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 老醜現象というやっかいな症候群


○老醜現象のあらまし
○老醜現象の実態(1)
○老醜現象の実態(2)


○老醜現象のあらまし

 高齢になると、「老醜現象」という厄介な症候群が出てくる人がいます。
 つまり高齢者になると、若いころには見られなかったさまざまな傾向が目立ってくるのです。それらについて、今まではあまり取り上げられてはいませんでした。むろん「加齢臭」などと言って、老人が特異な臭(にお)いを放つことや、「歯周病」によって口臭がしたり、総入れ歯になるようなことは、しばしば話題になりました。

 また、高齢者の大きな問題として「孤独感」を訴える人がいます。
 しかし、「老いの孤独」については本質的にいたしかたないのです。それはあくまで自分自身の問題として解決をしていかないといけません。周囲に求めても、その解決がなかなかムリであることがわかっているからです。

 いままでは、全人格的なテーマで高齢者の問題、つまり老人問題を取り上げたことが、あまり多くはなかったようです。
 したがって、それらの問題を含めた「老醜現象」の傾向は、年齢をとったのだから、ある程度はいたしかたのないと考えてきたようです。だいたい、そんなことでしょうか。しかしそうかと言って、加齢によって誰もが、一律にそのようになるというわけではないようです。
 なぜならば年齢をとっても、若いときとあまり変わらずに、矍鑠(かくしゃく)としている人たちも、私たちの回りにはかなり多く見受けられるからです。また、女性でも小綺麗にしていて、ずいぶん高齢になっても何となく華やいでいる人が、ときどきいるからです。

 しかし、このページでは高齢者になると一般的に陥りやすい傾向を「老醜現象」と呼びます。
 そして誤解のないように、あらかじめ私が付けたこの命名の意味を説明しておきましょう。
 「老醜」という言葉の意味は、「老いると同じ傾向の仲間が増える」ということなのです。だから、必ずしも「老いて醜くなる」という意味ではありません。なぜならば、「醜」という字がイメージが悪く誤解をされそうですから。
 むろん、「」という字には「みにくい」「悪い」「憎む、嫌う」などという意味があります。さらに、「恥じる、恥ずかしく思う」「恥」「比べる」「たぐい、仲間」「もろもろ、多人数」などという意味も含まれているのです。
 私は「醜」という字を、ここでは単に「仲間」や「多人数」という意味に用いています。
 それは、ちょうど「悪」と言う字が「悪い」という意味の他にも、接頭というのでしょうか名詞の最初に付いて、畏敬の念を抱かせる強さを意味するのと似ています。例えば、「悪源太 」のようにです。
「悪源太」が悪人というわけではないのです。

 さらに悪いことには「老醜」の「老」の字には「老獪(ろうかい)」「老朽」「老衰」などという、イメージの悪い言葉があるでしょう。そして、「醜」のほうには「醜態」「醜聞」などという言葉があるようです。そんなために、どうしても誤解をされてしまうようです。
 いつまでも若々しくしているためには、あなたがそれらの仲間に入らないような努力をすることも、大いに必要なのではないでしょうか。好ましくない場に自分から入っていって、そのことを後で後悔する人が多いようです。

 何でも自分の都合のよいように考えて行動をすると、後でそうならない場合には問題が生じます。
 そこで、ある程度の慎重さが高齢になってくると必要になります。なぜならば高齢になると、誤りややり直しが利(き)かない立場になってしまうからです。
 ついでながら、「醜」には「恥ずかしく思う」という意味もあるようです。

 医学的に「身体にあらわれる病的な変化」を症候(symptom)といいます。
 そして、それと相伴っておきる一群の症候を症候群(syndrome)などといいます。最近では、英語のままシンドロームということも多いようですね。ふつう、その原因は何か単一のことによります。つまり一つの主原因が、複数の症状を引き起こしているのです。
 しかし、ここでは「病的な」という意味をあまり厳密には考えずに、単に「健康ではない」という程度の状態としておきましょう。また、シンドロームという言葉自体にも、症候群といった意味の他に「習慣」や「何々癖」というような日常的な意味があるからです。

