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  『法華経』と『旧約聖書』



はじめに
『法華経』と『旧約聖書』
 じょうふけいぼさつの読み方
新約聖書の作者
時間と空間
スケールと存在について
私たちの立場
恐るべき陰謀


はじめに

 最近になって、私は何となく『法華経』(正しくは鳩摩羅什の訳したサンスクリット語の原本『正しい教えの白蓮』)と『旧約聖書』(とくに、最初のモーセ五書)が同じ作者(またはグループ)によって作られたのではないかと思うようになりました。ふと思いついたことから始まったのですが、そんな学説や考え方は、すでにあるのでしょうか。

 今までに、あまり聞いたことがないテーマだと思います。そして、このページに書かれている内容は、単に私の思い違いかもしれません。なぜならば、学術研究などと異なって、直感に頼って判断をしているからです。


『法華経』と『旧約聖書』

 『法華経』は、……
 『旧約聖書』は、……

 以下に『法華経』と『旧約聖書』から、私が思いついた箇所をメモしておきましょう。


 じょうふけいぼさつの読み方

 全体から見ると、唐突なこの人物は、個々の人間を間違った思いから目覚めさせるための方便を教えているのではないでしょうか。


新約聖書の作者

 問題は、新約聖書の「共観福音書」(きょうかんふくいんしょ)である。
 新約聖書のうち、「マタイの福音書」「マルコの福音書」「ルカの福音書」の三福音書を共観福音書は、その内容や構成に一致点が多いので、相互に参照が可能である。そのため、共観福音書と呼ばれるのであるが、そうでしょうか。また、Q資料に基づいているので内容が似ているなどとも言います。
 しかし、私には何となく同一人物が書いたのではないかという疑問が、それぞれを読むたびに残ります。そして、逆に信仰を深めるための方便として、異なった事実に見えるような書き方をわざとしたのではないかという憶測があるのです。書かれた後も何回か修正をされて、かなり原型が変わってしまっているものの何となく感じるのです。そして、タイトルだけに「福音書」という文字が残っているのも頷(うなず)けます。そもそも「福音書」は、パウロの手紙のような「幸福の音信(いんしん)」だからです。
 さらに、かつては「ヨハネの福音書」までもが、立場を変えた書き方ではないかと疑ったりもしました。


時間と空間

 そもそも書かれた場所も異なるし、書かれた時代も異なるので、そんなバカなことはないと考えるのがふつうです。しかし、経典にしばしば書かれている時空の概念は、私たちの常識をはるかに超えています。したがって、そのような次元に存在する何者かがいるということが、うすうす気付かずにはおられません。
 いま、その存在をこのページで、私は仮に「フィアフィルマアソン」と呼びます。


スケールと存在について

 例えば、『法華経』に書かれている数量や時間について考えてください。とても、私たち人間の理解できるスケールではありません。しかし、私たちはその中に存在するのです。それは、あたかも蜉蝣(かげろう)が川面をせわしく飛んでいるような状態なのです。

 さらに、顕微鏡でしか見ることのできない世界を考えて見ましょう。彼ら一つ一つも、やはり生命なのです。そのようなことを考えると、私たち自体があたかも顕微鏡でした見ることのできない世界にいるのかもしれません。

 すべて自分を基準として考えることに慣れた私たちは、非常に狭い視野しかもっていないのです。金持ちとか、有名人などと言っても、自分自身と比較しての愚かな価値観でしかありません。もっと大きなスケールで、存在について考えることも必要になってくるでしょう。


私たちの立場

 つまり、私たちは家畜が飼われているのと似たような状況におかれているのです。ただ、それを自覚していないだけなのです。


恐るべき陰謀

 フィアフィルマアソンの目的は、排他的な人間を作ることではないでしょうか。それが、マアソンの戦略なのです。
 なおフィアフィルマアソンについては、下記のページが参考になるかもしれません。



Kuroda Kouta (2010.05.13/2010.07.25)