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   知的空間の奥義について



 前の説明で、「知的空間」のあらましについて説明をしました。
 そこでは、単に「あれこれと考えて楽しむ」ということなのだと、簡単に言ってしまいました。
 しかし、よく考えてみると、この言葉には人生観を含む問題までが含まれているようです。なぜならば、その人の考え方がわからないと、その知的空間もわからないからです。
 そんな意味で、ここに弁解がましいことを少しばかり追加をして述べましょう。
 誤解のないように、よろしくお願いいたします。

 知的空間の構築というと、何か難しそうな感じがします。しかし、それは単に自分の可能性を追求することなのです。なぜならば、もともと自分がもっている能力を忘れてしまったり、それに気づかないからです。
 人間は大きな可能性をもっていても、個人差があったり、好き嫌いもあります。
 そこで、それぞれが潜在能力を見つけ出して、自分自身の知的空間を拡げていけばよいのです。

 例えば、赤ちゃんは生まれたときに自分の両手を握りしめて、鉄棒にもぶら下がれるのです。
 また、プールの中でも気持ちよさそうに泳ぐといいます。溺れることを心配したりせずに、しばらくは呼吸も止めているようです。
 しかし、成長をするにつれて懸垂さえもできなくなったり、水泳ができない金槌(かなづち)の子どもが現れたりします。いったい、何故(なぜ)でしょうか?

 ブッダは、生まれるとすぐに「天上天下 唯我独尊」(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)と言ったそうです。私は、サンスクリットやパーリ語など当時のインド語を知りませんが、おそらく最初に漢訳をした人が間違ったのではないかと思います。おそらく、それは「天上天下 唯我独存」だったのではないでしょうか。
 個人差までを考えると、いわゆる天上天下がいかに広しといえども、唯我独存つまり個であれば誰でも「独自の存在」となるからです。

 蛇足ながら、私はこの「唯我独存」という言葉から、京都にある寺の蹲い(つくばい)に書かれた「口」を中心に共用した四文字「五」「隹」「止」「矢」つまり「吾唯足知」(われただ足(たる)を知る」を思い出します。
 あなたは、いかがでしょうか?

 人間は、ふつう如何(いかん)ともしがたいほどに独りよがりで、身勝手なものです。
 そもそも遺伝子が利己的・独善的に作られているからです。それを逃れるには、厳しい「心の修行」が必要になるでしょう。

(注) 天上天下唯我独尊?

 まあ、一人だけだったら、尊くても卑しくてもかまわないでしょう。 おそらく、ブッダを釈尊と言って尊ぶあまり、弟子たちがオーバーな表現を用いたのかもしれません。他にも、足についての記録があるようです。ジャイアント=馬場の足どころではなく、ブッダの足は30文以上もあったなどと言って、その実物大の足形が残ったりしています。
 1文は2.4センチメートルですから、馬鹿でかい大足だったことになるでしょう。



 元来、人間は「孤独な存在」なのです。なかなか自分をわかってくれる人などはいません。
 漱石の『こころ』などを読んでみても、そのようなことをひしひしと感じます。
 まして、高齢になって身体に支障が生じたようなときに、親身になって世話をしてくれたり、なぐさめてくれる人がいたら、それこそ幸福のきわみでしょう。最近になって、誰にも看取(みと)られずに一人で、孤独に死んでいくケースが増えてきたようです。

 曾野綾子の『戒老録』には、「多くの人から、ちやほやされたい」と望む愚かさを諫めていました。老人の繰り言(くりごと)は、何とも仕方のないものです。

 また、後になって考えてみれば、空しいことが多いようです。
 もしかしたら、人生は観客のいない一人芝居なのかもしれません。さらに、意味のないパントマイムと言ってもよいでしょう。
 一つ一つのジェスチャーが、一連のパントマイムになっているのかもしれません。ジェスチャーには、「本心でない見せかけの態度や行為」なども、かなり含まれるからです。
 確かに隆盛(りゅうせい)をきわめた時期には、その人の回りが賑やかでした。

 そんなときは、ナポレオン西郷隆盛のことを考えてみてください。
 私は、自分自身の「人生がパントマイム」のような気がして仕方ありません。
 なぜならば、真剣になったり、だらけたり、意気投合をしたり、捨てぜりふを言ったりするからです。

 しかし、ここでは「元来孤独」などという思考そのものを意識したりしないのです。
 そのような忘れてしまった潜在的にもっている力を再発見する場所が、ここでいう知的空間なのです。そこで楽しんだり、さらには「生きている証明」をする場所としてもよいでしょう。
 ちょっと考えればわかることですが、なかなか気づきにくいことが世間には多々あります。この知的空間が、その類(たぐい)かもしれません。そこで、「コロンブスの卵」ではありませんが、老婆心ながらここにアドバイスを申し上げる次第です。

(注) コロンブスの卵

 コロンブスがアメリカ大陸を発見したときに、多くの意見があった。その中で、悪意や批判を含む言葉も多く繰り返された。
 例えば、会食のときに

  「単に偶然じゃないか?」
  「無計画に考えもしないで、たまたま運がよかっただけだ」

などと言われたので、コロンブスは笑って応酬をした。
 食卓にあった茹で卵(ゆでたまご)を取って、

  「皆さんは、この卵を立てることができますか?」

と尋ねた。
 しかし、だれもできなかった。そこで、コロンブスはテーブルに叩(たた)きつけて卵の下の部分を割って立てた。そして、次のように言ったという。

  「簡単なことでも、思いつくのは大変ということがおわかりでしょう」



 老後も、肉体的にはともかく、精神的に知的空間を築くことが可能かもしれません。
 そのことは、サムエル=ウルマンの『青春』という詩に書いてあるとおりです。
 また、墓碑に「永遠に青春……」と書いてあるジュール=ベルヌなども、残した作品からそのことがわかります。

