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   知的空間について



 えらそうに、いったい「知的空間」とは何のことじゃ?
 あなたは、この知的空間というおごそかな言葉に惑わされてはいけません。
 なぜならば、単に「あれこれと考えて楽しむ」ということなんですから。

 私(わたし)は、費用をかけたり、用意に長い時間をかけたりしてまで楽しむことは、あまり好きではありません。むしろ、嫌いというよりは、それができないんです。時間はともかく、金をもっていないからです。年金のほとんどが、賃貸公団住宅の家賃と、我が家の食費でなくなってしまうのが現実です。

 どうも最初からグチっちゃって、お恥ずかしい限り。
 年金生活者ですから、時間はあるでしょう。しかし、面倒くさいことが大嫌いな私は、ものすごい時間をかけて何かをするということができません。すぐに、飽きちゃうんです。

 そんなために、簡単な方法で「知的空間」を構築しようと考えました。
 その方法を例えてみれば、子どもが「かまぼこ」の板で遊んでいるようなものでしょう。
 精密な鉄道模型などを買い集めると、大変な金額になります。車両やレール、そして電源装置などセットとなった鉄道模型も、敷居の上でかまぼこ板を手で走らせて代用すれば、費用はかかりません。
 つまり、足りない部分は自分自身の頭の中で補うのです。仮想空間というのでしょうか。

 そんなことを言っても、若いころは今より情熱があったのも事実でした。
 もっとも、若いころと言っても倹約をしたことには変わりありません。父が貧乏だったからです。
 そこで、学生のころは模型などは安く仕上げるために自作しました。
 例えば、下記の蒸気機関車です。
 16ミリメートルゲージで作るんですが、車輪やモーターなどは部品として買ったほうが早いでしょう。しかし、車体の部分や軌道の部分は、コテコテと作りました。真鍮板を買って加工をして、半田付けで組み立てます。レールも棒のようになったのを板に犬釘で打ち付けます。
 枕木(まくらぎ)には、ボール紙を切って用いました。




 ですから、上のようにあまり格好のよいものではありません。塗装なども面倒なので、省いてしまいました。それでも、スイスイと走ったものです。
 模型といっても、プロトタイプは年ごとに進化しています。その技術を追うとしたら、キリがないでしょう。枕木(まくらぎ)が枕木でなく、パンタグラフがパンタグラフでなくなっている現実を考えると明白でしょう。

(注) 枕木はかつて栗などの木製であった。しかし、近年コンクリート製に置き換えられている。菱形で上下に伸縮するパンタグラフは、その多くが「くの字型」のものに変わってしまった。いずれも技術の進歩であろう。


 音楽を聞くためにもアンプなども自分で設計をして、組み立てました。山内修司さんの父上の工場でアルミ円盤を作ってもらい、それを糸ドライブしたり、ムービングコイル型のカートリッジなどを自作したときの苦労の思い出が今でも残っています。

 さらに、子どものころにやった糸巻きの戦車なども、なつかしい記憶ではありませんか。
 そんな感じで、知的空間を実現するのです。

(1) まず、文学です。
 しかし、ここで文学などといえる代物(しろもの)ではありません。
 それは日記に、ちょっと毛の生えたようなものでいいんです。なぜならば、自分に合ったレベルのものが気楽でいいからです。名作である必要は、まったくありません。

 文学をどのように設定するかは、自分自身です。
 一般に、あまりとっぴなことや怪奇性などを追究すると、文学性が薄くなってしまいます。それでも、かまいません。例えば、「Xファイル」のような内容の文学でもよいでしょう。見ていて、斬新でとても面白いからです。内容が奇想天外・驚天動地・摩訶不可思議・支離滅裂であっても、自分がよければよいのです。あまり他人が読むことまでを意識しないほうが、楽しいのではないでしょうか。

 たとえみっともないものであっても、自分自身に合ったものが、私の場合にはいいようです。
 そんなやりかたの一例として、「無の研究(三ノ宮の乞食)」をご笑覧ください。

(2) 次に、絵などの作成。デジカメの写真でもよいでしょう。つまり、私の美術です。

 買ったときから付属していたExcelです。私には、表計算というほどの作業は必要ありません。
 そこで、絵を描くツールとして使ってみました。なぜならば、パソコンを「ツールとして知的なこと」に使いたいと考えたからです。
 下記が、Excelで作成したカット用の紫陽花(あじさい)です。実際には、もっと大きく作ったんですが。



