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 自分自身とあなたに心豊かな日々を!

 安心立命のページ(1)あわただしい現代の生活


      音楽(BGM)は、大庭加奈子が演奏をした「母に抱かれて聞いた歌」です。
      左のスライド
音を小さくしたり、止められます。


 このページの内容

     システム空間に関する研究(膜宇宙に存在する人類)
     現代という時代=現代社会の特徴
     技術革新の現代社会
     『旧約聖書』と現代科学
     生きているありがたさ
     日々の目的と将来の見通し
     果てしないことを考える=レオ13世の諫め
     有限の身で無限を追う=キリのない話
     鳥の言葉と草の声=物の考え方
     ブーゲンベリアの意気地(いくじ)
     思い上がってはいけません
     宇宙に溶け込む=宇宙に溶け込んだ状態
     20年前の2000年の予測
     『方丈記』と『徒然草』=過去の価値観
     『方丈記』の言葉=鴨長明の世界
     『徒然草』の言葉=卜部兼好の世界
     ニッポニア・ニッポン
     「足るを知る」(足ることを知る)
     「憂患の初め」と「憂患多し」
     健康相談をしてくれる場所がないままに?
     健康問題から次々と発展をして……
     勝負・競争・籤(くじ)・賭(かけ)=勝負・競争・籤・賭の忌諱(きい)
     天知る地知る我が身知る=淨頗離(じょうはり)の鏡
     持ち物の整理
     整理と後始末
     安心帳の作成
     ものの見方=死と死後のこと
     エジプト『死者の書』
     チベット『死者の書』
     十王経のあらまし
     メトナイト派の人たち=一つの生き方
     人間とは何か?
     神という概念・人間と神(神はどこにましますか?)
     神の概念(神・仏・巨人・竜人・魔・霊など)
     天使と悪魔
     ムウのアルカナ
     教育に関する仮説=銃乱射事件の背景と本質
     アンナ=カレニーナと悲愴交響曲
     ドン・キホーテ=ラ・マンチャの男
     安心立命のページ関連資料


 あわただしい現代の生活

現代という時代=現代社会の特徴

・ 情報と病気の氾濫

 「現代」とは、一口に言うと、いったいどんな時代なのでしょうか。
 何となく私には、「情報と病気が氾濫している時代」のように思われるのですが。つまり、「情報過多の時代」なのです。そして、人々は精神的にも疲れてしまって、健康を損ねてしまっているようです。一説には、日本に3億人くらいの病人がいると言います。つまり、人口の3倍くらいの患者がいるのです。そんな不思議なことが生じる理由は、「平均的に一人が3つくらいの病気をもっている」ということです。いったい、本当なのでしょうか。

 何が原因かわかりませんが、何となく「健康や幸福」よりも、「経済や利益」を優先している社会のような気もします。もしも、そうでしたら情報とともに病気が増えるのも、さもありなんです。

 しかし、一方では現代でも健康を考えて生活をしている宗教や個人がいます。例えば、アモン派(アーミッシュ)の人々です。質素な昔ながらの生活をして、病気の原因となる化学物質などを摂りません。また、ギリシア時代のストア派や中国の老子のような生活をかたくなに守って、現代でも「知足」を実践している人もわずかではありますが、いることにはいます。それらの人は、回りの人と比べると健康に関しては、まったく問題がないようです。

 現代は生産過剰気味の社会です。大量生産・大量消費の物質が非常に豊かな時代です。
 しかし、その反面では自分がほんとうに欲しいものがありません。探してみると「帯(おび)に短し、襷(たすき)に長し」なのです。これは、いったいどうしたことでしょう。商品に合わせて人間が生活を強いられているような感じもします。つまり、正(まさ)しく「これだ!」というようなものが、少ないからです。
 そんな中で、どのように生きるかが今後の大きな問題となるでしょう。


・ 恐怖感と不安感

 
テレビを見ていると、何となく恐怖感や不安感をあおり立てて視聴者の心配と緊張を増幅しているようにも思うのですが、それは私一人の杞憂なのでしょうか。マスコミには、もともとそのような傾向があったのかもしれません。しかし、それにしても最近のテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などは内容が強烈です。また、マネージャを初めとして解説者、評論家、そして医者、教師、さらには母親までが、一般人に恐怖感と不安感を植えつけようとしているのは、なぜでしょうか。

 私は何とかして、この恐怖感や不安感に束縛されないで、自分なりに安心立命を確立してから、この世にグッドバイをしたいと思っています。つまり、大往生がしたいのです。そこで、あまりにも煩わしいことは避けたいと考えました。そして、現代社会における遁世なるものを試行錯誤して実現をするようにしたのです。


被害者で加害者

 現代社会では、誰もが被害者であり、同時にまた加害者になっていることがあります。
 公害などについては、とくにそのようなことが言えるでしょう。例えば、野菜などを考えてください。経済性を重視した多量の肥料使用、殺虫剤などの頻繁な利用、そして運搬のための過剰梱包や包装などは、利用者の利便のためとはいうものの、用済み後には利用者の費用で処理をしたり、ひどいときは公害をまき散らしてしまいます。

 また、経済についても矛盾が多いようです。
 費用などを誰が負担をするかで、あたかも「花見酒」のような論理になってしまいます。
 あなたは、落語の「花見酒」をご存じでしょうか? それは、酒樽を二人でかついで売りに行くというものです。あまりにもよい香りがするので、後の一人が一円払って一杯買います。しばらくして、前の者がやはり買って飲みます。そんなことを何回かして売り切れてしまったのです。それでも代金が入ったのでよかったと言って、売り上げを調べてみると何と一円しかありません。つまり、お互いに買いっこをしていたのです。
 本当は、それにもっと早く気づくべきでした。


技術革新の現代社会

 現代は、ここ数十年の技術革新のおかげで、快適な生活が実現できるようになりました。
 私たちにとってまったく夢のような、すばらしい時代だと思います。しかし、それでもここに、あなたや私が心豊かな日々を過ごせるように、このページを作ってみたのです。なぜならば、技術が急速に進んだ現代でも、一方ではなぜか安心立命に関しては、一向にまだ確立ができていないからです。物が豊かになって、すばらしい社会になったのに、逆に不安はますますつのっていくようです。
 いったい何が原因なのでしょうか?

