情になり、子は放任しておけば気ままな人間に育つ。>(第三十章8節)

 <幼いときには、我が儘を許すな。>(第三十章11節)

 <肉体の健康にまさる富はなく、精神の喜びにまさる幸福はない。>(第三十章16節)

 <みじめな生よりは死のほうが、長患いよりは永遠の休息のほうがよい。>(第三十章17節)

 <人は富の用心に身を細らせ、心配ごとのためにおちおち寝ていられない。>(第三十四(三十一)章1節)

 <他人の飯を食っていては精神が腐る。良識と教養をそなえた人ならば、そういう生き方は警戒するだろう。>(第四十章29節)

 <すべて大地より出たものは、大地に戻る。>(第四十一章10節)


○『エノク書』(旧約の外典・偽典など)

 旧約の外典に、エチオピア語『エノク書』というのがある。
 そこには、宇宙人に誘拐されたような内容があったと思う。

 なお、エノク(Enoch)については、
(1) カインの子。アダムが作った町の一つに自分の子エノクの名を付けた。(創世記4:17)
(2) 「アダムの子孫の族長の中で、ヤレドはエノクの父、エノクはメトセラの父」
という記述がある。(創世記5:18〜21)
 また、
 「エノクは神とともに歩み、神がエノクを取られたので、見えなくなった。」(創世記25:4)
 「エノクに並ぶ人は、この世にいない。彼は地上から運び去られた。」(集会の書49:14)
ともある。
 さらに、
 ○『ヘブル人への手紙』
を参照してください。


○新約聖書の内容=福音書という言葉

 新約聖書には、イエスのことが多く書かれています。
 もともと、福音書という言葉は「幸福の音信」というような意味で、どちらかというと手紙のような形をしていたのでしょう。それが、何回も加筆訂正されるうちに物語のような文体になったようです。現在の共観福音書は、おそらく最初は「Qの福音書」のような簡単なメモであったのかもしれません。

 福音書には、富や権力への批判があります。
 例えば、富への非難としては、
    「マタイによる福音書(マテオによる福音書)」の4.1〜11
    「ルカによる福音書」の4.1〜13
などですし、権力への非難は
    「ルカによる福音書」の12.15 16.9〜12
    「ヨハネによる福音書」の13.4〜17
などにあります。


○『マタイによる福音書』

 <私に向かって「主よ、主よ。」と言う者がみな天国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。>(第七章21節)

 <私のこれらの言葉を聞いて行う者は……賢い人に似ている。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は……愚かな人に似ている。>(第七章24節)

 <人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。>(第十六章27節)

 <律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄(ちょうろう)して言った。>(第二十七章41節)


 また、次のような喩えもあります。

 <聖なるものを犬にやるな、また真珠を豚に投げてやるな。>(第章節)


○『マルコによる福音書』

 <ヨハネはらくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。>(第一章6節)

 ヨハネは、何となく生臭坊主を想像させますが、野蜜はナツメヤシの甘い汁、そして、「いなご」は虫でなく「イナゴマメ」ではなかったのでしょうか。当時、イナゴマメは豚の飼料として栽培されていました。

 <すべての悪徳と罪は、人間の心から出てくる。>(第七章21節)

 <誰でも私についてきたいと思ったら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私について来なさい。>(第八章34節)

 <金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうがやさしい。>(第十章25節)

 <安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。>(第章節)


○『ルカによる福音書』

 <イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時。>(第章節)

 <健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。>(第章節)

 <人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。>

という節は、別の聖書には

 <全世界を手に入れても、自分を失ったら何になるでしょう。>

となっていました。

 <何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかと身体のことで思いわずらうな。命は食物にまさり、身体は着物にまさっている。>(第十二章22節)

 <あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。>(第十二章29節)

 <そのとき、あなたがたは「ご一緒に食べたり飲んだりしました。また、私たちの広場でお教えを受けたのです。」と言い出すだろう。しかし、主人は「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、みんな私から立ち去れ。」と言うだろう。>(第十三章26−27節)

 <いつも目を覚まして祈りなさい。>(第二十一章36節)

 私は、ここを読むたびに、『徒然草』に記述してある法然の言葉を思い出す。
 それは、「念仏をしていて、眠くなったときはどうすればよいでしょうか?」という問いに、法然は「起きているときだけ念仏なさい。」といたわりの気持ちで答えるのである。


 <あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。>(第章節)

 <神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。>

 この節も、なぜか私に「日蓮の言葉」を思い出させます。


○『ヨハネによる福音書』

 『ヨハネによる福音書』は、他の三つの共観福音書と異なって、何となく神がかりです。
 第三章では、「肉」の世界しか考えることのできなかったニコデモに、イエスが「霊の世界」も見るようになりなさいと言っています。

 <私は、私がどこから来たのか、またどこへ行くのか知っているからです。>(第八章)

 しかし、だいぶ後にトマスの言葉として

 <私はどこへ行くのかわかりません。>(第十四章?)

