総トップページにジャンプ

 私の「死後の世界」と「転生人後」入門


○はじめに
○晴れた日の傘
○「死後の世界」という言葉
○生命と非生命
○無視されて怒る男=ソクラテスと常不軽菩薩
○「眠り」と「死」
○死後の世界を宗教はどう考えるか?
○死後の世界の物語
○死後の世界(平田篤胤)
○死後の世界からのカムバック(小野篁)
○死後の世界?
○時間と空間について
○私の「人間とは何か?」=有機物と炭素化合物
○私の「死後の世界」に関する仮説=宇宙に溶け込む
○レオ=バスカーリア『葉っぱのフレディ』
○身近なケーススタディ=「勝五郎再生記」
○転生人後のあらまし
○脳の機能=脳とこころ
○「意」と「気」と「思」の世界
○「意」と考えられること
○「気」と考えられること
○「思」と考えられること
○デジャビュと転生
○人身ありがたし
○おわりに


○はじめに

 このような変なタイトルのページは、自分自身のために作成をしたので、とくに発表をしようというような改まった内容ではありません。また、科学的証明などもしないままに無責任なことを書いているような後ろめたい気持ちもあります。

 しかし、私たちの肉体とは別個に、心や理性が存在するという考え方が古くからありました。例えば、紀元前4世紀の古代ギリシャの哲学者プラトンです。しかし、彼はそれを証明できないばかりか、さらに「もっと大切なことを知らない」ということを知ったといいます。それは、ソクラテスもいった「無知の知」という概念なのです。

 とどのつまり、プラトンでさえも「不滅の魂(たましい)が天上に存在する」ということを他人に納得させることができないままに、死んでしまったのだと私(黒田康太)は思います。そんなわけで、プラトンのように偉大な哲学者であっても、証明ができなかったほどに難しい問題なので、とても私などに解決できるテーマだとは最初から考えていないのです。

 まだ書きかけのページですので、内容に脈絡がない箇所があります。また、単にメモとして残してある部分もありますので、文章に一貫性がないかもしれません。


 そして後のほうには、とてつもない結論をメモっておきましょう。あまりにも途方のないことですから、ちょっと記述をするのに気後れがしないでもありません。しかし、ここでは学問や技術を行うわけではなく、私が考えた範囲のことを記録するにとどまります。したがって、間違っていることや矛盾をすることもありましょう。
 「転生人後」は「てんせいじんご」と読んでもよいが、正しくは「てんしょうにんご」です。つまり、このページでは人間の転生について考えをまとめようとしているのです。そして、今生(こんじょう)で人間であった後はどうなるかもつきとめようとしている。

 こんなところに、こんな内容のページを置いては、誤解をされるかもしれません。また、公開をしているホームページにしては、ちょっと無責任でもありましょう。しかし、このことは私が真剣に考えていることで、とくに秘匿をしておく必要もないことです。脈絡のない支離滅裂な内容ではあるが、一つの考え方として大目に見ていただきたい。

 転生とは、何となく麻雀の連荘(れんちゃん)を連想していただくとわかるような気がします。この半ちゃんではダメだったが、次の回に期待をするからです。


○晴れた日の傘

 日々の生活では、用心をすることに越したことはありません。
 今日は雨が降りそうだと思って、傘をもって出かける。しかし、雨が降らなかったときに激しく後悔をするでしょうか。

 つまり、「死後の世界」などと無責任に言って「あるといえばある、ないといえばない」というのでは、いったいどうしてよいか困ってしまいます。それでは、ちょっと不安だからです。しかし、わからないことに対しては、くれぐれも用心が大切でしょう。それが仮にないとしても、あったときのことも考えておいたほうがよいかもしれません。
 たとえ取り越し苦労であったとしても、……

 「見えないものはない」と言ったり、「見たことのないものはない」というのは、ちょっと軽率ではないでしょうか? 人間には見えない色や、さらに聞こえない音もあるからです。私たちの日常は、ごく狭い範囲の色や音を認識しているのです。
 蝶や昆虫は、可視光線のほかに紫外線も見ることができます。モンシロチョウを紫外線カメラで見れば、雄は紫外線を吸収して黒く見え、いっぽう雌は逆に紫外線を反射して白く見えます。私たちが雌雄を同じに見えるチョウは、そのようにして相手を見つけているのです。


