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 私のドラゴン伝説・説



    ○はじめに=途方もないこと
    ○常識で考えられないこと
    ○地球的規模の救済論
    ○べらぼうにでっかい仮説
    ○老子と孔子
    ○黄帝と龍
    ○立正安国論
    ○驚くべき事実の認識
    ○三大秘密の三位一体
    ○UFOの飛来・UFOの意味
    ○しかし、すべてが仮説
    ○すでに支配されているかもしれないという疑念
    ○すべてが管理されている?
    ○飼育場の喩え
    ○蟻と蚊とゴキブリの喩え
    ○蚯蚓(みみず)の喩え
    ○ホモ-サピエンスの分類
    ○哺乳類から発達をした純正なヒト
    ○変になったヒト
    ○ふつうのヒト
    ○脳の不気味さ
    ○脳の交換手術
    ○脳の中の絵空事
    ○単独のヒルンとしての存在=脳が寄生動物かもしれないという懸念
    ○ヒト型の進化をした爬虫類
    ○大型恐竜が滅びた理由
    ○爬虫類から昆虫へ
    ○ヒトが滅びる理由=脳の異常な発達
    ○浄化作用と汚濁作用
    ○最近の動向


    ○古代文書の難解な秘密
    ○目や考えを他に向けさせる
    ○ミッシングリングとOパーツ
    ○龍とドラゴンの伝説
    ○異質で偉大な人たち=孔子と聖徳太子
    ○実際に大きかった類人猿?
    ○宗教と竜
    ○八岐大蛇と九頭竜
    ○八竜王と八大竜王
    ○阿那含とアナコンダ
    ○爬虫類と哺乳類
    ○対象の研究方法
    ○貪欲と清貧


    ○龍に関する記述の一例
    ○龍に関する地名・人名・寺社名
    ○龍に関する伝説
    ○「りゅう」と「たつ」=十二支の辰
    ○竜顔の意味?
    ○龍を何となく思わせることがら
    ○龍に関する伝説


    ○こんな朧気な記憶がある
    ○もしかしたら削除された記憶の残骸かもしれない
    ○自分自身が置かれた立場




○はじめに=途方もないこと

 ここから、ちょっと風変わりな内容のページになっています。
 お読みになって、呆(あき)れかえってしまう人もいるかもしれません。それは、現代の常識とは大きく異なっているからです。ふつう、人間は置かれた時代の中でしか、物事を考えられないようです。したがって、あまり突飛なことを述べようとしている以下の記述が、何となくすっきりしないものになってしまいそうです。

 個人的な経験でも、そのようなことはあります。
 私は、卒業と同時に製紙会社に入社しました。そして、その会社で研究員の人が「やがて牛乳瓶などは、すべて紙製になるでしょう。」と説明をしたのです。かれこれ50年前もことですが、そのときに私はとても信じられませんでした。
 ガラスの代用として紙がなるということ自体、なかなか理解できなかったのです。しかし、半世紀も経つと自然や科学のなりゆきで、かなりのものが当初の計画通りになってしまうようです。

 現在、スーパでくれるビニールの袋を考えてください。
 もしも、それを3枚ももっていたら家宝になるかもしれません。そして、嫁のもらい手が引く手あまたになったことでしょう。ただし、1000年くらい過去の紫式部や清少納言の時代のことです。現在では、処理に困ってしまうようなものでも、時代が異なってそれがない社会では、貴重なものになったに違いありません。

 現在、私たちの身の回りに起こっている不可解な出来事についても、そんな時間的な関係をも含めてフレキシブルに考える必要があるのではないでしょうか。

 途方もないことですから、ここですべてを証明することはできません。
 証明をすること自体が、非常に難しく思われるからです。そうかと言って、それを否定したり、反対することも困難でしょう。ちょうど「死後の世界」と似ていて、「あるかもしれない」し「ないかもしれない」のです。そんなときに、私は用心をすることに決めています。
 仮に、それが「あってもよい」ような心づもりをするのです。

 それはちょうど、お天気がすぐれずに今日は「雨が降る」かもしれないし、「雨が降らない」かもしれない、そんなときと似ています。
 そこで私は、用心をして傘をもって出かけるのです。
 しかし、後になってみて「傘はいらなかった」かもしれないのですが、……

 この「私のドラゴン伝説・説」もそうなのです。
 「竜神」または「龍神」といわれる「人々」または「神々」が登場します。それを「ドラゴン」と言う場合もあるでしょう。それらの伝説を自分なりの「説」として、脈絡のない方法ですがメモをしておきましょう。


○常識で考えられないこと

 このページの内容が、あまりにも非常識なことなので、どうしてもイントロダクションが長くなってしまいます。
 世の中には、なかなか常識で考えにくいことや、時代とともに大きく変化をしてしまって逆の事象のほうが常識になってしまうような場合があります。
 天動説に置きかわった地動説なども、その一例でしょう。
 もっと身近な問題を二つあげて、ちょっと考えてみましょう。


 私は多摩動物公園へよく行くのですが、駅の看板に動物の案内が書いてあります。
 例えば、「アフリカ象は地上最大のほ乳類」とあります。象がほ乳類であることは、まったくその通りです。しかし、「地上」という言葉が、私には引っかかります。むろん「地球上」ではないのですから、それでいいんでしょうが、小学生や幼稚園児も来るのですから、ちょっと不親切な表現ではないでしょうか。
 シロナガスクジラなどが海中にいるということを知っている人に対しては、問題がないでしょう。しかし、「ほ乳類」の理解に対して、「地上」がわかりにくいのも事実です。それが、海の中までも含まれるのではないかと考える人がいないとは、私には考えられないからです。

 電車の最前部に乗っていると、踏切があります。
 むろん、踏切が閉鎖されて、乗っている車両が通過をしていきます。車や人が待っているのが、車窓から見えます。しかし、逆に自動車や人がいつでも踏切を通れるようにして、そのときは電車が停止して待つという方式にしたらどうでしょうか。能率は非常に悪くなりますが、安全性はきわめて高くなるはずです。つまり、電車の線路のほうに遮断機を付けるのです。

 このような提案を私がすると、誰もがバカにして笑うでしょう。
 しかし、日本においても初期の鉄道の時代には、実際にそうなっていたのです。本当に線路のほうに遮断機が付いていて、荷車や人の通り過ぎるのを待った時代があったのです。私は、それを体験したわけでないのですが、鉄道の歴史の本などで確かめることもできます。
 嘘だとお考えでしたら、調べてください。


 身近なことでも、後になって事実がわかって改められることがあります。
 例えば、かつてはカルシウムを多く摂っても人体に影響がなくて、問題も起こらないといいました。しかし、最近になってカルシウムの取りすぎには注意をするようになったのです。なぜならば、細胞や血液の中に入って問題を引き起こすからです。

 現代の科学や医学では、まだ究明されていないことが多いのでしょう。そこで、直感力を研ぎすまして自分自身で決めなければなりません。自分の身体で確かめてみると、現代の医学の常識とは異なることが、思いがけずに次々と判明してくるようです。
 安全な範囲で、いろいろと確かめてみるのは非常によいことだと思います。


 シェークスピアは、『ハムレット』の中で

 <天地には人の考えも及ばないものが存在する。>

と言わせています。

 また、エラスムスは『痴愚神礼賛』に

 <腐敗・堕落した教皇や司教たち>
 <戦争しか頭にない王侯・貴族たち>
 <愚劣の極みでもある哲学者たち>

などのことを、ぼろくそに書いています。
 それらの特殊な人たちの奇怪な生態を、おしゃべりな女神が皮肉たっぷりに語るのですが、すでに「彼らがふつうの人間ではなかった」ことを暗示しているように、私には思えてならないのですが、……


○地球的規模の救済論

 私は、ふとしたことから大発見をしたのです。
 ここのところ、政治や経済をつらつら思うに、日本国民すべてに対してメリットのないことが、当然のことのように次々と行われていくという現実に対する私なりの不思議なのです。そしてその傾向は、戦後のGHQ支配体制のころから、少しずつ始まっていたのではないでしょうか。そしてそれは、いったい誰の利益のためなのでしょうか。それらは、私にとってどうしても理解ができない一連の不可解な現象なのでした。

 もはや日本人は経済活動の中で、消費をするしか価値のない国民になりさがってしまったようにも見受けられます。平和憲法をもっている国ですから、本当ならば世界の国から尊敬をされ、頼りにされなければならないのです。とくに、アジアの国々からは信頼され相互発展に話が進むべきでしょう。
 ところが、現実はちょっと違います。むしろ、反対と言ってよいかもしれません。

 何となくアメリカの代弁をするような形で、警戒をされているようです。つまり、軍備についても、まったく中途半端なのです。むろん憲法の問題がありますから、簡単には解決がつきますまい。
 そんな背景の中で、政治や経済の動きが不自然に見えるのです。


 そしてそれが、いまの首相になってからは一段と露骨で激しくなってきました。
 マスコミに煽(あお)られて、愚かな人たちは勝手なことを言いながら、全体的には右往左往して窮地に進んでいくばかり。そんな状態なのです。テレビや新聞などの報道も、奇妙な立場をとる価値観に変化をしてきたように思うのは、私だけでしょうか。

 つまり、大新聞やテレビ局の一部が、すでに何者かの支配済みになっているような感じなのです。
 そしてその現象は、首相とかアメリカ国とかいうだけの問題ではなく、さらにそれを超えた大きな次元であることが何となくわかってきたのです。そんなわけで、いま私なりに事実を究明して「地球的規模の救済論」をまとめているところなのです。なぜならば、それが単に杞憂ならばよいのですが、どうもそうではなく私が考えているよりも、さらに大きな範囲で行われているみたいだからです。

 社会全体が騒然としてきたために、あちこちで論議が喧(かまびす)しいかぎりです。
 しかし、よく考えてみればちょっと論議の立場が異様なのです。
 それは、当事者でありながら傍観者のような姿勢を作ることです。それは、非常に不思議な立場なのではないでしょうか。また、被害者でありながら加害者の立場を固執する姿勢です。ですから、言っていることは正論なのでしょうが、問題は一向に解決をしないのです。
 何となく学生の弁論大会のような雰囲気になってしまって、一向に社会の環境がよくなりません。
 直感を研ぎすまして冷静に見れば見通せることですが、なかなかそのような人がいないのです。
 「群盲象を評」したり、「我田引水」の意見が多いようです。


○べらぼうにでっかい仮説

 ここで、何が言いたいかをわかっていただくために、仮説としての結論を言いましょう。


・ 近年の戦争が交戦国の意志でない感じがする。

 将棋をするときのことを考えてください。
 天童市で作られた駒は、単に五角形に加工した木片に文字を書いたものにすぎません。それを用いて、対戦者が勝負をするのです。さらに、その対戦を見ていて後ろから指図をしたりするのが縁台将棋の風習です。
 しかし、将棋をする人が必ずしも常識のある人とは限らないのです。失礼な言い方かもしれませんが、坂田三吉のような天才棋士もいます。彼は、生涯ほとんど字が書けなかったそうです。書けたのは角の裏にある「馬」という字と、自分の名前「三吉」だけです。

 坂田三吉の話です。
 名前の書き方は、書家の中村眉山に「まず一を上から下に七つ並べて書け。そして、四つ目と五つ目の一の真ん中に頭を出して一を縦に一本。そして、六つ目と七つ目の両側に縦の一を一本ずつ」と教わったのである。彼は、一生その筆順で書名をしたのです。

 東京に対局に行くことになったが、駅名が読めないので後援者は次のように教えた。
 「坂田はん、あんたの名前の三の字が縦に書いてある駅で降りて、そこで車掌に聞いて三田へ行く電車に乗り換え、三が書いてある駅で降りるんや」
 それで、品川で乗り換えて、三田で下車することができたと言います。
 なんで、こんなことを長々と書くかというと、つまり「戦うこと」だけが強かったり、また「戦うこと」だけを生き甲斐にする人がいるかもしれないということをわかっていただきたかったからです。