というのがあったと思う。


 <まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、私はいるのです。>(第八章58節)

 <世界が存在する前に、ご一緒にいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。>(第十七章5節)

 <私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるものです。また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。>(第十一章25節〜26節)

 <風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。>(第章節)

 上の言葉は、旧約の『伝道の書』を思い出させます。


 <デドモと呼ばれるトマスが言った。「われわれも行って師とともに死のうではないか」>(ヨハネによる福音書カセットテープ(2)のB面のはじめ)

 <イエスはご自分が父から来て、父へ行かれることを知っていた。>(同上のなかほど)

 また、何となく不思議に感じられる下のような言葉もあったようです。もしかしたら、私の勘違いかもしれません。

 <わたしのものはあなたのもの。あなたのものはわたしのもの。>


○『使徒行伝』

 <信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。>(第章節)

 <もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火(すみび)を積むことになるのである。>(第章節)

 上の節で、私(黒田康太)は何となく種田山頭火のことを思い出したのです。
 しかし、単に文字面のことである。

 (注) ここで、この野生味あふれる放浪詩人についてメモしておこう。
 山頭火という俳号は、運命判断の一種である納音(なつおん)にちなんで付けたという。
 納音は六十通りの干支に五行を配し、三十の名称をつける。それを人の生涯に当てはめ、運命判断をする方法。
 例えば、生年が丙申(ひのえさる)・丁酉(ひのととり)は納音が「山火下」、甲子(きのえね)・乙丑(きのとうし)は納音が「海中金」である。山頭火の師の「井泉水」も納音であるから、師の発想を真似たと考えられる。
 しかし、実際に山頭火の生まれたのは明治十五年で納音は「楊柳木」である。したがって、何か別の年を考えてつけたのであろう。

 さらに、種田山頭火には、こんなこともあった。
 若松の遊郭で行乞をしていると、女郎が争って喜捨をしてくれた。かなりの額であったから、山頭火は我を忘れて登楼し、女郎を買った。そして、翌日になって後悔をするのだった。そのときの句に、

 <風の中おのれを責めつつ歩く>

というのがある。



 <受けるよりも与えるほうが幸せである。>(第二十章35節)

 これは、おそらくパウロがイエスの言葉を引用して言ったのであろう。しかし、啓示を受けたとき以外にはイエスに接していないので、言葉をどこから引用をしたのかがわからない。あるいは、マタイかルカから譲り受けて「Q(クー)」を持っていたのかもしれない。
 それでも私は、もしかしたらパウロ自身の言葉なのかもしれないとも考えている。


 この『使徒行伝』は『ルカの福音書』の後編として、ルカの著述だと考えられています。テオフィロ閣下に対する献辞があるので、いちおうそれが事実と考えてもよいでしょう。
 しかし、パウロに従ったルカは自分の名前を記していません。
 ただ「私たち」という表現形式を採っている。
 『使徒行伝』は、ルカの著述であるが、その後半にはルカ自身がパウロに付き添うような形で登場しているからです。したがって、後半の記述は実際に当事者が行ったことと考えると、いろいろなことが明白になるでしょう。


○『ローマ人への手紙』

 <肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。>(第十四章21節)

 <もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火(すみび)を積むことになるのである。>

 この文章を読むと、私はなぜか種田山頭火のことを考えてしまう。


○『コリント人への手紙』(一)(二)

 <私たちが、キリストに希望をかけたのが、この世のためだけであるなら、私たちは、すべての人の中でもっともあわれなものである。>((一)第十五章19節)

 上の文章を引用して、ウナムーノは『殉教者マヌエル・ブエノ』の中で、<真実? ラサロ、真実はおそらく恐ろしいもの、耐えがたいもの、致命的なものです。単純な人々は、真実と共に生きられないでしょう。>とラサロ(女主人公の兄)に言っています。