 それは近代の資本主義社会が一人一人の健康や幸福よりも、ある特定なものの経済的利益を大切にして、それを優先させているからです。そのような事実を垣間見てしまうと、何となく不安になります。かつて問題になった足尾鉱山や水俣の問題を考えるとおわかりでしょう。経済を優先させると、後で取り返しがなかなかつかないような結果になることが多いようです。
 そして、それらがあったように最近では原発までが同じ考えで建設・運営され続けているのです。どうしても不安になってしまうのは、私だけでしょうか。

 何となく感じる不安感や、日々ひしひしと迫ってくる圧迫感などは、いったい何を意味するのでしょうか。一方では、そんなことをまったく感じないという人もいるでしょう。しかし何らかの意味で、私たちは歴史上かつてない大変な時代にいることが、現実ではないのでしょうか。ひっきりなしに走る救急車、親しい知人が、次々と思いがけもなく死んでしまう。日々のニュースの中にある暗い事件、そしてそれは私たちの身近なところにも起こるであろうということ。
 そんなことを考えると、自分が非常に危ない立場に置かれているのではないかと、つくづく心配になってくるのはやはり私だけでしょうか?

 あなたは、いったいそのようなことをどのようにお考えでしょうか。そんなことについて考えるのは、心配性の人だけなのでしょうか。
 考えてみれば、世の中はすべてのものが何らかの意味で繋がっているのかもしれません。


『旧約聖書』と現代科学

 『旧約聖書』の「創世記」には、次のように書かれています。

第一章(11・12節)
11 神は、言った〈地は草を芽生えよ。種を持つ草と、実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。〉 そのようになった。
12 地は「草」を芽生えさせ、草と実をつける「木」を芽生えさせた。神はこれを見て、OKとした。
(20・21節)
20 神は言った〈生き物は、水の中に群がれ。鳥は地上、天空の面を飛べ。〉
21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物、翼ある鳥をそれぞれ創造した。神はこれを見て、OKとした。
(24〜27節)
24 神は言った〈地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣を産め〉 そのようになった。
25 神はそれぞれの「地の獣」「家畜」「土を這うもの」を造られた。神はこれを見て、OKとした。
26 神は言った〈私たちにかたどり、私たちに似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう〉
27 神はご自分にかたどって「人」を創造した。さらに、神をかたどって、「男」と「女」を創造した。

 いっぽう現代生物学では、
(1) バクテリア・菌類
(2) 植物
(3) 魚類
(4) 昆虫類
(5) 両生類・爬虫類
(6) 鳥類
(7) 哺乳類
(8) 人類
のような順序で、生物は誕生してきたと考えます。

 バクテリアと昆虫は別として、「創世記」において鳥類と爬虫類(地を這うもの)が逆になっている以外は同じなのです。現代生物学で、この順番が確定したのは19世紀以後のこと。しかし、それよりはるか数千年前の聖書に、ほぼ同じ順番で生物誕生が書かれているのは、なぜでしょうか。


生きているありがたさ

 ガイヤーの論文を読むまでもなく、自分が今日ここにあるということは、実に数多くの人のお陰であると思います。むろん、父母を始めとして知り合いの人、そして名前も知らない人たちのお陰で今日の自分の命があることを私は感謝しています。かつて、私は病院の先生や警察官に助けられたこともあるからです。

 しかし、ぜんぜん見知らぬ人に救われて、その後その人には会っていないし、また名前さえも知らないようなこともあるのです。
 それは、中学生のころ鎌倉の材木座海岸で泳いでいたときのことです。かなりの人が出ていたので、沖のほうへいったのですが、そこで右足の筋肉がつって溺れかかったのです。もう自分はダメかなと考えたとき、誰かが近づいてきて仰向けの状態で岸まで曳いてくれました。そして、その人は何も言わずに去ってしまったのです。
 いま考えると、もしもその人が気づいてくれなかったら、そして助けてくれなかったら、今日がなかったのではないかと思うと、何ともありがたく、もしかしたらその人が観音さまであったのかもしれないなどと想像をするのです。そして、その人が去り際に「気をつけてね!」といった言葉と、その人の健康そうな表情が、今でも脳裏の底に焼き付いています。

(注) 溺れかかったときに、なぜかふと考えついたことがあります。まったく脈絡のないひらめきのようなことで、なぜそんなことを考えたのかが、いまだにわかりません。
 それは、源実朝が唐(から)へ行こうとして作ったという大きな船のことです。吾妻鑑に書いてありますが、私は中学になったばかりで、太宰治の『右大臣実朝』で読んだのだと思います。とても、内容が難しかったことを覚えています。三鷹に住んでいたので、玉川上水のドンドン橋で太宰治が溺死体で上がったのを見に行ったことを覚えていますし、だいぶ後になってからは下連雀の禅林寺で行われる「桜桃忌」に行ったりもしたのです。

 ついでながら、禅林寺には森鴎外(森林太郎となっていた)の墓もありました。でも、自分が溺れかかったその瞬間には進水もできなかった大船を見て、がっくりしている実朝か太宰の後ろ姿をなぜか見たような気がしたのです。


日々の目的と将来の見通し

 現代社会において、私たちは激しく変化・進歩をするあわただしい日常に追われ、つい何のために何をしているかを見失いがちです。そして、ソクラテスやキケロの言葉を思い出すときに、つくづく反省をさせられます。

 キケロは、
 <君は生きるために食うけれども、食うために生きるのではない。生きていても、同じ原因で何回も失敗したら、世間の笑いものになって恥ずかしいことである。>
と言っています。

 さらに、『方丈記』や『徒然草』の世界に入っていくと、何となく自分が愚かしいことをしているのではないかというような不安感に苛まれるのです。

 ともすると現代は「無関心・無感動の時代」ともいえるでしょう。それが、古典などを読んでいるうちに本来の自我を取り戻すのでしょうか。忙しく慌ただしい時代ですから「琴線に触れる」とか「意気に感じる」などという体験も、非常に少なくなったようです。誰もが自分のことしか考えていないように思えることさえもあるのです。そして、何となく「無関心・無頓着の時勢」とさえもいえるように思えてくるのです。

 無関心ならまだよいのですが、さらに「非常識がまかり通る時代」になってしまっとようにも思えてなりません。自分自身のことならともかく、将来を担う子供たちの躾(しつけ)などにも、あまり頓着しないのですから。つまり、「将来はどうなってもかまわない」という兆(きざ)しがあるのです。そんなために、見て見ぬふりをするのが、ふつうになってしまいました。将来の国を築く子供の躾などに関して、先進国ともいえる外国ではどうなっているのでしょうか。
 食べ物に関しても、そのような考えの結果による弊害が、少しずつ生じているのはお分かりでしょう。


