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 私の仏教(サマリー)



  はじめに

  なぜ仏教なのか?
  仏教の歴史
  インド仏教と中国仏教
  大乗非仏論
  大仏売却案
  教典の大きさ
  無学の人になりたい
  不立文字・文字が読めない・指月
  居士と乞食
  縁覚と声聞
  『三教指帰』と『立正安国論』
  私の仏教
  歩行禅と横臥禅
  寺院めぐり
  寺院に掲げられた標語

  仏教の教義

  三学
  四法印
  四聖諦(ししょうたい)
  四苦八苦(しくはっく)
  八聖道(はっしょうどう)
  三毒(さんどく)・十悪
  成住壊空(じょうじゅうえくう)
  十界(じっかい)
  十王(じゅうおう)
  鬼子母神(きしもじん)
  念仏と題目と祈り
  三帰依文

  仏教の体系

  ブッダが直伝をしたという教典
  『スッタニパータ(経集)』
  『サンユッタニカーヤ』
  『大パリニッパーナ経』
  『ダンマ・パダ(法句経)』
  『ティラガータ』と『ティリガータ』
  『シンガーラへの教え』
  『アショーカ王の言葉』
  『ミリンダ王の問い』
  『大般若経』
  『般若心経』
  『金剛般若経』
  『維摩経』
  『勝鬘経』
  『法華経』
  『観音経』
  『阿弥陀経』
  『大無量寿経』
  『観無量寿経』
  『華厳経』
  『楞伽経(りょうがきょう)』
  『金光明経』
  『理趣経』
  『百喩経』
  その他(『がやせんじょう経』『父母恩重経』『涅槃経』)

  ブッダ以後の仏教

  ブッダ以後の人物と教典
  達磨
  智『摩訶止観』
  源信『往生要集』
  最澄
  空海
  法然
  親鸞
  唯円『歎異抄』
  日蓮
  道元『正法眼蔵』
  懐奘『正法眼蔵随聞記』
  『修証義』
  『一言芳談』
  明恵上人
  良寛
  白隠
  鉄眼
  その他の人々


 

なぜ仏教なのか?

 ここで、今後の考え方の基礎になるように、仏教の勉強をしておこうと思います。
 ご承知のとおり、仏教は広範・難題で、なかなか理解できません。仏教は、いわゆる宗教なのですが、哲学の分野も含まれています。そこで、哲学を学ぶとともに、仏教をひもとくことにしました。

 しかし、教典や現在行われている教義がすべて正統的なものかどうかは、すこぶる疑問です。
 「如是我聞」という言葉がそうであるように、いわゆる伝承だからです。「かくのごとく聞いた。」と言っても、直接に釈尊ご自身から聞いたのではなく、「かくのごとく聞いた」人から、「かくのごとく聞いた」場合のほうが多いことでしょう。
 今となっては、もはや何が初期の状態だったかわかりません。致し方がないことです。
 したがって、自分なりに納得をすれば仮に事実と異なっていたとしても、それを確かめる術(すべ)がないので是とします。

 例えば、「アッサジ」と「ナラダッタ」という人物です。
 おそらく実在の人ではなく、手塚治虫の作ったキャラクタでしょう。マンガ「ブッダ」に出てきます。ともに、感激をするような性格の人物ですから、創作であっても私にとっては非常に意義があります。私は、自分自身の安心立命のために仏教を研究しているので、学問をしているわけではありません。
 したがって、「如是我聞」でいっこうにかまわないのです。

 そんな姿勢で、自分なりに考えたことをまとまておきましょう。


仏教の歴史

 仏教は釈尊を中心にして、大いに発展をしました。釈尊の亡くなった後も、しばらくは隆盛を極めたのです。
 しかし、やがてインド国内で、仏教は次第に衰弱をしていったようです。
 仏教が、ヒンズー教に勝てなかったのは、古くからインドで行われていたカースト制度を否定しようとしていたからだとも言います。斬新な人間本意の教義も、やはり習慣や制度には馴染まないこともあるようです。

 インドで最高のカーストであるブラーマンは、牛乳を除くと完全な菜食を守っているそうです。
 卵も食べません。むろん、肉などは決して口にしないのです。
 そのような生活を古くから行っているので、民衆からも大いに尊敬されていたわけです。そのような点が、新しく興った自由な仏教とは違っていたのでしょう。

 ついでながら、現在のインドでは「ヒンズー教徒」と「イスラム教徒」と「ジャイナ教徒」が多いそうです。
 それぞれの掟がありますが、食べ物についていうと、

  ヒンズー教徒……牛肉を食べない
  イスラム教徒……豚肉を食べない
  ジャイナ教徒……肉はいっさい食べず、野菜しか食べない

そうです。

 したがって、例えばカレー料理を作るにしても、方法がそれぞれに異なるのです。しかし、いずれもターメリックで色を付けます。ターメリックは鬱金(うこん)と同じで、味も香りもほとんどありません。
 つまり、カレー自体が黄色いのではなく、わざわざ鬱金で黄色い色に着色してあるのです。

 ついでながら、「鬱金色」(うこんいろ)というのは、ショウガ科の多年草ウコンの根・茎で染めた濃い鮮黄色です。
 具体的にいうと、年配の人は覚えているでしょうか、かつてSBカレーが賞品にくれたルノーという乗用車があって、その色がそうだったんですが。また、東京の多摩地区の人ならば、日野にある富士通ファナックの工場の彩色を思い出してください。中央線の北側に見える建物です。京王線からも、また多摩動物公園のワライカワセミのいるところからも見えます。
 さらに、高尾の初沢町にある楳図かずお氏の家が、その鬱金色なのです。

 カレーはともかく、インドと日本は風土が違います。
 したがって、仏教が付帯的にもっていることがらについても、かなり違ってくるようです。
 袈裟(けさ)などは初期の仏教では糞掃衣(ふんぞうえ)といって、かなり粗末なものであったらしい。第一日本のように緯度が高い国で着るどっしりした袈裟などは、インドでは暑くてしかたないでしょう。
 また、払子(ほっす)などはもともと虫を殺さないようにして、掃き清めるための道具だったんです。
 仏教が中国を経由して、日本に定着してから教義の内容も変化せざるをえませんでした。


 日本と比べると、何となくインドはスケールが大きい国のようです。考え方も雄大ですし、実際に植物なども大きかったようです。
 中村元氏の「大パリニッパーナ経」の講義に、インドに生えている大木の話がありました。その木は、世界一の大きさで、周囲が何と3マイルもあるそうです。1マイルが1609メートルですから、5キロメートル近くなるでしょうか。
 私は、毎日歩行禅を4キロメートルくらいするのですが、その距離は大変なものです。中村氏が言ったのでなければ、おそらく私は信じなかったでしょう。

 日本における仏教は、インドの現状とは異なって、今でも盛んのようです。
 現在は「10万寺院、30万僧侶」というほどの繁盛なのです。むろん、新興仏教も含めての話でしょう。
 なお、これは花岡先生の「空海の講義」で聴いた話ですから、20年ほど前のことです。しかし、今でも同じくらいの寺院数、僧侶数ではないでしょうか。大ざっぱに考えると、千人に対して1つの寺院と3人の僧侶がいることになります。
 教団でも、かなり繁盛をしているところとそうでないところがあるようですが、……
 悪く言えば、宗教はそれがもっともたやすい現実逃避なのかもしれません。
 また、ビジネスと考えている教祖さまもましますようです。


インド仏教と中国仏教

 仏教の原典は、インドではパーリ語あるいはサンスクリット語で書かれていたようです。そして、それが中国に渡って漢訳をされました。その漢訳をした形で、私たちは利用をするのです。
 例えば、パーリ語で

 <世の中は、すべてうつろいゆくものである。>

とあるのを中国語では、

 <諸行無常。>

と訳したようです。

 また、インドでは性(セックス)のことなどを平気でいいますが、中国で性は倫理道徳上タブーになります。したがって、その部分が意訳になっていたりするんです。
 さらに、インドでは母系社会ですから母父(ははちち)という順序です。しかし、それは中国にきて教典になると父母(ちちはは)に変えられています。例えば、『父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)』のようにです。
 しかし、父母という順序は日本でも同じですから、そのほうがわかりやすいのではないでしょうか。


大乗非仏論

 大乗非仏論というのがあります。つまり大乗仏教は、もはや仏教ではないというのです。なかなか思い切った発言ではないでしょうか。
 釈尊が生前に説かれた説教の内容が、後世に大きく変わってきたからです。
 その意味では、私も原始仏教の形がそのまま残っている教典、つまり『スッタニパータ』や『サンユッタニカーヤ』、そして『ダンマパダ』などの内容がわかりやすく、また自分自身に意味のあるもののように考えています。
 いくら権威を増すために行ったといっても、後世に書き換えたものは、もはや内容のすべてについては、意味合いが大きく違ってしまっていることが多いからです。

 生まれたばかりの赤子が、まだ臍の緒も付いているような状態で、立ち上がって数歩も進んで「天上天下唯我独尊」などと言ったとは、私にはとても信じられません。
 あなたは、どのようにお考えでしょうか?

