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 あなたに心豊かな日々を!

 安心立命のページ(4)最終的な安心感の確立


      音楽(BGM)は、大庭加奈子が演奏をした「母に抱かれて聞いた歌」です。
      左のスライド
音を小さくしたり、止められます。


 このページの内容

     死はすべての終わりか?
     死と死体について
     なぜ死を考える必要があるのか?
     安楽死の問題
     天国と地獄
     パスカル、その他の死のイメージ
     スエーデンボルグ
     シュタイナー
     死の準備と「死の準備教育」
     死の準備メモ(メメントモリ入門)

  最終的な安心感の確立

     死に関するエピグラム
     人の一生=人生とは何か?
     老人の死
     「老人になる教育」と「死の教育」
     自分自身の死後のこと
     死ねばすべてが終わりか(死後の状態)
     福音書とは何か?
     「恐竜の化石」「地球は平ら」「ノアの箱船」
     独り宗教のすすめ(自己宗教の確立)
     自己福音書の作成
     隠された事実(ドラゴン伝説)の感知?
     康令の最期
     私の「死後の世界」入門

 スエーデンボルグとシュタイナー

死はすべての終わりか?

 私はいままで、ずっと「ヒトは死んで脳の機能がなくなれば、すべてが終わり」と単純・明快に考えていました。
 しかし、最近になって「転生の記憶」「体外離脱体験」「憑依現象」「臨死体験」などの科学的な発表を知って、ちょっと考えが変わってきました。つまり、信念がぐらついてきたのです。

 また、今までの日本人の概念では「見えるものだけがすべてではない」ということが常識のようです。例えば、現実に目に見えない波長の光があったり、耳に聞こえない周波数の音があったりするからです。したがって、五感を感じる五官(目・耳・鼻・舌・皮膚)を通しての知覚神経のほかにも、昔から言う本能のようなものでわかる分野があるかもしれません。
 次の色紙をご覧ください。

   


 これは、毛筆の大家であられる作左部幸秋先生が、お書きになった色紙です。生徒さんたちの作品の発表会に行ったときの礼状として、私(黒田 康太)がいただいたものです。ここにある
 <みえぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ>
というのは、やはり何かを暗示した心理のように、私には思えてならないのですが、……

 先生がお考えになった言葉だと思うのですが、もしかしたら相田みつおあたりの文章から抽出をされたのかもしれません。機会があったら、一度お尋ねをしてみようとも考えているのですが、ちょっとそのようなことを聞くのが恐い気もいたします。いかがなものでしょうか?

 また、ある大手プロバイダのQ&Aサイトに次のような投稿がありました。それは、

●質問した人: inoki3721  緊急度: なるべく早めに  投稿日時 : 2004/10/ 3 12:27:40
 <第六感って、信じますか? 何の根拠も無いですが、意外と当たりますよね。・・・・・ 猪木 7 ・・・・・>

のような内容です。つまり、五感でなくそれ以外の感覚、いわゆる第六感を信じるかというような質問なのです。そして、それが意外に当たることまでを質問者は知っているのです。私は、次のように回答をしてみました。

●回答した人: rikwhi  投稿日時 : 2004/10/ 3 15:26:13  評価(ベストアンサー)
 「私は信じます。なぜならば、第六感も遺伝子の中に組み込まれていて、脳がそのことを関知するのですから、何らかの意味があるのでしょう。しかし、現代生活が複雑になったためにノイズが関係をして、外れることも多いでしょう。おそらく、私も猪木さんと同じくらい今までに当たっていると思います。」

 おそらく猪木さんという方は、センシブルな鋭い人だと思います。お目にかかったことがないので、まったくわからないのですが、私の第六感なのですから、…… もしかしたら、他の質問もデリケートだったから女性かもしれません。なお、評価(ベストアンサー)とあるのは何人かの回答者の中から、質問者がいちばん参考になった回答に付ける評価なのです。

(注) 猪木さんには、上の掲載をしてもよいかどうかを他の回答のときに尋ねました。つまり、それは「都合が悪ければ削除をしますから、メールください」と言った内容です。しかし、そのままになったので、いちおうOKなのでしょう。
 また、その後も猪木さんの質問に対して回答をすることが何回かありました。それは、ちょっとふざけた内容のような下記のようなものもあるので、紹介をしておきましょう。
 なお、この質問はQ&A管理者にすぐに削除をされてしまい、回答をした私も他の回答者とともに回答削除減点になってしまいました。したがって、この質問と回答は、もはやQ&Aの過去の一覧にはなく見ることができません。

●質問した人: inoki3721 緊急度: なるべく早めに 回答件数:8 投稿日時 : 2005/ 6/ 4 21:41:19
<金のなる木は、どこに売っていますか? *・*・* 猪木 7 *・*・*>

●回答した人: rikwhi 投稿日時 : 2005/ 6/ 4 22:12:52 回答番号 : 17206708
 「花屋や植木やで売っています。「花月」ということもあり、また「クラッスラ・ポルツラサア」ということもあります。
 ベンケイソウ科の木ですが、なかなか花が咲きにくいんです。私がわかれば、一鉢あげてもいいんですが、……」

 つまり、「金のなる木」とは単に植物のことではないのでしょう。また、植物であれば「大根はどこに売っていますか?」というのと同じでナンセンスです。したがって、回答はともかく、質問自体の有意義性がないので削除をされたようです。


 さらに、最近になって不思議なことが身の回りに生じたりして、次第に気持ちが迷ってきたり、少し考え直さなければいけないのではないかと気付いたことも事実です。

 ギリシア哲学の祖といわれるアリストテレス
  <人間は死んでも、その霊が自然界に残っている>
と説明をしました。

 いっぽうで、プラトン
  <肉体とは別に心や理性が独立して存在する>
と説きました。
 そして、
  <不滅の魂が天上に存在する>
といったのですが、それを証明することはできませんでした。

