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やさしい文章技法2

 二章 ストーリ全体のまとめ方(全体の構成)



1  部分と全体
2  推敲と校正と出版
3  感情移入


1 部分と全体

はじめに=本が氾濫する中でなぜ小説を作るか
全体から部分へ=トップダウン方式
モチーフの育成
物語の中に自分の知識や自分の考えを入れる
タイトルの付け方と効果
タイトル(書名)の書き方
冒頭の書き方=書き出しの問題
フィジカルハンディキャップ(差別語の問題)
白と黒(差別語の問題)
チビクロサンボ(差別語の問題)
自主規制
相手と立場が入れ代わる夢など
文末の問題=文末の変化=語尾の問題
文末をすべて「た」で終えた小説
未完の小説と循環方式の小説
言葉の連関
手頃なページ数=柳田国男
短編小説としての形式=菊池寛
短い小説=『独軍の残したもの』
芥川龍之介とO=ヘンリ
作品の長さについて
奇妙な味のする物語や不気味な物語
幻想的な作品
原典を加工した小説
オムニバス形式の小説
長編を書くときの心構え


はじめに=本が氾濫する中でなぜ小説を作るか

 次々に本を作ることの空しさと愚かさ。それは、私の妻が子供のころに見たという「まんじゅう大喰い競争」に似ています。優勝をしたものの、その晩に死んでしまったからです。また、「蛙(かえる)の腹自慢」という話もあります。自慢をして、どんどんふくらませていったら、とうとう破裂をして死んでしまうというものです。さらに、『方丈記』の「がうな」や「磯鳥」の話を思い出します。そして、旧約の『伝道の書』などにも思いが馳せるのです。

 書店や図書館の棚を見ると、驚くほどの数多くの図書があり、つくづくと新たに書物を作ることの無意味さをわかるような気がします。現代は、地球上に物質や情報があふれているような感じがするのは、私だけでしょうか?

 働かないと、意外に退屈です。定年になったら、することがなくなって老けてしまう人がいます。しかし、働いているときは、何もしなくてよくなることを願ったのです。(落語のすでに寝ていて注意をされる話=『RIKOホームページ』の「笑いの話題 健康訓」にある『もう寝ている』を参照してください。)
 それはともかく、退屈だから何かを書くという人がいます。私には、とても信じられません。それよりも自分が「生きている証明」をするために書いたり、あるいは「脳が退化をすることを防止」するために執筆したりするのが、好ましいと考えるからです。

 求められないのに与える愚。社会から求められているわけではなく、自分自身が必要であるから文章を書くのです。「本」といえども、現代社会では単なる商品なのです。つまり、純粋に芸術ではないところに、さまざまな問題があります。
 本当に(自分にとって)有意義な内容の書物に出会えるのは、一生においても希有なことでしょう。また、いくら文学的に価値のあるものでも、自分が理解できなかったり、感激をしなければ意味があまりないのではないでしょうか? 個人が一様でない以上に、書物も一様でありません。つまり、自分の生涯に有益な書物に出会うのは、千載一遇なのです。
 誰かが推薦をしたとしても、個人差があるので、それが自分自身に有益かどうかわかりません。そして、その判断をするのには、その本を一通り読む必要があるのです。もしも、有益でない場合には、そお読んだ時間がムダになってしまうことも大きな問題でしょう。
 そんなわけで、あれこれと探し回るよりも、自分自身の独自の作品を作るのが好ましいのです。


全体から部分へ=トップダウン方式

 まず全体をしっかりと構築して、その後に部分に入っていくのが好ましいことは事実でしょう。しかし、実際にやってみると、逆の方法も有効であることがわかります。つまり、大きく二分して考えると

(1) 初め全体の計画や構想を作って、細部に向かって書き下ろしていく
(2) 手持ちの細部の素材を集め、必要に応じて不足分を補って全体を構築する

という二つの方法が考えられます。(1)はトップダウン方式、(2)はボトムアップ方式と呼ばれます。
 むろん(1)が好ましいのであるが、(2)のほうも結構利用ができるようです。なぜならば、(2)は作成時の抵抗が少なくて、意外な発展性もあるからです。