○「死後の世界」という言葉

 ここでは、安直に「死後の世界」などというタイトルにしました。それは、後で検索をしやすいようにしたり、自分自身で内容を忘れないようにするためです。私は、決して「死後の世界」があると言っているのではないのです。また、死んだら「死後の世界」に赴(おもむ)くなどと言ってもいません。
 まして、「最後の審判」があったり、『十王経』にあるような裁きが待っていたりするとは考えません。さらに、丹波哲郎さんのような『大霊界』があるなどとは、馬鹿げている考えだと思います。

 私が考えるのは、いわゆる「死」のあとにも「意識」が残るのではないかということです。そして、そのことが大きな心配をもたらすのです。つまり、いわゆる「脳が考える」ということ自体を疑っているのです。「考える」こと自体は事実でしょうが、「感じる」という感覚が別にあるのではないかというのです。「本能的に」と言ったらよいのでしょうか。

 ここで、昔から「本能」は「本脳」とは書きません。また、「脳が考える」ということ自体、近年になってわかったことでしょう。それ以前は、「心臓が考える」と考えたのです。しかし、私は肉体が焼かれてなくなった後は、脳や心臓が考えるとは思っていません。
 それでは、……


○生命と非生命

 生命は、ふつう生物が生きている原因を言います。つまり、「いのち」のことです。それに反して、非生命は生命でないもの。しかし、その両者間の区別にはむずかしいものがあるようです。

 動物以外にも生命があります。例えば、植物です。したがって、それらに供養をするのはむべなるかなです。下のような碑が、桜上水の密蔵院にありました。




 それでは、次のような現実はどうでしょうか。高井戸の吉祥院(遍照寺)にあった敷石供養塔です。右から三行に、
  武蔵国北多摩郡小川村講中
  敷石供○塔
  明治十三年七月○旦落成
となっています。
 二行目の○は、供養塔の「養」の字の変体のようです。また、三行目の○は読めませんでした。いずれにしても、敷石のように生命のないものに対しても供養をするというのです。その慣習は、あまり古いことではなく明治になってもあったようです。





○無視されて怒る男=ソクラテスと常不軽菩薩

 「最近は、道で出会っても、挨拶さえしない人がいる。」
 ある人が、そんなことを言って、怒ったり愚痴ったりした。すると、それを聞いたソクラテスはその男に尋ねた。
 「君は、向こうから足の悪い人が来たら怒るか?」
 その男は、答えた。
 「気の毒に思っても、怒ったりはしない」
 すると、ソクラテスは言った。
 「挨拶をしない人は、肉体的にではなく精神的に欠陥があるのだ。だから、そのようなことにいちいち腹を立てて怒っても仕方がない。」
 ……

 『妙法蓮華経』(正しい教えの白蓮)に「常不軽菩薩」のことが書かれている。
 彼は、道で出会った誰にでも
 「あなたは、必ず偉大な人になる!」
と言った。
 ほとんど誰もが相手にしなかったが、中には怒って石を投げたりするものもいた。すると、石が届かないところまで逃げて、大声で
 「あなたは、必ず偉大な人になる!」
 ……


○「眠り」と「死」

 「眠り」と「死」には、きわめて近い類似があるのではないでしょうか。
 パスカルの『パンセ』(瞑想録)にある言葉。
 死後体験が、眠りに近い状態であるのはなぜか。
 そもそも死後体験をするというのは、脳のもたらした幻影ではないのか。


○死後の世界を宗教はどう考えるか?

 私は、あまり宗教のことについて詳しくありません。しかし、それでもここに「死後の世界を宗教はどう考えるか?」について、その基本的なことをいちおう調べておきましょう。


・仏教の場合

 何となく仏教は、「死」を扱う宗教だと考える人がいます。なぜならば、お寺が戒名を付けたり、葬式をしたり、そしてお墓までを準備してくれるからです。しかし、原始仏教では、ちょっと様子が違っていたようです。もともとブッダの教えは、「死ぬこと」についてはあまり関心がなく、「いかに正しく生きるべきか」という問題にあったからです。

 初期の教典の中には、ブッダが弟子の質問に答えなかったという問答がいくつかあります。
 『論語』の「先進篇」で、孔子が言った言葉と同じ理由なのでしょう。つまり、季路が「死」について師に問いをしたときに、孔子が素っ気なく「知らない」と言って答えなかったことと似ています。答えていくと、キリがないこともその理由でしょう。

