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  脳の不思議(脳の不気味さ=私の宇宙(脳が考える時間・空間))



はじめに
脳の不思議=脳が考えるのか?
脳のイメージ=脳の不気味さ
ケプラーの考えた脳
ミミズとヒトデ=消化器官と脳
発達をし過ぎた脳=シーラカンスとヒト
脳の位置=本来は下が好ましいか?
脳とこころ
枕の意味?
退化した器官=グルミュー・ペルオキシゾーム
前生の記憶をもつ脳
セックスを楽しみとする脳
腹の虫?
すごい人?
時間と老化
私の宇宙(脳が考える時間・空間)
アインシュタインの時空
道元の時間
宇宙とは? コスモスとは?
マクロコスモスとミクロコスモス
ラレとラダ(ラダン)
意味を考える意味=「無意味の意味」
すべては脳のもたらす幻影か?


はじめに

 このページは、ちょっと突飛な話題になってしまって恐縮です。
 いつも思うことですが、脳という器官は、私に何となく不思議さを通り越して、不気味ささえを感じさせます。そこで、取りとめのないことかもしれませんが、そのようなことをここにメモっておきましょう。しかし、学問や医学として書くのではありません。むしろ、直感や推理によっているので、考え方によっては間違っていることもあるでしょう。
 そのような次第で、単に私の個人的な覚えのためですから、あらかじめご了承ください。
 なお、文の最後に「……」とあるのは、さらに後で書き足していこうと考えている箇所です。


脳の不思議=脳が考えるのか?

 「脳」が考える器官だとは考えずに、「心」が考える器官だと考えた時代がありました。そして、その心がどこにあるかが問題になりました。古い時代には、「心は心臓にあって、心臓で考える」と考えたのです。

 現代では、常識として「脳が思考をつかさどる」といいます。
 しかし、実際には血液がその役目を果たしているのではないでしょうか。それは、あたかも「自動車は、エンジンによって走る」という文章と似ているでしょう。実際には、エンジンが付いていても、燃料となるガソリンや潤滑のためのオイルがなければ走れません。

 旧約聖書で血液にこだわるわけは、その辺にあるのでしょう。また、シナプスと毛細血管が似た働きをするのもうなずけます。もしかしたら、「脳が考える脳」などを考えることさえも、あまり意味のないことかもしれません。それは鏡があって、そこに映っている虚像をさらに別な鏡で写して、実像を見ようとするようなことではないでしょうか。
 ポーは『伝記的な肖像』の中で、「血は神の化身」と言っています。


脳のイメージ=脳の不気味さ

 細胞・ミトコンドリア・腸内細菌、さらには脳などは、もしかしたら人間の中にいるパラサイト(寄生体)なのかもしれません。ふつう、細胞やミトコンドリアは身体の一部だと考えます。いっぽう、腸内細菌は明らかに一種のパラサイトでしょう。ここで問題は、複雑に身体と一体となっているように見える脳なのです。

 脳は、私にとって何となく不気味な存在です。脳はことさらに、左脳と右脳に別れています。そして、左脳が論理的に物事を考えるのに対し、右脳は直感的に判断をするらしい。また、未来のことも右脳で扱う。このようなことが、脳自身の判断を困難にしているのではないでしょうか。
 また、脳は人間の器官として、ちょっと異質だからです。例えば、脳の手術をするときには、麻酔などを必要としません。ざっくりと切っても、痛くないのです。どうしてでしょうか。

 遺伝子の仕組みを考えると、実に奇妙なことがわかります。
 また、世代の交代についても不思議な思いがしませんか?
 いったいどこまでが、自分なのかわからなくなるからです。
 脳を考えると、不気味であることばかりでなく、まったく自己本位な物質だということを垣間見れるときがあります。そんなことを何となく感じることが、あるのではないでしょうか。


ケプラーの考えた脳

 物理学者のヨハネス=ケプラー(1571〜1630)は、惑星運動について「ケプラーの法則」を唱えました。
 しかし、脳についても
 <脳の中には小人がいて、その小人が考えている>
という説を大真面目で発表したといいます。
 しかし、やがて
 「それでは、その小人はどうやって考えているのか?」
という反問が出て、それにケプラーは答えられなかったらしい。
 つまり、その小人の中に別な小人がいて考えるとしても、その別な小人について答えていったら、いつまでたっても終わらなくなってしまう。

 彼は、「ケプラーの法則」「光の逆二乗の法則」などのほかにも、ハレー彗星を観測して記録を残した。
 また、「雪の結晶が必ず正六角形になる」ことの発見などの輝かしい業績のある人だった。しかし、脳に関しては……。