 この「大乗非仏論」と似たものとして、パウロ以後については「非キリスト教論」というのはどうでしょうか?
 つまり、バチカンの中で2000年もかけて書き換えられてきたものよりも『Q(クー)』や『死海文書』、『クムラン文書』などのほうが、ある意味では私にとって正統派であり、ありがたいのです。


大仏売却案

 『ベルツの日記』明治十三年(1880年)十一月八日−−の記述に、(−−は同じ日の記述が、日付とともに重ねて後にもあることを示す)次のようにあります。

 <独りで江島(エノシマ)へ行く。形容する言葉もない好天気。谷を通り、丘を越えて三時間、あるいは徒歩で、あるいは人力車で、六百年のむかし頼朝のもとにこの国の首都であった鎌倉へ。………そこから二キロのところに名高い大仏、すなわち青銅の仏陀の座像がある。美しい上品な顔立ち。十年前に日本政府は、日本のもつ最も立派なこの青銅像を、地金の値段で外人に売払うという、とんでもない考えを起こしたのであった! それほどまでに、信心と国粋にたいする理解がすっかり失われていたのである。幸い、取引の話はさたなしで済んだ。………>

 しかし、解体や運搬に費用がかかるということで、買い手がありませんでした。
 今から考えると、売れなくてよかったですね。


教典の大きさ

 仏教経典(ぶっきょう きょうてん)の大きさの例として、2つの経

   大般若経(だいはんにゃきょう)  全600巻  約500万字
   般若心経(はんにゃしんぎょう)  わずか262字

をあげておきましょう。
 ついでに、比較・参考のためにキリスト教の教典(けいてん)をあげると、

   旧約聖書  59万2439語
   新約聖書  18万1253語
    合計    77万3692語 これは 356万5480字

だそうです。


無学の人になりたい

 ふつう、学問のない者を「無学」といいます。
 しかし、仏教では逆に「もはや学ぶべきものがないとみなされたもの」を「無学」と呼ぶのです。つまり、非常に「学識のある人」のことです。『法華経』巻第四にある「授学無学人記品第九」に、そのことが記されています。
 そして、その「無学」は「阿羅漢」とも呼ばれました。この阿羅漢とは、尊敬をされる聖者という意味であり、本来は仏の別称です。

 そのようなことを知って、私は高守益次郎先生がお目にかかった最初のころに、

 「私は無学ですから、……」

いったことを思い出した。
 うかつにも、私は単なる謙遜と考えていたからです。
 高守先生のように、仏教に関する知識の深い人の誇らしげな言葉に気が付かなかったからです。
 そんなわけで私も、無学の人になりたいと思います。(^_^;)


不立文字・文字が読めない・指月

 仏教には、不立文字(ふりゅうもんじ)という考え方があります。
 つまり、「肝心なことは文字では正しく表現できないので、文字に頼らない」ということ。
 こんな話もあります。
 訪問をした僧が、祖師に教典の内容の教えを請おうとします。しかし、祖師は文字が読めないので、経文を読むように言いました。すると、僧は文字の読めない人に経文の内容はわからないだろうと思うのです。
 しかし、祖師は月を指さすようなもので、文字は単に理解を助けるためのものにしか過ぎないと言って、経文の奥義を述べたのです。

 そのようなことから「指月」(しづき)という言葉が生まれました。子どもに、

 「ほら、見てごらんなさい。あんなに大きなのんのんさまが出ているよ。」

と言って月を指さしても、子どもは月を見ないで母親の指を見ているのです。


居士と乞食

 居士は、いわゆる僧ではなく一般人です。地位を望まず、名誉を求めず、財産を欲しがらず、俗人として仏道を実践している人を言うのです。
 乞食は「こつじき」であり、単なる「こじき」ではありません。食べ物を托鉢などで乞い求める僧のことです。僧は、最低限の食べ物で日々の生活をしているからです。
 種田山頭火は、自分の行脚(あんぎゃ)を行乞(ぎょうこつ)と言いました。

 また、衣服には糞掃衣(ふんぞうえ)があります。修行時代の釈迦は、人々が尻をふいたボロ布を拾い集め、洗って継ぎ合わせた衣を着ていたことから、貧しい衣服を言うのです。


縁覚と声聞

縁覚(えんかく)と声聞(しょうもん)については、まだまだ私は記述できるレベルになっていません。そこで、もう少し勉強をして機会があったら、ここに書き足しましょう。
 ……


『三教指帰』と『立正安国論』

 空海や日蓮は、確かに偉大な人でしょう。
 しかし、いま私が『三教指帰』や『立正安国論』を読み直して考えるときに、ずいぶんと手前味噌のお考えから書かれたものと思います。むろん、それはそれなりの理由もあるでしょう。
 しかし、儒教や道教の立場や考え方は、それまでに始祖や弟子たちによって、何とか確立されたものです。それに反して、仏教はその成立が新しいことにもハンディがあります。そんなバックグラウンドですから、三者の会話がたくみに作られているのかもしれません。

 また、法然のことをボロクソに言ってみても、それを納得する人とそうでなく反駁をする人がいるでしょう。法然を尊敬している人が、当時には多かったことでしょうから。
 ……


私の仏教

 もしかしたら、独りよがりの仏教かもしれません。でも、自分なりに考えがあるのです。
 それは、「人生の寂しさは、宗教では救われない」と考えているからです。信仰によって救われようと考えたら、それは幻想であり、単にはかない希望ではないでしょうか。
 キリスト教などを考えても、同じことでしょう。旧約の『伝道者の書』を読めば、その矛盾がわかるはずです。
 いずれにしても、自分自身の考え方をまとめるために、私は遅まきながら仏教の勉強をしているのです。そんなことをご承知いただくために、あえて「私の仏教」というタイトルにしてあるのです。そして、それも中途半端なのでわざわざ「サマリー」と断ってある次第。

 高守益二郎先生の本に、

 <自分の中に、すでに仏性がある。>

と書いてありました。
 仏性とは、神のようなものでしょうか。いずれにしても、とどのつまり「神我顕現」なのです。
 したがって、私はそれを自分なりに認識して、取り出す努力をしてみたいのです。

 夏目漱石の『夢十夜』にあった話です。
 彫刻家(仏師)が、像(仁王)をもくもくと刻んでいます。すると、木の中にすでに人物がいたかのように仕上がっていくのです。ただ、仏師が回りの木くずを大雑把に取り除いていくようにしか見えないのです。
 そんな感じがするのです。
 あなたも、あなたの仏教を作ってみてはいかがでしょうか。


歩行禅と横臥禅

 私は、歩行禅と横臥禅を実施しています。実際には、そんなものがあるかどうかを知りません。
 歩行禅は、歩きながら禅をしようというものです。つまり、何のことはない、プチさん(プティ散策)なのです。とくに、寺院めぐりのときは効果的。
 いっぽう、横臥禅(おうがぜん)は布団の中で仰向けになってするのです。つまり、眠りはなの状態です。そのまま眠りに入ってもかまいません。不真面目な話かもしれませんが、そのようなときに前条(ぜんじょう)が得やすいのです。
 ここで言う禅定とは、思いを鎮めて心理を悟ろうとする姿勢です。その姿勢は、身体の姿勢ではなく心構えという意味。精神を集中して、三昧(さんまい)の境地に入り、安らかな心境に達することなのです。


寺院めぐり

 寺院めぐりは、なかなか面白い。
 しかし、仏像といえども人が作った物。


寺院に掲げられた標語

 よく寺院に参拝をしようとして訪問をすると、入り口や境内に掲示板があって、そこに標語が貼ってあります。ふつう、紙に書いて張り替えるようにしているのですが、中には石碑に彫ってあったりして恒久的なものもあります。
 それらの標語で、印象に残ったものをここにメモしておきましょう。

 <うばいあいうと足りない わけあうとあまる>
 1993年5月1日 仙谷山寿福寺(よみうりランド・稲田堤) 鎌倉にある寿福寺ではない。

 <ものを活かして使うのが仏の道 少欲知足>
 1993.5.3 龍雲山高乗寺(高尾)

 <鏡は姿を映し、姿は心を映す>
 1996.11.21 曹洞宗永心寺(新宿区須賀町)


三学

 仏教でいう基本的な方向に関する教えです。

(1) (かい)……定められた戒を守ります。
(2) 定学(じょうがく)……精神を集中して、統一します。そして、自分を反省するのです。
(3) 慧学(えがく)……人生の真実を悟る努力をします。


四法印

 慧学によって、悟りを具体的に得るための方向付けです。

(1) 諸行無常(しょぎょうむじょう)……この世のいっさいは変化していて、決して固定的なものはない。
(2) 諸法無我(しょほうむが)……人間には我執があるので苦しむ。それを改める。縁起(えんぎ)と関係する。
(3) 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)……無我になりきった状態の世界に入る。
(4) 一切皆苦(いっさいかいく)……世間のことは、ふつう自分の思うようにはならない。


四聖諦(ししょうたい)

 次の四つの真理を知っておこう。なぜならば、世間のことが自分の思うようにはならないことが多いからです。

(1) 苦諦(くたい)……生きていること自体が、「苦」と「迷い」をもっている。
(2) 集諦(じったい)……飽きることを知らない欲望。
(3) 滅諦(めったい)……欲望を捨て去った状態。
(4) 動諦(どうたい)……滅諦に至る行程。仏教的自覚をもって日々の生活をする。


四苦八苦(しくはっく)

 下に示す(1)から(4)までを「四苦」といい、またすべてを「八苦」あるいは「四苦八苦」というようです。
 例えば、「会社の資金繰りに四苦八苦する」などと用います。
 しかし、「苦」は直接に「苦しい」という意味ではなく、本来は「思うようにはならない」という意味内容なのです。そのようなわけで、「思うようにならない」のが「苦しい」状態なのです。

(1) 
(2) 
(3) 
(4) 
(5) 愛別離苦(あいべつ りく)……愛する人とも、やがて別れなければならない。
(6) 怨憎会苦(おんぞう えく)……嫌いな人たちと、一緒に何かをしなければならない。
(7) 求不得苦(ぐふとくく、ぐふとっく)……欲しているものが、なかなか手に入らない。
(8) 五陰盛苦(ごおんじょうく)……人間の存在自体が苦しみの要素から成立している。これは、感受性が鋭いために増す苦しみです。


八聖道(はっしょうどう)