 それはともかく、仏教では「十無記」と言って判断を決めない問答が10あるというのです。しかし、10でなく14とすることもあるようです。それらの中に「霊魂と肉体は同じであるか、異なっているか?」とか「人間は死後にも存在をするか、存在をしないか?」などという問答があります。
 これに対し、ブッダは

 <いま必要なことは、現実の苦をなくすことが問題である。したがって、現時点では死後のことを考えるべきでない。>

というのです。

 しかし、そうは言っても仏教は時代とともに死後の存在や生まれ変わりを認めていくようになります。なぜならば、当時のインドでは輪廻(りんね)の考え方が伝統的に常識になっていたからです。ブッダは、「善行をすれば昇天できる」と説いたようですが、善を積むことを勧める方便であったようです。ですから、天国の様子や輪廻の具体的な経過などについて、最初は問題にしていませんでした。

 後になって、生有(しょうう)という生まれる前の状態、実際の一生、死の瞬間である死有、そして中有を経てふたたび生有になるという行程を確立したわけでしょう。


・キリスト教の場合

 キリスト教では、天国と地獄があると考えます。さらに、その中間には煉獄(れんごく)があるとします。そしてそのどれに行くかは、その人の死後に神が裁くといいます。例えば、自己の利益だけに生きたような人は地獄に行くそうです。つまり、エゴイズムに対して地獄が用意されているというのです。その地獄は、交わりのない孤独な世界で、絶望が永遠に続きます。

 いっぽう、愛のある生活をした人たちは神とさえ交わりのある天国へ行く。しかしいずれの場所にも、私はまだ実際に行った経験がありません。したがって、何となく納得をするだけで、あなたに具体的な説明をすることができないんです。

 カトリックの考え方では、どこへ行くかが未分類の人たちは、いったん煉獄に置かれるということです。だから、誰でも死んだら煉獄を体験して、それからは地獄に行く人には永久に天国のことがわからないでしょうし、逆に天国に行く人には地獄のことがわからないままのはずです。


・イスラム教の場合


 「終末」という日が、やがて来ると考えるようです。そして、その日になると墓や地中で骨になっている死者たちも復活をさせられて、神の裁きを受けると言います。したがって、イスラム教では死んでも終末までは天国でも地獄でもない場所に置かれると考えます。しかし、死んだときに「小審判」を受けるので、その判決内容によって墓が浄化の場所にもなるということです。


○死後の世界の物語

 パスカルの記述をはじめとして、死のイメージや何となく死後の世界を思わせる物語や作品は、かなり多く見受けられます。ここでは、私の知っているごくわずかなものですが、そのいくつかを取り上げて、いろいろと考えてみましょう。


 『古事記』
 『ギルガメッシュ叙事詩』
 『エジプトの死者の書』
 『チベットの死者の書』
 『無量寿経』 源信『往生要集』
 パスカル『パンセ』(瞑想録)
 ダンテ『神曲』
 バニヤン『天路歴程』
 ブレーズ・パスカル『パンセ』
 ゲーテ『ファウスト』
 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
 キューブラー・ロス『死後の真実』


 こうなってくると

(1) まず純粋な文学的な作品であると、内容には問題がない。しかし、あまり参考にはならない場合がある。
(2) 体験験ではなく伝聞で書かれていると、問題がある。書いた人の個人的な考え方が大きく影響しているから。
(3) ある程度の常識や知識をもった人の記述でないと、問題がある。
(4) 単に宗教であっては困る。

などということを吟味しなければなりません。
 しかし、厳密に考えるとそんなことは、まず無理なことでしょう。
 そこで、文学や宗教の中からでも、納得のできる事実を見いだす努力と工夫が必要になってくるのです。


○死後の世界(平田篤胤)

 平田篤胤は、死後の世界を真剣に信じていたといいます。しかし、それを仏教や『古事記』でいうようなものとは考えませんでした。そして、むしろ仏教の地獄極楽を否定した。

 『たまのみはしら』(霊能真柱?)に、

 <世界は「天」(あめ)、「地」(つち)、「黄泉」(よみ)の三つから構成される>

と書いています。
 そして、死後の世界は現世と同じようにあると考えたのです。つまり、「生きているものの中に死がある。」「よく生きるということは、よく死ぬということである。」と言って、自分が死んだ後の魂の行方を真剣に見いだそうとしました。
 そのように、実際に日々の生活を行ったのである。
 ………


