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  神の概念(神・仏・巨人・竜人・魔・霊など)


○はじめに
○原始時代の神
○神を恐れる=無限遠点の神
○有限の身でもって無限の空間を考える
○子どもが恐れるもの
○有限の身でもって無限の空間を考える
○なぜ日本には神社仏閣が至るところにあるか?
○人間の神=『洟をたらした神』
○自然と神=『美しき天然』
○神らしき存在=『竹取物語』
○日本の神と神話=『古事記』
○『古事記』の神
○おおらかなセックス問答
○そもそもの摩羅(まら)
○摩羅について(オチンチンについて)
○摩羅のデザインは神聖なもの
○摩羅と擬宝珠(ぎぼし)
○神社にも祀られる形
○蝮地蔵尊の暗喩
○恥ずかしいもの
○女陰(ほと)について
○性器崇拝
○性器の暗喩
○摩羅・金玉・ペニス
○三大天使(ガブリエル・ミカエル・ラファエル)
○メタトロン(『エノク書』の著者)
○『エノク書』について
○バール
○悪魔と幽霊
○七つの大罪
○霊
○直感と推理
○あの世の物語
○この世とあの世
○天国と地獄
○天国の種類と状態(エノク書による)
○墓と仏壇
○仏について
○神仏同体説
○「神仏習合」と「神仏分離令」
○寺院仏閣の意味
○「鎌倉の大仏・大安売り」=『ベルツの日記』
○神教の自由
○法華経と般若心経
○イエス=キリスト
○釈迦とイエス=キリスト
○釈迦の子とイエスの子
○新興宗教
○おもくじ
○夢と眠り
○眠りと死
○死を考える
○意識と無意識
○預言者・予言者
○ノストラダムスの予言
○ジュセリーノの予言
○予言と時間
○「聖書の暗号」と「聖書の予言」
○巨人族
○聖徳太子と不動尊
○『ミクロメガス』……身長30キロメートルのシリウス星人
○ゴリアテとダビデ
○ギルガメッシュとライオン
○巨人伝説
○奇想天外入門
○あるものをないと信ずる愚・ないものをあると信ずる愚
○シーラカンスとツチノコ
○プラトンと平田篤胤
○幽冥界に行った話
○時間と空間
○運命論・宿命論
○地球外知的生命体
○サムシング・グレートとフィアフル魔亜尊
○神について試論としての私論=超知的生命体と人間=FM


○はじめに

 神や仏と言うと、バカにする人がいます。
 さらに、それが巨人や竜人に関係があるなどと言うと驚く人がいるでしょう。そして、悪魔や幽霊などを言うと、もはや誰も相手にしなくなるかもしれません。
 しかし、いくら科学が進歩しても、まだまだわからないことが多くあるのはなぜでしょうか。なぜか、「苦しいときの神頼み」などと言ったり、「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」などと唱えて、神や仏を頼りにすることがあるからです。実は私も、その一人なんですが、……。

 神や仏と言っても、ここでは神学などをしようというのではありません。また、巨人や竜人も伝説を調べようというのではない。まして、悪魔や幽霊などは何となく非科学的です。
 そこで、私が平素から感じたことをここにメモしておくにとどめます。したがって学問的としては間違った考え方があるでしょう。それは、おいおい直していくことにしましょう。

 私は考え方が単純ですから、いままで「神は、心の中にまします」と考え、「仏は実在した人物の教えから出た概念」と考えてきました。しかし、ヨーロッパの神々はちょっと違うのではないかと、最近になって改めて考え始めた次第です。

 本来ならば、このページの内容は「安心立命のページ」に記述しなければならないことです。しかし、別な角度から考え方をここに改めて明確にしておきたいのです。
 また、実際には他のタイトルのページにカテゴライズしなければならない記述がここにある場合があります。しかし、それは単に私が「神・仏・……」という概念によって思いついたということにすぎません。
 そして、このページが今後も書き足していこうという形式のメモであることも、ご了承ください。

 なお、文の責任を明確にするために、「私」という語が前後の関係で詳(つまび)らかでない場合には、私のあとにかっこを付けて、私の名前を補った。「私(黒田康太)」のようにしました。
 また、読みにくい漢字などにも「振り仮名」を付けた。そのときも、漢字の後にかっこで補う。例えば、「漢字(かんじ)」のように。しかし、引用した原文にない振り仮名を私の責任で「現代仮名遣いで補った箇所」があるので、注意をしていただきたい。
 このページにある記述をさらに引用するとき、つまり「孫引き」をするときには、確認のために原文に当たっていただきたい。


○原始時代の神

 まだ科学が発達していなかった時代には、直感で物事を感じたようです。そして、そのころは神が巨人であったのかもしれません。恐れを生じることは、その相手を偉大なものと判断するからです。下の図は、原始時代の土器と言われ、ヨーロッパの土地から出土したものです。しかし、何を意味しているかは学者の間でも意見が異なっているそうです。





○神を恐れる=無限遠点の神

 ちょっと困ったことがあると、「神頼み」などという言葉が出てきます。そんな意味で、「神」と言うと誤解があるかもしれません。本当は、「私の心の中の神」とでも言わないとダメかもしれません。なぜならば、神ご自体について各自が異なったイメージを持っているからです。
 しかし、日本では古来から神を恐れてきました。しかし、時代が下るにしたがって、神を恐れなくなります。そんなわけで、室町時代になってからでも、それを戒めています。

 <天地(あめつち)の中にみちたる草木(くさき)まで 神の姿と見つつ恐れよ>

 吉田兼邦(よしだかねくに)の作品です。生没年は不詳ですが、室町時代後期の人ということがわかっています。神道家で、歌人だった。そして、著書に『神道百歌抄』『神祇正宗』があります。
 上の短歌の意味は、

 「この世のすべてにあるもの、人間や動物以外の草木にまで、神が宿っている。人は神を意識して、謙虚な心で生きていかなければならない。」

という意味でしょう。
 当時すでに神を忘れてしまったり、バカにする人に対するアドバイスなのです。


○子どもが恐れるもの

 子どもが恐れるものは、いったい何でしょうか?
 幼い子どもは、悪魔や暗闇、さらにお化けや鬼などを恐れるでしょう。イーデン=フィルポッツの小説『闇からの声』には、そのような痛ましい光景が描かれていました。

 それでは、大人は何を恐れるのでしょうか?
 ふつうの大人は、幽霊や悪魔などをバカにします。そして、その存在すら疑っている人がいるようです。大人のいちばん恐れることは、ふつう「自尊心を傷つけられること」なのです。


○有限の身でもって無限の空間を考える

 『荘子』だったと思うが、「有限の身でもって、無限を考えるのは危うい」というような記述があった。まったく、その通りだと思う。いくら考えても、正解が求まらないのである。したがって、ある程度は直感で感じなければならない。
 デニケンではないが、自分自身で一つの宇宙観を作り、それを体系化してゆかなければならない。その場合には、世間の常識や学問の結果などは、あまり関係がないであろう。常識が大きく変化してきたことや学問の評価などがまったく反転したことも多いからである。デニケンは考えを進めていくうちに、カソリックをやめたという。つまり、旧約聖書などに書いてあることに対して、自分の考えが相容れない異論であったからであろう。また、なぜデニケンの意見に魅力を感じるのであろうか。
 おそらく、それは多くの人が「権威への不信感」や「既成社会の矛盾」などを本能的に感じるからではないか。

 私は、UFOやピラミッドについてデニケンの考え方とまったく同じではない。しかし、やはりデニケンのように多くの疑問を感じて、一つの宇宙観を自分なりに少しずつ築き上げてきた。そして、現在行われている人間の思いあがりについて、まったくいたたまれないような気持ちになったのである。
 人類の科学が万全と考えるのは、夜郎自大の嫌いがあるのではないか。もしも、レベルの高い異次元人がいたり、また高度な知能の生命体がいたら、どう考えるのであろうか。ちょうど、私たちがウイルスのような存在を考えるのと同様に、彼らも私たちを考えるのではないだろうか。


○なぜ日本には神社仏閣が至るところにあるか?

 神社がたくさんあるのは、なぜだろうか。
 元来、神社は「魔から逃れる場所」であった。ヨーロッパ中世の教会や修道院が、やはりそうであったように。しかし、近年になって「魔」や「霊」などを信じるものが少なくなってしまった。
 「悪魔祓い」などという儀式は、近代的な生活には必要がないのかもしれない。

 神社に行くと、気持ちが引き締まるのはなぜだろうか。また、寺院に行くと気持ちが和むのはなぜだろうか。それは、歴史の長い間、そこで癒されていたという情報が、遺伝子に組み込まれているからかもしれない。


○人間の神=『洟をたらした神』

 吉野せいの作品に『洟をたらした神』があります。ものすごく迫力のある内容で、読んでいても気が引き締められる思いをしました。
 貧しい子どもが、自分で木を削って独楽(こま)を作るのですが、おそらくその母親でしょうか、その所作と真剣な表情を見ていて、子に「神が宿っている」と感じるのです。
 つまり、神の姿には関係がないのです。


○自然と神=『美しき天然』

 日本には、古来から「自然の中に神を認める」習慣があったようです。
 竹島羽衣(たけしまはごろも 1872〜1967)の『美しき天然』という歌を読んでみましょう。

 <一、空にさへづる鳥の声 峯(みね)より落つる滝の音
 大波小波滔々(とうとう)と 響き絶えせぬ海の音
 聞けや人々面白き 此の天然の音楽を
 調べ自在に弾き給ふ 神の御手の尊しや。