 エッカーマンの『ゲーテとの対話』を読むと、ゲーテの考えていたことが何となくわかります。そこには、
  <人間七十五にもなると、いやでも時折、死のことを考えないわけにはいかなくなる。しかし、死を考えても、私の心は少しも乱されない。というのは、われわれの精神が決して滅びることのない存在だという、固い信念を私は持っているからだ。それは永遠から永遠へと働き続けるものなのであって、太陽と同じことなのだ。太陽が沈んでいくように見えるのは、ただわれわれの肉眼にそう見えるだけで、本当は決して沈んでいくものではない。絶えず輝き続けているではないか。>
というような記述があるからです。
 上のように「決して滅びることのない存在」などと自信をもって言っているところが、何とも説得力があるようです。しかし一方では、老いたゲーテは自分の過去を語りがらず、
  <全生涯を通じてほんとうに幸福だったといえるのは、たった四週間にも足らなかった>
と言ったそうです。
 ゲーテのような偉大な人でも、そのようなことを言うとは、人生とはいったい何なのでしょうか。

 さらに、ブレーズ=パスカルエヌマエル=スエーデンボルグアドルフ=シュタイナーなどが書き残したものを読むと、またまた少しばかり心配になってきたのです。この3人の偉大な学者が、それぞれに発表をした学術論文があります。しかし、なぜか誰もそれに触れないのです。偉大な科学者たちが、その分野だけで愚にもつかないことを考えたとは、どうしても思えないからです。知の結集ともいえるエマヌエル=スエーデンボルグとアドルフ=シュタイナーについては、もっと研究をしてみたいと、私は考えています。
 ふつう、新しい理論はなかなか受け付けられないようです。私も、理性と感性を同時に満足させる理論でないと、どうしても納得できないのです。昔の偉大な学者も、自分の説が受け入れられないことを知っていたのでしょう。

 源信にとって、『往生要集』はかなりの自信作であったらしい。しかし、国内では賛同者がいないことを知ったようです。だから、外国人に対して献呈するときにメッセージを添えて、「互いに学ぼう」と言ったのではないでしょうか。

 聖書にも「死」の記述は多くあります。私は、よく「使徒行伝」七にある
  <人生の三分の一は眠りであり、地上の眠りが尽きれば「死の眠り」につく>
という言葉を思い出します。また、

  <人は、賢者愚者、富者貧者、義人悪人、老若男女を問わず、その一生は空、死をもって終わるのみ>
という「伝道者の書」三19も気になる言葉です。

 さらに、
  <われわれの一生は短くていたましい。
 人の最期にあたっては施すすべはなく、またよみのくにから人を救いだした者はだれもいない。>(知恵の書二)
などは、出会うたびに何となく愕然とする文章です。
 あなたは、どのように考えておられますか?


 上の
  <われわれの一生は短くていたましい。
 人の最期にあたっては施すすべもなく、またよみのくにから人を救い出した者はだれもいない。>
というくだりのほかにも、『智恵の書』は執拗に「智恵」と「死」の問題を繰り返します。
 例えば、
  <それは煙のように風に吹き散らされ、一日で去った旅人についての思い出のように過ぎ去ってしまう。>
  <知恵は、自分を求める人々にみずから姿をあらわす。>
  <神は知恵とともに住む人のほかはだれも愛さない>
  <船旅に出て荒波を渡ろうとする人は、自分を乗せてゆく船よりももろい木(へさきの偶像)によび求める。>
  <われわれは、偶然この世に生を受け、のちには、存在しないものと同じになる。>
  <死がこの世に入ったのは、悪魔のねたみのためだった。>
などと執拗に反復して言っています。

 もしかしたら、安心立命とは「死の準備」をすることかもしれません。なぜならば、宗教ではいずれも「死」について、それなりの深い思索をしているからです。そして、宗教に心のやすらぎを求める人が多いからです。


死と死体について

 ここでは、「死」と「死体」のことについて考えてみましょう。
 改めて、「いったい何事だ」とお叱りを受けそうなテーマです。しかし、「死と死体は、まったく別なもの」ということを理解しておかないと、先に進めないのです。つまり、簡単に考えると「死」は現象であり、「死体」は物体なのです。しかし、それが「氷」→「水」→「水蒸気」というような変化と捕らえられることにも問題があります。
 それを道元は、薪(まき)の例で示しています。燃料として用いられた薪が、燃やされて灰になったら、再び薪にはならないというのです。そのように言えばそうなのですが、ここでは宇宙の元素として捕らえますので、灰がふたたび薪になることもあり得ると私(黒田康太)は考えるのです。

 死後の肉体の変化については、源信僧都の『往生要集』に記述があります。また、私が幼いころ葬式などで寺へ行くと、襖(ふすま)絵や壁絵があって、その説明を母から繰り返して聞いたものです。

 死体についても、近年になって大きく変わってきたようです。それは、腐りにくくなったというようなことも問題の一つではないでしょうか。最近になってショックなニュースが伝えられます。
 孤独で死を迎えた老人、あるいは犯罪に巻き込まれて死んだ人、そういう人たちの死体が数ヶ月も数年も放置されていて、発見をされたというのです。ふつうならば、腐敗をするのでしょうが、そうでなくミイラ化をしたというのです。なぜ腐敗が進まないかというと、食物から取り入れた防腐剤が人体に作用してあまり組織を崩壊させないのだと言います。
 だから、通夜や葬式に備えてかつては大量のドライアイスを棺(ひつぎ)の中に入れたのですが、今日ではあまり必要がないというのです。なぜならば、すでに体内に防腐剤が浸透しているからでしょう。そのことが、いいことか悪いことか、私には判断ができません。とにかく死体が腐りにくくなったことは、紛れもない事実だと思います。葬儀屋でさえ、そう言うのですから、……

 また、高温で死体を焼くと遺伝子さえも残らないといいます。外交問題で話題になりましたが、本来は死体もなるべく高温で焼くのが望ましいのでしょう。遺伝子の問題などは、最近になって言われることです。現在の火葬場にあるボイラーは、かなりの高温で焼けるはずです。当然のことながら、骨などは粉々になってしまいます。ところが、ふつうは骨(こつ)を拾いやすいように手加減をして焼くのだそうです。そんなことを聞くと、あまり意味のないことをしているのではないかと、つくづく思うのですが、……


 保科百助(ほしな ひゃくすけ)という反骨の地方教育家は、かなりの奇人でした。したがって、中年をすぎても嫁の来手(きて)がなかったといいます。そして、その辞世の歌は
  <我死なば共同墓地にすぐ埋めつ 焼いてなりとも 生(な)までなりとも>
だったそうです。


なぜ死を考える必要があるのか?