 下記は、簡単な絵です。何を意味するかおわかりでしょうか。
 実は、ヴィヴァルディという音楽家のシルエットです。これは、ペイントで作成しました。



 下記は、月の満ち欠けです。




実は、ないしょなんですが下記のようなNASAが写した写真から作ったんです。ですから、もしかしたら著作権法に抵触するかも知れません。でも、そのときは仕方のないことと諦めて、罰金と利用料を払えばいいんだと覚悟をします。
 私は、個人のものや営利法人のものはいっさい遠慮して、国や公共機関のものを借用したり、パクッたりすることもあるんです。ときどき。
 インターネット上に画像や音楽など、素晴らしいものがあります。
 しかし、大手ソフト会社の画像などには「透かし」が入れてある場合があります。だから、後で忘れたころにトラブルが生じることもあります。営業に用いたり、訪問者が増えたりしたときです。
 先輩の話によると、ホームページが流行(はや)っていないうちは大丈夫ということですが、……




 実際には、はじめすべての月でやってみました。すると、いったん欠けていく月が少しの間、チラッと逆に満ちたりもするんです。そこで、何枚かを外しました。
 また、5番はこの図があった当日の月です。周囲の枠が目障りなので、外しました。さらに、10番は新月です。実際には薄く見えるわけではありません。そこで、全画面を黒のベタに変更しました。

 また、デジカメで撮影した画像を加工して用いることもあります。
 例えば、京王線千歳烏山駅北方の寺町にある公民館で撮影をした

    tanago.wmv へのリンク

のようにです。

(3) さらに、音楽などもやりたいです。

 そこで、素人作曲をやってみたり、ピアノを弾いたりもしてみました。
 ピアノはもっていませんので、必要なときは隣のコンサートホールにあるのを使います。予約をすれば、タダで使えるからです。

 まったく、お恥ずかしい内容のものですが私も妻もそれなりに諦めて、満足をしています。というよりも、それで我慢をしなければならんのです。なぜならば、ピアノ曲でも難しくすると自分が弾けなくなってしまうからです。また、オーケストラ曲なども簡単にできるでしょうが、作っても演奏を聞くことができません。
 もしも、依頼をされて作曲をするのであれば、かなりのことができるでしょう。しかし、自分自身の楽しみに作るのでしたら、簡単なものでかまいません。
 みっともないものですが、下記に自作自演の一例を示しておきましょう。




 以上のように知的空間は、「作られたものの中に自分が入るか、あるいは作ったものの外にいるか」という違いから生じるようです。しかし、それは相対的なことであって、厳密に言えばどちらでもよいことでしょう。むしろ、自分自身が主体というか「主人公」になることが大切なのではないでしょういか。

(4) むろん、ゲームなどで楽しむこともあるでしょう。

 下図は、Windowsに付いていたスパイダ ソリティアをようやく完成する寸前の画像です。



 でも、上のWindouws付属のソリティアは何となく小さいために、目の悪い私はすぐに疲れちゃうんです。なぜならば、一枚のトランプ図形も小さく、画面上にはいっぱいの札(ふだ)が並んでいるからです。全体の形を見るのでしたら問題はありません。しかし、その一枚一枚に注意をしていると、しばらくして目が痛くなってきます。
 そこで、Googleで「ソリティア 無料 ゲーム」とやって検索をしたものの中から、やさしくてわかりやすく、目の疲れにくいタイプのものを探しました。
 下の絵札などもスッキリした、どでかいトランプです。(いずれの画像も、画面のほぼ実物大)
 私にとっては、とても扱いやすく目も疲れません。



 しかし、画像がでかければそれでよいというものではないでしょう。
 例えば、上のゲームの札(ふだ)をでかくして、次のような画面で遊ぶこともできます。しかし、そのようにすると、私のディスプレイ画面(1280 ×1024 ピクセル)では全体が見られなくなってしまいます。そして、見れない部分を見るためには、画像をスクロールしなければなりません。そんなわけで、老いてくると自分に合った大きさがいいんです。
 有限の場所に、無限に近いことを求めようとしても、もともとムリだからです。
 若いころに、よかった眼を酷使した結果なのかもしれませんが、……