 そんなわけで、ここでいう症候群は「高齢者になると見受けられる様々な現象」というような軽い意味として考えてください。そして、それらの症状が出だしたら、それを本人が自覚して自分自身を矯正しないかぎり、なかなかなおらないということも一つの兆候でしょう。
 そのいっぽうでは、本人が自覚さえすることによって、簡単に改善されます。
 そのことも、この現象の大きな特徴であり、紛れもない事実なのです。

 なお、このページについては多摩市在住の大倉謙二さんにいろいろとご指導をいただきました。なぜならば、私は六十歳代の半ばで、あまり七十歳よりも先のことがわからなかったからです。(2004年8月現在)
 大倉さんは、すでに傘寿(八十八歳)を超えられましたが、矍鑠(かくしゃく)としておられますし、また仰有(おっしゃ)ることも理路整然としておられます。そんなわけで、人生の考え方など多くを学ばせていただきました。
 なお、大倉謙二さんは大倉喜八郎氏のお孫さんにあたられる方で、若いころから教育に熱心なご家庭で、上智大学では宗教学を履修したそうです。


○老醜現象の実態(1)

 次に、ひととおり老醜現象の概要だけを示しましょう。
 実は正直に言うと、以下に示すようなことがらには、自分自身に対する戒めの気持ちが大きく影響をしているのです。還暦を過ぎたころから、何となく自分自身が書いてあるようなことを感じることがあるからです。


疲れた人、あるいは「疲れた、疲れた!」とよく言う人

 現代社会は、何かとストレスが多く、疲れやすいことも事実です。また最近になって、「若いときのような持久力がなくなった」などと、密かに感じて嘆いている人が、あなたの回りに多いかもしれません。何かを始めるときに、口癖のように「疲れた、疲れた!」という人も、知人の中に何人か見受けられます。
 歳をとると疲れやすくなることは、やむを得ない事実でしょうか。しかし、程度の差もありますし、個人的な感じかたの違いも大いにあるはずです。だからあまり、「疲れた、疲れた!」などと軽々しく言うと、ますます自己暗示にかかってしまい、さらに疲れてしまうのではないでしょうか。

 疲れるということは、疲労素が身体にたまると考えた時代もありました。
 しかし、何となくだるいという状態に、誰もが軽い気持ちで「疲れた、疲れた」などと愚痴をこぼすことが多いようです。あたかもそう言えば、その疲れた状態が改善されるかのように思い込んでいるのでしょうが、実際には逆効果ではないでしょうか?

 この「疲れた」という言葉で思い出すのは、「レストラン」という言葉の始まりです。
 福音書に、

 <疲れた人は私のところに来なさい。休ませてあげましょう>

という言葉がありますが、それをもじって「レストラン」を命名したということです。
 レスト(rest)には「休息」とか「休ませる」という意味があります。そして休息をすれば、慢性疲労でもないかぎり、疲れはとれるものです。


立ち上がるときに必ず大きな声で「どっこいしょ」という人

 力仕事をするときに、かけ声は効果的です。外国でも同じで、ボルガの船曳き歌などは重労働で有名です。
 よく言う「どっこいしょ」というかけ声は、どうも響きが大げさではありませんか?
 例えば、太い筍(タケノコ)を満身の力で抜くときや、重い葛篭(つづら)を背負って長距離を行くときなどは、そのようなかけ声が必要でしょう。

 その反面、ちょっとしたものを持ったり、また立ち上がるときのかけ声としては、何となく大げさで、「どっこいしょ」はそぐいません。だから、そのようなときは小声で、
 「よいしょ」
くらいが、よいのではないでしょうか。
 「どっこいしょ」は、「六根清浄」から発生したと言います。
 富士山などの高い山に登るときに、仏教の修行者が唱える念仏なのです。「六根つまり、眼・耳・鼻・舌・身・意などが清くなるように」というのです。それを聞いた一般の人が、「ろっこんしょうじょう」をなまって「どっこいしょ」としたそうです。
 したがって、もともと「どっこいしょ」というかけ声には、宗教的な深い響きがあるのです。