 明日に何が起こるかもわからないというのが現実。それなのに、かなり先であろう死のそのまた先のことなどが、いったいどうなるかなどは、考えてもわかるはずがないであろう。事故や災難が当人には考えられない単なるスケジュールであるとすれば、何とかその先のことも言うことができるであろう。
 死後のことも、そのように考えればいいのではないか? 言わんとしていることが、ちょっとわかりにくいようではあるが、……
 (2002.12.15現在)


 『論語』の「先進篇」に、
  <季路、鬼神に事(つか)えんことを問う。子の曰(のたま)わく、未だ人に事うること能(あた)わず。焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事えん。曰(い)わく、敢えて死を問う。曰(のたま)わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。>
というくだりがあります。

 季路が日頃から不審に思っていることを先生に聞いたのです。まず、鬼神についてです。しかし、ちょっとすかされたような回答をされたので、さらに「死」について尋ねたのです。すると、また素っ気ない回答です。「生についても解決ができていないので、死についてなどわからない」というのです。しかし、そうでしょうか?

 「生」と「死」が個別にあるのなら、確かに孔子が言われるとおりでしょう。例えば、「すっぽんを食べて、味がわかった。しかし、月は食べたことがないのでどんな味がするかわからない」などと言う、ちょっと無責任な発言ではないでしょうか。実際に「生」は「死」があるから成立する概念。また、「死」も「生」があるから成り立っている言葉だからです。

 1900年代前後に活躍をしたハイデッガーは、人間の生と死を関連づけて考えた学者(哲学者)です。人間は脳が発達をしたために、生だけでなく死までを考える、そして「自分が死ななければならない存在である」と考えたようです。人間ならば当然のことでしょうが、他の動物にはそのような概念は存在しないようです。そして、死を考えるからこそ、生の問題も明らかになるのではないでしょうか。

 しかし、ふつうの人は死を考えるのを厭(いと)います。なぜならば、自分が死にたくないからです。しかし、本当は「日々の生活の中に生と死がある」ことを知らないのです。私が何となく知ったことですが、死を意識している場合には、非常に強い信念が生じるということです。「死んだつもりになれば、……」というような言葉もあるでしょう。
 また、文献でも『葉隠』などには最初からそのことを喝破しているようなふしが見られます。その「聞書第一」の2段目にある有名な記述
  <武士道といふは、死ぬことと見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。>
と言っているのがそうです。
 これは、死んでしまえというのではなく、そのように考えることによって活路が生じるでしょうということだと私は思います。やけくそになったり、自暴自棄になるのではありません。あくまでも、生きることを考えているのです。

 「生」と「死」を対比させて考える場合もあります。それは、厭(いと)わしい現在の生をやめて、直ちに死を選ぶ場合です。むろん、自殺をする人の場合は、そのような考えがあるかもしれません。


安楽死の問題

 ここではユウタナジイ(安楽死)の問題を考えてみましょう。例えば、神沢杜口の『翁草』にある記事からヒントを得て森鴎外が書いた『高瀬舟』です。
 その内容は、貧しい兄弟の兄が病んでしまい、弟の留守中に自殺を図るというものです。しかし、喉に刺した短刀が抜けずに苦しんでいるところに、弟が帰ってきます。そして、助けようとするのですが、あまりにも兄の眼が「短刀を抜いて死なしてくれ」と真剣に言っているので、そうしてしまうのです。
 その結果、弟は自殺幇助の罪として島送りになり、川を下っていきます。その罪人を送る船が高瀬舟なのです。しかし、警護の役人が見ても不思議なほど、その罪人はすがすがしくしており、また感謝をしているようです。自分では、兄を殺したことになるのですが、そのことについてはあまり後悔をしていないようです。

 安楽死については、最近になっていろいろと言われるようになりました。
 しかし、森鴎外は『高瀬舟縁起』で原典『翁草』について、「私はこれを読んで、其中に二つの大きい問題が含まれてゐると思った。一つは財産と云ふものの観念である。……今一つは死に掛かってゐて死なれずに苦しんでゐる人を、死なせて遣ると云ふ事である。」と言っています。
 『高瀬舟』は森鴎外が大正5年(1916年)に書いた小説で、その『高瀬舟縁起』には、さらに「従来の道徳は苦しませて置けと命じてゐる。」と書いてあります。そのように、当時の医学社会に対する意見なども何となく述べているのです。今考えれば、ずいぶんと画期的な意見だったようです。

 ついでながら、森鴎外自身が死ぬ前に残した最後の言葉は、
  <ばかばかしい>
という短い嘆きだったそうでした。いったい、何が馬鹿馬鹿しかったのでしょうか? 
 もしかしたら、人間の一生がそうであったと、あなたはお考えになりませんか?


 それから、何年経っているでしょうか。日本も高齢者が増えて、老人大国の感じが否めなくなってきました。そして、やがてチューリップの国のような環境にならざるをえなく、なっていくように私には思えてなりません。
 あなたは、どのようにお考えでしょうか。

 チューリップの国、オランダでは安楽死が合法化されているといいます。どのような方法で、どのくらい行われているかを私は知りませんが、それでも進んだ考えの国だと思います。また、アメリカのオレゴン州では安楽死を合法化しているそうです。そして、これまでに致死量の薬を飲んだ人が9人いるそうです。おそらく、次第に増えていくことでしょう。
 (1988.08.19現在)


天国と地獄

 宗教では、天国や地獄を説きます。また、天国と言わないで「天界」とか「極楽」とも言うことがあるようです。仏教では、「地獄・極楽」と地獄を先にして言いますし、スエーデンボルグは『天界と地獄』という膨大な本を書いています。簡単に言うと、天国は好ましいところですが、地獄はまっぴら行きたくなくて、断りたいところなのです。

