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 やさしい文章技法1

 一章 構成要素としての文(部分的なこと)


 この章(ページ)に含まれる節

     1  文の基本(文や語の考え方)
     2  ことばの問題(限界)
     3  文の技法(実際に書くときのアドバイス)と効果(書いた結果)


1 文の基本(文や語の考え方)

     このページの目的
     このマニュアルが必要な理由
     文章作品の種類=表現の形態=『RIKOホームページ』
     「私の」の意味
     情報過多の時代=読まれない本
     情報過多の社会
     図書の発行数と廃版=空洞化する出版文化
     書物を書きたがる人々
     なぜ本を読むのか
     文を読む楽しみ
     朗読をしたり、聞いたりする
     多読について
     読書の功徳
     本を読む楽しみとその限界
     小説の世界=本を読むということの限界
     本を読むという病気(パパラギ風の見方)
     本病という不思議な病気
     評論家と作家
     脳のインプットばかりを継続すると?
     なぜ文章を書くか?=「文章制作は生きている証明」
     自分が主人公=可能性の追求
     生きている証明
     考えることの大切さ=死ぬまで元気
     考えることの楽しさと知的な世界
     閉じこめられた世界
     知的空間を拡げる
     高齢化社会の到来
     老化の防止=ぼけ予防と不老
     脳へのインプットと脳からのアウトプット
     カオスとシステム=混乱状態から整理状態へ
     文章制作法=『顔氏家訓』の記述
     周囲のストレスとキリのない追求
     文や小説を書くという目的
     テーマをもった小説
     なぜ日記でなく小説なのか?
     なぜ短歌・俳句でないのか
     なぜ発表をしないのか=発表が目的の記述ではない
     ベストセラーを作ろうとする愚
     文章を書くときは気楽に!
     文字で文学を作る
     文字と文学と学問
     言葉のわな=ヨブ記
     作品への愛情


このページの目的

 この資料は、ホームページの文章部分を作成したり、さらに創作をするときの指針や覚えとして私がメモをしたものです。つまり、最初の作成の動機は、私が文章や作品を作るときに参照するためのマニュアルだったのです。さらに、小説や短歌などの文学作品を作るときの手順や注意、そしてコツなどを私なりにまとめて記したました。したがって、私独自な判断や癖、さらには偏見が含まれているかもしれません。

 そんなわけで、あなたの必要に応じて、あなたご自身が自分用にマッチさせるためには、この内容を変更していただきたいと思います。なぜならば各自が、自分で文章を作るためのガイダンスを用意しておくと、後々非常に効率がよいからです。
 また、私はこの資料自体を「老化防止」という目的のためにも作成しました。そしてその目的にしたがって、記憶の整理や確認をしたのです。だから、とくに発表を目的とした文章ではありません。社会から忘れられないために行う自分自身への励みなども、あるいは老化予防の行動とも言えるかもしれません。

 言葉で自分の心象を文章の中に閉じこめる。そんなことも大切でしょう。そして、その技法を学ぶのも目的の一つなのです。つまり、スナップ写真のように文の中に、ある時間を閉じこめることが、このページを参考にしてできるようになるのではないでしょうか。
 ホームページを作ろうとしているときに、ずるずるとどこまでも調べ物が続いて、引っ張られていったのでは時間がとても間に合いません。学問や図書などを次から次へと調べていくと、キリがないからです。そこで、最初に一通りのことをまとめて、覚えとしてこのような形でメモをしておきました。標準作業を決めておいて、効率よく多量の文章をインプットするためです。

 以上のようなことをここに、あらかじめお断りしておきましょう。


このマニュアルが必要な理由

 複数の文書を作るときに、ある程度の基準を設けておかないと、全体や互いの結びつきが悪くなってしまいます。つまり、基準がないと長編の場合における各章の関連性や、その各シリーズごとに含まれる短編作品の統一性が弱くなってしまうのです。とくに、一連のオムニバス用短編小説を作るときには、できるだけシリーズごとに書法を統一しておきたいものです。あえて効果を出すために、異なった書法を用いる場合のほかは、あなた自身の覚えによって、まとまりのある洗練された文章を作成するように、常に心がけるとよいでしょう。

 例えば、時代ものなどは、工夫をした独特の記法が必要になってくるのではないでしょうか。
 そのシリーズの中で統一した記述方法をしないと、内容が散漫になってしまいます。また、それなりの全体的な基準を作らないと作業の効率が悪く、進捗が思うようにいきません。私の場合、そのようなことが今までの経験的な事実なのです。
 そのような理由から、どうしてもマニュアルが必要でした。そんなわけで私は文章を作成するときは、このマニュアルを参照をしながら作業を進めるようにしています。


文章作品の種類=表現の形態=『RIKOホームページ』

 新聞記事、解説記事、評論、論文、大衆小説、随筆、純文学、詩歌などがあります。
 総トップページである『RIKOホームページ』は、おそらく上のいくつかの分野を含んでいますが、平均的には「評論」と言ったところでしょうか。


「私の」の意味

 このページで、「私」とあるところを「あなた」としていただきたい。
 したがって、ここで「私の文章技法」というのは「あなたの文章技法」のことです。なぜならば文章技法は、元来それぞれの作者によって異なってくるものですから。したがって、各自で詳細を確立していただきたいのです。そんな意味で、ひととおり原則的なことや「私の場合」の一例を参考までに述べておきましょう。

 紙とボールペンがあれば、それなりに文章や小説などが書けるでしょう。しかし実際にやってみると、その創造力よりも「文章作成のコツ」がないと満足なものができないことがわかります。それは、「考え」があっても「その方法」を知らないと効率が悪く、仕上がりがおぼつかないということなのです。人それぞれ生き方が異なるように、文章の書き方もそれぞれ違うでしょう。
 そんなわけで、あなたも自分自身の書き方を確立する必要が生じるのです。

 私が何とか一人立ちをしてやっていけるのは、周囲の皆さまのご好意とご指示のおかげです。今までお世話になった人々が私に与えて下さった技術を、若い人たちやこれから始める人たちに伝えることによって、いささかなりともご恩返しをしたいと考えています。自分自身の方法を確立するということは、「自分の存在」や「自分が生きていることを確認する」ということでもありましょう。
 自分にとって、価値観は独自なものであるから、必ずしも世間の評価とは一致しないものがあるかもしれません。

 不遜ではあるが、ベートーヴェンの音楽もあるときには騒がしく感じるでしょう。またピカソの絵さえも、子供じみて安っぽく見えるときがあるかもしれません。それは、受け取る側、つまり自分の心の持ち方によるからです。


情報過多の時代=読まれない本

 書店では、届けられても開けられないままに、段ボール箱のまま返送される本があります。棚がすでにいっぱいになっているから、展示をする場所がないのです。そこで、店長が「あまり売れない」と判断をした本は、そのまま返品になってしまいます。

 日々、図書館に寄贈本として送られてくる本も多くなっています。
 自費出版などの美しい本もあります。私の親しい知人に市の図書館員になっている人がいるのですが、すでに収納をする場所がないというのです。そこで、一人に貸し出す冊数の制限をなくしたそうです。つまり、図書館の本は図書館自体にあるもののほかに、各家庭などに分散して置かれていることになるのです。
 図書館の本は、どんどんと処分がなされているのが現状です。それらは、読まれないままに処分されている本に多いようです。そして、ゴミの中でいちばん多いのが本の形をした紙だといいます。これでもか、これでもかというように出版物が出てきます。しかし、多量の本やCDが出ても、全体的には消化しきれないのです。

 そんなわけで、それらを追い求めるよりも、自分なりに作るほうが面白いかもしれません。作られたものを追い求めるのは、費用はともかく、際限がなく時間を大幅に消費させられるからです。初めから読まれない本や、流行に乗って一時的には読まれても廃(すた)れてしまった本などが、あまりにも多い中で、本当に自分自身に必要な本は何であるかを考え直す必要があるのではないでしょうか。


情報過多の社会

 図書館に行くと、小説にも名作が多くあることがわかります。書店でも、ベストセラーなどが積み上げられています。むろん、それらの本をすべて読むということは、忙しい現代社会では実際には不可能でしょう。
 だいぶ以前のことだったと思いますが、「本をすべては読み切れない」という主旨で『リーダース ダイジェスト』という月刊誌がありました。その本は、話題になった本のエッセンスを抜き書きしてあり、それだけで全体がわかるようになっていました。しかし、その『リーダースダイジェスト』という本自体も、読まれなくなって、すでに廃刊になってしまったようです。

 現代は、一般に情報が多すぎるのです。いわゆる「情報過多の時代」とでも言うのでしょうか。しかしそう言う一方では、自分に合ったものや情報が少ないことにも、うすうす気付きます。いざ探してみると、なかなか気に入ったものがありません。だから、出来合いの規格品の中に自分を入れる感じであり、お仕着せというのでしょうか?

 文学なども、つるしの背広なみに自分を合わせて鑑賞をしたり、楽しんだりすることになります。しかし、それでは何となく物足りません。自分なりに、自分にぴったりのものを仕立てる必要があるのでしょう。そのようなことが、自分自身で「作品を作る理由」なのです。そして、そのような活動の中に生き甲斐を見つけたり、自分自身が生きていることを自ずから証明したり、認識ができるのです。


図書の発行数と廃版=空洞化する出版文化

 わが国における一年間の図書発行数は、約4万点といわれます。
 つまり、一日に100冊以上が発行されることになるのです。しかし、この発行部数の増加の一方では、廃版になってしまう本もあります。例えば、文庫本でも陸奥『けんけん録』や十返舎一九『東海道膝栗毛』など、そして『平家物語』さえが消えていきました。それらの本は、貴重な文化遺産です。しかし、あまり売れないためでしょう。ここに、空洞化している出版文化が垣間見られるのです。

 図書に比べると、さすが映画の作成本数は少ないのが現状です。それでも、全世界で1年間に2000本以上の映画が作られるといいます。しかし、これでも全部を見るとすれば、大変なことになるでしょう。その時間数を計算してみれば、無理だと言うことがすぐにわかるからです。


書物を書きたがる人々

 自己顕示欲の強い人は、自分自身で書物を残すようにする傾向があるようです。ここのところ、「自伝」などを書くことが広く流行しているそうです。また、自費出版も盛んです。費用を押さえたホームページ上の作品やCDなどによる電子出版も、大いに利用されています。

 最近になって発掘されたアッシリアの粘土板には、

 <世界は急速に破滅に向かっている。賄賂と汚職が流行し、多くの人が本を書きたがる。世も末だ>

と記されていたそうです。
 しかし、私たちの場合には、書くことによって「生きている証明」をするのであるから、書かなければならないのです。むろん、私の場合は作家になろうとしているわけではなく、また有名になろうとなどとは考えていません。さらに、執筆家のようにそれで収入を期待しているわけではないので、自分自身の可能性を自分自身で自由に確かめることができるでしょう。


なぜ本を読むのか

 本を読むと、知識が得られます。しかし、その知識とは本当の意味で自分に必要なのでしょうか。不安だから本を読む場合もあるようです。また、読書が趣味という人もいます。中には、時間をつぶすために読書をする人がいるかもしれません。実に、人はさまざまなのです。また、価値観に対する個人差もあることでしょう。

 そんな中で、自分だけは「知識については自信がある」という人もいるようです。しかし、それがいったい何になるのでしょうか? まったく無意味だとは言いませんが、つまらないことです。旧約聖書の『伝道者の書』にあるとおりです。また新約聖書の『ヨハネによる福音書』に書かれている最後の記述も当を得ています。

 万巻の書を備えたとします。しかし、それで満足するでしょうか? 本を読んでもきりがありません。いきおい、次から次へと新しい知識を求めていくことになります。しかし、その知識を生かすことが、なかなかむずかしいのです。つまり、求めるための知識になってしまうのです。とくに、老年になってからの読書は、目の疲労がはなはだしく、またムダが多いようです。

 一種の中毒症状のような人がいます。それは、仮に「本病」とでも言った状態なのです。退屈だから読む、不安だから読む、それは、「腹が減ったから喰う、喉が渇いたから飲む」ということと、かなり違っていると思いませんか。むしろ、老いてからは今までにストックした知識に関して考えることと、まとめることを人生の楽しみとしての仕事や道楽にしたいと思います。
 いかがなものでしょうか?


文を読む楽しみ

 古文の中に、自分と同意見を発見することがあります。それは、大きな楽しみです。新たに知人ができたような喜びを感じるからです。その古典を書いた作者の中にも、親しい友を見つける喜びがあります。さらには、その作者が書いた作中の登場人物にも、自分の分身を見つける喜びさえあるのです。それらが、読書をする醍醐味ともいえるでしょう。

 本棚にある本をもう一度読み直して(パラパラでもよい)みます。すると、なつかしい人と再会をするような楽しみがあることに気付くことがあります。

 橘曙覧(たちばなのあけみ)の短歌(和歌)に、

    <たのしみはそぞろ読みゆく書の中に我とひとしき人を見し時>

というのがありました。

 さらに、自分自身の文章を読み直すときのことを考えてください。自分の文章を後で読むと「文章の中に別な自分がいる」というような感じを受けることがあります。いったい、なぜでしょうか? それは、書いたことを忘れてしまっていても、自分の気持ちや性格がその文章に残されているわけですから、そのような感情をいだいても何ら不思議はないのです。むしろ、当然のことでそれがまた楽しみの一つでもあります。


朗読をしたり、聞いたりする

 作品を書いたら、次に必ず声を出して読んでみましょう。目で文字を追うだけでは、あまり効果がありません。やはり、声を出して読むほうがよいのです。むろん、ワードプロセッサを利用しているときも同じです。つまり、

(1) 書いてみる(インプットしてみる)
(2) 読んでみる(聞きながらフィードバックする)

という手順を何回も反復するのです。
 目で読むのと異なって、耳からくることのすばらしさがあります。例えば、観音信仰などがそうです。

 いま、ここであなたも目を閉じてごらんなさい。風景などが、六感でわかることがあるでしょう。
 耳なし芳一、ゴッホ、仁和寺(にんなじ)の和尚の話(『徒然草』)なども何を言わんとしているか考えてみてください。
 また、「耳」「鼻」がそれぞれ二文字の音(つまり「みみ」「はな」)です。しかし、「目」は「め」で一文字。中国の清朝時代に、兪曲園という詩人が『顔面問答』という随筆を残しました。目、耳、鼻、舌、心、(皮膚)が、互いにそれぞれ独立をして働くというものです。そして、その愚かさを語っています。
 ちょっとモチーフだけで、内容のないわかりにくいことを上に綴ってしまいました。お詫びとして、おまけの情報を追加しておきましょう。

 朗読は、自分で読みながらテープレコーダーに録音をしたり、「Windows のアクセサリにあるエンターテイメントの中のサウンドレコーダー」を録音に用いてもよいでしょう。また自分が読み上げをしないで、ときどき私は富士通のパソコンにプリインストールされていた「FUJITSU 音声合成」というのを利用したりします。その扱いが、非常に簡単だからです。
 『RIKOホームページ』の「トップページ(表紙の女性の声)」や「おわりページ(男性の声)」、そして「無の研究」の『三ノ宮の乞食(男性の声)』などが、その例です。機械的な発声で、あまり上手な朗読ではありませんが、それでも何とか実用になることは確かなようです。
 なお、「一太郎」などのワープロでも音声エンジンが用意されているので、確かめてみるとよいでしょう。


多読について

 哲学者の西田幾多郎(にしだきたろう)は、最初の日記帳(明治30年)の表紙の見返しに、

  <他人の書をよまんよりは自らを顧みて深く考察するを第一とす
  書は必ず多を貪らず
  古今に卓越せる大家の書をとりて縦横に文を精読す
  第一の思想家は多く書をよまざりし人なり>

と凛々しく記したといいます。
 これは、おそらく「多読をするよりも、自分で考えたほうがよい」ということでしょう。
 そして、「まだ歴史に残っていない人の本ではなくて、少なくとも古典になったような本のエッセンスは学びなさい。大思想家は、本を多く読んだりはしないで、多く考えた人です。」というような意味でしょう。

 それは何となく、それは私に、バーナード=ショーの言った言葉

  <人間は、必要でないことを多く知るよりも、必要なことを少し考えたほうがよい>

を思い出させます。
 なお、この言葉は『RIKOホームページ』の「日々の格言 座右訓」にありました。「■あなたは、空しいことを知りたがってはいけません。……(レオ13世)」の「物理的空間とこころの空間」の最期のところです。

 私も、若いころは本を読んだものです。そのために、すっかり目がやられてしまって、何となく疲れやすくなってしまいました。現在までのところ、白内障や緑内障にはなりませんでしたが、目の疲れから頭痛になるようです。そんなために、いつごろからか本を読まなくなったのです。
 ついでながら、歯もダメになっちゃいました。やはり若い頃からのメンテナンスが悪かったためだと思います。歯と目は、人体でも大切な器官です。なぜならば、それらを最高のコンディションで用いるのと、そうでないのとは結果が大きく違うからです。そして、歯と目に関して無知だった自分を後悔しています。

 話を戻して、西田幾多郎の日記やバーナード=ショーの言葉から私がさらに思い出すのは、短い手紙

  <一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ>

です。これは、本多作衛門(徳川家康の重臣)が、陣中から妻に送った手紙です。


読書の功徳

 本を読むということのメリットは、いろいろと考えられます。それについて『顔氏家訓』には、次のような記述がありました。

 <父母は、いつまでも頼りにはならない。国家の制度も、常に保証してくれるわけでない。そこで身に芸を付けておく必要がある。その芸の中で習いやすくて貴重なものは、読書術である。…… 実に読書は天地も収めきれず、神々も隠しきれない諸々の事象を細大もらさず教えてくれ、解き明かしてくれる。>

 何となく、かなり打算的な考えですが、中国やわが国でこの書が多く読まれたことを考えると、さもありなんと思うのは私だけでしょうか。そして、顔氏は「学を貴ぶの論」として、次のように続けています。

 <金や玉を磨くと、その生地がとても美しくなる。木や石でも彫刻をすると、醜くくはなくなる。学問をするというのは、そのようなものだ。>

 これも、また何とも明白な譬えですが、かなり説得力のある意見ですね。
 あなたは、どのようにお考えでしょうか?


本を読む楽しみとその限界

 詩や小説などの文学の中で、自分と同感の記述を見つけたときにはうれしく思います。そんなときは、著者に親しみを覚えるからです。つまり、本の中に自分と同じ意見を見つけて喜んだり、著者の考え方をかいま見たりするのです。もしかしたら、この本にあのことが書かれているのではないかという期待。それもよくあることです。

 やがて、「読み書き」ができるのに「読む」ばかりではつまらないと考えるようになります。なぜならば、読書は一方的な通信だからです。すなわち、作者からの意見や感情が読者に伝えられ、読者のそれらは作者には伝わらないのです。そんなわけで、稚拙であっても、短編小説の一つでも書いてみたいと思うようになります。
 そのようなことは美術についても、音楽についても同じようなことがいえるでしょう。与えられる側のよろこびと与える側のよろこびとでは、少しばかり異なっているのかもしれません。もしかしたら、創作をするよろこびは、かなり大きなものかもしれないのです。


小説の世界=本を読むということの限界

 小説の世界は、やはりフィクションなのです。
 著者が、「箱庭の中に自然を盛り込むように、独自の宇宙」を構築します。しかし、読むほうの立場によっては実感が得られないこともあるでしょう。いずれにしても、与えられたものだからです。そこで、自作をすることを考えるのです。つまり、自分自身の宇宙を構築するから自分に価値があるのです。
 それはちょうど、幼い子供が蒲鉾(かまぼこ)の板や不要になった糸巻きで遊んでいるのと似ています。彼らにとってはそれが貴重なのであって、精密なプラモデルよりも大切な宝物ではないでしょうか。

 物語、小説などを読むと興奮することがあります。しかし、それは読書中のことであったり、読後あまり時間が経過していない間のことで、一般にその持続性は短いようです。もしも、読者がストーリに入り込んでしまって、ドン=キホーテのようになると、それはもう偏執で狂人の部類になるでしょう。

 本を読むと面白い。確かに感激もします。しかし、その感激が持続しにくいのが難点です。なぜならば、読者としての立場は受け身であるからです。受け身でない立場を構築するには、自分が作者になるのが簡単な方法なのです。


本を読むという病気(パパラギ風の見方)

 『パパラギ』という書物をご存じでしょうか?
 南海の島の酋長ツイアビが、はじめて文明国に行って見たことや、感じたことを島民に演説をした形で書かれています。その中には、本を読んでいないと不安になるという一種の病気、さらには奇病についての記述があります。そこで、次々に本を求めて読む。しかし、読めば読むほど不安は次第に増していくのです。もはや、それはあたかも中毒の症状なのです。
 (読み切れない)(同様に書ききれないのである)

 次々と手当たり次第に、本を読んでいく。若い時代には、それもよいでしょう。しかし、人生の持ち時間が少なくなった人には、あまりにも残念なことです。考えてみれば、それはもはや無意味に近いでしょう。一方的に受け入れることを続け、あまり対話がないからです。やがて本を読むのではなく、本に読まれてしまうのだ。それは、ちょうど酒の場合と同じように中毒の症状と言ってよいのかもしれません。


本病という不思議な病気

 物や身の回りの持ち物が、あまり少ないと何となく不安です。また逆に、身の回りに物が多すぎても落ちつきません。それでは、まことに身勝手なこととしかいいようがありません。とくに、本(書物)がないと不安に思うというのは、一種の病気なのです。それは現代病の一つとでも、言えるのでしょうか?
 元来、わが身一つで何もないのです。裸で生まれてきて、裸で死んでいくしかないのですから。……

 本を読んでいないと不安になるという一種の病気にかかると、次々に本を求めて読みます。そして、読めば読むほど、その不安は次第に増していくのです。もはや、それはあたかも中毒の症状です。なぜならば、いくらやっても読み切れないし、また同様に書ききれないのですから。

 いったんそのような「本病」または「本中」(ほんちゅう=本の中毒)という一種の病気にかかると、なかなか治りにくく、その症状は悪化しながら、一生続くかもしれません。本病とは、簡単に言うと「本がないと不安になる」一種の病気です。そして、本を読んでいると心が落ちつく−−それは酒を飲むと、気持ちが大きくなるのに似ています。いわば中毒と同じ病状で、本にとりつかれた状態なのです。ちょうど、絶えず金をもっていないと不安であるように、絶えず知識を得ていないと心配なのです。

 一生かかっても読み切れないほどの蔵書、聞くだけでもゆうに1000時間を越えるCDとレコード、いったいどうしようというのでしょうか。それは、心の負担になってしまわないでしょうか。あなたが書物の評論家や音楽の解説員ならともかく……


評論家と作家

 演奏家の評論をする音楽評論家に、それ以上の演奏を実際にしてみろといっても無理でしょう。また、文芸評論家に「それならば、あなたが書いてみろ」といっても、やはり無理だと思います。彼らは評論をすること自体がビジネスであって、実際に演奏をしたり、作品を作ったりすることが仕事ではないからです。

 ここで、評論について考えてみる必要があります。それは、評論は自分自身の能力の数倍もの高さまで可能だということです。つまり、実際に行うことよりも簡単なのです。したがって、総理大臣でない人は総理大臣の欠陥が、文学者でない人は作家の欠陥が、演奏家でない人は演奏家の欠陥がわかるというものです。むろん、運動選手でない人が運動選手の欠陥もわかります。
 実際に当事者でない場合に、批評が安易にできるということは、認識しておく必要があるでしょう。


脳のインプットばかりを継続すると?