(注) サムエル=ウルマンの『青春』という詩については、『RIKOホームページ』の「老けないために」(老化予防のページ)にある「○サムエル=ウルマンの『青春』という詩

   <青春というのは、人生の一時期ではない。むしろ、それは心の持ちかたをいうんだ。
    紅顔の少年、その紅色(くれないいろ)の唇、しなやかな身体(からだ)ではなく、
    意志の力強さ、想像力の豊かさ、沸々(ふつふつ)と湧(わ)き上がる情熱をいうのだろう。

青春というのは、人生の深くに……>


を参照してください。

 ジュール=ベルヌは「科学小説の父」などといわれるフランス人です。つまり、今日でいう「サイエンス・フィクション」を多く残しました。『海底二万マイル』『月世界旅行』『地底の探検』などです。
 最初はパリで法律の勉強をしたのですが、いやになって詩や劇を作り、株屋の店員になったそうです。そして、30歳をだいぶ過ぎたころから、小説を作り始めたようです。
 その人物の特殊性について、私(黒田康太)は一つの仮説をもっているのですが、それに関しては別のところで述べましょう。



 奥義(おうぎ)などと言うと、ちょっと大げさな感じがします。
 しかし、秘密でも何でもありません。ちょっとしたことからわかることですが、日常ではつい見のがしてしまうことなのです。例えば「禅僧の悟り」のようなものでしょうか。だから、それを発見するコツを知っていただきたいのです。

 むしろ、「心の平安を求める」方法または「心の充足を求める」ための具体策と言ったほうがよいかもしれません。そのために「清貧のすすめ」なども含む内容なのです。したがって、関係がないとっぴなことと疑われそうで心配です。

 それはともかく、自分自身でやってみると面白く、また思ったよりも簡単だということがわかりました。
 そして、その知的空間が自分の人生を豊かにするということもわかったのです。運動神経が鈍ってしまった者に、オリンピックで金メダルを取ってこいなどと言っても、老いた身体ではいかに訓練をしてもムリでしょう。しかし、体力がかなり衰えてもここで言う知的空間のように頭脳を使う作業、例えば

(1) 文学などの創作活動。

(2) 美術というのでしょうか、絵や彫刻、そして工作など。

(3) 音楽の作曲をすること。

(4) ゲームなどを通(とお)して楽しむこと。

などは、それぞれに可能でしょう。

@@@

(注) 現代社会では、いわゆる老人を相手にするものは多くありません。
 曾野綾子の『戒老録』にあるように、そのような相手になってくれる人のいる高齢者は至福の至りなのです。
 そこで、文学・美術・音楽などをやってみるのが、自分自身の「生き甲斐や健康」のために好ましいことでしょう。さらに、「日々の慰め」や「生きている証明」になるかもしれません。
 ゲーム、例えばソリティア(トランプの一人占い)、麻雀、将棋なども老化予防のためによいことです。なぜならば、「脳の活性化」ができるからです。
 そんな意味合いもあることを思い出してください。


 そして、それらを通して

(5) 「健康」「老化予防」「安心立命」など。

の生きているいくうえに必要なことがらに対して、解決を与えることになるでしょう。
 前のページ最後に書きましたように、ながあきら(鴨長明)の残した『方丈記』や兼好法師(卜部兼行)の『徒然草』などにも、同じことを言っている部分があるので驚かされた次第です。
 過去における人生の先哲が次のように書き残していることは、むべなるかなと思います。

 <…… たゞ假の庵のみ、のどけくして恐れなし。程(ほど)狹しといへども、夜 臥(ふ)す床(ゆか)あり、晝(ひる)居(い)る座あり。一身をやどすに、不足なし。寄居虫(がうな)は、小さき貝をこのむ。これ身知るによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。身を知り、世を知れれば、願はず、わしらず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを樂しみとす。>(『方丈記』方丈の庵(閑居の思い)のくだり)

 <つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。

 世に從へば、心外(ほか)の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄(みだ)りに起りて、得失やむ時なし。惑(まど)ひの上に醉へり、醉(よい)の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。

 いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>(『徒然草』第七十五段)

 <人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。>とは、まったくその通りです。
 神さまや仏さま、またはイエスさまの前で誓い合って結婚をした二人です。しかし、その数日後に二人は下図右のようなことをするんです。



 いったい、なぜでしょうか。
 それには、いろいろと事情があるでしょう。
 例えば、彼の収入です。あまりにも少ないので、満足な生活ができません。そんなときに、彼を選んだ自分を責めないで、一方的に彼を責め立てるのです。しかし、そんなときにでも彼のほうには、彼なりの意見があるでしょう。
 そして、互いにその意見が対立するのではないでしょうか。
 対立をすると、争いが生じます。



 夫婦でさえ、そのような有り様です。
 まして、あまり互いを知らない相手や他人同士ではどうでしょう。
 さらにそれでは、もしも一人ならば問題が生じないのでしょうか。なぜならば、対立する相手がないからです。しかし実際には、そのようなときにでも「激しい葛藤」が生まれ、自分自身がおかしくなってしまうことさえあるようです。
 人間とは、もともとそんなものなのでしょうか。

 先日、井の頭自然文化園の中にある彫刻園に行きました。
 そこには、北村西望の作品が多数あって、その中に銀色のひときわ大きな「平和祈念像」のプロトタイプがあります。像が大きいので、文字がとても小さく見えますが、その背後の額(がく)には、次のように書かれていました。