 二、春は桜のあや衣(ごろも) 秋は紅葉(もみじ)の唐錦(からにしき)
 夏は涼しき月の絹 冬は真白き雪の布
 見よや人々美しき この天然の織物を
 手際見事に織りたまふ 神のたくみの尊しや。>

 つまり、「鳥の鳴き声」や「滝の音」、そして「海の怒涛の音」などや「四季の自然の色」までを神の仕業(しわざ)と考えているのです。
 なお、竹島羽衣には滝廉太郎作曲<春のうららの隅田川、……>で始まる『花』もあるが、その最後には<げに一刻も千金のながめを何にたとふべき。>と結んでいる。おそらく、それも「神のたまもの」と言いたかったのかもしれない。と、私(黒田康太)は思う。

 二行目のとうとうは「(革堂)鞳」と書くが文字が出力コードにないので、「滔々」で代用した。「とうとう」の最初の「とう」は、「革」と「堂」とが偏(へん)と旁(つくり)で一文字。
………


○神らしき存在=『竹取物語』

 物語文学ではあるが、そのイメージを思い描いてみると、見方によっては宇宙人の来訪かとも見まがうばかり。単なる創作の範囲を超えているように、私(rik)は思う。『源氏物語』の中でも、文学の最初として扱われている。作者不詳ということでも、単なる伝説などとは考えられない。かえって、意図的なものを感じるのは、私だけであろうか。
 また、作者は源順(みなもとのしたごう)とか源融(みなもとのとおる)などという説がある。
 いずれにしても、この種の物語は主人公の出生状況を変えたりして、異なるバージョンが話が全国に残っている。
 その冒頭文。

 <いまは昔、竹取の翁(おきな)といふもの有りけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろずの事に使ひけり。名をば、さぬきの造(みやっこ)となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋(ひとすじ)ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒(つつ)の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。>

 翁は、「老人」。三寸は、10センチメートル足らず。翁は、さぞびっくりしたであろう。このような設定からも、私は単なるノンフィクションでないような気もする。


○日本の神と神話=『古事記』

 『古事記』上巻の冒頭文です。

 <天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら)に成りし神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。
 次に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に、神産巣日神(かみむすひのかみ)。この三柱(みはしら)の神は、並(とも)に独神(ひとりがみ)と成り坐(ま)して、身を隠しき。
 次に、国稚(くにわか)く浮ける脂(あぶら)の如くして、くらげなすただよへる時に、葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)れる物に因(よ)りて成りし神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)。次に、天乃常立神(あめのとこたちのかみ)。此の二柱の神も亦(また)、並(とも)に独神と成り坐して、身を隠しき。>

 神さまの名前が、次々と出てくるのであるが、その意味は

 「天地が最初に機能しはじめたとき、高天原に現れた神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。
 次に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。さらに次に、神産巣日神(かみむすひのかみ)。この三柱(みはしら)の神は、みんな独神(ひとりがみ)であり、隠れてしまった。
 次に、国が始まったばかりで水に浮いた脂のように、また水母(くらげ)のように漂っているときに、葦の芽のように増えて伸びてくるものによって成立した神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)。その次に、天乃常立神(あめのとこたちのかみ)。この二柱(ふたはしら)の神もまた、ともに独神として、身を隠してしまった。>

というような意味であろう。
 高天原は地上ではなく、神々だけが住む天上界であろう。そして、始まった国は人間が住む地上界。独神(ひとりがみ)は、男女がペアになっていない単独の神のこと。
 でも、身を隠してしまうというのは、いったいどういうことだろうか。その辺から、考えていかなければならないようだ。


○『古事記』の神

 『古事記』には、実に多くの神が出てくる。
 上巻だけを調べても、「カミ」と名の付く神は、実に220柱。その他、「ミコト」を初め「ヒコ」や「ヒメ」などを含めると338柱もましました。(もっとも、別名で書かれた神も1柱と数えた。)
 中には、「ヒルコ」(水蛭子)のように何となく神らしくない神もましますが、それでもご両親は神であったので、葦舟に入れて流し去ったのではあるが、神であったには違いない。赤子を葦舟に入れて流すのは、旧約聖書のモーセにちょっと似た設定かもしれない。


○おおらかなセックス問答

 「私の身体の余った部分、つまりオチンチンを、あなたの身体の閉じていない箇所、つまりオマンマンに入れましょう。」 そんな屈託なく、おおらかな会話が『古事記』初めにある「オノゴロ島」のイザナギとイザナミの会話にあります。

イザナギ 「汝(な)が身はいかに成れるか?」
イザナミ 「吾(わ)が身は成り成りて成り合わざるところ一処(ひとところ)あり。」
イザナギ 「吾が身は成り成りて成り余れるところ一処あり。故(かれ=だから)、この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わざる処に刺(さ)し塞(ふさ)ぎて国土(くに)生み成さむとおもうはいかに?」
イザナミ 「しか、善(え)けむ。」
イザナギ 「しからば吾と汝とこの天(あま)の御柱(みはしら)を行きめぐり逢(あ)いて、みとのまぐわいせな。」

 しかし、最初の女性が優位だったときに生まれたのが、手も足もなくてぐにゃぐにゃした「ヒルコ」(水蛭子)。仕方ないので、葦舟に入れて川に捨てた。そして、男性優位にして再度チャレンジ。すると、次々とうまくいったという。

 実に堂々としていて、天真爛漫である。このような単刀直入の素晴らしい会話のある神話は、世界中を探しても他にないのではないか。と私(黒田康太)の少ない読書経験から思うのだが、……。
 ご存知の人は、教えてください。


○そもそもの摩羅(まら)

 摩羅(まら)は、もともと仏道修行を邪魔する悪魔である。しかし、仏教には神と対立する悪魔という概念はない。修行の妨害をする妖怪に近い存在であろう。つまり「もののけ」的な悪魔。マーラという語は、サンスクリット語で「殺すもの」ということで、「魔」という言葉はマーラを漢訳するために作られたという。
 つまり、読みを表わす「麻」と意味を表わす「鬼」が組み合わさったらしい。そして、中国仏教においては「魔」には「人知を超えた力」というような意味があるという。

 しかし、後になって陰茎のことも摩羅と言うようになった。でも、そのことについては別段に意識をしていないのであろう。いわゆる信仰の対象となってしまったからである。例えば、「渋谷区幡ヶ谷一丁目21」にあった次のようなものはどうであろうか。
 おそらく、昔からこの場所にあって崇められていたのだろう。それが何を意味するかなどということは、考えずに新しいビルが建ったときにも残されたに違いない。標識もないし、何のためにあるのかがわからないが、何となく昔から残っているものだけに尊いのかもしれない。




 現在の社会において摩羅のことを言うと、何となく卑猥に感じる。しかし、古い時代には、そうでなかったようだ。むしろ、何らかの尊敬や羨望の念をいだいたのかもしれない。
 徳川家康が、三河にいたころの話。とても大きな西瓜(すいか)を作る農夫がいた。そこで、褒美を与える目的で、腰元女中まで連れて出かけたという。もっとも、その農夫は「金玉爺さん」と呼ばれて、その金玉が地面に引きずるほど大きかったそうである。家康は、それを供のものに見せて、楽しませたいと考えたのかもしれない。
 ポンペイの壁画(へきが)に描かれたプリアコスの像。そのオチンチンは太くて膝よりも下に垂れ下がっている見事なもの。それは誰もが目にする場所にあって、当時は多くの人の見る目を楽しませたようだ。


○摩羅について(オチンチンについて)

 北原白秋の短歌に、

 <海に来てわれがこの世のうつそみの いとしき摩羅(まら)をかなしみにけり>

というのがある。
 ここでは、摩羅とは男性の性器、つまりオチンチンのことを言っている。

 しかし、そもそも摩羅(まら)とは「魔羅」とも書いて、梵語の「マーラ」の音写である。マーラは、邪魔をしたり、殺したりする者という意味。そのようなことから、仏語として「人の善を妨げる悪神や魔王」を言う。また、欲界第六天の王のこと。さらに、「悟りの妨げとなる煩悩。つまり魔」。


 いずれにしても、つい最近までオチンチンは信仰の対象であった。したがって、今でも寺などに祀られていることがある。下の写真は、男性のそのものズバリ。山田駅そばの斟珠寺(しんしゅじ)にあった。




 同じく斟珠寺の「大弁才尊天」にあるもの。「弁才」と書いているが、「弁財」で水の神さま。したがって、オチンチンつまり亀頭(きとう)の先から水が出ている。境内にあっても、誰も卑猥などと考えないのである。




 驚くことに、摩羅型(マラタイプ)が墓に用いられた時代があったみたい。下の写真は、世田谷区の豪徳寺にある墓地で、とくに古い時代のもの。おそらく、個々の人の摩羅をかたどっているのでしょう。この中には、女性の墓がなかったようです。ざっと見て「居士」(こじ)ばかりで、「大姉」(だいし)がなかったからです。




 さらに言ってしまうと、オチンチンそのものが信仰の対象になって、誰はばかることなくして路傍に立っていた時代がかつてあった。それを恥ずかしいこととも、卑猥なこととも考えなかったのである。古来、そこからは精子がほとぼしり出て子宝や子孫ができるということで、女性のオマンマンとともに尊ばれていたのであろう。科学が発達していなかった時代にも精子は子種などと言って、それを出す部位を神秘的に考え、敬っていたにちがいない。