 まず、天国です。天国には天使がいるといいます。そして、ごていねいに階級までを用意しました。つまり、天使は「三級九段階」に分かれているというのです。
 それは、
  上級には熾天使(セラフィム)、智天使(ケルビム)、座天使
  中級には主天使、力天使、能天使
  下級には権天使、大天使、そしてただの天使
なのです。

 さらに、イメージも明らかにしています。天使の本来の姿は、子どものような顔に四枚から六枚の羽が直接についているそうです。また、中には蜘蛛のような形をしたものさえもあるのです。しかし、それらはグロテスクな形のためでしょうか、後に多くは人の背に翼が生えた形になったようです。

 次は、地獄。源信僧都は『往生要集』で、まるで見てきたように詳細な記述をしています。そこには、……

 さらに、私が考えている天国と地獄。宗教を少し勉強したところで、神と悪魔のいることに気がついた。そして、われわれの回りにも神や悪魔がうじゃうじゃいるのである。それらは、たいてい人間の中に入っている。もしかしたら、自分の中にもいるにちがいない。ちょうど、回虫や蟯虫が人の内臓に住んでいたり、パラサイトやコメンサルが血液に住んでいるように。


スエーデンボルグ

 スエーデンの偉大な科学者イヌマエル=スエーデンボルグは、驚くべきことを書き残しています。いわゆる「死後の世界」についてですが、あまりにも膨大な著述ですので、根気のない私にはとても読み切れません。そこで、その中の代表作ともいえる『天界とその驚異及び地獄』というのを読んでみました。スエーデン語がわかりませんので、柳瀬芳意氏が訳されたものです。
 その本自体も、かなり大作で小さい文字(1ページに48字×19行)で、500ページを超えるものです。そんなわけで、さらに努力を怠(おこた)って、その第二部である「霊たちの世界と人間の死後の状態」という箇所を中心に精読することにしました。
 そこには、次のようなことが書かれています。

(1) 霊たちの世界とは何か
(2) 人間は各々その内部では霊である
(3) 人間は死から蘇って、永遠の生命へ入って行く
(4) 人間は死後も完全な人間の形をもっている
(5) 人間は死後も世にいたときに持っていた知覚、記憶、情愛の一切を持っており、その知的な身体をのぞいては何一後に残さない
(6) 人間は死後も世におけるその生命のままに生きている
(7) 各々の者の生命の楽しさは死後それに相応した楽しさに変化する
(8) 死後の人間の最初の状態
(9) 死後の人間の第二の状態
(10) 死後の人間の第三の状態、すなわち天界に入る者たちの教えを受ける状態
(11) 何人も直接的な慈悲からは天界へ入らない
(12) 天界に入る生活を送ることは、一般に信じられているほど困難ではない

 以上のような、ふつうの常識では何とも驚かされるようなことが、淡々と書かれているのです。いったい、それはどういうことなのでしょうか。ここでは、私の自分自身の考えを補って、少し検討をしてみたいと思います。

 柳瀬氏が訳した『天界とその驚異及び地獄』には、冒頭にヘレン=ケラーの賛辞が付いています。
 そして、そこには
  <その大きな書物を開いた。と、ごらん。私の指はその書物の序文の中に一人の目しいの女の人について書かれている短い文章にとまった−−−その婦人の暗闇はスエデンボルグの著作からさしてくる美しい心理の光で明るくされたのである。>
とあります。

 ヘレンケラー女史は目が見えませんから、点字の本だったのでしょう。その大きな本を指で触れながら読んでいたのです。そして、光が差し込んでくることを感じたのでしょう。スエデンボルグのような特異な超能力者の発信する内容が、ヘレンケラー女史のようにやはり特異な感覚の持ち主に現れたことが非常に印象的です。

 ヘレンケラー女史は、また
  <死は生命の終わりではなく、その最も重要な経験の一つに過ぎない。>
とも書いています。
 そして、さらに
  <私が誰か友に言うことを、もしその友が「その私の言葉を文字通り」にとるなら、それを彼は心にとめるであろうか。もしその友が、「私が太陽は登り、沈むのであり、また地球は扁平である」と言おうとしている、または「私は暗闇の中には住んでいない」と言おうとしている、と考えるなら「私が発狂している」と彼には思われはしないだろうか。
 私の友が傾聴するものは言葉の意味であって、その言葉そのものではなく、またその言葉が伝える外の形ではないのである。そのプロセスは、スエデンボルグが聖言のさらに深い意味を見つけ出すに当たって用いるものに似ている。>
というような驚くべき記述さえ残しているんです。

 本文の第二編「霊たちの世界と死後の人間の状態」を見ていきましょう。
 なお、引用文の最後に付けた番号はスエデンボルグが原著に付けた番号です。それをそのまま覚えとして利用しました。また、柳瀬氏の文章を読みやすいようにさせていただいた箇所もあることをここにお断りしておきます。

  <天界の状態とは人間の中に善と心理が連絡することであり、地獄の状態とは人間の中に悪と誤謬が連絡することである>(422)
  <人間は理解のみでは作られず、意志のみでも作られず、意志と理解とが結合して作られる>(423)
  <自分自身にのみ善を欲するものは、他の者に起こる不幸を、とくにそれが自分自身の利益になるときに喜ぶ>(424)
  <人間が心理を意志し、かくてそれを行うに比例して、彼は彼自身の中に天界を持つのである。…… 他方、理解の誤謬が意志の悪に連結するに比例して、人間は自分自身の中に地獄を持つのである。>(425)
  <霊たちの世界から天界、または地獄に入ると、そのときは、同じような愛から、同じような気質を持っていないかぎり、もはや互いに他を見ることもなく、また互いに他を知り合うこともない。>(427)
  <その洞窟を通して吐き気をもよわせる悪臭が放出され、よい霊たちはそれを嫌って、そこから逃げ去るが、しかし悪い霊らには、それが気持ちよいため、彼らはそれを求める>(429)
  <人間の中に生きているものはすべて霊であり、身体はただ、ちょうどそれを動かす生きた力に仕えるように、霊に仕えているにすぎない>(432)
  <身体がその霊から分離すると−−それは死と呼ばれているが−−その人間は依然人間として存続し、生きている。死んで、棺の中に臥して蘇らない中にさえ、その冷たい身体の中にすら考えている者がいる>(432)
  <自然界でその機能を果たすことがもはや不可能となったとき、人間は死ぬと言われている。これは肺臓の呼吸と心臓の鼓動とが停止するときに起こりはするが、しかもその人間は死ぬのではなく、単に彼が世で用いるために持っていた身体の部分と離れるのみであって、その人間は生きているのである。人間自身が生きていると言うのは、人間は身体から人間ではなく、霊から人間であるからである>(445)
  <私自身の知覚はすべて取り去られたが、依然思考と認識とは残っていた。>(449)
  <自分たちが身体の中で生きていたとき、死後のこうした生命を信じなかったことを非常に不思議がり、とくに教会内でほとんどすべての者がそれを信じていないことを不思議がったのである。世で信じなかった者らは、死後も自分たちが生きていることを知ると、非常に恥じるのである。>(452)
  <天界的な愛である者たちは理知的で賢明であるが、形態的な愛である者らは愚鈍でいわば頓馬である。>(481)