 四聖諦(ししょうたい)の動諦(どうたい)から発展をして、八つの正しい行いが必要になります。
 そして、自分が行っている「見方」「決意」「言葉」「行為」「生活」「努力」「思念」について、常に反省をしなければなりません。そしてOKであれば、正しい方法で「瞑想」をするのです。

(1) 正しい見方
(2) 正しい決意
(3) 正しい言葉
(4) 正しい行為
(5) 正しい生活
(6) 正しい努力
(7) 正しい思念
(8) 正しい瞑想


三毒(さんどく)・十悪

(1) (ち)……迷い
(2) (しん)……怒り
(3) (どん)……貪(むさぼ)り

 ふつう、痴瞋貪(ちしんどん)、または貪瞋痴(どんちんし)などと言います。
 また、「貪」と「瞋」は「貪欲」や「瞋恚」などといって、十悪の一つにもしています。その十悪は、

(1) 殺生(せっしょう)……生き物を殺すこと。
(2) 偸盗(ちゅうとう)……人の物を盗むこと。盗人(ぬすっと)のこともいう。
(3) 邪淫(じゃいん)……配偶者でない者とのよこしまな関係。五戒の一つにもなっている。
(4) 妄語(もうご)……嘘をつくこと。五悪にもなっている。
(5) 綺語(きご)……真実に反して、うわべだけを飾ったことば。
(6) 悪口(あっこう)……
(7) 両舌(りょうぜつ)……二枚舌のことでしょう。
(8) 貪欲(どんよく)……
(9) 瞋恚(しんに)……自分の心に反するものを怒りうらむことです。
(10) 邪見または愚痴

です。


(注) 私は、この三毒や十悪、そして五戒などから、いつも「七つの大罪」を思い出します。それは、スペインのフェリーぺ二世(1527−1598)が寝室に置いて、日々の訓戒としたボスのテーブル絵です。
 そこには、

    怠惰・憤怒・貪欲・暴食・嫉妬・虚栄・愉楽

が、それぞれ書かれています。
 なお、「貪欲」は「貪慾」となっていました。
 皇帝でさえ、日々そのような反省をしています。日本の学校教育などでも、幼いときからこれらの自己反省を習慣づけたら、すばらしい社会になるのではないでしょうか。



成住壊空(じょうじゅうえくう)

 ふつうの状態では、成住壊空を永遠に繰り返すといいます。

(1) (じょう)……元素が集まって一つの生命が始まる(誕生)
(2) (じゅう)……生命活動(子どもから大人への成長)
(3) (え)……生命体の終末(老化 → 死)
(4) (くう)……生命が空の状態になる(空として宇宙に存在する)


十界(じっかい)

(1) 地獄界
(2) 餓鬼界
(3) 畜生界
(4) 修羅界
(5) 人界
(6) 天界
(7) 声聞界
(8) 緑党界
(9) 菩薩界
(10) 仏界

 上の十界の(1)から(6)まで、つまり下記を六道輪廻(ろくどう りんね)といいます。
 地獄界の例としては、昭和20年(1945年)8月6日の広島に落とされたたった一発の原爆で、10万人以上が死んだ大阿鼻地獄が生じました。

(1) 地獄界
(2) 餓鬼界
(3) 畜生界
(4) 修羅界
(5) 人界
(6) 天界

 十界の(7)から(10)までを四聖(しせい)といいます。

(7) 声聞界
(8) 緑党界
(9) 菩薩界
(10) 仏界


十王(じゅうおう)

 『十王経』という経典があります。また、立正大師(日蓮)の遺文『十王讃歎鈔』は、非常に優れたその解説書にあたるものと言われます。十王とは、人が死後に次々といく世界を支配する十人の王です。
 次に、死後の日数とその場所の名称、そして担当王の名前(その本性)を示しておきましょう。

(1) 初七日(死出の山)……秦広王(しんこうおう。本地は不動明王)
(2) 二十七日(三途の川)……初江王(しょこうおう。本地は釈尊)
(3) 三十七日(業関)……宗帝王(しゅうたいおう。本地は文殊師利菩薩)
(4) 四十七日(業江)……五官王(ごかんおう。本地は普賢菩薩)
(5) 五十七日(浄頗梨の鏡)……閻魔王(えんまおう。本地は地蔵菩薩)
(6) 六十七日(鉄丸所)……変成王(へんじょうおう。本地は弥勒菩薩)
(7) 七十七日(闇鉄所)……泰山王(たいせんおう。本地は薬師如来)
(8) 百箇日(鉄冰山)……平等王(びょうどうおう。本地は観世音菩薩)
(9) 一周忌(光明箱)……都弔王(とちょうおう。本地は大勢至菩薩)
(10) 三回忌(六道の辻)……五道輪転王(ごどうりんてんおう。本地は阿弥陀如来)

 源信の『往生要集』なども、この内容に基づいているのではないでしょうか。
 いずれにしても、実際に行って見聞や体験をしたように書いてあるのは、そこに何か奥義があるのではないかと、不信心な私は疑いかねるほどです。


鬼子母神(きしもじん)

 鬼子母神について、ちょっとメモをしておこう。
 仏教に鬼子母神が入っているが、おそらくアングリマーラなどと同様にインドの出来事や故事によるものであろう。
 梵語(ぼんご)で、鬼子母神は「ハリティー」と言う。

(注) 「梵語」(ぼんご)とは、古代インドで行われた文章語。ふつう、サンスクリット語という。インドでは、梵天(ぼんてん)が造物神であるブラフマンと考えたので、中国や日本では「梵」の字を取って「梵語」という。
 例えば、「僧」(そう)・「舎利」(しゃり)・「檀那」(だんな)・「卒塔婆」(そとば)などは、梵語を音訳して漢字にしたという。



 しかし、日本では「歓喜母」(かんぎも)「大夜叉女」(だいやしゃにょ)「天母」(てんも)「功徳天」(くどくてん)などともいう。数多くの仏典に登場するので、その都度付けた名前も多いのだろう。
 鬼子母神はインドの女神ではあるが、最初は凶暴で子供を取っては、食べてしまった。
 一説には五百人ほどいる自分の子どもに食べさせたともいう。そこで、釈迦はこの鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを教えて改心させた。食べものとして、石榴(ざくろ)を与えたという。石榴は、もしかしたら人肉の味がするのかもしれない。
 それ以後、鬼子母神は「安産の守護神」として信仰されるようになった。

 日蓮宗では、ほとんどの寺院で鬼子母神を祀っているという。千葉県中山の法華経寺の像は、日蓮自身が造ったそうだ。立正大師(日蓮)は大難四度、小難は数知れずという体験をなさっている。
 そして、

 <一 十羅刹女(じゅうらせつにょ)・鬼子母神を守らなければならない。
 二 信者は守護を求めて、加護が得られるように祈るべき。
 三 十羅刹女・鬼子母神は、信者の信念を試すために障害を与えることがある。
 四 十羅刹女・鬼子母神は、信者の身代わりとなって助け、迫害者を罰することがある。
 五 たとえ信者でも、不義なことをしたときは罰を与える。>

のように書き残している。
 いかに鬼子母神を崇拝していたかということがわかる。

(注) 法華経寺の鬼子母神は「」という字の上にある「」がない。つまり、角(つの)がないのである。むろん、常用漢字にはないので、ここには表示できない。(下の江戸三鬼子母神を参照してください。)

 「鬼子母神」を考えてみると、私(黒田康太)は

    「鬼」 「子」 「母」 「神」

という四つのファクターの合体したものではないかと思う。つまり、「母」は「神」に近く、「子」は「鬼」に似ているというのだ。
 あなたは、どう思いますか?



 なお、鬼子母神については、「貴四鬼子母神」を参照してください。


念仏と題目と祈り

 念仏は、浄土宗(法然)や浄土真宗(親鸞)、そして時宗(一遍)などが行います。
 いっぽう、題目は日蓮宗(日蓮)が唱えます。
 そして、祈りは寺院ではなく神社などで行われるのではないでしょうか。
 つまり、念仏は「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」、題目は「南無妙法蓮華経(ナンミョウホウレンゲキョウ)」、そして祈りは「祓い給え、清め給え、……」なのです。
 もしも、間違っていたらごめんなさい。

 浄土真宗では、徹底的に祈りを排除するといいます。
 「祈り」と「念仏」は、宗教的な行為としては本質的に異なるからです。
 明治神宮に祈るとか、戦時中「武運長久」を祈るといった行為は、「そうあって欲しい」ということを神に申し述べることなのです。
 しかし、念仏は「おまかせをする」という内容。
 日蓮の唱えたお題目は、他の宗教に対して排他的だったので、いろいろな問題が生じました。


三帰依文

 後に述べる『修証義』と同様に、江戸時代末期の仏教学者・大内青巒(おおうち せいらん)がまとめたものです。
 この三帰依文は、『法句経』(ほっくきょう)・『華厳経』(けごんきょう)・『法華経』の経文の一部を組み合わせたものだと言われます。仏法僧に帰依するという三宝帰依の部分は、おそらく『華厳経』によっているのでしょう。


 <ブッダン・サラナン・ガッチャーミ。ダンマン・サラナン・ガッチャーミ。サンガン・サラナン・ガッチャーミ>

と唱えられている部分もありますが、ふつう

 <人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いまここに聞く。この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。>

のように言われます。
 そして、「ブッダン・サラナン……」の箇所は

 <みづから仏(ぶつ)に帰依し奉る。
 まさに願わくは衆生(しゅじょう)とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して無上意をおこさん。
 みづから法(ほう)に帰依し奉る。
 まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて智慧海の如くならん。
 みづから僧(そう)に帰依し奉る。
 まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して一切無礙(むげ)ならん。