・ 「フィアフル魔亜尊」つまり竜人が、過去に存在した感じがする。今もわずかに残っている。

 旧約聖書を丹念に読みますと、いわゆる神がなさったことに関して疑問が生じてくるのは、私だけでしょうか。
 おそらく競争相手の「バールの神」たちを嫌って、ヨセフに始まる人たちを訓練していたように思います。何となくご自身の家来というか、むしろ家畜化をしているのではないかと思われる節があります。
 「モーセ五書」を読むと、あまりにも厳しい掟を打ち出して、それを守らせているのがわかります。

(注) フィアフル魔亜尊(FM)については、「思惟支配の恐怖」を参照してください。


・ ヒルンとしての存在が危ぶまれ、昆虫に寄生したのかもしれない。

 大型化が地球の大規模な気象変化で、血液の循環などがムリになってきたのかもしれません。
 そこで、脳単体としての寄生や単独で生きる方法を模索したようです。しかし、なかなかうまくいかなかったのでしょう。そんなために、現在は旧約聖書の神のような偉大な存在は少なくなってしまいました。
 そして、昆虫のあるものに何らかの方法で転移を計っているようです。私は、ゴキブリのある種がターゲットになったのではないかと思っているのですが、……


○老子と孔子

 そのときどきに思いついた脈絡のない形で、このページは続いていきます。
 仙人とも言われた老子は、無為自然を説いています。『老子』を読むと、何が何だか私(黒田康太)にはわからないものの、まったくすごい内容と思います。老子自身が、三皇・五帝すべての時代に人を導いたというからです。また、玄妙玉女のお腹(なか)に81年もいた後に、別の人間の左脇腹から生れたということや生まれながらに老人であったことなど、べらぼうな言い伝えが残っていること自体、私にとっては驚きです。

 それはともかく、孔子が老子に道を求めるために訪問をしたときのことです。
 軽くかわされた孔子は、弟子の子貢(しこう)に
 「あの方こそ、龍にちがいない。」
と述懐しているそうです。
 孔子ほどの人が喝破して、述べているのですから、何か理由があるのでしょう。


○黄帝と龍

 中国では、三皇・五帝と言います。
 「伏義氏」(ふっきし 実際には「義」という字がちょっと違う)「神農氏」(しんのうし)「火燧氏」(かすいし)の三皇(さんこう)、そしてそれに続くのがの五帝(ごてい)。その五帝の筆頭が、黄帝(こうてい)。そして、黄帝は皇帝になる前から龍であったとも伝えられている。怪物を倒して皇帝になったのであるが、「列仙伝」には仙人として記述されている。その肖像も、異形な雰囲気になっている。

 そんなこともあるからでしょうか。
 中国では、皇帝のことを龍と言うようになったようです。例えば、皇帝の顔を「龍顔」などと言うのもそうでしょう。また、身の回りの品々に龍の模様があったりします。
 もしかしたら、皇帝になった人々の多くは、覇者などでも特異な存在だったのかもしれません。


○立正安国論

 それは、ライオンに肉を食べるのをやめるように説得するなどというようなムリな方法を私が実現化をしようというのではありません。
 また、ライオンという種をすべて地上から無くしてしまおうなどと、身勝手な無謀なことを考えているのでもありません。
 言うなれば、ライオンの食料を何とかして別に手配をすることなんです。

 私は、ライオンに対して憎しみや憎悪をもっているわけではありません。
 この地球に住んでいる同胞の一つと考えれば、彼らが幸福であったほうがよいのです。しかし、彼らの幸福のために他のすべてを不幸にしてしまいそうなことについて、心から憂慮をしているのです。


 また、ある人の身体に「できもの」ができたとします。それは軽い症状なのですが、それでも痛くてたまりません。
 そして、身体を動かす作業には何となく支障をきたします。我慢をしていれば、やがて治るかもしれません。しかし、身体に蓄積した化学物質、界面活性剤、環境ホルモンなどが関係をしているらしく、日ごとにこじれていくようです。
 したがって、医者に行っても医者自身が根本的な治療はできません。ステロイド剤の投与によって、一時的に救われるのですが、長い目で見ると悪化の一途をたどるのがふつうです。

 私は、このような人にも「おでき」だけの局部的な意識をするのではなく、身体を全体的に見て考えることを薦めて、体内から毒物を除くことによって健康が回復することを願っているのです。

 ここのところ私の住んでいる地域では、非常に救急車の出動回数が多くなったようです。ひっきりなしにサイレンが聞こえてきます。ときには、すぐ近所に来るので何となく不安になってしまうのです。この地域の住民が高齢化をしているのかもしれません。そのために出動回数が多いのでしょう。
 そのほとんどは、病気や発作によるもので、決して交通事故による怪我人ではないようです。

 このようなことは、非常に困ったことです。お陰様で私も妻も、まだ一度も救急車のお世話になったことはありません。(その後、2006年に初めての救急車体験をしました。) しかし、還暦を過ぎたころから自分たちの番も来るんじゃないかと大いに心配をしています。
 なぜならば、出動回数から想像をすると、何か異変が起こっているとしか考えられないからです。

 最近の傾向として、何となく社会の情勢が不安定になっているようです。政治や経済に問題があるという人も、かなりいるようです。そして、どうすればよいかを提案する人が、かなり多く出てきました。しかし、評論や批判は自己の能力を超えて、三倍くらいのかなりハイレベルまで可能ですから、実際に行おうとすると問題が生じるのです。
 また、表面的なことばかりを言って本質を見ていないので、困ったものです。おできに膏薬を塗るのではなく、そのようなアトピー体質を基本的に直す治療が最初に必要なのです。

 そこで、このような「地球救済論」が必要になるのです。
 内容はともかく、主旨からいうと立正大師の「立正安国論」に似ているかもしれません。


○驚くべき事実の認識

 ここに、へっぴり腰ではありますが、驚くべきことを発表しましょう。
 現実の世界に知識を独占して、力を保っている影の集団とでもいう秘密結社のようなものがあることは、誰もが感じていることかもしれません。そして、一般にはムダな知識を普及させることによって、現代社会を混乱させていることも周知のとおりです。
 戦争や宗教対立など、すべて情報操作によって生じているのかもしれません。

 そして、その集団の実態について、ふとしたことから朧気にではありが垣間見た感じがするようになりました。
 しかし、その内容があまりにも、奇想天外・摩訶不思議でなかなか信用していただけないでしょう。それは、従来の学問の体系を根本的にくつがえす内容だからです。また、科学的に実証されている従来に意見とも、大きく異なるからです。しかし、私の責任でどうしてもそれを言っておおかなければなりません。
 なぜならば、手遅れになってからでは遅いからです。


 例えば、人類の祖先を従来の学問的結論としての単に哺乳類とはしないで、

 「一般的には哺乳類の場合が多いが、中には少ないが爬虫類から発達をしたグループもある」

と考えたのです。
 しかし、その考えにはまだ学問的な裏付けや証拠があまりありません。したがって、眉唾物と言われても仕方がなく、今のところ私には反駁のしようがないのです。そんな背景でしかない一つの意見でもよろしかったら、どうぞお読みになって、あなたもこの驚くべき事実について、考えてみてください。

 そして、そのように考えると、相互にムダなことをしている世の中を何となく理解できるようになるかもしれません。
 加害者でもあり被害者でもある不思議な構造をもつ現代社会について、その中に置かれてしまった自分自身をいかにすべきかのヒントが、もしかしたら与えられる可能性があるからです。

 不必要な組織や決まりを次々と際限なく作っていくのは、いったい誰が誰のためにしていることなのか、また何の目的なのかを考えると、次第に眼が見開かれてくるでしょう。作るために作っているいるとしか考えられないことが、あまりにも身の回りに多いからです。

 私たちが、すでに組織の中の人間として組み込まれていること自体が、フィルターを通さざるをえない状況にあるのですが、それでも意識をすればその構図を垣間見ることができるかもしれません。


○三大秘密の三位一体

 正直に言ってしまうと、次のような「三大秘密」をうすうす感じたり知ったのは、30歳代のころです。

(1) ヒトの脳が、白血球やミトコンドリアなどよりもさらに独自性の高い寄生動物ではないか?
(2) 宗教や政治などの概念は、特殊階級が一般人の支配を考えたツールではないか?
(3) 社会に愚を増やし、秘密から目を背(そむ)けるようにさせられているのではないか?

 何とも奇想天外、摩訶不思議な考え方と言われてもしかたがないかもしれません。

 (1)はともかく、(2)は原始時代のアニミズムなどを考えるまでもなく、現在においても特殊階級の支配のツールとなっているようです。そして、その特殊階級というのが、実は今でも正体が明かされていないままになっているのです。したがって、政治においても宗教においても、理解に苦しむような不思議なことが起こっているのです。

 (3)は、そのように慣らされてしまったために意識が薄くなってしまいました。しかし、テレビなどで愚が窮(きわ)まりない番組を見ると、さもありなんと思うのは私だけでしょうか。


 とくに、政治の実態から目を背けさせるということは、今に始まったことではありません。
 かつてのヴェネーツィア共和国のことを考えてください。カサノヴァやヴィヴァルディの活躍した、退廃しきった末期(まっき)ではありますが、各方面の芸術が見事に実った時期のことです。1年の半分以上が祭りで、人々は浮かれ騒いでいたのです。それは、おそらく元老院の策謀をした一連の秘密計画であったようです。

 また、実際の情報を秘匿して、他の代替え情報を流すこともよくあることです。
 先の大戦の大本営発表を思い出してください。「転進」や「戦略的行動」などと言って、三十六計のもっとも消極的なことをやっていた現地のことを、逆の内容にも取れるような言葉でにぎにぎしく一般に発表したのです。
 最初は喜んで提灯行列をしたのですが、やがて現実の事態にも気がついてしまうものです。

 最近になって、私もうすうす事態に気がついてきました。
 つまり、60歳を過ぎたころから上記の(1)(2)(3)が、すべて一体だと思うようになったのです。つまり、(1)が操作をして(2)と(3)を実現しているというのです。
 したがって、高度な情報操作が可能ですからUFOが飛来したとか、月に到着をしたとか、愚鈍な一般人の興味を引きつけるネタに尽きないのです。そして、さらに輪をかけて「UFOは地下から来た」とか、月は「人工の加工物」で、そこには「人面の大きな模様があった」などと資料を示しながら言うのです。

 そのような馬鹿げたことの細かい実証は、このページでおいおいとしていきましょう。
 しかし、さらに細かい疑問も付帯的に出てきたのですが、それらについては別の機会にしたいと思います。
 例えば、(1)については「腸内細菌」や「顔ダニ」などの問題、それはすでに『大無量寿経』などにふれられているのですが、ここでは「時間と空間論」については、あまり述べてはいません。

 また、(2)の宗教や政治以外の分野、つまり医学や科学などまでの学問においてすでに行われている驚くべき事実、それらについても省略をします。


○UFOの飛来・UFOの意味

 私たちには、どうしても事実が見えないことがある。
 例えば、UFOについて。不可解な「ロズウェル事件」である。実際に何かが起こったのは、事実かもしれない。しかし、もはや風化をしてしまったので、それを今さら知ろうとすることがムリであろう。
 そこで、どのように考えるかは個人個人の問題になる。単なる記憶違いか、それとも意図的な事実の隠蔽か。誰が記憶違いをしたか、または隠蔽をしたのか。証拠がなかったり、大きな力が働いているときには、真実を知ることは困難である。

 例えば、騒がれ始めた時期の問題などから、私は

 「核実験を始めた人類を宇宙の彼方から見たか、あるいはもっと身近なところから観察したので、何者か知的生命体が、愚かな人間と地球とを絶滅させてはいけないと考えて、現状を調査するために来たのかもしれない」

などと考えることさえある。
 それは、朱鷺(とき)やコウノトリの保護を考えると、あながち検討外れでもないだろう。いずれにしても、人類に警告をしなければならないと、誰かが意図していると考えざるをえない。

 そういうことは、現実の世界によくある。歴史や宗教などの中にも、実際とは異なることが多くあろう。例えば、聖書の記述である。そんなときは、推理と直感で物事を知らなければならない。