  <人間のもつ楽しさはすべてその支配愛から生まれている……顔は心の映像であって、霊界では支配愛の映像となっている……天界では主に対する愛に、地獄では自己への愛に関係している。>(486)
  <人間の霊は身体から解放された後も人間であり、同じような形をもっていることは多年の日々の経験から私に証明された。霊たちはこうした無知が依然世に続いており、とくに教会内に続いていることを心で悲しんでいる>(456)
  <外面的には道徳的な社会的生活を習慣上送っており、その習慣の結果人間はほとんど自分の内部を知らず、またそれに注意もしていない>(492)

  <彼らは教えられても、考えることと欲することが重要なこととは悟らないで、ただ話すことと行うことが重要であるとしか考えない>(495)
  <人間は誰でも自分自身を愛するに応じて天界から遠ざかり、天界から遠ざかるに応じて知恵から遠ざかる>(508)
  <人間は知らないことを考えることはできず、考えないことを欲することもできない>(512)

  <もし人間が直接的な慈悲によって救われることができるなら、すべての者は、地獄にいる者さえも救われ、実に地獄は存在しないであろう>(524)


 ざっと内容を読んで、大切と思われるくだりを私なりの判断で抜き書きしました。著者が考えを吐露した内容で、正直に心情が綴られた文章と思われます。ここには引用を控えましたが、教会体制に対する批判もかなりありました。さらに、いくつかのアルカナ(秘義)がかった記述も見られたのです。しかし、残念なことにアルカナについては私の理解できる範囲を超えていて、さっぱり本意がわかりません。
 この著書は、スエデンボルグが70歳(1578年)のときの出版といいます。古希になった老人が、精魂を打ち尽くして書いた書籍ですから、深い意味があるに違いありません。


 ここで、一連の流れとして見た場合にはどうなるかというような観点で、私なりにまとめておきましょう。
(1) 人間は死ぬと、霊が肉体から出ていく。その霊は、肉体にあったときと同じようなすべての感覚が備わっている。(440)(456)
(2) ただし、生前のような時間と空間の感覚がなくなる。(162)(192)
(3) 白い光を感じ、やがて目映(まばゆ)いダイヤモンドのような色彩を帯びる。(『天界の秘儀』(186)(4413))
(4) 絶えず光の中にあって、春の季節感を味わう。(441)(489)
(5) 先輩が来て、いろいろなことを教えてくれる。(450)(『天界の秘儀』(314))
(6) 記憶は生前のものが残っている。そして理知が次第に完成をしていく。(462)(469)
(7) 生前と同様な日々が続く。自分に適した場所を天国と地獄から選ぶ。(470)(472)
(8) つまり、死んでも肉体がなくなるだけで、他のものは残っている。(445)(461)

 これは私にとって、まったく驚天動地なことです。しかし、もしかしたら今までの考え方をすべて覆(くつがえ)さなければならないのかもしれません。なぜならば、多くの人に読まれたり、内容を引用される図書ですから。キューブラー=ロスの『死後の真実』に書かれている臨死体験者の記述とも似ているようです。しかし、臨死体験が生き返った人の記憶であるのに対し、スエーデンボルグが実際に行き来をしたということが何ともわかりにくい問題です。
 臨死体験が単に「脳の知覚」かもしれないことに対し、行き来をしたのは「脳の知覚した体験」だからです。

 スエーデンボルグのこの『天界とその驚異及び地獄』は『天界と地獄』などとして、日本でも何人かに訳され、広く愛読をされている図書です。その訳者に、仏教学者の鈴木大拙がいます。そして、『鈴木大拙全集』第23巻(岩波書店)に収められているそうです。
 もしも時間がありましたら、どうぞあなたもお読みになってください。


シュタイナー

 教育学に貢献のあったルドルフ=シュタイナーも、謎の多い人物です。「神秘学」や「神智学」という学問体系を作って、「死後の生活」を細々(こまごま)と論述したり、また「大予言」を残したりしています。そして、その説がなかなか説得力があって、私が直感的にも納得のできるものだからです。
 「死後の生命」については、それがまったく当然のことと考え、「そのようなことを認めなかったり否定するのは、愚かな人たち」であって、仕方のないことだと考えたようです。そして、そういう人は相手にしないで、人生を真剣に考える人だけを対象にした講座などをしばしば開いています。

 私も何となく「死」や「死後のこと」については、ようやくそのように考えるようになりました。しかし、最初はなかなか信じられませんでした。それは、ちょっと水泳のできない人が、練習に入る前に「いったい自分も実際に、水の中で泳げるだろうか」と不思議に思うのに似ているでしょう。
 また、新約聖書の福音書にある十二弟子の一人(トマスでしたっけ)が、頑(かたく)なに「私は見えるものでなければ存在を認めない。先生の傷口にも自分の手を差し込んで確認をしなければ、その話を信じない」と言ったのと似ています。当時とすれば、目で見えない波長の光があったり、また耳に聞こえない周波数があることなどを知らなかったのですから、そういう考えするのも諾(むべ)なるかなです。
 しかし、今日では紫外線・赤外線などは存在しないとか、可聴周波数以外の音などはないという人はいないでしょう。「死の問題」についても、今までにあまり科学が触れていないので、多くの人がいまだに誤解をしているようです。