果てしないことを考える=レオ13世の諫め

 ヒトの脳は、病的といってよいほど異常に発達しました。そこで、哲学者や学者、そして暇のある人はいろいろなことを考えます。

・ 宇宙には初めがあるのか、また終わりがあるのか?
・ 宇宙は有限なのか、無限なのか?
・ 宇宙には、他の生命体がいるかいないか?
・ 私たちの生命は、どこから来たのか?
・ 死後の世界はあるか、ないか?
などです。

 そこで、ローマ法王レオ13世
 <あなたは、空しいことを知りたがってはいけません。自分の仕事に関する専門知識や、気持ちをやすらげるもの以外には、むやみに深入りをしてはいけません。>
と言ったのでしょう。
 レオ13世は謙遜の美徳をもった、めずらしく崇高な法王だと私は思います。


有限の身で無限を追う=キリのない話

 現代社会には情報が満ちあふれています。そこで、つい「何かをしなければいけない」というように考えて焦ります。そして、ストレスを生じるのです。本来ならば、「人間は快適に生きていれば、それでじゅうぶん」なのです。現在の生活に満足であれば、それでよいではありませんか。
 それが、他人と比較をしてみたり、次々と出る新商品を眺めたりして、欲望が煽(あお)られるのです。そして、それはキリがないから解決はいつまで経ってもできません。人間の脳という奇妙に発達をした器官がくり拡げる、異常な非現実空間なのです。

(注) さらに奇妙な脳についての論理は、このホームページの「私のドラゴン伝説・説」をご覧ください。


 また、荘子の言葉でしたでしょうか、「有限の身で無限に向かうのは危うい」ということなども、まったく忘れている自分自身に恥ずかしくなったりもします。
 いっぽうパソコンの世界も、それと似たところがあります。技術がどんどんと発達するからでしょうか。その一部、ソフトウエアの分野でも次から次へと新しいものを追わなければなりません。それが、あまり意味のないこととわかっても、そうしなければ取り残されてしまうからです。
 そのような知識は、例えば「八百屋の隣に魚屋があって、その隣にはタバコ屋があり、そこの娘さんはべっぴんで、隣の町の肉屋の息子と付き合っていて、その息子は……」のように果てしなく、あまり意味もない情報がいつまでも続くのです。そして、それがやめられなくなってしまうのです。

 このホームページについても、最近になって大いに考えさせられました。最初は高齢者が健康で、さらに老化予防をすることにより、充実をした日々を実現するために考えられました。そして、さらに安心立命を確保したいと考えたのです。それを細かく記述していくと膨大なものになってしまい、逆に誰も読んでくれない内容になってしまうのです。
 そこで、アニメーションなどを効果的に利用する方法を考えたのです。しかし、そうしてもキリがありません。次から次へと内容にしなければならないことが増えていくからです。

 言おうとしていることが書物には書ききれないということが、聖書にも言われています。例えば、「旧約」の『伝道者の書』です。
 また、「新約」の『ヨハネによる福音書』の最後には、いずれにしても本には入りきらないという意味合いのことが書いてありました。


鳥の言葉と草の声=物の考え方

 あわただしい現代の生活においては、つい自分自身だけのことしか考えなくなってしまいます。しかし、じっと回りを観察してみると、世間的な教養や学問的知識とは別な角度から、自分なりにわかってくることが多くあるでしょう。それは、生きているのが私たち人間だけではないということの実感です。
 動物や鳥にも言葉があって話をしていたり、木や花にも人間の話が理解できるのではないかと考えることがあります。さらに、石などの鉱物さえも、何らかの意味で意識をもっているのではないかとさえ思うことがあるのは、いったいなぜでしょうか。

 ターザンや少年王者は、動物と会話ができたといいます。しかし、それはフィクションの中ですから、実際にはわかりません。また『聞き耳ずきん』も民話ですから、必ずしも事実かどうかが疑わしいようです。しかし、アッシジの聖フランチェスコが小鳥と話をしたり、カンタンと話したりしたという言い伝えは、何となく私には事実らしく思われます。

 また、孔子の弟子の公冶長(こうやちょう)という人は、鳥の言葉を解したといいます。それは、次のような話です。
 <あるとき孔子が鳩が鳴いているのを聞いて、公冶長に
 「あれは何といっているのか?」
と尋ねた。すると、公冶長は
 「觚不觚(クーブークー)と言っております。」
と答えた。

 また、あるときは孔子が燕の鳴き声を聞いて、
 「あれは何といっているのか?」
と尋ねると、公冶長は
 「知之為知之(チーシーウエイチーシー)、不知為不知(ブーチーウエイブーチー)、是知也(シーチーエー)と言っています。」
と答えた。

 さらに、孔子が驢馬の鳴き声を聞いて尋ねると、公冶長は
 「ちょっとわかりません。田舎なまりのようですから。」
と答えたという。>

 『論語』に文章として出てくる公冶長は、巻第三の「公冶長第五」に一つあるだけです。「公冶長第五」というと、公冶長のことが書いてある章のように思いますが、『論語』の章につけた名称は、最初の文字を取ったにすぎないから一箇所だけでも不思議ではありません。
 ついでながら、その部分の記述は、
 <孔子は、「公冶長は牢屋にいたが、不実の罪であって彼自身の罪ではなかった。」と言って、自分の娘を娶(めと)らせた。>
という内容です。

 さらについでながら、『論語』の「泰伯第八」に、曾子の言葉として
 <鳥の将(まさ)に死なんとするや、其の鳴くこと哀し。人の将に死なんとするや、其の言うこと善し。>
とあります。
 盲導犬などの調教を考えると、私には小鳥や虫との会話が必ずしも不可能とは思えません。


ブーゲンベリアの意気地(いくじ)

 さらに、鳥の鳴き声に続いて、植物との会話です。実際に、私と妻が経験をしたことを簡単に記しておきましょう。
 なお、タイトルの「意気地」は「いきじ」と読んで、「自分の信念をあくまでも通そうとする気持ち」、「いくじ」と読んで、「物事に向かって、それをやり通そうとする気力」を言います。しかし、ここでは「いくじ」と読んで、その両方の意味を含んでいることとしましょう。

 だいぶ前のことですが、団地の「不燃物捨て場」にブーゲンベリアの鉢が、そのまま捨ててありました。むろん、葉は落ちてしまって、花や色づいた苞(ほう)などはまったくありません。しかし、まだ根はしっかりと生きているようです。そんな状態でしたから、妻がちょっと哀れんだ様子で、
 「このまま、燃やされてしまうのでしょうか?」
と言いました。