 そのことは、料理を作るときのことを考えるとわかりやすいでしょう。(1)は、メニューにしたがって材料をすべて万端整えてから、計画的に料理を作ることであり、それに反して(2)は取りあえず冷蔵庫などに入っている材料で、何とか作ってしまうことでしょう。できた料理は、いったいどちらがおいしいのでしょうか?
 そんなことは、一概には言えないのではないでしょうか。


モチーフの育成

 ふと思い付いたことなどを、小さい紙にメモしておきます。A6版(ハガキとほぼ同じ)やそれよりも小さいB7版の大きさでよいでしょう。一枚で書き足りないときは数枚に続けて書き、ホチキスで止めておけばよいのです。そのようにして書かれた断片を、ここではモチーフと言いましょう。
 そして、そのモチーフを育てていって、まとまった作品にするのです。それは、ちょうどプラモデルの工作と似ています。まず、骨格を作る。いわゆるプロットであり、梗概ともいいます。このときに、あまり細部までこだわってはいけません。ラフでよろしい。なぜならば、最初から細かいことにまで配慮をすると、全体を見失ってしまう恐れがあるからです。
 細部については、全体の見通しができてから仕上げていくとよいでしょう。


物語の中に自分の知識や自分の考えを入れる

 知識や事実を口頭で述べることは、誰でも簡単にできるでしょう。いわゆるお喋(しゃべ)りだからです。むろん、その合間に自分の考えや批判なども入れていきます。そんなことを改めて文章にするというと、急に自信をなくしてしまう人がいるようです。しかし、それは慣れの問題です。
 書くということも、慣れてしまえば結構難しくないものです。また、文章は自分の知識を整理して、いつまでも頭を呆(ぼ)けないようにしてくれます。もともと人間の思考は、言葉によって構築されているからです。したがって、語彙を豊富に知っているほうがストーリの展開には有利でしょう。しかし、少ない単語でも、かなりのことが表現できるので安心をしていただきたい。

 『菜根譚』に、

  <文章ハ極処ニ做(ナ)シ到レバ、他奇アルコトナシ。>
   (最高に完成した文章は、少しも奇をてらったところがない)

とあるから安心をしてください。
 ストーリの中に、ただ自分の知識や考えを次々と入れていけば、それでよいのです。


タイトルの付け方と効果

 意味のわかりやすいタイトル(書名)と、そうでないタイトルがあるようです。
 「旅」とか「雲」などとすると、意味はわかりやすいけれども、何となくイメージが薄らいでしまいます。あまりにも常識的な言葉だからです。例えば、アリストパーネスの『雲』です。そこに、どんな形でソクラテスが出てくるかを暗示しています。

 いっぽう例えば「ヌルトラ・ヴィグルス」などのように、まったく何のことだか意味のわからないタイトルにして、「おやっ」と思わせる技法もあります。実際に存在する言葉ではなく、それは造語であってもかまわないのです。ついでながら「ヌルトラ・ヴィグルス」なんて、ここにあつかましく書いてみたが、私にもなんのことかさっぱりわからないのです。それは、ちょっと『徒然草』(第六十段)の「しろうるり」のような無責任な話ですね。

 平凡な言葉と抽象的な意味の間に、タイトルの大きな発展も可能です。
 例えば、スタンダールの『赤と黒』です。これは赤色が軍服、黒色が僧衣を示しています。つまり、小説の主人公は、軍人にならないで僧侶になったのです。このように『赤と黒』は、ドストエフスキー『罪と罰』、トルストイ『戦争と平和』などよりも抽象的であり、ちょっと内容がわかりにくいので、いっそう効果的ですね。

 また、他の書物からタイトルを採る場合もあります。例えば、ヘミングウェーの『日はまた昇る』です。それは、旧約聖書『伝道者の書』の文から引用されています。第@章@節「@@@」の文、がよりどころになっているのです。

 同じタイトルでも、作家によって内容が異なるのは当然です。そのような例として、
  『浮雲』というのは二葉亭四迷、林芙美子
  『鼻』というタイトルは芥川竜之介、ゴオリキ
にあります。また、
  『富嶽百景』というのが葛飾北斎の版画にあるが、太宰治の文章
にもありました。

 タイトルだけで内容がわかりにくいときは、サブタイトルを付けてもよいでしょう。例えば、
   『ニッポニア・ニッポン』−−日本人の愚かさの研究−−
などのようにします。

 また、文頭に引用まくら詞(ことば)などを引用するのもよい。その言葉をエラスムスの『愚神礼賛』などから引用するのも適宜な方法ではないでしょうか?