と続きます。
 仏法僧について、「仏」は「明るく」、「法」は「正しく」、そして「僧」は「仲よく」という「三宝」の大切さを説いた文と言われています。

 しかし、私は不真面目なせいか「ブッダン・サラナン……」と聞きますと、一時流行(はや)った「バナナボートの歌」を思い出すのです。
 また、『三帰依文』の「人身受け難し」では、次のようなことを考えてしまいます。

 父親が発射した数億の精子から、ただ一つが生きながらえる。三つ子でも、せいぜい三匹。1分で3mmを進む精子。精子は卵子の匂いを手がかりにして、10時間ほどでたどり着く。
 ヒトの遺伝子の数は2万〜2万5千。ニワトリもほぼ同じ。100パーセントのうち、1.5パーセントの遺伝子が人固有。その他98.5パーセントはチンパンジーやショウジョウバエと同じ。
 母の胎内30週目で、すでにあくびをする。
 母の胎内で、5週間で5倍になる期間もある。
 はじめは、ペニスとクリトリスがある。このうちどちらになるかで、男か女に別れる。
 胎児は強い握力をもつ。親が猿だったころのなごりだろう。親に強くつかまる必要があったからだ。そしてふつう、母の妊娠から38週くらいで生まれる。
 以上のようなことを考えると、自分自身の生命が大切と思う。


ブッダが直伝をしたという教典

 ブッダによって成立をしたと言われる教典を時間的に古いものから並べてみました。しかし、私が不勉強のために、もしかしたら間違っているかもしれません。
 仏教には八万四千の法門、五千余巻の経文があるといいます。そんなわけですから、どんなにがんばっても全部を読むことはできません。そこで、ここでは自分にとって必要と思われる箇所だけを拾ってみました。

 なお、三蔵法師が孫悟空、猪八戒、沙悟浄とともに天竺(インド)から中国へ持ち帰った仏教の原典が35部5048巻と書かれています。物語ではありますが、経の数などには何か根拠があると思います。
 いずれにしても、パーリー語やサンスクリット語の原典、そして中国で漢訳をした経などを考えると、膨大な数になるということでしょう。

 釈迦は、弟子のマールンクヤに

 「死後の世界はあるのか、ないのか?」

と問われ、「矢で射られた男」のたとえ話をして「死後の世界について考えるな」というように説いたと言われる。
 仏教には、「待機説法」とか「応病与薬」という言葉があります。
 必要なときになってから説明をしたり、相手の要望によって内容を変えるということでしょう。そんなわけで、具体的に何をどうしたらよいかのヒントになるような内容を抽出して、ここにメモとして残しておきましょう。


『スッタニパータ(経集)』

 小さい72の経が集められたもの。
 教典の中で最古のものと考えられる。なぜならば、このスッタニパータには後の仏典にあるような仏教専門の用語、つまり仏教用語が出てこないからである。


 <理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は破れる。>(92番)

 <賢者・すぐれた人は真理を見て、幸福な世界に達する。>(115番)

 <世の中における種々様々な苦しみは、執着を縁として生起する。>

 <修行者は避難されてもくよくよしてはならない。>


『サンユッタニカーヤ』



『大パリニッパーナ経』

 漢訳の教典で阿含経と言われる場合もあります。
 マガダ国王アジャータサット(阿闍世)がバッチ族を滅ぼそうとして、その意見をブッダに聞くために、大臣でバラモンのバッサカーラを使いに出すところから始まります。全体的には、何となくブッダが言った事実が残っている経のように思われます。
 しかし最後のほうになって、ブッダの葬儀について本人が非常に細かい指定をするところなどは、後代になって加筆された部分ではないかと、私には感じられて仕方ありません。

健康なときに

 今は健康で修行ができるだろうが、老いたり、病気になっちゃうと修行できなくなってしまう。だから、そうなる前に悟りにいたるように励みなさい。そうすれば、老人になっても、病気になっても安らかに暮らすことができるのです。

七種の発展サイン

 次の七つを実行すれば、法はいっそう盛んになる。

(1) なすべきことを少なくして楽しみ、あれもこれもと多くをしない。
(2) 静かな寡黙を楽しんで、おしゃべりなどの饒舌をしない。
(3) 睡眠を取りすぎて、ぼんやりした朦朧(もうろう)状態にならない。
(4) 群をなし徒党を組んで、役に立たない無益なことをしない。
(5) 優れた美徳もないのに、自己宣伝をして賞賛を誇るようなことはしない。
(6) 悪人と仲間になったり、ぐるになったりしない。
(7) 人気のない静かなところに自分がいることを楽しむ。

七種の発展サインのつづき

(1) 身体は汚れていて、不浄であることを認識する。
(2) 食物は汚れていて、不浄であることを認識する。
(3) 世俗的なこの世の楽しみはしない。
(4) いつも死を思い、死者などを思い浮かべる。
(5) すべては無常であるという認識をする。
(6) すべては無常であり、それが苦であるという認識をする。
(7) すべては苦であり、無我であるという認識をする。

 上の(4)については、ヨーロッパでも「メメントモリ」という言葉で注意を促しています。
 また、良寛のように「骸骨」という概念で忘れないようにした僧もいます。

ベールヴァ村におけるブッダのことば

 <私はすでに老いた。年齢も八十歳になっている。それはちょうど古くなった車がなんとか方便を講じ修理や手入れをして、やっとここまで来ることができたようなものである。私の身体も、またそのとおりであり、いろいろな方便の力をもって、しばらくの間、寿命をなお保ちとどめることはできるであろう。自分自身を一所懸命つとめて努力し、この苦痛を忍ぼう。>

 これは、ブッダの晩年の何とも人間味のある発言ではないでしょうか。初期仏典には、このような記述がまだところどころに見えるのです。

チュンダのきのこ料理

 チュンダは早速食事をしつらえて、それを仏と比丘たちに供えました。さらに特別料理として栴檀樹耳(「せんだんじゅに」という香りのよいきのこ)を煮ましたが、この料理は非常に貴重でした。だから、ただひとり世尊にだけ差し上げたのです。
 しばらくして、仏はチュンダに言いました。「このきのこを比丘たちには与えないようにしなさい。」

 これは、ブッダが独りで食べるためではなく、特別料理ではあったものの中毒を起こして病気になるのです。だから、他の比丘には与えないように注意をしたのです。


『ダンマ・パダ(法句経)』

 ダンマ・パダは「真理の言葉」という意味で、比喩の少ない直裁的な記述で明解である。下記のような名言が、多く含まれている。この教典もスッタニパータと同じように、いちばん古い仏典に属するものと思われます。


 <諸法は意(こころ)に支配され、意を主とし、意より成る。人もし穢(けが)れたる意をもって語り、行えば苦が彼に従う。牛車が牛の足跡に従うように。>(1)

 <諸法は意に支配され、意を主とし、意より成る。人もし浄(きよ)き意をもって語り、行えば楽が彼に従う。影がその人に離れないように。>(2)

 <実にこの世において、怨(うらみ)は怨みによってついに止むことなし。怨みを棄ててこそ始めて止む。これは永遠の法である。>(5)

 先の大戦で、戦後賠償の問題が起こりました。しかし、わが国に対してスリランカは、賠償の請求を放棄しました。それは実に上の文章によったものだと私は漏れ聞いているのです。


 <たとえ無益の語を集めて一千言をなすよりも、聞いて寂静(じゃくじょう)を得られる一語のほうがよい。>(100)

 <戦場において百万人に勝つよりも、一の自己に勝つもののほうが最上の勝者だ。>(103)

 <百歳の寿命をまっとうしても涅槃(不死の道)を知らなければ、涅槃者の一日の生のほうが優れている。>(114)

 <諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教>(183)
 (もろもろの悪をなすなかれ もろもろの善をなすべし その心を浄く清浄に保て これが諸仏の教えである)

 <誹(そし)らず害(そこ)なわず、戒律を厳守し、食する量を知り、孤独に座臥(ざが)し、高尚な思慮に専念する。これは諸仏の教えです。>(185)

 <汝はいまや齢(よわい)すでに傾き、閻魔(えんま)の許(もと)に近づいた。途中には汝の住むところもなく、またその旅路の糧(かて)もないのだ。>(237)

 <大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。>(ダンマパダp128、往生要集(コピー)p86)

 それはそうでしょう。死の驚異といっても死は自分自身のことなのです。そして、それは地獄や極楽の概念にも関係してくるのです。
 日蓮は、

 <地獄は身の内にあり>

と言っていますし、紫野大徳寺 一休禅師の歌に、

 <極楽は西にもあらで東よりきた道になくみんな身にあり>

と喝破しています。


『ティラガータ』と『ティリガータ』



『シンガーラへの教え』



『アショーカ王の言葉』



『ミリンダ王の問い』



『大般若経』

 全部で600巻から成り、文字数はおよそ500万字という膨大な経です。寺で読むときは、1巻について1秒くらいの時間をかけて、パラパラーッと開く「転読(てんどく)」という方法を用います。
 「空」の思想と実践方法について書かれているといいます。


『般若心経』

 お経の中で最もコンパクトである。全体でわずか262文字で、その中に大乗仏教の真髄である「空」の思想を説いている。「般若」とは「仏の智慧」という意味。
 「諸法空相」という概念が『般若心経』にある。つまり、

 <あらゆる物事は空という姿で存在している。つまり、物事はすべて空である。>

というのである。何となくわかるようでもあり、わからないようでもある。
 そこで、考えてもわからなくて、悟りによって始めてわかるのだなどとも言うようです。

 「いつまでも執着をしない。こだわらないということが空である。」とも言う。
 また、『平家物語』などの作品でも「諸行無常」という言葉が使われる。

 <この世のもので変わらないものは何もない。>

というような意味らしい。


『金剛般若経』

 <現在心不可得、未来心……>

 上は、有名な「心」のくだりです。
 道元の『正法眼蔵』に徳三と老婆の会話として、おもしろおかしく引用されていました。


 <師は問うた。−−「スプーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が『わたしは、尊敬さるべき人になった』というような考えをおこすだろうか?」