 脳に対してインプットばかりを継続すると、「ドン=キホーテ症状」つまり、空想と現実との区別がつかなくなってしまいます。その結果、行動にいちじるしい矛盾が生じてしまうのです。ドン=キホーテは作中の人物であるが、実際には世間を震撼させた「神戸の小学生事件」のような奇怪な行動をもたらしてしまいます。そして、その事件を起こしたときは、すでに思考の基準がおかしくなっていますから、何とも怪奇な現象としか一般の人たちからは見えないのです。
 神戸の小学生事件とは、……


なぜ文章を書くか?=「文章制作は生きている証明」

 いまここで、それでは「なぜ文章を書く」のかについて、改めて考えてみましょう。
 簡単に考えると、一般的に「文章は考えをまとめた」ものといえます。したがって、書いた文章から自分自身を客観的に眺めることができるのです。そのようにして、言葉を進めていくと反省をしたり、発見をすることが可能になります。つまり、自分自身が「生きている証明」を言葉によってすることができるわけです。
 これは、考えてみるまでもなく、素晴らしいことではありませんか?

 他にすることがなく静かにしていると、脳裡に過去の恥や後悔などがよみがえってきます。それならば、そのようなことを真正面から受けとめて、つたない文章でもよいから記録をしておこうではありませんか? そうすることによって、近い未来には失敗や後悔をすることが予防できるからです。そして、自分自身が行う日々の執筆が、自分の「生きている証明」となればよいのです。

 つまり、現実に自分が生きているということ、それを文章に書くことによって再認識をすればよいのでしょう。創作にはかなり頭脳を使うから、いつまでも気力が衰えないのではないでしょうか。このように文章を書くということは、老化予防のために、すなわちボケ防止のために効果的なのです。

 また、書くことによって、「自分の考え」をしっかりとまとめることもできます。なぜならば、書くということによって、抽象を具体化することが可能だからです。想像をしたり、希望を記述していくうちに、次第に若々しい気分になっていくこともあるはずです。もしかしたら、創作をする人は、なかなか衰えないようにも思いますが、それは私だけの感じでしょうか。
 ピカソや武者小路実篤のことを考えると、あなたもそのようには思いませんか?


自分が主人公=可能性の追求

 自分が主人公にならなければ、ふつうの名作や大作などでも飽きてしまいます。つまり、単に読むということ自体が目的ではないのです。それは何事にも、すぐに飽きちゃうのが人間の特性だからです。つまり、当事者でないと文章はいわゆる三面記事になってしまうのです。そもそも、ふつうの人間は元来自分のこと以外は、ほとんど無関心なのです。
 可能性の追求――これが文章を書く大きな意味なのです。今までできなかった夢の実現なども、文章の中でするとよいでしょう。文中では、空想の世界を具現化することも可能ですから、……

 次々と本を買って、精力的に読んでいる人もいます。また、身近なもの、他人から与えられたもので、じゅうぶんに満足をしている人もいるでしょう。それでも、いいでしょう。しかし、その場合は自分が作る楽しみを知らないことが多いようです。それはもはや、例えば家畜が飼われているような場合と似ています。家畜は、次々と与えられる餌を食べてさえいれば、それでよいのです。しかし、野生の動物は違うでしょう。日々自分で餌を求めなければなりませんから。
 ここで、家畜がよいか、野生のほうがよいかの価値判断になると思います。
 あなたは、いかがでしょうか?


生きている証明

 後世に名を残したりする必要は、まったくありません。また、むろん一旗上げる必要もないでしょう。ただ、自分自身で納得できる一生を、それなりに終えることができたら、それでよいのです。したがって、金持ちになったり、有名になる必要はありません。尭(ぎょう)ではありませんが、なるべく煩わしいことは、しないほうがよいからです。
 私は、そのように考えています。

(注) 尭については、『RIKOホームページ』の「プロフィール」にある「『荘子』の自動給水ポンプの話など」を参照してください.。


 
そのことについては、宮柊二先生も言っておられました。宮先生は、

 <言葉は、(各自が)生きている証明である。>

とおっしゃったり、そのことを『埋没の精神』に書かれたりしました。しかし、私の記憶違いで、もしかしたら「言葉」ではなく「短歌」だったかもしれません。

 そのように、紙の上での「もう一つの生活」(作家としての)があるのかもしれません。そして、さらに「もう一つの時間と空間」(自分の中の想像=物語、空想)などを、自分なりに実現したいものです。科学が発達をしたので、媒体が紙である必要はなくなりました。このように、パソコンの画面であってもよいのです。


考えることの大切さ=死ぬまで元気

 文章の問題は、大きな範囲を含んでいます。
 死ぬまで精進(現役)して、死ぬまで生き生き(元気)としたいものであります。そこで、老化防止が大きなテーマとなるのです。「不老長寿」という言葉があります。私は長寿を必ずしも望まないが、不老のほうは大いに望みます。したがって、肉体や身体はともかく、「精神や心の不老」という意味で、創作を一つのトレーニングとして考えたのです。老けてくると、いや若い人でも、考えることがめんどうくさくなってしまうことがあるからです。

 日常生活で「めんどくさい」「疲れた」などと言ったり、「どっこいしょ」などとかけ声をかけるようになるのは、おそらく老化の始まりかもしれません。また、「昔はよかった」「今の若い者は……」などと言う愚痴が出始めるのも、老化の始まりでしょう。そんなことのないように、私たちは大いに注意をしたいものです。そのためには、常に考えることをしなければなりません。
 「パスカル」というプログラム言語を作ったヴィルトという学者はは、「考える」ことの大切さを強調しています。

(注) パスカルについては、『RIKOホームページ』の「日々の格言 座右訓」にある「■ちょうちょになった夢を見た。……」や「■人間は、自然の中で最も弱い1本の葦にすぎない。しかし、……」を参照してください。



考えることの楽しさと知的な世界

 私たちのグループでは、考えることの楽しさを広めていきたいと考えています。そして、そのための文章技法なのです。そんなわけで、『RIKOホームページ』その他で、「知的な世界への誘(いざない)い」をしているのです。創作が、必ずしも知的空間への入り口ではないかもしれません。しかし、人間が言語によって思考をするという現実から、言葉を使うことは「知的空間を実現する一つの手段」ともいえるでしょう。
 そんなわけで、まず文章技法を確立しようとしているのです。なぜならば、それは道具でもあり、武器でもあるからです。
 そして、道具やいい意味での武器が使えるようになると、考えることの楽しさを味わうことができるようになるでしょう。そして、さらに「知的な世界」が具現化することは間違いありません。


閉じ込められた世界

 書物やホームページなどの内容は、いわば「閉じこめられた世界」かもしれません。しかし、それは一つの無限に広がった知的空間ともいえるようです。つまり、それを読んでくださる人たちの心の問題にも、大きく繋がってくるからです。言葉によって、人と人とが知的空間を共有して、意志を伝えあうことができるのは素晴らしいことです。それは、当然のことですが、よくよく考えてみれば不思議なことではないでしょうか?
 とくに、ホームページは効率のよい場といえます。急速に発展をした通信の技術を、少しでも有益に使いたいと考えて、この文章技法の作成を思いついた次第です。@@@


知的空間を拡げる

 文を積極的に書くということは、自分自身の知的空間を拡げることです。
 それは、ちょうど知らないところに旅行に行くのと似ている現象ではないでしょうか。その知的空間を拡げる楽しみは、創造をすることにあります。そしてそこからは、「心の充足感」なども得られることでしょう。
 もしかしたら、やがてそんなことが、病みつきになるかもしれません。
 読むだけでも、知的空間を増やすことができなくもないが、それでは実際に旅行をするのではなく、地図を見ているような物足りなさが、どこかにあるかもしれません。
 やはり、実体験が必要なのではないでしょうか。


高齢化社会の到来

 ここのところ急速に高齢化が進む中で、老後をいかに過ごすかを考えている人が多いことと思います。
 また、将来に不安を感じている人も少なくないかもしれません。
 そんな中で生きる目的を失わず、日々「生きている証明」として文章を書こうではありませんか?
 それは堅苦しいものでなく、単に「思い出」「夢の内容」「自分の希望」などもよいでしょう。
 作品自体の評価よりも、書くということに本来の意味があるのですから、……

 つまり、いつまでも若々しくあるためには、積極的に頭を使うことが必要なのです。日々の生活が、受け身ばかりではいけません。受け身になってしまうと、衰えも速いからです。衰えが速いということは、つまり老化が早く進むということなんです。
 テレビを単に受け身で見ているのとは異なり、それに参加する立場、そして働きかける喜び、そのような充実感が得られないと老け込んでしまうようです。また、何かをするという気力も、いつしかなくなってしまいます。何よりも目的と意欲をもつということが、日々の生活には大切なのではないでしょうか。
 若い人たちも、やはり同じです。
 若いころから、与えられたものだけを体験していると、将来の人生の発展が望めなくなるからです。


老化の防止=ぼけ予防と不老

 「不老長寿」という言葉があります。老いることなく、長生きをするということなのでしょうか。
 しかし私は、必ずしも「長寿」でありたいとは考えません。だが「不老」のほうは、大いに望むところです。身体の衰えは、ある意味では必然的でいたしかたないでしょう。しかし脳の退化、つまり最悪の「よいよい」状態は、まっぴらごめんだからです。
 だいぶ前に、私は老いても「ぼけにくくなる方法」をいくつか発見しました。
 その一つは、文章を書くことです。
 つまり、文章を書くことによって自分の世界を広げるのです。

 そこで、脳の老化を防止する具体的な方法として、自分なりに小説を作ることが始まったのです。
 そのような方法で、自分自身の知的空間を文章の世界で、少しでも広げてみようと考えました。
 実は、そのような理由で私の「創作活動」があるのです。ことさらに、作家になろうという考えなどは、まったくないのです。そして、まだぼけていない状態から、そのことを習慣づけておく必要があると考えました。なぜならば、ぼけてしまってから練習をしても、手遅れであるからです。
 いつまでも若々しくある方法、自分の気持ちを若く保つ方法として、文章を利用するというのは、もっとも簡便な方法でしょう。

 むろん、文章以前に、「食事」や「運動」にも注意が必要です。
 しかし、ただ単に食生活に気を遣い、スポーツや散歩をしていればよいのでしょうか。どうも、それだけではダメらしいのです。ギリシア時代に「完全な身体に、完全な精神が宿ればいいのになぁ!」と哲学者が言ったようにです。
 肝心の気持ちが老化をしてしまったら、いくらよい食べ物を取っても、また運動をしても効果がないということが、倒れてしまった先輩の体験からつくづくわかったのです。
 つまり、気持ちが大切なのです。日々の心の持ち方、考え方、さらには価値観とでもいってもよいでしょう。

 もしも仮に、ご自分が「若い必要もないし、病気でもかまわない」という人がいたら、この講座はまったく無意味なものになってしまうでしょう。でも、そんな人はいないんじゃないでしょうか。
 だから、日々の生活の中で、
(1) 小説の中で若返る……それが現実の自分自身を若返らせることになるかもしれない
(2) 客観と主観……主観をもちながら客観の立場で考える、つまり高い次元から物事を見る
ことが非常に有効であるし、必要なのではないでしょうか?
 そんな姿勢で生活をしていると、いつまでも若々しい状態を保てるような気がするんです。


脳へのインプットと脳からのアウトプット

 読書は、脳へのインプットをすることが大きな役目です。そしてそれは、どちらかといえば、作者から読者への一方的通信といえましょう。また、テレビやラジオなども双方性が不完全な現時点では、やはり同じ理屈です。
 それに対して、「書く」ということは脳からのアウトプットが大きく働いてきます。
 つまり、いわゆる本人が「作者側」になるのですから、読書とは違った喜びが生じてきます。そして、その途中で何かと「考える」ことによって、呆(ぼ)けにくくなるのです。
 だから、アウトプットすることがらの量と質をできるだけ増やします。

 すると、同時にインプットの必要も生じてきます。
 そのインプットも、また脳を活性化するのです。それは、ちょうど私たちの呼吸が思いきり息を吐かなければ、深く吸うことができないのに、ちょっと似ています。
 いずれにしても、たえず外界に興味をもち続け、知識を求めるようにすると、なかなか呆(ぼ)けないでしょう。
 そのことは、回りの先輩たちを見ているとわかります。
 なぜならば、それと反対のことをしていた人の多くが呆けてしまったからです。
 ただし、アルツハイマーになった人の中には、ちょっと例外のようなパターンがあることも事実です。

 単に知識を求め続けるだけでは、かえって危ういでしょう。
 それは、食べ物をたくさん取るのと似ていて、やがて消化不良になり、病気になってしまうからです。つまり、肥満になって高血圧になり、糖尿病や心臓病などを併発してしまうようなものです。
 知識を求めるという行動ことは、食事と同じ理屈です。インプットが多くアウトプットが少ないと、太ってしまって健康を損なうのと同様に、脳のアウトプットが少なくインプットばかりであると、詰め込みすぎになって逆に呆けてしまうのです。
 例えば、何となくテレビを長時間見ていることや、一方的に次々と知識を与えられることなどは、脳の活性化という面では好ましくありません。


カオスとシステム=混沌状態から整理状態へ

 常日頃から、身の回りを整理しておくことも大切です。
 カオス、つまり混沌とした状態では、何事も思うようにはなりません。家具や道具などを整理しておく要領で、「モチーフ」や「メモ」を活用できるようにしておきます。つまり、どこに何があるかを明確にしておく必要があるでしょう。そのようにしておかないと、探すのに時間がかかって、能率が悪いからです。
 そして、素材を取り出して直ちにある程度のまとまりで、一つの作品にするのです。
 さらに、その作品をいくつか集めて全体を構成するようにします。それは、その時点で何とかまとまった意味をもつものとなるでしょう。つまり、一冊の作品集が一つのシステムとなって、それ自体があなたの「生きている証明」になるのです。そんなことが、無駄なくできるようにならなければいけません。

 カオスとシステムは、対立する概念です。
 そして、常にカオス状態から、システム状態に移行することについて、私はいつも努力したい。
 しかし、そこで『荘子』にあるように「有限の身でもって無限のものを求めることは、空しいことである」ということも、忘れずに認識しておく必要がありそうです。そして、お互いにできる範囲で、自分自身の回りの混沌とした状態を整理して、システム空間として有効に利用しようではありませんか。


文章制作法=『顔氏家訓』の記述

 『顔氏家訓』に、文章製作法について書いてあります。
 その部分は、大いに参考になるので、そのあらましを次に写しておきました。
 最初に、
  <文章を作るということは、馬を乗りこなすのと同じ>
と言っています。
 今日では、馬に乗るようなことはなくなってしまいましたが、何となくわかる言葉です。
 つまり、手綱(たづな)を引き締めたり、轡(くつわ)を用いて馬を上手にコントロールしなければならないということでしょう。それと同様に、書く人は自分自身の心を制御しなければなりません。

 次は、
  <文章は、ちょうど人間の身体の構成のようだ>
と言っています。
 どのようなことかと言うと、しっかりした骨組みに飾り付けをしていけばよいことを示しているのです。
 だから、ここにある私が綴っている文章のような「思いついたとき方式」では、いきおい全体の見通しも悪く、同じことを重複したり、文に気品がなくなってしまうようです。

 そして、最後に
  <構想を大きくもったスタイルで、品格のあること>
が必要であると述べています。
 そして、現在(その当時)の作家と比べて、さらに昔の人の文章が優れているので、それらを学べばよいと結んでいます。
 これも、私にとっては痛い言葉なのです。


周囲のストレスとキリのない追求

 何かをして、思うようにいかない……これが脳に作用して葛藤を生じさせます。そして、ストレスを貯めるのです。
 さらにその結果、老化をしたり、精神を痛めたりします。したがって、文章の中でその葛藤を補償すると、いつまでも若々しい状態を保つことができるでしょう。
 人生は、思ったよりも短いのです。
 そんな中で、次から次へと映画やビデオを見たとしても、おそらくキリがないでしょう。そうかといって、自分で映画を作るのは、ちょっと困難です。高度な技術が必要ですし、費用もかなりかかるからです。もっとも、最近ではビデオを作る人が、かなり多くなっているようですが、……。
 しかし、小説の場合はどうでしょうか。
 映画とは異なります。つまり、自分でも何とかできるからです。

 スポーツや音楽などは、ある程度の天性が必要かもしれません。
 しかし小説は、それらに比べて簡単ですから誰もができて、まったく無理がありません。つまり、参加をする喜びが身近に得られるジャンルなのです。
 文章を作るつつましやかな喜び、そして書(ふみ)に関するそんな喜びを歌ったものが、橘曙覧の『独楽吟』にありました。

  <たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能(よ)くかけし時>
  <たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人を見し時>
  <たのしみは世に解(と)きがたくする書の心をひとりさとり得し時>
  <たのしみは人も訪ひこず事もなく心をいれて書を見る時>
  <たのしみは数ある書を辛くしてうつし竟(お)へつつとぢて見るとき>


文や小説を書くという目的

 このマニュアルは、文や小説を書くという目的のための文章技法でもあります。
 いかに単語を多く知っていても、文や小説がすらすらと書けるわけではないでしょう。
 しかし、その逆も事実とはいえません。そんなわけでここでは、必要最小限の知識を整理して、何とか小説までを書き上げることを目的としています。
 言葉が話せる、漢字をある程度知っている、小学校と中学校に行った、それらの経験を生かして、あなたも小説が書けるのです。それを何人かの人で実際に確かめたから、間違いはありません。

 ここでは、文や小説を自分のために書くのです。
 さし当たり、誰かに読んでもらうということや本にして出版をするということは、二の次として考えました。
 考えてみれば、自分のためにしていることは実に多い。そうではありませんか?
 日々の食事や睡眠、また風呂に入ったりする。自分自身のためですね。また、無意識にしている呼吸なども自分が生きていくために必要でしょう。
 そして、さらに金もうけなども自分自身だけのためにする人が、世の中には実に多いようです。
 一方では他人のための奉仕のように見えても、ぜんじつめれば結局は、自分自身のためにしていることが結構多いのではありませんか。

 他人を当てにしても、空しいことが多いようです。
 そこで、仕方なくまず自分で自分を見つめる努力をするのです。つまり、現実の直視をしようというわけなのです。
 そして、その上で想像や理想を自由にふくらませていけばよいでしょう。それが、つまり実仮想空間の構築です。
 そんな仮想の空間でも、自分がそこにいるかぎり現実の空間なのです。あまり、遠慮をする必要はないでしょう。
 誰でも、ふつう自分自身のことがいちばん大切なのですから、……

 そのようなときに、ことさらに多くの情報や書物を集める必要は、まったくありません。
 若い時代には、集めることもよいでしょう。
 しかし、年老いてから集めるのではキリがないし、そもそも時間が足りません。なぜならば、先があまり長くないからです。
 したがって、そのような収集をすることよりも、今までに得た情報や知識をまとめることによって、ある種の喜びを得るのがよいでしょう。つまり、それは「脳からのアウトプット」をするという喜びなのです。
 そしてそのことが、文章を作るという意味でもありましょう。
 その作品は、商品として使う目的ではないから、下手くそでもかまいません。自分自身が納得し、しっかりと生きている証明とすることが肝要なのですから。
 そして、そのことに意義があるのです。


テーマをもった小説

 どの作品にも、それなりの目的があるでしょう。
 しかし、文学的な目的というよりも、作者の主張が非常に強く出ている作品もあります。つまり、それらは特定のテーマをもった作品なのです。
 いくつかの例を挙げてみましょうか。

(1) 森鴎外『高瀬舟』は、「安楽死」の問題を扱っている
(2) ツイアビ『パパラギ』やサン・テグジュペリ『星の王子さま』などは、現代社会とその文明批判をテーマにしているようだ
(3) スイフト『ガリバー旅行記』も、当時の社会や思想を強烈に批判している

そのようなことが、それらの作品を少し読むとわかります。

 また、人間の「こころ」の追求として、

(1) 夏目漱石『こころ』
(2) 芹沢光次良『愛と死の書』
(3) ウナムーノ『殉教者ドン・マニュエル』

などがあります。

 さらにまた、

(1) 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
(2) 夏目漱石『夢十夜』

などは、ちょっと臨死体験の記述の試みのようでもあります。
 あなたは、そんなふうにお考えになりませんか?


なぜ日記でなく小説なのか?