○摩羅のデザインは神聖なもの

 摩羅のデザインは神聖なものであって、少しも恥ずかしいものではない。その形は、かなり昔から標識などにも使ったらしい。下の写真は高井戸にある吉祥院(遍照寺)にあったもの。作られた時代は新しいようであるが、様式は伝統の方式を踏襲しているみたい。それぞれのお地蔵さまに対応して、右前に摩羅柱が並んでいる。単に梵字とお名前があるだけだから、石版でもよいのだが摩羅形の柱になっている。失礼かもしれないが、もしかしたら昔は各お地蔵さまの摩羅の形を模倣したものかもしれない。仏足などがあるから、そう考えても不思議ではないでしょう。





○摩羅と擬宝珠(ぎぼし)

 擬宝珠(ぎぼし)は、橋の欄干などに付ける宝珠形の装飾で、青銅製のものが多い。下のように、建物に付いていることもある。一般に、柱に擬宝珠をつけてある欄干を「擬宝珠高欄」という。また、「ぎぼし」ではなく「ぎぼうし」「ぎぼうしゅ」などということもある。このようなものに方言が多かったり、宝珠頭(ほうじゅがしら)とわざわざ「頭」を付けたりするのにはわけがあるらしい。

 下の写真は、その一例である。仙川の昌翁寺の本堂にあったもの。




 柱の上部のみならず、下のような用い方もある。左の墓は、多摩の名門である富沢家のものであるが、この墓はどなたのものか私は知らない。しかし、故人は精力的な人であったと思う。それが意味することを考えると。




 上の写真と同じく、昌翁寺の墓地にあったもの。先端のとがり方から考えて、もっとあっちのほうに正直な人であったに違いない。と、私は思う。




 今までの歯切れの悪いオチンチン記述について、疑いをもつ人もいるかもしれない。そこで、ここにできるだけ大きくして、その石柱を示しておこう。「魂勢宮」と書いてあるのが、おわかりでしょう。しかし、下の写真の実物は残念なことに、多摩ニュータウンの開発によって取り除かれてしまい、今はどこにあるかを私は知らない。




 上の写真は、かつて多摩ニュータウンが開発される以前に、唐木田稲荷の参道左側にあったものです。下の写真で左下に写っているもののアップが、上の写真なのです。




 それでもまだ信じない人や、上の二枚の写真を横にイメージできない人のために、立った男性の姿勢で、それが立ったときのほぼ実物大の形で、下に示しておきましょう。(医学統計的に平均的な大きさを知りませんので、私のものとほぼ同じ大きさにしてみました。)
 実際には、「魂勢宮」という字面(じづら)から何を意味しているかが、言わずもがななのですが、……。





○神社にも祀られる形

 川崎市稲田堤にある子之神社(ねのじんじゃ)の境内に、場に違和感を添えながら、ひっそりと立っていました。下には「奉納」とありますから、誰かが何かの目的でもってきたものでしょう。何となく大砲の弾みたいにも見えますが、もしもそうであれば神社に祀るべきものではないので、まさしくオチンチンです。先が尖(とが)っているのは、それなりの理由があるからです。しかし、境内の裏の隅、つまり目立たないところ置いてあります。やはり、ちょっと後ろめたいのかもしれません。





○蝮地蔵尊の暗喩

 まずは、八王子市の初沢にある蝮地蔵尊(まむしじぞうそん)を見ていただきたい。その名前の由来が奇怪なことはともかく、左右にあるシンボルである。




 まず、右。まさしく、男性のシンボル。宝珠、摩羅である。このようなものは、ふつう暗喩(あんゆ)で表現をしているから、よく考えないとわからない。暗喩は、隠喩(いんゆ)とも言うが「引喩」(アリュージョン)ではない。物事を例えて遠まわしに言うほうである。例えば、「花の顔(かんばせ)」などのように。




 問題は、左。これは右の男根に対比させて、まさしく女性のもの。三つあるのがその根拠。楳図かずおの『まことちゃん』に、お風呂のシーンで貴代子さんが「三つ、まとめて洗いましょう」というセリフがあった。そして、それを石の数で暗喩しているのである。ここで、三つ穴を開けてしまえばよいのであるが、そうするとダイレクトにわかってしまうので、数だけを示してカモフラージュしている。
 なお、左から二つ目にある奇妙な形のものについての説明は省略。





○恥ずかしいもの

 実際にあっても、何となく隠したいものがある。オチンチンなどは、そうであるかもしれない。
 世の中には、何となく不合理で不思議なこともあるようだ。例えば、「見せたり書いたりしてもいいが、やってはいけないこと」と「やってもいいけれど、見せたり書いたりしてはいけないこと」である。その一例を言えば、前者は「殺人」、後者は「セックス」。単に長年の通念で、そういう常識になっただけかもしれない。と、私は思うのだが。

 稲城市の妙見寺にあった祠(ほこら)の左右の守り柱。先端が人為的に削られている。おそらく、建てたころは信仰の対象であったものが、その後その先端がどうもグロテスクに不恰好なので除いたようだ。








○女陰(ほと)について

 摩羅のついでに、女陰(ほと)についても書いておこう。
 このホームページでは、どうしても言わなくてはならないときに「オマンマン」と言います。

 安田徳太郎は、『人間の歴史』で単刀直入に「オマンコ」と言っている。そして、オマンコは「万古焼き」の壷の形が、女性のその部分にそっくりの形をしていたことから来たのだろうと書いている。さらに、「万古焼き」は、そもそも「まんこやき」と言ったらしいが、ちょっとはばかるので「ばんこやき」と濁ったのであろうとも。
 念のために、ヤフーの辞書で調べると、

 <お‐まんこ 女性性器の俗称。また、俗に性交すること。おめこ。>

と出ていた。
 私(わたし=黒田康太)は関西の工場にいたときに、「おめこ」という言葉を何回か聞いた。その地域(播磨灘の周辺)では、「わたし」を「わい」と言ったり、「別状ない」を「べっちょない」などと言った。つまり、短くするのである。したがって、「まん」が「め」になったのでしょう。


○性器崇拝

 多摩市の落合地区にあった神社に、男性の性器を模(かたど)った柱があった。

 神のことを「柱」と数えるのは、このことに関係があるのかもしれない。と、私(黒田康太)は思う。なぜならば、『古事記』の冒頭に

 <独神(ひとりがみ)と成り坐(ま)して、身を隠しき。>

というくだりがあるからである。
 つまり、そもそも最初の神はイザナギとイザナミのようなカップルではなく独身の神であったらしい。そこで、手っ取り早く性器で数え「柱」という日本語学者チェンバレンの命名による名付け数詞を用いたのではないかと私(黒田康太)は思う。

 また、男神と女神が出てきても「天(あま)の御柱(みはしら)」などがさらにあるのは、もしかしたら性器崇拝がすでに太古からあったようにも、思えるのだが、……。
 しかし、上の記述は間違っているかもしれない。

 いろいろなところに、性器崇拝の面影が残っている。
 例えば、擬宝珠(ぎぼし)である。橋の欄干に付いている柱の上端。そこには、宝珠形の装飾がしてある。おそらく、そのデザインのルーツは男性のもの(オチンチン)であろう。と、私はいつも個人的に思う。


 さらに前の時代である。それが恥ずかしいことなどと思ったりすることはなく、神聖なことだと考えたのである。例えば、下の文である。川崎市多摩区にある川崎市教育委員会が立てた「五所塚と権現台遺跡」。そこには、「男根を模した二本の石棒が据えられ、狩猟にまつわる祭りを行ったと思われる」などと記述されている。私も、まったくその通りだと思う。





○性器の暗喩

 実際に言ってはいけないことを差し障りなく言ったり、書いたり、作ったりすることがある。
 そのような例は、宮武外骨の著作や国芳の浮世絵にある。伏字(ふせじ)やだまし絵などにすることも多い。

(注) 宮武外骨(みやたけがいこつ 1867〜1955)は、作家・文化史家。大阪で「滑稽新聞」を発行。著作は、『筆禍史』など。
 歌川国芳(うたがわくによし 1798(寛政9)〜1861(文久元))は、江戸時代末期の浮世絵師。葛飾北斎や歌川広重らの人気絵師に比べ、「奇想の絵師」として注目される。『水滸伝』のシリーズが評判となり、30歳を過ぎて人気絵師になった。多くの門弟がいて河鍋暁斎も、その一人。


 下の写真は、布田駅北にある常性寺の境内におられる像。
 日本では七福神と言い、神の一人。しかし、もしかして布袋さまだったら実在した人物かも。七柱の中に一人だけ、歴史上の人物がいるらしい。それはともかく、ここでは弥勒菩薩の化身と考えておこう。でも、何に座っているのか? 大黒さまだと、米俵に乗っていることが多い。また、寿老人や福禄寿だと鹿や鶴に乗ることもある。
 私は、非常に不遜なことを考えている。この神さまの下にある袋状のものについて。




 つつじヶ丘駅北口前にある金竜寺。その境内。
 いったい何で下のような像が、由緒のある寺の境内にあるのだろうか。おそらく、前に突き出ている二つのフグリ、つまりキンタマに意味があるのであろう。この狸では、大きさがあまり誇張されていない。それでも、手足と比べて大きいことは事実。




 また、境内に多くの狸を祀っている寺が、千歳烏山駅北にあった。常福寺である。その謂(いわ)れなどについても住職に聞くなどして、調べてみたいとも思う。

 下の写真は、野川の又住橋の左岸(東)側にある石龍本店にあった。いわゆる狸である。腹が出ているところは、上の神さまと同じ。しかし、狸だけあってオチンチンの袋も大きい。俗に言う「狸のキンタマ八畳敷き」である。後ろには、観音様がましますのに、左側の手水(ちょうず)の前には桃。それが、何を表わすかは狸の向きからも自ずと明らか。
 言うか言わないかで、世の中のものは露骨なことを暗喩していることが多い。日本の神さまが、「○おおらかなセックス問答」で述べたように、はっきりと言わなくなってしまったのは、かなり後のことである。と、私は思う。
 さらに、詳細は「布田駅周辺」の「○野川沿岸」をどうぞ。