 うがった書名、意表を突いた書名としては、
   「常識の非常識」
などが考えられます。
 さらに大げさに、宇宙を閉じこめたようなタイトルの書名もよいかもしれません。

 美しいものと醜いものを対比させるとタイトルの効果が得られるようです。例えば、
   「天使のはらわた」「ミイラと薔薇」
などのようにです。
 呼びかけや、疑問文のタイトルとしては
   トルストイ『人はどれだけの土地を必要とするか』
のように、
   「あなたは何をすればよいのか?」
   「人は何処から来て、何処へ行くのか?」
などというような書名を考えたら、書くことがたくさんあることに気付くでしょう。すると、頭が活性化して老化の予防ともなり、なかなか呆(ぼ)けないでしょう。


タイトル(書名)の書き方

 ふつう、タイトルは本文よりも大きな文字で書かれます。しかし、同じ大きさの文字でもかまいません。昔の和文タイプライタなどでは、いろいろと工夫をしたものです。
 一例を示すと、
   一文字のタイトル △○△
   二文字のタイトル ○△○
   三文字のタイトル ○I○I○
   四文字のタイトル ○○○○
のようにしました。
 ただし、「○」は一文字の位置を示し、「△」は一文字分の空白を示します。また、「I」は半文字分の空白を示しています。そして、5文字以上のタイトルは、ふつうの文と同じピッチになるわけです。


冒頭の書き方=書出しの問題

 冒頭の書き方も、かなり大切です。なぜならば、読者を引っ張り込む必要があるからです。つまり、最後まで読んでもらうためには、最初のほうにいろいろと工夫をする必要が生じます。しかし、ここでは自分自身に対する作品でもあるから、あまり冒頭に凝る必要はないでしょう。
 会話で始まるものは失敗するともいうが、展開のしかたによっては、むしろ効果的かもしれません。


フィジカルハンディキャップ(差別語の問題)

 フィジカルハンディキャップを露骨に示す言葉、例えば
  びっこ、ちんば、めくら
などのような言葉を使うことは、絶対に避けてください。どうしても使う場合は、例えば「めくら」は「盲人」としたほうがよいようです。もっとも『カムイ外伝』には、そのままの表現があったようです。作品の性格上、置き換える適当な言葉が、なかったためでしょう。
 また、侮蔑や軽蔑の意味をもつ言葉は使わないほうがよいことは、言うまでもありません。


白と黒(差別語の問題)

 碁石は白と黒で、強いほうがふつう白をもち後手になります。もしもこれが日本でなくアメリカであれば、問題になるかもしれません。現に、ウィンドゥズ付属のゲーム「オセロ」が「リバーシ」になっていて、その駒も白と黒ではなく、赤と青を用いています。


チビクロサンボ(差別語の問題)

 長男がまだ幼稚園のときに『チビクロサンボ』という本を買い与えたことがあります。そのときに、私は単に面白い本だと思っただけでした。バージニア=バートンの『小さいお家』と同じ岩波の絵本シリーズです。その後その『チビクロサンボ』は発刊されなくなってしまったようです。
 同様に、ピグミー、ジプシーなどの呼び方もいけないらしい。めくら、つんぼなどのようなフィジカルハンディキャップと同様に、作品中の人種問題にも配慮をすべきです。


自主規制

 出版物に対してクレームが来ないように、あらかじめ編集者がチェックをします。これを自主規制というそうです。しかし、自分自身のために書いているような場合には編集者がいないのですから、自分自身でチェックをする必要が生じます。
 いちおう文章の形を採るからには、他人に読まれない場合でも、そのような気配りが必要でしょう。