○死後の世界からのカムバック(小野篁)

 『今昔物語集』に出ている話だから、真偽のほどは問えません。しかし、まんざら単なる創作とは限らないであろう。
 当時は、現在のように何でも科学的に考えるというような習慣がなかったので、かなり直感でものごとを感じ取ることができたと思う。あまり完成をしていない現代科学というフィルターで物事をみると、かなり本質的なことまで見逃してしまうからだ。

 若いころに小野篁(おののたかむら)が罪に問われ、藤原良相(ふじわらのよしみ)が弁護をして助けてくれた。やがて、その藤原良相は右大臣になった。しかし、病に冒されてあっけなく死んだ。以下は、藤原良相の記憶という体裁の記述である。

 閻魔大王の前に引き出されて、こと細かに生前の罪に問われる。そうするとふつうの生活をしてきた人でも、かなりの罪状が出てくる。まして役人には、数限りない落ち度があげられるのだ。やれやれと思って良相が諦めたときに、中央に座っている閻魔大王の両脇にいる裁判官たちの中に、小野篁がいるではないか。

 不思議に思って見ていると、彼は閻魔大王に「この人物は行いも正しく、親切なことを多くした人です。どうぞ、許してやってください。」と言った。大王は「お前がそう言うならば、そうだろう。許してつかわす。」と言ったのである。すると、そこで良相は息を吹き返した。つまり、蘇生をしたのだ。

 そのことについて、その後もずっと良相は不思議に思い続けたのであった。「いったいあれは、何だったのであろう? 病に冒されて、夢を見たのだろうか? そして、脳が見た幻影に過ぎなかったのだろうか?」
 やがて、機会があって篁に聞いた。すると、篁は「実際のことです。ふつうの人には知らされていない秘事が、現実には多くあるのです。私は、職務で現世とあの世の間を行ったり来たりしているのです。しかし、そのことについて、あなたは誰にも言ってはいけません。」と小さな声で話したのである。

 こんな物語は、一笑にふすべきものでしょうか。
 どうも私には、「ふつうの人には知らされていない秘事が、現実には多くあるのです。」という言葉が引っかかるのである。


○死後の世界?

 「死後の世界」などという言葉があります。いったい何のことでしょうか。また、具体的には何を意味している言葉なのでしょうか。
 私たちの脳という不思議な器官については、まだよくわからないことがあるからです。実際にあったことと、脳がもたらした幻影などの区別がつかないので、学会などでさえも喧々囂々(けんけんごうごう)としたり、テレビなどでも侃々諤々(かんかんがくがく)な意見が出ることがあります。

 しかし、よく聞いてみると、どちらの意見も正しいような気がします。それは、ちょっと不謹慎かもしれませんが、「鶏と卵」のどちらが先だったかという話にも似ています。例えば、宣保愛子さんのいうことも早稲田の小太りの先生のいうことも、いずれも事実の断片だと私は思います。しかし、その会話というかやりとりは何となくちぐはぐで、ベクトルが合わない感じです。なぜならば、互いに専門が異なるからです。

 私は、いわゆる天国や地獄、そして転生などを信じていません。まして、聖書にある「復活」や丹波哲郎さんが言う「大霊界」などを疑わしく思っているのです。しかし、その一方(いっぽう)では死後の問題については、大いに気になることもあるのです。

 それは、私が死んでも意識というか感覚というか、そのような受容機能が残ってしまうかという危惧、さらには恐れがあるのです。そして、死んで身体が焼かれるときにも苦しむのではないかというようなことです。感覚や思考をつかさどる能がすでに機能をしていないのですから、そんな杞憂は誰もがバカげているというでしょう。

 私は、あらゆる物体はおそらく

(1) 固体
(2) 液体
(3) 気体
(4) プラズマ体

から構成されているのではないかと考えます。
 それらが、常に固定した状態ではなく、時間とともに変転するのです。また、それらがいつも一つの状態でなく、いくつかが合成された場合もあるでしょう。