 それはともかく、上の画面例(毎回変わる)のようなところからスタートして、完成すると次のような画面になります。やはり、そのときは何となくうれしいものです。



 とても楽しく、遊ばせてもらいます。そんなわけで作成をされた人に、大いに感謝をしている次第です。
 なぜならば、気に入ったものがなかったら手間暇(てまひま)をかけて、自作をしようと考えていたからです。そんなことまでを私は「知的空間」と考えているのです。

 それでも、やってみるとなかなか上がれないときがあります。なぜか、一時間以上何回やってもダメ。そんなときは、運勢が悪いのだと考えて焦らないようにします。とくに、「こんな下らないことをいつまでやっているか?」などと、自問自答をしてはいけません。また、「つかまった」のでもありません。
 「ハノイの塔」というゲームがあります。ふつう、五枚ほどですから数分で移動完成です。しかし、インドの僧院ではプロトタイプの64枚でするそうです。しかし、そうすると一回の移動を一秒でしても、100年以上もかかるでしょう。つまり、上がれないゲームを修行に用いているんじゃないでしょうか。

 ここでふと考えたのですが、もしかしたら人生も一生では上がれないのかもしれません。
 そしてさらに、もしかしたら「一生はムダで意味のないことで過ごしてしまう」と杞憂するのです。何事にも意味づけをして、学問や技術で論理的に解決をしようということ自体が、そもそも不可能かもしれないからです。
 あたかも、養鶏場で飼われているニワトリのように、自分自身では生きている背景を知らなかったり、知らされていないということもあるでしょう。『14歳』のチキン・ジョージ博士のような存在は、なかなか種の中からは出にくく、むしろ背後に何か偉大なもの(サムシング・グレート)を感じるほうが、ともすると直感的にたやすいからです。

(注) 「何か偉大なもの(サムシング・グレート)」については、別な箇所に私論や試論がいくつかあります。
 ただし、「何か偉大なもの(サムシング・グレート)」とは言わずに「不思議な魔神」あるいは「フィアフィル魔亜尊」などと言いました。
 また、単に「FM」などと言っている箇所もあることでしょう。



 ちょっとややこしいことを書いてしまいました。
 しかし、「知的空間」は少しずつ育てていけばいいんです。



 ピグマリオンは、自分が作った女性の像ガラティアという名前を付けて、恋をしました。
 しかし、彼が思い焦がれても、その像は何(なん)にも答えてくれません。それを愛の女神アフロディテは憐(あわ)れんで、その像に生命を与えてくれました。
 もしかして、あなたはバーナード=ショーの「ピグマリオン」をご存じないかもしれません。でも、「マイ・フェア・レディ」を知っているでしょう。
 おてんば花売り娘イライザは、ヒギンズ教授の指導によって少しずつ自分の知識を増やし、とうとう最後は貴婦人になります。努力をして、少しずつ自分自身を変えていったのです。



 つまり、「少しずつ変化をして、やがて自分自身で納得をできる姿」になればいいんです。
 ついでながら、バーナード=ショー(George Bernard Show 1856−1950)はユーモリストで皮肉屋、気取り屋で因習打破主義者でしたが、徹底した菜食主義者でもありました。ショーは、ベジタリアンが長寿の秘訣だと信じて、調理の野菜も自宅の庭で栽培したものに限りました。その調理のときも監督をしていて、料理人から嫌われたそうです。
 ショーは、ヒューズのようにやはり細菌恐怖症でした。伝染病は洗濯屋からくると考えて、着る物はすべて自宅で洗濯をさせていました。

 かつては、社会全体の仕組みや情報も、ごく限られていた時代があったでしょう。
 しかし、現代社会はテレビインターネットなどを初めとして、私たちの回りには情報が怒濤のごとく押し寄せてきます。それをいちいち考えていたのでは、身が持ちませんし、限りもありません。
 そこで、各分野にスペシャリスト専門家ができるのです。
 しかし、考えてみればスペシャリストや専門家になるのは、人間自体を特価(とくか、とっかではない)するのと同じです。それは、マンモスやサーベル虎(サーベルタイガー)の牙と同じでしょう。特価をするということは、滅びの前兆かもしれないのです。