 そこで、私は鉢ごと拾って帰り、いろいろと世話をしました。そして、3ヶ月くらいすると、青々と元気な葉が出てきたのです。しかし、いつまで経っても苞(ほう)が出てきません。さらに、2年くらい経ったでしょうか。やはり、妻が
 「いつまで待っても花がつかないのなら、やはり捨ててしまったほうがよいのでしょうか?」
と、つい愚痴を言いました。

 すると驚くことに、それから1週間ほどして枝の先に、真っ赤な苞が一つだけ付いたのです。その状態は、何となくブーゲンベリアの木が、
 「ここで何とかしないと、やはり捨てられてしまうのではないか?」
と心配をしたような感じでもありました。
 そして、その秋には見事な苞がついて、花自体も数多く咲くようになりました。その後は、すでに10年くらいなりますが、ずっと年2回ごと美しい開花を繰り返しています。

■毎年咲くようになったブーゲンベリアの苞の色(なお、画像を節約するため共用したので、無意味な文章が付いています。)


 次のようなことを、だいぶ前に別々に何かで読んだことがあります。

(1) 1966年にバクスターというニューヨークの警察官が、ドラセナを嘘発見器にかけて、植物が人間と似た感情をもっていることを発見した。
(2) 鎌倉に住んでいる橋本博士という人は、サボテンに電子装置を付けて互いに話し合うことに成功をしたという。
(3) ヴォーゲルという学者は、人間と植物が愛情を交換したり、恋人のような関係になったりすることができるということを発表して、実際の体験を詳細に報告した。

 また、サン=テグジュペリの『星の王子さま』に出てくるバラなども、いちおう小説として描かれたいますが、それでも何となく感情をかいま見ることができるのは、そんな事実があるためでしょうか。


思い上がってはいけません

 人間は万物の霊長などと言います。しかし、思い上がってはいけません。なぜならば、そうは考えていない人もいるからです。人類などは進化の過程にできた亜種に過ぎず、やがて滅びてしまうものかもしれないというのです。
 サーベル虎マンモスは、身体の一部、つまり牙(きば)を発達させすぎて、そのために滅んでしまいました。そのように、人間もその脳を発達させすぎて、生存が維持できなくなってしまうのではないでしょうか。大きくなりすぎた脳のために、帝王切開によって子供を産むようになれば、もはや自然界の生物とは言えないでしょう。

 生命の系統樹の最先端にいる動物は、むろん爬虫類ではなく、また爬虫類から発達をしたと考えられる哺乳類でもなく、実際にはおそらく昆虫なのでしょう。昆虫の歴史を考えると、人類の歴史などあだ花のようにはかないものなのかもしれません。ホモ-サピエンスなどと言っても、自己の内部に矛盾をかかえている不完全な種なのではないでしょうか。科学の発展は、考え方の基底から変えていきます。
 しかし、現在わかっていることは、わからないことのごく一部分ではないかと私は思っています。


宇宙に溶け込む=宇宙に溶け込んだ状態

 有限の身で、無限のことを追いかけると危ういと言います。そこで、「宇宙に溶け込む」−−そのような生き方が必要なのではないだろうか。私たちのミクロコスモスつまり人体は、マクロコスモスつまり宇宙の中にあるのであるから、それに和むのは簡単にできるはずである。具体的に、何をどうすればよいかを決めることであろう。


20年前の2000年の予測

 今から20年くらい前に、私はときどき企業向け講習会の講師を引き受けました。情報化社会の現実と、その見通しなどについての講演です。そこで、ずいぶんと無責任なことを言ったものだと、現在になって反省をすることがあります。中には、大失敗の発言もあるのです。
 それは、
(1) 20年後、つまり西暦2000年には、現金を持ち歩く必要はなくなっているでしょう。
(2) 本やテレビも利用者が少なくなって、特殊な人にしか必要がなくなっているでしょう。
などという意見です。

 つまり、すべての決済がICカードでできるようになって、財布を持ち歩く必要がなくなっていると考えたのです。しかし、銀行のカードやキャッシュカードなどはいまだに別々になっている状態です。想像では、小銭カードとして毎月3万円位を小口に引き出して利用する共通カードと、全財産を管理するカードがあって、すべてそれらでビジネスや生活上の経済の決済が可能になると私は想像したのでした。
 ちょうど、今の私鉄パスネットのようにすべての私鉄間で共用になると便利なのですが、JRではダメとか、バスは使えないというような制約が多すぎます。そして、鉄道以外の利用はできません。その制約は技術的な問題ではなく、経営や運営の問題、そして利害関係がネックになっているのです。
 私は、自分の持っているカードがすべての改札口を通るだけでなく、買い物や食事でも共通して使える用になっていると考えたのです。それが、クレジットカードなどの決算とは異なって、残高さえあれば即時にOKになるのだと思っていました。
 本についても、新聞についてもパソコンの画面上で用が済む時代になっていると考えました。しかし実際には、2000年を過ぎてからも、書物と新聞はなお健在です。もっとも、本も新聞もそれなりにかなりパソコンに入っているものもあります。しかし、まだまだ書店も新聞社も、従来通りのような方式を守っているのです。
 なぜかといいますと、業界ごとの思惑があったり、利害関係が対立するようなものは実現化をしにくいからなのです。


『方丈記』と『徒然草』=過去の価値観

 現代のようなあわただしい時代にいると、過去の価値観などにもときどき触れたほうがよいでしょう。そのようなときは、古典を読むのがよいかと思います。しかし、そうはいっても大きなものは大変です。また、内容の固いものも何となく面倒くさいです。そんなわけで、随筆くらいがよいでしょう。例えば、『方丈記』や『徒然草』はどうでしょうか。
 そこには、今日でも参考になるような考え方や教訓が多く含まれています。また、味わいのある言葉が多くあるので、きっと勉強にもなりますよ。

 価値観というのは、一方的なことです。かつて、銀が金よりも価値がある時代がありました。後漢時代の中国でも、銀製品は鋳造技術の難しさから、金よりも貴重とされたのです。また同じようなことで、むかし南米では、白金を含んだ鉱石を金と紛らわしいといって、海に捨てていたということです。
 いったい価値とは、何で決まるのでしょうか。美人の西施が来ても、犬は逃げていくでしょう。そして、醜男(ぶおとこ)のあいたいだと話をしていても心が和むと『荘子』にありました。


 

『方丈記』の言葉=鴨長明の世界

 全体の構成は、かなりがっちりしたものです。ピンと張られた糸のような緊張を感じる部分があって、大いに有意義な内容です。また、読んでいると作者の鴨長明が頑(かたく)なな性格を吐露(とろ)している箇所があったりして、なかなか興味深いです。しかし、信仰の不徹底、つまり全体的に仏教に対する信仰が徹底していないような気もします。
 あなたは、どのようにお考えでしょうか?