 なお、たぬきのキンタマが実際に大きいのかどうかを私は調べたわけではないのでわからない。
 歌に、
 <たんたん狸のキンタマは、風もないのにブーラブラ。……>
とあるくらいだがら、少なくとも目立つことは事実かもしれない。


○摩羅・金玉・ペニス

 摩羅と金玉とペニスは、間違いやすい。確認のために、蛇足ながらまとめておこう。

 「摩羅」(まら・マラ)は、「摩」の字を「魔」として「魔羅」と書くこともある。サンスクリット語の「マーラ」の音写で、そもそも「障害」の意味。それが、仏教の言葉として「修行や善事を妨げる悪神」「魔王、つまり欲界第六天の王」「悟りの妨げとなる煩悩」などを意味するようになった。後に転じて、排泄する意味の「まる」までを含むようになった。「おまる」などという言葉は、いまだに用いられる。
 それが、なぜか男性の「陰茎」「男根」「ペニス」にまで及んだ。もしかしたら、「悟りの妨げとなる煩悩」と関係があるのかもしれない。

 金玉(きんたま・キンタマ)は、文字通り「金色の玉」。しかし、俗称として「睾丸」(こうがん)を意味する。つまり、男子の金の玉である。ふぐりということもあるようだ。
 ペニス(penis)は「陰茎」「男根」のラテン語で、医学分野で用いられる言葉。

 しかし、ここではあまり厳密な意味で区別をしない。金玉(キンタマ)は、実際にはペニスと一体(または対(つい))にして考えたほうがよいのかもしれない。
 狸(たぬき・タヌキ)の像や図では、棒状(男根・ペニス)の部分は小さく、むしろ金玉(ふぐり)の部分が非常に大きくなっている。ペニスの部分に限って言うならば、哺乳類の場合身体に対していちばん大きなのは、どうやら人間みたい。
 また、「体のサイズに対して、ペニスがいちばんでかいのはフジツボ」。ただし、これはテレビドラマの中でドクターHOUSEが言った会話なので、私には真偽のほどはわからない。


○三大天使(ガブリエル・ミカエル・ラファエル)

 神の意思を人間に伝えるために、三人の天使がいるという。
 まず、ガブリエル。『ルカによる福音書』にあるように、マリアに妊娠を告げた天使。悪魔と戦うというよりも、神の計画を私たちに伝えるメッセンジャーとしての役割が多い。洗礼者ヨハネが生れるときも最初に伝えた。しかし、最後の審判のときは、ラッパを吹き鳴らし、死んだ人々を蘇えらせる。
 ミカエルは、最も神に近い最強の存在といえる。イスラエルの守護天使として崇(あが)められ続けた。大天使の長であって、サタンを成敗するときのリーダーである。『ヨハネの黙示録』には竜と戦うという預言が見られる。つまり、人類の苦難のときにも、援軍になって敵と戦ってくれる。
 ラファエルは、旧約の外典『トビト記』に出てくるだけ。しかし、天使と格闘をして傷ついたヤコブを治療したり、アブラハムの割礼の痛みを除いたりしたという。『エノク書』によると、ラファエルは冥界の案内者になっている。
 なお、三大天使にウリエルを加えて四大天使ということもある。


○メタトロン(『エノク書』の著者)

 メタトロンは、ユダヤ教の天使。天界の第一人者で、神の側用人。『創世記』によるとメタトロンは前身はエノクである。そのエノクは、ノアより以前、アダムよりさらに七世代後の族長。長生きであり、死については書かれていない。「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたのでいなくなった。」と記されている。あたかも、天国に上げられたように。


○『エノク書』について

 『エノク書』は2000年以上も前に、書かれた文書。もしかしたら、無名の著者が箔をつけるために、エノクの名前を用いたのかもしれない。私は、『エノク書』について研究をしているが、ここにも概略をメモしておこう。

(1) エノクが天国に案内され、ウリエル、ラファエル、ミカエル、ガブリエルを紹介される。そして、天国のあちこちを巡って、宇宙の秘密を知る。

(2) エノクが天国に召されるまでが具体的に描写されている。エノクが恐怖に襲われると、「神からの使いであるから安心しなさい。」と告げられる。七つの天国を案内され、その七番目を超えるとさらに神聖な三つの天国があった。

(3) エノクは神の前で、「宇宙の原理」「天地の創造」「人類の堕落」などを学んだ。それらを息子たちや人々に伝えるために、三十日間地上に戻った。そして、それが終わると神はエノクを連れ戻し、メタトロンに変えたという。


○バール

 バールは大悪魔であるが、もとは豊穣をつかさどる神聖な存在。しかし、キリスト教が広がっていくうちで、異教神とされるようになった。そして、とうとう邪神となり、さらに悪魔になったのである。何となく、大黒(だいこく)の反対の方向のようである。


○悪魔と幽霊

 私は、悪魔や幽霊などは存在しないと思っていた。仮にいるとしても、それは各自の脳のもたらす幻影と考えた。しかし、ここのところどうも自信がなくなった。どうやら、そうではないと考えさせられることが多くなったからだ。
 例えば、実際に起こっている

    世界の各地で行われている戦争
    鯨(くじら)の保護
    一酸化炭素や温暖化の問題

などを考えても、不思議に思う。
 何か見えないものが、相互に利害関係を対立させて争わせているような気配を感じるからである。
 『猿の惑星』ではないが、どうも私(黒田康太)にはわからない。悪くなっていくように思うし、破局に向かっているようにも思うのだが、……


○七つの大罪

 罪に陥(おとしい)れる可能性がある欲望や行為を言う。それらを、担当の悪魔と示すと次の七つ。

(1) 傲慢……ルシファー
(2) 嫉妬……リヴァイアサン
(3) 暴食……ベルゼブブ
(4) 色欲……アスモデウス
(5) 怠惰……ベルフェゴール
(6) 貪欲……マモン
(7) 憤怒……サタン

 ヒエロニムス=ボスの書いた『七つの大罪と四終』という絵があって、それをフェリペ二世かが日々見て、反省をしたという。


○霊

 もしも、「霊を信じる」などと言うと、馬鹿にされるかもしれない。
 「霊」は「れい」「りょう」「たま」「たましい」などと読んで、精神的な内容を指す場合が多いようだ。
 つまり、「肉体と独立して存在すると考えられるもの」で心の本体を意味したり、死者の魂や霊魂などを意味することがふつう。したがって、目に見えないので私たちの考えが及ばない不思議な働きになる。

 それは、人間の身体の中にあって、心の働きをつかさどるものと考える。肉体を離れても存在できると考えたり、不滅のものと信じたりした。簡単に言ってしまうと、心の活力であろう。「精神」とか「気力」などと言ってもよかろう。

 さらに、「思慮」「分別」「天分」「才気」なども含む概念に広がってしまう。
 そこで、「霊」のことを考えるときに、例えば「風」を考えてみたらどうだろうか。
 つまり、霊が風のようなものと私(黒田康太)は思うのである。風は、実際にある。しかし、とらえどころがない。旧約聖書の『伝道の書』にあるように。
 あることはわかるが、目には見えないのだ。


○直感と推理

 直感と推理などというと、何となく当てずっぽうのような気もする。
 しかし、学問のない私にとっては、そのような方法しかない。
 つまり、このホームページでは学問をしているのではない。「健康」「老化予防」「安心立命」などというテーマで問題を取り上げてはいるが、あくまでも事実と思われることを述べるに過ぎない。すべてが、学問的な実証をしたというわけでなく、自分自身で考えたことが多い。

 たまたま(2008年1月21日、木曜日)見ていたテレビの番組

    『フロスト警部』 #18/狙われた天使 1997年イギリス

に、フロスト警部(デーヴィッド=ジェイソン)が助手の女性に言った言葉。

 <私は古い(タイプの)刑事だ。感覚と直感で動く。>


 また、「直感と精読による会心の一手」というのもあった。将棋チャンネルで見た入門講座である。
 「直感・精読」は、加藤一二三(ひふみ)九段の講座名。続いて「会心の一手」とある。長い経験を重ねると、80パーセントくらいは直感が正しいと言う。残りの20パーセントは、精読をする必要があるらしい。
 加藤一二三は、現代を代表する最強棋士の一人であるにもかかわらず、話し方がていねいで親切。とても好感がもてる、私(黒田康太)には。また、痩せた棋士が多い中で、でっぷりとしていて貫禄がある。そんなわけで、言葉にも重みを感じる。

 実際の日常の問題に関しても、大いに学ぶべきことがある。
 なぜならば、私もここのところ「直感」の大切さをつくづくと感じ始めているからだ。むろん、当てずっぽうと言うような直感ではない。良く考えて、決めかねるときに行う判断の方法である。
 あなたは、いかがであろうか。


○あの世の物語

 神話や古典などに神が登場するのは、何となく理解ができる。
 しかし、現代の作品の中の摩訶不思議さについて誰もが興味をもつのはなぜであろうか。
 そのストーリが、現代の物理学では考えられないほどに荒唐無稽であっても、それはそれなりに説得力がある。例えば、『ザ・リング』という映画である。