夢幻泡影


 <一切の有為法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く、また電(いなずま)の如し。>

 『金剛般若経』には、上のように「如夢幻泡影(にょ むげんほうよう)」という言葉がでてきます。その意味は、

 「人生は夢のようでもあり、幻(まぼりし)のようでもあり、泡のようでもあり、影のようでもある。」

ということでしょう。
 実際には、「露(つゆ)」と「電(いなずま)」が続くのですが、長くなるので略されるようです。
 でも、その意味の取り方なんですが、例えば『平家物語』のように「人生が無常であったり、はかない」と言うように考えがちです。本来は、「人生は夢幻泡影のようだから、身体が健康のうちに正しい修行をしなさい。」と言っているのです。
 「大パリニッパーナ経」「維摩経」にある記述を参考にしてください。
 「幻」については、『葉隠』にも同じような記述があります。
 また、金剛般若経に出てくる「知恵の完成」という言葉も重要でしょう。(岩波文庫版 p71)


『維摩経』

 『維摩経(ゆいまぎょう)』は初期大乗教典といわれ、インドのヴァイシャーリーに住むヴィマラキールティ維摩詰)を主人公としている。
 病気の維摩詰を見舞いに来た文殊菩薩に対して、沈黙をして「空」を示した。

 <健康な身体でもいつか衰えるし、病気になってしまうだろう。だから、賢い人は身体などを頼みにしない。身体にとらわれないで、仏の身を望むべきだ。そのために悟りを求めるのです。>(見舞客に対する維摩居士の言葉)

 なお、維摩居士の部屋は方丈の大きさだったといいます。つまり、1丈四方ですから四畳半の部屋です。そして、鴨長明もその大きさの掘っ立て小屋に住んで、『方丈記』を書き残しました。


『勝鬘経』

 国王の妻、勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が大いに獅子吼(ししく)して、その内容を釈迦が「そうだ。そうだ」と言って認めるという珍しい形式の経である。在家の女性が説いた経として、ユニークである。

(注) 日本の仏教では、「夫人」を「ふじん」と読まずに「ぶにん」と読みます。漢音や呉音などの移入時の読みを残しているためでしょうか?
 また、インドでは「母父」のような順序だった言葉は、中国に渡って「父母」となり、日本では「ぶも」と読みます。『父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)』という小さい教典がありました。


『法華経』

 正しくは『妙法蓮華経』といい、「正しい教えの白蓮」という意味。
 たとえ話が出てきたりして、なかなか雄大な教典です。「経の中の王」などと言われて、もっとも尊重されます。
 しかし、学者の中にはこの法華経を「意味のない文章」などと言った人もいました。

 <そこには、女性もいないであろう。また、不幸な状態と苦難の生活の恐怖もないであろう。>(五百弟子受記品p107)

 次のような常不軽菩薩の話が「法華経常不軽菩薩品」にありました。

 <彼は出会うすべての人に、

  「私はあなたを軽んじない。あなたは菩薩道を行じて仏となるだろう」

と言った。
 しかし、人々は彼をののしり、石を投げつけたりした。それでも遠くから叫び続けたのである。
 その功徳によって、常不軽菩薩は仏となった。>


・ この娑婆国の人

 <この娑婆国の中の人は、弊悪(わるいならわし)多く、増上慢を懐き、功徳浅薄にして、瞋濁(しんじょく)・諂曲(へつらい)ありて、心、実(まこと)ならざる。>(勧持品(岩波文庫 法華経 中 p228))


・ 無学の人

 ふつう、学問のない者を無学という。しかし、仏教(法華経、授学無学人記品第九)では、もはや学ぶべきものがないとみなされたものを無学と呼ぶ。そして、その無学は「阿羅漢」(あらかん)とも呼ばれた。つまり、阿羅漢とは尊敬をされる聖者という意味であり、本来は仏の別称である。


 なお、実際の経典は、ここ を参照してください。


『観音経』

 観音経は、法華経の第25章に当たるものです。その部分を独立した教典と考える場合もあります。観音は、観世音菩薩とか観自在菩薩とも言います。
 観世音菩薩の誓願を一口でいうと、抜苦与楽(ばっくよらく)であろう。


『阿弥陀経』

 極楽浄土がどんなところかを説明し、そこへ行くための教えが説かれている。
 「無量寿経」と比べると簡潔にまとまっている。
 じょうこう如来(燃灯仏)、こうおん如来、がっこう(月光)如来というように次々と53人の仏がでました。そして、その後に阿弥陀仏の先生であるセキザイオウが現れたのです。

 ここで53人という数字は、華厳経の善哉童子の求道数とも同じです。何か53という数に意味があるのでしょうか。
 正しくは『仏説阿弥陀経』という。『小無量寿経』『小経』などとも言われる。
 また、この『阿弥陀経』と『仏説無量寿経』(大無量寿経)と『仏説観無量寿経』と合わせて『浄土三部経』という。
 なお、三つの経は『阿弥陀経』が短く、『観無量寿経』が中間で、『仏説無量寿経』(大無量寿経)は四十八の本願を説いた内容で長くなっています。

 倶会一処(くえいっしょ)という言葉がある。
 この阿弥陀経にある

 <諸上善人倶会一処>

から出たので、

 「念仏をする者は、すべて等しく西方浄土に往生するので、死後もふたたび一つところで出会う」

という意味であろう。


『大無量寿経』

 <独去独来>

 意味は「一人で生まれ、一人で死んでいく」ということでしょう。
 何となく寂しい言葉です。さびしさは逃れられないのでしょうか。しばしの間、それを忘れる方法はあるようですが、…… 私は、なぜかふと旧約の『ヨブ記』のことを思い出しました。


『観無量寿経』



『華厳経』

 正しくは『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつ けごんきょう』といい、華厳宗の根本教典です。
 この大方仏(偉大なる仏)はバイローチャ毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ))について書かれています。この仏は、「時間や空間を超えた」宇宙の真理ともいえる仏なのです。

 その最後の章「入法界品(にゅうほっかいぼん)」に、有名な善財童子の求道(ぐどう)物語があります。
 善哉童子は悟りを得たヘタイラ(遊女)や南方のドラビア人(未開人)など53人に教えを乞いに行きます。最後に普賢菩薩に教えを乞うて、悟りの境地に至りました。

 どこか忘れましたが、

 <一則一切、一切則一>

というのが、『華厳経』にありました。おそらく、

  「全体の中に個があり、個の中に全体がある。万物はそれぞれが関連しあって存在しており、個と全体は本質的に同一不二である。」

というような意味だと思います。
 もしも、間違っていたら正解をご教示ください。

 この『華厳経』を読むと、従来の考え方が変わってくる。
 ふつう一つの物体があると、そこに他のものは置けません。しかし、『華厳経』では一つの物体が占める場所に、無数のものが入ると言っている。例えば、人間の毛穴の一つ一つにも無数の仏が入ることもできるといいます。

 私(黒田康太)は、自動車の教習所で教えていることを思い出します。それは、

 「衝突とは、同じ時間に同じ場所に行こうとするから起こる」

というんです。
 なるほどとは思いますが、そのような物理的な考えと異なる空間があるかもしれません。
 そして、とっぴかもしれませんがその考えは、死んだ人の魂が残っていても、地上や天の空間がいっぱいにならないという理屈にもなるんじゃないかなどと何となく納得をさせられるのです。


 また、華厳経では一切のものは「夢幻泡影」などと言っているみたいです。すなわち、万物は空であると説いていて、一切の現象は心で現れるということなのでしょう。つまり、心が大切であるということのようです。
 旧約聖書の『伝道者の書』やバッハのカンタータの中にある「われらは神の中に生きる」などと同じ考え方ではないでしょうか。

 全体的に、最後の章を除いて途轍もない展開ですが、もう一度よく学んでみたいと思います。
 あなたも、まだご存じでなければ、ぜひ読んでみてはいかがでしょう。
 なお、善哉童子が53人に教えを乞うということと、『東海道五十三次』の数を関連付ける人もいるようです。しかし、江戸時代に江戸日本橋から京都三条大橋までに53の宿場があったので、たまたま数が一致しただけでしょう。つまり、品川・川崎・神奈川・程ヶ谷(保土ヶ谷)・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根・三島・沼津・原・吉原・蒲原・由比・興津・江尻・府中・鞠子(まりこ)・岡部・藤枝・島田・金谷・日坂(にっさか)・掛川・袋井・見付・浜松・舞坂・新居・白須賀・二川・吉田・御油・赤坂・藤川・岡崎・池鯉鮒(ちりゅう)・鳴海・宮・桑名・四日市・石薬師・庄野・亀山・関・坂下・土山・水口・石部・草津・大津です。


『楞伽経(りょうがきょう)』



『金光明経』

 護国の教典である。四天王や天の守護神によって、天変地異や災害から国の安泰が守られるという。聖徳太子はこの経を重んじ、四天王寺を建立(こんりゅう)した。
 「金光明経」「仁王(じんのう)般若経」「法華経」を護国三部経という。


『理趣経』

 密教で用いるために秘経とも言われます。実際には、即身成仏などについて説かれています。煩悩や欲望をもったまま、悟りの境地に進むために、男女和合や愛欲に関する経と誤解をする人がいるようです。