相手と立場が入れ代わる夢など

 ある瞬間から、ふとしたことで相手と立場が入れ替わってしまうタイプのストーリがあります。例えば、
  倉田百三『出家とその弟子』の夢にある鶏を殺す話
  オスカー・ワイルド『ドリアン・グレーの肖像』
  ポー『ウイリアム・ウイルソン』
などです。

 何かずるいことや悪いことをした瞬間に、相手と自分が入れ替わるのです。つまり、相手を殺したときなどに入れ替わってしまう。加害者が被害者になったり、被害者が加害者でもある不気味な関係です。まな板の上の魚でもよいでしょう。ぐさっと包丁を刺したとたんに、それが自分であったという設定です。
 このホームページ「自己福音書」にある『食用がえる』を参照してください。


文末の問題=文末の変化=語尾の問題

 「である調」にしろ「です・ます調」にしろ、厳密に守ると文末の変化が乏しくなってしまいます。法律などの文書ならば、それでよいだろうが、文学となると変化がなく単調になるのは不都合です。原則としては、調子を統一しなければならないのではあるが、過去や現在、さらには未来形、疑問文などを混ぜ用いることによって、文体に変化を付けるとよいでしょう。

   た です ます である ……ない


文末をすべて「た」で終えた小説

 芥川竜之介『六の宮の姫君』は、会話の部分を除いて、すべて「……た。」で終わっています。それが、朗読をするとリズムになっているのです。
 そこですべての文末が、
   ……であった。
   ……だ。
   ……だった。
などで終わる文章の試みたら、いかがでしょうか?


未完の小説と循環方式の小説

 途中で終わって、その後の展開を読者のイメージにまかせる方法があります。そんな効果の小説に芥川龍之介の『邪宗門』があります。しかし、下手に作ると単に未完成の小説ということになってしまいますので、注意が必要です。むろん、未完成でも作品として通用すればよいのですが、いいかげんな内容のものは単に未完成として終わってしまうでしょう。

 途中の原稿が、一部欠けているようなこともあります。
 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』には、「ここに原稿数枚が欠けている」と書いてある部分がありました。それは、おそらく作者が書いたのではなく、出版社の編集者が加筆したのでしょう。

 最後の部分からふたたび冒頭へ続くことができるような書き方があります。循環方式の構造になっているのですが、ジェームズ=ジョイスの『フィネガン ウィーク』がそうです。雄大な川の流れをテーマにした小説ですが、言葉の使い方に特徴があって、そのために何となくわかりにくいようです。柳瀬氏ほどのベテランが訳したものでも、なかなか理解がしにくいという内容のものとなっています。


言葉の連関

 インプットをしているときなどに、ふと関連づいたことを思い出すことがあります。遠いところの地名を聞いたりして、ノスタルジアを感じることもしばしばです。二つの言葉の連関とは、いったい何でしょうか?
  「罪と罰」
  「天国と地獄」
  原因と結果
  行きたいところと行きたくないところ
  
 三つの言葉の連関 バッハのカンタータ「口と@@@と行いと」
  このカンタータの三つ(四つ?)の言葉が、武者小路実篤『友情』にありました。@@@


手頃なページ数=柳田国男

 日本民族学の創始者ともいわれる柳田国男は、その著書が500ページを超えないようにしていたそうです。その理由は、学問が国民の多数の生活に溶けこまないと意味がないと考えたからです。そして1000ページを越す論文は、学者用の書物であるからです。実際に、彼の本はほとんどが手ごろな厚さのものということです。
 しかし、情報量が多くて慌ただしい現代では、もっと短くする必要があるかもしれません。つまり、ゆっくりと読んでいる時間が持てない人が多いからです。したがって大きなものは、小さい独立した部分から構成するようにしたいものです。このホームページも、なるべくそのようにしてあります。
 なぜならば、どこをどのように見ていってもよいように作ってあるからです。