 水を考えてください。
 ふつう、水は液体です。しかし、温度が下がると氷になります。そして、氷はいわゆる固体と考えてよいでしょう。また、薬缶(やかん)に入れて湧(わ)かします。すると、湯気(ゆげ)になって空気中に放出されるます。つまり、気体になったわけです。
 私たちのような人体は個性のある物体ですが、それでも単に固体というわけではありません。液体の部分や気体の部分も含まれているからです。例えば、血管を流れる血液や膀胱に貯(た)まった尿などは液体、そして肺の中にある空気は気体です。つまり、人間は一つの状態とは言えない複雑な構造をしているのです。

 プラズマ体とは、電離した状態です。つまり、イオン化した気体のことです。
 そして、宇宙において固体と液体と気体の存在は非常に少なく、そのほとんどがプラズマ体だそうです。つまり、地球を含む宇宙における99パーセントはプラズマ体だというのです。

(注) この記事を書いてしばらくしてから、驚いたことにテレビドラマ『Xファイル』(#911)で次のようなストーリがあった。2007年4月19日(木)のFOXチャネル午前8時「オードリー」という番組だ。
 レイチェスという名だったろうか、ドーゲットの相棒の女捜査官が自動車事故で仮死状態になる。
 患者の世話をするオードリーという女性の作った病院の模型、その中の仮想空間に閉じこめられてしまう。実際には、ベッドの脳波計は停止している。そこに送り込まれた3人の仮死患者のうち、すでに生命維持装置を外された2人は、放電をして姿が消滅するような効果を使っていた。
 考えることは物語の中でも「何となく似ているのだなぁ」とつくづく思った。


 もしかしたら、「死」については私たちに知らされていない秘密があるのかもしれません。
 そして、「心臓が停止をしたり、脳が機能をしなくなったとき」にすべてが終わるということと別に、何か隠された事実があるのではないだろうか。
 あたかも養鶏場で飼育されているニワトリが、死後にフライドチキンにされることを知らされていないように、私たちもサムシング・グレートに伏せられていることを何も知らないのではないか……


 話は別のことであるが、先日(2007年4月26日、木曜日)見た『Xファイル』(#916)「ウィリアムス」というのに「異星人は、地球人の女性をUFOに誘拐して、彼らの子どもを孕ませて生ませる。そして、地球人の女性はその子どもを成長させられる」というのがあった。「ウィリアムス」というのは、スカリー捜査官の生んだ子の名前である。彼女自身は子どもの父親がモルダー捜査官と信じているのだが、もしかしたら異星人であるかもしれないという懸念をいだく設定。
 物語とは言っても、「私たちが知り得ない暗部」を何となく暗示をしているようで、言いようのない不気味な内容でもある。
 私(黒田康太)は、「ニワトリが、自分自身の立場を知らないままに飼われているようなケースが、もしかしたらあるのではないか?」といつも考える。もしも、ニワトリとヒトくらい離れている知能差があることと同様に、ヒトよりはるかに高度な知能をもっている○○がいたとしたら。
 心胆寒からしむ想像の世界ではあるが、……

 なぜ、こんなところに『Xファイル』を多く引用するかというと、そのシリーズは「誰かが何かを人間に言おうとして企画をした作品」と思われるふしが多い内容だからである。


○時間と空間について

 科学技術が発達して、いろいろなことがわかってきました。しかし、それでも不可思議な現象が多く残っていることも事実です。「人知の及ばないこと」も、現実に存在するのです。いくら進歩をしたからといって、考えるのは個々の脳ですから、どうしても限界があるのでしょう。
 例えば、養鶏所に飼われているニワトリが自分たちの時間軸上の変化を知りえないのと同様に、私たちも何らかの秘儀やアルカナについては、知らされておらずに考えることができないようになっているのではないかと感じるのです。

 また、時間や空間についても、学問で教えられることと別な例外的な現象もあるのではないでしょうか。なぜならば、宇宙についての理論なども、人間の脳が考える空間の範囲にあるからです。そして、それが大きいか小さいかなども、単にスケールの問題であって感じ方によっては大いに異なってくるでしょう。

 宇宙にはブラックホールがあって、そこに入ると空間も時間も消滅してしまうといいます。また、反対の現象を起こすホワイトホールという場所もあるという学者がいます。いずれにしても、何万光年という遠いところの話です。
 しかし、地球上にもブラックホールがあるのではないでしょうか。そして、さらに人体の中にさえ、そのような場所があるかもしれません。