『百喩経』

 次の話は、百喩経巻一ノ一・大正蔵四巻534p上に出ていた話です。

 <愚人が、他家でご馳走になった。その料理がたまたま甘すぎたので主人に言うと、主人は少量の塩を与えた。その塩を入れると、とても美味しくなったのである。
 そこで、愚人は「塩は少量でも美味しい。多ければもっと美味しいだろう。」と考えて、帰宅後は食物をいっさいやめて、塩ばかりを食べた。そして、間もなく大病に罹(かか)ったのである。>

 何事も極端に過ぎると、かえって弊害があるということを教えているのでしょう。私たちの日々の生活にも我執があるために、この例のようになることが少なくありません。


その他

・ 『がやせんじょう経』


 ガヤ山上経で、どの教典から抽出したか私にはわかりません。心に欲望の火がついて、激しく燃えている状態を述べて、それが危険であることを教えています。
 手塚治虫の『ブッダ』という作品に、「中華料理店」と「アヒルの池」について、素晴らしい説明がありました。

『父母恩重経』(ぶもおんじゅうきょう)


 小さい教典ですが、なかなか味わいのある内容です。「ぶもおんじゅうぎょう」と濁って読むのが、正式かもしれません。また、ふつう「ふぼおんじゅうきょう」とも読まれるようです。
 『父母恩重経』は、近年になって中国の敦煌(とんこう)にある千仏洞(せんぶつどう)で発見されたそうです。おそらく、唐の時代以前に中国で作られた経典でしょう。しかし、書き出しの部分などは正典と同じ様式で、内容は切々としていて、まったく釈尊が唱えたものと考えても差しつかえありません。
 少なくとも私(黒田康太)は、そう思っているのです。


 内容は、次のような部分から成り立っています。
(0) 如是我聞(書き出し)
(1) 親子の縁の深さに
(2) 母親の愛情とその強靱さについて
(3) 親が持ち帰る土産について
(4) 父母を喜ばす功徳について
(5) 病気になった父母の看病について
(6) 真実の孝行とは何か

 なお、実際の経典は、ここ を参照してください。

『涅槃経』(ねはんぎょう)

 この『涅槃経』は、わかりやすいたとえで説明をしているという。

・ 『首楞厳経』(しゅりょうごんきょう)

 有名な「六つの結び玉」の話があります。
 高崎直承『観音経を語る』(p78)に首楞厳経の話が出ていました。


ブッダ以後の人物と教典

 直接にブッダが説教をしたのではなく、後世になって仏教者が作成した教典などをまとめてみました。
 ただし、必要に迫られて行った作業ですから、ここにあげたものがすべてではありません。
 また、体系的に整然としたものでもないでしょう。なぜならば、開祖といわれる人と教典(複数あるのがふつう)を単に並べただけだからです。
 さらに、記述してある文章が全体的に分量のバランスがとれていないこともお断りしておきましょう。


達磨

 達磨(だるま・ダルマ)は南インドの出身で、大バラモン国王の第三子であった。海外の国々における仏教の衰えを憂いて、宣教に国外に出て行った。

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 私は、絵に描かれている達磨(だるま)や三蔵法師がイヤリングをしているのを奇異に思ったことがある。とくに、国宝達磨像(山梨県向嶽寺蔵)の姿には、かなり大きな丸いリングが付いていて不釣り合いではないか。もっとも、法華経(その中の観音経)にも首飾りをしていて、それを外して布施するというくだりがあったので、そんなに不思議なことでもないのかもしれない。


智『摩訶止観』

 <種々の経論は人の眼目を開きます。しかしこれを執すると彼を疑い、一を是(ぜ)として諸(しょ)を非とします。>(巻第一上)

 <大論に云う。「善く心を一カ所に住して動かない、是(これ)を三昧(さんまい)と名付ける。」>(巻第二上)

 <心(しん)はこれ不可思議の境(きょう)なりと観察しても、この境を説明することは難しい。>(巻第五上)


源信『往生要集』

 源信(天慶5年(942)−寛仁元年(1017))は、9歳のときに比叡山に登った。そして、横川(よがわ)の恵心院で、修行をしながら執筆をした。「恵心(えしん)僧都」とか「横川(よがわ)僧都」と呼ばれるのはそのためである。博学で著述も多く、七十余部一五〇巻あるという。

 源信は『往生要集』によって日本の浄土教の基本概念を作ったといえる。法然や親鸞も『往生要集』をもとにして思想を展開したようだ。『往生要集』は宋に送られて、高く評価をされたという。

 <足ることを知れば貧といえども富(ふ)と名づくべし、財ありても欲多ければこれを貧と名付く。>

 <不浄とは、…… 五根、七竅(しちきょう)は不浄にて盈(み)ち満ちてり。…… 三升の糞、中にありて、その色黄なり。一斗の尿、中にありて、その色黒し。…… 大小の二腸は、赤白、色を交(まじ)えて、十八に周転せること、毒蛇の蟠(わだかま)る如し。>()

 五根=5つの感覚器官。つまり、眼・耳・鼻・舌・身。七竅(しちきょう)=7つの穴。つまり、眼・耳・鼻・口の穴。そしてお尻。オシッコの穴。?。 


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最澄

 最澄の願文(がんもん)は、かなり強烈な自己批判です。

 <愚の中の極愚(ごくぐ)、狂(おう)の中の極狂(ごくおうう)、塵禿(じんとく)の有情(うじょう)、底下(ていげ)の最澄。上(かみ)は諸仏に違し、中は皇法に背き、下(しも)は孝礼を闕(か)けり。>

 これは、

 「(自分は)馬鹿な人間の中で最も馬鹿な人間。狂った人間の中で最も狂った人間。汚れた生臭坊主(なまぐさぼうず)。そして、最低の最澄である。仏にも、君にも、親にも背いているからである。」

ということでしょう。
 そして、この願文は「(自分は)悟りを開くまでは、決してこの山(比叡山)を降りない。つまり、俗界に戻らない」という固い決心ののです。


空海

 空海は、弘法大師とも言われる。
 その諡(おくりな・いみな)は、「法を広めた」ことを意味している。
 なお、「弘法」には「こうぼう」と「ぐほう」という二つの読み方がある。しかし、「ぐほう」の場合は、「求法」と書いてしまい、「法を求める」意味に用いることが多いようだ。
 むろん、名前のときは「ぐほう」ではなく「こうぼう」と読む。弘法大師は「こうぼうだいし」または「こうぼうたいし」と読む。

 空海は、晩年の八十五歳すぎてから、ものにつかれたように書き始めた。(確か、親鸞の場合もそのようであったと思う。) むろん、若いときの著作もあり、「さんごうしいき」(戯曲の形で書かれている)などは、二十三歳のときに書かれたという。

 <生生生生 死死死死>などの意表をついた文もあるが、努力型であったらしい。

 非常な苦心と強い意志で進んだ。
 書写山 方便−−−仏への近づき
 空海によって西洋哲学から仏教。
 空海について、ルネッサンス的な壮挙であると梅原 猛は言っている。
 私(黒田康太)は、空海よりも最澄のほうが何となく好きだ。
 最澄(短調) すべての人は仏性があって、仏になれる。(ただし、来世で)
 空海(長調) 即身成仏。大日如来→神教とうまくマッチした。

 <生れ生れ生れ生れて、生の始めに暗く、死に死に死に死んで、生の終りに冥(くら)し。(『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』)

 <夫(そ)れ仏法は遥かにあらず、心中にして即ち近し。>(『般若心経秘鍵』)

 上の句は、

 「およそ仏(ほとけ)の正しい教えは、はるか彼方にあるのではありません。私たちの心の中にあり、ごく近しいものですよ」

というような意味であろう。
 後に、日蓮もまったく同じ意味のことを言っている。


 いろは歌は、弘法大師の作と言われました。
 しかし、次のようなことを考えると、ちょっと違うようです。

 いろはにほへ「と」ちりぬるをわ「か」よたれそつね「な」らむうゐのお「く」やまけふこえ「て」あさきゆめみ「し」えひもせ「す」

 つまり、言葉の意味を考えずに、単に途中の文字を七文字ずつ区切って読むと、「咎なくて死す」という隠しフレーズがあります。この「咎なくて死す」の意味については、篠原央憲「いろは歌の謎」(光文社)に詳しく書かれていました。


法然

 教えをつきつめて考えると、悟りとは何かという問題になるようです。そして、それは人によって異なってくるでしょう。
 法然は一日に、七万遍も念仏を唱えたそうだ。
 また、一説ではちょっと回数が少なくて、日に六万辺の念仏をなされたともいう。しかし、ご自身の場合と念仏回数がかなり異なって、非常に少なくただ一念でも、あるいは十念でも往生ができると信者には申されたようです。

 この念仏については、『徒然草』第三十九段に素晴らしい記述があります。「念仏しているときに、眠くなっちゃった」ときのことです。

 法然の名前の由来は、「法爾自然」または「自然法爾」によるといいます。
 中国の老荘思想の概念で、「自ずからしからしむ。」という意味です。つまり、自力(じりき)を捨てて、完全に他力(たりき)にたよることなのです。

 なお、明治になって英語の「nature」を「自然」と訳しました。しかし、この「nature」という語は、「自然」という意味の他にも「性格」という意味があるのです。中西悟堂の文にも、そのようなことが書かれていました。


親鸞



唯円

・ 『歎異抄』

 『歎異抄』の「抄」の字は、本来ならば「かねへん」を書くのがふつうです。
 親鸞の面受の弟子、唯円が晩年に書いたものですが、親鸞の考えを深く理解をしていなかったためでしょうか、違った解釈のところがあるようです。
 例えば、親鸞が「この世に考えた往生」を唯円は「死後に行くところ」と致命的な勘違いをしているようです。
 それでも、弟子が師を描いた文章は素晴らしいものが多く、この『歎異抄』も例外ではありません。懐奘の『正法眼蔵随聞記』やエッカーマンがゲーテを描いた『ゲーテとの対話』などと比べてみても、かなりの傑作といえそうです。