 「平和祈念像作者の言葉」とタイトルがあって、

 <あの悪夢のような戦争
    身の毛もよだつ凄絶(せいぜつ)悲惨(ひさん)
      肉親を人の子を
  かえり見るさえ堪えがたい真情
    誰(たれ)か平和を祈らずにいられよう
  茲(ここ)に全世界平和運動の先駆として
  この平和祈念像が誕生した
  山の如き聖哲
    それは逞しい男性の健康美
  全長三十二尺余
    右手は原爆を示し左は平和を
  顔は戦争犠牲者の冥福を祈る
    是(これ)人種を超越した人間
      時に仏 時に神
  長崎始まって最大の英断と情熱
    今や人類最高の
      希望の象徴>

とあり、「昭和三十年春日 声望塑人(せいぼう そじん)」とあります。
 

 戦争の愚かさを諫めて、神や仏の次元で見ようとしたのでしょうか。
 しかし、歴史を見ると同じようなことを何度も繰り返していることがわかりまです。当事者は命がけのことだったでしょうが、後になって考えてみれば「吶喊(とっかん)」なども滑稽な一連の悲劇だったようです。
 そんなふうに考えるのは、私だけでしょうか。



 そもそも、なぜ戦争をしたり争ったりするのでしょうか。
 生存競争とか本能とも言います。また、遺伝子にそう組み込まれていることもわかっているようです。
 確かに、人間の父親が発射をした数億の精子から、一つだけが生きながらえることは事実です。三つ子の場合でもせいぜい残るのは三匹。
 また、ヒトの遺伝子の数は2万〜2万5千。ニワトリも、ほぼ同じです。遺伝子100パーセントのうち、1.5パーセントの遺伝子がヒト固有で、その他98.5パーセントはチンパンジーやショウジョウバエと同じということは、いったい何を意味しているのでしょうか。

 ホーキンスという宇宙理論学者によれば、「この宇宙はただ一つではなく、大小の宇宙が多数ある」そうです。そして、「他の宇宙から、隠れているほうが賢明だ」といいます。人類が「知的生命体の存在を他の宇宙に探し求めている」ということについての意見です。
 おそらく、ホーキンスは「ある日「インデペンデンス・ディ」のような驚天動地な事態が発生する」ことを恐れているのかもしれません。
 しかし、私(黒田康太)には宇宙ではなく「なぜ人類が、根本的なことをわかっていない」かがわかりません。外宇宙から空を覆うような何台もの大きなUFOが迫ってこなくても、私たち一人一人がそもそもUFOみたいなものかもしれないのです。
 インカやタスマニアなどのように、高度な文明をもった民族に低い文明の民族が滅ぼされたケースが過去にあるからです。そんなことを考えると、ホーキンスの言葉を借りると「他の人から隠れているほうが賢明」であるかもしれません。

 大きさは相対的なものであり、人体は「皮膚に囲まれている一つの個体」だからです。宇宙が私たちにとって大きな空間であるように、細菌たちにとっては私たちの身体も非常に大きなものでしょう。そして、かなり征服しがいのあるターゲットかもしれません。
 つまり、私たちの身体自体が一つの小さい宇宙、すなわちミクロコスモスと考えれば同じパターンなのです。それをともすると愚かな我執(がしゅう)のために、自分を基準とした大きさで「空間」や「時間」を考えてしまうのです。

(注) 人体内のミトコンドリア赤血球白血球などの独立した存在をどう考えるかは別として、一匹のハエ(蝿)にも、約100万の細菌が住んでいるといいます。そして、それらの一部がハエ自身にではなく外部の存在である人間に、コレラやセキリ(赤痢)などの伝染病を引き起こすのです。
 そんなことを考えると、一つの生命の中にも多くの生命が含まれていることに気づきます。


 とにかく「利害関係の対立」が生じると、互いに何を始めるかわかりません。
 「所有欲」や「金に対する貪欲」は、限りがなく大きくなって、やがて身を亡ぼすでしょう。ともすると醜いものが、人と人との関係には起こりがちなのです。
 聖徳太子の「十七条憲法」冒頭にあるように、基本的には「以和為貴」(やわらぎをもって貴しとなす)がベストなのでしょう。ある宗教では、諸悪の根源が「痴瞋貪」(ち・しん・どん)、つまり「迷いや愚かさ」「怒り」そして「貪(むさぼ)り」にあるといいます。また、別な宗教では「七つの大罪」を定めて、同じようなことを諫めています。

(注) 「七つの大罪」はボス(Bosch)のテーブル絵にもあって、それぞれ「怠惰」「憤怒」「貪欲」「暴食」「嫉妬」「虚栄」「愉楽」が描かれています。スペインのフェリーぺ二世(1527−1598)は、それを寝室に置いて毎日の訓戒としたそうです。
 私(黒田康太)も、六つまでは何とか大丈夫。しかし、大食いであるので「暴食」の罪を犯しているのかもしれません。ちょっと、心配になってくる所以(ゆえん)です。


 日本の教育制度や就学前の家庭教育で、争い虐め(いじめ)・集り(たかり)・脅し(おどし)・強請り(ゆすり)などが、芽生えないように教えなければなりません。私自身の拙(つたない)い今までの人生でさえも、大げさに言うと、実に下らない争いの歴史だったように思います。受験競争などは、その最(さい)たるものでしょう。
 いま考えると、何となくドン=キホーテに似ていて、錯覚をして無意味な方向に走り出したという慙愧(ざんき)の念に堪えません。しかし、それを回りの誰もが当然のごとく行っていたので、なかなか気付かなかったのです。それは、ちょうど裸の王様の例えに似ているのではないでしょうか?

