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 学校教育についての私論


○はじめに
○礼儀とエチケット
○教育とは何か?
○観察者と被観察者
○恐るべき洗脳
○十把一絡げの問題
○競争による価値基準の錯覚
○知識と知恵
○話せばわかる?
○多勢に無勢
○加害者と被害者、原因と結果
○学校の教育の現状


○はじめに

 ここに、学校教育について驚くべき意見を述べます。
 意見というよりか、無責任な私見と言ったほうがよいかもしれません。そして、おそらく侃々諤々(かんかんがくがく)・喧々囂々(けんけんごうごう)の批判をいただくことになるでしょう。

 なぜこのようなことを言うかというと、現在のような一律の学校教育では効果がないばかりか、今後は悪い結果が多くもたらされる危険性があるからです。むしろやめてしまって、家庭教育方式にしたらどうかとさえいうような意見具申をする次第です。

 学校教育については、国家が基本的な考えをもっているようです。
 例えば、フィンランドでは学校ごとにきめの細かい方法で、教育が行われています。
 資源の少ない国では、人材こそが国を支えるのだと考えて、「落ちこぼれを作らない」という基本方針で教育が行われます。教え方などは、教師が個々に作るのでユニークで千差万別です。また、「クラスのできる子が、できない子を教える」などということが、教育の場で日常的に行われています。


○礼儀とエチケット

 礼儀やエチケットを知らない場合には、そのままで教育をしてもムダでしょう。なぜならば、徒労に終わることが多いからです。それは、たとえて言えば「風呂にも入らない身体の不潔な女性が、お化粧をする」ようなものでしょう。つまり、逆効果になってしまうのです。

 最低の常識は、誰にも必要なのです。
 「礼儀を知らない人に、一律の教えてもムダ」ということは、さらに極言をするとタブーなのです。なぜならば、決してよい結果を招かないからです。


○教育とは何か?

 改めて、「教育とは何か?」などと言うと、ちょっと難しい問題になってしまいます。
 「何のために、何をするか」で回答が異なってくるからです。
 ここでは、一般的なことを考えてみましょう。

 教育は、原則として教えるものと教えられるものとの間で成立します。教材や教育機器は重要な役割を果たしているが、それは教育の手段であって本質ではありません。本質は「教える」という行為、換言すれば「サービス」ともいえるのです。
 昔の教育は「覚えさせる」ことが中心でした。しかし、現在は社会の情報量が非常に多いので、基礎力を付けて「考える」ことが必要になってきました。つまり、「覚える」ことではなく、「考える」ことが大切なのです。


○観察者と被観察者

 物事を客観的に見る必要があります。
 芝居を見たり、テレビドラマを見ていて中にのめり込んでしまうことがあります。憎々しい悪役がいると、早く死んでしまったほうがよいなどと考えます。しかし、それは仮想空間の中のことで、俳優はただ役を演じているだけなのです。
 実際に、江戸時代に芝居を見ていて武士が、興奮のあまり舞台に駆け上がって、悪役の役者を斬り殺してしまったという事実があったそうです。


○恐るべき洗脳

 幼いころからの教育は、一生を支配する性格になります。
 そして、価値観の独りよがりな確立をしてしまうようです。いきおい、その結果は自分自身の正当化を考えます。したがって、多くの場合は意見が互いに対立をしてしまいます。
 脳の本来の活用をしきっていないからです。


○十把一絡げの問題

 全員を一律に行う教育は、個々の子どもにとっては必ずしも効果的ではありません。
 個性や個人差を考えるべきであろう。


○競争による価値基準の錯覚

 競争をさせる方式、つまり競い合わせるのは、必ずしもよい結果をもたらしません。とくに受験競争などは、ムダなことであり愚かしい結果しか生まないでしょう。
 多くのものを限られた少数の人が得るということは、恨みを買うことがあるからです。


○知識と知恵

 現在の詰め込み式の教育では、知らなくてもよいことを知りすぎている反面、知っていなければならないことを知らない場合が多いようです。そのような間違った教育をしているからである。
 「多くを知るよりも、少なく考えることが必要。」 バーナード=ショウも、そのようなことを言っている。

 中学校を卒業したら、人生について洞察したり、例えば
   「自分は、何者なのか? なぜ、自分が存在するのか?」
などという基本的な疑問に答えられるとよいだろう。
 しかし、それを学校で一律に教えるのではなく、自分で考えることができるようになっている必要があるのではないだろうか。たとえ回答ができなくても、自分自身で考えることが必要なのである。


○話せばわかる?

 文字を読んだり、書いたりすることができるのは、練習のたまものです。
 実際に文字の読めない人はいます。また、文字が書けない人も多いようです。日本人の文盲率は非常に低いですが、アメリカではそうでないようです。
 戦後、進駐してきた素敵な米兵といっしょになった日本女性が驚いてしまったことです。ダンディで素敵な青年が、自分の名前も満足に書けなかったからです。
 文字の読み書きができる割に、日本人の精神構造はどうでしょうか。
 蘇軾は、「文字を知るは憂患の始め」と言いました。


○多勢に無勢

 たとえ間違っていても、多勢組みのほうが正しいとされることがある。ともすると、少数派は悪者になってしまうことが多い。中世の魔女裁判のように。
 とくに、人間関係はおかしな理屈によって維持されている。


○加害者と被害者、原因と結果

 ニワトリと卵ではないが、どちらがいったい原因なのかわからないことが多い。
 教育がいけないから、教育者までいけなくなってしまう。
 教育者がいけないから、教育されるものまでが次第に汚染をされていく。
 高潔な人が教育者になっていないということも一つの原因であろう。


○学校の教育の現状

 ここで言うことは、私の独りよがりかもしれない。
 また、学校が異なれば違っているかもしれない。また、先生によって大きく異なるであろう。

 先生の中には、「夜回り先生」と言われる水谷修氏のようなユニークな考え方と実践をする人がおられるからである。「夜回り先生」は水谷修氏の書いた手記のような小説であるが、寺尾聰、加賀まりこが登用されて、テレビでもドラマ化された。
 主人公は、その教師生活のほとんどを少年少女の非行・薬物問題に捧げている。そして、「夜回り」ともいう深夜パトロールを行いながら、彼らの更正に尽力している。すでに12年以上も夜回りをして、5000人以上の子供たちの相談に乗った。
 そこには、学校や家庭に自らの居場所を見出せない少年少女の叫びと哀しみがある。
 寺尾聰の見事な演技は、実際のドキュメントと見まがうばかりであった。

 実は、私も電子専門学校で非常勤の講師をしたことがある。
 教室であるから、あまり非行や薬物に関わる学生はいなかったようだ。しかし、私が経験をした範囲では言うも堪えがたい現状であった。つまり、どうしようもない有様なのだ。「群れる習性の世代」とも言うのだろうか。いくら注意をしても、人の言うことを黙って聞いておれないのである。

 ある大学院の学生を対象にした高度情報通信システムのセミナーに招待されたことがある。
 その会場で体験したことである。四隅と中央に職員を配置して、大学院の学生が隣とお互いにおしゃべりをできないようにしている始末。


Kuroda Kouta(2007.04.30/2007.11.15)