(注) マンモスサーベルタイガーは「」が大きくなりすぎて、絶滅をしたのではないかと言われています。サーベルタイガーは、上の犬歯2本が非常に発達をしてしまったためです。また、大型の鹿であるアイリッシュエルフはオスの「」(つの)があまりにも偉大になって、滅んだようです。
 このアイリッシュエルフについては、角が3.5メートルもあり、体重は40kgもあったそうだ。そして、その角は毎年生え替わる。しかし、氷河期に入って小型の体系のほうが有利になったので、大きな角(つの)をもつものは、アイルランドから約1万年前に自滅して姿を消したという学者もいるようです。
 しかし、モーリシャス島にいたドードーという鳥は、外敵がなかったために飛べなくなってしまって、近世になってそこに移民をした人たちが連れてきた豚などのために滅ぼされたと言います。

 つまり、特価をしすぎても反対に何もしなくても、絶滅に向かうのではないでしょうか。
 もっとも、そのような傾向にあっても、現時点ではまだ理由がはっきりしないものもあるでしょう。
 例えば、イッカクの角(つの)です。
 イッカク(一角・一角獣・ウニコール)は、北極海にすむイッカク科の海獣です。体長は4〜5メートルで、雄は上あごの門歯が角(つの)状に長く突き出しています。その角の目的はわかりません。孔雀の羽ような効果で、雌の気を引くためのものという学者もいるようです。

 ついでながら、ヒトは何を特化し続けているかというと、「手・足」や「目」などの特価は終わってしまって、現在は「」という奇妙な器官なのです。私は、かつて「もしかしたら、脳自体が寄生体でないか?」と考えて、慄然とすることがありました。
 そのことについては、別に記述をしています。


 ヒトは本来ならば、「楽しく万能」でありたいものです。
 そして、その中から自分自身の得意とする分野を発見していくのならばよいでしょう。なぜならば、個人差があまりにも大きいからです。また、「楽しみを分かつ」人も必要でしょう。しかし、ともすると配偶者や親友に先だちされるようです。とくに高齢になると、その心配は大きいでしょう。
 そのようなときに、「心の覚悟」が必要です。独りになったとき、足が萎(な)えてしまったとき、よいよいになってしまったとき、そのようなことも考えておかねばなりません。

 また、ヒトは本能的に「恐れている」ことがあります。
 子どもは、「お化け」や「怪獣」を恐れます。また、「地獄」や「悪魔」なども恐がるでしょう。しかし、大人はそんなものを「せせら笑い」ます。それでは、いったい大人は何を恐れるのでしょうか?
 それは、「自尊心を傷つけられる」ことなのです。そんなために、対人関係や集団の場を嫌う人がいます。なぜならば、他人の自尊心など「屁とも思わない」人が世の中には多いからです。

 そんな意味もあって、高齢になったら自分自身の知的空間を前もって構築しておかねばならない所以(ゆえん)なのです。

 情報量の少なかった時代には、例えば「聖書」一冊をマスターしたり、「文学全集」を読破すると、それでもう満足感が得られたり、いちおうのプロになったでしょう。
 しかし、今日の社会においては「考える」ことよりも「知る」ということが急務のようになってしまいました。それでは、まったく本末転倒の話です。そこで、わざわざ「知的空間」などという概念を作って、自分自身の世界を構築する必要があるのです。
 そのようにして、情報に押し流されてしまわない「心の豊かな日々」を過ごそうという目的なんです。
 つまり、「お仕着せの環境」ではなく「自分に合った心の世界」を作って、「生き甲斐」を求めたり、「生きている証明」をしようということになるでしょう。

 なお、インターネット上のホームページを利用させていただくときに、私は下記のようなプロバイダから紹介してもらったチェックソフトで確認をします。なぜならば、不用意に開いてウイルススパムなどが紛れ込んでいるといけないからです。



 このソリティアの安全度は、95パーセントとなっています。
 注意をして作成しても、そのくらいの値になってしまうようです。それでも危ないと感じたら右にある「HTMLソースを表示」というところを検討すればいいんです。
 実際には、なかなか100パーセントになりにくいものです。細心の注意をして作成をしても、チェックをすると100パーセントにはなっていません。参考までに、現時点で私が作成をしたこのホームページ関連の5つのホームページについて、いちばんパーセントがいいものと最低のものを示しておきましょう。

 下に示す似たような二つの画面
   「青空劇場ホームページ(安全度99パーセント)」は「最初からしっかりと設計をして作成したもの」
   「RIKOホームページ(このホームページ本体)(安全度94パーセント)」は「何回も思いつくままに追加・修正をしたもの」
です。(2007.02.23現在)
 いずれも大きさとしては、大差がありません。
 やってみてわかったことですが、修正をすればするほど全体の構成状態が崩れてしまい、応急的なパッチなども作ってしまうので、いきおい安全度も悪くなってしまうようです。