 それはともかく、『歎異抄』から親鸞に近づく人は、みんな誤ると言います。高田派のある人が花岡先生に話した内容を私が花岡先生から聞いた言葉なのです。
 真宗の八代目、中興の祖といわれる蓮如上人が、文庫に隠しておいたのもむべなるかなです。内容が一般の人に誤解されやすく、危ういものだったからです。その後、明治になってから清沢満之(きよざわ まんし)によって世に出たのだと梅原猛さんから聞きました。

 さらに、倉田百三(くらた ひゃくぞう)の『出家とその弟子』などによって、非常に有名になりました。
 ロマン・ローランが倉田百三『出家とその弟子』のフランス語訳の序文で、

 <『歎異抄』は福音そのものだ。>

と述べています。
 新約聖書にある4つの福音書は、最初はパウロの手紙のような「幸福の音信(いんしん)」つまり「福音」であったのでしょうが、時代を経てとうとう物語のような形式になってしまったと私は思うのですが、……

 <念仏は無義をもて義とす、不可称、不可説、不可思議の故に。>(第10章)

 <弥陀の五劫思惟(ごこう しゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、……>

 歎異抄には、ところどころに唯円が驚くべきことを書き残しています。
 例えば、「師の親鸞が真面目な顔をして1000人を殺してみないか」というようなことを言ったことです。私は、そのくだりを読むと、思わず身が引き締まるような感じを受けます。唯円の勘違いがあったとしても、おそらく親鸞の口調はそのままに伝わっているでしょう。

 そして、同じく仏典にある実際にそれを行った弟子の「アングリマーラの話」などを思い出したりもします。
 アングリマーラでは1000人でなく100人でしたが、実際には99人を殺したのです。
 そして、唯円とアングリマーラは違っていましたが、親鸞とアングリマーラはもしかしたら同じ考えで、同じことをする危険性があったのではないかと思うのです。
 つまり、親鸞が唯円に話したのではなく、法然が親鸞に話したのであれば、……


日蓮



道元『正法眼蔵』

 『正法眼蔵』という本には、歯のみがきかた(第五十洗面)から爪の切りかた(第五十四洗浄)までこまごまと書いてあるのに驚いた。

 <自己をならふといふは、自己をわするるなり。>(道元『正法眼蔵』)

 <一茎艸量(いっきょう そうりょう)あきらかに仏祖心量>

 <およそ袈裟に三種がある。一は糞掃衣(ふんぞうえ)、二は毳衣(せいえ)、三は衲衣(のうえ)である。>(第三「袈裟功徳」)

 ここで、毳衣とは鳥獣の細毛を用いた毛織りのこと。衲衣は古くなって破れた布を縫い合わせて作った衣です。
 しかし、現代の高僧の袈裟は豪華な新品の布から作るようです。
 ついでながら、衣には糞掃衣とがあると言った後で、「食には常乞食というのがある」という記述がありました。


 <生じても成熟しないもの三つ。魚の卵、菴羅果(あんらか)の果実、発心したばかりの菩提>(第四「発菩提心」)

 菴羅果とはマンゴー(の果実)です。私たちが食べるあの甘さではなく、熟す前はおそらく酸っぱいのでしょう。なかなか面白い喩えで、道元の言わんとしていることがよくわかります。


 <埣啄の迅機>(第五十一「面授」)

 「埣啄の機」ともいい、「そつたく の じんき」または「そったくのき」と読みます。
 その意味は、「親鶏(おやどり)が、その卵の孵化(ふか)をするときの時期を逸することがないようにする」ことを言います。雛が殻(から)を破って出ようとするときに、嘴(くちばし)で殻を叩いて助けてやるのですが、そのタイミングのことです。
 つまり、早すぎても遅すぎてもダメなので、ちょうどよいタイミングのことです。


 「雪の中の白い梅」に関する印象的な記述がありました。
 おおよそ、次のような内容です。
 人間は知識をいっぱいもっているが、安心できる世界はどこにもないのではないか? 『正法眼蔵』の「梅花の巻」です。目をつぶっていても、雪の中の白い梅の花が見えるんだ。


 道元は、「時間」についても独特な考え方をしていたようです。

 <いはゆる有時(うじ)は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。時なるがゆえに時の荘厳光明あり。>

 <いはゆる山を登り、河を渡りし時に、われありき。われに時あるべし、われすでにあり、時さるべからず。>

 <しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去するとのみ解会(げえ)すべからず。飛去は時の能とのみは学すべからず。時もし飛去に一任せば間隙ありぬべし。有時の道を経聞(きょうもん)せざるは、過ぎぬるとのみ学するによりてなり。要をとりていはば、尽界(じんかい)にあらゆる尽有は、つらなりながら時々(じじ)なり。有時なるによりて吾有時(ごゆうじ)なり。

 <山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今(しきん)に時あらずとすべからず。時もし壊(え)すれば山海も壊す、時もし不壊なれば山海も不壊なり。この道理に明星出現す、如来出現す。これ時なり。>


 田辺 元 (1885〜1962)は、『正法眼蔵の哲学私観』の中で、

 <道元の哲学的思索は、この有時の説において弁証の極致・転換媒介の論理の妙奥に達した観がある。

 「到それ来にあらず。不到これ未来にあらず。有時かくのごとくなり。……」

という如き、肯定は常に否定を伴い、而して否定は否定を否定して否定即肯定の自覚に至る。
 これ時に於いて永遠を証し、相対に於いて絶対を信ずる信証一如の絶対媒介なる所以を、ほとんどこれ以上を望む能わざる如き明瞭さを以て道破する。>

と書いています。


 どこに書いてあったか失念をしてしまい、うろ覚えなのですが

 <法華転法華> または <法華転転法華>

という言葉があったと思います。
 その意味は、

 「法華経の中にいて、法華経に支配される。しかし、逆に法華経を自分が支配する。」

というような内容ではないでしょういか。
 つまり、「相手に転がされるか、自分が相手を転がすかの違いなのです。」
 この「法華・転法華」は、どこかの講話で聞いた話なので、もしかしたら『正法眼蔵』ではなかったかもしれません。
 下の写真は、世田谷区大蔵五丁目の妙法寺にある大仏の台(うてな)の前に置いてある賽銭箱に彫ってあったものです。私は、その大仏を参拝してから、ふと下を見てこの小さい文字が目に入りました。小さいということは、上にある波型が蓮の花びらを表わしていることから、おわかりでしょう。
 そして、これも「法華転・転法華」の意味ではないかと思った次第です。



 なお、大仏さま自体のお姿は「仙川(水源地から河口まで)」をご覧下さい。


道元『典座教訓』

 椎茸(しいたけ)を干す和尚の話は、この『典座教訓』にあったと思います。
 それは、次のような内容です。

 典座は椎茸を干している。しかし、その作業に全生命をそそぎこんでいた。
 夏の炎天の中であろうが、冬の厳寒の中であろうが同じである。さらに、自分が余命いくばくもない老齢であるということなど、まったく問題でない。
 なぜならば、今の命はその一瞬にしか存在しないと考えたからであった。


懐奘『正法眼蔵随聞記』

 『正法眼蔵随聞記』は『歎異抄』のように、弟子が師を語ったものです。
 『歎異抄』は後半の記録(11章以後)から何となく弟子が師の境地に達していないようであり、『正法眼蔵随聞記』はある点では弟子が師よりも優れているように思われるのはなぜでしょうか。

 この『正法眼蔵随聞記』という書物は、『正法眼蔵』ではありません。道元(どうげん)禅師の弟子(従者)の孤雲懐奘(こうんえじょう)が、師の言ったことを記録をしたものです。
 しかし、例えば道元が「ほう公について厳しい見方」をしているのに対し、懐奘は「ほう公について暖かい見方」をしています。そんなところにも、懐奘の人柄が私にはかいま見れて、懐奘の人柄に親しみを感じるのです。

 下記は、道元の話した言葉を懐奘が記録したものでしょう。あるいは、道元が過去に漢籍から引用をした言葉かもしれません。

 <学道の人は先(まず)須(すべから)く貧なるべし。財おほければ必ず其の志(こころざし)を失ふ。>(第三11)

とあります。

 なお、この第三11あたりを読むと私はキリスト教のアモン派(アーミッシュ)のことなどを思い出します。
 さらに、続いて「ほう公」のことを書いています。
 なお、「ほう公」の「ほう居士」とも言われ、その「ほう」という字は「まだれの中に龍」と書きます。つまり、「麻」という字の「林」の部分が「龍」となっている字なのです。

 下の文章にあるように、ほう公(ほう居士)は参禅のはじめ、家の財宝を荷車で持ち出し、海に沈めたことで、有名です。それは、何となく、私たちにフランチェスコのことを思い出させます。

  <ほう公は俗人なれども僧におとらず、禅席に名をとどめたるは、かの人参禅のはじめ家の財宝を持ち出して海に沈めんとす。人是を諫(いさ)めて云く、人にも与へ仏事にも用ひらるべしと。時に他に対して云く、我(われ)己(おのれ)に冤(あた)なりと思ひて是(こ)れを捨つ。冤としりて何ぞ人に与ふべき。宝は身心(しんじん)を愁へしむるあたなりと云ひて、つゐに海に入れ了りぬ。>(第三11)

 また、「無用なものは持つな」と教えます。そして、懐奘は次のような文章を残しています。

 <唐の太宗の時、異国より千里の馬を献ぜり。帝これを得て喜ばずして自ら謂(おも)えらく、「たといわれ独り千里の馬に乗りて千里を行くとも、従う臣なくんばその詮なきなり。」と。……依てかの馬に金帛を負わせて返さしむ。>(正法眼蔵随聞記、貞観政要)