短編小説としての形式=菊池寛

 短編の理由としては、いみじくも菊池寛が1919年(大正8年)に『短編の極北』で指摘しています。しかし、手元に原典がないので、大西巨人の記述からの孫引きで恐縮ですが、次に示しておきましょう。

 <人間の生活が繁忙になり、籐椅子に倚(よ)りて小説を耽読し得るような余裕のある人が、段段少くなった結果は、五日も一週間も読み続けなければならぬような長編は、漸く廃れて、なるべく少時間の間に纏まった感銘の得られる短編小説が、隆盛の運に向かうのも、必然の勢であるかもしれない。
 兎に角、退屈な二百枚も三百枚もの長編によって、読者の忍耐を不当に要求するよりも、短編小説の方が、縦令(たとえ)愚作であっても、読者にそうした被害を及ぼさないだけでも勝って居ると思う。>

 なお、この孫引きの引用文章については、扇谷正造氏の『現代文の書き方』でも確認をしました。


短い小説=『独軍の残したもの』

 菊池寛は、短編がわが国ではまだめずらしかったので、当時のヨーロッパで盛んであった短編小説の例としてホウの『独軍の残したもの』を揚げています。ついでに、菊池寛訳のそれを次に写しておきましょう。

 <大戦は終った。彼は独軍の手から取り返した故郷の町へ帰って来た。彼は街頭のほのぐらい街筋を急ぎ足に通って居た。一人の女が彼の腕に縋(すが)って、しわがれた声で話しかけた。
 「何処(どこ)へ行くのさ、旦那! 私と一緒に行かない?」
 彼は笑った。
 「お生憎(あいにく)様だよ、姐(ねえ)さん! 情婦(いいひと)の家を探しに行くところだもの。」
 そう云って、彼は女の顔を見た。彼等は街灯の傍にさしかかって居た。女が「あっ」と叫んだ。彼は女の肩の所を捕えた。そして街灯の所へ引きずって行った。彼の指は女の肉に喰い込み、眼は燃えた。
 「ジョアンじゃないか。」と彼はうめいた。>

 素晴らしい作品です。そして、まったく菊池寛の言うとおりだと思います。しかし、菊池寛はあらゆる面(文章技法や経営手腕など)で優れていましたので、少し時代の進行を早く見すぎてしまったようでもあります。そのような理由で、ちょうど現在が彼の述べているようなときになりましょう。


芥川龍之介とO=ヘンリ

 短編小説しか残さなかった作家もいるようです。例えば、芥川龍之介はどうでしょうか。
 かなり長い作品もありますが、私が読んだ範囲では、いわゆる長編小説というようなものはないようです。もしも、あったらご教示をください。
 アメリカの作家O=ヘンリにも長編はありません。O=ヘンリは、わずか10年足らずの間に、280編もの短編小説を書きました。それらは、ユーモアとウイットとペーソスを含んでいて、素晴らしい作品です。また、結果の意外性などは、いま読んでみても斬新で感心させられます。


作品の長さについて

 一つのファイルは10ページ前後とします。これは、
  短編小説一つの長さ
  長編小説 一章(九〜一二章で構成のとき)
  長編小説 一節(三章で構成し、その下の単位となるとき)
です。そして、それがいずれも一回の読み切り単位なのです。
 したがって、長編小説でもこの10ページ前後をそれなりにまとまった内容とし、単独でも何とか鑑賞できるものにしたいと私は考えます。なぜならば、連載をしたり、作品の一部分だけを抽出して発表をしたりすることがあるからです。


奇妙な味のする物語や不気味な物語

 奇妙な記録は、古くは中国の『山海経』に始まり、『聊斎志異』、わが国の『雨月物語』などに及びます。
 また、カフカのあの不気味さを感じさせることは、非常に効果がありましょう。最近では、『世にも奇妙な物語』というのがありました。


幻想的な作品

 幻想的な作品も、作りたいものです。幻想は、思考と同様に人間の意識のあり方であるからです。つまり、そこで真実を探求するのです。その場合、思考は対象を理解しようとし、幻想は対象を発見しようとします。だから、幻想には試行錯誤が必要になるゆえんです。
 幻想文学(短編小説)は今までにない可能性を発見しようとする試みでもあります。したがって、文学の堕落といわれたり、何を言おうとしているかと疑われたりする危険が伴うのです。