 2008年1月15日(火)午前中、何となくケーブルテレビを見ていた。最初からではなく、途中から。それでも、かなり面白かった。2002年のアメリカ映画である字幕版。
 鈴木光司のホラー小説が日本で映画化されて、さらにそれをハリウッドがリメイクしたものらしい。つまり、リメイクされるくらいだから内容が素晴らしい作品なのであろう。レイチェルという女性記者がケィティという少女の死に関する謎を追うという設定。その少女は、子どものできない馬主の夫婦に引き取られた幼女。ラブクラフトなどに通じる古典的な内容ではあるが、テレビや携帯電話が出てくる時代に設定されていた。
 そして、少女があの世から戻るときに写ったビデオの中から出てくるのである。そんな話の展開が、ごく自然に進んでいく。つまり、何となくわかるのである。そして、なぜこのような内容がリメークまでされるのかが、それも何となくわかった。
 つまり、そのようなあの世の物語や荒唐無稽な内容でも、誰もの心の中に潜在的に残っている記憶と共振することによって、恐怖や不安感をもたれるために、それを読んだり、見たりする人が多いということであろう。

 なお、私は全編を細かく見たわけでないから、間違っているかもしれない。
 なぜならば、ケーブルテレビ局であっても3コマーシャルが入る。したがって、そこで別なチャンネルへ行って、再びコマーシャルがあったり区切りがないと帰らないからである。実は、平行して『砂の女』というのがあった。

 『砂の女』は、1964年に勅使河原プロで作られた映画。
 岸田今日子と岡田英二が出ていた。この映画も、その二人の主人公に対する村人の「人間のいやらしさ」や「醜さ」を表現している。もしかしたら人間の深層心理をありえない状況に設定して、描き出しているのかもしれない。
 つまり、平行して見た二本の映画は「作るほうも作るほう、見るほうも見るほう」と言えるような特異な分野の内容である。おそらく、それらに関心があるのは、潜在的に人間が未知・不可知の領域を長い過去に遺伝子が知ったのかもしれない。


○この世とあの世

 日野市の延命寺に六道地蔵がまします。
 その地蔵の説明として書かれた文の最後に、

 <六道の能化(のうげ)の地蔵大菩薩 導びき給え この世 のちの世>

とある。
 「のちの世」となっているが、「あの世」のことであろう。

 また、京王線つつじヶ丘駅北口にある金龍寺にあった碑に刻まれた文字は、いったい何を意味するのであろうか。最後の一文字がちょっと見えにくいが、「受」である。




○天国と地獄

 天国と地獄の概念は、世界中にあるみたい。
 つい「天国は天上にあって、地獄は地下にある」などと考える。
 日蓮は、……


○天国の種類と状態(エノク書による)

 旧約聖書のエノク書には、天国の種類と状態が書かれている。天国は第一天から第十点まであるという。

第一天……風や雲がある地上に近い天。ここにいる天使たちは天文学や自然の摂理を熟知。
第二天……ここは、堕天使が審判を待っている暗い場所。なお、堕天使(だてんし)はキリスト教で、単に悪魔のことを言う場合がある。つまり、神の試練に堪えられずに地上に落とされた天使。その首領はルシフェル。
第三天……エデンの園であるが、その北側は地獄につながっている。ここでは、邪悪な魂が罰せられる。
第四天……エルサレムなどの王国があり、宮殿が建っている。乳と葡萄酒とオイルの川が流れている。エノクは、ここで天使たちの歌声を聞いたという。
第五天……牢獄で、炎の渓谷になっている。多くのものが、サタンとともに閉じ込められている。
第六天……七人の学者である天使が、天と地の調和を図っている。いわゆる天界の研究所。
第七天……熾天使(してんし=セラフィム)・智天使(ちてんし=ケルビム)・座天使(ざてんし=スローンズ、トロウンズなど)の三柱が神の座を守っている。たえず神を讃える歌が聞こえる。
第八天……黄道十二宮を変化させて、季節や旱魃(かんばつ)、雨などを降らす者がいる。エノクはその人物を見たという。
第九天……黄道十二宮の天の住まいがある。
第十天……神がまします。エノクは、ここで神と対面したという。ミカエルは、エノクに地上の衣服を脱がせて、輝きに満ちた天上の衣を着せた。

 何となく各ランクのつながりが論理的でない記述ですが、もしかしたら事実化もしれません。なおエノク書については、「『エノク書』についての私的考察」を参照してください。


○墓と仏壇

 墓の分譲が大はやり。案内がよくくる。
 業者には、もうじき死ぬということがわかっているのだろうか。
 しかし、いまだに墓があること自体も不思議な現象である。
 古い時代に権力者が、その大きさを示すために墳墓を作ったことは事実らしい。エジプトのピラミッドや堺市にある前方後円墳などは、見ただけでバカでかさに驚いてしまう。いったい何のために大きな墓が必要なのか。


○仏について

 神が神話として作られたものであるのに対し、仏はかつて実在した人物がモデルになっている。
 しかし、多くの修正や改竄(かいざん)がなされているので、実際の人物と考えるわけにはいかない部分が生じてしまった。後に述べるイエス=キリストの場合もそう。


○神仏同体説

 本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)などがそうであるが、もともと「神と仏は一体である」と説く説。
 垂迹(すいじゃく)身は、仏や菩薩が人々を救うために神の姿となって現れたこと。
 本地(ほん‐じ)とは、その本来の仏や菩薩を言う。


○「神仏習合」と「神仏分離令」

 神仏習合は、日本に古来からまします神と外来宗教の仏教を結びつけた信仰。奈良時代から寺院に神が祀(まつ)られたり、神社に神宮寺が建てられた。平安時代以後、本地垂迹(ほんちすいじゃく)説が流布し、両部神道が成立。神仏混淆である。

 神仏分離令(神仏判然令)は、明治元年(1868年)に明治政府による「日本の古代からの神と外来の仏との習合を禁じた」命令。その結果、全国に廃仏毀釈運動が起こった。


○寺院仏閣の意味

 何で多くの寺院仏閣があるか。
 おそらく、魔から逃れる場所であったからだろう。
 また、寺院仏閣に行くと何故か心が安らぐのはなぜか。何となくなつかしい気持ちのするのは、なぜか。
 おそらく、かなり古い時代から遺伝子に組み込まれた感覚かもしれない。
 ディジャブなども、おそらくそのようなことに原因があるのであろう。


○「鎌倉の大仏・大安売り」=『ベルツの日記』

 かつて、鎌倉の大仏が売りに出されました。


○神教の自由

 「信教の自由」は、日本国憲法の保障する基本的人権の一つです。
 「何らかの宗教を信じる」「宗教を信じない」いずれも自由。「宗教的行為を行う」「それを強制されない」「宗教団体を設立する」なども自由なのです。


○法華経と般若心経

 いずれも仏教のテキストです。
 法華経は、……
 般若心経は、……


○イエス=キリスト

 作られた人格。アポロニウスとの関係。マリハム(=マグダラのマリア)との関係。
 『Qの福音書』


○釈迦とイエス=キリスト

 いずれも実在の人がモデル。


○釈迦の子とイエスの子

 釈迦の一族であるシャーキャ族が住んでいた部族国家は、隣国のコーサラ国に滅ばされ、老若男女の区別なくすべて殺害されたという。シャーキャ族から、身分を偽って嫁いだ妃に対するコーサラ国王の怨恨からである。また、イエスは十字架に張り付けになって死んだという。
 したがって、釈迦もイエスも子孫はいないはず。

 しかし、実際には釈迦の末裔が、現在でもネパールに生きている。一族の中には、殲滅を逃れたものがいたからだ。カトマンズ盆地に隠れ、現在も生き続けているシャーキャ・ヴァンシャの人たち。そして、ことごとく仏教の僧侶。仏像を作ったり、仏画を描いたりしている。僧侶が仏師をも兼ねているのである。

 イエスの場合は、どうであろうか。
 現在の新約聖書には、イエスの子どものことなどは書いていない。神の子だからであろう。しかし、原始宗教団体の場合は、教祖の回りには女性の取り巻きが多い。最近問題になった新興宗教でもそうである。だから、教義とは別に子どもがなかったとは考えられない。

 私(黒田康太)の考えでは、たとえご本人が十字架で死刑になったとしても、逃れた女が子どもを育てたのではないか。そのことは、イエスご自身の出生に関して述べられているとおりではないか。地中海を囲んだ地域やヨーロッパのように陸地が続いている場所では、そのようなことがありえないことはないだろう。


○新興宗教

 旧来の教義に疑問を生じる。
 ルターの場合。
 マルチン=ルター(Martin Luther 1483〜1546)は、ドイツの宗教改革者です。1517年、ローマ教皇の免罪符販売に反対して、95か条の提題を発表した。それが、宗教改革運動の発端となる。その神学思想は、プロテスタント諸教会の原理となった。「ルター」でなく「ルッター」「ルーテル」とも。


 その後、プロテスタントも分派してアメリカには3000ほどのキリスト教の宗派があるという。
 いずれにしても、分派・分裂を繰り返しているようだ。
 やがて、一人ひとりの信仰ができるのではないか。


○おみくじ

 他愛のないことであるが、いまだに行われているのは何か意味があるのであろう。


○夢と眠り

 夢と眠りとは非常に近い概念ではないでしょうか。
 「旧約聖書」にある夢の話。
 「新約聖書」にある夢の話。パウロの夢。皮なめしのパウロの家に招かれる。
 『聊斎志異』にある話。夢を買う話。魚になった夢。俎板(まないた)の上で切られようとして覚める。