ミミズとヒトデ=消化器官と脳

 まさかと思うでしょうが、消化器官のない動物もいます。
 細胞・ミトコンドリア・腸内細菌、さらには脳などは、それらが一体となって人間を構成して、維持していることは紛れもない事実です。さらに、それと同様に私たちを取り巻く環境に中には、種々雑多なものが一体となって住んでいるのかもしれません。

 例えば、腸内細菌です。
 大腸菌などの腸内細菌をすべて滅菌してしまうと、私たちは消化ができなくなって健康を損なうそうです。おそらく、体内の器官による消化を外部の細菌が助けているのでしょう。だから、それらがなくなると逆に病気になってしまうのです。
 ミミズを考えてみるとわかります。ミミズには胃や腸のような器官がありません。しかし、立派に活動をしています。おそらく、ミミズの体内にいる体外菌が消化を助けているのでしょう。

 脳のない生物もいるでしょう。
 例えば、クラゲやヒトデには脳がないと言います。それでも、ちゃんと生きているのです。多数のエチゼンクラゲが泳いでいるところを見ると、UFOが編隊を組んで飛んでいる様子に似ています。もしかしたら、クラゲやヒトデという生物に対しては、脳がそこに「寄生をするまでもない」と考えたのかもしれません。
 そんなことを考えると、人間の身体の中における脳はまったく不思議な器官です。


発達をし過ぎた脳=シーラカンスとヒト

 シーラカンスは、3億8千年前に発生をしたといいます。むろん、恐竜の発生する以前。そして、現在でも身体のしくみや機能などは、ほとんど変っていないらしい。むろん、脳の大きさも。つまり、言葉通り「生きた化石」なのです。
 これは、ヒトの場合に脳だけが異常に発達したことと比べると、非常に不思議な現象のように私は思う。ヒトは、せいぜい20万年の歴史しかありません。しかし、シーラカンスはその1000倍の期間を生きながらえてきたからです。

 最近になってインド洋タンザニアのコモロ諸島、そこのギゴンベ村で生きたシーラカンスが観察されました。コモロ諸島は、タンザニア本土とマダガスカル島との間にある小さな島々です。日中は、海底の岩礁にある岩穴のようなところに隠れて、じっとしている。なぜか逆さまになって、脳のある位置を下にしていることが多い。じっとしていて、エネルギーを消費しないためだと私は思う。

 また、シーラカンスは卵生であるが、その卵を産むのではなく、体内で孵化をさせて幼魚の形で子どもを生むということもわかったそうです。20匹以上が、体内で30センチメートルくらいになると出産をする。つまり、じゅうぶんに体内で大きくなってから生れる。したがって、体外に出たときはひととおりのことができるらしい。不完全のままに生れるヒトとは大違いである。

 どうやら、シーラカンスは「生き延びるためには隠れる」ことをなしてきたに過ぎないようだ。あまり身体の器官は発展をしていないようではあるが、3億年以上を目立たないように生き延びたということは驚くことだ。
 さて、シーラカンスとは逆に目立つことを求めるヒトの脳は、1億年も生き延びられるであろうか。おそらく、『猿の惑星』のような結末になるのが、私には何となくわかるような気がするが、……。


脳の位置=本来は下が好ましいか?

 シーラカンスは、逆立ちをしている状態になって岩穴の中で、じっとしていることが多いらしい。実際に、そのような生態がカメラで捕らえられている。深海といえども、やはり重力は下に働くであろう。したがって、脳を身体のいちばん下にもってくることによって、血液の循環が楽なのかもしれない。その結果、小さい脳であっても、何とか生存の機能を果たすのではないか。

 ヒトの場合は、どうであろうか。他の動物と比べると、桁違いに大きな脳を身体の最上部にもっている。ふつうでは、考えられないほどに効率が悪いだろう。そこに大量の血液を送るため、ものすごい血圧が必要になる。ラマルクではないが、キリンのように首が長くなると、さらに大変だ。脳の大きなヒトは、脳に血液が送れなくなってしまうはず。ろくろく首などというのがあるが、それは現実ではなく、想像上の産物にすぎないのではないだろうか。

 シーラカンスのように、脳を下にすることによって負担を少なくして3億年以上も生き延びるのと、ヒトのように大きな脳を最上位にもってきてバランスも悪くムリをしながら、あたかも破壊に向かっているのと、どちらがよいのか。つまり、ヒトの身体を考えると、全体の司令塔としての脳が身体全体から孤立してしまったような感じがする。大本営ではないが、実際に事実を隠蔽して日々を過ごしているのが、ヒトの脳かもしれない。