原典を加工した小説

 『蜘蛛の糸』(芥川竜之介)、『出家とその弟子』(倉田百三)、『恩讐の彼方に』(菊池寛)などは、何らかの事実や故事、または原典に基づいて書かれています。したがって、わたしたちもモチーフをそのようなところに求めてもよいでしょう。
 『@@@』の「@@@」を原点とした菊池寛の『少将@@@の母』、芥川龍之介の『好色』などを読み比べて、あなた自身で研究をしてみてください。


オムニバス形式の小説

 次に、なぜ短編でオムニバスであるかの問題です。菊池寛の意見も大きな原因ですが、わたしたちは作家ではなく、自分自身の老化予防という目的のために文章を作る必要があるのです。したがって、その行為が現実的に効果を実現できないと困るのです。そんな理由で、わかりやすい短編を連ねていくのがよいのです。
 そのようにすると、結果的にオムニバスができていくでしょう。


長編を書くときの心構え

 長編小説を書くには、かなりの集中力と期間が必要です。しかし、私は元来あまり精神力は強くないのです。だから、もしも長編を作れといわれたら大きな苦痛です。つまり、かなりの無理をしなければならないからです。ない能力をあらんかぎりふりしぼるのは、疲労が激しく健康的ではないでしょう。
 そこで長編は
  『海の嵐』
  『愛と死と永遠の章』
の二編をサンプルとして作ってみて、他は短編小説を作ることで老化予防を実現していこうと思います。
 そして、その長編も短編の集まりの様式にしてしまいましょう。


2 推敲と校正と出版


最初の原稿を推敲する
文を二つに分けて書く方法
文字の区切り・言葉の句切り
イメージを作品へ
推敲と校正の手順=作品を読んでみる
観察の不十分による勘違い
ストーリの構築方法
パロディと模倣
推敲と校正=手直しの楽しみ
原稿が仕上がったら出版する
製本のしかた


最初の原稿を推敲する

 最初は、形などをかまわず、句読点なども細かく考えずに、とにかく書くことだけに留意をします。例えば「……である」という表現が10回続いてもかまわないのです。そして、モチーフをつなげていくという作業は、文学などというよりも、むしろ手作業といった感じでよいでしょう。あたかも塑像を作るような心構えで、ただ作っていけばよいのです。
 ここで、細かいところへ入ってしまうと、全体がぼやけてしまうからです。
 推敲や校正をするときは、第三者としての心構えで行うとよいでしょう。はじめ何気なく書いたものを改めて読むと、何だか他人の文章のような気がすることもあります。このような行動をすると、頭がフレッシュになって、脳が呆(ぼ)けないはずです。


文を二つに分けて書く方法

 長い文を避けるために、二つに分けて書くことも有効です。例えば、
   私は気がついた。……ということに。
   私は知った。……ということを。
   実につまらない(意味のない)ことである。(ことだ) ……は。
などのようにすると、複雑な事象も簡単になってしまいます。


文字の区切り・言葉の句切り

 推敲や校正をして読み直してみると、単語によっては、読みにくいことがあります。
 例えば、
  オニオンスライス
  ハナミズキ
などです。
 オニオンをスライスしたいわゆる「タマネギの細切り」なのですが、それを知らない人は「オニオンス」と「ライス」なのではないかと勘違いをすることもありましょう。いっぽう「ハナミズキ」は「花水木」という植物です。そのような場合は、半文字分をあけて
  オニオン スライス  ハナ ミズキ
などとしたら、どうでしょうか。中黒(・)を用いて、
  オニオン・スライス  ハナ・ミズキ
などとする人もいますが、ちょっとオーバーな感じがするようです。文章を読む人が勘違いをしないように、常に作者は注意をしなければなりません。


イメージを作品へ

 イメージを作品にまで表現するには、やはり情熱が必要です。ほとぼしるように出てきた発想と、無理矢理にしぼり出した考えでは、大いに作品の出来映えが違ってきます。イメージやアイディアが次々と湧き出してくるようになると、創作活動は活発になることでしょう。
 そのような状態が、あなたにとって好ましいことは言うまでもありません。