○眠りと死

 パスカル『パンセ』の記述。
 マルクス・アウレリウスは『自省録』に、自分の死に方について <あたかもよく熟れたオリーブの実が、……>


○死を考える

 チベット仏教だっただろうか、「自分の死を考えることは、真理に近づくこと」という言葉があった。私も、まったくその通りだと思う。


○意識と無意識

 私たちは、何となく無意識で感じることがあります。直感というのでしょうか。意識をしないでも、本能的に結果を知っているのです。
 その前に、まず意識について。
 意識には、四つのレベルがあります。

(1) 目覚めている状態の意識
(2) 眠っている状態の意識
(3) 夢を見ている状態の意識
(4) 純粋意識

 ここで、「第四の意識」つまり「純粋意識」について簡単な説明。
 それは、すべてのものが未分化状態にあり、法則などが適用される以前の状態。いわゆる物理法則などが支配をしない意識の状態である。しかし、この意識にはなかなか入れない。よほど偉大な人でないと思うようにコントロールできないだろう。
 予言や空中浮揚などが、そうかもしれない。つまり、予言は時間軸を思うままに行き来ができることであり、空中浮揚は重力の場を超越した状態。そんなことはできるかと言うが、実際にできた人がいるらしいから、やはりできる人はできるのかもしれない。


○預言者・予言者

 預言者と予言者は違います。
 預言者は「旧約聖書」に出てくる神から言葉を与えられた人たちです。つまり、古代イスラエル民族に現れた宗教的指導者。イスラム教では、モーゼやイエスなどを言い、ムハンマドを最後の預言者とします。

 予言者と言う場合、未来のことを言い当てる人を言います。


○ノストラダムスの予言

 ノストラダムス(Nostradamus 1503〜1566)はフランスの医師・占星術師。
 占星術に基づいて長大な予言詩『諸世紀』を著した。


○ジュセリーノの予言

 ジュセリーノは、ブラジルの予知能力者です。
 今までに、「9・11同時多発テロ」「地下鉄サリン事件」などをすでに警告した驚くべき的中率の高い予知能力をもっている人です。
 その予言の中で、次のような警告をしています。

 今年(2008年)については、

・ 7月に、フィリピンでマグニチュード8クラスの地震。
・ 9月に、中国でマグニチュード9クラスの地震。100万人以上の犠牲者。
・ 同じく9月、アメリカのエンパイアステートビルでテロ。

 そして、来年(2009年)は

・ 世界的な暴力事件。新しい疫病の発生。
・ 1月25日、大阪・神戸に大地震。
・ 8月、トルコのイスタンブールに大地震。

 2010年は、

・ アフリカのいくつかの国で、気温が58℃に上昇して水不足。
・ 6月15日、ニューヨークの株式市場が崩壊して、世界経済に危機。
・ 続いてアメリカをトルネードが襲って、多数の死者。

 2011年は、

・ 鳥インフルエンザが人間に感染し始め3年で7300万人の死者。
・ 新たな戦争が勃発。
・ 「エルス」というウイルスが発生して、感染者は4時間で死亡。

 2012年は、

・ アマゾンで森林火災、その結果大規模な砂漠化。
・ 12月6日から「黒い雲の時代」という気象的異変の状態。


 何とも恐ろしい内容です。このままでは、人類の未来、それも近い未来に終末が来てしまう感じではないでしょうか。そこで、もう少し詳しくジュセリーノについて調べてみましょう。

 ジュセリーノ・ノーブレガ・ダ・ルース(Jucelino Nobrega da Luz 1959〜  )
 本業は、高校教師。科目は英語。子どものころから夢で未来を当てる。その夢で見た内容を記録して、関係者へ手紙で知らせる。そのときには、公証役場・郵便局などで日付刻印をする。日時や人名も具体的に予言。
 ジュセリーノは、

 <神に願ってはいけない。ただ地球に感謝するのみ。すべての人に命を与え、大自然を与えてくれた創造主に感謝するほかない。見返りのない愛や普遍的な愛によって、「新しい地球」を子孫へ残すことができる。>


 ジュセリーノの予言について、私(黒田康太)は「当たるとか外れる」というような観点でなく、もっともな注意や警告として聴くべきであると思う。そして、何らかの対策を講じるのが先決であろう。


○予言と時間

 ノストラダムスの予言は「文学的でもある」のでともかく、マザー=シップトンやエドガー=ケーシーの予言はどうであろうか。私は、それらを考えると何となく「時間の不思議」について感じる。ここでは、エドガー=ケーシーの場合について考えてみよう。
 何を言いたいかというと、まだ「私たちが知りえない空間」があると思い、さらに「私たちの学問が間違った常識をもたらしている」と考えねばならない事実を垣間見ることができるからだ。とくに、「ないもの」を「有る」と考えたり、「在るもの」を「ない」と間違って考えていることが、歴史的にも多く見られる。そんな意味で、考え直す必要があるのではないだろうか。

 エドガー=ケーシーの予言には、かなり真実性があって、高い確率で現実化をするらしい。そんな意味で、大統領やロックフェラーなども予言を受けたという。オーストリア・ドイツ・日本の同盟、つまり三国同盟なども事前に予言をしている。しかし、それよりも彼が

 <誰でも練習次第で、自分と同じことができる。>

と言ったことである。
 つまり、彼は睡眠状態によって「時間の概念」を越えて未来のことを見てしまうのではないか。そして、未来は定まっているものではなく変えられるものだと言う。そんなことから、私は「時間」という観念は目的のある錯覚でなないかと思うのだか。道元が『正法眼蔵』で言っている時間を考えると、そのことが何となくわかるような気もする。

 それはともかく、エドガー=ケーシーの残した予言の中に、

 <日本は沈没し、アメリカのカリフォルニア州とジョージャ州はなくなる>

というのがある。


○「聖書の暗号」と「聖書の予言」

 聖書には暗号が隠されているといいます。
 聖書について、私(黒田康太)はちょっと変わった意見をもっています。
 それについては、

  『私のキリスト教(サマリー)

を参照してください。

 さて、次のような預言が冒頭のモーセ五書に隠されていたということが、ヘブライ語の原語聖書をスーパーコンピュータで解読してわかったと言うのです。
 その一部を示すと、次のような内容。

・ 1917年に、ロシア革命が起こるであろう。
・ 1945年に、広島に原爆が投下されるであろう。
・ 1963年に、J.F.ケネディが暗殺されるであろう。
・ 1969年に、人類が初めて月面着陸をするであろう。
・ 1991年に、湾岸戦争が起こるであろう。
・ 1995年に、阪神大震災が起こるであろう。

 つまり、少なくとも2000年以上も過去に書かれた文書(もんじょ)に、その時点では未来のことが数多く記されているのです。そして、それらが記述どおりに実現したというか、予言どおりになっとということです。

 さらに驚くことは、現時点以後のこと、つまり未来のこともあると言います。
 例えば、年代を添えて「日本に大地震が起こるであろう。」などと特筆されているといいます。
 人ごとでは、ありません。

 そこで、私(黒田康太)も何とかしないといけないと考え、対策を計画しているところなのです。
 じょうはり鏡や万華鏡に映すように、そのようなことが鮮やかに記されているとは、いったい何がどうなっているのでしょうか。


 なお、モーセ五書とは、「旧約聖書」の最初にある

    「創世記
    「出エジプト記
    「レビ記
    「民数記
    「申命記

のことです。
 残念ながらここに、暗号を織り込んであるという原ヘブライ語では示せません。しかし、和訳をしたものでよろしかったら、上記を参照してみてください。
 むろん、そこからは暗号などは読み取れないでしょうが。


○巨人族

 いったい「巨人族」とは、なんでしょうか?
 この言葉は、伝説や聖書などにもあって、昔から使われています。「ジャイアント」とか「ネフィルム」ということもあります。もともと、巨人とはその名のとおり、神話や伝説に出てくる巨大な人物です。「身体の大きい人」や「すぐれた能力をもち、偉大な人」を言うので、人間のことになってしまいました。

 しかし、「巨人伝説」は巨大なからだで、超人間的な存在や事跡に関する伝説が多く残っています。ギリシア神話の「アトラス」や東日本の「大太法師」(だいだらぼっち)伝説などです。
 そのように、今では伝説になってしまったような話が、世界中で語り継がれています。

 ここで、何が言いたいかを単刀直入に言ってしまいましょう。
 私(黒田康太)は大きいか小さいかを単に物理的に考えるのではなく、心の直感で知ることが大切ではないかと思っています。例えば、ウイルスは私たちにとって非常に小さいものです。そんなことを考えると、もしかしたらウイルスが私たちを超巨人として感じているかもしれません。


○聖徳太子と不動尊

 聖徳太子を描いたもの。左右にいる人物が小さいが、子どもではない。おそらく、聖徳太子は背丈が大きかったのではないか。

 金剛寺にあるご本尊の不動尊像である。左右には、童子が控えている。座っている不動尊と立っている二童子。それにしても、大きさが異なる。せいたか童子とこんがら童子であるが、せいたか童子と名づけられるくらいだから、背が高いのであろう。不動尊の大きさに私は注目する。

 もしかしたら、聖徳太子や不動尊は巨人だったかもしれない。
 もっとも、聖徳太子は実在しなかったとか、不動尊は架空の人物とか言ってしまえば、それまでではあるが、……
 ………


○『ミクロメガス』……身長30キロメートルのシリウス星人

 ヴォルテール(1694−1778)は、フランスの作家・哲学者。
 その『ミクロメガス』は、私(黒田康太)にいろいろなことを暗示してくれる。
 太陽系以外の人間として、シリウス宇宙人が登場。彼らは、その身長が30キロメートルもあって、地球に来たときに彼らの顕微鏡でも地球人をなかなか発見できなかったという。つまり、彼らにとって地球人は、バクテリア以下の存在となっていた。