 しかし、現在の制度ではむしろ逆な行き方が当然として見受けられます。教育制度に関しては、いまだに地動説の時代なのです。その結果、エリートとして社会に出た人間が、驚くようなことをするのです。
 そのようなことを根本的に考えない学校教育では、どうしても泥縄式の結果になるでしょう。
 つまり、教育そのものに関する考え方の誤謬と錯覚から、必然のことながら問題が生じて右往左往したり、あわてふためいて対策を考えるのです。
 詳細に関しては、「学校教育についての私論」を参考にしてください。

 私は、必ずしも金持ちになる必要はないと思います。また、有名になる必要もありません。
 キリがないことを追い求めるのは、空しいことだからです。それは、「有限の身で、無限を追う危うさ」という書き方で、荘子も繰り返しています。
 レオ十三世は、

 <あなたは、空しいことを知りたがってはいけません。自分の仕事に関する専門知識や、気持ちをやすらげるもの以外には、むやみに深入りをしてはいけません。>

と『けんそんの栞』で、自分自身のほかに読者をも戒めています。
 さらに私は最近になって、あらゆる苦悩から逃れる究極的な解決方法が、どうやらその辺にあるのではないかとさえも思うようになりました。

 したがって、アレキサンダー大王ナポレオンの偉大な業績なども、あまり意味のないこととさえ考えるのです。さらには、秦の始皇帝チンギス=ハン。彼らが何ともどでかいことをしたものだと驚くと同時に、バカだとまでは思わないまでも、私はその本意を疑ってしまいます。
 なぜならば、確かに誰もができることではない偉業かもしれませんが、何となく大きな歴史の中で考えると、性懲りもなく同じパターンの繰り返しのような気がするからです。もっと、互いに賢い方法はないのでしょうか。飼育小屋で飼われている家畜のようにではなく。

 繰り返して「個人的な意見」で言えば、アレキサンダー大王やナポレオンの業績なども空しかったように思います。また、秦の始皇帝やチンギス=ハンの業績は、何となく滑稽だとさえ考えるのですが、…… 源義経が大陸に行って、なったとしても。
 そういえば、私の父方の親戚(というよりか祖先)に日本全国を支配・統括できるチャンスがあったにもかかわらず、ちょっと頭の足りない小男に譲ってしまい、僧に近い生活(完全な僧とも言えないのですが)に入った人がいたそうです。

 「ダモレスクの剣」ではありませんが、何を好んでわざわざ危険な状態の下(もと)に身を置こうとするかがわかりません。

 また、有名人に憬れるのも事実です。ハリウッドの俳優や宝塚のスターなどは、取り巻きが多くて話題が賑やかです。それは、その仕事を続ける上で本人が必要なのであって、シャロン=テートではありませんが、反面では危険もはらんでいる状態に自分の身を置くということでしょう。
 ふつうの常識では、そうなりたくないのが当然です。

 しかし、金持ちや有名になりたいと考えるのは、近代教育のなせる技なのです。
 戦前でも、『孝経』などを引き合いに出して、
 <身を立て道を行ひ、名を後世に揚げて以て父母に顕はすは、孝の終りなり>
などと教えたからでしょう。
 そして、立身出世を「大臣」とか「大将」というように具体化したのです。
 また、「末は博士か大臣か」などと、ちゃかしたように言うのです。島耕二監督の1962年製作、フランキー堺が主演の大映映画です。

(注) 『孝経』については『RIKOホームページ』の「プロフィール」にある「ここ」(作者紹介)を参照してください。

 「末は博士か大臣か」は、菊池寛の半生を描いた素晴らしい作品です。
 フランキー堺の他に、船越英次・丸山修・町田博子・藤村志保たちが出演しています。むろん、菊池寛は、フランキー堺が熱演をしています。それはまさしく、素晴らしい適役でしょう。菊池寛という実在をした有名人が、スクリーンにそのまま見られるような気がするからです。
 もっとも、フランキー堺は知らない人でも素晴らしい役を作ります。例えば、「私は貝になりたい」の上等兵です。
 「末は博士か大臣か」などと変なタイトルが付いていますが、かなりアカデミックなストーリ。最初のほうでは、一高から帝大へ進む学生たちが漱石の家に訪問をします。そこには、芥川龍之介や久米正雄がいます。

 しかし後に、漱石の葬式に行って、菊池は惨めな思いをするのです。学生時代に「唐十郎の恋」を書いただけで、作家として有名でなかったからです。新聞社に勤めていたので、文壇には話題がありません。何となく、気まずい思いをするのでした。それでも帰宅して、原稿を書き続けるのでした。「父帰る」の原稿です。
 貧乏で、一杯のうどんを妻と分かって食べるほどでした。それでも、妻は夫の原稿を読んで泣いたり、夫婦で脚本を互いに演じようと提案をするのです。売れなかった時代の苦労や貧乏が激しくなっていく状態が、淡々と描き出されます。

 そんなときに、「忠直卿行状記」の入選通知と賞金が送られてきます。
 また、実際に「父帰る」が劇場で演じられる劇中劇は、なかなか見応えがありました。


 「金持ちや有名人になりたい」などという欲望は、いったいどこからくるのでしょうか。
 それは、古い時代からの生きるために考えられた仕組みなのです。教育という名のもとで、子どものころから、そのように躾(しつけ)けるのです。悪い言葉で言えば、餌で釣る方式なのです。
 ダーウインの『ヴィーグル号航海記』に、フェゴ島の原住民は「角砂糖を与えれば、たいがいのことをしてくれた」と書いてあります。その島には、それまで砂糖がなかったからです。味覚を満足させるものには、代えがたい魅力があるようです。
 動物を訓練するときにも、角砂糖を用いることがありました。
 しかし、初期のフェゴ島の原住民でも砂糖が簡単に入手できるようになったら、砂糖のために何でもするようなことはなくなってしまいました。

 古い時代には、宗教によって民衆の心を呪縛(じゅばく)しました。そして、近代になるとヨーロッパでは科学・教育によって人々の心を支配するようになったのです。
 もともと、人間は個性をもっているので一人で生きていこうとします。しかし、マンモスや野生の動物を捕(と)っていた時代には、一人ではムリでした。また、近代資本主義社会が多くの人間によって、一律に生産をする形態を必要としたのです。
 そこで、集まって力を出し合ったのではないでしょうか。