 例えば、バミューダトライアングルです。その海域で、船や飛行機が行方不明になってしまうのは、空間または時間のつながりが私たち日常のものと異なっているからではないでしょうか。それは、地球物理学的にも何となく想像できます。そのバミューダトライアングルの反対側が、マリアナ海溝に位置するからです。そして、そこは非常に深く「ドラゴントライアングル」と呼ばれます。そして、やはり不可解な現象を生じるのです。

 つまり、バミューダトライアングルとドラゴントライアングルは、ワームホールという一つのパイプ状の軸になっていて、空間と時間の法則が他の場所と異なっているのではないでしょうか。
 単に物語りになってしまっている、「浦島太郎」や「リップヴァンウインクル」などは、いにしえの賢人が実際に体験をしたことと、私には思えるのですが。あるいは、鋭い感性をもっていた人が垣間見たことかもしれません。昔から言う「神隠し」なども似たような現象でしょう。

 脳で考えることは固定概念を拭い去った状態で、感性を研ぎ澄ました方法でアプローチしなければなりません。


○私の「人間とは何か?」=有機物と炭素化合物

 いわゆる「死後の世界」を考えるためには、そもそも「人間とは何か?」ということを自分なりに知っておかなければなりません。ふつう、

 人間とは、人(ひと)のこと。また、その複数で人類。したがって、人(ひと)と言っても他人(ひと)の場合もある。つまり、他の動植物にない一定の感情や理性をもっているグループ。種で言えば、ホモサピエンス。
 そして、それらは一般に人格を有する。また、機械や木石などには、一定の感情や理性がないと考える。さらに、単に「人間」と言って特定の人の品位や人柄、そして人物などを言うこともある。

のように考えます。
 しかし、ここでは大きく生きている人間とすでに死んでしまった人間について考える必要がある。それでは、有機物と無機物とは何であろうか。

 有機物は、動植物体を構成している物質で「有機化合物」のこと。
 有機化合物は、炭素化合物。つまり炭素を含む化合物の総称。ただし、注意すべきことは炭素自体が無機物であること。

 炭素以外にも、例えば二酸化炭素や炭酸塩などのような簡単な炭素化合物は、従来の習慣で無機化合物として扱う。有機化合物は、そもそも有機体つまり生物を構成する化合物の意味で、生命力によって作られるとされた。しかし、1828年に尿素が人工合成されたことによって、有機物は無機物から合成できることがわかった。


○私の「死後の世界」に関する仮説=宇宙に溶け込む

 私たちは、生きている間には「四次元空間」に存在していると言います。常識では、そのように考えるのが妥当なのでしょうが、学者の中には「ひも理論」を唱えて「五次元空間」、さらには「十次元空間」にいるのだという難解な新理論があるようです。

 私は、生きている間は「三次元の空間」による広がりと、それに関連する「一次元」の時間の中にいるのではないかと思います。つまり、「三次元空間」に置かれているのです。しかし、死後は単に「一次元」の空間になるような気が私にはするのです。それは、もはや空間感覚は「思い」の中にあって、時間のみの世界ではないでしょうか。空間がない時間などは、物理学的に見意味なのですが、それでも「永遠の時の中に思いが置かれている状態」と考えるのです。

 いろいろと考えてみると、死んだら自分自身はすべて「宇宙に溶け込む」と考えるのが、何となく妥当ではないでしょうか。それを以下に簡単に考えて見ましょう。

・ 肉体は焼かれて、むろんのこと原型をとどめません。しかし、そこにはいくつかの元素が残ることでしょう。つまり、焼き場で私たちが拾う灰になった骨などの粉の中です。

・ いっぽういわゆる魂の部分は、別の次元にあるので焼かれても灰にならないと考えます。

・ 資源の再利用ということでも、肉体に関してはそれらの元素がふたたび有機物になって人体を構成すると考えられます。かつて、「空気と水と安全はタダ」などと言われた時代が日本にありました。安全は違いますが、空気と水は人体にとって必要なものの第一位と第二位です。食べ物は、それに続きます。

・ 例えば、空気を考えてください。一定量の酸素を含む空気があって、それを誰もが呼吸しているのです。もしかしたら、楊貴妃やクレオパトラが呼吸した空気を私たちが吸っているのかもしれません。
 同様に、水も同じでしょう。彼女らがオシッコした水が、川から海に流れて蒸発をする。そして、水源地に雨として降る。それが、私たちの飲み水になっているかもしれないのです。
 つまり、宇宙の資源はいろいろと形を変えながら、変転しているのではないでしょうか。
 最近になって「純水」というのが言われ始めました。ペットボトルの紅茶などに使っているそうです。しかし、もともと純水は小便から飲み水を作るために開発されたと言います。ただし、宇宙空間でのスペースシャトル内。それは、私たちの世界のように資源の再利用のサイクルができていない場所だからです。

