総トップページにジャンプ


○ムウのアルカナ


 「ムウのアルカナのあらまし」について、基本的なことを箇条書きで述べておきましょう。
 ここで私が対象とする問題は、世間では「超常現象」「特異現象」などと言われている分野と似ていますので、誤解をしないでください。ちょっと、「超心理学」と言ってもようような扱い方だからです。
 その対象は、いまだに物理学や医学などでは説明がつきにくい現象(というよりか事実)などです。そして、その現象とは大きく三つのテーマに分けられるでしょう。つまり、

(1) ふつうの感覚器官や常識を超えた体験や考え方。例えば、予知能力などです。
(2) 死後の問題。死後の世界があるなどとは考えませんが、エネルギーであるヒトの意識が残ってしまうのではないか。
(3) 本能的に「邪悪なもの」が身の回りに存在するのではないか。

などについて真剣に考え、下記のような問題を取り上げています。
 しかし、そのアプローチの仕方について問題があるかもしれません。なぜならば、それらを科学的に証明しようとすることなしに、自分なりに直感で納得がいけばよいと考えるからです。
 そして、「本来ならばあったであろうがすでに失われてしまった」人間の「未知能力」を再発見しようという試みも、そこではなされているでしょう。
 くれぐれも、誤解のないようにお願いします。

(注) テレビなどで行われる番組は、一種のエンターテイメントであって「片手落ち」の場合があったり、「やらせ」があったりします。したがって、そのようなことと私とは、いっさい関係がありません。また、今までにそのようなことを言って問題になった人たちも多くいるようです。とくに、政治や宗教、そしてこの種の発言には注意をすべきかもしれませんが、……

 例えば、東京帝国大学の福来友吉(ふくらい ともきち)教授が、かつて明治時代に超心理学をテーマにした実験を学会に発表しました。そして、激しい非難を受けて大学を追放されてしまったということです。後に起こった京都帝国大学の河上肇(かわかみ はじめ)教授の場合と一連の内容は異なっていても、結果としては同じような事象をかもしだしました。
 もっとすごいのは、東京帝国大学のキムタカ(木村鷹太郎)です。なぜならば、日本の歴史を自分の都合のよいように作りかえてしまったからです。その驚くべき内容は、「日本人を世界のどの国の人よりも偉大である」としたことです。

 また、私の知人はキリスト教の大学で教授をしていました。しかし、イエスの「存在や行動に疑問」を投げかけた研究論文を発表したのです。その結果、大学を辞めさせられてしまって、仕方なく文筆業を細々としていました。住所を転々としているらしく私書箱を使っていましたが、もはや所在がわからなくなって、現在はどうしているのかわかりません。
 さらにまた、「霊の存在」について真面目に述べていた宜保(ぎぼ)さんという女性に、まるっこい早稲田の先生がバカバカしい言いがかりをつけているテレビを見たことがあります。大学の教授が真剣な顔で怪しげな「やらせ」に登場していたので、幼稚な番組だと思って見るのをやめたことがあります。

 つまり、このページには現代の常識をはるかに越えることが記述されているでしょう。いわば、常識はずれなのです。それが、ドン・キホーテのように一部分だけの対象ならばよいのですが、生存すべてについて考えているのです。あたかも、現代の社会で行われている教育によって、人類の理性が撓(たわ)められているといわんばかりです。
 そしてそれは、幼児教育、さらには学校教育によるのではないかと考えます。なぜならば、教育を受けなかった子どものことなどを考慮したからです。

(注) 教育を受けなかった子どもの例として、フランスのアヴェロンで発見された野生児のことを医師が記録した論文などを参考にしました。なぜならば、そのような事象は世界にも少ないからです。とくに教育を受けなくても、かなり健康に育つということです。もっとも、価値観や人生観は独特の形に育成されるようですが。
 インドで発見されたカマラとアマラの姉妹は、狼によって育てられました。そんなわけで、いうなればそれなりに「狼の教育」を受けていたので、あまり参考にはなりません。
 畢竟結論だけを言いますと、現代における教育制度の一部には、「間違った情報を幼少時に脳にプリント」してしまうような誤ったとしかいえない傾向があるということです。