『徒然草』の言葉=卜部兼好の世界

 全体的には何となく玉石混淆で、思いついたことを次々と書き連ねていったような感じです。おそろしく冷静な作者の考えが述べられていて、興味のなかなかつきない書物です。著者が才走ったような箇所や、後で筆写した人が付け加えたようなところもありますが、著者が博覧強記であったことはわかります。最終段の「仏以前のこと」については、後日になって誰かが追加をしたのではないでしょうか。
 短い文章で、非常に奥行きの深いことまで述べているので、文章作成のために大いに参考になります。
 あなたは、『徒然草』からどんなことを感じますか?


ニッポニア・ニッポン

 この美しい響きをもつ学名の動物は、かつての朱鷺(とき)です。その鳥は、いまでは絶滅をしてしまいました。
 私は、残念でたまりません。
 中国産のものをもってきて、交配をしたりしてトキの保護を国でしているとも言います。しかし結局は、何もしないのがいちばんよいのかもしれないのです。それで、滅ぶものは仕方がないでのしょう。いまさら莫大の予算を投じてするのなら、もっと別の火急の問題があるように思うのですが、やはりそれぞれの立場があるのでしょうか?

 トキが人間の愚かさを指摘して、その思上がりを警告しているようにも思われます。そして、いくらかでも後世の役に立つかもしれないから、私もこんなことを書いているのでしょうか? 絶滅をしていく動物のことを考えると、人間自身の行く末を暗示しているようで、何となく恐ろしい。さらに、オゾン層の破壊、産業公害の続出などは、いったいどうなるのでしょうか。
 自然にあまり関係のない年金制度の崩壊なども、何とかしないといけないようです。そんなことを考えると、この先が問題だらけであることに、うすうす気付かざるおえません。

 本当は、経済的利益よりも健康が第一なのです。しかし多くの場合、実際には逆であることが多いのはなぜでしょうか。
 楳図かずおのマンガに、人類最後の一人になってしまう作品がありました。しかし、それは単に笑い事ではないようです。その作品の構成がすばらしいので、つい釣り込まれて当事者になったような気がするからです。一人になったら、何にもできないのです。

 人間は脳が高度に発達をしてしまったために、いろいろなことを考えたりしたりするようです。例えば、体操や運動をするのも人間だけらしい。また、病院に行ったり、薬を飲むのも人間だけでしょうか。何だか自分で調子を悪くしておいて、互いに治しているという構図が見えてくるようです。そして、愚かなためにムダなシステムが構築されているようです。言葉が発達をしすぎたために、かえって混乱があるのは困ったことです。

 道元(実際にはえじょう)の『正法眼蔵随聞記』に、
 <語言文章はいかにもあれ、思うままの理を顆々(かか)と書きたらんは、後来も文はわろしと思うとも、理だにも聞えたらば道のためには大切なり。>
とあります。

 言葉の堂々巡りになってしまう危惧をいだいているものの、このページでは「死の考え方」なども取り上げてみました。
 また「滅びの哲学」として実朝や『平家物語』もテーマとするでしょう。実朝に関しては、太宰治の優れた考察なども参考にしてみましょう。
 さらに「無駄なものをやめる」「現代の隠遁術」などもテーマになるでしょう。
 また、便利さの追求が自然の破壊につながるということは、朱鷺だけの問題ではなく、やがて人間の未来を暗示しているのではないでしょうか? そんなことも取り上げてみました。
 考えてみれば、
   自動車 冷暖房 新聞 書物(図書館) ダイニングテーブル 借家(公団の賃貸住宅) 風呂
などの問題もあります。

 しかし、何事も慣れるとあまり不自由を感じないようです。したがって、昭和の初期に生活をしていると考えればよいくらいではないでしょうか。
 仮に「健康になる方法(肉体)」が「肉を食べない」ことと「塩を食べる」ことだとします。すると、「幸福になる方法(精神)」は「物をもたない」ことと「金を多く欲しがらない」ことかもしれません。何事も逆説的に考えて、そこに事実があったりすることが多いからです。


「足るを知る」(足ることを知る)

 「知足」という言葉が古くからあります。『老子』に出てくる言葉です。
 また、蹲(つくば)いの5文字「口五(吾)」「口隹(唯)」「口止(足)」「口矢(知る)」つまり「吾唯足るを知る」なども有名です。つまり「口(くち)」という字の上に「五」、右に「隹(ふるどり)」、下に「止」、左に「矢」があって、古銭のような形をしています。そして、上から「口」を共用して右回りに読むと「吾唯足るを知る」になるのです。

  

■作左部幸秋先生の書展で拝見をした知足(左)と先生の書かれたその由来文(右)


 この「足るを知る」という言葉は、有名なので似たような記述があちこちで見受けられます。
 源信『往生要集』や鴨長明『発心集』などでも、記述があります。
 『往生要集』では、
 <足ることを知らば貧といへども富と名づくべし、財ありとも欲多ければ、これを貧と名づく。>
のように記されています。

 また、『発心集』では
 <富めりといへども、願ふ心やまねば、貧しき人とす。求むる事なければ、富めりとす。…… 昔も今も、まことに志深くなりぬることは、必ずとぐるなるべし。>
と言っています。

 これは、また懐奘の『正法眼蔵随聞記』にある言葉「切に思うことは必ず遂ぐるなり。」を思い出させます。

 ない版もあるので、もしかしたら筆写する人が書き加えたのかもしれない。


 哲人の帝王であるマルクス=アウレリウスは、『自省録』(『為政録』ともいう)に
 <尊ぶべきことは、自己の人格によって足るを知ることである。>
 <大衆の賞賛は、舌の拍手にすぎない。>
などと記している。

 一生を椅子の暖まる間もないほどに、東奔西走をして外敵と戦っていたマルクス=アウレリウスは、いったいいつどこで思索にふけっていたのでしょうか。また、マルクス=アウレリウスは日々の時間を割いて「徳」を研究したといいます。しかし、その間にもローマ帝国の事務をまったく怠りませんでした。しかし、そのように賢い帝王でも、一方では……

