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○アンナ=カレニーナと悲愴交響曲


 先日(2007年4月1日、日曜日)、1997年米・英合作の『アンナ=カレニーナ』という映画を見た。115分ほどある大作の後半である。とくに見たいと思ったわけではなく、たまたまテレビのチャンネルを操作していて、それがあったから。
 バーナード=ローズ監督で、ソフィー=マルソーとショーン=ビーンが共演。しかし、俳優のことについては、あまり知識がない。私には、誰が誰だかわからない。ただ、アンナ=カレニーナのおかっぱのような髪が、今までに見た何本かの映画と異なって印象的。
 むろん、もとの小説も学生時代に読んでいる。しかし、そのときのイメージとはかなり異なっている。前に鎌倉江ノ電側の駅前にあった映画館で、在原尊敬(ありはら たかのり)さんと見たときは、アンナ=カレニーナが何となくのっぺりとした顔立ちだった。そして、それはそれなりに美しかったのだが。

 アンナ=カレニーナは結婚をしている男とその間にできた子を捨てて、若い将校のもとに走る。しかし、その将校はマザー・コンプレックスで決断力のない男。その母親に、アンナ=カレニーナは「息子を捨てた娼婦」という烙印を押されてしまう。息子とは、前の夫との間のアンナ=カレニーナの実子のこと。
 社交界に出してもらえないままに、何となく幽閉にも似た生活を強いられる。そんな中で流産があったりして、阿片中毒になってしまう。そして最期は、中央駅で列車に身を投げて死んでしまう。

 まったく他愛のないストーリではあるが、学生時代に原作を訳した文庫本で読んで、感激をしたことを覚えている。その後、読み直そうとして途中でいやになってやめたことがあるのを覚えている。
 トルストイには、『クロイチェル・ソナタ』という長編がある。
 この作品は、やはり学生時代に私を夢中にさせた。しかし、今となっては読み直そうという気力がないのである。なぜだろうか。

 ここまで、くどくどと書いてしまった。
 しかし、とどのつまり何が言いたいかというと、小説なども映像化をして、BGMを効果的に用いると、素晴らしい作品になるということである。小説だけのとき、そして音楽だけのとき、それらの退屈さをしのぐものがあるようだ。
 いま、私は小説を読む気力がないと言った。音楽についても、そうである。レコードやCDを持っていても、改めてチャイコフスキーの交響曲を聴くのもしんどい。なぜならば、たいがいの場合は途中でうんざりしてしまうから。

 でも、オーディオ・ヴィジュアルになると、私の緊張力は何とか持続するようである。
 この映画には、BGMの効果的な場面がいくつかある。例えば、蝋燭の灯が消えかかっている……それは、列車自殺の暗示であろう。アンナの命が、消えかかっているのだ。
 ファゴット(バズーン)の低音ではあるが、のろのろとした執拗な響きが印象的である。『悲愴』の出だしのところである。つまり、このトルストイの『アンナ=カレニーナ』には、チャイコフスキーの交響曲第6番ロ短調『悲愴』がよくマッチしている。

 最後のトレーラというのであろうか、出演者などの名前が上にスクロールしていく部分には、ベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』を流していた。その部分も効果的である。
 いずれも、それぞれに読んだり聞いたりすると、つまり各作品を単体で考えると、飽きっぽい私には退屈の極みではあるが、……

 別な映画でも、このような経験があった。
 例えば、スエーデン映画『短くも美しく燃え』というのである。これも他愛のない梗概ではあったが、ヴィヴァルディやモーツアルトの音楽が効果的であった。とくに、将校とサーカスの女(ヘビドクという名前だったと思う)が、馬で逃走する場面に流れていたヴィヴァルディの弦楽のための協奏曲『四季』の速い楽章は効果的である。

 そんな意味で、「相乗効果の不思議さ」を思い知ったわけである。そして、今後のホームページの考え方などにも参考にしたい。いま読んでいただいているこのページのように、文字ばかりがだらだらと続いていると、読んでくれる人はいなくなるだろう。結局は、自分自身のメモとしてだけのものかもしれない。
 私たちの「創作劇場」を進めるうちに、大いに考えさせられる問題ではなかろうか。

 ついでながら、私が興奮をしたトルストイの作品を記しておこう。
 それは、『イワン=イリッチの死』という物語である。短編と言ったほうがよいかもしれないが、とにかく素晴らしい内容である。私が感心をしたのは、あたかも作者が経験をしたかのように「死にいたる経過」を淡々(たんたん)と書き残していることである。もしかしたら、実際に体験をしたのかもしれないなどと、疑わざるをえないほどに記述が真に迫っているからだ。


Kuroda Kouta (2007.02.14/2007.11.14)