 次の言葉は驚くべき内容であり、私の心を大きく揺るがせました。非常に不思議なくだりです。

 <切に思ふことは必ずとぐるなり。>(第三14)

 なぜならば、この記述がある『正法眼蔵随聞記』とそうでないものがあるからです。
 かつて、このくだりを探して『正法眼蔵』と『正法眼蔵随聞記』を通読したことがあります。しかし、いずれにもありませんでした。そして、ようやく和辻哲郎校訂『正法眼蔵随聞記』(岩波書店)の版で見つけて、とてもうれしかったことを覚えているからです。同じ『正法眼蔵随聞記』でも、岩波の「日本古典文学大系81」に含まれているほうには、なぜかその記述がないのです。

 いずれにしても、私は「切に思ふことは必ずとぐるなり。」という言葉が大好きです。それに似た体験をしたことが何度かあるからです。そして、ポールマイヤーのことなども思い出します。
 この文章の次に、曹渓(そうけい)の六祖に関する記述が続くのですが、もしかしたら書写をした人が入れたのかもしれません。
 なお、上記の番号の振り方も異なっています。(第一1)のようにしたのが前者、(一)のようにしたのが後者です。
 私は、この後から差し加えられたと思われる不思議なくだりを読んで、聖徳太子の

 <事理自ずから通ず、何事か成らざらん。>

を思い出しました。

 <若し今生(いましょう)を捨てて仏道に入りたらば、老母は設(たと)ひ餓死すとも、一子を放(ゆ)るして道(どう)に入らしめたる功徳(くどく)、豈(あ)に得道の良縁にあらざんや、……>(第三14)

と覚悟をしたのですが、天が救ってくれるのです。

 <何の暇にか人と諍談(じょうだん)すべき。畢竟(ひっきょう)じて自他ともに無益(むやく)也(なり)。>(八)

 <学道の人、すべからく寸陰を惜しむべし。……主君父母(ぶも)も我に悟りを与うべきにあらず。恩愛(おんない)妻子も我が苦しみを救うべからず。財宝も死を救わず。世人(せじん)ついに我を助くることなし。>(九)


 また、懐奘はこんな話も書き留めています。

 <昔(むか)し、慧心僧都、一日庭前に草を食(くら)ふ鹿を、人をして打ち追はしむ。>第六(10)

 僧都は鹿が憎くて追ったのではなく、鹿が人に慣れてしまって、悪人に近づき殺されてしまうことを心配したのです。


 <「仏というは蝦蟆(がま)蚯蚓(みみず)ぞ」といわば、蝦蟆蚯蚓をこれぞ仏と信じてひごろの知解(ちげ)を捨つべきなり。>

 これは、師の言うことを絶対と信じて行えという意味でしょう。
 そのような意味で、私は懐奘がいさぎよいと思います。最初、道元と問答をして弟子になったわけですが、そのときの問答を私は知りません。


 宇治の関白殿が装束を竿の先にかける話、唐の太宗が献ぜられた千里の馬を返した話など、懐奘は細かい感情などを見事なタッチで書いています。
 もしかしたら、私(黒田康太)は「懐奘が道元よりも数段上の人物であったんじゃないか」とさえも思うことがあります。
 例えば『歎異抄』の唯円のように、師の親鸞の言葉を自分が理解できなかったために違った意味で書き残してしまった面受の弟子もあるでしょう。しかし、師の道元に対して弟子の懐奘は少しも劣らず、何となく人柄までが偲ばれる思いがするのですが、……
 それは、ちょうどソクラテスとプラトンの関係に似ているのかもしれません。
 いかがなもんでしょうか。


『修証義』

 道元の『正法眼蔵』から、大内青巒(おおうち せいらん)が抜粋をしたものです。実によくまとまっている素晴らしい文章です。
 人間に生まれたことのすばらしさ、仏教に出会えたことのありがたさ、因果の道理などについて書かれています。

 <生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏(ほとけ)あれば生死なし、但(ただし)生死即ち涅槃(ねはん)と心得て、生死として厭(いと)うべきもなく……>(総序の冒頭)


『一言芳談』

 『一言芳談(いちごんほうだん)』は、死のエピグラム(警句)とさえ言ってよいほど緊張をした文があります。
 名僧や変わった修行をした僧のユニークな行動が記されています。この『一言芳談』についての記述が、『徒然草』に「たふとき聖のいひ置けることを書付けられて、……」(第98段)とあります。
 当時、かなり読まれていたものなのでしょう。
 なお、兼好歌集には「すめばまたうき世なりけり よそながら思ひしままの山里もがな」というのがありました。

 <何かをしようか、しまいかを決めかねているときは、たいがいしないほうがよいのです。>(22)

 <この世で俗人であっても僧であっても、いちばん関心があるのは死という事実です。死ぬときがくれば死ぬのだと思っていれば、それほどの重大事ではありません。>(39)

 <学問をすると一つの疑問が解決しても、次々と疑問が出てきます。一生の間、疑問の解決に追われて心静かに念仏をすることが不可能になってしまいます。>(74)

 <解脱房貞慶上人は「その日その日がそのまま死への刻みと思わなくてはならない」とおっしゃった。>(76)

 <明遍僧都は「無知でありたいものだ。」とおっしゃった。>(77)

 <心戒上人は、いつもしゃがんでいた。ある人が理由を尋ねたら「この世には、落ちついて座っていられるようなところがないからだ。」とおっしゃった。>()

 <明遍(みょうへん)僧都は「無智でありたいなぁ。」とおっしゃった。>()

 <敬仙房は「一生はただ生(しょう)をいとうようにしなさい。」とおっしゃった。>()

 <事すくなき様に振る舞いなすべきなり。>()


明恵上人

 明恵(みょうえ)上人は「栂尾(とがのお)の上人」とも言われました。
 自分の信仰を示すために、耳を自ら切り落としたといいます。また、寝ている空海の目をいただいたという夢も見たそうです。つまり明恵上人は、夢(内界)と人生(外界)を一緒に生きた人なのです。
 私は、何となくゴッホの耳のことを思い出したりもしました。

 <我が心は猿のごとし。十方に広がってしまう。持戒の鎖でもって、仏の柱に結びつけておけば、たのもしいことだ。>(遺訓17)

 <光るものが貴(とうと)いのであるならば、蛍・玉虫が貴い。飛ぶものが貴いのであるならば、鳶(とび)・烏(からす)が貴い。食べなかったり着ないのが貴ければ、蛇が冬穴に籠もったり、おながむしの裸で腹這うのも貴いだろう。>(栂尾明恵上人伝記)


良寛

 良寛の辞世の句は、

 <裏をみせ表をみせて散る紅葉(もみじ)>

です。そして、次の言葉

 <死ぬときは死ぬがよろしく候−−良寛>

を残したと言います。


白隠

 白隠の死生観は、まず「死の問題」を出発点にした。そして彼の生涯は、地獄からの脱出に明け暮れたのである。
 白隠禅師の短歌。

 <つつしみをおのが心の根とすれば ことばの花はみごと咲くなり>


鉄眼

 鉄眼(てつげん)については、いろいろな評価があるでしょう。
 私なりの考えをメモしておきます。


・ 伝道の書と般若心経と鉄眼

 かつて旧約聖書の「伝道の書」をはじめて読んだときに、何だか「般若心経」と似ているように思った。しかし、内容はともによくわからないので、感じが似通っているというような漠然としたものである。その後、何回読んでも、「般若心経」はわからなかった。
 中村元と紀野一義が訳注をした岩波文庫の「サンスクリット原典から訳した部分」を読んでも、どうも今ひとつ。

 ところが、「瑞龍鉄眼禅師仮字法語」を読んで、何だかわかったような気がした。
 それも、そのはずであろう。非常にやさしく書かれているからである。それと同時に、鉄眼という人にも興味をもった。

 そこに、鉄眼は

 <雑草を抜いて、花を育てる。芋虫を嫌い、蝶を愛でる。毛虫嫌い、蝶々好き。考えてみれば、それらは同じものである。>

というような書き方で、読む人の理解をうながします。
 私は、芋虫と蝶が同じだというくだりで、「堤中納言物語」にある『虫めずる姫君』のことを思い出したりしました。


 岩波文庫の伴蒿蹊著『近世畸人伝』に、

 <……此師仏学深く、説法能弁にて、俗間を化度すること多けれども、生涯建立門にかかり、自の腕力十分ならずといひて、吾法嗣を立てず、……>

とあった。
 しかし、もっと厳しい見方が現実にある。
 それは鉄眼の師が、弟子が完全には悟っていないことを見抜いていたということであろう。そして、そのようなことを鉄眼が意識をしながら説法をしたり、法語を書いたりしていることが何とも痛ましいことではないか。

 なお、源 了園『鉄眼仮字(かなじ)法語』(講談社 禅の古典9)に詳しい解説がありました。


その他の人々

・ ダライラマ

 <自分で自分の心を覗くのは(映画などを見るよりも)楽しい。>


・ チベットの高僧、カムトゥール・リンポチェ

 <お釈迦さまが助けてくれるのではなく、自分自身で自分を助ける。>


・ 中国宋代の慈明(じみょう)禅師(石霜楚円(せきそうそえん))

 修行中に眠気におそわれると、錐(きり)で自分の腿(もも)を刺して、座禅を続けた。この故事を「慈明引錘(じみょう いんすい)」という。


・ 寒山・拾得

 もしかしたら、寒山と拾得は僧でないかもしれません。下働きであっても、寺にいたのですからここでは、仮に僧としておきましょう。
 『寒山詩』に、

 「お茶を見ていると、吸い込まれるような気がして、頭痛が消えてしまった。」

というくだりがありました。


Kuroda Kouta (2004.09.21/2011.01.19)