 <人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知っていないのです。>((一)第八章2節)


○『ガラテヤ人への手紙』



○『エペソ人への手紙』



○『ピリピ人への手紙』



○『コロサイ人への手紙』



○『テサロケニ人への手紙』(一)(二)



○『テモテへの手紙』(一)(二)

 <男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。また、女はつつましい身なりをして、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。>(第一 第二章8節)

 <わたしたちは、何一つ持たないでこの世にきた。また、何一つ持たないでこの世を去っていく。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。>(第一 第六章7節)

 <金銭を愛することは、すべての悪の根である。>(第一 第六章10節)

 <あなたの知っているように、アジアにいる者たちは、皆わたしから離れて行った。その中には、フゲロとヘルモゲネもいる。>(第二 第一章15節)


○『テトスへの手紙』



○『ピレモンへの手紙』



○『ヘブル人への手紙』(『ヘブライ人への手紙』)

 旧約聖書の外典・偽典『エノク書』に書かれていることを補強した記述がある。
 それは、
 <信仰によって、エノクは死に出会わないように移された。神が移したのであって、人々はエノクを見つけることができなくなった。エノクが移される前に、神に喜ばれた者だったからである。>(11:5)
で、私(黒田康太)にとっては驚くような記述である。

 なぜならば、パウロが「神が移した」と言っていることです。
 パウロは、三度目の伝道を終えてエルサレムに戻ったときに、多くのユダヤ人たちがまだモーセの律法に固執しているのを知ります。(『使徒行伝』21:20)。それから間もなく、この『ヘブル人への手紙』を書いて、もはやモーセの律法に厳密に従う必要のない理由を述べています。
 そんな中の一節だからです。


○『ヤコブの手紙』

 <欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。>(第一章15節)

 欲から罪へ、そして罪から死へという構図は、確かに注意をしなければなりません。
 仏教でも、ちしんどんを戒めています。


○『ペテロの手紙』(一)(二)



○『ヨハネの手紙』(一)(二)(三)



○『ユダの手紙』



○『ヨハネの黙示録』

 『ヨハネの黙示録』を読みなおしてみました。残念ながら、私はヘブライ語もギリシャ語も読めません。そこで、和訳のものを自分なりに読むしかない。
 なかなかわかりにくい内容です。
 黙示録(もくしろく、もくじろくではありません。)は、ローマの迫害下にあったキリスト教徒を慰めたり、励ましたりするために書かれたものです。しかし、文章が象徴的な表現によって書かれていますので、実際には何を預言しているのかがわかりにくいようです。
 そこで、「ノストラダムの預言」などと同様に、あまり意味のない本だとする学者もいるようです。
 しかし、この『ヨハネの黙示録』はスエーデンボルグが、しばしば引用をしている意味合いのある文章でもあるんです。

 <私は、あなたがたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう。>(第二章23節)

 上のくだりは、奥義を知らないとわかりにくいでしょう。実は、私も奥義やアルカナには不詳なので、よく意味がわからないのです。したがって、自分なりの解釈しかできません。でも、それでいいんです。

 <主に結ばれて死ぬ人は幸いである。…… 「霊」も言う。「然(しか)り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。>(第十四章13節)

 <私はまた、死者たちが大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれた。…… 彼らは、書物に書いてある行いに応じて、それぞれ裁かれた。>(第二十章12−13節)

 私(黒田康太)は、ここで閻魔大王の浄玻璃鏡を思い出したりもして、恐ろしくなってしまいます。

 <見よ、私はすぐに来る。私は報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。>(第二十二章12節)


○その他(新約の外典・偽典など)

・ Q(クー)(先生の言葉)

 Q(クー)については、「安心立命とは?」の「宗教と信仰について」にある

    「○Q(クー)のオリジナル版=『Q資料』=『先生の言葉』

を参照してください。

 なお、「Q」とは「資料」を意味するドイツ語の「Quelle」の頭文字を取ったものです。かつては、仮説上の資料と言われたが、最近になってバートン・L・マックによって実際に再構築が実現しました。
 いちおうイエスの生涯の時間的順序によって、その言葉が並べられているといいます。