・ 魂に当たる部分は、そのまま存在を続けます。中には、魂が空中を浮遊すると考える人もいるようです。しかし、おそらく電磁波や放射線のように存在するのであって、ふらふらと漂っているのではありません。


○レオ=バスカーリア『葉っぱのフレディ』

 子供の童話の中にも、死に関する暗示やアドバイスがあります。以下は、レオ=バスカーリア『葉っぱのフレディ』(島田光雄絵・みらいなな訳・童話屋出版)にあったお話です。なお、レオ=バスカーリア(Leo Buscaglia,Ph.D)は、アメリカの哲学者。

 <大きな木の太い枝に、葉っぱのフレディは生れました。フレディは、兄弟である多くの葉っぱの中にいました。フレディは近くの物知りダニエルから、自分たちが葉っぱだということや季節のことなどを教わります。春が過ぎ、夏が来ました。楽しく過ごしたり、人間のために涼しい木陰を作ったりもしました。秋が来て、葉っぱたちは次々と紅葉します。そして、冬。とうとう葉っぱの生涯は終わり。つまり、死ぬのです。死ぬとは、いったいどういうことなのでしょうか?
 ダニエルはフレディに、こともなげに言いました。「いつかは、誰も死ぬのさ。でも「いのち」は永遠に続くんだよ。」
 フレディは、自分が生きてきた意味について考えるのです。「ぼくは、この世に生まれてきてよかったのだろうか。」
 最後の葉っぱとなったフレディは、やがてひらひらと地面に降って、眠りにつきました。>


 私(黒田康太)はこの作品から、O=ヘンリ『最後の一葉』なども思い出したのです。そして、芸術の落伍者ではあったもののベアマンの一生などにも、何となく思いが馳せるのでした。なぜならば、見方が逆になっているからです。


○身近なケーススタディ=「勝五郎再生記」

 2008年6月に日野市郷土資料館で、非常に興味深いテーマに遭遇しました。
 そして、『多摩のあゆみ第一〇八号 特集 小泉八雲と多摩』(平成14年11月15日発行 財団法人たましん地域文化財団)に北村澄江氏が、
  「勝五郎再生記」−日野市に伝わる不思議な話−
の「一 はじめに」の冒頭に、次のように書かれているのを知りました。

 <「勝五郎再生記」は、文化・文政年間(一八〇四〜一八三〇)に実際に起こった事件で、程久保村(日野市)に生まれ、幼くして亡くなった子ども(藤蔵)が、尾根を超えた反対側の村である中野村(八王子市)の勝五郎に生まれ変わったという不思議な話である。>

 また、この項に関しては日野市郷土資料館の鈴木淳世(すずきすみよ)氏に多くをご教示いただきました。ここにお名前を記して、感謝の意を表わしておきましょう。


 私(黒田康太)はこの「勝五郎再生記」を知って、かねがね考えていることを垣間見たような気がしたのです。そして、少し調べてみようと考えました。つまり、前から考えていたことですが、いわゆる「生まれ変わり」はすべての人にあって、この勝五郎にとくに生じたとは限らないのです。しかし、ほとんどの人が自分自身の生まれ変わりについて記憶がないので、そんなことがあると珍しいことと勘違いをして、事件や話題になるのです。

 例えば、超能力をもっていて予言などをしたり、透視とでもいうのでしょうか、遠方の事件などを言い当てる人がいます。そのような人は、いわゆる生まれ変わりのときに何らかの理由で、そのような能力を失ってしまわずにもって生れたケースなのではないでしょうか。
 また、誰でもが多かれ少なかれ体験するデジャビュ(既視感)の感覚なども、完全に消しきれなかった記憶の断片や一端が残っていて、それをノスタルジャとして何となく感じる現象であると私は考えているのです。