○しかし、すべてが仮説

 それでもまず、このページにあることが今のところ私の仮説でしかないことを再確認しておきます。したがって、読まれた人もそのように考えていただくことを最初にお断りをしておきましょう。
 最初に、今日の日本の社会が人間の「命や健康」などよりも「経済や利益」を優先させていることの不思議さを考えてみてください。これは、まったく本末転倒な考え方なのです。「経済や利益」を優先させた人たちも、やがて自分の「命や健康」を損なってしまうのが当然の成り行きなのですから。
 しかし、もしも人間でないものがそれを遂行していると考えたらどうでしょうか。

 国内の政治の混乱や世界の戦争の歴史などを考えて、どうしても理解できないことが多くあることは事実でしょう。そんなことを考えているうちに、ふと何となく感性で知ったことなのです。つまり、哺乳類と爬虫類は根本的にその価値観が異なっているので、ふつうの方法では平和に共存ができないということなのです。
 哺乳類の中にも、肉食獣がいます。そ
 れは、何となく進化の頂点に近いほうの位置ではないでしょうか。例えば、ライオンです。

 いっぽう、爬虫類にもいろいろなタイプがあるようです。
 しかし、爬虫類のもっとも進化をした部類は、哺乳類を彼らの食料として考えるようになったようです。むろん、直接的に行うばかりではなくすべての面で、哺乳類は爬虫類が存在するためにあると思っているのです。直接的というのは、おわかりと思いますが、ここでいうそうでないケースとはクライアントとしての位置なのです。

 いくら料理店でご馳走を作っても、客が来て食べないと仕方がないからなのです。
 その料理店が爬虫類系、客が哺乳類系だと思ってください。


○すでに支配されているかもしれないという疑念

 何となく、すでに支配されているのではないかと考えることがあります。
 それは、私なりに考えた次のような理由にもよるのです。

・ 世の中をわざわざ複雑にするような動きがある。
・ 官庁のしくみや法令のしくみが複雑化している。
・ 医学を細分化して、全体が見えにくくなっている。
・ インドなどの国でカーチス制度などの地域内差別を維持させられる。


○すべてが管理されている?

 牧場の牛が、のどかに草を食(は)んでいます。空は青く澄んでいて、雲が漂っています。
 しかし、牛はすべてが管理されているのです。肉牛であれば、いつ出荷されるかも決まっているでしょう。とさつ場にいって、食肉に分解・加工されるためです。
 それと同じに、私たちのほとんどの者が管理されていると言ったら、語弊(ごへい)があるでしょうか。
 むろん、野生の牛であれば管理の手から逃れられます。ある日、突然にとさつ場に送られるようなことはありますまい。しかし、家畜の状況よりももっと厳しい自然の中に置かれているので、むしろ肉牛と比べて寿命も短くなってしまいます。

 日本人は、そのほとんどが自己家畜化をしてしまったと言います。つまり、それはすでに自給自足ができない状態なのです。しかし、人為的にそうさせられたと考える人は少ないようです。自分たちの優れた科学がなした環境だと考えているのです。

 私は、孫悟空がきんと雲で力いっぱい飛んでも、お釈迦様の手のひらを出られなかった物語をなぜか思い出します。つまり、すでに偉大な支配者の手のひらの中にあるのです。
 身近なことでいえば、携帯電話やパソコンに弄(もてあそ)ばれているような人がいることです。一種の中毒症状なのでしょうか、あたかもそれに飼い慣らされた状態なのです。

 すべてが支配・管理されているということはパソコンの利用についても同じです。身近であるので、それが何を意味するかうすうすと感じている人もいるのではないでしょうか。
 ソフトウエアの使用許諾契約書をよく読んでみるとわかります。すべてが支配されていることに、気づくでしょう。
 自分たちが作った作品でも、半分は相手方のものになっていることが多いようです。ちょうど、昔の年貢がそうであったように、もはや誰のために働いているかがわからなくなったのです。

 例えば、D社のアニメ作成ソフトウエアで物語を作ったとします。
 自分自身がホームページなどでささやかに発表しているうちはいいのですけれど、商品化をすると直ちに問題が生じます。つまり、半分の年貢を納めねばならない契約になっていることが多いからです。もっとも、そのようなことまで考えないで進めている人が多いようです。

 しかし、契約に書いてあることを相手が実行しないのは、まだ相手にされない規模のときだからです。
 そんな意味で、情報関係のほとんどがすでに牛耳られてしまっているのです。
 私たちは、牧場の牛と同じように気がつかないだけですが、……


○飼育場の喩え

 ここで、牧場に飼われている牛を考えてください。
 飼っている人の考えは、牛自身が考えていることと根本的に違っているかもしれません。
 つまり、乳牛であれば日々ミルクを絞るために存在をしているのです。したがって、ミルクが出なくなったら、もはや乳牛ではなくなってしまうのです。また、肉牛の場合は、もっと明確でしょう。成長をすると、とさつをされて肉になり出荷されるからです。それが、その牛の運命なのです。
 しかし、その牛はそれを望んだり、認識をしているわけではないでしょう。


 自分自身の未来がどうなっているかなどを知らないのは、家畜と同様に私たちも同じ状況なのです。
 いくら科学が進んだといっても、人類にとってそれはかなり歪(いびつ)な体系ですから、まだ人知で計り知れない範囲がほとんどです。私たちが非常に狭い範囲を見ているだけだということ事態、気が付いていない愚かな学問ですから、極論をすれば何もわかっていないということと同じなのではないでしょうか。
 目で見ている映像、耳で聞く音声、これらのことを考えるとごく狭い範囲の認識ということがわかります。
 いわゆる「葦(よし)の(髄(ずい)から天上覗く」なのです。

 また、世界中で行われている戦争についても飼育場の喩えが疑念されるのです。
 愚かな現代人は、闘牛場で牛を殺したり、競馬にうつつを抜かしたりします。あるいは犬を戦わしたり、さらにはコオロギの勝負に至るまで、楽しみのために行っているようです。
 また、ギリシア時代には競技場で人間同士が殺し合いをしたということです。現代のプロレスや相撲などのルーツでもあるでしょう。

 見方によっては、人類の戦争も非常に高い立場から眺めると、何となく何かの模擬テストのような様相を呈しているように思えてなりません。将棋やチェスのコマは、何のために動いているかがわからないからです。


○蟻と蚊とゴキブリの喩え

 私たちの回りには、蟻や蚊やゴキブリがいます。
 私たちは野に出たり、道を歩いていて蟻がいても、わざわざそれを踏みつけたりはしません。むしろ、避けて歩くことでしょう。なぜならば、私たちに無関係だからです。でも、家屋にシロアリなどが住み着いたときは、すみやかに殺虫剤で全滅にします。
 なぜ、彼らは殺されるのでしょうか。シロアリのしていることと私たちの利害関係が、まったく対立したからです。

 蚊の場合は、もっとはっきりしています。
 蚊が手や足にとまったりすると、叩いて殺します。なぜならば、血を吸われるからです。そうかと言って、わざわざ竹藪にまで出かけて行って、そこにいる蚊を一匹ずつ捕らえて退治したりする人はないでしょう。
 竹藪にいる蚊は、いったい何を食べているか知りませんが、その時点では私たちとまだ利害関係がまったくないと思えるからです。

 ゴキブリを何となく嫌う人が多いようです。そこで、見つけたら殺してしまいます。直感的にいやな感じがするからです。ゴキブリから見たら、おそらく迷惑な話でしょう。
 見た感じで嫌うなどということは、かなり失礼なことだからです。
 しかし、それはいろいろな場所に多くいるからであって、仮にゴキブリが絶滅寸前の状態になったらどうでしょうか。おそらく保護をして、繁殖をするための施設を作ったりするでしょう。朱鷺(トキ)やコウノトリの場合を考えてみてください。そのように、人間は勝手なものです。

 しかし、人間よりもっと深い知能があって、身勝手なものが絶対にいないとは限りません。


○蚯蚓(みみず)の喩え

 いま私たちが考えている生命体が、いかに私たちの常識を越えた高い次元だということを理解するために、ここに蚯蚓(みみず)の喩えを示しておきましょう。つまり、ドラゴンが私たちを見る場合の程度と、私たちが蚯蚓を見る場合の程度が同じくらいになっているからです。
 蚯蚓にはちょっと気の毒ですが、私たちより進化の遅れた動物と考えられるからです。
 そして、蚯蚓の社会と私たちの社会が、考えようによっては似ているからです。

 ミミズは細菌や海綿、クラゲなどとともに、すでに原生代(約20億年〜5億年まえ)にすでにいたらしいのです。そんなことが『地底探検』という本の注(182p)に書いてありました。
 ここには、その後あちこちで私が調べたミミズに関する情報を列記してみましょう。

(1) 体の中は、腸だらけ。非常に単純な構造である。
 ただ、「砂のう」という「呑み込んだ小石で食物を細かくくだく役目をする」部分が腸の前方に付いている。
(2) ミミズは体の表面で呼吸をする。つまり、皮膚呼吸である。
(3) 血管はあるけれど、心臓はない。赤血球などはないが、それでも血液は赤い。
(4) ミミズは雌雄同体で、相手を見つけて交尾する。
(5) 2つに切っても2匹にはならない。頭のほうが生き延びることはある。
(6) 山で迷ったおばあさんがミミズを食べて、10日間も生き延びた記録がある。
(7) ニュージーランドでは、ミミズを食べる習慣がある。

 このようなことが、学者や関係者たちによって知られて、それが私たちにわかっているように、ドラゴンには私たちのことがすべてわかっているらしい。


○ホモ-サピエンスの分類

 現生人類の学名であるホモ‐サピエンス(Homo sapiens ラテン語)は、なかなかわかりにくいところがあります。
 いわゆる「ヒト」なのですが、見た目には大きく異なっているような場合が見受けられるからです。つまり「人種」によって、外見上はかなり異なっているからです。

 また、ホモ-サピエンスが意味する「賢い人」さえも、何となく不都合な感じがしないではないでしょうか。学者にしても、自分自身にホモ-サピエンスなどという学名を付けるなどうぬぼれもはなはだしいことです。ソクラテスのことなどに思いが馳せたら、きっと恥ずかしくなることでしょう。それを平然と使っている私たちも、です。

 現代ではヒトは単一の種となっていますが、私が観察をするかぎり細分化をしたほうがよいようにも思うのですが、…… なぜならば、昆虫などでさえ、学問的に研究をされて細かい種や亜種になっているのですから。
 種の分割を子孫を残す範囲で決めている現在の考え方が、私には何となく奇妙に感じられるのです。
 人の場合は、日本人男性とフランス人女性との間でも子どもができます。
 しかし、昆虫では例えばチョウチョとトンボの間では、新しい世代ができないというのです。


 それはともかく、一律に「ヒト」といわれているものには、厳密に見てみると次のものが含まれているんじゃないかと考えました。

(1) ヒト型の進化をした爬虫類
(2) 単独のヒルンとしての存在
(3) ふつうのヒト
(4) 変になったヒト
(5) 哺乳類から発達をした純正なヒト

の5つのタイプです。
 むろん、さらに細かい混合型タイプのものもあるでしょうが、ここでは概要を述べるにとどめましょう。ただし、上の(5)から(1)に向かう順序で説明をします。なぜならば、それでなくても奇想天外な話だからです。


○哺乳類から発達をした純正なヒト

 いわゆる正統的なヒトです。
 つまり、本来「ホモ-サピエンス」といわれてよい種なのです。
 しかし残念なことに、この中には遺伝的に優れているヒトや刻苦勉励をして偉大になったヒトは、あまり多くはありません。まして、自分自身のことだけを考えて、他を犠牲にすることによって歴史に残るような社会的成功をしたヒトも少ないでしょう。
 それは、まだこの種類のヒトに、本来からの協調精神が残っているからです。