推敲と校正の手順=作品を読んでみる

 作品を仕上げていく手順は、ふつう

(1) 原稿用紙に書く。または、ワープロの画面上であってもよい
   むろん、画面ではなくプリントアウト(印刷)をしてもかまわない
(2) 朗読をしてみる
   パソコンの自動音声朗読であってもよい
(3) ある程度まとまったらテープに録音をする
   パソコン内のファイルでもよい
(4) それを聞いてみる
(5) そして、ふたたび(1)へ戻る

のような反復をするとよいでしょう。
 そのようにしていくうちに、次第に満足できる内容になっていきます。ここで、直しだすとキリがないということも知っておく必要があります。


観察の不十分による勘違い

 「勘違い」という言葉を「感違い」と勘違いすることがあります。むしろ、そのほうが真実のような感覚を受けるからです。身の回りには、勘違いがずいぶん多くあります。例えば、電車の窓の大きさです。電車の窓は、結構大きいものです。肩幅で二人分、したがって頭も二人分。子供の絵などには、1つの窓に一人になっていることが多いので、勘違いをしてしまいます。
 ボッチェリニの「春」に描かれたビーナスの足の指が、奇妙に長いように感じたことがありました。そして、改めて自分の足をじっと見たら、さほど長すぎてはいないことが、よくわかりました。そんなものでしょうか?

 つまり、
  手と足が小さい……サザエさんのマンガにあるように
  電車の窓と人間の頭……小学生の写生にあるように
というような勘違いは、文字に対してもしばしば生じます。
  多摩ニュータウンと多磨墓地……「多磨」がないワードプロセッサでは気付かないことが多い
  高橋不動産 高幡不動尊
なども勘違いをしてしまいます。


ストーリの構築方法

 簡単な言葉を無作為に作ることによってイメージをふくらませていき、次第にストーリを形成させる方法があります。行き詰まったときには、気分転換にもなってよい方法でしょう。
  単音(五十音の文字)の組合わせ → 語彙(言葉)
  語彙の組合わせ → 文、節
  文、節の組合わせ → 章
というように考えたらどうでしょうか。
 つまり、語彙(言葉)から連想をしていって物語に仕上げるのです。例えば、
  傘  骨  紙  雨
という4つの言葉から、
  「から傘は竹の骨組みに油紙を張って、雨の日にさし、濡れるのを防ぐ」
などとします。また、
  石  虫  死
という言葉からは、
  「小さな虫が石の上で死んでいる」
としてもよいでしょう。


パロディと模倣

 パロディや模倣も面白いかもしれません。しかし、盗作は以ての外です。よほど注意をしないと、盗作のそしりを免れることができないようです。ここでは、文学でなく音楽の例で述べてみましょう。

 ヨハン・セバスチャン・バッハのオルガン曲『前奏曲とフーガ ホ短調』(バッハ作品番号533)は、ルクステフーレの同名同調の曲と非常によく似ています。ルクステフーレはバッハよりも先輩で、バッハは二十歳代にその曲を聴いて感銘を受けたといいます。そして、その記憶が心の中にあったのでしょう。
 また、バッハにはヴィヴァルディの曲もあります。それはヴィヴァルディが復活をして、楽譜が再発見される近年までわからなかったのです。ルクステフーレのことはよくわかりませんが、ヴィヴァルディの曲はバッハが編曲の練習にしたらしいのです。そして、ヴィヴァルディの曲が知られていなかったのでバッハの曲となっていたのです。


推敲と校正=手直しの楽しみ

 自分で作ったものを直していくということは、少なくとも客観的に自分を見直すことなのです。したがって、呆(ぼ)け防止の効果も大きいことと思われます。より完全なものを求めるというのは、まだ自分が元気であるという証拠にもなることに違いありません。
 完成品に近づける楽しみ、自分を見つめ直す喜び、そんなことが実現できるのです。そして、完成をした手持ちの作品を増やしていきます。丹精をこめて蘭をそだてたり、盆栽を作る人の気持ちと同じでしょう。むろん小説だから、事実とは異なります。現実の中に想像も入り組んだ世界です。それでよいのです。
 何かの本で、「志賀直哉は暇があると小品を取り出して、筆を入れていた」ということを読みました。