 青空劇場ホームページ(安全度99パーセント)



 RIKOホームページ(このホームページ本体)(安全度94パーセント)



(5) そして、「健康」「老化予防」「安心立命」などにも関心をもちたいものですね。

 正直言って、私は超弩級(ちょう・ド・きゅう)の芸術作品を示されても、とまどうばかりなんです。
 なぜならば、とても理解ができないからです。近代美術などを鑑賞しろと言われても、何が何だかわからないときがあります。

 先日、東京国立近代美術館に入ってみました。
 私の住んでいるところから乗り換えなしで行けますし、たいがい無料で入れますので、年に数回行くんです。また、九段下駅から美術館、そして工芸館を経由して武道館のところから田安門をくぐり、昭和館のところに戻るコースが、衰えた足の私にはちょうどよい散歩コースだからです。

 で、その美術館にある多くの偉大な作品です。
 例えば、ワシリー=カンディンスキーの「全体」、恩地孝四郎の「人体考察(肩)(胴)(脚)」、パウル=クレーの「櫛をつけた女」などは、いったい何を意味するのかがわかりません。また、それらの作品に私は大きな感動もしないのです。正直なところ。

 もっとも、学生時代の教科書に載っていた古賀春江の『海』などは、大きな実物を見ると、さすがに感動をしました。
 また、北脇昇の『クォ・ヴァディス』などを見ると、その構図−−「中央の帽子をかぶり袋を背負った後ろ姿の男が向こうへ進もうとしているのでしょうか。左側に大きな蝸牛(かたつむり)があって、右側に道しるべがあります。砂漠の彼方から近づいてくる流浪の民の行列が、続いていて小さく見えます。もしかしたら、モーセに率いられる一団かもしれません。」−−その構図が、何となく素晴らしいです。
 そして、その画風からマグリットダリの絵を連想します。もしかしたら、逆かもしれませんが、……

 さらに、東山魁夷の「道」、吉原治良の「黒地に白」などは、非常にすっきりとしたデザインで、私にも何となくわかります。しかし、これらも正直言って、感動いたしません。東山魁夷の作品は、もしかしたら初期のものでしょうか、私がもっている作者のイメージとはずいぶん異なっています。
 つまり、ここには世界の最高クラスの絵画があるのですが、魯鈍な私には高級すぎるのでしょう。心の中に浸(し)みこんでくる作品が少ないのです。そんなわけで、「猫に小判」や「豚に真珠」なのでしょうか。

 また、音楽会なども咳(しわぶき)一つできないような会場で聞くのは、好きではありません。若いころによく行った演奏会なども、還暦を過ぎたころからさっぱり。
 学生のころの文化祭で、一日がかりで聞いたベートーベンの交響曲全曲などは、もはやじっとして最後まで拝聴するのは、どんな指揮者の場合でも、何となくうんざりしてしまうでしょう。

 そんなところが、ここのところ正直な告白。
 やはり、『方丈記』のがうなみさごではありませんが自分自身にあったものがよいようです。
 大げさに「知的空間」などと言ってみても、そんなことではないでしょうか。

 <…… たゞ假の庵のみ、のどけくして恐れなし。程(ほど)狹しといへども、夜 臥(ふ)す床(ゆか)あり、晝(ひる)居(い)る座あり。一身をやどすに、不足なし。寄居虫(がうな)は、小さき貝をこのむ。これ身知るによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。身を知り、世を知れれば、願はず、わしらず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを樂しみとす。>

 とどのつまり、知的空間とは「自分自身の居場所」なのです。したがって、いくら偉大であり高貴であっても、自分に合わなければ「猫に小判」または「豚に真珠」の諺(ことわざ)のように無意味と言ってもよいでしょう。たとえそれが貧弱なものであっても、お仕着せやイージーオーダーではなく、「自分に見合った空間」がいちばんよいということに気付くべきです。
 そして、それが小さくて物足りなくなったら、その時点で大きくしていけばよいでしょう。