何事をするのも面倒くさい人、あるいは「めんどくさい、めんどくさい」とよく言う人

 何事をするのも億劫(おっくう)で、面倒くさがる人がいます。
 若いときに何の抵抗もなくできたことを、なぜか高齢になると面倒でやりたがらないのです。したがってそのように考えると、面倒くさがること自体が、やはり老化の一現象なのかもしれません。
 また、何かを頼まれたり、自分自身でする必要があるときなどに、わざわざ
   「めんどくさい、めんどくさい」
と、嘆いて言う人がいます。

 言葉に出して言わなくて、心の中で思っても同じことなのです。これも、とくに高齢者には多い傾向なのです。そのように言ったり思ったからとて、する仕事の内容が変わるわけでもないでしょう。やはり、それはかなりのマイナス自己暗示になってしまい、気持ちが何となく後ろ向きになって、面倒くさがりやに変身してしまいます。

 何事に対しても、常に興味をもって当たるように努力すれば、面倒とも思わなくなるのではないでしょうか。そんなことを言っても、「元来、人間が生きるということは、それ自体が面倒くさいものなのではないか?」などという不真面目な考えが、ふと脳裏をよぎります。
 大いに困ったことと思っています。


夏は異常に暑く、冬は異常に寒く感じる人

 一般に、加齢とともに身体の体温調節機能は衰えます。
 それでも、毎日の食べ物や生活習慣によっては、皮膚の感覚が大きく異なってきます。正しい食生活をしていれば、暑さや寒さに対して、ある程度の対応性や適応性が得られるはずです。さらに、生活習慣を見直して、丈夫な皮膚にすることも大切でしょう。
 その証拠に、まだ身体のバランスが崩れていない子どもたちは、夏の暑さや冬の寒さの中でも平気で遊んでいて、暑がったり寒がったりはしません。

 夏の暑さには、誰でも耐え難いものでしょう。そうかといって、皮膚呼吸の健全な人には、それほどは苦になりません。ただし、梅雨のときのように湿度が高くなると、皮膚呼吸がしにくくなくなるので、誰もが元気を失ってきます。
 冬の寒さに対して強くなるには、皮膚を丈夫にすればよいのです。つまり、皮膚を鍛錬すればよいのであって、皮下脂肪を増やす必要などはありません。

 ヒポクラテスの書いたものに、

 <秋には油性のものを多く食べるようにして、皮下脂肪を冬にそなえて増やすように>

とありました。
 しかし、緯度の高いヨーロッパ地方の気候条件とは異なる日本では、その必要はあまりないでしょう。むしろ、日々の食べ物や皮膚の手入れに留意して、寒さに対して負担を感じないような体調を常日頃から作っておくことが、大切なのではありませんか。

 皮膚の手入れといってもクリームを塗ったりすることではなく、風呂などで行う身体の洗浄です。石鹸や化学薬品を多く皮膚に多く用いると、皮膚本来の機能を失ってしまうこともあるので、とくに注意が必要です。
 香料入りの石鹸やシャンプー、界面活性剤などは皮膚に大きなダメージを与えるともいいます。そして皮膚の内部にあるグルミューという大切な器官の機能を失わせてしまうそうです。

 身体は内部から作られるので、外部から塗ったりするものには、あまり効力がないのです。ただ、表面の保護をするくらいに考えておけばよいでしょう。


自分の健康に、まったく不思議なほど自信のない人

 いったん自信を失うと、なかなか取り戻しにくいものです。
 病気がちの人は、常日頃から健康には自信がありません。そして、そのような気持ちから病気につけこまれ、ますます病状が悪化してしまいます。その結果、さらに自信をなくすというような悪循環に陥ってしまいます。
 そのようなことは、絶対にないようにしてください。

 健康は、誰にとっても基本的に大切なことです。
 なんとしても平素から、体調を正常にするような心がけと工夫とが必要です。自信過剰すぎるのも好ましくありませんが、まったく自信がないというのでは困ったことです。常に健康に留意をして、何とかその状態を保つようにしてください。
 いったん健康な状態がしばらく続くと、失った自信もいつの間にか取り戻していることでしょう。自分の健康について、少しずつ自信を付けていくのが、確実でよい方法なのです。


自分の身体をなんとか丈夫で長持ちをさせたいと考えている人

 老いてくると、どうしても病気がちになるものです。
 そこで、自分の身体をなんとか「丈夫で長持ちをさせたい」と工夫をする人が、加齢とともに増えてきます。しかし、病気になってからではなく、常日頃からそのように考えて、誰でも健康に留意しなければなりません。
 また老いてから慌てて考えるよりも、若いころから身体について考えておいたほうが、確実に効果的なのではないでしょうか。
 あなたも、そのようにお考えではありませんか?