 ドン・キホーテでは現実と物語の区別がつかなくなることがあります。
 すべては脳が考えることですから、どの部分から現実であるかなどはわからないのです。後になって客観的に考えて、初めてわかることさえ世の中には多いからです。やっているときには、それが正しいと考えていることがふつうでしょう。
 江戸時代に芝居を見ていた武士が、突然に舞台に駆け上がって悪役の役者を刀で斬り殺したという事実があります。あまりにも憎々(にくにく)しげな役者の演技に我慢ができないほど、自分自身を失っていたのでしょう。

空間と時間は、便宜的なものである。
 銀河系の何万光年という悠久の長さから、CPUの処理速度であるナノセカンドのような単位も、仮に作った基準である。その証拠に、二人の人がいて同じ物でも大きく感じたり小さく感じることがあるからです。そして、同様に同じ時間でも長く感じたり短く感じる場合があります。
 もっとも、別の人でなくても時間が異なれば空間にある物体の感じ方が異なるし、空間が異なれば時間の感覚が違ってきます。社会の通念として物理的に決めたことは、必ずしもすべての人に同じ効果を与えるとは限らないようです。

・ 私たちは、二つの世界に住んでいる。直接に知覚できる空間と、そうでない空間です。

(注) これらのこと(空間と時間・二つの世界)に関しては、金剛般若経にも示唆が及ぶ記述がありました。例えば、人間一人一人の毛穴の中にまで、無数の仏さまが在(ましま)すなどと言うことです。また、同じ時間に別の場所に存在ができるというような現代の物理学とは異なる論理で宇宙を捉(とら)えているようです。

 目や耳のことを考えてください。その構造は、誰がどのようにして設計をしたか私にはわかりませんが、素晴らしいものです。しかし、それでも私たちに「見える物体」と「聞こえる音」の世界は。つまり、可視光線や可聴周波数は、限られた狭い世界です。そしてそれ以外の認識は、私たちの感覚器官では不可能ではないでしょうか。
 あたかも鶏小屋に飼育されているニワトリのように、自分自身が何のために生きているのかがわからないことがあります。しかし、それではいけません。可愛がって育ててくれるカーネルおじさんが、単に自分たちをフライドチキンにするだけが目的であっては、私たちは困るのです。

管理空間に置かれている。
 二つの世界ですが、その一つが「管理されている社会」という空間です。むしろ、「支配をされている社会」と言ったほうがよいでしょうか。そして、それがそこに置かれている自分自身にわかっていないのです。
 鶏小屋で飼育されているニワトリもそうですが、何ものかが自分を飼育しているようにも思えます。また、サムシング・グレートのような存在が曖昧模糊(あいまいもこ)としているものに支配されているのかもしれません。
 何となく感じることなのですが、例えばメールの内容などをすべて知られているが、自分にはそのことがわかっていないのではないでしょうか。むしろ、隠されていて知らされていないと言ったほうがよいかもしれません。

 ゲームをするときなどにも、そんな疑念が生じます。
 脳の活性化、つまりボケ防止に始めたソリティアと麻雀ですが、その配られたカードや配牌(はいぱい)について妙な疑問が生じることがあるのです。数多くやっていると、同じパターンが以前にあったのではないかという錯覚です。ちょっと、デジャビュ(デジャブ・既視感)と似た感じかもしれません。それは、あらかじめ作られたプランによって進められていて、もともとの進行とは異なっています。

 しかし、その仮想空間は実際のゲームなどより臨場感があるのです。そして、実際に大げさに言うと「運命に翻弄されている」感じを受けてしまいます。いくら組み込んであると言っても、私が「切るカード」や「捨てる牌」などは、前もって決めておくことができないでしょう。


 そう言えば、既視感(フランス語で、デジャビュまたはデジャブ)という感覚も、私たちには理解しにくい不思議なものです。それは自分が、まだ一度も経験をしたことがないのに、以前に経験をしたことがあるように感じることです。ふっと、いつかどこかで「こんなことがあった」と思う。また、初めての土地でも「ここへ来た」などと思うことがある。私も、最近になって、とくにそのようなことが増えました。

 『徒然草』第七十一段後半にも、

 <またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。>

という記述がありました。


 同じことを別な方式で行っても、気がつかないことがあります。
 例えば、四捨五入です。「13.7」の場合で考えてみましょう。
 私たちは、末尾の「7」が「5」よりも大きいから、繰り上げて「14」とします。つまり、「4より小さければ切り捨て」をして「5より大きければ切り上げ」をします。「四捨五入」と言うゆえんです。
 しかし、実際にプログラムの中ではそのような判断をしていません。
 単に「0.5」を加えて、小数点以下を除いているだけなのです。
 何が言いたいかというと、別の方式を用いても差し支えないことがあるということです。