(注) もっとも、この宗教や近代科学・教育によるマインドコントロールは、何者かによって考えられ、実際に行われているものかもしれませんが、…… あたかも、フライドチキンにされるニワトリが何も知らないままに日々を過ごしているようにです。
 それに関しては、別のところで「思惟被支配の恐怖」、「私のシステム教」などというテーマで、詳細なご説明をいたしましょう。


 キケロの言葉に、

 <君は生きるために食うけれども、食うために生きるのではない。>

とあります。
 私も、つくづくその通りだと思います。
 キケロ(Marcus Tullius Cicero 前106−前43)は、古代ローマの哲学者で、政治家でもありました。才能があり雄弁でしたから、政界で相当な地位を築きました。しかし、後にアントニウスと対立して殺されてしまったのです。

 「働く」ことについても、同様なことが言えそうです。なぜならば、「生きるために働く」と考えている人がふつうだからです。エデンの園などを考えると、もともと食べられれば働かなくてよいのかもしれません。
 すると、百丈和尚

 <一日(いちじつ)作(な)さざれば一日食(くら)わず>

は、どうでしょうか。おそらく、宗教における人間のあり方を戒律のために規定したものかもしれません。
 ともすると、目的と手段の倒錯が起こります。
 食うために生きたり、金のために生きたり、有名になるために生きたりする人が当然のことのように考える人があまりにも多いようです。

 私は、キケロの言葉とともに『ハムレット』(4の4)にある

 <人間とは何なんだ? もしも、その目的と過ごし方が「寝ること」と「食べること」でしかないとしたら、獣(けだもの)以上の何ものでもない。>

を思い出します。
 そして、さらに思いは野生でひとりぼっちで育ったという「アヴェロンの孤児」に思いが馳せるんです。

 H=G=ウェルズに「タイム・マシン」という小節があります。
 そこには、三千万年後の世界が描かれています。私たちの子孫が何も働かなくなって、ひねもす賭をしているのです。何もしなくなるのは必然でしょうが、賭に一日中浸(ひた)るのは人類の退廃ともいえるのではないでしょうか。小説ですから、そうなんでしょう。
 でも、この作品には人間の未来が暗示されていて、慄然とするものが感じられます。

 「必ずしも優れたものが残るとは限らない」ということも、知っておくべきでしょう。
 アポロニウスや墨子(ぼくし)のように、歴史からほとんど消し去られてしまった人がいます。
 アポロニウスは、トルコ生まれの哲学者です。それでも、当時は「タイアナ(ティアナ)のアポロニウス」と呼ばれて、高名であったらしい。私は、イエスよりもアポロニウスのほうがスケールが大きかったのではないかと思います。
 また、墨子は荘子や恵子(けいし)よりも奥行きが深かったようにも思うのであるが、……

 才能は、認められにくいものです。モジリアニやゴッホなどを考えたらわかるでしょう。
 ゴッホの生前には「ひまわり」の絵が一枚しか売れなかったそうです。また、画商の思惑でモジリアニは死んでから絵が売れるようになったということだ。

 「蛙(かえる)の腹自慢」という話があります。
 それは、蛙が腹を膨らませて鳴いていると、素晴らしい音(ね)だと褒められます。気をよくした蛙は、ますます腹を膨らませて大声を出しました。すると、腹がパンクをして死んでしまったそうです。

 ここで私は、宮沢賢治の短編『どんぐりと山猫』や『気のいい火山弾』を思い出します。
 また、さらには『顔面問答』の眉毛の言い分なども考えてしまいます。

 ドングリたちは、誰がいちばん偉いかで言い合いをします。しかし、なかなか結論が出ません。「大きいのが偉いのだ」、「光っているのが偉いんだ」、そして「いやそうじゃない、とんがっているのが偉い!」などとキリがありません。
 そこで、山猫が裁判長になって、判決を下(くだ)します。
 「きみたちのうちで、つぶれてしまって見る影もなく腐りかかったのがいちばん偉い。」
 すると、誰も名乗りでなかったということです。

 また、火山弾は丸くてすじが付いているために、回りの岩や石たちに「ベゴ石」とあだ名を付けられて、バカにされます。そして、自分に生(は)えた苔(こけ)にさえ、罵(ののし)られる有り様でした。でも、怒ったりはしません。いつも笑って、真面目に返答をしていたのです。
 ある日、学術調査団が来ます。そして、「こんなりっぱな火山弾は、大英博物館にだってないぜ。」と言って、ていねいに梱包をして「東京帝国大学校地質学教室行」と札(ふだ)を付けました。

 そして、『顔面問答』については、ここにある該当記事をご覧下さい。

 さらに、カエルたちが自分たちの王様がほしいと神さまに言ったので、蛇を連れてくる話もあります。そんなことを考えると、ふと新約聖書にある『マタイによる福音書』の言葉を連想せざるをえません。それは、十八章1節から始まります。弟子たちが、イエスに「誰が天国ではいちばん偉いか?」と聞くくだりです。
 すると、イエスは聡明な回答を示します。近くにいた幼子(おさなご)を呼び寄せて、

 <この幼子のように自分を低くするものが、いちばん偉い。>

と答えられます。
 
 しかし、私たちのカエルは考えがちょっと変わっていました。
 カエルのカンパは、まだ海を見たことがありません。そこで、ある日のことです。思い立って旅行に出たのです。「この川を下っていこう。すると、海に出るはずだから。」
 カンパの「知的空間の探求」が始まりました。




 はじめは順調だった旅も、下流に行くにしたがって危険がいっぱい。
 流域に石があって、ぶつかりそうになります。また、下流から舟がさかのぼってきます。衝突したら大変です。
 お腹が空いてきました。しかし、川面にいる虫を捕まえることがなかなかできません。
 いったい、どうしたらよいのでしょうか。