 過去の社会のように閉じた形になっていて、結婚などもある程度限られた範囲で行われていた時代には、純正なヒトの男と純正なヒトの女が結婚をしました。したがって、ふつうは純正なヒトとしての子が生まれました。そしてその成長後も、純正なヒトとして一生を送ったのです。
 しかし、近年になって様子が大きく変わってきたのがおわかりでしょうか。
 社会の仕組みやシステムが複雑化をしたり、交通が高度に発達をしたために、お互いに相手がわからないまま結婚をするケースが増えたからです。また、外国人と結婚をする人も多くなったためでしょう。
 そんなために、非常に少ない割合ですが変になったヒトが増えつつあるようです。


○変になったヒト

 何らかの事情で、生まれながらにして変になってしまったヒトです。
 悪い喩えですが、いうなれば工場製品の欠陥商品、つまり出来そこないのような感じのパターンなのです。おそらく現代の医学では、なかなか治らないでしょう。しかし、ヒト型の進化をした爬虫類知識や技術を用いれば直すことができるはずです。しかし、そのようなことは決して行われませんから、その変になったヒトは不幸な一生を送ることになります。なぜならば、ヒト型の爬虫類にはそのような関心がまったくないからです。

 爬虫類と哺乳類の間にある違いの問題が原因なのですが、変になったヒトは次第に増えていく傾向にあります。
 最近になって、ふつうの純正のヒトでは考えられないような奇怪な事件や残虐な事件が起こることがあります。
 価値観や生き甲斐の基準など、そして快楽ということ自体、想像もできないほど彼らとの基準が違っていますので、どうしてそんなことが起こったのかさえもふつうの人にはわからないのです。
 事件後に精神鑑定などをするのですが、その結果さえも理解できないほど脈絡のない状態で、何をどうすればよいかの結論さえなかなか出ません。
 この変になったヒトが、急激に増えていくことを私は憂いているのです。


 ここのところ、社会に適応できなくなってしまう若者が増えているようです。
 犯罪を起こしたり、驚くような事件や奇怪な行動を起こす人たちは、まだ意欲・意識が残っているのですが、いっぽうでは何をするのが面倒になってしまって、家に引きこもってしまう場合があります。この事実は、ヒルン(脳)に与えられたショックのために生じているのではないかと考えられるのです。
 つまり、一連の秘密裏の生態手術の結果や複雑な遺伝子の組み合わせによって、自分自身の意志とは関係がなく無気力な症状が出てきてしまったのではないでしょうか。

 それらの事象をよく観察すると、その原因が垣間見られることがあります。単に結果を云々する前に、原因を認識する必要があるでしょう。なぜならば、原因を除かないで対策だけを行ってみても、あまり意味がないからです。次々とエスカレートをしてしまって、どうしようもなくなってしまうことさえあるからです。
 私が学生時代に「傾向と対策」という受験シリーズがありましたが、この問題でも社会的な傾向が明らかになってきたのですから、ぼつぼつ根本的な対策を確立しないといけません。


○ふつうのヒト

 これは、種々の交配が行われた結果、現在のところまだ何らかの悪影響を顕さなかった人たちです。純正なヒトが非常に少なくなってしまったと考えられる現在でも、やはりこのふつうのヒトタイプがかなり多いようです。しかし、このタイプのヒトはいつ問題を起こすかわかりません。
 なぜならば、その因子がすでに脳や体内に存在するからです。
 しかし、そうはいってもいちばん多い種類の人ですから、社会的な問題はこれらの人の間で進められていくように外見上は見えます。実際には、すでに操られていること自体を考えたり、感じたりしていないので不自然な動きを伴っていることがあります。

 非常に奇天烈な考えのようですが、ちょうど体内にインフルエンザのウイルスが入っても、まったく発病をしないのと似ているのではないでしょうか。やはり、一人一人が事態の深刻さの認識をしないと、問題は解決しないのかもしれません。
 空気が身の回りにあるということが当然なこととして考えるか、たまたままだ清浄な空気が呼吸できるのが幸福なことと考えるか、そんな価値観の違いによって、事実を見逃してしまうことがあるからです。
 この辺で、原点に返って考え直す必要がありそうです。


○脳の不気味さ

 脳の役目は、「考える」ということのようです。
 ヒトが2本足で走行するようになり、手の自由が効くようになって脳が発達したともいいます。そして、手を第二の脳などという学者もいるようです。しかし、ヒトの脳の特異性を考えると理解ができない不気味な存在なのです。
 脳が発達した理由には、ヒトが雑食性である影響も大きいのではないでしょうか。

 脳については、かつて本能的にヒトは感じたようです。そんな節がいくつかあります。例えば、

   「脳の悩み

という言葉と文字を考えてください。
 それは、何となく「悩む」ために「脳」があるのではないかと、私に思わせるからです。
 中国でも、おそらく「脳」を意識する前から「悩み」はあったのでしょう。「悩」という字が 「りっしんべん」であるのに対し、その悩みを受ける媒体である「脳」が「にくづき」であるのも印象的です。
 ついでながら、蘇東坡の詩に

 <人間文字を知るは憂患の初め。>

というのがあったのではないでしょうか。


 また、医学的な知識や近代科学を知らなかったサモアの酋長ツイアビは、脳に関する直感的な疑問を『パパラギ』の中で「考えるという思い病気」として観察・理解をして、島民に演説をしています。


 脳の手術をするのに麻酔剤が不要だということも、何となく不気味な事実です。
 また、ヒトが死亡しても脳はかなりの時間生き延びられるという事実も不思議な現象ではありませんか。
 脳細胞は、心臓の鼓動が停止してから4分間ほどは生きていられるのである。この4分間を非常に短いと考えるか、ある程度の操作をするには十分な時間であると考えるかは、意見がわかれるところであろう。いずれにしても、心臓が停止するというのは、脳に血液が送れなくなった状態なのです。
 考えようによっては、4分間もバックアップできるのが不思議な現象といわなければならない。


 おそらく、その辺に「脳の秘密」があるのかもしれない。
 もしも、高度の文明と科学があれば1分もあれば脳自体の移植もできるのではないだろうか。
 むろん、私たち人間の社会でも緊急時の予備切り替えなどは、1分で可能なわけであるから、脳だけに血液を送って生かしておくことは彼らにとっては簡単なことであろう。
 しかし、ヒトの医者があたふたしているうちに4分が過ぎてしまって、その後に心臓を機能させても脳に関してはもはや手遅れで、アウトになっているのである。


 アメリカの脳生理学者マグンは、

  <脳のなかに天国と地獄がある。>

と言ったそうです。
 これも、なかなか不気味な意味をもっているのではないでしょうか。
 日蓮が、「天国や地獄も考えてみれば、自分自身の身体の中にある」と言ったことと似ていますが、さらに限られた場所になっているようです。


○脳の交換手術

 脳の交換ということについては、大いに論議があることであろう。
 また、それを無意味だと考えること自体にも、なかなか釈然としないものを感じないわけにはいかない。とくに昆虫の社会に観察を及ぼすと、理解しにくいものがあるのだが、どうであろうか。
 例えば、女王蜂の世代交番などの事象と比較してみると、そこに何らかの秘密が隠されているのかもしれない。
 そんなことを考えるのは、私だけであろうか。

 医学が進んで、ほとんどの臓器が交換できるようになった。しかし、脳自体を交換するということは別人になってしまうことでもある。したがって、「その手術をするということは、もはや意味のないことであろう。」と脳が考えるのである。なぜ、そうなるのか。別人になるのは、ほんとうに意味のないことなのか。
 つまり簡単にいってしまえば、それまでして元の肉体を利用しなくてもよいのである。脳が別人のものになってしまうということは、もはやその人にとっては機械に作業を移行したことと同じことであるからであろう。


 人間の動作や思考までをすべて自動化してしまうということは、いったいどういうことであろうか。
 その際に、規格を作って個々に変化のない固定的なパターン化をしてしまうと、いわば個性というものがまったくなくなってしまう。つまり、人間が一つの単位としての部品になったわけである。
 しかし、個性がないということ自体が、欠陥製品の場合とは異なって、それにとっては一つの優れた個性といえるのかもしれない。

 何か、それは脳自体が考えてはいけないことに、考えが及ばないようでもある。あたかも、現代人がいちばん身近なものであろう「死」を現実に考えるのを避けているように、……

 人間は、自分自身の脳によって苦しむらしい。まったく、不思議なことである。
 それは、あたかも高馬力のエンジンを付けた自動車に似ているようだ。ちょっと間違えると大事故になり、非常に危ない。そのボデーに比べて、駆動力が釣り合わないほど強力だからである。
 つまり、一つのシステムとして眺めるとアンバランスなのだ。
 したがって、ちょっと間違えると身を滅ぼしてしまう。


○脳の中の絵空事

 人はどこから来て、どこへ行くのか?
 そんなことを考える。
 すべて脳の中の観念、つまり架空の出来事なのである。絵空事(えそらごと)というのであろうか? 脳が発達していない生物は、おそらくはそのようなことを考えて悩んだりしないだろう。

 私はいつも思うのであるが、「脳(のう)」という字と「悩む(なやむ)」という字の旁(つくり)が同じであるということは奇妙ではないかと。
 すべての疑問、迷い、痴瞋貪(ちしんどん)などはすべて脳の中で起こる。
 つまり、自分自身の中にあるのだ。


人生の目的

 いま、いったい何をなすべきか? そんなことを考える。
 さらに高齢になると、人生というより残り少なくなってしまった持ち時間に何をしたらよいのだろうか。そもそも人の生きる目的とは何であるのか。何もかもわからなくなってしまったのである。そんなことで悩む。
 人生も終焉(しゅうえん)に近づいたころ、ようやく命の時間が大切であることを悟った。
 しかし、もはや何ともいたしがたかったのである。


天国と地獄

 天国と地獄などにも思いが馳せる。無意味なことと知りながらも、考えるのである。
 実際には、極楽も地獄も西方や地下にあるのではなく、自分自身の体の中にある。地獄に自分がいるのではなく、自分に地獄がいるのである。また天国に自分がいるのではなく、自分に天国がいるのである。
 そんなことも、なかなかわからない。
 迷路のようなところにいるからだ。


 何も考えずに自分自身さえも忘れ去る。つまり、それは自然に溶け込んだ状態なのである。
 脳のコントロールを離れて、本能で生きていけば苦労は減るだろう。


神の国

 最後は、神の国なるものに考えが及ぶ。そして、何となくわかったような気に脳がなるのだ。

  <神の国は実にあなたたちの中にある。>(『ルカによる福音書』 第十七章)


○単独のヒルンとしての存在=脳が寄生動物かもしれないという懸念

 これも、従来の常識ではなかなか考えられないことでしょう。
 生命体の中でいちばん進歩をしたヒルン(脳)を単独で培養をしているものです。どこで誰が、何の目的でそのようなことをしているかは、私にもまだわかりません。しかし、そのようなことがあると直感的にうすうす感じるのです。もしかしたら、すでに大型コンピューターに組み込まれたような形になっているのかもしれません。
 この事実は、何となくSF物語の内容にも似ているので、誰もなかなか素直には信じないでしょう。


 もしかしたら、脳は若干の認知器官があるだけで、生きられるのかもしれません。
 例えば、ボスの「グリロ」を考えてみてください。それは、芸術家の鋭い直感で描き出した姿ですが、私はいつ「もさもありなん」と思います。姿としては、頭に貧弱な手と足が直接ついているだけです。つまり、胴体に当たる部分がないのである。キリスト教の天使にも、そのようなものがあった。
 さらにまた、マグリットの「習作」の一つに、そのような人物が描かれているものがある。

 どうして、そんな変なものが多いのであろうか。
 仮説というか、個人的な考えであるが、私は「もしかしたら、実際にそのようなものが存在したかもしれない」と思わざるをえない。しかし、やはりそのような形では生存競争に耐えきれなくなって、その形の子孫を残せずに滅びてしまったのでしょう。そんなふうに考えるのが妥当ではないかとさえ、つい納得をするのです。
 実際に滅びてしまった種は多くあります。マンモスやサーベルトラなどです。
 あまりにも、ある器官が発達しすぎると滅びてしまうというのも原則のようです。近年になって滅びてしまったトキなどのように、環境に耐えられなかったものもあります。いずれにしても、過去に存在していたもので、現時点では見受けられないものが限りないほどあるのです。