 書きさえすれば、何でもよいというわけではありません。
 履歴書や日記には、事実を書きます。事実のみを書くと、どうしても定型的、さらにはマンネリになってしまいます。そこには、創造性や夢が少ないからです。
 いっぽう、小説や物語は創造的です。フィクションというか、虚構とさえいえるからです。そこでは、年老いても若々しさを具現できるではありませんか。
 さらに、そこでは性の転換さえ簡単に可能なのです。
 例えば、『土佐日記』のように男性が女性の口調で語れば、それでよいからです。

 そのように考えると見かけ上、人生が別の方向に進むでしょう。記述のベースとして自分の過去の経験を積み上げ、その上に可能性を乗せることができるので、とても楽しい空間があなたも構築できることでしょう。
 楽しみや生きがい、そして励みなどを達成することも、書くと同時に可能になるからです。
 文筆を職業としたり、金もうけと考えたりすると、納期(締め切り日)があったり、内容に対する自由性が失われ、さらには妥協を余儀なくさせられます。そんなために、自分自身の考えをセーブしなければならなくなるのです。
 しかし、むろん趣味として作ったものを、改めて商業用として用いることは問題がないでしょう。


なぜ短歌・俳句でないのか

 「生きているという証明」なら、短歌や俳句でも可能でしょう。
 実際に、宮柊二という歌人は「短歌を作ることは生きている証明である」と言い、『コスモス』という短歌の同人誌を主催していました。そして、私も若いころの一時期に参加をして、大いにがんばったものです。だから、その頃のことを思い出すと、何となく「生きている証明」をしたことに、生き甲斐を感じたものです。
 しかし、ご承知のように、短歌や俳句は伝統的な短い詩形です。
 それらは、とても形式が整っていて、美しい。そして、短いから簡単のようではあるが、いざ作ってみると実際にはそうでないことがわかります。その表現には、いろいろと約束があるからです。中には文語でないとダメという人もいる現状です。

 したがって、その決まりをある程度覚えて習熟をしなければ、思うような表現がなかなかできません。
 もっとも、季語のない俳句や種田山頭火の短歌のように、かなり自由な表現形式もあることはあるのですが、……。その場合には、要領は同じになるでしょう。でも、それを取り入れる前にオーソドックスな方式を一通り理解しておく必要が生じます。なぜならば、標準的な形式を知らないとユニークな形式の作品を作れないからです。
 いずれにしても、短歌や俳句という短詩形には、作者の感性もある程度必要になってきます。そこに、単に文字を並べればよいというわけではありません。このような理由で、最初からある程度のレベルの作品を完成することは、短歌や俳句では短編小説などと比べると、むしろ難しいのではないでしょうか。

 しかし、自信のある人は最初から短歌や俳句に挑戦をするのも、よいことかもしれません。
 その場合、一首または一句だけで、自分の言いたいことを述べつくすのはムリでしょう。かなりの数を揃えて、連作のような形になります。
 短歌の例で、ここにその数を考えてみましょう。
 源 実朝『金槐和歌集』は、春116首、夏38首、秋120首、冬78首、賀18首、恋141首、旅24首、雑128首で合計663首から構成されています。ついでながら、実朝の晩年は、政治よりも歌を作ることに熱中しました。言葉への逃避ですが、その言語空間にはそれなりの魅力があったからでしょう。
 北条氏の陰謀によって傀儡化されてしまった将軍職は、もはや実朝にとって何ら意味のないことになってしまったのかもしれません。その間の事情を、創作ではありますが『吾妻鑑』と対比させながら実によく描き出した作品に、あなたはお読みになったかもしれませんが、太宰治の『右大臣実朝』があります。

 また、宮沢賢治『一握の砂』『悲しき玩具』シリーズは、551首+194首=合計745首です。
 自選歌集である『宮柊二歌集』の初版本には、628首が含まれています。
 したがって、500首程度あれば何とか一まとまりの形になるでしょう。そして、この500首が短編小説よりも、かなりしんどいんじゃないかと考えたのです。そして、そのくらいの努力をするならば、長編小説ができるのではないでしょうか。
 時間をかけて少しずつ構築していくのならば、短歌や俳句もよいでしょう。

(注) 短歌で行う場合の例として、『RIKOホームページ』に「やさしい短歌入門」を参考までに付けておきました。
 内容は初歩的なもので、お恥ずかしい次第ですが、その構成の考え方や実際の組み立て方などが参考になるのではないでしょうか。


 そこで、言語空間の凝縮によって、脳の活性化トレーニングをするための短詩形ならば、むしろ詩を作るとよいかもしれません。形式の約束が大きい短歌や俳句でなくてもよいのです。
 初期の仏教の経典『スッタニパータ』や『サンユッタニカーヤ』などからわかるように、インド人はシャカの時代から詩を作るのを楽しんだようです。そして、そのころ歌った詩を文字で表した書物にすると、ちょっと繰り返しが多く、くどい感じもするのですが、…… そんなことを感じるのは、私だけなのでしょうか。

 しかし、やはり文字による短詩形の表現には、どうしても限界があるようです。
 例えば、禅でいう「不立(ふりゅう)文字」などという言葉自体は、そのことを言っているのではないでしょうか。ここでいう文字とは、言葉というよりか文書のことです。
 言葉では、どうしても表せないことがらがあります。
 また、言葉を超えた意味さえを、言葉自体がもってしまうことがあるのです。


なぜ発表をしないのか=発表が目的の著述ではない

 ここでいう短編小説とは、もともと自分が「生きているという証明」をするために作成するものです。
 そのために、発表をして多くの人に認められるということを直接の目的とはしていません。しかし、作品の内容を秘密にするという必要性があるということでは決してありません。まず、自分自身が納得をすればよいのです。読者が感激をするとか、高い評価を与えるなどと考えて作る必要は、さらさらないのです。
 精力的に発表をするという方針ではありませんが、むろん求められたら公開をするとよいでしょう。
 いわゆる職業として書くわけではないから、原稿の締切りに追われてしまい、内容を検討する時間がなくなって粗雑なものを出すようなことは避けられるでしょう。また、編集担当者に気兼ねをしたり、さらには諂(へつら)ってまで完成をさせるというムダな努力は不必要です。
 しかし、そのために文章が夜郎自大になる傾向はあります。
 あくまで、自分が自分に課した範囲で、生き甲斐を見つける作業にすることが基本的な原則なのです。そして、自分自身で納得をする作品を作るということが大切であって、最初から他人の評価を気にする必要はまったくありません。そんな意味で、ちょっと変わった創作活動といえるでしょう。
 そんなために、『実仮想空間における創作シアター』という位置づけが与えられているのです。

(注) 『実仮想空間における創作シアター』については、『RIKOホームページ』の「rikwhiの概要ご紹介」をご参照ください。
 「「実仮想空間」創作シアターの意味」というところです。


ベストセラーを作ろうとする愚

 もしも、文を書くのが職業の人ならば、当然のことながら発行部数を増やす必要があるでしょう。収入金額に影響をしてくるからです。自分自身のことはともかく、出版社のことを考えると、どうしてもそうあって欲しいものです。したがって、何とかベストセラーを出さなければならないのです。
 また、作者として誰もが世間から認められたいという欲望があるのも事実でしょう。
 しかし、認められるとか無視されるとか考えることより以前に、自分自身にとって納得ができる作品である必要が生じてきます。ここでは、宝くじを当てようとする期待と同じような野心は、むしろもたないほうがよいのです。なぜならば、必ずしも優れた作品が評価されるとは限らないからです。


文章を書くときは気軽に!

 上手な文章を書こうと、最初から勢い込んではいけません。
 なぜならば、そのようにするとなかなか先に進まなくなってしまうからです。気持ちが勢い込んで、葛藤をする状態になるのかもしれません。つまり、そのようなことはなるべく避けて、その作品がたとえ下手であっても、ひととおり何とか完成させてしまうのがよいでしょう。
 何事でも精神的な葛藤が生じてしまうと、思うように進まないということも事実のようです。
 また、気持ちが焦ってしまうと、考えていたことをなかなか文章に置き換えられなくなってしまうからです。
 そんなことを考えると、コンピュータのプログラム技法と小説の構築方法は、何となく似ているようですね。


文字で文学を作る

 「文学」という文字と「文字」という文字を互いに見比べてみてください。
 「文学」は「文字」に比べて、「学」のかんむりの左右にある「ソ」の部分が多いだけです。言うなれば、これが「文学」の「文字」に対する付加価値とも言えるのではないでしょうか? ちょっと乱暴な意見ではありますが、……
 いずれにしても、文学は「文字で表現される芸術作品」なのです。
 しかし「文字の学問」というような意味もあるので、間違いをしやすくなってしまうようです。
 当然のことながら、文字の使い方などもマスターしておく必要がありましょう。

 ほんとうかどうか知りませんが、「文字学」という学問もあるようです。
 王安石が「波は水の皮である」というと、蘇東坡が直ちに「しからば、滑は水の骨か?」と言うんです。
 『RIKOホームページ』の「笑いの話題 健康訓」にあった話なのです。ついでながら、その下にある「なぞなぞ」はわかりますか?
 やはり、王安石が「絵に描けば丸く、字に書けば四角、……?」というんです。
 回答が必要でしたら、そこを見てください。

 むろん、文字は文学を作るだけのものではありません。
 法律や学問など、あらゆるものに利用されています。さらに、私たちの思考まで文字で構成される言葉によってなされているようです。
 科学や技術も文字によって行われます。
 ここで、ふと考えたのですが何となく「技術書は残りにくく、文学は寿命が長い」ということです。技術が日進月歩というか、それこそ分新秒歩のいきおいで進んでいるから、そうなるのでしょう。コンピュータの本が、せいぜい5年程度でしかありません。しかし、文学は少なくとも名作であれば、かなりの期間は残るでしょう。

 また、技術ではなく芸術でしたら、一度忘れられたものが再発見されることもあるようです。
 例えば、ヴィヴァルディの協奏曲などもそうですし、もっと身近には宮沢賢治のトランクから出てきたものがそうです。
 ヴィヴァルディの『四季』や『ふぁごっと協奏曲』を聞いたり、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』などを読むと、束ねられた楽譜やトランクに詰められた原稿が捨てられなかったことに、しみじみと幸福と喜びを感じるのは、私だけでしょうか。


文字と文学と学問

 蘇東坡の言葉に

  <人間文字を知るは憂患の初め>

というのがあります。
 なかなか思い知らされる内容です。
 いっぽうでは、さらに古く老子は、

  <学を絶てば憂いなし>

と言っています。
 つまり、「学問を捨て去ってしまうと、人生には憂いがなくなる」ということなんです。
 これも、何となく真実がかっていて、説得力のある内容です。
 さらに、次のような言葉はいかがでしょうか?

  <できあがった人間は、なにを与えても満足しないが、できかかっている人間は、いつも有難がって頂戴するもんですよ。>……ゲーテ『ファウスト』(相良守峯訳)
  <学問だ、研究だと、漁り歩いたところで無駄な話だ。>……ゲーテ『ファウスト』(相良守峯訳)
  <知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増す>……『伝道の書』
  <あなたは言葉を少なくせよ。>……『伝道の書』

 これらを読むと、いつも私はがっくりとくるんです。
 あなたは、そう思いませんか?


言葉のわな=ヨブ記

 旧約聖書『ヨブ記』の中に、こんなくだりがあります。

  <シュヒびとビルダテは答えて言った、
  「あなたはいつまで言葉にわなを投げるのか。
  あなたはまず悟るがよい、
  それからわれわれは論じよう。」>

 これは、あたかも不立文字のことを言っているように私は思うのですが、いかがなものでしょう。
 また、

  <主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
  「無知の言葉をもって、
  神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
  あなたは腰に帯(おび)して、男らしくせよ。>

 そして、ここまで言われてしまうと、ヨブは何というかわかりませんが、もはや私は何とも言えません。


作品への愛情

 ふつう、一つの作品を作ったということは、その作品に対して何らかの感情をもつことになるでしょう。
 できれば、自分が作った作品に愛情や愛着を感じられれば、とても幸福ですね。
 芹沢光次良『愛と死の書』のあとがきには、作者自身の言葉で作品に「この作品には、とくに愛着がある」と言っています。そのような作品は、読者が読んでもすばらしい出来映えです。私は、この作品を読んで大いに感激をしました。そして、それが「つい昨日のような気がする」のです。
 すでに、10年以上の歳月が経っているのにです。


2 ことばの問題(限界)

     原典と文学作品
     言葉の変更案
     思想の改竄(かいざん)
     言葉や文字の限界
     厳密な違い
     詳細記述への欲求
     不立文字
     文章は不朽の盛事
     黄絹幼婦外孫せい臼=魏の武帝の才能
     文学と音楽
     ことだま=言葉と音楽=文学と音楽
     基本的な姿勢
     文の気品
     作者と文
     読者と作者
     筆禍と著作権侵害
     注文の多い料理店
     作品の集大成
     編集者という立場
     つれづれなるままに
     構想を練る方法
     主人公を誰にするか
     文章の表情
     命令形の文
     読者に呼びかける
     人名に敬称を付ける
     わかりきったことの記述
     重複をする記述
     同じ言葉の反復
     同じ助詞の反復
     トウトロジー(同義反復)の忌避
     トウトロジー(同義反復)の利用
     主人公の異なるトウトロジー
     勘違いしやすい漢字
     漢字を続けると勘違いをしやすい文字
     似た文字=間違いやすい文字
     似た名前をもつ言葉
     言葉の風化
     ら抜きの表現
     サ変の名詞
     商品名と業界名
     略語の作り方、略語の作られ方
     使い慣れない言葉=定着していない言葉
     できたての言葉=馴染んでいない言葉
     同じ読みで意味の多い言葉
     同じ字で意味や読みが異なる言葉
     同じ事物に多くの名前がある場合
     逆になると読みが異なる言葉
     意味内容が矛盾した言葉
     重箱読みと湯桶読み
     文語読みと口語読み
     文語表現と口語表現
     漢字が続くときの区切り
     カタカナと漢字の区切り
     ひらがなと漢字
     ひらがなと漢字のバランス
     「………が、………」という形の文
     「が」と「の」
     間違いやすい表現=文章の主語などがわかりにくい
     言葉を選ぶ=表現の工夫
     言葉を選ぶ=接続詞の反復
     たたみかける調子=同じ言葉の繰り返し
     常用用語と常用句
     つなぎ言葉(接続の言葉)
     つなぎ言葉の目的別一覧(1)
     つなぎ言葉の目的別一覧(2)
     つなぎ言葉(五十音順)
     句読点
     字面(じづら)
     ルビと言い換え=読みにくい漢字にはルビを付ける
     カタカナ語の音引き(ー)基準
     オノマトペ(擬声語)
     数詞と数をともなった言葉
     かっこ、やくもの、記号=<>「」『』……−−?!など
     やくものの使い方
     カギカッコ「」の使い方


原典と文学作品

 元の記述よりも、文学作品のほうが素晴らしいものもあります。元の記述が単に記録や議事録のような場合には、とくにそのようなことが言えるでしょう。創作のほうが、ふつう記述が生き生きとしていて、ストーリの展開も面白いからです。
 例えば、元になった仏典によるよりも、倉田百三『出家とその弟子』、『布施太子の入山』などのほうが、数倍も面白いのはなぜでしょうか。
 また、元になったのが淡々とした記憶の場合、例えば神沢杜口の『翁草』の記事よりも、それを脚色した森鴎外の『高瀬舟』のほうが、読んでみて緊迫感があったり、気持ちが主人公に移っていくのは、どうしてでしょうか。おそらく、森鴎外の文章の力によるものと思われます。
 さらに、聖書にある福音書などよりも芥川竜之介『奉教人の死』、太宰治『駆け込み訴え』などのほうが、大いに感激をするのは私一人ではないでしょう。

 そのようなことを考えると、事実を文学作品にすることの意味が大いに増すことでしょう。
 そんなことがわかれば、いろいろと工夫をしてみることができます。
 例えば、新聞の三面記事などを香りの高い文学作品や推理小説などに仕上げることも可能でしょうし、またそのようなことをしていればネタ切れになる心配がありません。
 作成する文学作品は、必ずしも原典の記録と内容が異なってもいいと思います。
 つまり、いろいろな解釈ができるからです。そして、それを読者に押しつけるのではなく、提示する方法をとると効果的な展開ができることでしょう。例に挙げた太宰の『駆け込み訴え』などは、共観福音書の内容とは大違いです。なぜならば、ユダの立場から書かれている内容だからです。
 そして、それが非常に高度な技法で書かれているので、私はすっかりと感激をしてしまうのです。


言語の変更案

 かつて話題になった日本語の改善案が、いくつかあります。
 例えば、

(1) 森有礼(英語を国語とする)
(2) 外山正一(漢字を廃止してローマ字化する)
(3) 志賀直哉(国語をフランス語にする)

などです。
 森有礼は、「日本語を英語にしてしまう」などと言った文部大臣です。
 しかし、そのことについて、林 武『美に生きる』(p23)には

  <文部大臣森有礼はアメリカにおいて日本語を英語に変えるといい、アメリカの識者から軽蔑された>

とありました。
 これは、アメリカの識者が軽蔑をしたことよりも、何となく林 武氏が軽蔑をしたような感がしないでもありません。
 また、漢字の煩雑さに閉口をして、「日本語をローマ字化する」のがよいと言った人もいました。
 そしてさらに、「小説の神様」とまで言われた志賀直哉は、

  <日本語をフランス語にしよう>

と文芸誌の記事として、提案までしたのです。
 それは、前後の混乱した時期でした。私は「さすが大文学者だけあって、英語でなくフランス語と言った」のが、何となく救いだったと思ったものです。


思想の改竄(かいざん)

 古くはカクコウの「荘子」解説書、わが国では吉本襄の「海舟先生氷川清話」などは、原著者の文自体を自己流に曲げた感があるようです。つまり、原典は見るも無惨に改竄(かいざん)をされて、まったく別物になってしまったのです。そして、原作者の思想が編者の思想に置き換えられてしまったようです。
 それでも、改竄をした作者としては、新たに書き起こすよりは効果的です。なぜならば、原典はそれなりにすでに有名な書物ですから。しかし、いっぽうでは原典の作者(死んでしまっている場合が多い)にとっては、迷惑きわまりないことであると思いますが、いかがなものでしょうか。
 あなたは、どのようにお考えでしょうか?

 そのようなことは、よくあることです。
 ソクラテスは一冊も書物を残していません。したがって、プラトンやアリストパーネスなどの記録からソクラテスを知るほかはありません。アリストパーネスは『雲』などのように、多少悪意も込めて綴っていますから別にするとしても、プラトンの書き残したものは、もしかしたらプラトンの考えをソクラテスに代弁させたということが考えられるのです。
 もっとも、そんなことを言えば、釈迦やイエスの伝承についても、後の布教者がかなり改竄をしたのではないかという感がしないでもありません。新約聖書についても、「福音書」などという言葉が使われている内容は、今日ではもはや「幸福の音信」という意味を大きく越えてしまっているからです。

 さらにすごいのは「歴史を作った男」と言われるキムタカです。木村鷹太郎は優秀な学者ではありましたが、日本の歴史を世界でいちばん優秀な民族の歴史に書き直したのです。その際に、本人がそれを信じ込んでいたから、説得や文章も鋭く、なかなか周囲が気づきませんでした。
 ちょっと、キムタカはドン・キホーテの中の主人公のような感じがしないでもありません。


言葉や文字の限界

 「私の言わんとしている内容が、本当に相手に正確に伝わっているかどうか」が疑わしく思われることが、よくあります。
 いつもそんなときには、心配になるとともに、つくづくと言葉の限界を感じます。
 例えば、「花は赤い。」という文章です。
 つまり「花」という文字で表される概念が、「赤い」という文字で表される状態なのです。しかし、当然のことのような内容でも、読むほうの考え方や立場によって、かなり異なってくるでしょう。
 さらに、もうちょっと抽象的になった文、例えば「愛は永遠である。」とか「これはパイプである。」などになると、さらに心配は増すのです。そして、ふつうの言葉や文字について心配があるということは、どうもみな同じことなのです。

 おそらく作者の考えている状態と比べて、かなり異なった状態が読者のイメージになっていることでしょう。
 それは、致し方がないことですが、いつも心配をすることなんです。
 しかし、それはそれでよいとも考えることもあります。
 なぜならば、ある作品に対しても大いに感動をする人と、そうでない人がいるからです。
 考えてみれば、言葉は通信の手段ですから、送り側と受け側で若干の形が異なっても仕方のないことかもしれません。
 あなたは、どのようにお考えでしょうか。


厳密な違い

 実際には定義をされているのでしょうが、それを知らないで同じものと考えてしまうことがあります。
 例えば、「ひょう」と「あられ」です。
   ひょう(雹)  直径が5ミリメートル以上のもの。
   あられ(霰)  その他のもの。
 つまり、大きなものは「ひょう」と言えばよいのでしょう。埼玉県で、カボチャ大のひょうが降ったことがあるそうです。
 もしも文章の中で厳密な意味が必要な言葉であるときは、やはり辞典などで調べる必要があるでしょう。


詳細記述への欲求

 言おうと思って、それをいくら書いてもキリがないことがわかります。
 『ヨハネによる福音書』の最後に次のような記述があります。

  <……、このほかに まだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。(第21章25節)>

 そして、さらに旧約の『伝道者の書』には、

  <多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる。(第12章12節)>

とあります。

 私は、いつもそこを読むたびに、がっくりとくるのです。
 したがって、ある程度のところで我慢をすることになるのでしょう。
 また読者に、時間的な要求を強いることもいけないことだからです。
 それは、百貨店と専門店との関係にも似ています。多くの品物をすべて一通りは備えるか、それとも特定な品物とその付属品などを細かく常備しておくかの違いです。
 ここで、すべての品物と付属品を用意するとなると、何ともまとまりのない膨大なものになってしまうのではないでしょうか?
 ふつう作品は、「はじめは読者から作者への一方的通信の形態」なのです。それでは、一方的に作者が詳細な記述をしても、読者の負担が大きくなってしまうばかりです。
 そんなわけで、やがて双方向の通信とする必要が生じてくるでしょう。


不立文字

 不立文字(ふりゅうもじ)という言葉があります。
 また、以心伝心とも言います。
 不立文字とは、言葉では言い表せない禅の境地などを「心で伝える以心伝心というような方法」しかないという意味です。しかし、その「不立文字」という文字自体が、すでに「文字」であることが問題になってくるのではないでしょうか。
 つまり、いくら考えても言葉は万能ではないのです。
 「指月」という言葉も、そうです。
 それは、親が子どもに満月のお月様を指さして「あそこにのんのん様がいるよ。ご覧!」と言っても、子どもは月を観ずに、ただ親の指を見ているだけというような感じのものです。


文章は不朽の盛事

 高校で学んだ漢文のテキストに、

  <文章は経国の大業、不朽の盛事なり>

という記述がありました。
 魏の文帝(曹丕)が著した『典論』の有名な一節です。
 文章の国家的な重要性を述べ、朽ちることのない永遠の業といい、文学の独立性をも宣言しているのです。
 私にとっても身が引き締まるような、意味深いくだりです。

 文帝は西暦220年ごろの中国の皇帝です。
 有能な官僚の採用や宦官による政治介入を除き、また文学的才能にも恵まれたそうです。このころにおいても、いかに文章を大事に考えたかがわかって、私はとてもうれしい。
 ついでながら、文体を「ぶんてい」と読むのは、この文帝とはまったく関係のないことでしょう。しかし私は、この皇帝の名前を記憶するために、そのようにこじつけて記憶をしているのです。

 昔の皇帝の中には、勉強をした人も多かったようです。
 わが国の嵯峨天皇は、この魏文帝の「文章は経国の大業、……」にすっかり感心して、これを国家的スローガン(国家的理念)にしました。嵯峨天皇は、ご自身で佳作を残しましたが、宮中では女官までそれに唱和して、大いに学んだそうです。

 聖書や仏典など、さらには『論語』の中に出てくる皇帝にもそういう人がいます。
 例えば、ミリンダ王ソロモン王がそうです。
 旧約聖書にある『伝道者の書』などもソロモンの作としているのは、彼の文才がなせる技でしょう。そこに、一国の王の記述としては、ちょっと不思議な箇所も見受けられるからです。なぜならば、『伝道者の書』は『ヨブ記』などと同じように、かなりスケブティクシズム(懐疑主義)であり、さらにはニヒリズム(虚無主義)の感が強いからです。

 文学ではなく、音楽に優れた王も見受けられます。
 そういえば、フリードリッヒ大王はフルート協奏曲などを作曲しました。そしてさらに、自分でもフルートを吹いたそうです。あるいは、自分が吹くために作曲をしたのかもしれません。


黄絹幼婦外孫せい臼=魏の武帝の才能

 まず、「せい」という字の説明を何とかしないといけない。うまくできるだろうか。
 伊豆に「韮山(にらやま)」というところがある。その「韮(にら)」の字である。次に「弟」という字である。その字には上に「ソ」のような部分があって、次に「フ」と続ける。その「ソ」と「フ」を「弟」から取ってしまう。それを仮に「A」としよう。その「A」の横に「次」という字があると思ってほしい。
 そして、その「A」の隣に「次」がある文字が、「韮」の「くさがんむり」つまり上の「サ」の部分とチェンジした文字が「せい」という文字。おそらくパソコンにはない文字でしょう。

 これは『世説新語』にある話。
 魏の武帝が楊脩(ようしょう)をお供に連れて歩いていると、「黄絹幼婦外孫せい臼」と8文字が書かれた碑があった。
 武帝は楊脩に、
 「意味がわかるか?」
と聞いた。すると楊脩は、即座に
 「わかります」
と答えたのである。

 そこで、武帝は言った。
 「意味を言ってはいかん。わしが思いつくまで待っていろ」
と言って、考え始めた。
 やがて、30里ほど行ってから互いに紙に書いて見せ合った。すると、まったく同じ内容であったので、武帝は言った。
 「わしの才能は、お前に後(おく)れをとること、30里であることがやっとわかった」
 なお、紙に書かれた内容とは、文字のなぞを解いたものであり、意味は次のとおり。

 「黄絹」は「色のついた糸」で「絶」。「幼婦」は「少女」のことで「妙」。「外孫」とは「女(むすめ)の子」であり「好」。そして「せい臼」は「辛(からし)を受け入れるもの」であるから「辞」。
 ということであるが、やはり「せい」が私(黒田康太)にはわからない。原典にある字は「辞」の偏(へん)が「受」になっている。
 いずれにしても文字の謎は、中国に多くあったみたい。

 

(注) 文字の謎が『RIKOホームページ』の「笑いの話題 健康訓」にあります。「■文字学」や「■なぞなぞ」などで、王安石が言っている言葉です。



文学と音楽

 文学は、道具として紙とボールペンまたはワープロなどで作ることができます。
 いっぽう、音楽は楽譜と音符用ペンがあれば何とかなるかもしれません。もっとも、それを作る人の才能や努力が必要なことは、当然ですが……
 しかし、音楽の場合は作品を鑑賞するために、楽器を演奏する必要が生じます。文学が、自分で読めばよいのと比べると、ちょっと大変です。もっとも、音楽の場合も楽譜を観るだけで鑑賞することができる人もいるでしょう。かなりのベテランですが、文字を読むように楽譜が読めるのです。
 つまり、文学と音楽では表現の方法や性格が何となく似ているものの、かなり異なるのです。
 あなたは、そのように思いませんか?