 しかし、言葉の受け取り方によって錯覚をするのです。
 例えば、牛乳瓶です。
 私は学校を卒業して、製紙会社に入りました。そこの新入社員教育で、「牛乳瓶は近い将来、紙になる。」と聞きました。昭和39年(1964年)のことです。私は、「そんなことがあるのだろうか?」と思いました。「ガラスが紙になる」ということの意味がわからなかったからです。
 もしも、「牛乳瓶などのガラス容器は、紙製のパックに置きかわります。」と言われたら、容易に理解ができたでしょう。

 そんなように、私たちは勘違いと錯覚をしているのです。
 人工甘み料や化学薬品などの食品添加などについても、そのようなことが言えます。つまり、日常的に舌や味覚を欺いているのです。なぜそんなことが行われるかと言うと、特定の人や企業の利益になるからです。もしも、大きな利益があると多くの人を根底から欺く場合があるかもしれません。
 いきおい、ふつうの人たちは「養鶏場のニワトリ」のような立場に置かれて、それになかなか気付かないのです。

・ 常識になっていることで、未知のこともある。
 例えば、地球の中心と死後の世界。
 科学や物理、そして医学の常識では、地球は地表・地殻・マントル・核の多重構造で構成され、また生命は脳が機能しなくなったら終わってしまうと考える。しかし、地球の中心に行ったことのある人はいないし、また死後の世界から戻った人もいない。
 もしかしたら、地球の内部が空洞になっているかもしれないし、また脳が焼かれても感覚だけは残るかもしれない。
 思考や感覚は脳でなされるというが、もしかしたら血液がそれを担っているのでなないだろうか。
 過去の歴史でも、それまでの常識がくつがえされたことがある。

(注) 天動説が通念として広まる以前には、誰もが地動説を常識と考えました。
 また、引力などを知らないときは、地球の裏側の人がなぜ落ちないかとも真剣に考えたようです。それこそ杞憂だったのですが、知らないことは事実と異なる現象と考えたのです。
 そこで、もしも地球が空洞になっていて、その空間では私たちと逆に立っていて、頭が地球の中心に向かっているなどと考えたら何とも奇妙なことと思われるかもしれません。地球の自転があるために遠心力でそうなるのですが、考え方に馴染(なじ)むまでは不可解に思うでしょう。何事も社会の一般通念になるまでは、納得しがたいことのようです。

アンバランスな社会に住んでいる。
 私たちは、何ともアンバランスな社会に住んでいるのです。
 確かに、科学技術が進歩して素晴らしい恩恵にあずかっています。宇宙開発や医学、そしてコンピュータ技術などは考えられないほどに発達をしました。しかし、人間の中身はそれほど進歩をしていないようです。
 例えば、政治について考えてください。選挙のときに有利なのは知名度の高いタレントや有名人です。有権者は、彼らに政治を任せると理想的な結果になるなどと真剣に考えて投票所に行くでしょうか? アメリカなどでも同じようです。

 現代の技術が進んでいるのは、それぞれの分野で努力をしたり、傑出した人がいるからです。そのような人は、一部分だけが特価(とつか)した人間のことが多いようです。つまり、現代社会の部品として活躍をしているのです。
 それに比べて、立候補をして政治を分担しようとする人たちは、ちょっと超プロとは言えない人が多いのではないでしょうか。

温故知新。つまり、過去を知って、現在を行う。
 日本の文化や科学技術が今日あるのは、多くを学んだからです。
 遣隋使・遣唐使、明治時代の西洋文明の取り入れ、そして戦後GHQ支配の時代にイミテーションなどをしたからです。そのような模倣から、独自の技術が育まれたのです。
 もともと「学ぶ」ということは「真似る」ことからきたといいます。

・ 博覧強記であるよりも、考えることのほうが大切。
 日本の教育は、どちらかというと「知る」ことに重きを置くようです。しかし、知識を応用するためにも、むしろ「考える」ことのほうが大切なのではないでしょうか。バーナード=ショーの言葉ではありませんが、「多く知るよりも、少し考える」ことが必要なのです。
 複雑化をしていく現代社会においては、「研ぎすました直感で正しく判断ができる」というような人格の育成が、幼少のころからの教育や学校教育でも必要ではないでしょうか。