 そもそも、彼は学識があった。そこで本を書いたのだが、それが問題になって追放される羽目になった。そこで、まず土星に行った。土星人は、身長が20キロメートルほど。その土星のアカデミー会員と親しくなる。そして、二人は他の惑星に行くことになった。
 そして、地球に来たのである。

 地球に来たが、二人は生命の痕跡をなかなか発見できなかった。
 地上を調べ尽くした彼らは、やがて海上の船に気付く。そこで、船が知的生命体なのかどうかを調べるためつまみ上げ、爪の上に置いて拡大レンズで調べる。ようやく地球人の船員達は、ミクロメガスと対等に話ができる。ガリバー旅行記などよりも、設定が不自然のようだ。また、作者の意図とは異なって、作品は難解なものになっている。

 『ガリバー旅行記』や『不思議の国のアリス』、そして『星の王子さま』のような印象を受ける。



○ゴリアテとダビデ

 下図は、ゴリアテの首をダビデ(ディビット)が切り落としたところを描(えが)いた光景です。旧約聖書に基づいて描(か)かれたものでしょうが、その頭が大きいことに注意をしてください。ダビデの頭の5倍くらいの大きさがあるでしょうか。
 しかし、実際にその光景を観察して描いたのではないでしょう。





○ギルガメッシュとライオン

 同様に、下記の図も同じことが言えます。
 この図は、英雄ギルガメッシュです。ライオンの大きさと比べてください。いかに大男だったががわかるような気がします。しかし、ギルガメッシュも伝説上の人物ですから、実物を見て描写をしたのではないと思います。




 同じ種(しゅ)でも、その大きさが異なることがあります。
 例えば、カワセミを考えてください。
 カワセミやヤマセミの小さな姿と比べると、ワライカワセミの大きさに驚かされます。私は、多摩動物公園のいちばん高いところにいるワライカワセミを初めて見たときは、まったく同じ形でありながら、ずいぶん違うものと感心しました。住む環境によって、動物や植物は大きさを変えて生命を維持していくといいます。
 そしてそれは、ダビデの首とゴリアテの首の大きさぐらい、またギルガメッシュとライオンの大きさぐらい違っているのです。


○巨人伝説

 「巨人伝説」は、世界の各国に広くあるようです。
 例えば、南米パタゴニアにも巨人の伝説があります。
 実際に、1万2千年前の大きな足跡が、化石として発見されています。その大きさは、片足が現代の大人の足を4つ並べたくらい。そして、古くからの言い伝えでは3メートルの巨人で、尻尾が生えているそうです。
 しかし、それは類人猿ではなくて直立歩行ができたナマケモノの一種だったそうです。体長が6メートル、体重は5トンくらいだったということです。
 その動物「メガトリウム・アメリカーノ……」、これは1万年前に滅びてしまいました。その後継のミロドンは、小さくなったもののかつて繁栄をしたそうです。それでもミロドンは、まだ体長が2メートル以上あったそうです。

 ついでながら、有名なビックフッド(=現地語でサスクワッチ)は45cmの足跡を残しています。北アメリカ他、ヒマラヤなどにいて、私たちと他のヒト科かもしれません。
 ギガントテックスは、身長2.7m。50万年前の中国にいたそうです。

 これは、ちょっと巨人でないかも。マンティコラ。スフィンクス。開明獣。
 しかし、いずれも四足・人面です。


○奇想天外入門

 奇想天外(きそうてんがい)という言葉があります。
 私たちが、ふつうの状態では思いつかないほど奇抜(きばつ)なことです。昔から、奇妙なことを思いついたときに、「奇想天外より落つ(おつ)」などと言いました。
 驚天動地(きょうてんどうち)という言葉なども、その延長上にあるのでしょうか。

 あなたは、このようなページが「身近な知識・技術など入門」に、一緒くた(いっしょくた)になって紛れ込んでいることを不思議に思うかもしれません。しかし、ノーマル(normal=普通で標準的なこと。正常な状態)とアブノーマル(abnormal=常軌を逸していて、変質的・変態的なこと。つまり、異常)は、もしかしたら表裏一体なのかもしれません。
 つまり、意外にもウラハラの関係にあるようです。
 かつての天動説・地動説などのことを考えると、そのようなことが頷け(うなずけ)ます。

 ここでは、「奇想天外」を私たちがあまり注意をしていないこと、つまり変わったことと言った意味に用います。
 つまり、ちょっと変わった見方をするとわかったり、詳しく調べると何となくそう思うなどという類のことなのです。例えば、町の地図などはどうでしょう。たいがいのことは、知っているようです。しかし、郵便屋さんは各家の家族のことまでを知っているようです。
 それは、そのような仕事を日々しているからでしょう。

 現代社会で、人間の知っていることは、必要でないことも含めて、かなり多いようです。
 しかし、まだ行ったことのない宇宙などはどうでしょう。月や火星などは、全体の宇宙から考えると、まったく微々たる部分ではないでしょうか。
 反対に、電子顕微鏡でも見られないほどのミクロの世界はどうでしょう。インドや中国の単位ではないですが、限りなくミクロの世界も続いているように思えるからです。
 小さい中でも大きいほうから、非常に小さいほうに向かって
    空(くう)・虚(きょ)・清(せい)・浄(じょう)
という単位があるそうです。
 もしかしたら、私のうろ覚えであるかもしれませんが、「色即是空」の「空」なども「非常に小さい」という意味ではないでしょうか。単に、「空」を「何もない」とか「無」とか「ゼロ」などと考えてしまうと、かえってわかりにくくなってしまうからです。

 そんなことを考えると、「人知の及ぶ範囲」はぐっと小さくなってしまいます。
 つまり、「人知の及ばない」ことがまだまだ多くあるのです。そして、そのようなことについてはなかなか証明ができませんから、どうしても直感で思ったり、理論で考えるしかないようです。

 例えば、私(黒田康太)が

    昔から「神」と考えられていたものは、フィアフィル魔亜尊という実態である。
    月は、人工的に作られた物体である。

などと言うと、多くの人は途惑ってしまいます。

 仮に、神を信じる敬虔な人でも、ちょっと自分のイメージと違うからです。
 また、アポロ宇宙船が月に到着したときのニュースから、そんなことは信じられないからです。

 そして、とどのつまり私をキ印の類と考えるのではないでしょうか。しかし、私は物事の可能性を考えているだけで、頭がおかしくなったり、気が違ったわけではありません。

 私としても、とっぴな考えにたどりつく前に、いろいろと自分なりに吟味をしています。
 例えば、ある学者は「エジプトのピラミッドの他にも、エチオピアやメキシコ、さらにインドネシア、中国にもある」と言います。そして、中でもインドネシアとメキシコのピラミッドが非常に似た形をしていることから、古代に高度な技術をもった宇宙人がいて地球的規模で活躍をしたときに、現地人を使ってあちこちにピラミッドを建築したとも言いました。

 しかし、私は宇宙人がいなくても、支配者はふつう「自分の権力を誇示するために、大きな建造物や墓を造りたいと考える」と思います。そして、その当時の建築技術では、底辺を大きくしたいわゆるピラミッド状にしなければ、崩れてしまって高くはできないと想像します。
 そのようなことから、似たような形状のものが世界的にあるのではないかと推論をするのです。

 そんなわけで自分自身である程度は吟味したことではありますが、それらを恐る恐るメモっておくのです。実際には、後で考えるとバカバカしいことかもしれませんが、ここにいくつかの問題を提起しておきましょう。
 むろん、信じようと信じまいと、あなたのご自由です。
 だって、そのテーマの裏付けや科学的証明が現時点で、私にはできないからです。
 以下に、常々考えていることと思いついたことを書き足していきましょう。


○あるものをないと信ずる愚・ないものをあると信ずる愚

 現代においても、各方面にドン=キホーテのようなタイプの人を見かけます。
 つまり、全人格的にではなく、一部分だけがキ印の類(たぐい)の人です。

 もしも、「目で見えない物はない。」「耳で聞こえない音はない。」などと言ったら、どうでしょう?
 紫外線や赤外線、そして高周波などは人間の器官では認識をされないだけです。
 疑い深いトマス(本名ユダ)は、キリストが亡くなったときに

  <その傷口に手を入れて確かめなければ、私は信じない。>

と言ったといいます。
 聖書には、そのように書いてあったからです。
 そして、それも自分自身が確認をする一つの方法であるからでしょう。

 それに対して、幽霊お化けなどはどうでしょう。
 ふつう、それらを子どもたちは恐れます。まだ、実態を知らないからです。しかし、大人は、そんなことを恐れません。
 ふつう、大人がいちばん恐れていることは、「もの」ではなく「自身心を傷つけられること」なのです。


○シーラカンスとツチノコ

 シーラカンスは絶滅をしたと言われた。しかし、近年になって捕獲され、まだかなり多くが生息していることがわかったそうだ。釣り上げられたり、網によって捕獲される他に、実際に潜水をして生きている状態が撮影された。
 そんなわけで、従来の学説が近年になって書き換えられたわけ。

 ツチノコという動物がいるらしい。蛇の太いのというか、サンショウウオの手足のないような形をしているらしい。それが、ものすごくすばやい動きをする。もしかしたら、飛行をするのではないか。そのようなことが言われる反面、物質として実物を証明するものがない。ただ、見たという証言が数例あるだけなのである。

 私たちは、実際にいるものをいないと言ったり、いないものをいると言ったりすることがある。しかし、限られた経験の範囲では存在を確かめられなかったり、存在しないということを実証できなかったりすることがある。そして、事実が意外なところにあったりしたことが後でわかる。