 かつて、希望や夢をもってがんばった時代が私にもありました。若かったころのことです。
 しかし、昨年の入院・手術、そして退院後の通院、そのころから考えが根本的に変わってきました。なぜならば、もはや人生の持ち時間が少なくなってしまったからです。そして、いわゆる「金や物」を持つよりも、むしろ「心の平安」が欲しくなったのです。

 働き盛りで会社の経営をしていたころは小規模な事業でしたが、それでも何回かいわゆる「高額所得者」になってリストにも載りました。また、エレベータは付いていなかったものの鉄筋総二階の家に住んだこともあります。むろん、自動車もありました。
 しかし現在は、家も車もありません。年金生活者になって、公団の狭い賃貸住宅に住んでいます。また車にも、乗らなくなりました。健康を考えると、運動不足になりたくないからです。大型と自動二輪の付いている運転免許証は、今でも身分証明書として利用しています。

 私は、「人間の不幸は、自分自身の無知が原因」ではないかと思います。しかしそうかと言って、私たちの「有限の生命で、無限の知識を追い続けるのは土台(どだい)ムリ」でしょう。そんな意味で、自分に合った「知的空間の構築」が必要なのです。『荘子』などにも、「無限を追う」ことの危うさが述べられていました。

 現代社会は、確かに各方面で大きな発達をしました。その結果、私たちの日常は素晴らしい環境の中に置かれています。高度な技術を利用した様々な機械や器具などを身近に利用できるようになったからです。驚異的に進歩をした医療技術による恩恵も、必要に応じて受けることもできるでしょう。
 しかし、その中にいて自分を失ってしまったら、身も蓋(ふた)もありません。あくまで、自分の中に現代科学の一部の恩恵を受け入れるるようにしなければならないのです。つまり、それに振り回されてしまって、本来の自分を失ってはいけないのです。

 また、この世の中には「未知で、不可解なことが多すぎる」のではないかと、いつも私は思います。
 科学技術が発達した現代社会の中で、「作られたものの中に自分を置くか、自分の中に作られたものを置くか」で人生観や生き甲斐が異なってきます。そして、「刺激を求めて次から次へと際限のない道を行く」ことの愚かさに、やがて気付くことでしょう。

(注) 「作られたものの中に自分を置くか、自分の中に作られたものを置くか」ということについて、似た考え方を書き残している人がいます。それは、道元の『正法眼蔵』にある次のような言葉です。
 うろ覚えですが、<法華経の中に自分を置いてしまって右往左往するか、自分が法華経を自在に用いて心を豊かにするか>というような意味の文章でした。それは<法華・転法華>というような簡潔な表現ですが、なかなか急所を突いた含蓄のある言葉ではないでしょうか。

 例えば、映画や小説の中に自分自身を置いたときには、大いに感激・感動をします。しかし、そのことはそのときだけで、あまり長続きをしないことが多いのではないでしょうか。それならば、たとえ稚拙であっても自作をしたらどうでしょう。むろん、映画のように費用がかかって、実現が不可能のものもあります。
 そのような場合は、自分の作品を想像するだけでかまいません。
 ついでながら、道元は「時間」について独特の考え方をしています。私は、空間とともに時間さえも「ムウのアルカナのあらまし」で述べたように社会の便宜的なものと考えています。そして、道元の言っている時間の意味が何となくわかるのです。



 以上のようなことも、どうぞご承知おきください。

 とどのつまり、知的空間とは「各自の可能性の追求」というような意味合いになるのではないでしょうか。それは、あなたやわたくし(私)の老化予防にも大いに役立ちます。そんなわけで、それがそれぞれの自己満足でも、いっこうにかまいません。

 「物質的なものを次から次へと求めていく」ことではなく、「人間本来の知的な空間を拡げていく」ことなのです。野生の動物は、金儲けや有名になることを求めてはいません。まず、自分のテリトリーを守ることを最優先とします。そして、さらに余力があっても、限りない欲望でそのテリトリーを無意味に拡げていくような努力をしないといいます。
 それは、「欲望」というよりか「本能」に近いものでしょう。
 ヒトの場合も、「教育による通念よりも、生物本来の行き方に戻る」ことが必要なのかもしれません。
 もしかしたら、教育によって無為・無理・無駄な競争をするような概念を当たり前の概念として植え付けられているかもしれないからです。