 マルクス=アウレリウスは『自省録』に、
 <私の妻のようなあれほど従順な、あれほど優しい、あれほど飾り気のない女を妻にもったこと>
と書いている。
 しかし、その妻ファウスティーナは、……
 マルクス=アウレリウスの后の不貞を知らないのは帝だけだったといわれる。そして、その后の子であったためか、妹も弟も后に劣らぬ乱倫であった。
 だから、ソクラテスの妻クサンティッペのほうが、何となく親しみを感じるのではないか。

 また、ついでながらマルクス=アウレリウスは『自省録』に、自分の死に方について
 <あたかもよく熟れたオリーブの実が、自分を産んだ地を讃(ほ)めたたえ、自分を実らせた樹に感謝をささげながら落ちていくように。>
と、その理想を書き残しています。
 これは、私の大好きな言葉でもあります。
 あなたは、どのようにお感じでしょうか?

 私は、マルクス=アウレリウスを考えるといつも『典論』を著した中国の文帝のことを思い出すのです。文帝が、死を思いやって文章を残そうと考えたのは、まだ彼が皇帝になる前のことであったからです。ローマ皇帝でも、中国の皇帝でも優れて偉大だった人は多いでしょう。例えば、ハドリアヌス皇帝です。
 しかし、『自省録』や『典論』のように具体的に残してくれた皇帝は少ないようです。

 さらに、ひるがえってワーズワース(Wordsworth 1770−1850 イギリスの詩人)の言葉、
 <低く暮らし、高く思う>
を私に思い出させます。
 なぜならば、欲望を支配できる精神をもっているということは素晴らしいことだからです。

 そして、フセノフォーン『ソークラテースの思い出』(1の6の10)にあるソクラテスの言葉にも注意が向くのです。
 <欲するものなきは神にひとしい。しかし、欲する物が最小限に少ないのは神に近い。>

 スコラ派の哲学者や中国の思想家、そして日本の仏教者などに、互いに意志を交換していたわけではないのに、意味・内容を同じゅうする「知足」に徹底した人たちがいたのが不思議です。
 いろいろとこの「知足」から、私も考えて「死を心配しない方法」として、別なページで宗教ではない教義「システム論」を導入してみましょう。しかし、そのタイトルは他の宗教を参考にしたので、いちおう

    私のシステム

となっています。


「憂患の初め」と「憂患多し」

 蘇東坡(そとうば)に、
 <人間文字を知るは憂患の初め>
という言葉があります。

 また、『旧約聖書』の「伝道者の書」には
 <智恵多ければ憤激多く、智恵を増すものは憂患多し。>
というくだりがあります。

 いずれも、多くを知れば知るほど悩みが増すということでしょう。次々にエスカレートしていくからです。そんな意味で智『摩訶止観』にも、「すべてを放棄せよ」という意味のことが書かれ、それがまた鴨長明『方丈記』にも引用されていました。
 人生は「憂患の連続」だという人もいます。何とかならないものでしょうか?


健康相談をしてくれる場所がないままに?

 かつて私は「健康に関する問合わせ」を、保健所や市の健康センター、老人福祉クラブなどでしたのです。しかし、現在すでに健康な人の相談にのってくれるところは、なぜか見つかりません。植木でさえ「緑の相談室」というのがあるのに、ヒトに関して相談するところがないという現実が不思議です。そこで、親しい人への問合わせとなった次第です。その後、発送部数の集計をしたら、奇しくも53通でした。
 そして、何人かの方々から、非常に有意義なお答やアドバイスをいただきました。その情報を私一人で利用するのは、有り難くももったいないので、まとめさせていただきこのホームページに記録しようとしている次第です。

 つまり、多くの方々が経験をなさったり、実践ずみである体験をこのホームページで体系化する計画なのです。しかし、どなたからも解答をいただけなかった未解決問題も、まだいくつか残っています。そこで『華厳経』善財童子の話ではありませんが、今後もいろいろな方をお尋ねして、未解決部分を補充していきたいと考えています。
 いままで、ご協力くださった人々に感謝するとともに、自分なりに努力をして、はやく完成したいと思うからです。

 還暦の年に受けた市の健康診断で、医師から「このままの状態でいけば、百歳くらいまで大丈夫でしょう」と言われ、びっくりしたと同時に、改めて不安にもなりました。私事が続いて恐縮ですが、私の父は現在の私の齢にすでに死んでいました。その父は、見事に禿げていて、強い眼鏡をかけ、総入れ歯でした。眼鏡をかけ体型は似ていますが、私は抜歯した親不知歯四本と内側に生えた歯一本の他は、すべての歯がまだ残っています。

 また、私は年六回しか散髪屋に行かないため坊主頭ですが、禿げてもいません。そして白髪はあるものの、頭髪はゴワゴワで毛が太く、薄くなってもいません。そんなわけで最近までは、私もせいぜいあと十年、七十歳くらいまでの命だろうなどと考えていたのです。それが、三十年も違ってしまったのです。その結果、慌てふためき、改めて人生設計を考え直さなければならなくなってしまいました。なぜそんな羽目になったのでしょうか。

 かつて現役のころ、私は定期的に大学病院の人間ドックに入りました。ある時、
 「このままの生活を続けたら、あと数年しか生きられない。そして、その前に目が見えなくなるだろう。つまり、重度の糖尿病と高血圧のため、死ぬ前に失明をする」
という診断結果でした。そこで思い切って仕事をやめ、簡単なアルバイトを始めるようになったのです。知人の薦めで学校の先生をしたり、セミナーの講師をしたりしました。また、教科書や入門書の執筆なども、頼まれるままに引き受けました。

 それからしばらくして、妻に代わって私が食事の用意、つまり料理一切を引き受けたのです。そして、近くのスーパーで買い物するのが何となく格好わるいので、材料はすべて自然食品を扱う宅配方式にしたのです。
 また住居も右隣が消防署(救急車に便利)、向かいは大学病院(救急救命センター)、左隣がプールとサウナ付きの風呂(スポーツクラブ)という場所に引っ越しをしました。つまり、いつひっくり返っても大丈夫という配慮でした。しかし、その建物の設備などが古くなったり、部屋が多かったりしたので、宣告された期間には死ななかったことも考えて、駅から三分、デパート付き住宅(雨の日も傘なしで店や駅に出かけられる)という現在のところへ移ったのです。