 高齢者になると身体の抵抗力が減少して、細菌に侵されやすくなりがちです。
 日ごろから、腸内細菌のバランスに留意をしたり、陰部にカンジダ菌などが繁殖しないようにしてください。また、手足の指もこまめに洗って清潔を保ち、水虫や爪白癬にならないような注意も必要でしょう。

 腸内細菌は腸内微生物ともいい、私たちの大腸などに寄生している微生物群のことです。私たちの健康に対して、よい結果を与える種類のものと、逆に悪い結果をもたらすものがあります。つまり、善玉菌と悪玉菌などと言われているものです。
 したがって、食べ物に注意をしてよい細菌を増やし、悪い細菌を減らすようにします。そのようにすると、いつまでも若々しく健康でいられるからです。

 カンジダ菌はカビの一種で、口腔や皮膚、陰部に寄生します。さらに肺や気管支などの人体内部に病変を起こすことがあります。たえず清潔にして、繁殖をさせないことが必要です。
 爪白癬は、主に足の爪に白癬菌が住み着く病気です。そして、いったんなるとなかなか治りにくいのが特徴です。やはり、ふだんからの清潔が肝要でしょう。
 また、口の中を清潔に保って、歯周病にならないように注意する必要もあります。
 歯周病は歯槽膿漏ともいって、放置しておくと症状が次第に進んで、歯がぐらぐらとして抜け、すべてなくなってしまうからです。これも細菌によって侵される病気です。


食生活改善によって健康を維持したい人、食費を大幅に節約したい人

 高齢者の食事は、おのずと若い世代とは異なってきます。
 また、高齢者は気の持ちようも大切です。なぜならば、美味(おい)しいものが食べたいという欲望と、腹いっぱい食べたいという本能のためです。つまり「うまいもの」と「満腹」を求める二大欲求とでもいいましょうか。

 美味しいか不味(まず)いかは、個人差によってかなり異なってくるでしょう。

 例えば、くさやの干物ドリアンが大好きだという人がいます。
 しかし、ふつうの人はそのどちらも食べ慣れて、やがておいしくなるのです。美味しく感じるまでには、やはり相当の期間が必要のようです。むしろ、たいがいの人は一生そうならないほうが多いのではないでしょうか。
 つまり、くさやの干物もドリアンも一回で懲りてしまい、二度と食べたくないのです。味は臭(にお)いとも大きな関係にあって、慣れると病みつきになるそうですが……。

 舌の感覚で味覚を感じるのですから、いったん腹に入ってしまえば美味しいものもそうでないものも、まったく同じような過程で消化されるわけです。だから、美味しいものを求めるのは、単に舌を通過するときの快楽を求めているに過ぎません。

 いっぽう、腹いっぱい食べたいという要求は本能に近いものですから、なかなかセーブできないようです。したがって、量を食べても大丈夫な食べ物を選ぶということが必要になってきます。それは高カロリーでなく繊維質が多く、脂肪分が少なくて栄養価の低い、それでいて分量の多い食べ物です。つまり、栄養の少ないものを多量に食べても、ふつう人体に弊害は生じにくいのです。

 よく噛んで食べれば、胃拡張などにはならないでしょう。
 伊達政宗の言葉に、

 <この世に客として来ていると思えば、不味いものを美味しいといって食べることなど何でもないことだ>

というのがありました。
 ある程度の工夫をして食生活改善を行うと、腹いっぱい食べても素材が安いものになり、食費がだいぶ節減できます。実際にやってみると、驚くほどの効果があるでしょう。