 むろん、恐竜などもそうでしょう。
 また、鼻行類(びこうるい)などについても荒唐無稽だと言ってしまうわけにはいかないのです。なぜならば、存在したという証明ができないとともに、存在しなかったという証明もできないのですから、……
 そのような場合は、かなりフレキシブルに考えなければなりません。つまり、もしも存在をした場合と、そうでない場合のことを考えておく必要があるのです。
 少なくとも、私たちが考えている寄生動物については、です。


 例えば、ニワトリが飼育されています。むろん、目的があって飼育されているのです。しかし、彼らはその目的を知っているのでしょうか。そして、その飼育者というか経営者がニワトリに計算の仕方やピタゴラスの定理などを教えたとします。目的はともかく、実際に彼らが理解できるでしょうか。
 むろん、できないでしょう。
 なぜならば、いくらニワトリが学ぼうと考えても、彼らの現在の脳の構造ではムリだからです。
 そんなことは、あらゆる場合に起こりうることです。旧約聖書の中にも、似たような記述があります。

 誰が、「私たちがニワトリ」で「飼育者にあたる何物かがいない」ということが言えるでしょうか。
 ニワトリが何もわからないのに、そんなことはどうでもよいと考えないでください。ニワトリもちょっとしたきっかけで、すべてがわかるようになるのです。
 例えば、楳図かずおの『14歳』にあるように、さらに高度の知識をもっているチキン・ジョージ博士によってなされるようにです。

 ヒトは慢心をしていますから、なかなかわからないでしょう。「バカバカしい」とか「考えられない」というような安易な考えで日々を過ごしているからです。
 しかし、大きな陰謀があってそれが秘密裏に進められているのです。

 すべてが管理されてしまった状態ですから、私たちはどうすることもできないのです。
 さらに、誰がやっているかもわからないので不可解というよりも不気味なのです。それはちょうど、ある宗教で神がすべてを取り決めているという論理に似ているのではないでしょうか。そして、その神が単独のヒルンに置き換わってしまったような状態なのです。
 まったく不気味な状態ですが、不可解な問題を継続しながら社会が発展していうというのは、このヒルンによる支配があるためと思われます。

 そこで、私は「脳は人間の一部ではなく、カンブリア紀にすでに人体を支配したエイリアンではないか。」と考えているのです。なぜならば、何かをしていても飽きてしまうのは、脳の考えに手足の動作が追いつかないからだ。
 大腸菌、毛穴の中の菌(常住菌)、サナダムシ、水虫、……などが、人体に寄生していることは、もはや常識になっています。それは、ちょっと会社の社長や船の船長などの立場に似ているかもしれません。

 人間の頭は、すでにその身体と比べると不釣り合いのレベルにまで発達してしまいました。これを身体の例でいうと、超肥満体ということなのである。前に外国の女性がホルモンの関係で太りすぎてしまい、もはや歩けなくなってしまってベッドで寝たきりの状態であった。
 ちょうどそれと同じ状態なのであるが、どうしても気付かないのである。
 脳がいちばん賢く、すべてを支配しているからである。

 現代の社会はすでに病んでいると言われるのも、脳の症状がもたらした結果である。政治や法律、経済、学問などが複雑きわまる反面、問題が次々と生じてくる。

 かつて、私は「私たちの身体、つまり個体は単なる遺伝子の乗り物にすぎない」と考えていました。しかし、最近になって大きく考えが変わってきたのです。それは「脳」という器官のあまりにも異常性を発見したからです。でも、それも自分自身の脳が考える脳ですから、まだ客観的な立証ができません。
 そんな状態ですが、いっぽうでは遺伝子がつちかった直感ですが、それによって何となく感じられるのです。
 近くにいながら気づかないことや、自分がまっただ中にいながら感得できないことがあります。
 また、複雑な仕組みでありながら単純な機能しかもっていないものもあるでしょう。

(注) その後、リチャード・ドーキンすという人の『利己的遺伝子』という本を読んで、私の考えがあながち間違っていなかったことを知りました。そして、直感的にでも、かなりのことを知ることができることを認識したのです。しかし、その場合には他人に対して証明ができないので、単なる話としてしか聞いてもらえないこともわかりました。

 「ノアの箱船」のように自分だけが信じて、自分だけが救われるというような結果に終わってはいけないのです。


 それでも古くから、私には「ヒルン(脳)が人間の寄生動物ではないか」という懸念はありました。
 例えば、私はかつてベルグソンの『創造的進化』(p155)を読んだときに、ふとそのようなことを思いついたのです。もっとも、生物はお互いに共存しているのがふつうですから、一つの人体に複数の生命体があっても少しも不思議ではありません。白血球やミトコンドリアなどを考えると、むべなるかなでしょう。
 また、大腸菌は人体に有害だといいます。しかし、すべて取り除いてしまうと消化が不調になって、体調をそこなってしまうという実験結果があるそうです。

 さらに問題なのは、この単独のヒルン(脳)をヒトに移植した場合です。
 当然のことながら、そのヒトの人格などはすべて異なってしまうでしょう。つまり、それまであった脳を取り除いて新しい脳を移植したからです。何とも不気味な話ですが、ありえないことではないでしょう。
 古代の国に、頭蓋骨に大きな穴を開けた白骨が発見されたという事実があります。それはおそらく、脳の入れ替え手術をした後なのです。また、人体で脳自体の手術には麻酔がいらないという事実です。脳をザックリ切っても痛くないようです。
 その理由が私にはわかりませんが、何とも不気味な話ではないでしょうか。


 そのようなことは、ちょっとアラビアンナイトにある話とも似ているようです。
 シンドバッドがある島に漂着すると老人がいました。その老人は肩車をして欲しいというので、そうしてやりました。しかし、絶対に降りようとしないのです。それどころか、どこへ行けとか何をしろとか命令をするのです。命令を聞かないと脚で首を締め付けます。結局シンドバッドは、奴隷のような状態になってしまうのです。
 しかし、あるとき発酵をした果実を大量に食べます。そして酔ったときに、地面に投げつけて頭をつぶし、ようやく助かるというストーリです。

 脳に関するフィクションがあるところを考えると、さながら脳が寄生動物かもしれないという懸念が滑稽だと言えないでしょう。もしも、私たちの科学よりも数倍発達をした知能の持ち主がいたら、その実現が不可能なことではないからです。
 さらに私が理解できないことは、脳が神や宗教を作って自分自身(脳でない身体部分)を束縛・支配をした「人間の脳」なのです。自分に不都合なことを決めているのですから、もしかしたら脳と身体は利害関係が対立する別のものかもしれません。


○ヒト型の進化をした爬虫類

 この種類の人が、すでに人類に混じっていることは周知のとおりです。
 しかし、宗教の教祖などで偉大な人物であっても、ヒト型の進化をした爬虫類でない場合が多いようです。むしろ、ふつうヒト型の進化をした爬虫類は、あまり社会の表面には出てこないのが一般的なのです。つまり、影の支配者になっていることがふつうなのです。
 しかし、そうは言っても地球上の生物は、すべてこのヒト型の進化をした爬虫類にすでに支配されかかっていると言ってもよいでしょう。

 ここで、問題になるのは哺乳類型の生物と爬虫類型の生物では、価値観がまったく違うということです。
 つまり、人類全体の幸福を考えるなどということや弱いものを支えていこうなどという考え方の基準が、まったく正反対といってよいほどに相互間で異なるのです。
 むしろ、「利益のためになら、他人の健康や不幸などは感知しない」とか「トラブルが起こったときは、戦争をいちばん好ましい解決手段とする」とか考えるのが彼らの特徴であり、常套手段なのです。

 したがって、全体的には不幸が蔓延して困るのです。
 そして、最近になって急速にそのようなことがエスカレートしてきたことに、私は大きな心配をしているのです。


○大型恐竜が滅びた理由

 現在のヒト型の進化をした爬虫類は、すべて小型のものです。
 しかし、小型といっても一般にはホモ-サピエンスよりも大きく、約1.5倍以上あります。
 大型恐竜が滅びた理由は、いろいろと言われていますが、私の説はまだ仮説でありますが、直接の原因は火山の爆発でも、温度変化などの環境異変でもなく、血圧が高かったためと考えます。

 例えば、ヒトが140、ウマが200、そしてキリンが300くらいですから、恐竜は大きいだけに血圧が非常に高かったと考えられます。
 そして、そのために図体が大きくなるにしたがって、動きも鈍くなってしまったのでしょう。なぜならば、脳に血液が届きにくくなったからです。
 しかし、小型のヒト型に進化をした爬虫類にはそのようなことはなく、非常に優秀な脳に進化をしたのではないでしょうか。


○爬虫類から昆虫へ

 大型爬虫類が何らかの理由で滅びに向かうときに、おそらく種を保存するために、次の宿主であるメディアを求めたと思います。そして、恐竜のように脳に行く血圧の問題、つまり現在のキリンのような高血圧の問題を解消するために、小型化をすることを考えたのでしょう。
 直接にヒトに入らなかった爬虫類は、昆虫のある種に転移をしたのだと考えられます。

 例えば、ゴキブリです。
 多摩動物公園の昆虫園で調べたのですが、かなりの種があるようです。(「ゴキブリ大百科」というコーナーで。2005.07.15現在)
 タイワンクチキゴキブリ・ウルシゴキブリ・キョウトゴキブリ・サツマゴキブリ・デュビア・メンガタゴキブリ・マダガスカルオオゴキブリ・グリーン=バナナ=ローチなどがいます。
 しかし、私がふと思いついたのは、ヨロイモグラゴキブリというオーストラリアにいる大型のものです。
 60〜80mmもあって、ユーカリの枯葉を食べているそうです。そのようなところに、もしかしたらひっそりと種を保存しているのかもしれません。


○ヒトが滅びる理由=脳の異常な発達


 大きくなりすぎて、身体全体としては滅びてしまった恐竜。それは、心臓から脳までの距離が長すぎて血液を満足に遅れなくなったためではないかと私は考えています。

 身体の一部分が発達をしすぎると、やがて滅びてしまう例が多くあるからです。
 例えば、サーベル虎の牙やマンモスの牙などもそうでしょう。
 恐竜は、身体自体が発達をして大きくなりすぎたのではないでしょうか。
 そして、ホモ-サピエンスは異常に発達をする脳のために、やがて滅亡の運命をもっているのです。簡単なことで考えると、脳が大きくなって支えられなくなってしまったり、母胎から生まれることが困難になるからです。
 つまり、人類はそもそも欠陥種なので、生物としては滅亡の運命をもつ以外にないのではないでしょうか。


○浄化作用と汚濁作用


 二つのタイプの人間は、その作用が大きく異なっています。
 いっぽうは自分の回りにいる他人に対して浄化作用をもっている人たちです。それに反して、他方は回りの人を汚濁させていくように見えるのです。しかし、ふつうは浄化と汚濁が併存をしていて、微妙なバランスのもとに変化をしていきます。したがって、結果はしばらく後にならないとわからないのです。
 何となく勢力範囲を拡げようとする二者が拮抗している感じで、そのバランスが崩れたときには大きな問題が生じるのです。

 しかし、浄化と言ったり反対に汚濁と言っても、それは相対的なことですから、どちらが正しいとか言うような問題ではありません。それなりにどちらもそれが正常だと考えるからです。それはちょうど、古くから言われている神と悪魔の喩えにもちょっと似ているようです。
 このような作用と反作用があるということを認識して、その中で生きていくという自覚が必要です。永遠の生命に入ろうとしているときに、どちらのサイドにいるかで結果が大きく異なってくるでしょう。