 疲れ果てて、死にそうになってしまいます。
 ついうとうととして、はっと目が覚めました。自分は流れの中にいて汽車に乗っていないが、ジョバンニとカムパネルラはどうであったろうか、などと思いを馳せるのでした。そんな小さな「死後体験」から、カムパもサムシング・グレートの存在事実に気づくかもしれません。

(注) ジョバンニとカムパネルラは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくる子どもたちです。
 ジョバンニに対してカムパネルラは親しい友情をもっていました。しかし、ケンタウル祭の夜に、川に落ちたザネリを助けようとして、逆に溺れ死んでしまいます。そして、……

 ついでながら、この『銀河鉄道の夜』はかなり古い作品(大正から昭和にかけてでしょう)ですが、ものすごい斬新さをもっています。
 例えば、サン=テグジュペリの『星の王子さま』をはるかに凌駕(りょうが)する名作と私は思います。つまり、少なくとも「勝るとも劣らない」でしょう。
 なぜならば、言葉で読むと全体の流れの中にオノマトベア(擬声語)などがあって、すばらしい効果を与えます。私は、岸田今日子の朗読をときどき聞きますが、いつも大感激をするのです。

 そして、そこにはすでに「ら抜き」の言葉などがあって、斬新な感じもします。
    「7 北十字とプリオシン海岸」
という章の終わりのほうです。
 カムパネルラといっしょに、風のように走っていて
  <こんなにしてかけるなら、もう世界じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。>
という箇所です。

 また、エヌマエル=スエーデンボルグブレーズ=パスカル、そしてアドルフ=シュタイナーなどが書き残したことと似た内容を多く含んでいるので不思議です。もしかしたら、宮沢賢治は特殊な人であったのかもしれません。

 さらに、付け加えますと最後のほうになって章立てがなくなっています。そして、岩波の愛蔵版(1963年11月29日発行のもの)を見ますと、最後の10行
  <けれどもまたそのうちにジョバンニの目になみだがいっぱいになってきました。……ジョバンニはそれにうっとりときき入っておりました。>
は、もしかしたら後で作者(宮沢賢治)以外の人が補足をしたのかもしれないと私は思うのです。
 なぜならば、須川力氏のお話を聞いたからです。そして、須川氏は宮沢賢治の弟さん(宮沢清六氏)と親しかったからです。

 それはともかく、もしもあなたがまだ『銀河鉄道の夜』の内容をお知りでなければ、ぜひお読みになってください。

 


 また、流域の複雑な流れもシンプルなモデルとして考えました。そのほうが、予期しない危険にすばやく対処できるからです。



 そして、何とか海にたどり着いたのでした。
 カンパの心は、とても満ち足りた状態です。

 自分の置かれている事態に、あまりあれこれと考えても仕方のないことが人生にはあります。
 例えば、結婚相手にA子さんかB子さんを選ぶときです。何ももっていないB子さんよりも、A子さんが気にかかります。A子さんは大きな家に住んでいて、高級自動車やグランドピアノももっています。むろん、財産もあるでしょう。
 でも、結婚をするときはお母さんも一緒なのです。



 このようなときに、あまり近視眼的に損得を考えても、結果的には当たらないことがあります。
 しかし、人生の重要な場で安直な決定をしてしまうのです。とくに、生きるか死ぬかの場合でさえも、そんなことがよくあります。
 そのようなときにでも、日々の気持ちが「知的空間」の中でととのっていると、それでも間違いが少ないようです。



 さらに、「ええい、ままよという態度」もときには必要でしょう。
 あまり考えすぎて、利益ばかりを求めようとすると失敗することがあります。

 「鳥獣合戦(ちょうじゅう かっせん)」のコウモリ君です。
 あるとき、鳥と獣が戦争をしました。最初は鳥が勝っていたので、コウモリ君は鳥たちのところへ行って「自分は鳥の仲間だ」と言いました。しかし、鳥が負けそうになります。そこで、獣たちのところへ行き「自分は獣だ」と言います。
 やがて、鳥と獣が和解をします。すると、行くところがありません。
 仕方がないので、日中は暗いところに隠れているようになりました。

 昼は洞窟に隠れてじっとしていたり、動かないということを考えると、私は何となくドラキュラの伝説を考えてしまいます。あなたは、いかがでしょうか。 



 「ぬえ的な存在」などと言って「のらりくらり」する人がいます。
 鵺(ぬえ)という動物が、とらえどころのない姿をしていたからでしょう。
 とにかく、あまり思案や駆け引きばかりをすると、誰からも相手にされなくなります。誰もが損得に関しては、とくに敏感だからです。

(注) ぬえは「鵺」という字を書きます。「トラツグミ」という恐ろしい声で鳴く鳥を言います。
 しかし、昔はその正体がわかりませんでした。そこで、頭が猿、体が狸(たぬき)、尾が蛇、手足が虎のような怪獣と考えられました。『平家物語』には、源頼政(みなもとのよりまさ)が朝廷の命によって退治をしたことが記されています。
 そのような伝説から、「得体の知れない怪しげな人物」などのことも言うようになりました。


 しかし、そうかと言って人間の社会は複雑で煩わしいものです。
 互いに意識をしあったり、考えが違うからです。さらに、価値観が異なるともはや統一は難しくなってしまいます。(なお、「価値観についての私論」が参考になるかもしれません。)
 本来ならば、意見がまとまるべき内容の政治や宗教の中でも対立は起こりうることでしょう。
 ヨーロッパの教会、例えばヴァチカンの中や宗教間の問題、例えば十字軍やテンプル騎士団などのことなどはいざ知らず、日本の教会の中のことです。