生活習慣が間違っているのに、まったく気付いていない人、または気付いていないことに、まだ気付いていない人

 これは、そのことにまったく気付いていないのですから、まず気付く必要があります。
 そのためには、ご本人に正しい生活習慣がどのようなことかを最初に知っていただくのが、その近道でしょう。意外にも自分では正しいと考えていたことが、悪い結果になっていることがあったり、さらにそれが原因で病気になる場合も多いからです。

 何も知らないということは、困った結果を招くことが、世間にはずいぶん多いようですね。

 健康なときには、私たちは肝臓が何をしているかとか、腎臓がどこにあるかとか、そのようなことをいっさい忘れています。むろん知識としては知っているでしょうが、そのことを常に意識しているわけではないのです。
 そして、いったんそこの調子がおかしくなってから、始めて意識をするのです。忘れていて何も気が付かずに日々健康であれば、その状態がいちばんよいのですが、なかなかそうはいきません。
 長い人生の間には、いろいろな問題が発生してしまいます。


○老醜現象の実態(2)

 老醜現象という厄介な症候群は、まだまだ続きます。
 いいかげん、いやになってしまいます。しかし、自分自身の認識を新たにするためにも、またうかつにも自意識がないことを心配して、自覚のために追加記述をしておきましょう。

 高齢者になると、一般的にある傾向が発生します。
 しかし、そうかと言って、必ずしも誰もがそうなるというわけではありません。年齢をとっても、若いときと同じような考え方で、日々溌剌としている人も多いからです。
 そういう人は老けないというよりか、生涯を青春として過ごしているのかもしれません。
 ここでは、前に述べた「老醜現象の実態(1)」の続きとして、高齢者に発生しがちな好ましくない傾向をいくつか見ていきましょう。

 この老醜現象は、いわゆる病気ではありません。
 それでも便宜上、肉体的な症状と精神的な症状とに、分けて考えることができます。そして肉体的な変化よりも、むしろ精神的な変化のほうが、その大きな特徴となっていることが事実です。つまり各人の気のもちようから、好ましくない状態がもたらされるに違いありません。

 もともと人間を「精神」とか「肉体」に分けて考えるということ自体、無理なことでしょう。しかし、ここでは従来の常識の範囲で、わかりやすく扱っていきます。
 精神的な症状とは、その人の思考基準の変化です。
 そこには人生観などが、大きく影響をしているでしょう。若いころからのその人の生きざまとでもいいましょうか、そのようなことが大きく関係してくるようです。また、恥に対して鈍感になってしまうと、すでに気持ちの衰えがあると考えられます。つまり、気持ちをどのように保つかは年齢にかかわりなく、その人の人格に他ならないのかもしれません。

 いっぽう肉体的な症状とは、身体の物理的変化です。
 加齢とともに退化していく身体の現象ですから、ある程度はいたしかたないでしょう。しかし、何とか工夫して退化の速度をゆるめるように考えなければなりません。
 ここでは、老醜現象の概要だけを示しておきましょう。例えば、「物を貰っても礼一つ言わない」、「他人の好意や親切にも礼を言わない」などの無神経な反応が始まったら、注意が必要です。


あつかましくなったり、譲られるのが当然と思うようになる

 このような傾向が現れたら、ぼつぼつ注意が必要です。老人特有ともいわれる自己中心的になってきたからです。
 人生も多くの時間を過ごすと、ますます謙虚になるのがふつうでしょう。また、老いたら自分の限界を知って、若い人に譲るのが常識です。ただ、社会から自分に求められたことや、回りから尋ねられたことには、ていねいに応えればいいのです。


してもらうことや物を貰うことばかり考えて、欲が深くなる

 ふだんから、何かをしてもらうこと、物品やお金などを貰うこと、そのようなことばかり考えるようになったら、すでに注意が必要です。また、非常に欲が深くなったりするのも要注意。それらの現象は、周囲の人々に「老いたのだな」という印象を強く与えるからです。
 そして、「耄碌(もうろく)をしたものだ」と蔑まれてしまいます。