 

ことだま=言葉と音=文学と音楽

 「ことば」という言葉は、元来「ことだま」という意味をもっていたようです。そして「言霊」と書きます。
 それはつまり、言葉には単に物事の意味というよりも、他に精神的な内容を含んでいると考えたからでしょう。
 人間は言葉で思考をします。例えば、
  「気持ちがよい。」「頭が痛い。」「太陽が昇った」「空が青い。」「雨が降る。」
などです。
 そして、大概は「何がどうした」というような文の構造になっています。
 また、少し複雑になると
  「我思う、故に我あり」
  「机の上に本がある」
  「加津子は美しいが、冷たい感じがする」
  「言葉は万物をシソーラスにカバーしようとする」
  「政治、経済なども言葉。音楽は? スポーツは?」
  「私たちは、ともすると五体満足で、完全な身体をもっているものと錯覚をする」
などのようにです。

 そして、ふつう人間は「ヒトが視覚や聴覚などが他の動物に比べると、大きく退化してしまっている」ということさえ、すっかり忘れています。例えば嗅覚に関しては、犬などと比べて、まったく話にもならないほど微力になってしまっているのです。なぜならば、現代生活における食事が原因していると考えられるからです。
 例えば、イヌイットの人たちも視覚が衰えてしまって、もはやかつての猟ができる人たちが少なくなったといいます。
 そして、そうなったら国の補助によって、当分の間は生活を続けるほかはありますまい。

 宮城道雄は、七歳で失明をされたそうです。
 そして、後に
  <言葉は音楽の流れ>
とも言っています。
 つまり、言葉は調べのある音が、美しい響きで流れているというのです。
 私も、まったくそのとおりだと思います。しかし、私は天才ではありませんので、そう言われるまでは
  「音楽の流れの中で、現実の身の回りに必要な音が言葉」
と考えていました。

 もともと、文字のなかったわが国では、稗田阿礼(ひえだのあれい)もおそらく抑揚をつけて、歌うように文章を唱えて暗記をし、その内容を太安万侶(太安麻呂)に聞かせ、『古事記』三巻の原形を伝えたのではないでしょうか。
 近年になってからも、宮沢賢治や内田百間(実際には、門構えの中は月)などの文章は、文自体にはあまり技巧がないにもかかわらず、格調の高いリズムが感じられます。その内容はともかく、言葉の平易さに反して、調べが読者の印象に強い感じを与えているのではないでしょうか。
 例えば、オノマトベの使い方などです。
 ついでながら、宮城道雄は内田百間の頭に手で触れてみて、「その大きさと、丸くなくてでこぼこであった」ことに驚いたと言うことを書いています。


基本的な姿勢

 基本的には大きな立場で考えると、文帝が『典論』で言う
  <文章は経国の大業、不朽の盛事なり>
ということを、常に忘れないようにしたいものです。
 これは、気軽に書いているときにも、ときには思い出したいくだりです。
 中国には皇帝を始めとして、非常に優れた人が多くいたということに、今さらながら驚かされます。
 そして、私たち日本人は多くをそこから学んだということを決して忘れてはいけません。

 また、『菜根譚』には
  <文章を作るには、むしろまずくとも誠意をもって続けていけば上達する>
とあります。
 このことは、常に心がけるべきでしょう。
 私は、この言葉に励まされ、何とか今まで文章を作ることを投げ出さずに来られたのです。

 『菜根譚』には、さらに
  <文章も老熟して最高のところまで達すると、文章自体に珍しく優れているところがあるというわけではない。
 ただ、それが落ちついた最適な表現をなされているにすぎないのである>
とも書かれています。
 まったく、そのとおりだと思います。
 あなたも、そのようにはお考えになりませんか?

 とにかく、私は現代の文章というものを
   第一に「読みやすく」、
   次に「わかりやすく」
なくてはならないと考えます。
 そして、さらに文章自体が読み手の心を強くとらえなければならないことも当然でしょう。つまり、そのことに常に留意する必要があるのです。これらから作ろうとしている文章に関していえば、深い人間的興味があって、かつ平易な表現でなければならないという結論が与えられるのではないでしょうか。

 また、一つの作品の中で、すべてを言い尽くそうとしないほうがよいとも考えます。
 なぜならば、短編小説などでそのようにすると、謂わば論説のようになってしまい、作品自体が重くなってしまうからです。むしろ、シリーズの作品にして、言いたいことを分散して配置するほうがよいでしょう。何となく余韻を残すようなやりかたのほうが、あまり力みすぎる姿勢よりは無難です。
 また、読むほうに負担をかけないので、そのようにしたほうが好ましいのではないでしょうか。
 長続きをする姿勢としては、『東照宮家訓』にある
  <及ばずは、過ぎたるに勝れり>
ぐらいで、ちょうどよいのではないでしょうか。

 書く技術や言葉の知識もさることながら、書こうという気持ちに、まず自分がなることが大切です。
 ぐずぐずしていたり、何となくいやなときは能率が上がらないからです。もう諦めて、観念をして、やろうという気持ち……これが原稿のできる要諦なのではないでしょうか?
 つまり、いちばん大切なことは、自分自身をやる気にさせることです。それは、いわゆるモチベーションを付けることでもあります。いつまでもだらだらとしていては、少しも進まないし、気分的にもよくありません。心の準備、すなわち心構えと気持ちの整理が、なかなか難しいのです。

 私たち人間は、誰もが「時間がくればタイムスイッチが入って、自動的に始まる」というようなわけにはいかないのです。
 そのような人も中にはいるでしょうが、ふつうの人はそうではありません。
 とくに、雑念が入ると文章はできません。
 そこで、作業環境と状態を整備しておく必要が生じるのです。


文の気品

 常に、文の気品を高めるように努力をしなければなりません。
 表現が低俗に走ったりしないように、注意をしてください。むろん、下卑(げび)た記述をつつしむ必要があります。作者の人格までを疑われてしまうような文は、なるべく書かないように心がけたいものです。
 そうは言っても、登場人物の人格を抽出分離して、よい気質と悪い気質に分けて記述するときなどは、かなり尾篭(びろう)な表現や野蛮な所作が、出てくるのも仕方ないでしょう。
 世間一般には、そのような要素もあるからです。
 そのような場合、ストーリの効果を考えるときは、エログロナンセンスが続出しても、いたしかたないのです。
 文章の気品についても、その内容とともに、読者に読後の余韻を持たせるように心がけましょう。
 つまり、読者があれこれと思い出したり、考える余裕を残しておくのです。


作者と文

 一般に言われることで、「文は人なり」という言葉があります。
 その言葉は、ふつうに考えれば、「その文章を見れば、書いた人の性格や人柄がわかる」という意味でしょう。
 しかし、私は必ずしもそうではないと思います。
 なぜならば、むしろ「文は人なり」ではなく
  「人が文を意識的に作る」
のです。
 つまり、文は意識して作られたものなのです。作者が心に考えたことを忠実に表現しなければいけません。
 したがって、ある程度の文章技法が必要になってくるでしょう。

 作中の人物によって、作者の性格は見かけ上異なってくるのがふつうです。
 つまり、上品にもなるし、高潔にもなります。またその反対に下品にもなるし、いやらしくもなるのです。
 それは、ちょうど役者が舞台で演技をするのと似ているでしょう。その舞台と現実の場では、まったく違うことがあるのです。
 神沢杜口は『翁草』の中で<人生は芝居なり>というようなことを言っています。芝居では、それが終わると親子も親子ではないし、主従も主従でない、そして敵味方も敵味方でない。さらに、人生そのものが芝居なのだと言うのです。
 私は、そのことで
  「江戸時代に、芝居を見ていた武士が悪役の仕草にたまりかね、舞台に飛び出して切りかかった」
という話を思い出します。
 また、『パンセ』にあるパスカルの言葉なども脳裏をよぎります。

 話がうまい人でも、必ずしも文がよくできるとは限りません。逆に文のうまい人でも、話が上手とはかぎらないのです。なぜならば、書くことと話すことは、まったく別のことだからです。このことを忘れないようにしてください。
 そのことは、中国古代の文の達人が話すことがあまり上手ではない「どもり」であったことなどを考えれば、理解が早いのではないでしょうか。
 例えば、荘子や孫子などの場合です。

 文には作者の思考や動作をあまり多くいれず、むしろ少な目にしたいものです。
 つまり、
  「言う。」「言った。」「思う。」「思った。」「考える。」「考えた。」「感じる。」「感じた。」「感じであった。」
などを安易に用いないことです。
 なぜならば、そのような言葉を多用すると、何となく一方的な内容になってしまうからです。
 むしろ、
  「どう思いますか?」「どうお考えでしょう?」「どんな感じでしょうか?」
などと読者に聞くのがよいのではないでしょうか。

 これから作ろうとする文には、なるべく身近な素材を用います。
 しかし、それでも素材をそのまま用いることをしないで、読み手が考えてもいなかったこと、考えたがまさかと思っていたこと、心にひそむ戦慄などを描き出していくとよいでしょう。素材をそのまま用いると、読者にとっても斬新性がないので、読むことに飽きてしまうからです。
 また、大人になって忘れてしまった幼いころの感激などを彷彿とさせる文章などもよいと思いませんか。
 そのときには、読者にも作者と同様な思い出や記憶があるのですから、なるべく共通点を引き出すような工夫が必要になるでしょう。
 あなたの場合には、いかがでしょうか?


読者と作者

 常に、読者を忘れないようにしないといけません。
 時には、読者の立場になってみたり、読者の立場で書いたりします。つまりある程度、読者と作者の歩み寄りが必要なのではないでしょうか?
 しかし大切なことは、ここで作者が決して読者におもねってはいけません。
 読者には、ふつう若い世代を中心的に対象とするものが多いようですが、これからは年配者や老人にも読める内容としておくことが必要です。なぜならば、4人に1人が老人の社会になるからです。
 その意味で、読者対象がすべて同じ年代である学校の教科書などと比べて、書き方の表現が難しくなってくるのも事実でしょう。

 したがって、読者に呼びかけるときは、
  「あなたは、どう思いますか?」
などとするのが、ふつうの表現です。
 本来ならば、この「あなた」という言葉を目上の人に使うと失礼に当たります。しかし、私もかなりの歳になったし、若い読者が多いようですから、「あなた」で差し支えないだろうと考え始めるようになりました。
 あるQ&Aサイトで、「おまえらは」と呼びかけて、話題になった人がいました。後でわかったことですが、やはりあまり教養のない失業中の男の人が腹いせやっていたようです。

 読者がいなくては、作者の意味がありません。
 あるときは、魯迅の『コインのぬくもり』などを真面目に読んでみるのもよいでしょう。
 清水幾太郎は、「論文の書き方」で
  <読者が著者に近づく>
  <書くことを前提として読む>
と言っています。しかし私は、むしろ
  「著者が、読者に近づく」
  「読むことを前提として書く」
という態度が、必要なのではないかと思います。

 読者がいなくては、作者の意味がありませんと言ったら、あまり読んでもらえない文章やホームページについては、どう考えればよいのでしょうか。
 でも、心配することはありません。読者が少ないときは、作者が読者の立場で読めばよいからです。つまり、自分自身の文章を客観的になって読むのです。すると、新たに別な考えに発展をしたりして、いろいろと有意義な体験が図らずもできるのです。
 そのようにして知的空間を拡げていけるので、それなりの効果があります。
 つきつめて言うと、文章を書くということは、作者自(みずか)らの「生きている証明」なのです。


筆禍と著作権侵害

 客観的に見て、正しいと思うことを素直に書くように、常日頃から習慣付けるとよいでしょう。
 筆禍に関しては、じゅうぶんに注意をしなければなりません。特定な人物や組織などを対象として、過激な批判をしないようにします。もしも、そのようなことをどうしても書かなければならないときは、表現に工夫をするとよいでしょう。
 例えば、
  「福沢諭吉の業績は偉大であったけれど、何だか守銭奴のようにも見える。
  だって、一万円札になっているではないか……」
などのようにして、ぼかしたり、はぐらかしてしまうのも一つの方法です。

 著作権侵害については、常に気を配って、必要な調査をしたり、あらかじめ了解を求めたりします。
 したがって、他書からの引用と自分の記述とは、明確な方法で区別をする必要が生じます。そしてその記述方法をすべての場合に守るようにしたいものです。
 引用文の書き方については、別に記します。
 孫引き(引用したものの引用)は、原則としてしてはいけません。ただし、ある程度の古典に関しては、孫引きをすることも必要になるでしょう。それは、原典に当たれなかったり、その時間がないときなどに許されることです。

 なお、このホームページでは原則として引用文は
  <……。>
のようにしています。
 そして、作者(私)自身の言葉は、
  「……。」
で示すようにしています。
 つまり、会話や発言などでも引用の場合は、カギカッコ<>を利用して明白にしているのです。


注文の多い料理店

 材料をそろえようとしても、なかなかキリがないでしょう。
 だから、当面は手持ちのものだけで工夫をしましょう。そして、必要なものが生じた時点で、改めてそれらを手配をすればよいのです。本を読んでも、資料を集めても、かなり時間がかかって際限がないからです。ある程度のところで、妥協が必要になるゆえんです。
 実際に文章を作成をするのと並行して、次々とモチーフを揃えていく必要もあります。

 つまり、ここでは料理を作って客を待つのではなく、自分自身のために作るのです。
 むろん、客が来て求めたら、その注文どおりの料理を作るのもよいでしょう。そのような場合は、実際に自分の好みで作るのではなく、客の注文によって作らなければならないということがおわかりになるでしょう。なぜならば、注文があった場合は商品だからです。
 しかし、ここでは最初から商品として作ったのではなく、自分自身のために目的があって作るのですから注文は自分がするのです。そんなわけで、とりあえず用意ができたものから加工をしてみましょう。
 注文の多い料理店を開いて客を待つのではなく、自分自身のために……。


作品の集大成

 少しずつ作った作品は、ある程度まとまったら集大成をします。
 別々の作品であっても、関連のあるものはシリーズとしてまとめ、それ自体が一つの作品になるように工夫をします。
 そのときには、すべてが自分の作ったものでなく、仲間同士が数人で一冊にまとめてもよいでしょう。
 短歌や俳句の作品集には、そのようなものも多いようです。
 何人かが、お互いに作品を持ち寄って一冊の本を仕上げるのも、なかなか楽しいものです。

 『聊斎志異』や『百物語』、そして『今昔物語』などが残っているのも、集大成をされたためでしょう。
 そのような形で保存をしておくと、オムニバスとしても利用ができるので便利です。


編集者という立場

 出版社が本を作るときには、ふつう作者や印刷業者などと折衝をする編集者という人がいます。
 いろいろと進捗をコーディネイトしてくれるのですが、考え方によっては他のすべてが、いわば編集者の下請けのような作業としての形態で進められているのがわかります。とくに作者が執筆を遅らせて期限を守らないときには、編集者が苦労をします。
 また作者が弱い立場にあると、編集者が勝手に書き換えることさえあるのです。
 そして、編集者自身が未熟だと、いろいろと問題を生じることもあります。

 かつて、志賀直哉が「剥落」と書いた部分を、若手の新聞記者が「はげ落ちる」と勝手に書き直して、大きな問題になったことがあります。とくに若い編集者が担当になった作者の場合は、ともすると編集者側の不勉強と非常識のために、不愉快なことが生じます。
 今やレストランの料理も、書籍の制作も素人のする時代になってしまいました。
 原価を安く抑えるためと、労働力の安定確保のためでしょうか。
 そんなために、執筆家は無理を強いられたり、不愉快な思いをするのです。

 私は、かつて若い編集者に「先生が教養があって、博学であるということはよく存じています。しかし、この本でそのことを証明していただく必要はまったくありません」と言われたことがありました。そして、その言葉を聞いたときに、私はあまり愉快ではありませんでした。
 出版をするときには、気に入らない出版社から出してしまうと、後々まで不愉快な思いをすることがあります。
 それはちょうど、気に入らないままに見合いの相手と結婚をしてしまうようなものです。そんなことにも、相性というものがあるのでしょう。

 しかし、自分自身のために作る作品に関しては、ふつう編集者がいません。
 つまり、編集者の仕事も作者が兼任をしているような状態ですから。大いに気楽です。しかしその一方では、ふつうの出版物という枠から、かなり離れた内容のものができることもあるので、注意と自覚が必要となるでしょう。なぜならば、編集者という目で見たチェックがなされないからです。


つれづれなるままに

 「つれづれなるままに」というような方法で文章ができる人は、時間に余裕があって、文章力もある人でしょう。
 私は、そのように思います。なぜならば、やってみても「つれづれなるままに」というような方法では、とても文章が作れないからです。
 あなたの場合は、いかがでしょうか?

 一般に、思いついたままを次々と書いていく方法では、かなり大きな無駄や重複が生じます。
 つまり、ふつうは最初に全体を設計してしまう必要があるのです。なぜならば、そのようにしないと記述量や費やす時間が必然的に増えてしまうからです。何となく次々にインプットをしていきますと、「あれも言いたい、これも書きたい」ということになって、いきおい長くなってしまいます。
 まず、必要最小限のことを記述して、その後でそこに追加をしていくようにしたら、どうでしょうか。

 そんなために、最初は必要最小限の書き方をするための方法が必要になります。
 その心がけとしては、やはりモチーフのメモが大切です。
 常日頃から、何かを思いついたときは、いったんメモにします。そして、それをクリップではさんでおいて、後で内容を発展させるための検討をするのです。そして、後でメモにした動機や内容を吟味して、不要なものがあれば思い切って捨ててしまいます。
 なぜならば、そのようにしないと整理ができなくなってしまうからです。
 それは、ちょうど材料が多すぎると逆に料理がしにくくなるのと似ているのではないでしょうか?


構想を練る方法

 アガサ・クリスティのような大作家でも、
  <本の構想を練るのにいちばんいいのは、お皿洗いをしているときなのよ>
と言っています。
 人によって違うでしょうが、いつもメモ用紙をもっているか、身近に備えておいたほうがよいでしょう。そして、日常の生活の中で思いついたことは必ずメモをしておくようにします。すると、それらがそのままモチーフになるからです。
 構想を練るということ自体が一種の知的空間なので、楽しい時間が過ごせるからです。文章を作るということは、プロの場合は別として、老化を予防する楽しい作業でもありたいものです。
 そして、いったん思いついたことでも、書き留めておかないと永遠に思い出せないこともあるようです。

 書き留めておいても、それがうまく作品にならないこともあります。
 短歌のような短詞形でも、大いに起こることです。
 三木アヤさんは、
  <いく度も推敲をしては消し去りぬ 逃げてゆく歌 逃がしてしまふ>
と歌集『夢七夜』に作品自体に残しておられます。
 この作品自体は残っていますが、「逃がしてしま」った歌も多くあると言っておられました。

(注) 三木アヤさんの短歌については、『RIKOホームページ』の「やさしい短歌入門」を参照してください。
 最初から少し先に進んで「ここに発表を……」以下の部分です。



主人公を誰にするか

 主人公を登場させるときに、それを誰にするか考えるのも楽しいことです。
(1) 男、女、若者、老人などの一般的な指定
(2) 私、第三者、彼などの人称による指定
(3) 静夫、如月次郎などの具体的な名前
など、いろいろあります。
 そんなことを、あれこれと考えるのも楽しいことでしょう。

 主人公が誰に決まったら、自分自身もその主人公の立場になってみることです。
 すると、別の視界が開けてきて、物語の展開も独自な方向に向かっていくことが多いようです。
 三島由紀夫は、創作中に作中の人物になりきった様子で、人格まで変わってしまうように見えたという話です。そのようになれれば、おそらくユニークな素晴らしい作品が完成することでしょう。
 なぜならば、そうなればすでに当事者が記述をしていることと同じだからです。
 しかし、第三者になってあくまでも客観的に書いていくという方法もあるでしょう。

 いずれにしても主人公の性格は、物語にとって非常に重要です。
 多かれ少なかれ、作者の性格を受け継いだような場合が多いようです。そんな意味で、作者自身とはまったく別な状態の主人公を登場させれば、いろいろな意味で面白い体験ができます。
 つまり、作者の人生における現実の経験とは異なる追体験のようなことが可能なのではないでしょうか。
 あなたは、どのようにお考えでしょうか?

