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○メトナイト派の人たち=一つの生き方


 前にアモン派(アーミッシュ)について書いたことがあるが、このメトナイト派もキリスト教の流れの一分派であるらしい。私はキリスト教というか、むしろ宗教全体について疎(うと)い。そもそも、「何のために何をしているか」が、よくわからないのである。
 そうは言っても、メトナイト派の人たちのやっていることや考えていることには、大いに関心をもっている。ちょっとばかり、私の人生の基本方針と似たところがあるからです。そんなわけで、ここに知っているわずかの知識を忘れないうちに記しておきましょう。

 私は、現代のこの社会に生かされていて、何とも幸福だと思っています。
 高度に進んだ科学技術の恩恵を生活の中で受けたり、驚異的に発達をした医学の治療などを受けられるからです。また、身の回りに平和な社会が続いて、日々年金生活者として楽しく生活できるからでもありましょう。
 「メトナイト」という意味が「自分は幸福と思う」ということを知らされて、びっくりしました。
 まったく、そんな意味では私も「メトナイト」なのです。

 彼らは集団で、メキシコ(カプリンというところらしい)から、ボリビアに移ったといいます。
 メキシコは北アメリカの南端部にあって、ボリビアは南アメリカの中央南太平洋側にあります。でも、パナマ運河を通って移動したのかどうかについては、まったく私は知りません。
 その地では、テレビやラジオも使わないということです。個人では使用しないということなので、集会場などにはあるのかもしれません。つまり、電気の供給を受けていないのです。
 そして、音楽なども禁止をしているそうです。

 病院で行う手術のときの心電計などの装置や教会で行うミサの賛美歌などは、いったいどうなっているのでしょうか。おそらく自家発電装置があったり、一部の音楽を例外にしたりして、文明化とのジレンマが生じているようです。
 いまだに、400年前の低地ドイツ語を用いています。それは、メキシコに移るさらに以前に彼らがいた場所の言葉です。他の社会とは、接触があまりありません。週に一回、街にチーズを売りに行って、生活用品を買うだけだからです。

 彼らの中には、自分の名前しか書けない文盲(もんもう)の人が多いと言うことです。
 音楽のほかにも、スポーツなども禁止されています。おそらく、戦うことを嫌っているからではないでしょうか。そのあたりが、私(黒田康太)にとって、さらに知りたいところなのですが、……
 もっとも、子どもの遊戯はあるみたい。例えば、「駆けっこ」や「鬼ごっこ」などです。でも私が考えるに、それは「身体を発達させる運動」を行うとともに「闘争心の芽生え」させるのではないでしょうか。

 「日曜日には、働いてはいけない」そうです。安息日を厳密に守っているのでしょう。
 しかし、現代において安息日を完全に守るということは、何となく杓子定規(しゃくしじょうぎ)の感がないでもありません。なぜならば、聖書に書いてある時代の労働と現代の労働では、状況が大きく異なってきているからです。
 休養は疲労した身体を回復させたり、静かに神に祈りを捧げたり、自分自身を反省するために必要でしょう。そして、そのような必要性についても、個人差が大きいものではないでしょうか。

 しかし、メトナイト派の人たちの学校では教育方針についても他とは異なっていて、「歴史」「地理」「科学」「スペイン語」なども教えないそうです。スペイン語は、彼らが住んでいる国のいわゆる「国語」です。そして、「国語」を教えないということは、何となく治外法権の感じが否めません。
 最近になってメトナイト派の人たちは、幼い子まで酒を飲むようになったといいます。
 そのような事実や考え方についても、私は大いに感じることがあります。
 なぜならば、近代における「教育制度」、つまり「教育」そのものが社会の矛盾をもたらしているのではないかと、かねがね考えているからです。

 最初のほうに「「メトナイト」という意味が「自分は幸福と思う」ということを知らされて、びっくりしました」と書きました。これは、自分自身の価値観を変えてしまうということではないでしょうか? なぜならば、私も価値観を変えて幸福になったからです。
 しかし、これには問題もあるでしょう。
 『方丈記』にながあきらが書き残したようには、万人が考えないからです。
 ここで、ちょっと屁理屈のような理論を考えてみましょう。

 例えば、「金持ち」と「貧乏」の定義です。
 仮に、「百万円」以上を持っている人を「金持ち」とするとしましょう。すると、50万円しかもっていない人は「貧乏」になります。しかし、もしも定義そのものを改めて「一万円」以上持っている人を「金持ち」としたらどうでしょうか。同じ対象の人が、一挙に金持ちになってしまいます。
 そのように、「定義」というか「考え方」の問題なのです。
 河上肇(かわかみ はじめ)の『貧乏論』には、わかりやすい説明が書かれていました。

 もともと、「幸福」とか「健康」などという抽象名詞に対しては、個人によって感じ方が違います。つまり、千差万別なのです。例えば、財産などが少なくても幸福な人がいますし、多く持っていても不幸な人がいるからです。「価値観」や「人生観」にはかなりの個人差があって、それぞれに異なっているのです。
 それを一律にしようというのは、教育や生活習慣の結果です。
 また、そのようなことを一律に認識させるためには、教団の内部でも考え方に関する指導(洗脳ともいえる場合がある。)を行っているのではないでしょうか。
 どうも、よくわからないことです。


Kuroda Kouta (2007.02.14/2007.04.22)