 還暦を過ぎたころから、「世の中を六十年以上も生きてきたから、そろそろこの辺で社会に貢献しよう」などと考えるのが、ふつうの人ならば当然ではないでしょうか。しかし、そのようには考えないで、まったく逆にまだ何かをしてもらうことばかり思うのは、本能がむき出しになった情けない現象ではないでしょうか。

 さらに、乞食でもないのに、物品や金銭を貰うことばかりを考えているのも異常です。
 やはり、そのようになると、一種の病気みたいな重度の症状とも言ってよいでしょう。つまり、世の中に貢献をするのではなく、自ずから社会の寄生虫やお荷物になりさがってしまおうというのと同じではないでしょうか。
 逆に、そのような状態にならないように常に注意をしている人は、いつまでも元気で若々しいことでしょう。


ずるくなったり、疑い深くなり、被害妄想気味である

 若い人の中にも、打算的で非常にずるい人がいます。しかし、加齢とともに急速にそのようになったとしたら、かなり注意が必要です。なぜならば、それはその人にとって精神の大幅な減退なのですから。
 また、ある時期から疑い深くなったり、被害妄想になったりすることもあります。そして、物がなくなったとか、財布からお金を抜き取られたと言って騒いだりします。やはり、被害妄想という一種の症状なのでしょうか。

 しかし、そのような態度には、いっぽうでは自分に注目して欲しいという動機があることも見受けられます。そのような事件の当事者に自分を仕立てることによって、他人から無視されたくないと考えるのです。それはその時点で、すでに手段の選択を誤るほど精神的に退廃をしたということにもなりかねますが……。

 そのような方法によらなくても、自己を発表する機会があるのではないでしょうか?

 ともすると、被害意識が強くなったり、さらに被害妄想になることが多いので、そのようにならない努力が必要です。むろん、回りのものの協力が必要になってからでは、本人にとっては末期症状なのです。したがって、そうなる前に自分自身で考えなければなりません。
 常に自分自身を反省して、ときどき考え方のチェックをするのが、被害妄想にとりつかれない予防の一つの方法でもあることでしょう。


物事や他人には無関心でどうでもよく、自己中心になる

 これもまた、まったく困った状態です。
 いくら老いたからといっても、社会の一員であるかぎり相手の立場や状態を考えないわけにはいきません。それが、自己中心になってしまうと、共同生活などが難しくなるからです。知人の母親が特別養護老人ホームに入(はい)られたのですが、聞いてみると中で喧嘩ばかりしているということです。

 子どもを何人か立派に育て上げた女性にしては、何とも困った現象です。一人ならばともかく、共同生活での自己中心は、回りに多大な迷惑をかけてしまうからです。しかし、そのようなことを考えるほどの心の余裕さえなくなってしまうのです。


回りがいくら話しても分からないし、自分勝手の判断をする

 いくらその人のためを思って話しても、意思が通じない人がいます。
 後で考えてみると、その人は自分が考えていることと同じことを私が言うのを期待していて、そうでないことについては、最初から賛同しないという考えだったようです。つまり、相手が自分の考えを代弁化することだけを期待しているのです。
 それでは、何時間かけてもよい人間関係などは生じないでしょう。
 また、その人のためにもよいことではありません。


動作がのろくなってすぐ実行をしないで、約束も忘れて果たさない

 高齢になると、どうしても反射神経が鈍くなってきます。
 それは、生理的に考えてもいたしかたないことです。動作が緩慢になるのも、反応が鈍くなるのもそのためです。したがって、相手の話についていけないことがあるんです。
 また、記憶力も次第に弱くなっていきますから、約束なども忘れてしまいます。
 しかし、その忘れたということ自体を自分が意識していないのですから、気にもかけていません。そして、注意をした相手を逆に恨んだりします。
 このようなことも、まったく困ったことですね。


愚痴や泣き言が多くなり、自己本位な屁理屈を言うようになる

 愚痴や泣き言は、誰にでもあります。しかし、それがあまり激しくなると問題でしょう。
 なぜならば、そのために気分が滅入ってしまい、ホメオスタシスのバランスまでが崩れてしまうからです。心因性の病気は、自分に不満があったり、自分自身が置かれている立場に満足していないときに、発病することが多いと聞いています。
 お互いに、あまりくよくよしたくないものです。
 常に自分が「愚痴や泣き言が多いか」とか「屁理屈を言っていないか」などと考えているうちは、まだだいじょうぶでしょう。