(注) 太宰治や芹沢光治良には、女性を主人公にした名作があります。
 例えば、太宰治の『斜陽』や芹沢光治良の『愛と死の書』などであり、まったく主人公が女性の立場で書かれている。



文章の表情

 最近のタレントや俳優は、いつも笑い顔です。とくに、若い役者は冗談を言うときは、自分も笑います。それが視聴者に対するサービスなのでしょうか。それは何となく無知な観衆に、笑うべきときを教えているようでもあります。そのような場面がふつうになってしまいました。
 しかし、古典の落語家や昔の大学教授などは、苦虫(にがむし)を噛み潰(つぶ)したような顔をして、冗談を言ったものです。つまり、言った本人は絶対に笑わないんです。そして、それが何とも大きなおかしみをもっていました。もしも、言った本人が笑ってしまうと、笑いの大きさは小さくなってしまったでしょう。

 駅でよく見る光景です。
 電車に乗ろうとして階段を走って登ったが、電車に乗れなかったときに、ニヤリと笑う人が多いですね。それは、照れ笑いなのです。ふつうは、乗れなくて残念ですから怒るところまでいかなくても、可笑(おか)しいはずはありません。それを笑うのですから、考えてみれば不思議な情景です。
 そして、俳優が笑うのは、それと似たようなものではないでしょうか?
 そして、さらに文学についても、そのようなことが言えるのです。


命令形の文

 命令形の文も少し混ぜ、飽きのこないトーンにするとよいでしょう。
 例えば、
  「もしそうであれば、あなたは一日に一度だけ空を見なさい。」
と書くと、これは「何となく作者が読者に話しかけている」といったような感じになります。
 文は命令文ですが、その口調がアドバイスをしているときの効果があるからです。

 また、
  「ええい、いいじゃないか。やってしまえ。」
というのは、どうでしょうか。
 これは、作者が読者の立場になって、「主人公をけしかけている」ような感じがしませんか。
 そして、何となくやけくそになった気分を味わうようです。
 その気分ばかりでなく、その結果がどうなっていくかに注意を引こうとしているのかもしれません。

 それでは、
  「馬鹿をいうのではない。もっとよく考えろ。」
というのを、あなたはどう考えますか。
 私は、これは作者が読者に言っているのではなく、「主人公自身が発する独り言」のように取れるのですが。
 いずれにしても、このような命令文を適当に用いると、文の運びに大きな変化ができて、読者の気分が変わるので効果的かもしれません。


読者に呼びかける

 例えば、
   「あなたは、ムンクの<マドンナ>という絵をご存じですか。」
などと問うのはどうでしょうか?
 その結果、読者が知っていれば軽い満足感を得ることができるでしょう。そして、反対に知らなければ読者は何らかの抵抗を感じるかもしれません。そして、そのような抵抗を感じるというのも、作者側がもくろんだ「読者が飽きがこないようにする」ための一つの方法なのです。
 もっとも、このページではそのような配慮があまりなされてはいませんが、……

(注) 実際に、「あなたは、ムンクの<マドンナ>という絵をご存じですか。」という文章は、『RIKOホームページ』の「自己福音書」にある『ムンクのマドンナ』にあります。中ほどをちょっと過ぎたあたりです。



人名に敬称を付ける

 人名に敬称を付けると不自然になることもあります。
 例えば、マリー・ローランサンに「さん」を付けると「マリー・ローランサンさん」となって、聞いた感じでは何となくおかしな感じになってしまいます。
 「さま」や「くん」などについても同じようなことがいえます。


わかりきったことの記述

 ホームページの場合には、わかりきったことでもひととおりの記述をしておかなければなりません。
 なぜならば、書物の場合よりも不特定多数の読み手が対象となるからです。何らかの誤解をしたままに、先に進むということは、後で非常に都合の悪くなることが多いからです。
 そのようなわけで、ホームページの文章では冗長性が悪くなるのはいたしかたがないでしょう。
 つまり、記述がくどくどとしても仕方がありません。
 誤解をもったまま先に進むのと比べると、わかりきったことの記述も確認としての意味合いがあるからです。

 「太陽は東に昇り、月は西に沈む。」というような文章を考えてください。
 ここで、「太陽は東に昇り、月は」と言った時点で、すでに「西に沈む」ということはわかってしまうのです。それでも、最後まで言うのは、文章の重みを増すためと誤解を避けるためなのです。


重複をする記述

 一部を重複させながら記述を進める書き方も、場合によってはよいでしょう。
 同じことを反復すると、くどいと感じる人がいます。したがって、ちょっと表現に変化をつける必要があるかもしれません。そのように重複をすると理解が深まって、読者に対しても親切になるのです。
 内容が不親切で伝わりにくいことよりも、むしろ重複の煩雑さのほうが好ましいでしょう。
 人生で、同じことを反復するのは、実際に無駄なのでしょうか。
 同じことを続けて3回言ったら、もう相手にしないなどという人もいるようです。同じ内容を聞くこと自体に、うんざりしてしまうのでしょうか?

 しかし、私たちの心臓や肺は、同じことをくり返しています。また、日々の食事や排泄なども、あまり変化の多くない反復でしょう。さらに、一年の四季も毎年似たような反復とさえいえるのではないでしょうか。
 また、キャッチボールや水泳の練習なども、単純な動作の反復です。
 さらに、社会の機関なども日々同じような繰り返しをしていることが多いようです。例えば、鉄道の駅などのアナウンスは、まったく同じ反復のようです。駅の隣のマンションに住んでいたときに、私はそのことに気づいたのです。
 そのようなことを考えると、反復をすることの恥ずかしさについて、あまり気にする必要はないのではないでしょうか。

 多くの人によって編纂された「論語」や「礼記」の中にさえも重複があるのです。
 その「論語」の重複は、有名な言葉
  <子曰、巧言令色、鮮矣仁>
です。
 これは「しののたまわく、こうげんれいしょく、すくなしじん」と読んで、
  「『言葉だけうまく、また愛想がいいの人には、仁の徳などないのだよ』と先生が言った」
という意味です。

 まず、巻第一 学而(がくじ)第一 の3番目に出てきます。
 そして、まったく同じ言葉が 巻第九 陽貨第十七 にもあるのです。

 そのようなことは、コンピューターで検索をしなかった時代には、よくあることです。
 私は「礼記」を読んでいて、やはり重大な重複を発見しました。
 それは、
   ……@@@
という箇所です。

 また、文章でなく『千字文』の文字の中にさえ、重複した文字があったのです。私は「新千字文」を作ろうとして、すべての文字をパソコンに登録して気付いたのです。
 その文字は、@@@という文字です。
(注) (礼記と千字文については、後日メモ控えを参照して記述します。2005.05.19)

 旧約聖書の『伝導の書』には、反復の疎ましさが記述してあります。
 そして、それを『日はまた昇る』というタイトルでヘミングウエイが小説化をしました。
 もしかしたら、宇宙は永遠に回帰をしているのかもしれません。


同じ言葉の反復

 文章の中で、まったく同じ言葉の反復は、なるべく避けたほうが無難です。
 例えば、
   いつもの場所で待っていた。その場所は……
というのは、「その場所は……」としないで「そこは……」のようにしたほうが、何となく自然な記述になるようです。
 また、
   彼女のこめかみには、蛾のような形の赤い痣があった。その蛾のような形の赤い痣は、彼女が中学生のときに……
などとすると、何となく煩雑になるのではないでしょうか。
 そこで、後のほうの「その蛾のような形の赤い痣は」を「その痣は」くらいにすると、よいかもしれません。
 しかし、くどく言って効果を考えているのなら、むろんそのままでもよいでしょう。
 つまり、長い形容のときは、一つくらい前の言葉を残しておいたほうが読みやすいということは、経験的にもはっきりしているからです。


同じ助詞の反復

 同じ助詞を繰り返さないようにしたほうが、何となくよいようです。
 例えば、
   私は朝食はまだ食べていない
というよりも、
   私は朝食をまだ食べていない
とするほうが、読みやすくなるでしょう。
 また、同じ考え方で
   奈々子は自分は長生きできないと思った
という文章を
   奈々子は自分を長生き……
としてもよいのですが、助詞はそのままにして、
   奈々子は「自分は長生きできない」と思った
のようにカッコでくくって、発言の形に変えてしまうのもよいでしょう。


トウトロジー(同義反復)の忌避

 同じ意味の言葉を反復してはいけません。つまり、同義反復(トウトロジーまたはトウトロギー)をしている文を繰り返さないように、避けることをしなければ、やがて読み手が書き手を馬鹿にするからです。
 例えば、次のようなことに注意をすべきでしょう。
   久しく疎遠 → 疎遠
   車に乗車した → 車に乗った 乗車した
   生き生きと生きる → 生き生きとしている
     「そもそもわれわれは日々生き生きとくれくれと暮らしたいものです。」などとすると文章力がないと思われるでしょう。
   それは賢い方法であり、賢明な処置であった。
     → これは、ちょっと表現がくどいので、言い換える必要があるでしょう。
   政党政治とは政党が政治をすることである
   空腹とは腹が空になったことである
   忘却とは忘れることなり(菊田一夫「君の名は」)
   電子工業とは電子を利用する工業である
   空腹とは腹がへったことである
   「S社の秘密」p38
などがあります。

 それほどでなくても、トウトロジーみたいな感じで気になるこ文章があります。
 例えば、
   犯罪を犯す
   ……と言う言葉
などです。
 このようなときは、「犯罪をおかす」「○○という言葉」などとひらがなを用いることによって、目につくことを逃れることもできます。
 読み上げたときの効果を考えるとともに、目で見た感じにも配慮するのがよいでしょう。


トウトロジー(同義反復)の利用

 しかし、必ずしもトウトロジーがいけないわけでもありません。
 むしろ、積極的に用いて効果を高めるようなこともあります。
 『新娘道成寺』(作詞不詳、作曲石川勾当)を谷井祚子(たにい すみこ)が唄ったものに、

 <……乱れし髪の乱るるも つれないは只(ただ)移り気な どうでも男は悪性(あくしょう)な……>

というくだりがあります。
 「乱れし」と「乱るる」は、効果を考えて反復をしたのでしょう。そして、「つれないは」の「な」を響かせて、「移り気な」の「な」、さらに「悪性な」の「な」を効かせています。
 もっとも、私にはちょっと「もつれないは」と聞こえてしまうのですが、……


主人公の異なるトウトロジー

 例えば、

 「ふつうの人は、……と思うんじゃないかと、思うのですが、……」

という文章です。
 最初の「思う」は「ふつうの人」のことであって、次の「思う」は私(自分自身)が思うのです。このようなときは、必ずしも同義反復ではありません。しかし、読みにくいので例えば、

 「ふつうの人は、……と考えるんじゃないかと、思うのですが、……」

のように言葉を変えてみると、何となく目立ちにくくなるのではないでしょうか。


勘違いしやすい漢字

 つい勘違いをして用いてしまう言葉があります。前にあるのが正しい表現、そして後ろのが勘違いをして用いてしまいをうな表現です。

   勘違い < 感違い
   無間地獄 < 無限地獄
   行き詰まる(いきづまる) < 生き詰まる、息詰まる


似た文字=間違いやすい文字

 似た文字には注意をする必要があります。
 例えば、
   「唇」と「脣」は、どちらも「くちびる」です。しかし、「臀(しり)」は尻のことです。
 だから、もしも「脣」を間違って「臀」と書くと、ずいぶんと卑猥な内容になってしまうでしょう。しかし、ワープロを使うようになってから、手書きとは違ってそのような問題は少なくなりました。
 手書きのときは、よく「貨幣」を間違って「貨弊」などと書いている人が多かったみたいです。
 また、勘違いをして豚(ぶた)を獣偏(けものへん)にしてしまったりすることもありました。

 1本分というときは、「いっぽんぶん」と読んで、問題がありません。
 しかし、次のような場合はちょっと困ります。例えば、
  「120分テープに3倍モードで録画をすれば360分分入る。」
 これは、360分(ふん)分(ぶん)が入るという意味なのですが、どうもうまくありません。そこで、「360分ぶん」としたり、後の「分」をやめてしまって「360分が入る。」などとしたらよいでしょう。


似た文字=間違いやすい文字

 似た文字で読み間違いをする恐れのあるときは、前後を明確にして誤読をしないように工夫をします。
 例えば、
   キンピラ(ごぼう)
   チンピラ(素行の悪い少年)
   チンチラ(犬)
   キンキラ(成金の身なり)
なども、何となく視覚的に似ています。

 そして、よく見ると
   ひらがなの「り」とカタカナの「リ」
   ひらがなの「へ」とカタカナの「ヘ」
は、形が違っているようです。
 しかし、そんなことまで注意をして文を読み、その違いに気が付く人は、非常に少ないでしょうが……

 漢字一文字でも似ている文字があります。
   「栗(くり)」 と 「粟(あわ)」
   「若」 と 「苦」
などは前後関係から、ちょっと見て勘違いをしやすいようです。
 もっとも、「若いとき」には「苦しい」ことが多いから、そんな文字にしたのかもしれませんが、……
 『東北怪談の旅』(p165)に誤植がありました。

 また、文字の形は異なっていても勘違いをしやすい言葉もあります。
   「糠(ぬか)」 と 「粕(かす)」
などは、どうでしょうか。
 「糠」は何となく健康によいようですが、漬け物にでも使う以外は直接には食べられません。いっぽう「粕」は酒粕(さけかす)ですから、まだまだ利用ができます。甘酒などを造ったりするのですが、色が白いだけで滓(かす)などではありません。

   「血(ち)」 と 「皿(さら)」
   「爪(つめ)」 と 「瓜(うり)」
なども何となく形が似ていて、勘違いをしそうです。
 「皿を洗っていて怪我をして「ノ」(血のつもり)が出た。」「瓜を爪で剥いたら、根の部分がなくなった。」などと、独りよがりの想像をすると、勘違いや間違いを少なくして、老化予防によいかもしれません。


似た名前をもつ言葉

 似た言葉をもつ語句は、使うときに誤解されないよう気をつけなければいけません。
 例えば、
   ナツメとナツメグ
   マンゴとマンゴスチン
などは、読み手は自分の知っているほうで解釈をするからです。
 また、
   グレープとグレープフルーツ
は、まったく異なる果実ですが
   キウイとキウイフルーツ
は同じものであるというようなこともあるので、注意が必要です。@@@@@@


言葉の風化

 風化しきった言葉は問題ありませんが、その過程にある言葉は避けたほうが無難です。例えば、
   病膏盲に入る(「盲」の字は実際は「こう」で、やまいこうこうにいる)
   情けは人のためならず(意味が異なってしまった)
 「人のためならず」とは「自分自身のためにもなる」という意味から、「その人のためにならない」という意味に変化をしてしまった言葉です。

 また、
   「この茸は食べれる?」(ら抜きの動詞)
   「解決にトラブっちゃって」(英語のサ変級の扱い)
というような言葉も、やがて正しくなるでしょう。


ら抜きの表現

 「ら抜き」の表現については、最近になって意見がかまびすしいようです。とくに「若い者は、……」などという学者も、かなり多いようですね。日本語が乱れるなどと、憂慮をしたりするのです。それならば、フランスのようにアカデミー制をもうけて、そこで認証した言葉以外は国が認めないことにしたらよいでしょう。
 西周(にし あまね)たちは別として、日本では言葉は言語学者が作るのではなく、それこそ向こう三軒両隣の人たちが作ります。と、言うよりはできちゃうのです。だから、今ごろになってとやかく言うのは、すでに遅すぎるでしょう。
 終戦後に志賀直哉が、「日本語はやめて国語をフランス語にしちゃえ」と提案したのもむべなるかなです。

 それはそうと、「ら抜き」の表現はなかなか簡潔でわかりやすいと思います。ですから、私もあまり抵抗感なく使っています。
 また、古くから使われていたようでした。
 例えば、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』です。「8 鳥を取る人」の少し前に「駆けることができる」というのを「ら抜き」で単に「駆けれる」となっていたことを覚えています。嘘だと思ったら、確かめてください。
 しかし、学生のころに読んだ「ここに原稿用紙三枚欠如」というのが、最近の版ではありません。その後、その原稿用紙が発見されたのでしょうか。文章などは、そのままのようです。つまり、本の内容は仮名遣いを改めたり、漢字を変えたり、少しずつ時代に合わせて改訂されているようです。ですから、現時点で「ら抜き」でなかったらごめんなさい。
 私が読んだときの記憶では、確かそうなっていたんです。

 ついでに『銀河鉄道の夜』について言うと、途中から番号(章)がなくなっていることに気づきました。
 それは<ハルレヤ、ハルレヤ>とあるいわゆる「ハレルヤコーラス」のところからです。そして、ふつう「ハレルヤ」というのをわざわざ「ハルレヤ」にしていることも不思議でした。原著者原稿の意向を尊重したのでしょう。出版社で番号を付け足したり、言葉を変更できないのはそれなりに理由があるからです。
 かなり前に岩手の天文台長をしていた瀬川さんという人から聞いたのですが、今でもご遺族の人がトランクの中にあった原稿をもっていて、それを研究しておられるそうです。そして、その瀬川さんもそのグループの一員だったのです。宮沢賢治の生前には『注文の多い料理店』など数冊しか出版されていません。
 それが、次々と素晴らしい名作が出てきたことは、やはり遺族の方たちの努力が大きかったことと思います。

 しかし、「ハレルヤ」を「ハルレヤ」と勘違いをしていたんではなかろうかという懸念も生じます。
 なぜならば、私はつい最近まで「シミュレーション」を「シュミレーション」、「ウナムーノ」(人名)を「ウムナーノ」、「マガダ国」を「マダカ国」、「ガリラヤ」を「ガラリア」、「ヘタイラ」を「ヘタライ」などと思って話したり、書いたりしてきたからです。
 不注意のために間違って覚えたり、勘違いすることは困ったことです。


サ変の名詞

 サ行変格の名詞も増えてきました。新しく斬新に聞こえるからでしょうか。
 NHKのFM放送で「恋する音楽 スペシャル小説 新しい愛のかたち」(1998.08.30(日))というのがあった。たまたま聞いていたのだが、『枕草子』のドラマであった。清少納言が現代まで生きていて、書き続けているというような設定であった。
 そして、<お茶する>とか<アバウトなもの>などと言っているのだが、姿は見えないものの何とも斬新で自然に響いたので驚いてしまった。
 そんな意味で、とくに若者に好まれる言葉の使い方ではないかと思った。


専門用語=植物名など=ふりがな

 専門用語は正しく用いなければなりません。
 ここでは、植物名について考えてみましょう。
 聖蹟桜ヶ丘駅前にある川崎街道沿いに、マロニエの花が美しく咲きます。しかし、樹に付いている銘板を見ますと「ベニバナトチノキ」となっています。したがって、マロニエの歩道ではなくベニバナトチノキの歩道ということになるのでしょうか。
 もしかしたら、同じものかもしれません。そのようなことは、よくあることです。
 神代植物園にパンパスグラスという大きなススキがありました。冬の2月になっても咲いているので、まったく驚きました。よほど環境の厳しい外国の草原に生えている種なのかもしれません。そして、その銘板には
   パンパスグラス(シロガネヨシ)
とありましたから、シロガネヨシでもよいのでしょう。
 同じようなことが、多摩センター公園にもありました。それは、「ゆりの木」に「チューリップ・トリー」とふりがなが付けてあるのです。高いところに咲く花の形が、互いに似ているからです。そして、さらに学名が「リロデンドロン・トゥリピフェルム」と書き添えてありました。
 前に読んだポオの『黄金虫』にも出てきて、「百合の木」と訳してあったように覚えています。

 そこで、このような場合は同じ対象について、名前がいくつか選択できることになります。そのようなときには、必ずしも学名を用いる必要はないでしょう。文章の中に置いて、いちばん効果のある名前を用いればよいからです。ちょっと聞き慣れない名前を使って、読者の緊張を高めることも効果があるかもしれません。


商品名と業界名

 商品名や業界で用いる特殊な言葉は、なるべく使わないほうがよいでしょう。しかし、それを用いることによって、効果を求めることもあるようです。
   「デカ」とか「ヤク」などという言葉は、あまり上品ではありません。
 また、『青い目の人形』にある
   アメリカ生まれのセルロイド
とあるセルロイドは、もともと商品名なのです。
 自動車の方向指示器を「アポロ」と言った時代があったが、アポロはそれを作っている会社名であり、商品名でもありました。
 最近では「味の素」と言わなくなって、化学調味料といいます。つまり、類似品を作っているメーカが増えたからでしょう。


略語の作り方、略語の作られ方

 あまり規則性はないようですが、そのポイントを覚えておくとよいでしょう。

   産休 = 出産休暇  中央の2文字を取った略語。
   有休 = 有給休暇  1文字目と3文字目を取った。もしかしたら「有給」かもしれません。
   携帯 = 携帯電話  初めの2文字。これはもう略字などという範疇ではないでしょう。
   予科練(よかれん) = 海軍飛行予科練習生  中ほどにある一連の続いた文字を取った略称。 

 もしも、略語を自分で作るときには、参考になります。(そんなことは、あまりないとは思いますが、……)

 また、すでに作られた言葉は自分の意志で変更できないので、それを使うしかないでしょう。
 慣れてしまえば、抵抗がなくなるものもあるようです。
 慣れの問題としては、「平成」という年号です。最初はちょっと変な感じがしたものですが、すぐに慣れてしまって抵抗を感じなくなりました。
 しかし、なかなか慣れにくい言葉もあるようです。

   デジカメ  デジタルカメラの略でしょうが、あまりよい響きの言葉ではないようです。
 そんなことはないでしょうが、もしもデバイスカメラがあったら「デバカメ(出歯亀)」になるんじゃないかとも、心配をしてしまいます。さらに、
   携帯  携帯電話の略でしょうが、最初に言い始めた人は、もしかしたら小学生かもしれません。
 なぜならば、あまりにも単純粗略な命名だからです。


使い慣れない言葉=定着していない言葉

 ある集団では常識のような言葉でも、それに関係しない人にはわかりにくい言葉があります。とくに、宗教の言葉には多いようです。
 例えば、コーランにある
 <ムハンマドがユースフルについて語った章……>
というのは、ちょっとわかりにくいかもしれません。
 名前、つまり固有名詞の呼び方が違うからです。
 ムハンマドがマホメットということはおわかりでしょうが、ユースフルがヨセフだということを知らない人も多いと思います。同様にイブラーヒームはアブラハムのことです。そのような場合は、「ユースフル(ヨセフ)」などのようにかっこで補っておけば、部外者の読者であっても親しみやすく、またわかりやすいでしょう。

 自分にとってあまり使い慣れない言葉は、使わないほうが無難です。また、日常では利用しない文語のようなものも、効果を考えて使わないといけません。
   けだし、畢竟(ひつきょう)
    → ただし、なお、つまり、例えばなどで意味が通じます。
   閑話休題
 古くからあって意味が変わってきた言葉もあります。例えば、
   ちなみに
   つるむ
などです。また、新しい言葉として、
   逆玉(玉の輿の逆の状態)
   朝シャン(朝に髪をシャンプーする)
   キレることはある?(これで小中学生に対して、質問になっている)
   キレた理由は?(むかついて突然キレる。自分が対処できなくて、キレてしまう)
なども、ちょっと問題でしょう。