 「基督教の原理を以て自ら慰めん事を勉めたるなり」と言った内村鑑三の場合。
 しかし、『基督信徒のなぐさめ』には、信徒たちがいわゆる兄弟姉妹ではなく、
 <余は基督教会は善人のみの巣窟にあらざるを悟らざるを得ざるに至れり、余は教会内に於ても気を許すべからざるを知るに至れり>
 <余は始めて世界に宗教の多き理由と同宗教内に宗派の多く存在する理由とを解せり>
 <我栄誉の時に友人ありしも我貧に迫りてより我は無友となれり>
などと書いています。

 もしかしたら、これは当時のことで、現在の教会は和やかな気持ちよい集団になっているのかもしれません。

(注) なお、ここで「」(よ)というのは文中で言う「私」の意味。つまり、内村鑑三自身のことです。
 またキリストは、古くは「基督」と漢字で書きました。その基督は、「キリスト」と読みます。
 同様に
耶蘇(やそ)もイエス=キリストやキリスト教、さらにキリスト教徒を指しますが、それは「イエス」の中国音訳をした「耶蘇」という言葉からできました。


 ついでながら、内村鑑三は日清戦争を<義戦>と言って擁護したそうです。
 後で考えてみると、クリシチャンである彼の言動としては、やはり不可解で不思議です。彼がキリスト教会の内部における人間関係の醜さや矛盾を暴いていることなどを考えると、どうも本心でそのようなことを言っていないように私は思うのですが、……
 つまり、黙っているわけにはいかない立場の人たちが、それぞれ世論や国に阿(おもね)って、仕方なしに言ったことなのでしょう。

 さらに言えば、日清戦争の特派記者として従軍した国木田独歩正岡子規の記事にも、その戦争に対する批判的な視点などは、今読んでみてもまったくありません。後で考えなくても、それが侵略だということを認めたくなかったからです。
 やはり、彼らはその立場上、ふつう考えてわかるようなことも、言えなかったのではないでしょうか。
 現在と比べると、考えられないような時代でした。
 そのことは、京大事件に連座をした父(黒田久太)のことを考えると、私なりにも事情がよくわかるような気がします。



 あなたは、ちょっとしたことで大喜びをしてはいけません。
 ぬか喜びということが、しばしばあるからです。
 「お金をもったときの不幸」は「お金をもったことのない人」にはわかりません。そんなために、あらかじめ「自分自身の知的空間」を構築しておく必要があるのです。

 よくニュースや週刊誌などで騒がれる話題を考えても、何となく想像ができます。
 「宝くじで三億円が当たった人」の顛末記や「竹藪で拾った大金が時効で自分のものになった人」の手記などです。持ち慣れない金をもったら、不幸になるケースが実に多いようです。そのことをまた、記者が面白おかしく書き連ねるので、なおさら悲劇になるのでしょう。
 戦後成金の顛末(てんまつ)やジェイコブスの「猿の手」に書かれている「3つの願い」などを考えても、さもありなんではないでしょうか。

(注) ジェイコブスの「猿の手」
 3つの希望がかなえられるという魔法のかかった、ひからびた猿の手がありました。持ち主は、その猿の手を暖炉にくべてしまおうとしたのです。その場にいた老夫婦が、あわてて拾い出し譲り受けます。
 その晩、夫婦はさっそく「お金が欲しい」という願いをかけます。しばらくして、使いの人がやってきて大金が入ります。しかし、その金は彼らの最愛の息子が工場で事故にあい、亡くなった補償金でした。
 嘆き悲しんだ母は、今度は息子が生き返ってくることを願います。すると、どうでしょう。暗闇の中を遠くの方から、息子が帰ってきます。
 初め、大喜びをした夫婦ですが、息子が近づくにつれ、事故で大怪我をして、面影も留めないほど無惨な姿になっていることがわかります。血だらけのまま、だんだん家に近づいてきます。
 息子がドアの向こうへ来て、入ってこようとしたときです。
 そのとき、父親は最後の願いをかけました。それは、「息子が行ってしまう」ことです。重い足取りで傷だらけのまま、息子は闇の中へ消えていきます。
 これで、3つの願いはかなえられました。

 また、お金は必ずしもすべての社会にとって、好ましい効果をもたらすとは限らないようです。
 それまでに行っていた犬ぞりによる狩りや物々交換による流通などができなくなって、貨幣経済に代えたイヌイット社会のことです。その変換は、彼らも市場経済には無縁でいられなくなったときのことで、あまり古い話ではありません。
 良識のあるイヌイットの長老は、「お金のおかげで、多くの文化が消えてしまった。」と言いました。

 考えてみれば、私はつくづく「お金は不思議な道具」ではないかと思います。



 人生には勝負をしたり、決定を迫られることがあります。
 それは、古今東西どこでも同じでしょう。
 ボスの絵にも、同じ構図のものがあります。そこには、やはり明らかに騙そうとしている男のいかさま師が描かれています。その絵も、なぜかテーブルの下に子犬がいたようです。かなり初期の作品で、1970年後半の油絵ですが、タイトルは「手品師」となっているので、ご存じの人も多いでしょう。
 ボスの絵は、手品師が右手に小さな球をもっています。そして、テーブルの上には3つの球とそれを隠すコップが伏せた形で置かれています。
 しかし、この絵の香具師(やし)は球をもたないで、「騙す」というよりも客に対して決断を迫って、「いざ、勝負!」と言っているみたいですね。空き箱を利用した台の上では、「丁か半か?」とはやらずに、論理を知らない場合には必ず負ける石取りゲームをモデルにしてみました。