○最近の動向

 ここのところ、不思議なことがあります。
 思いついたいくつかを以下に簡単に記してみましょう。

(1) ナイフドンラ諸島で起きた事件。
 大国が、そのような問題に何で大軍事力を投入したか?
 そこには、もしかしたらイグアナのような爬虫類が生息していたのではないか。そして、それが本国の一部の人たちの祖先ではなかったのか。ガラパゴス諸島にいる大きなトカゲのように。
 もしかしたら、ガラパゴス諸島ではなく、マダガスカル島だったかもしれません。
 その島は、かつてビーグル号でダーウインたちが探検・調査をしたフェゴ島の近くに位置しているのではないかと思います。
 これについても、以前から詳細を調べてみたいと思っている次第です。

(2) マイクロソフト社が出したオフィスの広告のマンガ。
 サラリーマン風の人物の頭の部分だけが恐竜の形になっている。
 これは、いったい何を意味するものでしょうか。その種類のいくつかの広告がありましたが、いずれも見慣れないために私には不可解なものでした。
 しかし、慣れてしまえば奇異観はなくなるのかもしれませんし、それが狙いでもあるようです。
 メディアを使って、ドラゴン型のヒトが身近にいるという周知広告の先兵なのです。

(3) 同様な爬虫類型人物が、かなり以前ではあるが、NHKから「怪獣家族」というような名前で連続放映された番組がありました。題名などの記憶は明確ではないが、ワニやトカゲのような形をした人間が何人も出てきて、やはり人間と同じような行動をするのです。
 これも何となく、それらは事実をあらかじめ周知させる目的としか考えられません。
 その番組では、形が爬虫類型であっても思考方法は哺乳類型と同じでした。

(4) もしかしたら、地球はすでに乗っ取られかかっているのかもしれません。
 そのような意見は、例えばデビッド・アイク氏や中丸薫氏も述べていました。中丸氏は「財閥系の組織に支配されている」と言い、アイク氏は「すでにレプリアンによって統治が行われている」と述べています。
 そのレプリアンとは、爬虫類から進化をしたヒト型の高等動物であるそうです。何とも不気味な話ですが、両氏の話はいずれもかなりの説得力がありました。


 知性と直感を研ぎすまして考えると、いろいろと隠されている事実が私たちにも見えてきます。イグナティオ・ロヨラの方法やアドルフ・シュタイナーの考察が必要になってくるゆえんです。
 その他、いろいろとありますが、ここでは省略をしておきましょう。
 企業名や個人名が明らかになって、トラブルが生じる恐れがあるからです。




○古代文書の難解な秘密

 近代に異常に発達した科学が、歴史から事実を隠してしまうこともあるようです。
 常識というものが、科学によってなされるように学校で教育をするからなのでしょう。そして例えば「地球の周りを太陽が回っている」などと言ったら馬鹿にされるのです。本当は、相対的に言えばどちらがどちらでもいいことではないでしょうか。
 つまり、かなり古い時代には常識的に信じられていたことも、すっかり忘れられてしまったのでしょう。

 その例として、建前としてはいまどき天動説を信じているものがいないように、……
 しかし、実際には天動説をいまだに固執している人たちもいることはいるのです。また、アメリカには「地球は平べったい協会」(「地球は平たい協会」と訳している人もいる)というのが実在をするそうです。
 なお、「地球は平べったい」にかんしては、「安心立命とは?」ページにある「最終的な安心感の確立」章の「○「恐竜の化石」「地球は平ら」「ノアの箱船」」を参照してください。

 なお、古い時代の学者はその専門が多岐にわたっていました。
 占星術は天体の位置や運行を調べて、人の運命などを占うものでした。つまり、星占いです。
 ケプラーは、天文学者であるとともに占星術者でもありました。そんなわけで、「ケプラーは星の力を信じていた」のです。
 スエーデンボルグなども科学者でありながら、「死後の世界の実在を信じていた」一人です。


 『古事記』や『旧約聖書』(その中のモーセ五書)には、驚くべき秘密が隠されているといいます。
 それは、最近になって超高性能大型コンピューターが実用的になってから、ようやく解読が可能になって知られるようになった事実のようです。かつては、暗号が組み込まれていたという噂があったものの、その内容については憶測の域を出なかったのです。
 このようなことは、いったいどう考えたらいいのでしょう。

 考えてみれば、誰もが気付かないことが結構あるものです。
 「地球が丸い」とか「神が人間を造ったのではなく、逆に人間が神を作ったのだ」と言い出した人は、最初はバカにされたり、それこそ異端者にされてしまいました。そして、当然のことながら身の危険にあったのです。
 しかし、しばらくすると立場が反対になってしまいます。
 状態は同じなのに、考え方だけで世の中は動いているのでしょうか。


○目や考えを他に向けさせる

 ヒトを過酷な条件において、目や考えを他に向けさせてしまうことがあります。
 旧約聖書の『出エジプト記』にあるようなパロとモーセの物語も、イスラエル人の目を支配者に向けたり、考えを神以外のものへ移させないためでした。しかし、パロが考えたとおりにはならなかったというのが、今日ではその内容になっています。

 また、ピラミッドの建設、ナスカの地上絵の作成、万里の長城の構築なども、すべて目をそらしたり、考えを及ぼさせないような目的の事業だったようです。万里の長城については、カフカの短編の中に、その事実を何となく記している作品がありました。

 ライマン・フランク・ボーム/佐藤高子訳『オズの魔法使い』(p169)に、

 <わしは、善良な人々にひまを与えないためと、なぐさみ半分に、この都作りと、それからわしの宮殿を建てろと命令した。>

とあります。
 全体のストーリの展開は、「竜巻に飛ばされてドロシーがたどりついたところは、エメラルドの都という不思議な魔法の国、そこでドロシーは愛犬トト、脳のない案山子(かかし)、心臓のないブリキの木樵(きこり)、臆病なライオンたちと冒険をするというものです。


○ミッシングリンクとOパーツ

 ミッシングリング(missing link)という言葉があります。
 生物の進化の歴史的過程でつながらない場合に、その間に実際にあるであろう実態をいいます。つまり、そこの部分が発見されていないので、一連の過程の証拠が失われてしまったのです。
 いっぽう、Oパーツは「場違いの加工品」という意味ですが、それは過去に高度な技術があったことを証明せざるをえないものです。なぜならば、その時代にあろうはずがないと考えられる高度な技術が使われたことを明らかにする物品が見つかるからです。

 このミッシングリングやOパーツを調べていくと、私たち人類だけの歴史では、ちょっと証明できないようなことが、次々と明るみに出てきます。
 例えば、死海のほとりにあったという古代パレスチナのソドムゴモラという伝説の町です。どうしてできたのか、そしてすべてが滅び去って跡形もなくなったのか、はっきりしません。ソドムとゴモラはともに住民の罪悪のために、神によって滅ぼされたと『創世記』第十九章にあります。
 しかし、町ができるまでの歴史はともかく、ほんとうに全滅をしたのかどうかが問題です。なぜならば、生き残ったものがいたら、彼らがいったい何を現在しているかが問題になるからです。

 Oパーツにしても、50万年前の地層から金属化合物が発見されたり、古代エジプトに電灯が灯ったりしたことをどう説明したらよいのでしょうか。事実があっても、証明のできないことが結構あるようです。
 あたかも、原子爆弾で滅ぼされたと思われるような過去のできごとや、文明が回帰をしているとしか考えにくい過去の事実をどのように私たちは受け止めたらよいのでしょうか。

 もしも、神と同じくらい能動的な生物が現実にいたとしたら、そのようなことは日常茶飯事によくあることになってしまいます。ただ、それを認識できないときには非常に不可解な事件や事象になってしまうでしょう。


○龍とドラゴンの伝説

 東洋で私たちがいう「龍」と西洋の「ドラゴン」とは、まったく違うものともいいます。
 そもそもドラゴンという言葉が日本に入ってきたときに、適当な訳語がなくて「龍」としたようです。すると、ドラゴンと龍は、まったく別なものになります。
 そこで、それぞれの特徴を考えてみましょう。

 龍には髭(ひげ)があるが、ドラゴンにはないといいます。また、龍には翼がないが、ドラゴンにはあるといいます。
 しかし、いずれも天空を飛翔するということは確かなようです。ドラゴンが翼を羽ばたたかせて飛ぶのに対し、龍は蛇のように身体をくねらすことによって飛ぶのです。
 いっぽうでは、ドラゴンが火を吹いたり、火を司ることを特徴とするのに対し、龍は水を司り水の神さまだとも言われます。実朝の『金槐集』には、

 <時により優れば民の嘆きなり 八大竜王雨やめたまえ>

というのがありました。

 中国においては、龍についての記録があります。
 漢朝(紀元前206〜紀元220)の王符(おうふ)は、

 <頭は駱駝(らくだ)、角(つの)は男鹿(おじか)、目は兎(うさぎ)、耳は牛、首は蛇、腹は貝、足の裏は虎、爪は鷲(わし)、鱗(うろこ)は鯉>

というような記述をしています。
 つまり、九種の動物を組み合わせた想像の産物というのでしょうか。

 何となく、この考え方は多摩動物公園にいる「四不像」(しふぞう)という動物の命名を思い浮かべます。
 しかし、中国には自分たちの祖先が龍であったと考えている部族もいるそうです。また、古くは龍の飼育をするための役職があったともいわれています。

 日本においては、龍は化け物の仲間というよりは、神に近い位置をもつ存在のようになっています。
 浦島太郎の物語でも、竜宮城には化け物の住んでいるところというイメージがありません。
 それに反し、ドラゴンは何となく恐竜や化け物の範疇に入るようです。実際のトカゲやワニを見ると、何となく恐ろしいイメージがあるからでしょうか。
 そのような理由から、龍とドラゴンを区別して考えるほうがよいのかもしれません。
 しかし、ここではもっと本質的なことを知りたいために、下記のようなことを考えたとしても、あまり厳密なことは言わないのです。

 ふつう、日本中で呼び名が変わるのが、化け物の特徴のようです。
 河童が、青森県の「蛟(みずち)」、富山県の「ガメ」、石川県の「ミズシ」、長野県の「カワランベ」、大阪府の「ガータロー」、和歌山県の「カシャンボ」または「ゴーライ」、中国地方の「エンコー」、高知県の「シバテン」、福岡県の「カワント」、長崎県の「ガワッパ」、宮崎県の「ヒョースボ」、九州南部地方の「ガラッパ」または「カワタロー」などです。

 それに対して、私は龍の方言を聞いたことはありません。
 しかし、ここでは哺乳類の人類に対する一つのイメージとして、龍とドラゴンの大きな区別をしません。なぜならば、区別をする以前の難解な問題をはらんでいるからです。
 そんなことも、最初にお断りしておきましょう。


○異質で偉大な人たち=孔子と聖徳太子

 まだ、爬虫類型の人間が哺乳類型の人間と混ざって、お互いに協調をしていた時代がありました。
 少なくとも1000年以上も昔のことです。おそらく、当時ふつうの人たちからは、異質で偉大な人たちと賞賛の眼で見られ、あるいは恐れられていたことでしょう。
 そして、それらの人は普通人と比べて身体そのものも頑丈で大きかったのではないでしょうか。
 例えば、中国の孔子やわが国の聖徳太子が、そのような人であったと思われます。そして、孔子も聖徳太子も大きな人であったようです。

 孔子は身の丈9尺6寸もあったといいます。
 1尺が30.3センチメートル、1寸が3.03センチメートルですから3メートル近くもあったことになります。それでは、もはやふつうの大きさではありません。そして、もしも曲尺(かねじゃく)でなく鯨尺(くじらじゃく)で測ったものなら、さらに大きくなってきます。
 そんなわけで、あだ名を「長人」つまり「のっぽ」と言ったそうです。

 聖徳太子には、お供を二人連れた絵が残っています。その絵を見ると、左右にいるお供が大人でありながら子供の大きさに描かれています。聖徳太子を目立たせる技法ではなく、画家は見た大きさそのままに描いたのではないでしょうか。おそらく、ふつうの人の2倍近くの背丈があったのかもしれません。




 孔子と聖徳太子については、私の想像でしかありませんが、やはり異次元の人のように思います。
 しかし、当時はまだふつうの哺乳類から進歩をした人間たちを指導・教育することに、彼らは大きな情熱をもっていたようです。しかし、やがて哺乳人から進化をした人たちについては「指導をしても、教育をしても、どうにもならない愚かな生き物」という通念が彼らの内部にも生じてきて、その結果そのような努力はやめてしまったのでしょう。
 そして、単に家畜のような存在として扱うようになったのではないかと私は思います。

 ついでながら、異質で偉大な人たちをもう少し挙げておきましょう。
 釈迦も涅槃の図などを見ると、でっぷりと太っていたように感じられます。イエスも実際には、骨格の大きな頑丈な人だったようです。ともかく、最初は十字架を何とか背負ったのですから、やはり力があったと思います。また、当時の大工の仕事もかなりの力作業であったでしょう。
 親鸞や空海も、精力絶倫な大柄な人だったのではないでしょうか。


○実際に大きかった類人猿?