 あまり先が長くないと考えたときは、「この世は仮の世」だとか、身体も借り物で家はその入れ物に過ぎないなどと、自己流に屁理屈をつけて、やせ我慢をしたものです。そして、知人の家の屋根瓦が台風で飛んだとか、居間の床が腐って工事が必要だなどというのを聞いて、家も持ち家でなく借家のほうが気楽だなどと、ほくそ笑みました。知人たちが愚痴をこぼしたり、修理費がかかると嘆いたりするのを聞いたからです。
 そんなわけで『方丈記』を愛読したのも、ちょうどその頃のことでした。


健康問題から次々と発展をして……

 あなたは「生老病死」という言葉を実感なさいますか。知人にも、老いてから病気につかまってしまい、長く煩って死ぬというパターンが多くありました。また、長く煩って寝たままであり、いっこうに死なないという方もいます。つまり、ほとんどの人は死ぬ前に病気にかかるのではないでしょうか。

 しかし、いっぽうでは私の知人に「百二十歳まで健康に生きる」と言っておられる人がいます。もう傘寿を迎えられたというのに、とてもお元気です。その方の奥様も、むろん元気で、お顔色もつやつやされています。詳細に伺ってみると、やはり生活のしかたに数々の工夫があられるようです。

 「老い」と「死」はいたしかたありません。そこで、実際にできる有効な方法を学び、「生老病死」でなく「生老死」でありたいと考えました。またたとえ「病」があっても、それがなるべく短い期間でありたいとも願いました。むろん「病」が無ければ、それこそ理想的なのですが……。
 そして、その方法が実現できるということがわかったのです。それは、幸福になる方法とか金儲けをする方法とは、ちょっと異質なのです。言うなれば、中古車を何とか快調に走らせるコツのようなものでしょうか。つまり、故障しないように自己系を改善することにより、病気や怪我を避けるのです。充実した日々を、これからも過ごしたいからです。

 健康な日々の生活には、「安心立命」(あんじんりゅうめい)が必要です。身体ばかりの健康でなく、精神も健康であらねばなりません。心の充足がないと身体も病んでくるのではないでしょうか。元来、人間は身体とか精神とかいう部分をもっているわけでなく、一体なのですから。

 義姉はクリシチャンで、あまり悩みもなく、いつも幸福そうです。そこで、私もやはり何らかの信仰が必要かなと考えてみました。以前から私の愛読している『妙法蓮華経』(法華経)や『仏説阿弥陀経』などがあります。また、釈迦の教えではないが『正信念仏偈』(正信偈)や『正法眼蔵』(「修証義」を含む)には、とても親しみを感じます。例えば『正法眼蔵』は、歯の磨きかたからお尻の拭きかたまで書いてあり、良い本であることは明白でしょう。しかし、肝心な部分になると何だか難しく、私にはどうも馴染めません。

 いっぽう『聖書』は分厚くて「モーセ五書」だけでも大変です。初めから読みますと、新約にたどりつくまでにかなりの日数がかかってしまいます。さらに、新約の最初にある福音書は四つもあって、どれを読んだらいいのかさえもわかりません。
 芥川竜之介も『侏儒の言葉』に、聖書が「唯もう少し簡潔であれば、……」と述懐しています。そこで、私は「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」の記者たちがそれぞれ参考にしたという『クー』(Q資料)を自己流にまとめて用いることにしました。
 これを読むと、何となく心が和むからです。


勝負・競争・籤(くじ)・賭(かけ)=勝負・競争・籤・賭の忌諱(きい)

 私は、「勝負」「競争」「籤(くじ)」「賭(かけ)」などが大嫌いです。つまり、争うことがあまり好きではありません。若いころはともかく、還暦を過ぎたころからは勝負事などもしたことがないのです。パズルを解くとか、クイズを考えるようなことはしますが、相手のある勝負、例えば麻雀とか将棋などもしなくなりました。
 むろん、相手がいないようにも思えますもののパチンコなどもしません。また、ゲームセンターにも入ったことがありません。競馬・競輪・競艇などにも行きませんし、スポーツの試合などにも行かなくなってしまいました。「心地よく伸びやかに生きたい」という考えから始まった勝負・競争・籤・賭の放棄でしたが、それなりによかったと思います。
 競争をすることなく、あくせくすることもなく、いたずらに物事を無意味に追い求めることなく、心の平安が実現できるからです。スポーツ大会やゴルフのコンペ、コンクールや作品の応募などもしなくなりました。そして、その分だけ自分自身の内面の世界に入っていくのです。

 さらに、お年玉くじ付きの年賀状なども、その意味で出さなくなりました。自分なりに何となく人生がわかり始めてきたからです。
 もしかしたら、そのような考え自体になったことが、すでに「生きている資格」がなくなったのかもしれません。そんな心配もし始めたところです。若いころの闘争心や競争心を考えると、まったく別人になった感じがします。やはり、衰えてきて考え方が変わったのでしょうか。

 しかし、これはなかなか難しい問題なのです。つまり、自分自身が厳しい生存競争の中に置かれているという事実があるからです。競争は嫌いといっても、あなたが生まれる前のことを考えてみてください。母親に入った父親の精子は3億匹くらいいたのです。そして、その中で母の子宮に入ったのが約30万匹。そして卵管までたどりついたのが300匹、そのようにして最終的に卵子と出会ったのが何と1匹なのです。
 実際には、それが自分のルーツなんです。

(注) 二卵性双生児の場合は、ちょっと違います。しかしいずれも、ものすごい競争に勝ち抜いたものなのです。


 何とも生まれるときに厳しい競争をしたものです。3億分の1の勝者だったのですから、…… その後も、大人になる前には入学試験などで熾烈(しれつ)な競争をしたわけです。さらに、社会に出てからも茶番劇のような出世競争をしたものです。そんなことを考えると競争が嫌いということは、いったいどういうことになるのでしょうか?
 あなたは、このことをどうお考えでしょうか?