(注) 石取りゲームの論理。
 13個並べた石を交互に取ります。取るときのルールは、1個以上、3個以下。つまり、4個取ったらダメ。また、取らないこともできません。そして、最後の石を取ったほうが負け。
 ここで、香具師のオッサンは、必ず
  あなたが1個取ったら3個、
  あなたが2個取ったら2個、
  あなたが3個取ったら1個
取ります。
 13個の石が、
  4個  4個  4個  1個
と並んでいると考えれば、それは当然なことでしょう。
 もしも、最初に並んでいる石が5個だったら、簡単に論理を見抜かれてしまいます。そうかと言って41個くらいにすると、誰も面倒くさがって挑戦をしません。この13個という数は、人間の本能をかきたてるのに、ちょうどよい値ではないでしょうか。
 こんな単純な論理でも、引っかかってしまう人がいるようです。
 もしも確かめるのならば、10円玉で誰かとやってみてください。


 私は、勝負・競争・賭(かけ)・籤(くじ)などが大嫌(だいきら)いです。
 ですから、宝くじも買いません。まして、競馬や競輪もしたことがないのです。むろん、パチンコ屋などにも行きません。お年玉くじ付きの年賀はがきさえ買いません。
 いつごろからでしょうか。若かったころは、いろいろとやったのですが、……



 何回やっても勝てない勝負があります。
 まず、「実力に大きな差」があるときです。次に、狡猾な相手。そして、国です。競馬や競輪は地方公共団体が主催しますが、平均をすると絶対に勝てません。なぜならば、あらかじめ主催者が寺銭(てらせん)を取ってしまうからです。その残りを分けるのですから、当然のことでしょう。

 難しそうでも、やってみれば意外に簡単にできることがあります。仕組みがわからないうちは、何とも複雑だと考えます。私がやってみて簡単にできたのは、一例として確定申告。
 やってみるのですが、それに熱中しすぎてもいけません。そんなために、平素から知的空間を築いておく必要があります。自分自身を失ってしまわないためです。

 最近になって、「弱肉強食」や「生存競争」などの勝者適合の法則を疑うようになってしまった。ダーウインが間違ったとは言わないまでも、非常に狭い視野の観察ではないだろうか。むしろ、サムシング・グレートの存在のほうを信じるのは、私だけであろうか。
 つまり、私たちは否(いや)が応(おう)でも作られた空間にいるらしい。あたかも、ニワトリが小さい檻の中で飼われているように。

 知的空間は、自分自身で作らないとダメ。
 なぜならば、誰も作ってくれないからだ。それは、ヒレルの言葉

  <自分で自分のためにやらなければ、誰があなたのためにやってくれるか?>

なども大いに参考にしたい。
 前に見た「Xファイル」(#713)「ファースト・パースン・シューター」というのに、仮想空間ゲームの中に入っていくという話があった。荒唐無稽・支離滅裂・奇想天外・驚天動地などのストーリにも、知的空間の部分が含まれているので、よく考えてみる必要があろう。

 正直言って、私は超弩級(ちょう・ド・きゅう)の芸術作品を示されても、とまどうばかりなんです。
 なぜならば、とても理解ができないからです。近代美術などを鑑賞しろと言われても、何が何だかわからないときがあります。
 また、音楽会なども咳(しわぶき)一つできないような会場で聞くのは、好きではありません。若いころによく行った演奏会なども、還暦を過ぎたころからさっぱり。
 また、偉大な人と付き合ってみたいとは思わない。なぜならば、その人の知的空間に自分が入っていけないからでなんです。

 繰り返しますと、偉大な芸術を見たり、天上の調べなどと言われる音楽を聞いても、自分のレベルに合わなかったら意味がありません。オリンピックの優勝選手や大スターを見ても、単に好奇心で見たり、憬(あこが)れたりするのではなく、自分自身ができなかったら面白くないという人がいるかもしれないのです。
 そんなところが、私の場合も、ここのところ正直な告白。
 大芸術作品よりも、自分に合ったものがよい。……それは、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』などからも教えられました。



 僧たちが、ハノイの塔を礼拝します。
 「ハノイの塔」というゲームがあります。ふつう、五枚ほどですから数分で移動完成です。しかし、インドの僧院ではプロトタイプの64枚でするそうです。そうすると一回の移動を一秒としても、100年以上もかかるでしょう。つまり、上がれないゲームを僧たちの知的空間において修行に用いているんじゃないでしょうか。
 もしかしたら、一手を一秒で済ますとしても、一生かかっても上がれないのかもしれません。
 なお、諸星大二郎の『孔子暗黒伝』では「ハノイの塔」を「梵天の塔」という名称にしていました。

 この「ハノイの塔」から、豊臣秀吉の「米粒の話」を思い出しませんか。
 それは、まだ駆け出しであったころ大将に「きょう米を一粒、あした二粒、あさって四粒、という具合に倍々にして一ヶ月いただきたい」と願いました。大将は、簡単なことだと考えてOKをしたのですが、さて…… 

 「ハノイの塔」や「倍々の米粒」が最初からムリだとわかってしまうと、そこで「やる気」をなくしてしまいます。だから、ここでは下のようなことにしておきましょう。



 

(注) なお、諸星大二郎には優れた作品が多くありますので、私は以前から愛読をしています。
 『孔子暗黒伝』には、「ハノイの塔」を「梵天の塔」と和訳をなさって312ページほどの本に3箇所も記述があります。そこに、力を入れていたのでしょう。
(76ページ) ブッダが赤(せき)とアスラとに「六十四枚の円盤がすべて他の棒に移動した時 宇宙は消滅する」と説明をします。
(270ページ) 陽虎(ようこ)が4本も柱がある偽りの塔を示して、赤とアスラを惑わそうとする。
(286ページ) 「梵天の塔」の円盤を1秒に一回動かすと、((2の64乗)−1)回の操作が必要になる。つまり、五千億年以上もかかる。それが「永劫」の長さだと説明をしています。



 長々とお読み下さり、心から感謝をしています。
 どうぞ、以上のようなこともご承知おきください。



Kuroda Kouta (2004.07.03/2007.10.28)