・ 本来の直感を大切にする。
 歴史や過去を調べても、実際にあったこととは異なっていることがふつうです。書物なども、数回にわたって書き直されている場合があるでしょう。「仏典」や「聖書」でさえも、当初の記述内容から大きく変わってしまったようです。

(注) 井上靖(いのうえ やすし)という作家は、「敦煌」(第三集)というドキュメンタリー番組の中で「正史に乗っていないことは推理・推測で知るしかない」と言っていました。
 しかし、私(黒田康太)は「正史でさえも、その真実は直感で知る必要がある」と考えます。


 ここでは、直感で考えて正しいと思うことを証明などなしに記述します。しかし、いいけげんなことを言っているわけではありません。私なりに自信があるのですが、そうは言っても「無責任である」と言われかねないことも承知です。

目次の部分(このページの内容)に戻る


○はじめに=「ムウのアルカナページ」とは何か?

 この「ムウのアルカナ」ページには、科学や学問、そして宗教や思想などと無関係に、私が思いついたことを記述しようと思います。中には、現代の常識から考えると荒唐無稽で、支離滅裂のような内容があるかもしれません。
 ここで言う「ムウ」とは「無有」のことです。また、「アルカナ」とは単に「あるかないか?」という疑問の意味です。つまり、自分自身でも「何となくそう思う」とか「そうでないか?」などという程度で、科学的に実証されたことではなく、むしろ直感で得たことのほうが多いでしょう。

 歴史を振り返ってみるまでもなく、無意味なことで右往左往したり、力関係に右顧左眄(うこさべん)するのが、人間の習いのような気がします。ここでは、そのような価値判断とは異なる態度で、物事の真理を見いだそうと思います。しかし、あまりにも真剣にそのことを目指すと価値観が異なってしまい、いわゆるドン=キホーテになってしまうこともあるでしょう。ふつうの常識がありながら、ある一面では狂人(きょうじん)の有り様を呈してしまうのです。
 しかし、「そんなことがあるはずがない」と言ってしまえば、すべてそれまででしょう。たとえ奇人・変人と言われても、自分なりに人生を見極めたいものです。

 学研が出している「ムー」という月刊雑誌があります。おそらく、プラトンの書き残した「ムー大陸」に因(ちな)んだ命名ではないでしょうか。各号ともに、非常に興味深い記事が多く、今までの認識を新たにしたり、改めて教えられることが多い内容です。
 このページは、その内容にちょっと似ているかもしれません。しかし、アプローチの方法はまったく異なります。一般誌とは異なって、ここでは科学的な根拠を求めていないからです。

 ちょっと無責任であるかもしれません。
 自分自身の考えを「思いついた」ときに「徒然(つれづれ)なるままに」記したにすぎません。
 私は、一般誌にあるような「死後の世界」などを考えません。まして、丹波哲郎さんの言うような仮想空間なども信じません。
 そうではなくて、「生物は死んでも感覚が残る」のではないかということを真面目に危惧(きぐ)しているのです。つまり、自分が死んで焼かれるときにも「感覚だけが残っている」のではないか。それが、単に私だけの杞憂(きゆう)であればよいのですが、……

 「人間がまだ知り得ない」ことは、「すでに知った」ことと比較をすると、比べものにならないほど、さらに言うと無限に近いほど多いのではないでしょうか。近年になって科学技術や医学が発達して、驚くほどのことがわかってきました。しかし、その根底のことはなかなかわからないようです。
 つまり、例えば「なぜ自分がここにいるか?」などという疑問についてです。さらに言うと、虫、例えば「ゴキブリはなぜゴキブリに生まれなければならなかったか」などというようなことです。

 ラテン語に「arcanum」という言葉があって、「神秘」とか「秘密」を意味します。その複数形が「arcana」(アルカナ)ですが、このページには、とくに秘密というような内容はありません。そして、この「アルカナ」はスエーデンボルグの記述にしばしば出てくる言葉です。しかし、このページではそんな意味深長の内容ではありません。
 ただ、前述のようにここには常識的ではない内容が多いので、実際にそれが「あるかないか?」と自分自身でも考えてしまい、さらにそのことが「事実かどうか?」などと悩んでしまうのです。
 そんな意味で、誤解のないようにお願いいたします。


Kuroda Kouta (2007.02.14/2007.08.15)