・ 『パウロ行伝』

 p106 パン、野菜、水、塩 p247 パン、塩、水、一枚の衣


・ 『トマスによる福音書』

 最近になってナグ・ハマディにおいて発見された文書で、修正があまりなされていない聖書と言ってよいでしょう。
 わずか114個のイエスの言葉が収められたものであるが、福音書の原形をよく保っていると私は思う。しかし、この福音書ではイエスの語録が、必ずしもイエスの生涯順、つまり発言をした順序とは無関係に並べられています。

 現在の新約聖書に書かれていないイエスの未知の言葉をアグラファといいます。
 そのアグラファが『トマスによる福音書』には、42個もあるのです。つまり、114個の言葉の中で、共観福音書と並行する語録は72個なのです。そして、残りの42個がアグラファなのです。
 そのような事実から、この『トマスによる福音書』は現在ある共観福音書などより、かなり古い時代の記録ではないかと考えられるわけです。
 参考までに、ここにいくつかを抜き出してみよう。

 <そして、彼が言った、「この言葉の解釈を見いだす者は死を味わうことがないであろう。>(1:ヨハネ八51〜52)

 <イエスが言った、「人間に喰われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に喰われる人間は忌まわしい。そうすれば、人間が獅子になるであろう。>(7)

 <イエスが言った、「預言者は自分の郷里では歓迎されることはないものだ。医者は自分を知っている人々を癒(いや)さないものである。」>(31:マルコ六4、マタイ十三57、ルカ四23〜24)

 <イエスが言った、「あなたが生きている間に、生ける者を注視しなさい。あなたが死んで、彼を見ようとしても、見ることができないことのないように。」>(59)

 <イエスが言った、「私は彼らすべての上にある光です。私はすべてです。すべて私から出た。そして、すべて私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見いだすであろう。>(77)

 <イエスが言った、「この世を見いだし、裕福になった者は、この世を棄てるように。」>(110)

 <イエスが言った、「魂によりかかっている肉体は禍(わざわい)である。肉体によりかかっている魂は禍である。」>(112)

 <シモン・ペテロが彼らに言った、「マリハムは私たちのもとから去ったほうがよい。女たちは命に値しないからだ。」 イエスが言った、「見よ、私は彼女を(天の王国に)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから。」>(114)


・ 『トマス外伝』

 食べ物について p317


○マリアとユダ

 聖書には、実に多くの人々が登場します。同じ名前の人がいたり、似た名前の人がいたりします。
 例えば、「新約聖書」には4人の「マリア」と5人の「ユダ」が出てきます。それぞれは、バルバロ神父が訳した『聖書』の索引を参照すると、その該当個所がわかるでしょう。

 ユダの場合です。
 旧約にも、ヤコブの四番目の息子ユダが登場します。彼は、イシマエル人の隊商に弟のヨセフを売ることを他の兄弟に提案をしました。
 また、旧約には人名の他にも地名としてユダが出てきます。
 『哀歌』には、次のようなくだりがあるのをご存じでしょう。

 <おとめはユダの町々で犯される。>

 新約自体にも『ユダの手紙』があります。むろん、イエスを裏切ったといわれるイスカリオテのユダが書いたものではありません。

 しかし、以下には私の印象に残って注意を惹いた人物をメモっていきましょう。


○ルカ

 ルカは、医者だったといいます。


○パウロ

 私は、パウロの書簡にある言葉を味わうと、心がおののくことがあります。


○フランチェスコ

・ フランチェスコと仲間の会話

 フランチェスコ 「石に学ぼう。」
 仲間 「何を?」
 フランチェスコ 「沈黙だよ。」
 (ミッキーローク主演『フランチェスコ』(映画・ビデオ)より)

・ フランチェスコとほう居士

 フランチェスコのことを考えるときに、私は ほう居士(ほうはまだれに龍)に思いが馳せます。なぜならば、ほう居士は参禅を始めるときに家の財宝を荷車で持ち出して海に沈めました。

・ 簿記について

 まったく関係のない話。
 ナザレ修女会の岡上千代が簿記を習って、端数がどうしても合わなかったときに

 <簿記は、イタリアの聖フランシスの弟子が始めた。>

と言った。
 簿記は、ベネチェアの商人が始めたとも、また修道院で始まったともいわれている。


○ペラギアとドミニナ=自殺をした二人の女性

 ペラギアとドミニナは自殺をしました。しかし、自殺を嫌うキリスト教でも彼女らを聖徒に列したのです。


○なぜイ短調愚問集なのか?