 もしかしたら、脳自体は身体全体のことを考えずに発達してきたのではないか。ヒトの胎児の出産などを考えると、他の哺乳類では考えられないくらい大変なことだ。また、脳をいちばん高いところにもってくるという愚かさについては、どう考えたらよいのだろうか。かつては、人自身であっても「脳が考える」のではなく、心つまり「心臓が考える」と考えた時代があった。そのほうが、直感的に理解をできたのであろう。

 本来ならば、ヒトも異常に脳を発達させないで、シーラカンスのように逆立ちをして、悠久のときをのどかに過ごすべきものだったかもしれない。と、私はしぶしぶと思う。


脳とこころ

 脳とこころの関係が、なかなか私にはわかりにくい。
 別の項で、「「脳が考える」のではなく、心つまり「心臓が考える」と考えた時代があった。」と書いた。今でも心(こころ)という字は、心臓の「心」の字を用いる。しかし、脳のことがわかってくるにつれて、「心」を「こころ」の意味に用いるのが不自然と思う人も出てきたに違いない。

 夏目漱石に、『こころ』という長編小説がある。非常に優れた三部作のような構造の小説であるが、最初の広告は「心」となっていたように思う。もしかしたら、新聞に連載されていたときに、そうだったのかもしれない。やはり、先生のこころの懊悩(おうのう)は、奥さんにもわかりえなかった秘密めいた複雑さをもっていたので「心」ではそぐわなく、タイトルを「こころ」としたのであろう。おそらく、漱石自身が考え直して、変えたのではないか。


 沢庵宗彭(たくあんそうほう)の短歌に、心について

 <心こそ心迷わす心なれ心に心、心ゆるすな>

という言葉があります。
 その意味は、「日々一時的な喜怒哀楽の気持ちに振り回されて、自分自身を失ってはいけません。」というようなことではないでしょうか。そして、さらに「自分が心の主人になって、自分の心を制御しなさい。」と言っているのでしょう。

 沢庵宗彭(天正元年(1573)〜正保2年(1645))は、江戸時代の臨済宗の僧で、書画・詩・茶の湯に親しんだ。慶長14年(1609)37歳で大徳寺の住持に出世をしたものの名利を求めず、3日間で寺を去って郷里に庵を結んだ。事情はわからないが、いさぎのよいことだと思う。

 「沢庵漬け」については、沢庵宗彭の名をあげることが多い。
 大根(だいこん)の漬物は沢庵が考えたというほかに、関西で広く親しまれていたものを沢庵が江戸に広めたともいわれる。それは、徳川家光が沢庵を訪れた際、ダイコンの「たくわえ漬」を出したところ、大いに気に入って「たくわえ漬にあらず、沢庵漬なり」と言った話が残っているからである。


枕の意味?

 私たちは、眠るときに頭を支えるために枕をする。しかし、ヒト以外に枕をして眠る動物はあるのだろうか。この意味は、かなり慎重である。と私は、思う。なぜならば、頭の中に入っているものは脳がほとんどだから。目・耳・鼻なども、単独の器官ではなく脳に対するインプット部分ではないか。
……


退化した器官=グルミュー・ペルオキシゾーム

 シーラカンスのように、ほとんどの器官が古来から現在まで変わりなく存続していると考えられる動物もいる。
 しかし、大きな発達をした動物には器官や機能が不必要になってしまったものもあるだろう。例えばヒトの場合には、もはや尻尾(しっぽ)はなく尾てい骨(びていこつ)が残っているだけだし、鼻の機能である嗅覚などはほとんど失われてしまったらしい。それらは、もしかしたら脳自体にとって不必要であったり、あまり意味をなさなかったのかもしれない。(尾てい骨の「てい」は、「骨」偏に「紙」の旁部分)

 実際には直立して歩くために、尾があったほうがバランスはとりやすいであろう。
 本来ならば梁(はり)である背骨を柱として使う不都合などは、脳の発展段階では考慮されなかったのかもしれない。立って歩くことによって、宿命的に腰痛や膝痛が発生するのは、子どもが考えても自然の理である。つまり、脳は身体全体の好ましい発展を考えずに、独断的かつ近視眼的に自体の大発展を遂げたのではないか。