 ジャワ巨猿は身長2.47メートル、体重270キログラム、そしてブラック巨猿はさらに大きく、身長3.45メートル、体重314キログラムもあったといいます。いまのところ顎(あご)の骨しか発見されていないので、人か猿かがわからないそうです。
 しかし、これらはもしかしたら文化をもった人類ではなかったかとも私は思うのですが、いかがなものでしょうか。


○宗教と竜

・ 仏教と竜

 仏教では後に記述するように、教典の中に竜の記述があります。そんなことから、実際に竜という生物が実在をしていたのではないかという人もいるのです。


・ キリスト教と竜

 ギリシアの聖ジョージは、ドラゴンを倒したといいます。


○八岐大蛇と九頭竜

 『古事記』に書かれている「八岐大蛇(やまたのおろち)」は、単なる伝説なのでしょうか。
 いちおうストーリでは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治をした8つの首をもった大きな「蛇」ということです。不気味なのは、その尾を割(さ)くと天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が出てきたというくだりです。

 しかし、実際には蛇ではなく、ロシアのほうから下ってきたオロチョンだという説もあります。
 オロチョン(Orochon)はシベリアや蒙古に住んでいたツングース系の民族です。その中の何人かが渡来してきて、先住の人民を支配したのではないでしょうか。そして、その悪さをはたらく8人のグループだともいうのです。
 「おろち」という語と「オロチョン」という語の音(おん)が、何となく似ていることも気になります。

 「九頭竜(くずりゅう)」という言葉もあります。九つの頭をもっている龍のことです。
 迷信になってしまったようですが、実際に九頭竜を祀った「九頭竜神社」が東京都多摩市関戸にあります。おそらく、その外にも全国的に多くあることでしょう。

  

九頭竜神社(左)と九頭竜像(右)

 また、九頭竜川というのがあります。
 福井県と岐阜県の境の山間に源を発し、大野盆地、福井平野を経て、日本海にそそいでいます。現在は上流に水力発電所があります。
 おそらく、かつては九頭竜が住んでいたということなのでしょう。


○八竜王と八大竜王

 『法華経』(正式には「妙法蓮華経)の序品第一に、

 <八竜王あり、難陀(なんだ)竜王、跛難陀(ばつなんだ)竜王、娑伽羅(しゃから)竜王、和修吉(わしゅうきつ)竜王、徳叉迦(とくしゃか)竜王、阿那婆達多(あなばだった)竜王、摩耶斯(まなし)竜王、優鉢羅(うはつら)竜王等にして、各(おのおの)、若干(にやっかん)の百千の眷属と倶なり。>

とあります。
 釈迦の説法に参加したものたちの名前の中に、竜王が8人挙げられているのです。

 源実朝(みなもとのさねとも)の『金槐集』に、「八大龍王」という言葉が出ている

 <時によりすぐれば民(たみ)のなげきなり八大龍王雨やめ給へ>

という作品があります。
 補遺(ほい)などを含めて全752首ある中の619番目の短歌で「雑」の部にあります。
 枕詞として<尊聊致祈念云>となっています。
 斎藤茂吉の注によると、八大龍王は『法華経』の八竜王と同じものたちを言っているようです。


○阿那含とアナコンダ

 阿那含(あなごん)をご存じでしょうか?
 小乗仏教で修行をするときの一つの段階です。その位になると、欲界の煩悩を断ち切って、再び欲界には生まれてこないといいます。つまり、輪廻を逃れられるようになったということでしょう。
 そこで、不還果ともいわれます。

 いっぽうアナコンダとは、大蛇のことです。
 南アメリカの熱帯に住み、全長が10メートル近くなります。しかし、毒はもっていないということです。恐竜が滅びてしまったとしたら、爬虫類でも最大級の生き物ではないでしょうか。

 辞書を見たら、阿那含の次にアナコンダがありました。(新村出編『広辞苑』第三版(机上版)岩波書店)
 それで、何が言いたいかというと、……


○爬虫類と哺乳類

 それぞれは、生命の流れの中で大いに発展をしてきたようです。
 生物の大まかな発達を見るとわかります。現在は、おおよそ次のように考えられています。

 動物の種類は、大きく「脊椎動物」と「無脊椎動物」に分けられます。そして、脊椎動物は哺乳類・爬虫類・鳥類・両生類・魚類です。いっぽう無脊椎動物のほうは、節足動物の昆虫類をはじめとして種々雑多な広がりを見せています。なお、種の種類数は概数です。

 脊椎動物   ●哺乳類  6000種
          ●爬虫類  6000種
          鳥類   8600種
          両生類  2800種
          魚類   20000種

 無脊椎動物  節足動物  ●昆虫類  1800000種
                  クモ型類  36000種
                  多足類   10000種
                  甲殻類   20000種
          棘皮動物  6000種
          軟体動物  130000種
          環形動物  89000種
          腔腸動物  10000種
          海綿動物  5000種
          原生動物  5000種

 ついでながら、昆虫については、現時点ではおよそ180万種といわれているが、研究が進むと数百万から数千万くらいになるそうです。

 このように見ると地球上に、かなりの動物がいることに気づきます。
 そして何となく、「龍」が爬虫類から発達したもののイメージを与え、「獅子」が哺乳類から進化をしたもののイメージを与えたのに違いありません。
 古くからある中国の皇帝を「龍」に喩えるのは、どんな意味があるのでしょうか。また、わが国でも高貴な人の顔を「竜顔」などと言うのは、何を意味するのでしょうか。

 なお、上の表で●を付けてあるのは、私の当面の研究テーマなのです。


○対象の研究方法

 哺乳類と爬虫類、そしてさらに昆虫類の研究をします。
 私の方法は、文献などを調べるよりも、現存の動物を観察することによって結論を導き出すのです。
 したがって、上野動物園の両生爬虫類館、井の頭公園の水生生物園、多摩動物公園の昆虫館などに頻繁に出かけます。そして、対象の動物と対面をして長いときは1時間くらいいるのです。

 何となく長明の『発心集』にあるそんぴんの話のようですが、ただ見て不浄観ならず直感で感じるのです。
 文献によって学問に頼る理由は、系統樹などの流れなどでほとんどが実物を見て直感を得たり、それができないときは考えたり、思考によって結論を導き出すことができるからです。


○貪欲と清貧

 現代社会においては、企業や個人が行う「飽くなき利益の追求」が常識になってしまいました。
 厳しい生存競争の結果、それを必要悪と考える人が多いようです。企業の内部でも、担当者が何のためらいもなく日常茶飯事として行っています。個人でも金銭を多くもつことが成功と考えている人がいます。生存競争としてではなく、宝くじや賭などで金銭を得ようとする人もかなりいるのが現実でしょう。

 企業や個人の利益のためには、健康なども犠牲にしてしまうことが平気で行われます。後で大問題になるような非人道的なことも、精力的に進められているので困ったことです。

 しかし、一方では現在でも清貧を心がける人も数は少ないですがいることにはいます。
 つまり金持ちの方向に向かう人たちと、反対に無所有を求める人たちがいるのです。そして、少し前の時代には後者の人が、多く輩出したという事実を考えてみてください。

 例えば、ブッダ、イエス、ソクラテス、老子などです。そんなことを考えると、価値観は大きく変わってきたようです。
 今日、清貧や無所有を求める人がいるでしょうか。
 もしいたら、それらを人間の失格者として見るような社会になっているような感じがするのですが、いかがなものでしょうか。




○龍に関する記述の一例

 まず、次の二つの文章を見ていただきたい。いずれも三枝充悳著『ブッダの入滅』(青土社)からの引用です。

(1) <そこで、〔かれらは〕はるかに、世尊がパータリ樹の下におられ、その顔かたちや姿は正しくととのい、すべての〔眼・耳などの〕感覚器官は落ちついていて静かに安定し、これ以上なく立派にきちんとととのっているのを眺めました。それはちょうど、偉大な龍が、浄らかに澄んでいる水のなかにおり、そのために、汚れやよごれがまったくないのと同様でした。>(40ページ)

(2) <そのこころがよく調整されていることはとくにすぐれており、またもろもろの煩悩をのこらず滅し去って、最高の寂静(じゃくじょう)の境地にいたり、それを獲得していました。それはちょうど、たとえば大きな龍のようであり、あるいはまた、澄みとおった水が実に清らかであり、いっさいの汚(けが)れのないのと同様でした。>(137ページ)


 これは、パーリ語またはサンスクリット語の原本から現代語訳がなされた「阿含経」の一部です。そして、そのほとんどは「大パリニッパーナ経」の内容と重複をしているようです。
 それはともかく、この原始教典はいったい何を意味するのでしょうか、……

 三枝充悳氏は、中村元氏の後継者と言われるようで、その訳文なども学問的には信頼できそうです。したがって、パーリ語またはサンスクリット語の原本にも、その通りが書かれていたはずです。
 つまり、インドやネパールでは少なくともその時代までは「」の譬えが、しばしば行われていたのでしょう。


 <世間にあっていかなる罪悪もつくらず、一切の結び目の束縛を捨て去り、あらゆることにとらわれることなしに解脱している人、−−このような人はまさにその故に《竜》と呼ばれる>(522)

 上記は、「スッタニパータ」にある文章です。
 中村元訳『ブッダのことば --スッタニパータ--』(岩波書店)から引用をしました。

 ここでは、龍がすばらしい人格をもっていたことを示しているようです。つまり、過去において優れた人格をもつ人が、龍から出ていたことも示しているのではないでしょうか。
 なお、中国でも天子なども龍と呼ばれた人がいるようです。科学が進んで、すべてがホモ-サピエンスになってしまいましたが、古代にはヒトの中にすでに異種のものが含まれていたのかもしれません。


○龍に関する地名・人名・寺社名

竜に関する地名

 龍に関する地名もかなりあります。
 台東区の樋口一葉ゆかりの竜泉寺町には、竜泉寺という寺は現在ありません。おそらく大火か震災で、郊外へ移転をしたのでしょう。

 兵庫県に、龍野市があります。最近になって「たつの市」になってしまいました。
 しかし、その由来を調べてみると面白いことがわかるかもしれません。

 長野県上伊那郡には辰野町があります。辰の字の由来は、十二支からきているのでしょうか。


竜に関する人名

 『葉隠』に、次のような驚くべき記述があります。
 これは、「龍造寺」という寺にも、またそこから起こったであろう「龍造寺家」という家名にも関係があるのでしょう。

 <釈迦も孔子も楠公(なんこう)も信玄公も、なるほどすぐれた聖人や武将であろう。しかしながら、その人たちは一度も龍造寺・鍋島の家に、家来として仕えたことはないのであるから、当家の家風に合うとは言えないだろう。>

 山本常朝にして、これだけのことを言わしめた龍造寺家の殿様の出自は、かなり格式が高いようです。
 しかし、実際にはどうなっているのでしょうか?