 シュタイナーは、まず「死者の存在」を認めています。つまり、誰にでも「死後の生活」があるというんです。そして、それに気づかないのは「私たちが日々の現実にかかわり過ぎている」からだと言います。そして、そのために「死者に意識を向ける余裕などないためだ」と説明をします。実際に、他人のことなどを考える余裕もないくらいのあわただしい現代生活をしているのですから、よほどの暇人でもないかぎり、それは当然のことでしょう。
 シュタイナーは非常に優れた教育者でしたから、子どもの教育などを通じて「霊界から送られてくる信号」を発見したといいます。だから、関心さえもてば「死後の世界」や「死後の生活」が誰でもわかるようになると書いています。しかし、ふつうの人間は知らないままに、自分だけがこの人生を送っているように思うのです。だから、霊界との関係などを認めないのでさまざまな問題が生じているのでしょう。

 学問などはすべて地上の現実の中で作られたものですから、霊界に行ってしまったら、意味をなしません。そこで、特殊な方法で霊との意志伝達を行います。私たちが死者に働きかけるためには、心が素直になっている必要があるのです。したがって、眠っているときには死者と一緒に暮らしている場合が多いのです。そして、死者に対して懐かしい思い出や感謝に満たされているときは、その死者からもいろいろな情報を受けることがあるといいます。
 なるほどそういえば、いままでに聞いたり読んだりした「夢のお告げ」などは、何となくその種のものかもしれませんね。実のところ、私は鈍いほうなので、自分自身が「夢のお告げ」をはっきりと聞いたことはないんですが、…… 私も「死後の世界」などについては、最初は半信半疑でしたが、少しずつわかってきた次第です。

 「ルドルフ・シュタイナー選集 第十巻」に次のような記述があります。イントロダクションの部分です。
  <さて、現代人にとってはあまりにも途方のないことなので、今でもまだ公開の席ではお話しできませんが、死後はじめて魂が体験することについて、今日はお話ししようと思うのです。>

  <それまで私たちの意識内容となっていた大宇宙が、まるでひとつの星になったように縮小して現れるのです。>

  <そして今、霊界に存在してみると、この体が意志そのものだったことがよくわかる。意志の星、その成分がすべて意志から成り立っている星が、身体だったのだ>

 そして、次の驚くべき記述
  <意志と感情は死後もなお、肉体に結びついたときのままに存在しているのです。>
へと進んでいきます。

 私は「シュタイナー選集」を読むときに、いつも思うのです。そのような自分にとって驚天動地のことを信じるか、信じないかは理性の判断ではなく、もっと基本的な本能的判断でしなければならないということです。だって、死んだ経験のない人は「まさか、そんなことはあるまい」と思うものの、「そんなことを死んで体験しなかった」という現実もないのですから。
 このシュタイナーの場合は、実際に生前に死んだ経験(?)があるかどうか知りませんが、スエーデンボルグは死後の世界に何回も行ったと言っています。また、古くプラトンは「死後の世界がある」と言ったのですが、その証明ができなかったので非常に残念がったということです。

 つまり、「あるかもしれない」し、あるいは「ないかもしれない」ようなケースの問題には、証明があってもなくても「いちおう慎重を期して、あった場合も考えておく」というようなことにしたらどうでしょうか。だから、私はいちおう「死後の世界」があるというほうに考えておくことにしました。それは、ちょっと火災保険をかけるときに「絶対に火事にならない」とは考えないことと似ているでしょう。なぜならば、「絶対に火事にならない」のでしたら、火災保険の必要はなくなるからです。

 シュタイナーが残した予言に、
  <やがて科学技術はなくなるでしょう。現代の科学技術は、行き着くところまで行って、限界に達する。そして、科学技術は自らを何らかの方法で消滅させる>

  <あらゆる技術は荒廃してしまうが、人間はそれを歓迎するでしょう。なぜならば、自然科学が発達をすればするほど、人生には謎の部分が多くなって、それに人々が堪えられなくなってしまうからです>

  <世紀末においては、国と国の争いではなく、個人と個人が争うようになり、さらに個人が二つに分裂をして互いに争うようになるでしょう。つまり、競争社会の形態が大きく変化をしてしまうのです>
などがあります。私は、ヒトの脳が病的に異常に発達(むしろ退化か)をすることが、その原因と思うのですが、……
 シュタイナーの予言は、本当なのでしょうか?


死の準備と「死の準備教育」

 高齢になったら身の回りの雑然としたことを少なくして、煩わしいことを減らすのがよいのではないでしょうか。しかし、そんなことを自覚したり、知人に話したりしていたのが、パソコン、プリンタ、スキャナなどを買い込んで、ホームページなどを作ろうとしているのです。まったく、自分に対する矛盾と、後ろめたさを感じる今日このごろです。
 そしてさらに、HTMLからJavaスクリプト、さらにJavaコンパイラまでが必要になってしまい、処理系のほかにマニュアルだけで書棚に幅1メートルほどの場所を必要とするほどまでになってしまいました。まったく愚かしいことのようです。

 実際には、ハイデッカーの意見ではありませんが<自分自身の死を考えなければいけない>時期にきているのです。そして、そのための準備教育というか自分自身で行う準備学習の必要があるのです。つまり、「死への覚悟」をしなければいけません。いつでも、安らかに死んでいけるために、それが必要なのです。

 マルクス=アウレリウスが言うように
  <オリーブの実が、自分を育ててくれた大地に感謝をして落ちていくように>
私(黒田康太)もなりたいからです。

 そして、そんなためには借り物の死生観ではダメなんです。おそらく、そのような一時的な考えでは、その場に臨んで私には耐えられないことでしょう。自分自身のしっかりした「死に対する考え」を確立しておかなければならないゆえんです。むしろ、もっと具体的に「死の準備教育」、「死のマニュアル作成」、「バイバイノート」などを作る時期にきているというのですが、……

 そこで、このホームページ自体の内容をそのような企画にしてしまうことを考えました。自分がいなくなったとき、つまり自分自身が死んだ場合に、後に残った人のなすべきことなども文書にまとめておきましょう。むろん、預金通帳、契約の解約、各種の手続き、どこに何があるか、知人などへの約束や貸し借りなども明らかにしておく必要があります。柳田国男の『遠野物語』に、「毒きのこを食べて赤ちゃんだけを残して一家全員が死んだ家の結末が、何ともユーモラスに書かれていたからです。


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人の一生=人生とは何か?