原稿が仕上がったら出版する

 ここでは、自分でできる軽印刷を考えます。そして、以下の項目に分けて、その方法を述べておきましょう。
 むろん、出版社に依頼して自費出版をすることも可能ですが、費用をかけないということと発行部数が少ないということによって、自作をしてしまったほうが手っ取り早くてよいでしょう。


ページのふり方=ノンブルの付け方

 奇数から始めます。したがって、例えば5ページと6ページの間に栞(しおり)を挿(はさ)むということは、まったく無理なのです。なぜならば、それが一枚の紙の表裏だからです。簡易製本のときは、奇数ページでも偶数ページでも、まったく同じデザインになる中央下ノンブルが簡単でよいでしょう。


製本のしかた

 いったんクリップで挟んでから、ホッチキスで止めるとずれにくい。このとき、100ページ前後であれば6ミリ程度の針でよい。また、三ヶ所ないし五ヶ所くらい止めるのであるが、まず中央を止めてしまいます。その後、両端を止めると紙がずれにくいようです。
 むろん、このとき用いるホッチキスは小型のものではなく、大型のものになります。紙の大小が不揃いになるときは、縦書きのときは左辺と下辺を揃えるようにするのがふつうです。右側のホッチキスで止めた上に、少し厚手の表紙を挟み込むようにして貼り付ければ一冊が完成です。


3 感情移入


琴線に触れる書き方
読者に対する挑戦
感情移入(アインヒュールンク)を効果的に用いる


琴線に触れる書き方

 いずれにせよ、どのような書き方がよいかは、各人ごとに自ずと決まってくるでしょう。しかし、少なくとも作家であれば読者があるわけですから、その琴線に触れるような書き方が、どれだけできるかという問題になってきます。それはまた、作家が不特定多数の読者に対して、共振周波数をどれだけもっているかということでもあります。
 私は、はつらつとした喜び、深い悲しみ、青春の果てしない希望、そして人生における洞察などを次々と描いていこうと考えています。むろん、自己の焦燥や葛藤なども作品の人物に投影をしていくつもりです。
 あなたも、ぜひそうしてください!


読者に対する挑戦

 読者に問いかける。読者が傷つくようなことをあえて言う。読者に挑戦をする。読者を不安にする。そんなことも、ときには必要ではないでしょうか。
 ここで、以前に押しかけてきた何とか物産という穀物投資会社の中野某という新人セールスマンの言葉を思い出します。そのセールスマンは実にうまい売り言葉と買い言葉で、つい相手が冷静を失ってしまうように進めていきます。会社で、くどくどと教えられたのでしょうか? しかし、文章であっても極端な不快感を伴うような記述は、なるべく避けるべきです。

 現代は情報過多の時代ともいいます。少しぐらいのことでは、刺激が足りません。そこで、小説の内容も過激になっていくようです。「これでもか、これでもか」とだんだんどぎつくなってゆくストーリが多くなってきました。それは、ちょうどスポーツ新聞の見出しの大きな活字のようです。
 もしかしたら、それは内容がないのに目立つようにする手法であるのかもしれません。


感情移入(アインヒュールンク)を効果的に用いる

 心理学でいう第三者の@@@
 S社の秘密p135
 むろん、作者は主人公に感情移入をするのです。その結果、冒険の世界、メルヘンの世界、……などへ行って遊ぶことができます。
 三島由紀夫は、執筆中の主人公になりきったような時期があったそうです。作中の人物になってしまうことも、とききには必要なことでしょう。観客が劇中の悪役の仕業にたまりかねて芝居舞台にかけあがり、つかみかかったという話があります。また、江戸時代には舞台に上がった侍が、悪役の役者を切り捨てたという話も残っています。


Kuroda Kouta (2002.06.23/2011.02.03)