 世田谷区給田3丁目13番の辺りを歩いていたら、「龍神」という姓の表札がありました。そこで、たまたま表に出ていたご主人に、出自などを聞いたのです。
 すると、その家系自体には直接の関係はなく、和歌山県にそういういわれのある地名があって、そこの人は多く「龍神」と名乗っているとのことでした。
 そんなわけで、あまり詳しいことは聞けずに残念です。


竜に関する寺社名

 また、寺院の名称に「龍」または「竜」の字が付いているところも多いようです。
 少しばかり調べてみました。ただし、最寄り駅から歩いて行けるところか、行きやすい所だけです。後日、それぞれの寺を回って、住職から来歴を尋ねようと思っているからです。

 善龍寺(走大黒天)  八王子市元本郷町
 竜泉寺  八王子市水無瀬橋
 竜谷寺  八王子市大谷町
 竜光寺  八王子市丸山町
 天龍寺  八王子市子安町
 龍源寺  三鷹市大沢6丁目
 竜光寺  府中市押立町
 妙竜寺  府中市紅葉丘
 竜泉寺  調布市和泉1丁目
 金竜寺  調布市西つつじヶ丘2丁目
 長龍寺  東京都杉並区高円寺南2丁目
 竜泉寺  東京都杉並区下高井戸2丁目
 竜光寺  東京都杉並区和泉3丁目
 天龍寺  東京都新宿区内藤町
 竜泉寺  東京都港区南青山

 もしも、他にも多摩地区でお心当たりがあったら、教えてください。


○龍に関する伝説

 龍に関する伝説は非常に多く、近くにもいくつかあります。
 ここに、狛江市ホームページから「ちぎれて落ちた竜」の物語の概要を写しておきましょう。

 <昔々日照りが続いたので、泉龍寺の池の辺りで良弁というお坊さんが雨乞(あまご)いの行(ぎょう)をした。すると、黒雲が出てきて空をおおい、池から竜巻(たつまき)が起こった。そして、一匹の竜が舞い上がったのだ。
 それで、雨が降った。
 ところが舞い上がった竜は、頭と胴体と尾の3つにちぎれて落ちてきた。胴と尾はどこへ落ちたかわからないが、頭の落ちたとこが「りゅうごじっぱら」なんだ。
 和泉の地名のもとになった泉龍寺の池は、この雨乞いのときに湧き出た泉だという。泉龍寺の菅原住職は、寺と竜とのかかわりを次のように伝えている。
 なんでも、雨乞いをしたときに池から竜が舞いのぼって、ばらばらになって4つに分かれて落ちた。いちばん大きいかけらの落ちたところに泉龍寺、それから「じごじっぱら」に龍光寺、それから調布の金子には金龍寺が建てられた。もう一つはどこに落ちたかわからないけれど、そこにも竜の字のつく寺が建てられたという。>


○「りゅう」と「たつ」=十二支の辰

 「龍」または「竜」という字を「りゅう」と読むときと「たつ」と読むときがあります。
 また、「辰」という字もあります。これは「たつ」と読んだり「しん」と読むようです。
 辰(しん)は、

(1) 十二支の第五。たつ。 動物では竜に当てます。
(2)  時刻では午前八時。午前七時から九時の間です。
(3) 方角では東南東を指します。
(4) 日とか日がら。とき。
(5) 日・月・星などの総称。北辰は北極星のことです。

などの多くの意味があります。


○竜顔の意味?

 竜顔(りゅうがん)という言葉があります。漢音で読むと「りょうがん」となりますが、同じ意味です。
 『広辞苑』で引くと、

 <天子の顔>

と書いてありました。
 天子とは、「天命を受けて人民を治めるもの」を言います。つまり、天帝の子の意味なのです。
 天帝とは、「天にいて、宇宙を支配する神」です。造化をするのですから、造物主とでもいうのでしょうか。


 このようなことを考えると、ちょっと私たちと異なった人種のように思います。中国では、武力によって天子になった英雄が多いですが、もしかしたらそれらの人たちは天命を受けていたのかもしれません。
 竜顔とは、龍の顔のことです。そして、なぜ天子の顔が人間の顔でなく龍の顔だったのでしょうか。

 もしかしたら、古い時代には本当に龍のような顔をしていたのではないかと私は思います。今でも私たちの間には、何となく爬虫類のような顔立ちの人がいて、ときどき見かけるのは事実です。そして、そのような人はかなり社会的地位の高い人にいるようです。
 また、会食などをしてスープを吸うときに平気でぺちゃぺちゃとする人がいました。非常に地位の高い人でしたが、平然とそれをやっていました。恥ずかしい様子などはみじんもありませんでした。もしかしたら、スープを音を立てずに飲むなどというのは、人間社会の愚劣な週間であると、その人が考えていたのかもしれません。


○龍を何となく思わせることがら

・ 王仁(わに)という名前

 応神天皇の15年(285年)に朝鮮から渡ってきた王仁(わに)という学者がいます。
 文字のなかった日本に、彼は『論語』と『千字文』を伝えたという記録が残っています。


・ 因幡の白兎(しろうさぎ)の話

 白兎が数えて渡ったのは鰐(わに)だったのではないでしょうか。現在は日本近海には鰐やイグアナは生息してはいないようですが、過去にはどうだったでしょうか。大国主命がすっかり事情がわかって、治療法を教えたのは鰐であったことを知っていたからです。
 しかし、爬虫類の鰐ではなくて鮫(さめ)であったとう学者もいます。なお、鮫はサメ目の軟体海水魚ですから、魚類であって爬虫類ではありません。


・ 八岐大蛇(やまたのおろち)退治

 八本の首に頭のついている大蛇に酒を飲ましておいて、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治をします。
 もしかしたら、実際はロシアの方から下ってきた8人の外来人だったかも知れません。


・ 中国の殷(いん)よりも古い夏(か)王朝の時代に、拳龍(けんりゅう)氏、御龍(ぎょりゅう)氏などが龍を飼っていたという。何らかの爬虫類を飼っていたのではなく、爬虫類型ヒトと交際をして勢力をふるっていたのかもしれません。


・ 易の創始者である伏義(ふくぎ)は、龍の身体をしていて「龍師」という号を用いたということです。
 おそらく、爬虫類型ヒトであったのでしょう。


○龍に関する伝説

 ネス湖のネッシー伝説があります。
 しかし、最近になって遠隔操作のラジコン模型を操作したといようなことを言い出した人がいます。
 それでも、その模型の他に実際のネッシーという恐竜が実在をすると信じている人もいるのではないでしょうか。

 日本にも、鹿児島県指宿(いぶすき)市にある池田湖にイッシーという怪獣が目撃されたという情報があります。
 池田湖では1978年頃から、報告が頻繁にあるのです。湖面に泳ぐ姿が撮影され、それは「爬虫類のような生物の波路(なみじ)である」と分析されました。

 そのようなことは、世界的に起こっています。
 カナダのオカナガン湖には、オゴポゴという怪獣がいるそうです。実際にカメラで捕らえられ、背中に3つコブ状の突起があることがわかっています。
 アメリカのニューヨーク州にあるチャンプレイン湖には、チャンプという怪獣が住んでいて、古くから目撃をされていました。馬に似た頭で、全長6メートルくらいだということです。
 また、アメリカのジョージア州のジョージア川に体長が6メートルくらいの巨大なウミヘビのような怪物が見られるといいます。100年くらい前は、しばしば目撃をされたといいます。

 オーストラリアのシドニー北にあるタウポ湖で、湖面を泳ぐ巨大生物をカメラに収めた生物学者レックス・ギルロイ(サウスウエールズ自然科学博物館長)は、「たぶんプレシオサウルスの一種、湖には30頭くらいまだいるのではないか」と言っています。
 さらに、アフリカのコンゴ奥地にある湖に生息するモケレ・ブベンベです。これは現地のピグミー族の人たちが実際に殺して食べたという記録が残っています。体長は10メートル程度、頭はヘビに似ていて、爪の付いた太い足があったそうです。


 以上について、事の真偽を確認したわけではないので、意見をいうわけにはいきません。
 しかし、大型の爬虫類のような生き物がいるということは、何となく理解できるようです。なぜならば、現在でも小さいものでトカゲやイモリ、そして大型になるとワニやイグアナなどがいるからです。
 そして、これらのことが現在は伝説となっていても、かつては実在したことが考えられるのではないでしょうか。

 また、だいぶ小型化をしてしまったものの日本のカッパなども、もしかしたら怪獣の系列を引く生き物であったかもしれません。
 とにかく、現在では過去の形では姿を見せないというのは、その形が変わってしまったために私たちが見ていても気づかないというようなことではないかと思っているのですが、……




○こんな朧気な記憶がある

 何回も実感として体験するので、この記憶自体に意味があるのかもしれない。そして、その奇妙な想像はもしかしたら、実際に過去の遠い昔にあったことを示しているのではなかろうか?
 その記憶は、ふだんは忘却の彼方に行ってしまったのであるが、何かのひょうしに漠然とではあるが、ふとよみがえってくるのである。ちょっと、それは強く書いたメモ用紙の2枚目に、ボールペンの跡が薄く残っているように。
 もしかしたら、自分自身の記憶ではなく、遺伝子の中に組み込まれている記憶かもしれない。

 ここに、簡単にその記憶(と思われるもの)の内容を説明してみよう。
 自分は、どうやらUFOに乗せられている。もしかしたら、そんな超近代的な物ではないかもしれない。その円い窓から外を見ると、もう一つのUFOが離れていく。やはり、その円窓(まるまど)から外を見ているものが一人いて、様子から私に何かを話しかけているみたいだ。しかし、次第に遠ざかっていった。

 何となく安寿と厨子王が別れていったときのような感じでもあった。
 そして、別れていったのが私自身(の分身)であったような気が、そのときになぜかしたのである。

 そのUFOは、いわゆる円盤のようなUFO形をしていない。ドラム缶を大きくしたような円柱型であった。自分の乗っているUFOの形はむろん見えなかったが、離れていったほうのものと同型らしい。そして、丸窓の周囲にはリベットが打ってあったみたい。そのリベットの頭のふくらみまで覚えている。つまり、かなりの年代物だったのではないか。
 乗っている自分自身は感じなかったが、その円筒形UFOは緩(ゆる)く自転をしていたようである。自転をしながら、かなり高速で進んでいたらしい。しかし、高速で進んでいる感じはまったくしなかった。

 そんな他愛ない潜在的な記憶なのである。何の目的でそこに乗せられていたかなどは、まったくわからない。他の部分の記憶がまったくないからだ。
 この記憶の脈絡のない断片は、いったい何を意味しているのだろうか?


○もしかしたら削除された記憶の残骸かもしれない

 UFOの記憶など、まったく荒唐無稽なものかもしれない。
 しかし、何となく直感として考えられることもある。
 それは、すべての記憶が消されてしまったのではあるが、何かのひょうしに残滓のような形で、残ってしまった部分が脈絡もなくよみがえってくるのではないかということ。何者かに人為的に消された記憶を、ふと取り戻したような状態である。そんなことを何となく強烈なインパクトで感じるのである。

 だから、実際に真実を見たのか、または脳の一時的な幻影なのかが明確でない。
 算盤(そろばん)をご破算をしても、前のときの合計が並んだ珠の形で、しばらくイメージとして残っているような感覚でもある。
 もしかしたら邪悪な者に、飼育された状態のままに自分が移動をさせられたのかもしれない。あるいは、邪悪なものではなく神のようなものか、さらに宇宙全体の指令だったかもしれません。
 いずれにしても、かつて経験をしたことがないはずの鮮明な記憶は、いったい何を意味するものであろうか?


 それらは、単に脳がいだく幻影であって、よくよく考えれば意味のないことかもしれない。
 なぜならば、人の一生などムダで無意味なことが多く、無理ばかりを続けてその無理に意味づけをしようとしているようにも思う。また、どうでもよいことを考えすぎているのかもしれない。
 例えば、さっきまで養豚場にいたブタがとさつ場に運ばれているときに、何かを考えるであろうか。
 また、考えること自体に意味があるのであろうか、……
 考えたからと言って、事態が変わるか?


○自分自身が置かれた立場

 まず、自分自身がどちらに属しているかを考える必要があります。
 爬虫類系人類は、一般的に自己本位で残忍性があるようです。
 これに反して、哺乳類系人類は、ふつう協調的で心が和やか。


Kuroda Kouta (2004.08.21/2008.03.14)