 おそらく死ぬ直前に、私は「よくよく考えてみれば、愚かであり、恥の多い一生だった。」と思うんじゃないでしょうか。
 そして、もしも「自分の一生は、輝きのある誇らしいものと思う。」と考える人がいたら、私はその人について
 「それは、脳の作用として生じた『自己防御のからくり』という幻影でしかないかもしれない。」などと思うことでしょう。

 ほんとうは、私自身もこのようなホームページをだらだらと作るよりも、黙って何も残さないで去っていったほうがよいのではないかと思ってはいるのですが、…… なぜならば、私にとって物を書くということは、恥をかくのということと似たようなことなのです。まぁ、言ってみれば『荘子』の恵施(けいし)に対する批判のようなものでしょうか。

 だから、ほんとうは「求められたことで、必要以外のことを書いたりする必要はない」はずなんです。それが、仲間とのいきさつ上で引っ込みがつかなくなって、このようなことになりました。実のところ、自分自身の存在自体が『星の王子さま』の飲んべえのように、恥ずかしいのかもしれません。
 かなり偉大な人にとっても、人生はあまり楽しいものではなかったようです。モーツァルトは、三十五年の短い生涯で数多くの名曲を残しましたが、あまり楽しい日々ではなかったようです。とくに、晩年は。

  ベートーヴェンの生涯の最後の言葉は、
   <喜劇は終わった。>
だそうです。
 そして、
  <あの馬鹿な連中には、言いたいことを言わせて置くより他に仕様はない。>
という捨て台詞のような言葉も残しています。

 老いたゲーテは、自分の過去を語りがらず
  <全生涯を通じてほんとうに幸福だったといえるのは、たった四週間にも足らなかった>
と言ったそうである。

 いっぽう、シェークスピアは『マクベス』の中で、死の定義とも考えられる
  <一生は動く影>
と書き残しています。

 もっと冷静になって、『寒山詩』にあるように単純に
  <人々が次々とこの世を去ってゆくのは、あたかも残った灯火がだんだんと消えてゆくようなものだ。>
と考えればよいのではないでしょうか。

 もともと「人の一生」を定義づけたり、「人生とは何か?」などと考えること自体が、ツイアビが『パパラギ』で言っているように、一種の脳の病気なのかもしれません。つまり、「考えるという重い病気」なのです。私も、大いに反省しているところです。あるいは、「恥をかくのも一生のうち」だと、開き直ってしまうのも安易な一つの方法かもしれませんが、……

 「人の一生」などと言うと、何となく「メメント・モリ」という言葉を思い出します。ヨーロッパでは、ふつう骸骨や髑髏(どくろ)の絵でメメント・モリを表現しました。日本でも良寛の『骸骨詩』などは、同じ考え方によるものでしょう。「骸骨」は、何となく人生の終末を意味するからです。

 ベルギーのアンソールという画家は世間に認められず、骸骨や仮面を付けた人物の絵を描きました。つまり、人の内面を骸骨や仮面で皮肉に論(あげつら)ったのです。しかし、有名になると骸骨や仮面には、もはや皮肉のない他愛のないものになってしまったそうです。
 さらに、マルクス=アウレリウスの言葉や荘子の言葉が脳裏をよぎります。

 マルクス=アウレリウスの『自省録』にある言葉です。
  <あたかもよく熟れたオリーブの実が、自分を産んだ地を讃(ほ)めたたえ、自分を実らせた樹に感謝をささげながら落ちていくように。>
 何とも、さわやかではありませんか? そして、私もそうなりたいと思っています。

 荘子のほうは、先ほどの恵施の対話とは違って、もっと厳しくスケールが大きいようです。
  <死は、雄大な帰省(きせい)。>


老人の死

 老人の死は後ろから来るようです。若い人の死のように、前から突然に襲ってくるのではありません。つまり、老人の死は背後からゆっくりと追いかけてくるような感じでしょう。ですから、本来ならば準備をする期間があるのです。それをいつまでも奢りの気持ちがあるために、つい見過ごして不覚をとってしまいます。死は「まだ私の問題じゃない」などと、のんきに構えるのです。ほんとうは、「のんきに構え」ているのではありません。それを自分が考えたくないのです。
 しかし、根本的にそのような考えをやめるべきでしょう。

 「死ぬことも人生の一部」と考えてみてください。生と死は、もともと別なものではありません。それぞれが、連続をしている人間の一生のプロセスを構成する一部分なのです。ですから、それに触れないようにするということは、無責任な生き方をしていることになるでしょう。自分の死については、むろん未経験です。そこで、想像をしてみて一連の記述をしてみるのもよいでしょう。自分なりに覚悟を新たにするためです。
 さらに、自分自身の死亡広告死亡通知遺言書なども作っておくとよいでしょう。自分の死を客観的に見ることによって、死を恐れないようにするためです。

 いつの日か、あなたは必ず死ぬでしょう。それは、紛れもない事実です。自分のいなくなった後の家庭を考えたり、自分の葬式を想像したり、もしかしたら新しく作られる自分の墓などに想像を巡らしてみてください。そのようなことを冷静に考えられるようになると、安心立命の境地に近づいたと言えましょう。
 ルイ15世が言ったような「わが亡き後は、大洪水も何のその。」などとは、決して考えてはいけません。なぜならば、空間と時間を必要としない感覚などが、死後も残るかもしれないからです。