できたての言葉=馴染んでいない言葉

 言葉は、どんどんと進化をしています。
 私は、いまだに「広辞苑」第三版(大型で文字の大きいB5版のもの)を使っています。なぜ新しいものを買わないかというと、金が惜しいからではなく、新しい言葉がたくさん追加されて、何だか汚らわしい気持ちがするからです。
 噂では、例えば
   いまいち(もうひとつ、もうひとふんばり)
   一浪(いちろう、大学を目指して、一年間を受験勉強に当てること。また、その人もいう。)
   朝シャン(朝にシャンプーで頭を洗う、これが最近では若い人の流行である)
などが、新語として追加されているからです。
 調べたわけでないから、事実や意味のほうも定かではありません。もっとも、わざわざページを開いて、調べて見る気にもなりませんが……。

 日本で言葉を作るのは、言語学者でも文部省でもありません。向う三軒両隣でちらほらする人たちや若い世代で世間をまだ知らない人たちです。そのような言葉を使って文学を作ろうということ自体が、芸術の方向とは何だか違っているようです。
 フランスではアカデミーが決めた言葉が、正式に使用されているそうです。
 西周(にしあまね)や夏目漱石たちが苦労して作った語彙は、現在ではあまり使われなくなってきています。むしろ、あまり学問のない若い世代のスターなどが作った言葉が、しっかり根付いて辞書に載せられます。

 それに反して、戦後の一時期にトニー谷氏などが使った言葉は、まだ時代が混沌としていたので、やはり定着せずに時代のあだ花となってしまいました。戦前の若山賎子(しずこ@@@)の文体なども、素敵でしたが今では誰も用いません。過去をあらわすために「……かったです。」などとしてあって、まだ若いころでしたが『小公子』などを読んだときに素敵で斬新でした。
 そのような理由で、文学をするものは、言葉を厳密に選択する必要があります。少なくとも、軽はずみはいけません。私は、おっちょこちょいで軽率ですから、今後とも大いに気を付けなくてはならないと考えています。


反対の意味をもつあいまいな言葉

 まったく反対の意味をもっているあいまいな言葉があります。
   慊……この字には、ある意味とその反対の意味がある
   結構でございます……これにも承諾と辞退の二つの意味がある
 「結構です」は了承するときにも断るときにも使えるので、引き受けてくれたと思っていると、「あのとき『結構です』とお断りしたのに」などということがあります。お見合いなどの結果によっては、相手が傷つくようなときに遠回しに断るために用いる必要があったのでしょうか。
 「いいです」も「結構です」と同じで、肯定とも否定とも受け取られるので気を付けなければなりません。とくに聞いたほうは、自分に都合のよいように受け取りがちだからです。これらの言葉が、湾曲にことわるときに多く用いることを忘れないでください。


同じ読みで意味の多い言葉

 例えば、「こうせい」という読みに対して、
   校正、後世、構成、厚生、公正、更正、攻勢、鋼製、高声
などがあります。
 家系、家計なども間違って聞くと、以後の内容が異なってくるので注意が必要です。


同じ字で意味や読みが異なる言葉=ふりがな

 例えば、
   工夫(こうふ)が工夫(くふう)して作った道具
   指(ゆび)で指(さ)して示す
   臭(くさ)い臭(にお)い(「くさいくさい」でも「においにおい」でもありません。しかし、ふつうには4とおりの読みがあるのです。
  実際には、「くさいくさい」「くさいにおい」「においくさい」「においにおい」なんです。紛らわしいときは、ふりがなを振るとよいでしょう。
  また、「におい」の香りがよいときは「匂い」としたほうがよいかもしれません。)
などがあります。

 どのように読むかを迷う場合があります。
 例えば、「春日和」です。実際には「はるびより」と読むのですが、ふつう「かすが……」と読んで迷ってしまうでしょう。なぜならば、どこで区切られているかの経験に遭遇しにくい言葉だからです。そのようなときも、やはり
   春日和(はる びより)
としておくと、間違いがありません。
 さらに、区切りに半角のスペースを用いると親切で、読み誤りが少なくなるでしょう。

 文章の流れ(文脈)の中で意味がわかりにくいもの、読みが紛らわしいものはルビを付けたり、かっこの中に示しておくほうがよいでしょう。ただし、誤りがないと考えられるものには不要です。
   教典……仏教では「きょうてん」、キリスト教では「けいてん」
   荘子……人名のときは「そうし」、書名のときは「そうじ」
   文選……書名のときは「もんぜん」、「ぶんせん」と読むと意味が異なってくる

 地名などで、響きが悪くなるのでわざわざ異なった読み方をすることもあります。
 例えば、新潟県の

   上越(じょうえつ)  中越(ちゅうえつ)  下越(かえつ)

です。
 普通でしたら「下越」は「げえつ」と読みますが、語呂が悪いので「かえつ」にしたのでしょう。
 本の「上巻」「中巻」「下巻」は、それぞれの読み通りに「じょう」「ちゅう」「げ」と読んでいます。
 下越を「げえつ」と言ったり、下巻を「かかん」としたのでは、何となく響きが悪いと思うだけで、慣れてしまえば問題がないのかもしれません。

 多摩図書館の「本館にあります」というメッセージは、「この建物に保管しています」という意味ではなく「本を保管する建物にある」という意味でもなく、どうやら「本館」という建物があって、そこにあるという意味らしい。つまり、そのメッセージは「現在いる図書館」にないので、市役所内にある「本館」にあるから、そこから借りろということなのです。


同じ事物に多くの名前がある場合

 同じ一つの事物に対して、多くの名前が付いている場合があります。方言のように身近な動物や昆虫などは各地方で、古来から別な呼び方をしていたので、交通や情報交換が進歩をした今日では逆に混乱をすることがあります。
 下記のような言葉は、すべて同じものを示しているようです。
   郭公(かっこう) = ほととぎす = 時鳥 = 不如帰
   まどゐ = 円居 = 車座 = 団欒(だんらん)
 このような場合には、用いるときにどの言葉がよいかを熟慮する必要がありそうです。なぜならば、例えば「麒麟」というのと「キリン」、「薔薇」というのと「バラ」などをこだわる人がいるからです。センスの問題でしょうが、やはり文学的な意味合いがあるからです。


逆になると読みが異なる言葉

 逆になると読みが異なってくる言葉があります。例えば、
   生死(せいし、仏教では「しょうじ」)  死生
   家出(いえで)  出家(しゅっけ)
などです。
 また、国によって順序が異なってくることもあります。
 例えば「父母」という言葉は、インドでは「母父」というように順序が異なっています。母系社会の名残があるためでしょうか。そのために、仏典などが漢訳されたときに、ちょっと不自然になったように感じることもあるようです。
 例えば、漢訳では『父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)』となりますが、実際の原典は「母父」というようになっています。


意味内容が矛盾した言葉

 短い言葉でも、前後の関係が矛盾をしていまうことがあります。
 例えば、
   死ぬ思いで、生き返った。
などは、それなりに意味をなして何となくわかるように思います。
 しかし、
   そこには、モアイ島にある人面柱のような大きな精密に彫られた象牙の小さい置物があった。
などは、どうでしょう。

 文章が長いと騙(だま)されてしまいます。
   大きな小さい置物
となれば、誰でも不思議に思うでしょう。
 サントリーのウイスキーに、
   NEW OLD(ニュー オールド)
というのがありました。商品名でしょうが、ちょっとわかりにくいのではないでしょうか。まだ、サントリーが壽屋(ことぶきや)と言った時代から愛飲している人は別として、……


重箱読みと湯桶読み

 ふつう、言葉を構成する文字はすべて文語読みか口語読みに統一されています。しかし、中には少ないが各文字の読みが異なることがあります。例えば、
   重箱……「重」は文語読みで「じゅう」、箱は口語読みで「はこ」
などです。そこで、そのような読み方を重箱読み(じゅうばこよみ)と言います。
 また、それと似たもので呉音と漢音の違いによる不統一性もあります。そのようなパターンは、仏教関係に多いようです。
 重箱読みの逆の場合が、湯桶読み(ゆとうよみ)です。


文語読みと口語読み

 同じ言葉でも、文語読みと口語読みでは異なるのがふつうです。例えば、
   表裏……文語読みでは「ひょうり」、口語読みでは「うらおもて」
です。
 しかし、他の言葉と合成をしたときは「表裏一体」などというように、ふつう文語読みで用いられることが多いようです。
また、文語読みと口語読みでは文字が逆になる言葉もあります。
   黒白……文語読みでは「こくびゃく」、口語読みでは、白黒となって「しろくろ」
などです。


文語表現と口語表現

 現代の文章は、ふつう現代かなづかいによる口語表現が基本です。
 しかし、効果を考えて部分的に少ない範囲で文語表現を用いてもよいでしょう。とくにタイトルに文語が用いられる場合があります。例えば、
   『美しき水車小屋の乙女』
   『帰らざる川』
などです。


漢字が続くときの区切り

 森林太郎(森鴎外)を知らない人は、「しんりんたろう」と読むかもしれません。また、文末で次行に分けて書くときに、まさか「森木」と「木太郎」とに分けたりはしないでしょう。「林」というのは、それで一字だからです。
 同じようなことは、縦書きのときにも生じます。やはり「森」が、「木林」になったりましません。
 山東京伝という名前なども、知らない人は思い違いをするようです。

 高幡不動駅に隣接して京王電鉄の車庫があります。そして、そこには
   京王電鉄株式会社
   高幡不動  検車区
と大きな表札が出ていました。
 もっとも、それは縦書きになっていたんですが、検車区の前に1文字分の空きがあったんです。
 あまり深く考えなかったのですが、何回かそこを通る度に空きの必要性を再認識しました。
   高幡不動検車区
とすると「高幡」と「不動検車区」にとられる恐れがあるからです。
 また、何となく「動険」が何かを意味するような感じになる懸念もあるのではないでしょうか。

 私の文章技法の先生である久我山のお宅に行ったときのことです。
 すぐ側の「3-18-5」のお宅に、
   市川 保 育子
という表札が出ていました。
 おそらく、それはご主人の名前が「保(たもつ)」で奥様の名前が「育子(いくこ)」でしょう。
 しかし、もしかしたら「保育子(ほいくこ)」という女性かもしれないのです。
 しかし、尋ねたわけではありませんので、実際にはわかりません。もしも、お二人の名前でしたら
   市川 保・育子
などのように「・」を付けていただきたいものです。


カタカナと漢字の区切り


 カタカナの後に漢字が付くときも、朗読をしたときに間違わないための工夫が必要です。
 簡単な例として、人種を考えてみましょう。
 例えば、
   カザフ人
   クリド人
   タスマニア人
   モンゴル人
などです。
 これは読み上げると、どうしても「婦人」「土人」などを聞いてしまいます。そして、「あじん」や「るじん」などもなぜか言葉から浮き出てしまうようです。
 なぜでしょうか。


ひらがなと漢字

 ある言葉を、ひらがなで書くか漢字で書くかの問題があります。私は、いちおう次の原則によっています。

(1) つなぎ言葉は、ひらがなで書く
   そして、すなわち、しかし、なぜならば、または、……
 なお、「又は」は用いない。しかし、「次に」「逆に」「反対に」「仮に」などは用いる
(2) 代名詞は、漢字で書く
   私(わたし、わたくしではない)、彼、彼ら、彼女、私たち、僕、……
 ただし、効果を考えて漢字を避け「わたくしたち」「われわれ」「ボク」「オレ」などとすることもある
 しかし、「私達」「彼等」「俺」などはあまり用いない
(3) 一般名詞は、漢字で書く
   机、椅子、書籍、機械、……
 ただし、外来語はカタカナによって表記する
   コンピュータ、ファイル、プログラム、……
(4) 動物や植物の名前はひらがな、カタカナ、漢字を適宜に選ぶ
   ひいらぎ、カメレオン、猫、食用がえる、……
 なお、一つの作品の中で、一度ひらがなで書いたものは、次に出てくるときもひらがなで書き、一度漢字で書いたものは、次に出てくるときも漢字で書くのがふつうである。しかし、必ずしもそのような統一の必要はない。全体の効果やバランスを考えて、その都度、ひらがなにするか漢字にするかを決めてもよい。


漢字とかなの混じり具合=ひらがなと漢字のバランス

 漢字が多いと固い感じになります。また一方では、ひらがなが多いと読みにくくなってしまうようです。
   こねこねこのこかぼうふらのおや(子猫、猫の子、蚊、ぼうふらの親)
 電報のようにカタカナばかりのときも注意をしなければいけません。
   キョウイクアスサル
は「教育、明日、猿」と読んでしまうでしょう。しかし、実際には「今日行く、明日去る」の意味ではないでしょうか。

 ひらがなと漢字のバランスを考えて、効果的に使う必要があります。例えば、
   そのときひろばにはおおきな…… → そのとき広場には大きな……
 つまり、ひらがなで漢字を挟み、読みやすくするのです。また、
   その時突然甲高い声がした → そのとき急に甲高い声がした
   そしてもう一度尋ねた → そして改めて尋ねた
   以前読んだ本 → 前に読んだ本
などのようにしたほうが、読みやすくなってよいでしょう。

 標識などで決まりどおりに表示をすると、何となくおかしくなってしまうことがあります。
 例えば、河川名をひらがなで書き、「川」は漢字で書くというような決まりになっている場合です。
 私は、武蔵野を流れる野川のほとりをよく散歩するのですが、調布市の深大寺の南の橋のところに、

     一級河川
      の 川

のような標識が立っていました。
 決まりどおりに文字を書いたにしても、ちょっと一般の人には不親切な表示だと思いました。
 かつてのように管理者ではなく持ち主の表示のような「建設省」などという文字はなくなったみたいですが、まぁ、行政のやることはそんな程度のことが多いのでしょうか、……


 

「………が、………」という形の文

 「………が、………」というような表現は、なるべく避けたほうがよろしい。
 思い切って2つの文に分けてしまいます。文章を短く区切っていうと、歯切れがよいからです。また、読み手に負担をかけないことも必要です。
 また、「が、………」というような形式も何となく不自然です。しかし、そのような形が芥川竜之介の短編にはよく出てきます。


「が」と「の」

 『南方熊楠 男色談義』(p28)に次のような文がありました。

 <頼之が弟詮春が後は阿州に在国せり。>

 つまり、ここでは最初の「が」を「の」の意味で使っています。詮春は、頼之の弟なのです。古い文章の書き方ですけれど、若い人にはちょっとわかりにくく、勘違いをされそうです。そのように書くときは、主語の後、つまり「詮春が」の後に「、」を打つとわかりやすいようです。また、思い切って形容をする「が」を「の」に変えてしまったほうがよいでしょう。
 すなわち、「頼之が弟詮春が、後は……」と一呼吸をするか、書き換えて「頼之の弟詮春が後は……」のようにです。
 しかし、実際には詮春の後の代のものはすべて阿州に在国したのですから、本当は「頼之の弟の詮春の後の者は、……」と書きたいところです。しかし、さすが南方熊楠ですから簡潔です。その代わり、文章が難解になりがちです。
 つまり、ふつうは2つの文章に分けて書くような内容を一文で済ましているところに力量が現れているのでしょう。


間違いやすい表現=文章の主語などがわかりにくい

 次のような文章は、読んでみてどうでしょうか。

 「田中は斉藤が血まみれになってあえぎながら苦しそうに「ああ」と言って息を引き取ったと言った。」

 ちょっと工夫がほしいものです。

 また、文字のどこからどこまでが主語かわかりにくいときもあります。
 水野南北著『相法修身録』の冒頭に、
 <夫人は食を本とす。……>
とあります。
 これは他人の妻に対する敬称の「夫人」ではなく、「夫れ」の送りがな「れ」を省いたので読み間違えをしやすくなってしまった例です。正しくは、
 <それ、ひとは しょくを もととす。……>
のようになるのでしょう。

 科学雑誌の見出しに、
 <月に60億トンの氷の塊(かたまり)>
というのがありました。
 私は、最初「1ヶ月あたり、60億トンもの氷」だと思って、その量にびっくりしたのです。
 実際には、そうではなく月面と月の内部にある氷の量のことで、まさしく「月に」でOKなのです。NASAの発表した報告ですが、どうも日々の生活から「月に」というと「月に食費がいくらかかる」などというような切実な問題として、ついとらえがちです。


言葉を選ぶ=表現の工夫

 効果を考えて、言葉を選ぶ工夫が必要です。例えば、
   ポタリング……ぶらぶら歩くこと? 逍遥と同じか?@@@
などという聞き慣れない言葉も、ときにはよいでしょう。
 あまり難しい単語が多いと、読者が疲れてしまいます。しかし、そうかといって平明な言葉ばかりでは飽きてしまうでしょう。したがって、やさしい文章の中にちょっと難解な言葉を交ぜて用いるとよいようです。
 例えば、
 「危急存亡の瀬戸際に立って、……」(危機存亡でもよいでしょう。)
 「蘊奥(うんのう)を究(きわ)める。」(「奥義」というよりも、「蘊奥」のほうが何となく奥が深いような感じがします。)
 「匂いが馥郁(ふくいく)たるものであった。」(よい香りがしたということですが、「臭(にお)い」よりも「匂い」のほうがよいでしょう。)


言葉を選ぶ=接続詞の反復

 文章は、読み手に飽きのこないようにする必要があります。
 接続詞などは、あまり反復しないほうが無難かもしれません。
   「しかし、……… しかし、………」 は 「しかし、……… ところが、………」
などのように言い換えたほうがよいでしょう。
 しかし、文の効果を考えた接続詞の反復もあります。

 「しかし」「しかし」と続く文章が『ヨハネによる福音書』第七章にありました。(テープ・ヨハネ(1)のB面) もしかしたら聖書にはないかもしれません。読んでいるとわかりにくいものだが、朗読をしてみると気がつくものです。

 「やはり」を反復している文が『銀河鉄道の夜』にありました。
 <やはりジョバンニは……、やはり……>
というくだりです。「1.午後の授業」の前のほうにありました。


たたみかける調子=同じ言葉の繰り返し

 『歎異抄』「二」には、たたみかけるような口調の文章があります。
 次々と事実を述べてゆき、息もつかせずに結論に至るのです。そのようにすると力強い理解が得れれるでしょう。ふつう三段くらいの反復でかまいません。

 菊池寛は、新今昔物語の『六宮姫君』(p16)で「だから」を3回重複させています。意識的に反復をさせて、効果を考えているようです。話し方によっては、折りたたみかける句法になるのでしょうか。
 菊池寛の文章には、いろいろな工夫がなされているので、今日でも読んでみると発見があったりして、大いに勉強になるでしょう。しかし、単に同じ「だから」を不注意に使ってしまったのでしょうか。
 文春文庫『新今昔物語』16ページである。

 <かつて、アメリカでリンゼイと云う判事が提唱した友愛結婚−−試験結婚と云うものに似ている。だから、もちろん男の方で、倦きてしまって、だんだん足が遠くなる場合もあるのである。だから、一人の男性で、幾人もの女に通っている場合もある。だから、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、東征の途中尾張で、……>(太字には筆者がした。また「倦きて」は「あきて」と読むのであろう。)

 また、若松賤子『小公子』(改造社版「少年文学集」220ページ)にある

 <それから又、ヒッギンスの話も出たのでした。モドントさんが家に帰って、食事の時に家族の者に話して居た処(ところ)を、小使いが聞いて居て、台処(だいどころ)で話すと、それから其噂(そのうわさ)が、野火ほど足速(あしばや)に四方へ広がりました。それから、市日(いちび)になると、ヒッギンスが町に出て来たので、四方八方から、其事柄を尋ねる。それから、どういふ始末で有ったと質問されるので、……>(原文は縦書きであって、下線は右傍線となっている。)

はどうであろうか。
 実際にやってみると、書くときには気づかなくても、後で読み直すときに気づくことがあるようだ。


常用語法と常用句

 文には、いつも決まった形で使うものがあります。そのいくつかを示しておきましょう。覚えておくと、文章作成中に、言葉がつまったときに利用できます。
   それは、……なもの。
   ……。およそ(ことば)というものは使われている広さによって正当化される運命にあるものだから、……
   学問的な理由でなく、むしろ日常生活の中に……
   芸術的な理由ではなく、むしろ便利さの中に……
   率直に言って、……という事実を知っている人はあまりないようである。
   「しかし」とここらで、あなたが言いそうな気がする。
   「しかし、……まさか……」 私が言おうとしているのは、その「まさか」である。
などです。
 あなた自身でも、いくつかを作ってメモをしておいてください。


つなぎ言葉(接続の言葉)

 つなぎ言葉には、接続詞や接続助詞を使います。接続詞には、
   しかし、けれども、だが、だから、ところが、したがって、ゆえに
などがあり、接続助詞には、
   ……けれども……
   ……で……
   ……ので……
   ……から……
などがあります。

 実際の創作に当たると、これらの使い方が大問題になります。気になって仕方がないからです。つまり、これらの使い方で、作品の出来具合が大きく左右されてしまうのです。なぜならば、接続詞・接続助詞などの使い方によって、著者の考え方が文に現れる場合があるからです。
   静夫は東高校を卒業した。だからロシア語とエスペラントが話せる。
   静夫は東高校を卒業した。しかしロシア語とエスペラントが話せる。
 つまり、これは著者が「東高校のレベルを評価している」ことになります。そして、「だから」と「しかし」では、その評価が正反対になっていることに、あなたは気が付きませんか?

