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○教育に関する仮説=銃乱射事件の背景と本質


 「学校における集団教育が諸悪の根源」などと言ったら、狂人ではないかと思われます。
 狂人とまではいかないでも、そんなことを言うと「非常識な奴(やつ)」とみなされ、謗(そし)られて誰も相手にしてくれないでしょう。それ(現在の学校教育)が、当然のことになってしまっているからです。
 自分が真剣であっても、他人から見ると狂っているのでしょう。
 そして、あたかもドン・キホーテのように失敗を繰り返すのです。しかし、ドン・キホーテにも経緯(いきさつ)や言い分はあるでしょう。それが、他の人には理解ができなかったのです。したがって、ドン・キホーテが真剣になればなるほど、自体は滑稽な顛末になるのです。そんなことが、よくあります。

 例えば、私たちが時速10万キロメートルで移動をしていると言っても、誰も信じないでしょう。
 それは、時速100キロメートルの1000倍の速さですから、かなり高速ということです。そして、それが非常識の意見だから疑われるのです。私たちが静かに座っているときなど、風の音さえもしません。しかし、考えてみれば、実際に地球自体が「時速10万キロメートルで走っている」のです。そして、その上に私たち50億の人間が乗っているのも事実です。

 そのように当然のことを言うと、それがかえっておかしな考え方になってしまいます。
 なぜならば、時速10万キロメートルで動いていても、振り落とされたりしないからです。そんな意味で、ここでは教育に関する問題を「非常識な試論」とする「仮説」として述べてみましょう。

 つい先日(2007年4月)に、アメリカのバージニア工科大で、銃乱射事件がありました。
 チョ=スンヒ容疑者(23歳)は32名を殺し、その後で自ら銃で自殺をしました。容疑者の家族は事件後に声明を発表し、「表現出来ない行動への深い謝罪」を表明したのです。
 一家は無力感や喪失感に襲われている中で、容疑者の姉が家族を代表して発表をしていました。
 その声明には、考えさせられることがあります。

 <一緒に育って、愛してきた弟だった。しかし、今は「見知らぬ人物」のようだ。弟は、おとなしく静かで控えめな性格だった。こんな暴力事件を起こすとは、今までに考えたこともなかった。>

 そして、犠牲者32名をすべて列挙して、「家族は犠牲者と遺族に祈りを捧げている。」と詫びたのです。
 さらに、姉は「家族も事件に関連して疑問を多く抱えている」と吐露(とろ)してました。容疑者の父母はクリーニング業を営んでいて、姉はプリンストン大学の卒業生。

 私(黒田康太)は、「なぜこのような事件が起こったか?」が何となくわかる。
 そこで、社会が冒(おか)している根本的な誤謬について述べよう。
 ただし、バージニア工科大の事件は発生をして一週間も経っていないので、それをどうこう言うことは差し控えたい。日本でも同じような事件があるが、それに関しても差し障りがあるので、ちょっと言いにくい。
 そこで、やはり数年前に発生をしたアメリカのコロバイン高校の銃乱射事件を考えてみる。

 この事件は、1999年4月にコロラド州デンヴァー郊外にあるコロバイン高校で起きた。
 高校生二人が学校で銃を乱射して、生徒12人と教師1人を殺害して、自殺を図った。
 やはり、心理的なスレッショルドとか閾値(しきいち)と言うのであろうか、それを超えたときに「人が突然に変わる」というパターンである。人間の疎外感とでもいうのであろうか。
 いわゆる「虐(いじ)め」というのは、「集団の内部で、強い立場にあるものが弱い立場にあるものを肉体的・精神的に苦しめる」こと。日々日常茶飯事のように起こっている陰湿な行動である。犯人となった二人の生徒は、長い間クラスで虐めにあって、ついに犯行を計画・実行した。

 「俺たちをコケにした奴を殺す。」……これが二人の結論であり、言い分であった。
 「虐めるほう」と「虐められるほう」の立場が逆転をしたときの恐ろしさは、第二次大戦のドイツなどを考えたらわかりそうなものです。
 ここで、私は愛人のオチンチンを切り取って逃走をした阿部定(あべ さだ)の調書を思い出す。
 そこには、「こういうことは誰でも考えることです。しかし、誰もしないだけ。」とあります。しかし、阿部定は実際に行ったので事件になったのでしょう。銃の乱射についても、虐められた被害者は考えることでしょう。しかし、実際に事件になるのはごく一部の場合です。

 人間の心は、微妙なものです。どこで、何を実行をするかが問題なのです。また、実行をせずに何か他の対象に昇華をすることもあるでしょう。しかし、日々悶々とした結果、事件を引き起こすケースが非常に多くあります。「こんなことをする人でないと思った」とか「こんな事件になるとは、想像すらだにしなかった」などと後で言うのは、不注意な極みで、愚かなことでしょう。
 さらに、「もっと早く気付くべきだった」と言うのは、もはや怠慢の表れではなかろうか。

 人間の心が、外から見たくらいでは理解できない状態であるという事実などは、夏目漱石の『こころ』などにも書かれている。どのような形で発露するかが問題なのです。

 集団生活が危険を孕(はら)んでいるのは、当然のことです。
 学校の中はむろんのこと、軍隊や宗教教団、各種のサークル、そして刑務所の中まで同じでしょう。なぜならば、人は個人によって考え方が異なっているからです。
 過去に、(サムシング・グレートによって)民衆を「宗教で支配」をした時代がありました。そして、それがもはや不可能になったので「科学・教育で支配」をする時代になったのです。しかし、そのことに気付いている人は少ないでしょう。あたかも、牧場に飼われている牛たちが、その目的を知らないように……

 戦後、GHQ支配の時代に日本は完全に洗脳をされてしまいました。
 その元凶(げんきょう)は、新しい学校教育。とくに、義務教育には問題があるようです。なぜ、その問題を「誰も問題としない」のであろうか。問題を考える人が、「問題を問題としない」ように無責任な考えをするようになったからだろう。
 これは、もはや自己家畜化 といえる現象であろう。

 私は、「私たちが人間関係を考えると、互いに危険きわまりない場所に置かれている」と思う。
 戦争や小競り合い(こぜりあい)が起こるのが当然。組織で動くと、「考えることの欠如」による犯罪の増加も必然です。つまり、集団教育が諸悪の元凶(げんきょう)になっていることが多い。そして、それを今までには迂闊(うかつ)にも、逆に考えていたことに問題があろう。
 すべての人間を「わずかな人が一律に教育」するのは、そもそもムリ。そのことに、気付くべきである。一人の生徒に対して、少なくとも20人くらいの先生が付くのが好ましい。しかし、そんなことはよほどの富豪か、皇室関係者でもなければ、まずできない。

 そこで、教育では「内にある怒りを抑える技能」を教える必要がある。それができなければ、教育をやめたほうがよい。また、幼稚園以前の教育や躾(しつけ)も大切である。その辺の全体的な見直しの必要な時代になっているのではないか。そうしないと、「ふつうの生徒が、ある日突然に殺人犯になる」パターンが増えてしまうからです。銃乱射事件などの無差別殺人の狂気、しかし私に言わせれば「それはなるべくしてなった」こと。
 歯止めの効かなくなる心の葛藤や衝動。それが、愚かな日々の繰り返しから起こらないような教育であって欲しい。行き着くところまで行ってはいけない。ルール違反をしてはいけない。プロレスの試合、リングで殺人事件が起こらないのは、互いに歯止めを守っているからでしょう。


Kuroda Kouta (2007.02.14/2007.05.05)