「老人になる教育」と「死の教育」

 還暦を過ぎたら自分自身で「老人になるための教育」を行わなければなりません。また、「死に対する教育」つまり「デス・エデュケーション」も必要です。
 老人は、ふつう「エルダー」と呼ばれます。その意味には「年長者」「先輩」「長老」などという意味があって、人生について知りつくしていなければならないのです。そんなためにも、付け焼き刃のようですが「老人になるための教育」と「死に対する教育」を確率しておきたいのです。自分自身に対してあいまいな不明なところがあったり、いまだに「死とは何か」がわかっていないようでは、とても安心立命ができません。
 そんなためにも、ここでまとめておきたいのです。


自分自身の死後のこと

 親鸞や檀林皇后のことを考えると、自分の死後の処置などは何でもありません。
 私は、自分自身で自分の死後のことを取り仕切ることはできません。それは、誰でも当然のことです。そこで妻に強く次のようなことを言って、約束をさせています。まず、葬式は一切不要ということ。私が死んだら、誰にも知らせず市へ届けて、焼いてもらってから骨壷は自宅へ持ち帰る。そしてその後、一段落をしたら私が(生前に)指定した場所へ、骨を分散をして撒きなさい。

(注) 親鸞と檀林皇后については、「私のシステム」にある「死の準備メモ(メメントモリ入門)」の「親鸞と檀林皇后」を参考にしてください。


 ただ、それだけである。香典もいらないし、むろん式をしないのであるから、焼香なども不要です。
 また指定した場所と言っても、多摩川の流れと多摩の奥山であるが、ここでは場所を内緒にしておきたい。実際には、問題になると困るので、こっそりと流したり、撒いたりしてしまうのです。そのようなことを決めてからは、心が落ち着いて安心感を確立したことは事実です。
 なぜならば、死んだら自然に帰れると信じたからです。


福音書とは何か?

 「福音」とは、「幸福の音信」(いんしん)のことです。つまり、それは一種の便りなのです。その便りを編集したものが、福音書なのです。しかし、『新約聖書』にある四つの福音書は、現在では物語になっています。長い間の何回もの編集の結果なのでしょう。文章を少しずつ補填していくと、どうしてもストーリのようになってしまうようです。言い足りないことを次々と継ぎ足していくと、次第に長くなるからです。

 一例として、私の場合の便りの内容を次に述べてみましょう。
 「自分が望んでいるものになりたいのであれば、思考をそれに合わせなさい。
 風になりたいと思ったとしよう。私は風のことに思いを巡らせる。すると風になったのだ。
 本当に風になったのだろうか。また、そのことを誰かに尋ねる必要もない。
 神が自分の中にいても、自分が神の中にいても、どちらでもいいことだ。
 もともと一体のものだから。」


「恐竜の化石」「地球は平ら」「ノアの箱船」

 地球は動いているという事実。しかし、あなたはそれをあなた自身の身体で実感として感じますか?
 そのような知識から常識になってしまったことで、もはや何も感じないままに不思議ではなくなってしまったことがらが、現代にはかなり多く見受けられます。わかりきったことは、とくに自分自身が認識をしなくてもよいのです。

 それぞれの価値観や言い分というのは、かなり異なっているのがふつうです。ある宗派の人たちは、過去に恐竜などはいなかったと言います。恐竜が過去に繁栄をしたということ自体が、学説の捏造だというのです。したがって、恐竜がないのですから、「恐竜の骨」などはむろんないのです。

 もしも誰かが「それでは恐竜の化石が発掘されるのはなぜか?」と問うと、
  <恐竜がいたのではなく、最初から化石の状態として神が作った作品なのだ>
と言い返します。

 現代の社会にも、「地球は平ら」(「地球は平たい」「地球は平べったい」などというときもある)という協会があるそうです。アメリカに本部があって、1700人もの会員がいるそうです。そしてそこに属している人は、今日でも「地球は平面である」つまり「地球は平べったい」と信じているそうです。NASAが月面から写した地球の写真を見せると、「それはデマゴーグの陰謀だ!」と真剣に言い張るそうです。
 そして不思議なことに、恐竜がいなかったという人たちも、地球が平らであるという人たちも、いわゆる普通の人たちに混ざって、日々何事もなく暮らしているのです。

(注) 「地球は平ら」については、贈呈を受けた青山圭秀著『科学と知識のさらなる内側 理性のゆらぎ』(三五館)(31p)という本に書いてありました。


 また、過去の伝説を自分たちの有利に解釈をする人々もいます。ノアの箱船が到着をしたのは聖書ではアララト山とされていますが、フランスとスペインの間にあるバスク地方の人々は、そこにノアの箱船が到着したのだと主張をします。なぜならば、そこにも箱船の残骸が残っていたからです。
 しかし、もしかしたら箱船はいくつもあって、それぞれに別なところにたどりついたのかもしれません。そして、むろん途中で難破してしまったものもあるでしょう。その場合は、そこには子孫が残っていないのです。


独り宗教のすすめ(自己宗教の確立)



自己福音書の作成

 自己福音書は、自分自身の「こころのやすらぎ」を求めたものです。いわゆる「安心立命」は、人によって異なります。なぜならば、人生観自体がそれぞれ十人十色だからです。そして、最終的には自分自身で自分自身の信仰を作る必要が生じます。つまり、どうしても自分自身の独自な立場の信仰の確立が必要になってくるからです。この内容については、改めて別のページで説明をいたしましょう。

 そのようなことを詳しく知りたい場合は、
    自己福音書
をご覧ください。

 しかし、このようなことをバカにしてはいけません。なぜならば、効果が非常に大きいからです。
 嘘だと思ったら、あなたもなさってみて下さい。


隠された事実(ドラゴン伝説)の感知?

 科学が進んでも、何とも理解できない不思議なことがあります。それは、私たち人間の目がある対象に関しては見えないようになされているからです。近代になって科学が発展したことによって、逆に感性が衰えてしまったために、間違った認識をしていることが多いようです。

    私のドラゴン伝説・説
を参考にしてください。

 しかし、そこに書かれていることは私が感性で知ったことがほとんどですから、証明ができません。したがって、そのようなことをご承知いただけないときは、お読みにならないでください。その隠された事実を知ってしまうと、今までに不思議であったことが当然のこととして理解できるのです。


康令の最期



私の「死後の世界」入門



Kuroda Kouta (2003.05.03/2015.07.18)