 また、そんな中で、過去には意味があったが、もはや今となっては理由のわからない器官もある。それらは、何となく「化石器官」などと呼ばれていることがあるようだ。
 例えば、グルミューペルオキシゾーム(ペルオキシソーム)など。
 両者ともに現在でも、ヒトの人体の組織として歴然と残っている。しかしその目的さえも、はもはやはっきりしない。そのように、すでに人体の組織から分離したものや、最初から外来したものは、そもそもの目的がわからなくなってしまった。兪曲園の『顔面問答』ではないが、グルミューやペルオキシゾームのような器官は、いまそこに「あるからある」としか言えない。

 でも、私は「脳の考え」を別の次元から考えて、自分自身のグルミューの回復を計画し、それが何とか実現できることも体験した。そのことについては、すでに「健康のページ」などに具体的な方法や結果をくどくどと説明をした。さらに「脳を考える脳」については、別なところに記したい。


前生の記憶をもつ脳

 前生の記憶を脳がもっている場合があるという。例えば、ブータンで「トゥルク」というのがある。
 ブータン(Bhutan)は、ヒマラヤ山脈の東部にある森林が多い国。農業や牧畜業が主産業。そのブータンは、チベットなどと同様に仏教が社会の規範となっているが、ラマの多くが「トゥルク」という前生の記憶をもつ人であるらしい。
 ……

 日野の「勝五郎再生記」。
 ……


セックスを楽しみとする脳

 セックスを楽しむというは、異常に発達をした脳のもたらしむる一つの異常な現象。
 他の哺乳類などのことを考えると、それは明白。いわば生殖のためのセックスではなく、もはやそれは一種の脳のマスターベーションにすぎない。
 また、それをふつうのことと考えること自体、エキセントリックであり、脳がもたらした幻影。
 ………


腹の虫?

 「腹の虫がおさまらない」などと言います。医学の発達しなかった時代から、人間は本能でいろいろなことがわかっていたのかもしれません。赤血球やミトコンドリアなどから、さらには大腸菌のようなパラサイトが数多く人体にいるのは事実でしょう。そしてそれらは、人間と共生をしている形で私たちの身体の一部となっているのです。

 「庚申信仰」というのがあります。それは、人間の身体の中に三匹の虫がいて、私たちの寿命を短くするといいます。その虫は三尸(さんし)と言って、非常に恐ろしいものと考えたようです。そこで、一晩中眠らずに起きていて、祈ることが江戸時代には行われました。
 そのための庚申塚が、現在でも多く残っています。


すごい人?

 世の中には、いわゆる「すごい人」がいるものです。奇跡を行う人。特殊な身体をもっている人。びっくりする人がいます。しかし、そのような人を私は直接には知りません。

 私の知人の一人に、「πの値」を1万桁言える人がいます。そのこと自体には何らメリットがありませんが、「ヒトの記憶」がかなりできるということを証明するためだと言いました。ソニーに勤めていた人で、町田に住んでいました。しかし、その人は最近になってアルツハイマー病になってしまいました。

 数字1万桁の記憶などは、『古事記』を暗証した稗田阿礼のような人がいたのですから、とくに優れていたということにはならないかもしれません。でも、実際にやってみるのを聞くと、何とも素晴らしいことと思いました。


時間と老化

 誰もが、一律に老化をするわけではありません。
 女性のダンサーで、85歳になっても現役の人がいました。身体などはしなやかで、若い人と同じに踊れるといいます。おそらく、衰えがなかなかこない特異な体質なのでしょう。

 また、反対に早く衰えてしまう人がいます。
 その極端な例に、プロジェリアという病気があります。800万人に一人という割合なのですが、身体のすべての部分が早く衰えてしまうのです。フェルナンドという人は、子どもの体つきをしていましたが、7歳のときにすでに70歳相当の身体になって死んだといいます。父親も母親も、とくに変った人ではありませんが、その子は7年でふつうの人の70年分を過ごしたことになります。

 85歳の若々しいダンサーや7歳ですでに老人になった子どもは、かなり特種のケースかもしれません。しかし、「時間と老化」の関係は個人差がかなりあるようです。もしかしたら、私たちも工夫をすることによって、結果がかなり異なってくることでしょう。


私の宇宙(脳が考える時間・空間)

 宇宙(うちゅう)は、そもそも『淮南子』(えなんじ)によると、「宇」が天地四方、「宙」が古往今来です。つまり、空間と時間の広がりを意味する言葉。そして、その中にあらゆる存在物が置かれているのです。