 ここには、愚問を集めておきました。
 バロック音楽で用いられる通奏低音(バッソ・オスティナート)のように、はじめから終わりまで、主旋律にまつわりついて執拗に繰り返して流れている部分があります。そして、それが忘れられなくなるのです。しかし、それを意識しすぎると肝心の美しい主旋律に無関心になったり、そのよさがわからなくなってしまいます。

 陰に隠れたものを見なければよいのですけれど、助平根性があるので、項(うなじ)が固かったり卑しい人は、どうしてもそこに注意が行ってしまいます。そして、それを解決しないままに主旋律のよさがわからなくなってしまいます。
 そのような部分は、どちらかというとマイナー(短調)なので、メジャー(長調)のようには、明るくありません。それは、単純でシャープやフラットの調性がないイ短調ですから、内容はわかりやすいのではないでしょうか。


 ノーバート=ウィーナーの本に書いてありましたが、わざわざ教会に来て司祭に

 <神さまは、ご自分よりも重い石を持ち上げることが、おでになるのでしょうか?>

と尋ねる馬鹿者がしばしばいるそうです。
 さすが、ウイナーの本の記述はそこまでですが、私(黒田康太)が野次馬根性で続けますと、その問いは「できる」と答えても「できない」と答えても、神さまはご自分の限界を示されることになるのです。そこで、仕方なく

 「神を試みてはいけない」

ということで、シャットアウトしてしまうんです。
 なお、ウィーナーの本は『RIKOホームページ』の「おわり」ページにある「指導していただいた方々と参考文献」にあげておきましたが、『サイバネティックス』ではなく、『科学と神』です。


 そんなわけで、多摩市の文化サークルでなされた質問に対して、私なりに答えたものや大御所である大倉謙二先生のご意見などを勘案して、いちおうここにメモをしておきました。私自身でも、忘れないようにするためです。
 内容は、まったくの「珍問答」・「こんにゃく問答」で、愚問というようりかほとんどの回答が満足していなかったり、さらには回答が質問になっていたりして、お恥ずかしい次第です。
 しかし、ここでの回答者の知的レベルの現実が、そうなのですから仕方がありません。どうやら「お粗末な性格」は、一生涯直らないみたいです。

 こんなところで開き直ったりして、自分自身の不勉強の恥をさらすばかりかもしれません。
 なお、ついでながら『論語』に「為政第二」に、

 <子の曰わく、異端を攻(おさ)むるは斯れ害のみ。>

というのがありました。


○賢い神さまと愚かな民(旧約聖書関係)

Q 神さまはいるか、いないか?

A グールモンは「神が人間を造ったのでなくて、人間が神を作ったのである」と言いました。
 結論的に言うと、神はいるのです。
 インド哲学の大先輩であられた加瀬喜一郎先生や信仰の大御所である高守益次郎先生も、そう言っておられました。
 「神はいる」というよりか、もしかしたら「神という概念がある」と言ったほうがよいかもしれません。

Q 「モーセ五書」には、何が書かれているのでしょうか?

A 人間の始まりから、モーセの死までが書いてあります。
 現代にも及ぶという暗号が、その中に隠されているという人もいるようです。


○天国その他(聖書全般)

Q 神父さんは、天国や地獄に行って、見てきたように話してくれます。本当なんでしょうか?

A 実際に体験をしないことでも、見たように話すことはできます。
 しかし、疑似体験をされているかもしれませんので、それが嘘だとは言えません。そのようなことは、その人が行ったという証明をしにくいと同時に、逆に行っていないということも証明をしにくいことではないでしょうか。

Q 「神父」と言ったり、「司祭」と呼ばれる人は、同じようなことをしているのではないでしょうか?

A 宗派によって、その呼び方が違うのでしょう。
 テキストについても、キリスト教では経典(けいてん)と言い、仏教では経典(きょうてん)と言います。
 また、キリスト教では「法律」の意味を「律法」と言って、一般の法律と区別をしているようです。

Q 天国はあるのでしょうか?