 「……が、……」のような記述をなるべく避けて、「……。……」のように二つの文に分割したほうがよいでしょう。二つの文の間には必要に応じて、「しかし」「そして」「だが」などを使うのは、やむを得ません。
 芥川方式の「……。が、……」は原則として使わないほうが無難です。しかし、やむを得ないときは「だが、……」を使います。
 それでも、その表現はあまり多くしないようにしたい。

 非常に変わった使い方で、
   しかし、です。
などとするのも、意表を突いたようでたまにはよいかもしれません。


つなぎ言葉の目的別一覧(1)

 私は、次のように簡単な分類をしています。
(1) 対等に2つを接続する
   および、また、ならびに、かつ
(2) 選択的に接続する
   あるいは、または、もしくは、そのほか
(3) 付け加える
   しかも、……ばかりではなく、かつ、なお、そのうえ、そのほか
(4) 同じ意味で続ける
   したがって、そして、こうして、このようにして、だから、そこで
(5) 逆の意味に続けるもの
   けれども、ところが、しかし、だからといって、ただし、しかしながら、もっとも
(6) 時間が経ったことを示すもの
   すると
(7) 話題を変えるもの
   さて 一方では
(8) その他(未分類])
   で、……
   が、……
   そこで そして すると


つなぎ言葉の目的別一覧(2)

 つなぎの語は、接続語、接続句、接続詞などと言われます。そのほかにも、指示語がつなぎの語になります。市川孝氏によるつなぎの語の分類は、次のとおりです。

(1) 順接型
 前文の内容を条件とするその帰結を後文に述べる
   [順当]だから ですから それで したがって そこで そのため そういうわけで
   (仮定的な意)それなら とすると してみれば では
   [きっかけ]すると と そうしたら
   [結果]かくて こうして その結果
   [目的]それには そのためには

(2) 逆接型
 前文の内容に反する内容を後文に述べる
   [反対、単純な逆接]しかし けれども だが でも が
   (仮定的な意)といっても だとしても
   [背反・くいちがい]それなのに しかるに そのくせ それにもかかわらず
   [意外・へだたり]ところが それが

(3) 添加型
 前文の内容に付け加わる内容を後文に述べる
   [累加、単純な添加]そして そうして
   [序列]ついで つぎに
   [追加」それから そのうえ それに さらに しかも
   [並列]また と同時に
   [継起]そのとき そこへ 次の瞬間

(4) 対比型
 前文の内容に対して対比的な内容を後文に述べる
   [比較](比較して後のほうをとる)というより むしろ
   (比較されるものをふまえて、著しい場合に及ぶ)まして いわんや
   [対立](対照的な対立)一方 他方 それに対して
   (逆の関係での対立)逆に かえって
   (交換条件)そのかわり
   [選択]それとも あるいは または

(5) 転換型
 前文の内容から転じて、別個の内容を後文に述べる
   [転移]ところで ときに はなしかわって
   [推移]やがて そのうちに
   [課題](主要な話題を持ち出す)さて
   (基本的な事柄を持ち出す)そもそも いったい
   [区分]それでは では
   [放任]ともあれ それはそれとして

(6) 同列型
 前文の内容と同等とみなされる内容を後文に重ねて述べる
   [反復](詳述・要約・換言)すなわち つまり 要するに 換言すれば 言い換えれば
   [限定](例示・例証)たとえば 現に
   (抽出)とりわけ わけても
   (最小限度)せめて 少なくとも
   [置換](肯定と否定の置き換え)

(7) 補足型
 前文の内容を補足する内容を後文に述べる
   [根拠づけ]なぜなら なんとなれば というのは
   [制約]ただし もっとも ただ
   [補充]なお ちなみに
   [充足](倒置的形式)

(8) 連鎖型
 前文の内容に直接結びつく内容を後文に述べる(接続語句は普通用いられない)
   [連係](解説付加・見解付加・前置き的表現との連係・場面構成など)
   [引用関係](地の文と会話文の関係など)
   [応対](問答形式)
   [提示的表現との連鎖]

 いつもあまり深く考えていないつなぎ言葉ですが、上記の市川孝氏の分類を考えると、表現が豊かになるでしょう。私(黒田康太)もそうありたいと思います。


つなぎ言葉(五十音順)

 しばしば用いるつなぎ言葉を五十音順に示してみましょう。

【あ】 あいかわらず あいにく 相次いで あれでは
【い】 以上のように 一般に、 いっぽう 一方、 一方では、今までの……は、
 いいかえれば、 いわば、具体的であるとともに
【う】
【え】
【お】 おそらく、
【か】 堅苦しく言えば、
【き】 興味があることに、 極端に言って
【く】
【け】
【こ】 こういうのを こういう(人、者、物)と こういう(例、場合)は、こういう(とき、場合、際)には、
 こうした…… こうして ここでも このあと このうち この結果、 このごろ
 このため このために この場合、 この「まさか」である。 このような
 このように このように考えてくると このようにして この例を考えると(読むと)、
 これに対して これについて これには これに反して、
 これが これで これは これは、いったいどうしたことだろうか
【さ】 最近、 最後に、 先に 昨今の さて、
【し】 しかし、 ……。しかしである。…… しかしながら、 
 「しかし」と、ここらであなたが言いそうな気がする。
 「しかし、………。まさか、………」ここで、私がいおうとしているのは、
 しかし、考えてもみましょう。 しかも、 したがって、 ……しているその矢先に……
【す】 少なくとも すなわち すると
【せ】
【そ】 そこで そして、 その結果、 その後、 その第一歩として(は)、 そのために
 それ以来 それから…… それこそ それがいちばん それでは それによると
 それはともかく、 それよりも
【た】 だいいち ………、だからと言って たしかに ただ、 ただ一つだけ言えることは、
 たとえ たとえば 例えば、 他方、
【ち】 ちなみに、
【つ】 ついで ついでながら、 つぎに つぎのように つまり、
【て】 できれば
【と】 同時に ……と同時に とくに 特に 時には、
 ところが ところで とにかく とりわけ
【な】 なお なぜだろうか。 なぜなら なぜならば、 なるほど
【に】
【ぬ】
【ね】
【の】
【は】 話がそれますが、
【ひ】 一口に言って(子供)は(人間)であるからである。
【ふ】
【へ】
【ほ】
【ま】 まず、 また、 またいかなる過程で また一般に、
【み】
【む】
【め】
【も】 もし、 もしも もちろん もっとも もともと もはや、 もはや何もいう必要はなかろう。
【や】
【ゆ】
【よ】
【ら】
【り】
【る】
【れ】
【ろ】
【わ】


句 読 点

 句読点は煩雑でない程度に、なるべく多くします。
 主語の次や接続詞の次の「、」なども、息継ぎとしての呼吸をさせて、読みやすくするために使うとよいでしょう。
 例えば、
   彼女は、……
   そして、……
   なぜならば、……
などのようにです。

 そして、疑問符(?)と感嘆符(!)も句点(。)の変形と考えたらどうでしょうか。
 しかし。文の最後に「?」「!」などがあって、さらに次の文が続くときは句点(。)と異なって、一文字分空けるのがふつうです。例えば、
   何と不思議なことではないか? いったいどうしたのだ! 彼はずいぶん苦しんでいた。
のようにします。

 しかし、句読点を多くすると、必ずしもわかりやすくなるとは限りません。
 三島由紀夫『金閣寺』第一章の冒頭に、
  <幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。>
とあります。
 一流の小説家が考えて書いたものですから、それなりの理由があるでしょうが、読みやすくはあっても、ちょっとわかりにくいようです。なぜならば、「父が幼時から」ではないからです。「私が幼時であったときから」という意味なんです。
 だから、「幼時から私に」という文の間に「父は」が入ったので、ちょっとわかりにくいのです。
 しかし、意味がはっきりとした内容ですから、文のリズムを大切にしたのでしょう。
 私なら、語の並びをそのままにするならば、単純に「幼時から、父は私に、よく金閣のことを語った。」とやってしまうでしょう。さらに語の並びを変えて、文学的ではない「私の幼時から、父はよく、金閣のことを語った。」とするかもしれません。

 読点の付け方は、人によってさまざまです。
 例えば、形容文の終わりに付ける人もいるようです。
  赤い花がぱっと咲き誇ったような、ドレスを着て加奈子は現れた。
というような場合です。
 しかし、私は「……ようなドレス」が一体ですから、そこで切るのは何となく不自然に感じます。
 あなたは、いかがお考えでしょうか。

 また、「を」の次で「、」を打つのも、何となく不自然です。なぜならば、そこで文がふっきれてしまうからです。
 例えば、
  数ヶ月がかりで、かなり苦労をして作り上げた作品を、気に入らないからという理由で毀してしまったのだ。
という文章です。
 これも「作品を毀すした」という文の「作品」と「毀す」に、それぞれ簡単なコメントが付いているので、やはり「を」の次の「、」が不自然に感じられるのです。


字面(じづら)

 文章自体の内容のほかに、ページなどの紙面上の字づらを考えて読みやすくします。
 細かいことですが、行の最後のほうに「。」を置いて改行をしないようにすることも大事です。つまり、べったりと字が詰まって、うんざりとした感じを避けるためです。
 行をまたいで熟語が分割されることは、行間の狭いときには、むしろ読みやすくなって効果的です。しかし、行間にゆとりがある場合は、なるべく熟語は切らずに、まとめてしまったほうが体裁がよいのではないでしょうか。
 とくに名前の場合は注意をしなければなりません。例えば、
   森林太(ここで改行)郎
   森林(ここで改行)太郎
などは、あまり好ましくないのです。しかし、
   森(ここで改行)林太郎
は、やむを得ないでしょう。

 なお、縦書きの場合でも、木(ここで改行)林林太郎とは絶対になりません。当たり前のことですが、「森」が一字だからです。そのように、名前も全体が元来一つと考えたらどでしょうか。
 しかし、ホームページなどの「Webレイアウト表示」では、画面の幅に合わせて自動的に改行をしてくれます。したがって、あらかじめどの位置で改行されても支障ないような考慮が必要になります。

 一つの文字でも、少し長い時間よく見ていると、何となく妙に感じることがあります。
 もともと象形文字だったものもあるから、想像がとりとめのない方向に進むのでしょうか。文字は単に約束であるから、正しい形を書かなければなりません。そして、「本当にこれで正しかったのか?」などと迷ってしまいます。
 それは、女の人の顔をつくづくと見ていると、何となくその容貌(顔かたち)が奇妙に思えてくるときの真理とも、ちょっと似ているのではないでしょうか。


ルビと言い換え=読みにくい漢字にはルビを付ける=ふりがな

 ふつうふりがなのことをルビといいます。縦書きのときは、右側に小さい文字で振るのがふつうです。また、横書きのときはふつう上に小さい文字で振ります。しかし、ワープロなどでは面倒なので丸カッコを用います。
 つまり、単語のルビや言い換えは、丸カッコ(……)の中に、同じ形で入れるとよいでしょう。それが、ルビであるか言い換えであるか、いずれかの区別は厳密にできなくてもかまいません。
 例えば、
   賢(さか)しらぶらない
   比喩(たとえ)と阿諛(へつらい)
などのようにです。

 なお、前者のふりがなは「賢(かし)こぶらない」という言葉の誤植ではないかと、読み手に勘違いをさせないための工夫です。
 このルビを小さい文字で付けにくいときの小カッコでくくる方式は、新聞でもそうなっているものが多いようです。
 谷崎潤一郎の小説『少將滋幹の母』は『堤中納言物語』の話をもとにしています。そして、
   お虎子(おまる)
とう言葉がありました。
 また、山本有三はルビが嫌いだったので、難しい漢字を使わないですむように考えたそうです。


カタカナ語の音引き(ー)基準

 音引き(ー)を最後に付けるか付けないかの基準は、次のとおりです。
   三文字以下は付ける……キー、パワー、ワイヤー
   四文字以上は付けない……エディタ、プログラマ、コンピュータ
   ただし、習慣のあるものはそれに従う
     (三文字以下でも付けていない)……ハンマ、ドア
     (四文字以上でも付けている)……カウンター、エネルギー、スカトロジー


オノマトぺ(擬声語)

 オノマトペ(onomatopoeia)を多めに使って、特徴のある文章を構築するのもよいでしょう。オノマトペは、擬声語、擬態語とも言い、音・声・動作・状態を音声化して示唆しようとする方法です。オノマトペアとも言います。(なお、間違いやすいですが……beでなく……peです) 例えば、
   むっとして、腕組みをした
   じろりと睨み付けた
などの一般的なもののほかにも、あまり常用化していないものも無理のない範囲で積極的に試みることができます。
   女はすいすいと泳いだ → 女はすすっすすっと泳いだ
   がつがつと彼は食べた → ぐりぐりと彼は食べた
   クラムポンはかぷかぷ笑ったよ(宮沢賢治) → ……ぷくりっぷくりっと笑ったよ
 宮沢賢治の作品に、多く効果的に用いられています。
 のどかな言葉を選んだほうが、むしろ奇怪さや恐ろしさの効果が増すでしょう。ちょっと、内田百間(実際には「間」という字の門がまえの中は、「日」でなく「月」である)のオノマトベの使い方を学びたいものです。


数詞と数をともなった言葉

 日本語の大学者であったイギリス人チェンバレンの言う「なつけ数詞」です。@@@
   三〇〇デナリ 三百か@@@イエスに付けた香油
   「二百デナリのパンを買ってくるのですか」 マルコによる福音書[1]B面
   レッタ二つ レスタか@@@貧しい寡婦(やもめ)が賽銭箱(さいせんばこ)に投げた金額
   三アサリオン 二だったか?@@@五羽の雀
などの数の後に続く単位のようなものです。
 なお、チェンバレンは文法の教科書を作って、その序に
   @@@
と書いています。


かっこ、やくもの、記号=<>「」『』……−−?!など

 「かっこ」や「やくもの」には次のようなものがあります。
   <………>  ………を目立たせる。引用のときに用いてもよい
   「………」  ふつうの会話。最近では閉じカギカッコ(」)の前には句読点(。や、)を付けない
 この場合、………の部分には文章が入ります。もしも、「……」のようにあるときは、黙っていることを示したり、答えなかったり、気が付かなかったときに用います。
   (………)  前にある言葉の補足をする。ふりがな(ルビ)の代用としてもよい

 言い切れなかった文末と省略をした文頭には、
   ……(ふつう二文字分)
   −−(実際にはつながっているのであるがマイナス二つで代用)
などを用いることがあります。
   ……は、余韻を残して言い切れなかったような場合に用い、
   −−は、そこで明確な言葉でもって言うのを打ち切ったような場合に用います。

(注) なお、上記は私の作成した基準であって、必ずしも決まっていることではないようです。例えば、(……)を「……」として用いる例が、菊池寛『新今昔物語』にありました。


   ?  疑問符
   !  感嘆符

 なお、疑問符や感嘆符の後は、前に述べたように
   いったいどうしたのだ? そんなにあわてて。
   やあやあ! その後元気だったのか?
   健康とは何か? 思考とは何か? そのようなことについて考えてみた。
のように、一文字分あけるのがふつうです。

 しかし、文の途中に「?」を入れるときでも一文字分あけない方法もあるんです。
   ……○○(?)……
のようにして、かっこでくくることによって開けないのです。
 この方法は、芥川龍之介『続西方の人』(p446下段)にあります。

 ここでは、やくものは軽印刷でも可能な範囲としています。また、一つの創作中で作品の品位を失うほどの多様はしないようにしたほうがよいでしょう。
   書名の中で重要なもの 『……』
   ふつうの書名     「……」
 あまり内容に立ち入らないときは、書名であっても「……」とすることもあります。また、ふつうの書名でも会話の中では「……」でなく、『……』を使います。例えば、
   「私、太宰治の『斜陽』を読んで感激しちゃったわ」
のようにです。

 自分の考えた言葉と会話や心理状態などを示すやくものとしては、
   クオート「’」にカギカッコ<……>
   ダブルクオート「”」に二重カギカッコ《……》
を代用することもあります。これは、単に軽印刷の都合で、クオート、ダブルクオートを縦書きにすると正しく印刷できないからです。


やくものの使い方

 ここでは、やくものの常用的な使い方をいくつか述べておきましょう。
 原稿の段階で、仮の章や節を決めたいときがあります。
 そのようなときは、
   □ …… 仮の章
   ○ …… 仮の項
   * …… 仮の節
などとしておきます。

 そして、項はゴシック体にしたり、章は大きめな文字にしたりします。
 さらに項の中を区切る節は「**」や「***」などを用いることがあります。
 ワープロではちょっと面倒ですが、少し小さめの「*」を三角形の頂点に置いた形のマークが、かつて縦書きの本に用いられました。
 それは、すっきりした落ち着きのある節の段落を示して効果的でした。

 印刷をした1ページの最終行に1行空きがあったり、最初の行に「*」があるときは段落の区切りによる読み間違いがなくなるので、このマークは非常に有効です。
 なお、章や項や節にはランクを付けておくと、後で調べるときに便利でしょう。


カギカッコ「」の使い方

 会話を示すカギカッコ「」は、新しい使いかたをします。このカギカッコは最近になって、半角(半文字分)でなくほとんど全角(一文字分)になったようです。したがって、会話の書き方は岩波文庫の最近の版の方法に準じたらどうでしょうか。また、カギカッコ「」の中の最後の「。」は省く様式にします。
 しかし、この最後の「。」を省くか省かないかは好みにもよるでしょう。いまだに、
   「……」。  聖書など。
   「……。」  ていねいな表現。小学校のテキストなど。
   「……」  ふつうの表現。「。」は省略されている。
の3とおりが使われているようです。

 ただし、カギカッコの中の最後であっても、「?」「!」「……」「−−」などは省きません。そして、それらの後には一文字分を空けず、すぐ閉じカッコを置きます。
 会話の例を示すと、次の三行のようになります。

△奈津子は、         (この「、」はないときもある)
△「あら、どうしたのかしら」
と小さくつぶやいた。

 (△は一文字分の空きを示す。「と小さく……」は、すでに会話でないので次行に送る。その場合、次行にあっても前行から続いているので、行頭から書き始めて、一字分を空けない)
 会話の中の会話は、二重カギカッコ『』を用います。

△彼は、ちょっとためらってから
△「『あなたは神を信じるものですか』と聞かれたら『はい』と答えますか」
と私に尋ねたのである。

 ものの名前を並べるときで、煩雑になるときはカギカッコ間の「、」を省略する。
  私は、『万葉集』『金槐和歌集』『「白秋歌集』などを愛読した。
  それは、「頭」「胴」「尾」、そして「十二本の脚」と「三本の触覚」で構成されていた。


3 文の技法(実際に書くときのアドバイス)と効果(書いた結果)

     執筆のこころがまえ
     整然とした文章=六つのW
     書くときの心構え
     書き表して後生に残す心配
     文章を書く能力
     書くことの限界
     「書いてよいこと」と「書いてはいけないこと」 「してよいこと」と「していけないこと」
     文体について
     旧仮名遣いについて
     旧字について=略字や古い字体=旧字と新字
     人名と地名=人名の表記=地名の表記
     綴り字の好み
     文の構成
     文の表現と映像化
     体言止め
     文字の配分
     文字の優先順位
     注意項目の書き方
     引用文の書き方
     表現の正確性と順序=名もなき花
     氏名や地名などの固有名詞
     外国人の氏名
     モチーフの収集と記録
     モチーフの原詩記録
     パーツのの活用=集めたメモ・モチーフの利用
     モチーフの加工
     ストーリを作るフローチャート
     ストーリを作る
     起承転結と序破急
     クライマックスを作る
     わかりにくい文とあいまいな表現
     読み違いやすい表現=読み間違いと意味の変化
     読み違いやすい名前=名前の文字の区切り
     物の名前を読み替える
     何となく名前に聞こえる言葉
     単語や文字の区切り
     文の表現の統一
     デフォルメ
     小説をわかりやすくするポイント
     文の現在形と過去形=文末の工夫1
     変わった形の語尾
     文末を同じにした小説=「た」で終わる小説=『六の宮の姫君』
     「である調」と「です・ます調」
     送りがな
     文の長さ
     文章に変化をつける=文末の工夫2
     文章に変化をつける=文末の工夫3=女口調
     文章に変化をつける=倒置した文の効果=文末の工夫」4
     作中人物の氏名
     敬語の使い方について
     書き方の種類
     タイトルをどうするか?=作品の題名
     タイトルから内容を読み手に想像させる
     身体の一部をタイトルやテーマにする
     読者に尋ねる形のタイトル
     命令形や疑問形のタイトル=動詞の題名=疑問形の題名
     想像をふくらませる
     余韻を残したり、読み手に想像をさせる
     比喩とたとえの問題
     寓意とアレゴリー
     譬(たとえ)と比喩(ひゆ)
     著者の知っていること
     文節の区切りに注意する
     長い文の分割書き
     否定の形容と二重否定
     分かち書きと「・」の効用
     動植物の名前=カタカナ表記=動植物名の分かち書き
     外国語の表記・おかしな名前・下品な想像をさせる言葉
     下品な記述とシモネタ
     類語辞典=言葉のシソーラス
     読みにくい漢字
     読みにくい表現
     漢字をかなにすると読みにくい例
     ひらがなやカタカナで書くほうがよい言葉
     安易な話法=許せないと許さない
     漢字とかなの混じり具合
     ひらがなが多い場合
     漢字が続いて多い場合
     誤解されやすい表現は避ける
     専門用語
     差別語
     流行語=未成熟な言葉
     話し言葉と書き言葉
     話し言葉を書く
     印刷への配慮


     言葉のイメージ=人名から受ける印象
     言葉のイメージ=物の名前や地名から受ける印象
     私という主語
     一人称の語り
     笑いとユーモア
     ゴミ集めとガベージコレクション
     同じ音の言葉(同音語)=同音異義語
     同じ語句の繰返し
     あいまいな表現
     拗音(ようおん)
     音の聞こえかた
     漢音と呉音
     仏教とキリスト教の言葉
     文を書く楽しみと生みの苦しみ
     知的空間を拡張する
     生きる目的を拡張する
     生きる目的をもつ
     百舌の生け贄=忘れることの愚と効用と
     本を書かなかった聖人
     発表をしなかった作品
     文献によることば
     晩年の著作=空海
     晩年の著作=鴨長明
     死ぬまで加筆訂正=親鸞の『教行信証』
     晩年の著述家=貝原益軒
     あいさつをしない人
     文心方(ぶんしんほう)という名の由来
     その他


執筆のこころがまえ

 執筆をするときには、

(1) いくら知識があっても書けない
(2) 書こうという気分にならないとダメ
(3) しからば、どうしたら書く気になるか?
(4) 自分をそこにもっていくかが大きな問題
(5) 技法よりも、むしろ気力
(6) 焦ってはいけない

というようなことがらを認識する必要があるようです。


整然とした文章=六つのW

 まとまりのある文章を書くためには、六つのWを配慮しておく必要があるようです。つまり、

   when(いつ)  時間的要素
   who(誰が)  人的要素
   where(どこで)  場所的要素
   which(何を)  選択的要素
   why(なぜ)  原因
   what happend(どうなる)  結果

を設定しておきます。


書くときの心構え

 認めてもらいたい――そのような計らいを捨てるほうが気楽です。
 自己顕示欲――これが我執の中で最も悪いのではなかろうか。オレがオレがという心理です。どこまで行っても自我ですから、きりがありません。そのように考えると、私は信仰上の理念とまったく反対のことを今までしていたように思います。何とも愚かなことであったと反省をしています。
 もっとすがすがしく、毎日を生きられないものでしょうか。

 反対に考えると、書くということは、結構つらいことでもあります。むろん、書くことが楽しいという人もいるし、また書くことが苦にならない人もいるでしょう。しかし、私はいつも『典論』の「文章は不朽の盛事、経国の大業なり」という言葉を思い出して、暗い気持ちになってしまうのです。
 また、「文は人なり」という言葉でも、同様なのです。
 なぜならば、自分自身で自分の能力の限界をうすうす知っているからです。若いころは、そうではなかった。自分の力を信じていたし、努力をすれば何とかなると思っていたからです。つまり、無限の能力があるような錯覚をしていたのです。

 しかし、年齢をとってくると自信がなくなってしまうんです。
 限りないほど多くの本が作られている中で、いったい自分は何を言おうとしているのか。それも、誰からも求められないのに、……。そんなことを考えると不安になります。
 それで、発表をするしないは問題にせず、とにかく今までの断片をエッセーの形でまとめることにしました。つまり、自己の記録としてまとめるのです。
 しかしむろん、要求があれば出版をするつもりです。

 よほどの集中力がないと、なかなか文章がまとまらない。それでは、どうすれば集中力をもてるのか。よく考えると、集中力は気分に支配されていることがわかります。つまり、自分自身の心のもちかたなのです。
 そして、いちばん問題なのは、どうしたら自分をそこへもっていけるかでしょう。内容のないもの、密度の低いものをだらだらと作っているのは、困ったことです。
 どうやら、今もそのようなことをしているのではないかと、大いに心配をしているのですが、……