○プラトンと平田篤胤

 プラトンは、紀元前4世紀の古代ギリシアの哲学者。
 彼は、「心や理性が、肉体とは別に存在する」と考えた。そして、不滅の魂(たましい)が天上に存在すると説いたが、残念なことにそのことを証明することはできなかった。
 さらに、そのような唯心論の考えに対して、近年になってから、科学者は唯物論で真っ向から対立した。例えば、オパーリンたちの理論は整然としているように見えたので、ほとんどの人が唯心論などは、単に観念論として軽(かろ)んじるようになった。

 平田篤胤(ひらた あつたね)は、「神仙界のルーツは日本」であると説いた。
 何となくキムタカ(木村鷹太郎)の理論と似ているが、……。
 そして、篤胤は「日本の神仙が中国、さらには世界各国に幽冥界を開いた」という。しかし、学者であった彼にも、実際に幽冥界に行って自説を確認することはできなかったのである。


○幽冥界に行った話

 『古事記』に出てくる「黄泉の国に行く」話は、創作であろう。
 しかし、宮地常磐(みやち ときわ)と宮地堅磐(みやち かきわ)親子は実際に幽冥界に行った記録が残っている。「あの世」、つまり「死後の世界」を経験して、生きたまま戻ったのだ。
 宮地常磐(1819〜1890)は、祭司の家系に生れた。祖先が日本武尊(やまとたけるのみこと)という。脱魂して、死後の世界に行けるようになったらしい。そして、そこの社会を見てきた記録があるそうだ。

 宮地堅磐(1852〜1904)は、父を凌(しの)ぐ霊力があったらしい。脱魂法のほかに、飛行術を実現したという。そして、幽冥界に関する記録として『異境備忘録』を残している。
 宮地堅磐は、ものすごい量の著述をした。弟子も多かったという。自分の背丈の10倍もの著述をしたが、すべて燃えてしまったという。それは、人間界に漏らしてはいけない神仙界の内容に触れたかららしい。


○時間と空間

 先ず(まず)、時空の問題。つまり、いわゆる「時間」と「空間」についてです。
 私(黒田康太)は、「時間というものがあるのではなく、同時にいくつかのことが不平衡の状態で進んでいる」のだと考えます。
 しかし、「時計が必要でない」などと言っているのではありません。
 ここで考える「不平衡の状態」は、逆説的に「平行して」と言ってもよいかもしれない。

 『金剛般若経』の空間。毛穴の中におわします幾万の仏。

 地球上の空間。西へ西へと行けば、ぐるっと廻って東から戻ってくる。
 バスコダ=ガマコロンブスの大航海時代。

 道元『正法眼蔵』にいう時間。飛枯(ひこ)する時間。

 ニュートン時間ベルグソン時間
 同じ間でも、私たちは長く感じるときと、あっという間。
 敏感な人は、その心で「時計の秒針が止まっている」ように見えることもあるだろうし、また「時針が動いている」ように感じることもあろう。


 ニュートンは、次のような奇妙な言葉、

 <未来は、すでに存在をしている。>

を残しているそうです。
 具体的には、何を意味しているのでしょうか?

 私には、ニュートンは「未来は、前もって知ることができる」と考えていたのではないかと思います。
 ニュートンについて、私は思い出すことがあります。
 それは、「未来のことが『聖書』に書かれていると知って、そのことについていろいろと調べていた」ということです。
 しかし、結論は出ませんでした。
 なぜならば、その当時にはまだスーパーコンピュータがなかったので、手作業で暗号を解読するほかに手立てがありませんでした。ですから、ニュートンほどの人でも、結論を出せなかったのです。

 アルバート=アインシュタインは、1955年に「時間」について驚くべきことを言い残している。
 それは、

 <過去・現在・未来の区別は、いかに根強いとはいえ、単なる幻想に過ぎない。>

とう意味深長な内容のパラフレーズである。
 いったい、何を言おうとしているのでしょうか。
 私(黒田康太)には、「そんなものはない」という意味に取れるのであるが、いかがなものであろう。

 また、アインシュタインは「偶然を認めなかった」とも言われ、有名な言葉

 <神は、賽子(サイコロ)を振らない。>

を残しています。
 しかし、その一方では

 <量子力学は、確かに立派である。しかし、心の内なる声は、私に「それは本当ではない」と言っているようだ。この理論は雄弁ではあるが、しかし「悪魔の秘密」に私たちを近づけてはくれん。>

と吐露(とろ)しています。
 「悪魔の秘密」などと言っているのは、なかなか意味深(いみしん)な言葉ではないでしょうか。


 また、現代の物理学者スティーヴン=ホーキングは、

 <タイム・トラベルが、未来には可能になるであろう。>

と言っています。
 つまり、「人間が、時間の中を前後に旅行することができるようになる」と言うのです。
 どのような理論で、どうしてそうなるのかは存じませんが、何となく私(黒田康太)も直感的に「さもありなん」と思います。

 ホーキンスは、さらに

 <宇宙の現在の状態を正確に測定ができないと、未来の出来事を正確に予測できない。>

とも言っているのです。
 この言葉は、私にもわかりやすく、例えば

 「列車の走行に関する正確なダイヤがないと、到着駅にいつ着くかはわからない。」

というような意味合いではないかと考えれます。
 さらに、平たく言ってしまえば、

 「明日は、雨が降るであろう。」

ということも、観測や気象情報などが完全であれば、

 「明日は、雨が降る。」

ということでしょう。
 また、計画が万全であれば

 「月や火星、その他の惑星に到着することは確実である。」

というような感じではないだろうか。

 つまり、現時点の分析が完全にできれば、未来のことは確実に言い当てる。
 「どうであれば、どうなる」というようないわゆる因果関係が、知能的に進んだ子どもの予言としても可能になってしまうでしょう。


○運命論・宿命論

 昔から運命論とか宿命論という考え方があるようです。
 世の中のことは前もってすべて決まっていて、そのように運行するというのです。だから、何をしてもあまり意味がなく、無駄だといいます。しかし、ちょっと考えてみればわかることがあります。それは、その「何をしても無駄」というのも、その理屈ではあらかじめ決まっていることになってしまうでしょう。

 「アガスティアの葉」というのがあります。
 それは、インドにある人間の運命が記されている木簡のようなもの。
 僧侶を尋ねて、いろいろな質問をすると、その僧侶はその人のことが記されているという木簡のようなものを書庫のようなところから探し出してくる。何と、そこには驚くべきことが記されているのである。
 例えば、いつそこに尋ねてくるかとか、生年月日とか結婚の相手まで記してあるそうだ。何とも不思議なことであり、手品のような感じさえする。
 しかし、あらかじめ決まっているというのは、何か暗示的です。
 こんな現実があるのですから、いちがいに運命論や宿命論を否定できません。

 マヤ歴についても、不思議な思いがします。
 天文学に優れていた文化ですが、そのカレンダーは2007年で終わっているのです。つまり、続きがない。そこで、文明が終わるかのように吹っ切れています。


○地球外知的生命体

 宇宙の広さを考えると、地球外知的生命体がないなどとは言えない。謙虚に考えたら、ホーキングのような考え方をしておいたほうが無難だと私も思う。
 ただ、知らないだけであるかもしれないからである。


○サムシング・グレートとフィアフル魔亜尊

 サムシング・グレートという概念をご存じでしょうか?
 サムシング・グレートについては、最近アメリカで大統領の演説や教書にしばしば取り上げられますので、知っておられる人も多いことでしょう。
 しかし、フィアフル魔亜尊という言葉を聞いた人はいないでしょう。なぜならば、神とも宇宙人とも、そうかと言ってサムシング・グレートとも異なる一団の機構に対して、私が便宜的に付けた名前だからです。

 このホームページではフィアフル魔亜尊を略して「FM」とすることもありますが、フリーメイソンとはまったく関係がありません。
 フィアフル魔亜尊のあらましについては、

  思惟被支配の恐怖
  私のドラゴン伝説・説

などが参考になるかもしれません。


○神について試論としての私論=超知的生命体と人間=FM

 私は、いわゆる神という概念について非常に変わった見方をしています。
 聖書に書いてある「悪魔」などについては、正直なところ信じていないのです。
 「サタン」の元の意味は、ヘブル語の「敵対する者」という意味です。そして、この「サタン」(悪魔)という語は、旧約には見られず、新約になって出てきます。それだけ、新しい概念なのでしょう。旧約では、異端の神がサタンの役目も担っていたからです。

 あまり論拠となる資料がないので、大きな声では言えませんが、ここでは私が考えているフィアフル魔亜尊(以後、FM と略すことがあります。)について、簡単に述べておきましょう。

 超知的生命体が存在するということは、いろいろなことを考えると事実でしょう。
 もしかしたら、それは生命をもっていないかもしれないのです。例えば、石のようなものでも思考ができるかもしれないからです。

 その超知的生命体と私たち人間の関係です。
 それは、当然のことながら思考する内容には雲泥の相違があるでしょう。
 もしかしたら、私たち人間と蟻(アリ)との相違に似ているかもしれません。
 私たちは、アリがいても一匹ずつ捉えてひねりつぶしたりはしません。そんな関係にもないし、また数が多すぎるからです。しかし、私たちが寝ているときにやってきて身体を刺したとします。アリが刺さないというのなら、噛んだとしてもよろしい。
 そんなときは、捉えて殺してしまうでしょう。
 そんな感じなんです。


Kuroda Kouta (2007.02.24/2008.09.25)