 以下に、先人の残してくれた資料から、いくつかを抜書きしてみましょう。

・ 池田冠山は、中野村谷津入の勝五郎の家を訪れた後で、次のように書き綴っている。

 <去午年十一月の頃、勝五郎、姉ふさとたんぼにて遊びながら、勝五郎、姉に向ひ、兄さんはどこからこつちの内に生れて来たととふ。姉どふして生(うまれ)た先がしれるものかといへば、勝五郎あやしげなる体にて、そんならおまへも生れぬさきの事はしらぬかといふ。姉、てまへはしつているのか。おらアあの程久保の九兵衛さんの子で、勝蔵といつたよ。(『甲子夜話』第二十七)>


・ 小泉八雲は、

<この生まれ変わりの話の審議について議論することはあまり意味のない事であり「前世を思い出すことが出来るかどうかという問題は、追憶するものは何であるかという問題に拠依していることと私は考えている」と述べている>

そうである。


○転生人後のあらまし

 古希を迎えるにあたって、ここのところ私は以前とは異なった考え方になりました。つまり、ひたすらに来世を信じて、思考をしているのです。

 私は、いわゆる「死後の世界」などは信じません。しかし、生死(しょうじ)にかかわらず「気」を考えざるをえないのである。その「気」は、「霊」とは異なる。単に質量のないプラズマ体としての存在である。

 プラズマ(plasma)は、物質の正イオンと電子とが電離をして混ざった状態。また、生物学・医学では「原形質」や「血漿」(けっしょう)のことも単にプラズマと言い、抗体を作る形質細胞のことを「プラズマ細胞」とも言う。そして、プラズマジーン(plasmagene)は、細胞質に存在する遺伝子、つまり核外遺伝子のことである。

 しかし、私が言っているのは宇宙空間を占める割合の大きい正イオンと電子が交じり合って「気」を構成する存在として考えるのです。

○脳の機能=脳とこころ

 人体に寄生をしているような感じの脳。
 もしかしたら、「気」が寄生しているのかもしれない。
 人体を脳が支配をする。その脳を支配しているものは何か。「気」である。


○「意」と「気」と「思」の世界

 「意」というのは、どちらかというと自分から働きかけるもの。それに反して、「気」は自分に働きかけてくるもの。なお、何か事をやりとげようとする積極的な気持ちを一般に「意気」というが、ここではそれとは関係がない。それをここでは「思」と言っている。


○「気」と考えられること

 過去に書かれたものを自分のことではないかと思うこと。常不軽菩薩。
 憑依(ひょうい)は、「頼りや根拠にすること」であるが、「霊がのりうつること」も言う。「悪霊が憑依した」などと言うことがある。


○「意」と考えられること

 何か意義のあることをして、社会に貢献したいなどと思いつくこと。


○「思」と考えられること



○デジャビュと転生



○人身ありがたし



○おわりに

 以上は、あまり科学的な考えではないかもしれない。でも、私が考えていることの事実であり、自分自身にとっては今の時点では、そう信じているのだから仕方がありません。しかし、常識では考えられないことが現実であったことは過去にもありました。また、置かれた場によって異なった価値観が形成されるのは、現代社会においても事実のようです。

 例えば、「一年よりも一日のほうが短い」などと言ったら、非常識だと笑われるでしょう。
 しかし、地球ではありえないことが、水星では現実なのです。公転と自転の関係から、水星ではいわゆる一年より一昼夜のほうが遅いからです。

 アリストテレスのような大学者でさえ、「地球の回りを太陽や惑星が動いている」と考えました。それが、ストレマイオスの「各惑星が回転をしながら、太陽のまわりを回っている」から、後にコペルニクスの「太陽中心説」に発展をしました。
 そして、さらにケプラーがコペルニクスの意見を確実にしたのです。
 そんなことを考えると、現実と異なってもステップを経て、考え方が進歩していくのに時間がかかることがわかります。

 また、ガリレオは望遠鏡で見た事実を述べたために教会と対立して、宗教裁判にかけられたといいます。つまり、事実と異なる常識が当時の基準となっていたからです。
 そのようなことを考えると、宇宙や天体のマクロコスモスではなく、自分自身の中にあるミクロコスモスについて、自分なりに考えておくことにも少しばかりの意義があるのではないでしょうか。


 なかなかまとめにくいテーマなので、中途半端なままにアップロードしています。考えをまとめる前に、忘れないためである。したがって、脈絡のない記述が含まれているが、少しずつ内容について完成をさせていきたいと思う。


Kuroda Kouta (2007.02.14/2008.07.15)