 哲学では、その宇宙は一つの秩序ある場と考えます。そしてその世界のことを「コスモス」とも言います。
 物理学では、存在し得る限りのすべての物質および放射を含む空間を言います。
 さらに、天文学では銀河系外星雲を「小宇宙」、それらが集まって「大宇宙」になると考えます。

 しかし、空間について言えば、狭いか広いかは心の問題です。つまり、空間が大きいか小さいかの個人的な意識になると思います。例えば、「箱庭の中に大自然がある」などと言ったら、びっくりして疑う人もいるでしょう。
 また、ウイルスのように私たちが顕微鏡で観察するほど小さい生物にとって、私たちの身体は一つの銀河系くらいの大きさになるのではないでしょうか。そして、他の人の体内に入ることは、ちょうど私たちが外宇宙に行くくらいのスケールかもしれません。

 つまり、大きいか小さいかなどは、互いに比較をしなければ問題ではないのです。したがって、知恵がなさしめる愚かな比較や差別なので、まだ知恵が発達しない幼い子どもは気付きません。例えば、ミッキーマウスの頭が異常に大きくて不自然であるなどとは考えないのです。


アインシュタインの時空

 アインシュタインは「空間」と「時間」とを切り離さずに、「時空」という一つの概念として考えたようです。そして、質量はエネルギーと同等とも考えました。つまり、それぞれが時間と空間によって織られた布の上にある玉のように、その重力によって時間・空間の形が異なると考えたのです。

 アインシュタインの相対性理論によると、宇宙は拡大をしているらしい。
 ……


道元の時間

 道元は、『正法眼蔵』に「時間はひこするもの」と説明をしています。
 ……


宇宙とは? コスモスとは?

 自分自身の大きさと比べて、極めて大きかったり、非常に小さいものは体験的に理解できません。そこで、自分自身の考えられる範囲で対象を把握しなければなりません。
 ………


マクロコスモスとミクロコスモス

 ここで、マクロコスモスとミクロコスモスという概念を考えてみましょう。
 ………


ラレとラダ(ラダン)

 イランのテヘランに、ラレとラダが女の子の双生児として生れました。
 ベトナムに生れたベトちゃんとドクちゃんは、やはり双生児でしたが互いに背中でつながっていました。それを日本で手術して、分離したのです。しかし、一人は精神的な障害を起こして、ふつうの生活ができなくなってしまったと言います。
 ラレとラダの場合は、背中ではなく、生まれながらに頭がくっついていたのです。したがって、二人はいつもいっしょにいなければなりません。向かって右がラレ、左がラダです。そのような事情で、姉妹関係はないのでしょうが、ラダが主導権をもっていたといいます。なぜならば、ラレは欝の状態が多かったからです。

 お互いに賢くて努力家、大学を卒業しました。そして、インターネットで「自分たちを分離手術してくれる医師を探した」のです。そして、やがてゴー医師が現れました。診断をすると、すでに互いの脳が押し合って、強い圧力がかかっていて、すでに放置できない状態でした。また、脳内で静脈を共有していることなどもわかりました。

 非常に難しい問題をかかえていたのですが、21人の医師と30人の看護師でチームを結成、大きな手術をすることになりました。しかし、残念なことにラダは切り離された直後に死んでしまいました。そして、ラレも一時間半後に出血多量で死んだのです。
 手術前まではいっしょだった二人は、別々の人間として棺(ひつぎ)に入って戻ったのです。
 父親は、「すべては神の思し召しだ。」と言いました。

 なお「ラレとラダ(ラダン)」は、2008年2月26日(火曜日)にディスカバリーチャンネル(256チャネル)で見たドキュメントのあらましです。


意味を考える意味=「無意味の意味」

 私たちは、物事には意味があると考えます。無意味にも、意味があるなどとは考えません。そんなために、現代社会はめまぐるしく狂騒的なのではないでしょうか。脳の幻影に追われて、日々が動いているのかもしれません。
 「サワーグレープス」という話がイソップにあります。
 愚かな人間を賢い狐に当てつけた「すっぱい葡萄」という内容です。もしかしたら、ヒトの脳はすべてのことに「意味づけをしないではいられない」のかもしれません。
 ……


すべては脳のもたらす幻影か?

 考えるということは、いったいどういうことでしょうか。また、「考えるということを考える」とは、いったいどういうことでしょうか。
 そのような脈絡のないことについて、ここに考えたことを記しておきましょう。
 エーリッヒ=ショイルマンの書いた『パパラギ』という本に、酋長ツイアビの演説として「考えるという重い病気」という章がありました。
 ……


Kuroda Kouta (2003.07.04/2011.12.07)