A あるといえばある、ないといえばないでしょう。

 また、天国と地獄がペアになってあるという人がいます。さらに天国はなくて、地獄だけがあるという人もいるでしょう。
 天国を「パラダイス」と言ったり、「仏界」または単に「仏」などとも言うようです。ヨーロッパでもインドでも、そして中国でも日本でも似たような概念があるのでしょう。

 物語に過ぎないかもしれませんが、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』があります。
 かんだたは、生涯に悪いことを続けてきました。しかし、一度だけ前の地面を歩いていた蜘蛛を踏もうとして、ふと考え直して、助けたのです。そして、その後の次第は、あなたがご承知のとおりです。
 この物語には、天国の様子と地獄の様子が、実によく書かれています。したがって、私はさもありなんと考えています。

 この『蜘蛛の糸』とまったく同じ内容で、『ペトロの母』というのがあります。
 ペトロの母は、まったくの性悪で地獄に墜ちてしまいました。それが、ペトロの大きな悲しみだったのです。ある日、ペトロは母のことで、イエスに嘆願をしました。すると師は、「何かよいことがあったか?」と言いました。そして、ペトロがさんざん調べた結果、生前に一回だけ乞食に葱(ねぎ)を与えたことがわかりました。

 その葱が細くなって、母親が喘(あえ)いでいる地獄に降りてきました。
 母親は、しめしめと思って登るんです。そして、しばらくして下を見ると次々と登ってくるではありませんか。そこで、母親は下からくる人を足でけ落としたり、罵ったりしました。
 その瞬間です。長くなった葱の葉は、母親の上のところでぷつりと切れたのです。
 ペトロは、イエスに向かって恥ずかしそうな顔をして、黙ってしまいました。


 立正大師(日蓮)は、御書に

 <地獄と仏はいづれの所に候ぞと尋ね候へば、あるいは地の下と申す経文もあり、あるいは西方などと申す経も候。しかれども委細に尋ね候へば、我等が五尺の身の内に候とみえて候>

と言いました。
 これは、天国や地獄がすでに自分自身の中にあるということなのでしょうか。
 もしかしたら、脳のもたらした幻影なのかもしれません。

Q 旧約聖書の神さまと新約聖書の神さまは、同じ方であらせられますか?

A どうやら違う方らしいですよ。

Q 聖書を読んでも、賛美歌を聞いても天国に行きたいと思わないのは、いかなものか?

A あなたの信仰が、薄いというわけではありません。誰でも、そんなもんでしょう。
 唯円も、『歎異抄』の中に同じようなことを書いています。そして、師の親鸞に問うていました。「勇躍歓喜して極楽へ参りたきなきものを?」というくだりです。

Q 死んだらどうなるのか?

A 永遠の生命があるとも言います。

 しかし、それを単に「生命」の状態と呼んでよいかどうか、私にはわかりません。
 ブレーズ=パスカルやエマヌエル=スエーデンボルグ、そしてアドルフ=シュタイナーなどの書いたものを読むと、それがあるとも言えそうです。しかし、近代の不完全な科学で考えると、絶対にそれはありません。
 でも、あったときのことを考えておいたほうがよいでしょう。

 人間には、見えない光や聞こえない音があるということは、言うまでもなく紛れもない事実だからです。
 本名がユダと言ったトマスのように疑っても、それはあさはかな人間の脳の中の限られた現象でしかないのです。おそらく、トマスは後になってその愚かさに気付いたのでしょう。イエスが殺されるであろうエルサレムに「もう一度行こう」と言ったときに、他の弟子たちの反対の中で、トマスは一人だけ自信ありげに、

 <私たちも先生と一緒に行って、死のうではないか。>(『ヨハネによる福音書』第一一章16節)

と言ったと書いてありました。
 この言葉には、いったい何が隠されているのでしょうか。

 時間と空間との関係が、歪(いびつ)に発達をした近代の物理学では理解できない場が絶対にないとも限りません。つまり、時間の前後ができて、空間に物体が重複できるような場を、仏教の中などでも過去にも本能的に考えた人がいるからです。


○先生と弟子たち(新約聖書関係)

Q 十二使徒の中で、女性だったのは誰ですか?