 ひどいのは、親子や兄弟で争います。いわゆる「骨肉の争い」とでも言うのでしょうか。歴史にも、そのようなパターンが多く残っています。しかし、親子・兄弟で争うくらいなら、いっそ親から別れる巣立ちをしてしまったほうがよいかもしれません。
 昆虫の社会などでも、そのようなことがあるのでしょうか。
 例えば、蜘蛛のある種は、生まれた子が群がって母親を食べてしまうそうです。そのときに、母蜘蛛は逃げたりしないで悄然として、食べられるのを甘んじているということです。
 人間の社会でも『父母恩重経』などを読みますと、結果的には同じことでしょう。

(注) 昆虫の社会もさまざまなようです。
 例えば、アリの社会を考えてみましょう。
 サムライアリは、別の種のアリに身の回りの世話をさせます。ヤマアリを襲撃して卵を持ち帰り、生まれると働かせるのです。つまり、奴隷制度をもつアリと言えましょう。サムライアリの女王は、殺したヤマアリの女王のフェロモンを出すようになるので、生まれたアリは自分の生前(孵化以前)のいきさつや生まれた後の立場などはわからずに、ただ働くのです。

 しかし、支配関係のないアリ社会もあると言います。
 ヨーロッパアカヤマアリは、互いに各自が臨機応変に仕事の分業をして、リーダーのいない社会を構築しています。そこには、政治的支配がない共同体としての働きがあるだけだと言えるでしょう。

 アリストテレスは、
 <人間は生まれながらにして、政治的動物である。>
と言いましたが、ある面ではアリにさえ劣る動物でもあるようですね。



 ここで、争いの話をを得ることに戻します。
 考えてみると、金や物を多く持とうとするのは、人間本来の目的ではないのです。金や物というと、ちょっとわかりにくいので、もっと簡単に考えて食べ物としてみましょう。
 正(まさ)しく、ギリシアのキケロが、

  <君たちは生きるために食うので、食うために生きているのではない。>

と言ったとおりです。
 なお、「欲をかき立てる」ことによって「誰がメリットを得るのか」などについては、このホームページの別のところで説明をしました。

 ここでは単に「知的空間」としましたが、実際には「個々の知的時空間」と行ったほうが正しいでしょう。
 時間空間などの概念は、個人差があって「長い」とか「短い」、「大きい」とか「小さい」などとは、一概に言えないからです。例えば、時計の秒針が止まっているように見える人がいたり、分針が動いているように見える人がいるかもしれません。
 ここで私が言う「知的時空間」は、現代物理学の理論に対しては矛盾をしているかもしれません。むしろ、『金剛般若経』に言う多重空間や道元が『正法眼蔵』に飛こ(ひこ)すると述べている時間の概念に似ているのではないでしょうか。
 つまり、感じ方と意識の問題なのです。

(注) 実際には、「個々の知的時空間」という社会における存在と同時に、その「パラレル時空間」と言える場に私たちが置かれているのではないかと、私は考えています。そしてその「パラレル時空間」のほうが、ふつうの状態なのです。

 つまり、「一つの存在」が「二つの次元」にあるのです。しかし、ふつうの人々はそのことに気づかないのです。
 したがって、同じ時刻に別の場所にいたりすることは絶対にないなどというアリバイを考えたりするのです。時間や空間を単に物理学で個別に捉えて(とらえて)いるからなのでしょう。それは、あたかもケンタッキーにある広大な養鶏所に暮らすニワトリたちが、カーネルおじさんの考えていたことや、自分たちがいつフライドチキンになるかを知らないようにです。

 しかし特殊な人たち、例えばブッダやイエスなどは「パラレル時空間」以外にもすべてを知っていたことが、その伝説から私には何となくわかります。また、近年になってからも、エマニエル=スエーデンボルグやブレーズ=パスカル、そしてアドルフ=シュタイナーたちは、そのようなことを書き残しているのではないかと私は思うのですが、……。


 また、仮に「人はどれだけの土地を必要とするか」と問われても、返答はまちまちでしょう。
 自分のにしても、私には何が本当の目的なのかわかりませんが、エジプトのファラオのように雄大なピラミットを作る人もいるでしょう。このホームページの「青空ライブラリ」用のBGM(碧空)を作ってくださった増井先生の教室の近くにある仁徳天皇陵なども、実際にその前方後円墳を見たときには、ずいぶん大きなものだなぁと驚きました。
 しかし、ヴィヴァルディモーツアルトのように野垂れ死に(のたれじに)をした人は、自分の棺(ひつぎ)の大きさの穴しか掘ってもらえなかったようです。すなわち、自分自身の身体を埋めるに必要な地面の大きさなのでしょう。