定職がないために日々の励みがなく、滔々と文句ばかりを言う

 第一線で活躍した猛烈社員も、定年を過ぎると性格まで、がらりと変わってしまう場合があるようです。生き生きした様子がまったくなくなって、まるで死んだようになってしまいます。かつての精彩や元気がなくなったのは、仕事をしないために何となく生き甲斐がなくなってしまったからです。
 そんな傾向があったら、その対策としては趣味や道楽が好ましいでしょう。
 日々の励みがあっても、また文句などを言わなくても、趣味や道楽は必要です。おそらく、思いもよらないところに、新たな日々の楽しみや生き甲斐が発見できるでしょう。


疲れやすく持久力がない反面、政治や宗教に対して批判をする

 疲れやすくなるのは、体力が衰えるからです。「疲れた、疲れた」という人のことを前に述べましたが、疲れても黙っているわけではありません。すべてのことが自分にとって好都合にいかないのは、政治や宗教が悪いと考えるようになってきます。
 つまり、不満があったら、次にそれを向ける鉾先(ほこさき)が必要なのです。
 それは、ストレス解消のために必要な生理的仕組みなのですが、自分がその中に入ってしまうと、それぞれの人の立場を考えることなく、ただ単に批判をするのです。

 批判や評価は、自己のもつ能力の4倍くらいまで可能なそうです。したがって、国の方針や大臣の発言が、幼稚でバカバカしく感じるのです。


身体全体が不潔になったり、臭(くさ)い臭(にお)いがする

 高齢者になると、身体の自動バランス機能であるホメオスタシスが正常に機能しなくなります。
 そこで、いろいろと身体に不都合な箇所が生じるのです。腸内細菌のバランスが悪くなったり、陰部にカンジダ菌が繁殖したり、爪白癬が慢性になったりします。つまり、不都合な箇所は次々と増えるばかりなのです。

 身体の抵抗力が急速に衰えているのだから、それは致し方ないのかもしれません。
 足の水虫(爪白癬)や陰部のカンジダ症、そして歯周病などは、放置しておけば直りません。ますます悪化しますから、何とか根本的に治療をしてしまわなければなりません。なぜならば、治療をしないと悪臭の原因になったりするからです。


病気になりやすく、いくつかの持病があって、直りにくくなる

 高齢者が病気になりやすいのは事実です。
 しかし、注意をすれば大部分の病気は予防できるでしょう。
 よく私の行く厚生センターで見かけるのですが、昼食後に大量の薬を飲んでいる人がいます。そして、それらの薬は別々に何箇所かの病院で投薬されたといいます。副作用などを考慮しないと、いけないのではないでしょうか。

 いくら直らないからといって、薬を大量に飲めばよいというものではないでしょう。
 むしろ、考え方によっては気の持ちようも大切であることがわかります。


 ここまでインプットをして、まったくいやになりました。
 自分自身が、そのほとんどの傾向をもっているからです。今後、もしかして脳が機能しなくなってきたら、それらが丸出しになってくるのではないかと、大いに心配します。いくらここで、自分自身に対しての戒めとして、このようなことを確認しておいても、いつどうなることかと自信がありません。

 いっぱんに老いると寂しいものです。
 しかし、その寂しさに対しては、どうすることもできないのです。つまり、自分自身で解決をしないといけません。いつも自分の側にいて、慰めてくれる人を求めたりするのは、現実的に無理なことが多いでしょう。今後の社会情勢を考えると、自分以外に相手のないことが多いかもしれません。
 したがって、そんなときには以上のような症状をもたらしやすいのです。
 しかしそうならずに、むしろ昇華するように努力をしてください。簡単なものでも、芸術活動などをすると心が大いに慰むものです。
 そして、そんなためにこのホームページがあるのです。


Kuroda Kouta (2007.02.14/2007.11.25)