A 一説には、マリハムです。

 マリハムは、後に「マグダラのマリア」と呼ばれるようになりました。
 レオナルド=ダヴィンチが描いた『最後の晩餐』を見てください。わざわざ実物を見なくても、有名な絵ですから図書館にある「美術図鑑」や「百科事典」などにも載っているでしょう。
 イエスの向かって右側にいて、イエスにしなだれかかっている女性がそうです。

 レオナルド=ダヴィンチは、シオン修道会の院長であったと言う人もいます。
 もっとも、その教会は秘密教会であったので、活動自体が不明だったと言ったり、そもそもそのような教会は存続しなかったなどと考える学者もいるようです。
 また、エイレナイオスが異端とした『ユダの福音書』などには、イエスの女性弟子についての重要な記述があるそうです。その『ユダの福音書』についても、久しく存在が疑われていましたが、最近になってチャコスという女性が実物を発見をしました。チャコスは自分の生涯の使命として、情熱をもって探していたからです。

 さらに、マリハムがイエスの子をみごもってサラという女の子を産んだという伝承さえあるのです。そして、その後マリハムは娘サラとともに南フランスに逃れたといいます。

(おまけ・ご参考)
 先日(2007年11月28日、水曜日)、南大沢駅前のイトーヨーカ堂の中で、20000円の『最後の晩餐』が売られていました。ちゃんと、額の下にはミケランジェロ作と書いてあったので、掘り出し物と思ったのですが、あいにく持ち合わせがなかったので買えませんでした。
 横幅が2メートルくらいですから、習作としてミケランジェロが作ったものかもしれません。




Q ペトロは何で頑(かたく)なに、三回も師を「知らない」などと言ったのですか?

A おそらく、引かれていった人を本当に知らなかったのでしょう。ペテロ自身は、いったいその人が誰かを知りたいので、危険を犯して確かめるために付いていったのではないでしょうか。

Q なぜユダは裏切ったのでしょうか?

A 裏切ったのではありません。おそらく、イエスに愛情をもちすぎていたために、エピローグにしたかったのでしょう。
 そして、それが彼のできる唯一の方策だったのではないでしょうか。
 私は、太宰治『駆込み訴え』や映画『スーパー・スター・ジーザース・クライスト』などとは、また異なった考え方なんですが、……

Q キリストの墓が、日本にあるというのは本当でしょうか?

A キムタカ(木村鷹太郎)のような人が言うのでしたら、疑ったほうがよいでしょう。
 しかし、山根キクのような人が言うのですから、まんざら嘘とも言えません。北村サヨとも違って、山根キクは顔つきからも真面目な学者肌の人ではないでしょうか? あっ。ごめん。回答が質問になっちゃって、……

 日本にあるモーセ十戒石は本物でしょうか?

 これについては、いまだにわかりません。
 実物と言っても、それを証明するのが困難です。また、実物でないと言っても、そのことを証明することが困難だからです。




暗号の回答


   るしみは、思うがままに、ならぬゆえ、うろうしつつ、日々過ごしおり。なに故に、
   こころ未に、落ち着かず、生き続けたる、あわれ魂。こにおり、かしこにおりぬ、わ
   ざわいを、我に与る、悪魔のごとき。そは誰ぞ、恐れおののき、すけをば、求めたり
   しが、未だかなわず。かみたい、気ちがいみたい、ほどほどに、かわりあいに、なる
   をやめねば。くれぐれ、気を付けなさい、ことばには、ついとげある、表現になる。


(1) 1文字目から、その字を含んで23文字目ごとに6文字を抽出
(2) 131文字目から20文字ごとに4文字を抽出

 すると、「くろだこうた ばかもの」となります。
 実際には、最初の文字と何文字目かを示すヒントはありませんが、6文字、4文字を示すストップコードはあるみたいです。
 したがって、スーパーコンピューターを用いて組み合わせを一つずつ調べていくしか方法がないようです。

 もっとも、「創世記」などよりも文字数の少ない「いろは歌」のように小さなものですと、コンピュータなどなくても、ちょっと注意をすればわかります。
 つまり、

  いろはにほへちりぬつをわよたれそつねらむういのおやなけふこえあさきゆめみゑひもせ

を7文字ごとに読むと、

  <咎(とが)なくて死す>

というような「いろは歌」を作った作者の抗議メッセージが込められていることがわかります。

 おそらく、有間皇子(有馬と書いた本もある。有間山は有馬山とも書くので、どちらでもよいのかもしれない)のような感じの若い人が、処刑される前に作った怨念の作品なのでしょう。(ということは学説ではなく、私が思うだけかもしれませんが。なお、有馬皇子については『歴代秀歌』を参考にしてください。)

 そんなことや今様(いまよう)風の形式からも、「いろは歌」は弘法大師が作ったものではないようですね。


Kuroda Kouta (2004.09.21/2008.03.20)