天知る地知る我が身知る=淨頗離(じょうはり)の鏡

 中国の話であるが清廉潔白な役人に賄賂を渡そうとしたら、
 <天知る地知るわが身知る>
と言って、血相を変えて受け取らなかったという。
 しかし、この「天知る、地知る、わが身知る」という諺は、最近になってあまり用いられなくなったようである。誰が見ていても、公然と勝手なことをする人が多くなったからだ。

 この言葉は、自分の中の自分について教えているようです。つまり、最後は自分と自分との勝負になるのである。なぜならば、自分で自分を欺くことはなかなかできないからである。それを「天知る地知るわが身知る」と言ったのであろう。

 この言葉の原典は、『史記』にある楊震(ようしん)の言葉
   <天知る、地知る、我知る、子(なんじ)知る、なんぞ知るものなしといわんや。>
である。

 現在の日本でも、そのようなことがあるのだろうか。また、そのような人がたくさんいるだろうか。私には、わからない。
 淨頗離鏡(じょうはりきょう)という鏡があるらしい。それは、閻魔大王がもっている鏡を言い、何でも過去の行動を映し出してしまうそうだ。以下は、梅尾明恵上人遺訓(梅尾は栂尾(とがのお)の当て字らしい)で、岩波文庫「明恵上人集」の中にあった。

 <人は常に、淨頗離(じょうはり)の鏡に日夜の振舞ひのうつる事を思ふべし。是は陰(かく)れたる所なれば、是は心中に窃(ひそか)に思へば、人知らじと思ふべからず。曇り陰れなく彼(か)の鏡にうつる、恥がましき事なり。>
 そんなことで脅かされることと別に、自分自身に忠実に生きるためには、常に正しいことをしていなければなりません。そうすることによって、心の平安を保つことができるからです。


持ち物の整理

 持ち物の整理をしておくことは、非常に大切なことです。なぜならば、
・ どこに何があるか?
・ 死んだら何がどうなるのであろうか?
・ 貸し借りの整理と形見分けの問題などはどうするか?
などをしっかりしておかないと、安心立命ができないからです。

 「どこに何があるか?」については、常日頃からしっかりと管理をする必要があります。それでなくても、高齢になると記憶力が鈍るので、快適な生活をするためには注意が必要でしょう。結論からいうと、還暦を過ぎたころからは持ち物を減らしていくのが好ましいようです。物を持つというのも、かなり煩わしいことが多いからです。

 生きているうちは、むろんのこと自分自身が死んだときにも、問題を残さないようにしたいものです。自分のしていることを引き継いでくれる人がいないときには、要注意です。なぜならば、中途半端な仕事ですと誰も見向きません。したがって、社会的に見ても意味のないことをしたのと同じになってしまうからです。つまり、死後のことまで考えてするような仕事でなければ、むしろ中途半端にはしないほうがよいということになってしまうのでしょうか。

 「死んだ後のことなどは、どうなってもいいじゃないか?」という人がいます。しかし、そういう考えでは安心立命が確立できんのです。やはり、形見分けの問題まで考えておく必要があるようです。もっとも、形見にして分けるような物さえも持っていないというのが、本当は理想できなんですが、…… まだ、理想的でない人は、むろん私もそうですが、寄贈先のリストくらいは残しておくとよいでしょう。物が生きて利用されるか、ゴミになってしまうかについても最後の責任を取りたいからです。

 柳田国男『遠野物語』にある毒キノコを食べて、幼児を除いて、一家全員が死んだ話があります。隣近所が来て、家財道具一切を持ち出してしまったということです。


整理と後始末

 考え方によっては、人の一生には整理と後始末が大切です。とくに晩年においては、その必要性が大きいでしょう。しかし、いくら整理をしても、まとめても際限がなく、キリがないようです。どこでかで、妥協をすべきでしょうか。あまりにも無駄なことや、身の回りのものが多すぎるのではないでしょうか。
 したがって、やはりある程度のところで、妥協をする必要があるのです。

 いままでの人生で、お世話になった人々が多くいます。いま考えると、今日までに実に多くの人々の世話になったことがわかります。父母はむろんのこと、幼いころから多くの人の好意があって、今日があることをつくづくとわかりました。思い出すだけでも、「海で溺れかかっていたときに、助けてくれた人」「復学をするように、諭してくれた人」などがいます。

 そんな人たちに対して、今になっては直接の恩返しはできません。なぜならば、助けてくれた人は誰かもわからないからです。また、諭してくれた人はすでにこの世にはいません。そこで、誰にでもよいから自分のできる範囲で役立ちたいと考えた次第です。
 そんなことで、このホームページを作成することになったんです。


安心帳の作成

 自分が死んだとき、あるいは自分が記憶を失ったときに、何をどうするかを元気なうちに書いておく必要があります。最低、これだけはしておかないといけないでしょう。妻や今までにお世話になった人たちのためにも、……


ものの見方=死と死後のこと

 還暦を過ぎたころから、間もなく死ぬのではないかと考えるようになりました。それは、当然のことでしょう。高級葡萄酒のビンを開けて、日々少しずつ飲んでいって半分ぐらいになったときのことです。そこで、どのように考えるかの問題となりましょう。「もう半分しか残っていない」と思うか、あるいは「まだ、半分も残っている」と思うかの違いです。
 前者は、かなり悲観的です。しかし、後者はそれに反して楽観的なのです。
 バーナード=ショーが、そのようなことを述べた言葉も気になります。

 半分ならいいのですが、もっと飲んじゃった状態で、残りが少なくなっています。そんなときに、どのように考えるかの問題になりましょう。さらに、ものをどのような角度から見たり、考えたりするかも、重要な問題になってきます。一つのものを見たり、考えたりするのにも、いろいろな基準や角度があるからです。

 例えば、1つのコップを考えてみましょう。
   横から見ると四角
   上から見ると円
   材料でみるとガラス
   用途で考えると食器
 これらをコップのもつアトリビュート(属性)といいます。そして、現在どのようなアトリビュートで考えるかということが、かなり重要になってきます。

 人生の残りが少なくなってくると、「死後に何かを残したい」という気持ちが起きてくるようです。しかし、場合によっては反対に「何も残したくない」という感情もあるのです。そこで、気持ちの葛藤が生じるのです。このまま終わってしまいたいという思いと、その反対のこのままでは終わりたくないという気持ちがあって、常に葛藤に悩まされるのです。それは、まったく不思議なことである。そして、畢竟「人生の目的は」つまるところ「単に生きるということ意外にはなかったのではないか?」などと考えが進んでいきます。


メトナイト派の人たち=一つの生き方



人間とは何か?



神の概念(神・仏・巨人・竜人・魔・霊など)



ムウのアルカナ



教育に関する仮説=銃乱射事件の背景と本質



アンナ=カレニーナと悲愴交響曲



ドン・キホーテ=ラ・マンチャの男



安心立命のページ関連資料



私の「死後の世界」入門



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Kuroda Kouta (2003.05.03/2016.05.09)