 ここでは、食べ物や土地について述べましたが、むろんいちばん問題になるのはお金です。経済が高度に発達した現代社会で生きていくには、どうしてもお金が必要でしょう。でも、やはり

  「生きていくためにはお金が必要であるが、お金のために生きているのではない。」

のです。
 そして、そのことを忘れてはいけません。

 しかし、それを忘れている人が多いので、桃井かおりが熱演をした『木村家の人々』のような優れた映画が生まれるのでしょう。私は、あの映画を見て大いに感激をしました。中でも、幼い太郎の言葉には胸が打たれました。そんなために、何回か多摩市聖ヶ丘の撮影現場にも行ってみたりしたのです。
 それは、あまり意味のあることではありませんが、映画のイメージを深めるためなのです。

(注) 桃井かおりについては、彼女が若いころから、私はファンでした。
 例えば、戦後生き延びた男が主役になったガードマンの世界を描いた『男たちの旅路』です。
 ガードマンのチーフである鶴田浩二(映画の中の名前は忘れた)が、若い社員たちと出てきました。水谷豊(同前)は、まだ子ども子どもしていましたが、島津悦子役の桃井かおりは女ですから、それほどでもないものの初々(ういうい)しかったことを記憶しています。
 また、「そうなんだ」などという当時におけるナウい現代語を話していて、斬新な感じでした。
 「流氷」などシリーズの何回かを妻と一緒に見たテレビでしたが、「悦子」というのが妻の名前と同じだったので、よく覚えています。

 京王線の聖蹟桜ヶ丘駅にある京王デパートの西側屋外エスカレータを上がったところに、桃井かおりの等身大以上のポスターが貼られていることがある。あまり気にしないのではあるが、そこを通るときに「あなたの好きな人がいる」と改めて妻から言われると、なぜかドキッとしてしまうのだ。『男たちの旅路』のころの桃井かおりの印象が、非常に強いからであろうか。


 最後に、デイヴィッド=ジェロルド(小倉多加志訳)『最後の猿の惑星』(早川書房)から引用。

 <彼らは人間がやったほかのことまで真似た。人間と同様に内輪喧嘩(うちわげんか)をした。人間と同様に、方針や目標を論議した。そしてまた人間と同じように、最初の目的を忘れてしまったのだ。>

(注) なお、「猿の惑星」はシリーズになっていて、現時点では3冊有るようです。
 この種のテーマのシリーズは珍しくありませんが、このストーリは内容が関連しているのですが、作者がすべて異なるのです。
 それは、

    ピエール=ブール(小倉多加志訳)『猿の惑星』(早川書房)
    マイクル=アヴァロン(小倉多加志訳)『続・猿の惑星』(早川書房)
    デイヴィッド=ジェロルド(小倉多加志訳)『最後の猿の惑星』(早川書房)

なんです。
 私も、現在「ミクロコスモスの猿の惑星?」を書こうと考えてはいるのですが、……

 いずれの「猿の惑星」も映画化をされているようです。
 ケーブルテレビ局で、いつか見た「猿の惑星」です。途中から見たので、どの「猿の惑星」だったかはっきりしないのですが、私にとって非常に印象的な場面がありました。それは、猿の軍団の指揮官たちは馬に乗っているのですが、歩兵たちは歩行(かち)なのです。しかし、攻めてくるときは走ります。

 その「走り方」なのです。ふつうの哺乳類とは異なって、前足を二本とも同時に出して地につきます。そして、それを支点にして、次に後ろ足でジャンプをするのです。馬などの前後の足を交互に出すバランスのよい走行とはちょっと異なって、むしろカンガルー的なのです。
 そこで、私ははっと気づいたことがあるのです。それは、まだ幼いころから、今までに何回か見た「追われる夢」なのです。
 何かに追いかけられて、逃げるときに「ふつうの走り方では、まどろっこくなって」、その走り方になってしまうのです。実際には、そんな走り方をした経験などは一度もありません。夢の中のとっさのことですから、そこでいわゆる「先祖返り」が起きたのでしょうか。


 なお、ここに書いてあることに関してさらにご興味をお持ちでしたら、

  知的空間の奥義について

も、お目通しください。


Kuroda Kouta (2004.07.03/2010.11.02)