書き表して後世に残す心配

@@@(言志四録(四)p219)
 結局は、それこそ「天上天下唯我独尊」なのです。最終的には、人間はついに個となってしまうのではないでしょうか。
 自分のわずかな技術を広めて、いささかなりとも社会のためになりたいという大それた考えをもつようになったときには、もう齢(よわい)五十を過ぎたころでした。なぜそんな気持ちになったかというと、多くの人の恩恵で自分が生きていることに気付いたからです。

 父母の恩はむろんのこと、見知らぬ人にまで助けられて現在があるからです。例えば、
   海で溺れかかって助けられたこと(臨海学校のとき)
   自動車でぶつかったとき
 その他、人間以外の生物からの好意もたくさんあるでしょう。
 刺身や白子乾(しらすぼし)を食べるとき、大海を泳いでいるマグロや、陽のさんさんと照った海の浅瀬に遊んでいる小魚を、どうしても思ってしまうんです。もしかしたら、私は偽善者なのかもしれません。
 ふとんの綿、羊毛のシャツなど着ているものについても、同様な考えのきりがありません。農家の人や漁業にたずさわる人々、市場の人、輸送にあたる人たちまでに考えが馳せるのです。


文章を書く能力

 文章を書くということは、ある程度の練習によって容易にできるようになります。スポーツや音楽であれば、先天的なこともあるでしょう。しかし文学の場合、工夫や努力をすることによって、かなりの成果があるものです。なぜならば文学の場合は、無理のない方法で能力を伸ばせるからです。
 文学では、すべての経験が素材として利用できるからです。そのように考えると、年齢が大きいということは有利に作用するのではないでしょうか。つまり、体力や音感を訓練するのと比較をすると容易なのです。
 音楽の場合でさえ、ヴァイオリンの大家である鈴木慎一は、「能力は生まれつきではない。」と言っています。


書くことの限界

 言い尽くすことはできないし、その必要もないかもしれない。同様に、書き尽くすこともできないでしょう。
 しかし、言うべきことを最小限の言葉で残すべきです。言うべきことを言わないのは、他の人に理解をしてもらえないばかりでなく、誤解をされるという不安があるからです。


「書いてよいこと」と「書いてはいけないこと」「してよいこと」と「していけないこと」

 「言っても(書いても)よいが、してはいけないこと」と「してもよいが、言っては(書いては)いけないこと」があります。
 「書いてもよいが、してはいけないこと」の一例を挙げると、盗みや人殺しなどです。そして、「してもよいが、書いてはいけないこと」はセックスなどです。
 もう一度まとめてみると、
   書いても罪にならないが行うと罪になる――犯罪(殺人、窃盗……)
   行(おこな)っても罪ではないが、書くと罪になる――セックス、不倫な関係の一部
 しかし、考えてみると何となく長い慣習による倫理観で、実際にはそれ自体が矛盾ともいえそうです。

 『デカローグ』という映画がありました。
 デカログ(Decalogue)は「モーセの十戒」のことで、してはいけないことです。それについて描いてあるのですから、問題はないのです。モーセはカトリックではモイゼと言い、十戒は『出エジプト記』第十章によると
(1) 我のほかは何者も神にすべからず。(これは神の言葉です。我とは神ご自身のことなのです。)
(2) 殺人
(3) 姦淫
(4) 盗み
(5) 偽証
(6) 貪欲
などです。後の4つは忘れましたので、必要であればこの6つの確認とともに、旧約聖書に当たってください。

 小説の中などで、現実にはしてはいけないこと、つまり「殺人」や「姦淫」、「盗み」などが書かれている作品を読むことについて、その意味付けをする人もいるようです。自分ができないことを文章の中に置いて、それを読むことによって、自分自身をカルタシス(浄化)するというのです。
 カルタシスの効果があるから、日常が平穏に過ごせるのでしょうか。小説の中ばかりでなく、映画、テレビドラマや芝居などが、カルタシスとしての役目を社会的に果たしているといいます。

 また、他人の文章をそのまま自分の文章としてはいけません。
 引用をするときは、断ったほうがよいのです。もっとも、古典や慣用句などは、必ずしも明記しなくてもよいのではないでしょうか。
 このホームページでは、引用の部分をなるべく「この間が引用」や<この間が引用>のようにして、読んだときに明確になるようにしました。


文体について

 読んで変化があり、若向きの飽きがこない文体の文章にしたいものです。すなわち、読み流すことにも精読することにも、ともに耐えられる文章にするわけです。また、文章に格調の高いリズムをもたせ、朗読をしたときの効果を考える必要もありましょう。
 そのためには、できるだけ若い人が読みやすい表現や言葉を用います。したがって、文章のリズム、段落の切れ目などにも注意をしなければなりません。
 述べようとしていることの内容を追いかけることばかりに気を取られてしまい、つい長い文章になってしまうようなことが常日頃からないように注意をする必要があります。(この文は、いかが?) 谷崎潤一郎のような文体をなるべく避けて、むしろ井伏鱒二の文体を学ぶようにするとよいでしょう。

 意味段落の後は、一行分(半行分でもよい)空けます。
 混乱のない程度にスタイルや方法を統一して、文の特徴をかもしだすようにしなければいけません。作家のイメージを固定するという反面では、それぞれのシリーズごとに文体をかなり違った方式にする試みも行います。
 言葉の形容は、あまり多くしません。つまり、装飾の過剰や極端な冗長は避けます。例えば、
   冬の冷え切った空気の中で息を切らして走ってきた刑事は、口径のかなり大きなピストルをもった人相の悪い浅黒い顔の男に向かって突進をした。
のような記述をしないようにします。

 また、どこにかかるかわかりにくい装飾も避けなければなりません。例えば、
   すごい形相をして勇敢に逃げる男を刑事は取り押さえた。
なども、あまりよい表現とは言えないないようです。
 この文は、たとえ「、」を打って
   すごい形相をして、勇敢に、逃げる男を刑事は取り押さえた。
としても、ダメでしょう。文の構造自体が、すでにわかりにくいからです。


段落の取り方=意味段落と形式段落=文の長さと段落の長さ

 段落には、意味段落と形式段落があります。
 あまり長い文章は、どうしても読みにくくなります。そこで、ある程度の長さに区切って段落をもうけます。
 形式段落は、ふつう改行でこと足ります。しかし、形式段落と意味段落との区別を付けにくくなってしまうので、意味の区切りには一行分の空白行を用いるとよいでしょう。このホームページの文章のように、半行分の調整がつく場合には、半行分でかまいません。

 段落の取り方は、文章の余韻の残し方とも関係をして、なかなか難しいようです。実は、私も習ったことがないので知らないのです。いろいろとやってみて、自分自身にあった方法を確立するとよいでしょう。
 意味段落と形式段落を意識するよりも、読みやすくするほうを優先させます。そのためには、いわゆる段落では1行分か半行分を開けると単純に考えておけばいでしょう。


旧仮名遣いについて

 引用などをすると旧仮名遣いをインプットする必要が生じます。とくに、短歌などの文学には多いことでしょう。そのようなときは、いったんふつうの入力をしておいて、あとで旧字に返るのが手っ取り早いようです。
 また、「ゐ」や「ゑ」などを出すのも一苦労することがあります。
 私のパソコン(ATOK17)では、ふつう「wi」とすると「ゐ」、「we」とすると「ゑ」が出ます。しかし、何かのはずみに出なくなって「うぃ」「うぇ」となってしまいます。もう少し、フロントエンドプロセッサがどうなっているのかを調べなくてはならないのですが、面倒なのでやっていません。

 上田敏『海潮音』にある「落葉」のはじめに、

 <秋の日の
  ヰ゛ォロンの
  ためいきの
  身にしみて
  ひたぶるに
  うら悲し>

とあります。
 「ヰ゛ォロン」は「ヴァイオリン」のことでしょうが、これを出すのに一苦労。よい方法があったら、教えてください。


旧字について=略字や古い字体=旧字と新字

 書くときの手間を考えて、略字を書く人がいます。例えば、
   幅 < 巾
   歳 < 年
などです。
 正式には、左側のように書くべきところを画数(かくすう)の少ない右側で代用してしまうのです。
 しかし、なるべく正しい表現をするようにしてください。

 地名や人名のときは、旧字であってもそのまま用います。
   兵庫県龍野市   「竜野市」とはしないほうがよいでしょう。(しかし、その後「たつの市」となりました。)
   聖蹟桜ヶ丘   「聖跡」とはしません。
   齋藤太郎  「斉藤」とは、しないほうがよいでしょう。

 意味内容は同じようなことでも、作者の好みによって微妙に使い分けをすることもあります。
   註文  注文  『注文の多い料理店』
   質  人によっては竹冠(たけかんむり)の「竹」を一つしか書かないこともあるようです。

 まったく旧仮名遣いと旧字とは関係がありませんが、
  「l日500円」と書いてあるのを「旧500円」
と勘違いしました。
 画面の文字もプロポーシャル モード(字間を調整して詰めるようにした形式)にすると、何となく見違えることがあります。「旧(きゅう)」でなく「一日(いちにち)」なのです。また、平仮名の「く」も詰めると「まった<旧仮名遣いと……」のように「<」と見えてしまいます。「くくくくくと女は笑った。」などというのも、何となく変な字並びになるようです。
 ここで、閑話休題。


人名と地名=人名の表記=地名の表記

 また人名や地名などは、そのまま用いたほうが無難でしょう。
 人名は固有のものですから、勝手に違った書き方はできません。常に正しい形で表記をしなければいけないので、注意が必要です。例えば、
   川野 と 河野 と 川埜 などが、それぞれに異なっていることはおわかりでしょう。
 それでは、
   富士 と 冨士 も 違っています。
 おわかりでしょうか。ウ冠(うかんむり)とワ冠(わかんむり)の違いです。

 また、氏名は正しくその人のものでなければなりません。
   卜部兼行(うらべ かねよし) < 卜部兼行(うらべ けんこう)や兼好法師(けんこう ほうし)でもよいでしょう。
                       でも、吉田兼好(よしだ けんこう)では絶対にありません。
   倉田百三(くらた ひゃくぞう) < 読みは「くらた ももぞう」ではありません。
   西田幾多郎(にしだ きたろう) < 読みは「にしだ いくたろう」ではありません。
                        幾太郎でも鬼太郎でもないので、注意してください。
   
   河野幸野
   龍野市 < 竜野市
   聖蹟桜ヶ丘 < 聖跡桜ヶ丘
などです。

(注) 龍野市は、その後「たつの市」となりました。



綴り字の好み

 まだあまり定着をしていない言葉があります。
 そんな場合には、どちらを使ってもかまいません。好みによって選べばよいでしょう。
 むろん、専門用語などはJISで決められているものがあります。そのときは、それに従ってください。

 例えば、
   ウインドウ(一般の書物)  ウィンドウ(私が最初から使っている綴り字)
などがあります。
 とくに意味があって固執をしているのではなく、最初のころにワープロに辞書登録をしたからです。そして、「イ」が小さくて「ィ」となっていても、あまり気づく人がいないので問題にならないのです。そんなわけで、直すのが面倒くさいので、そのままになっているのです。
 ただし、自分の文章の中にいるときは問題がありませんが、他人の文章を検索するようなときはダメですから注意が必要です。

 「キイ」、「キィ」なども好みの問題でしょう。また、「キー」とする人もいるようです。
 しかし、学会に発表をする文書や新聞記事などを作成するときは、すべて調べて学術用語にしなければなりません。ふつう、そのようなときは担当の編集者がのみ取り眼(まなこ)で直してくれるでしょう。したがって、それを控えておけば次回からはOKです。

 西洋などの国名や人名の読み方も注意が必要です。
 例えば、
   ギリシア(一般的)  ギリシァ・ギリシャなどと書く人もいます。
   ビバルディ(昔、初期のころ)  ヴィヴァルディ(今はCDなどもこの綴り字に統一されたようです。)

 なるべく実際の読みに合わせてカタカナ表記をしたいのですが、どうしても無理があります。

 また、私の持っている聖書に出てくる「モーゼ」と「モーセ」は同じ人物ですが、
   カソリックの聖書には「モーゼ」
   共通訳の聖書には「モーセ」
となっています。
 あるいは、版によって違うのかもしれませんが、私にはどちらがいいのかわかりません。ヘブライ語の発音でどうなるかも知りませんが、何となく「モーセ」がいいようにも思います。

 「ベルグソン」もいつの間にか濁点がなくなって、「ベルクソン」になってしまいました。
 私が学生のころに、
  <ギョエテとは おれのことかとゲーテいい>
という斎籐緑雨の戯れ句(ざれく・川柳)を何かで読んだことを覚えています。
 ゲーテは「ゲーテ」が定着する前には、他にも「ゴエテ」「ギューテ」「ギェーテ」など十数種類があったと言います。

 しかし、いったん書き方が定着をしたら、その表記を用いるのが最善のようです。
 童話で有名なアンデルセンは、デンマーク語で発音に近い書き方をすると「アナスン」です。そうかと言ってアナスンと書いても、慣れていない人は、それが誰のことだかわからないでしょう。
 なお、初めのころ「ビバルディ」と書かれていた音楽家は、最近では「ヴィヴァルディ」となっています。どちらでもよいことかもしれませんが、なるべく外来語表記は原音に近いのがよいのかもしれません。


文の構成

 文章を作成するときは、その構成を先に作るのがふつうです。構成は、ふつう
   章 → 節 → 段落
のように、次々と分解されていきます。
 しかし短編小説や小さい作品の場合には、章という区分がないこともあります。

 構成は、ざっとページを繰っても、ある程度視覚的にもわかるようにしておきます。そのためには、一つの段落では一つの内容を述べるようにするのがよいでしょう。
 ぐじゃぐじゃとあれもこれもを入れてしまわないようにします。極端に言えば、その文自体が箇条書きにも変更できるような構成としておくのがよろしい。
 (もっとも、箇条書きにすると格調の高い文学ではなくなってしまうが、……)
 つまり、多くのことを述べたいときは、いくつかの段落に分散して、次々と述べていきます。

 原則としては、ムダのない構成の文章を作ることが大切です。
 しかし、ある程度の冗長度をもたせておかないと、読みにくい文章になってしまうでしょう。そのような意味で、わかりきったことでも、別な角度から反復するようにします。例えば、
   東から上がった太陽は、西に……
というような文の……の部分は書かなくても、だいたい何という言葉かがわかるでしょう。しかし、それでも必ず書くのです。それは、読み手が読むという労力を減らすためなのです。

 さらに、人間は機械と異なって、少々の誤字であれば正しく読んでしまいます。なぜならば、前後の関係から判読ができるからです。もしも、その文章を以前に読んでいれば、なおさら正しく読むものです。例えば、
   マシチ売りの小女
と書いてあっても、誰もが「マッチ売りの少女」と読んでしまうでしょう。また、
   その子の入生は、あまり幸副ではあいませんでした。
という文章は、「その子の人生は、あまり幸福ではありませんでした。」と正しく読むに違いありません。

 また、芥川竜之介の『侏儒の言葉』にある「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。」という文章は、仮に
   入生は一箱のマシチに似ている。重大に吸うのははかばかしい。
というような誤植があっても、たいがいの人は前者のように正しく読むに違いありません。
 恋愛小説の途中に「ナルヘソ」と書いてあっても、まだ子どもごごろを失っていない人や、情操の豊かな人はきっと正しく「メルヘン」と読むのではないでしょうか。
 つまり、ある程度の冗長を文自体にもたせておくと、読者は前後の関係から間違った記述でも、無意識に修正をして正しく読んでくれるわけです。


文の表現と映像化

 作品は読んで鑑賞に堪えうるものであるとともに、映像化をすることまでを意識しておきましょう。そのためには、文章が読みやすく、わかりやすいいことも大切です。
 心理描写は、どちらかというと影像になりにくいものです。したがって、ナレーションを効かすとよいでしょう。つまり、コストをかけずに心理描写に影像で迫るのです。
 現代の若者におもねったのではないかと言われるだろうが、
  エロチック、グロテスク、ナンセンス(エログロナンセンス)
の趣向も大いに取り入れたらよいでしょう。
 つまり、現代人の心の隙間にひそむ孤独感、不安、葛藤、残忍性、自虐などを描き出していくのです。

 文章の表現には、「記述的表現」と「説明的表現」と「印象的表現」とを適宜使い分け、作品の効果を最大限に引き出すようにしたいものです。
 「記述的表現」は、著者が文章の上から姿を隠して、読者が直接に問題に向き合っているような感じをさせる書き方です。ちょうど、ビデオで撮影をしたようにです。したがって、視覚や聴覚を駆使して理解をできるようにしなければなりません。文章の終わりを現在止めにすると、その効果が強く出るようです。また、体言止めも大いに効果があるでしょう。

 「説明的表現」は、著者が対象を記述するとともに、自分自身の態度や感情を読者に伝える書き方です。記述をしていると長くなってしまうようなことを、要約して短くいうことができます。つまり、著者が要約を読者に伝えることにより、だらだらと詳しく書く必要がなくなってくるのです。
 さらに、「……のであった」などという記述も効果的でしょう。
 作品を映画やドラマにしたときに、その内容を視聴者が見ても、反応はまちまちです。同じ画面でも、涙を流すものがいるかと思うと、逆に笑うものがいるありさまだからです。そこで、著者が読者にアドバイスをすると理解が早まり、効率がよいのです。

 「印象的表現」は、著者が対象から受けた印象を述べる書き方です。センスのある著者や、画家などのような場合には効果的でしょう。しかし、私のようにノンセンスで性格がちょっと異常の場合には、なかなか無理のようです。なぜならば、著者の印象がやぼったく、芸術性がないからです。それでは、読者としてもうんざりしてしまうでしょう。
 むろん、このような三つの表現方式の中の一つを選んで、作品内で統一する必要はまったくありません。しかし、ある程度は作品の特徴を出すために、主体を設定しておいたほうがよいことも事実のようです。


体言止め

 体言止めは、文全体の品位を失わない程度に用いるのがよい。あまり多くすると、何となく文が飛び飛びになって「春は曙」式になるからです。そうなると、文が安直という感じを否めないでしょう。
   そうです。その気持ち。それが大切なのです。
   夕闇の迫る公園の静寂に、ぎゃあぁぁというような不気味な叫び。……
   机の上にあったものを見て、私は心の凍る思いをした。不気味な手首。それは……
   ………と同じ。
   次の場合。
などが、体言止めの例と言えましょう。


文字の配分

 タイトルや箇条書きの場合、三文字以下の短い言葉はある程度の均等割付をします。四文字以上の場合はする必要はありません。
   二文字の言葉  主  題(文字間に二文字分空ける)
   三文字の言葉  変 奏 曲(文字間に半文字分空ける)
 つまり、三文字以下の言葉は四文字分の長さに揃えるのです。

 この均等割付は、ふりがなをふるときも、ふられる言葉について行います。例えば、
   二文字の言葉  呆  子(ほうじ)
   三文字の言葉  天 邪 鬼(あまのじゃく)
のようになります。
 なぜならば、タイトルに本式の小さな文字でルビがふられるときのことを考慮しているからです。
 ただし、丸カッコ(……)の中のふりがな自体は均等割付をしません。
 なお、一文字の言葉については均等割付ができないので、先頭の位置に書き、ふりがなもそのまま付けて書きます。
   一文字の言葉  痰(たん)


文字の優先順序

 語を並べて記述するときに、五十音順にする場合があります。辞書の配列は、多くがそうなっています。そのときの一例を示しておきましょう。
 なお、同じ音の中では

(1) 「 」(字間スペース)
(2) 「ー」(長音符、音引)、
(3) カタカナ、ひらがな、漢字の順
(4) 清音、濁音(゛)、半濁音(゜)の順

にします。

【あ】 【い】 【う】 【え】 【お】  【か】 【き】 【く】 【け】 【こ】
【さ】 【し】 【す】 【せ】 【そ】  【た】 【ち】 【つ】 【て】 【と】
【な】 【に】 【ぬ】 【ね】 【の】  【は】 【ひ】 【ふ】 【へ】 【ほ】
【ま】 【み】 【む】 【め】 【も】  【や】 【ゆ】 【よ】
【ら】 【り】 【る】 【れ】 【ろ】  【わ】
【A】 【B】 【C】 【D】 【E】 【F】 【G】 【H】 【I】 【J】 【K】 【L】
【M】 【N】 【O】 【P】 【Q】 【R】 【S】 【T】 【U】 【V】 【W】
【X】 【Y】 【Z】 【数字】 【記号】


注意項目の書き方

 とくに本文と分かち書きをして、目立たせる必要がある記述は、三文字分下げて書き出します。文が次行に続くときは、二文字分下げることになります。つまり、全体に二文字分下がっているのです。(しかし、実際には次行を一文字も下げないことがあります。面倒だからです)
 例を示せば、次の六行です。(△は空白を示す)

△創作をするに当たって、非常に大切なことは   (ここは本文)
△△△文章の技法が優れているということよりも、創作をするという強い意欲があるということ
△△それは、遭難をしたときに生きるという強い意欲があるものだけが、生き延びられるというようなもの
ということが言えるであろう。     (ここで本文に戻っている)

 たいがい、実際には本文と注意項目がつながって一つの文の構造をしていることが多い。したがって、句読点の使い方には留意する必要があります。


引用文の書き方

 何かを引用して、自分で考えた言葉で記述するときは、注意項目の書き方と同じでよいでしょう。しかし、原文をそのまま引用するときには、もっと明確にすることが必要です。
 そこで、一律に三文字分を空ける。したがって、書き出しは、やはり三文字分を空けることになり、事実上字下げをしないことになります。
 その例を示せば、次の数行のようになります。

 旧約聖書の『伝道の章』には、
△△△多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる。事の帰する所は、すべて言われた。
と書かれている。

 これは、次のように書くことを強調しているものといえるでしょう。
 旧約聖書の『伝道の章』には、「多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる。事の帰する所は、すべて言われた。」と書かれている。
 ここでは、カギカッコの中の最後の「。」については、むしろ省略をしないほうがよいでしょう。


表現の正確性と順序=名もなき花

 なるべく正確な表現をするということは、いたって当然なことです。しかし、それがなかなか難しい。
 例えば、
   私は、その山頂に名もない花が咲いているのを見た。
という文です。
 われわれの目に映るもので、実際には「名もない花」というのは、非常に少ないでしょう。よほど人里を離れた奥地にでも行かないかぎり、未発見で学名が命名されていない植物などはないと思うからです。つまり、「名もない」のではなくて、著者が「名を知らない」だけなのです。だから、本当は
   その山頂には花が咲いていた。私は見た。その名前を知らなかった。
というのです。

 島崎藤村は、ちゃんと<名も知らぬ遠き島より……>と言っています。決して「名もない島」ではないのです。
 しかし、フランチェスコの著書に『名もなき小さな花』というのがあったとも思う。それは訳した人の責任かもしれないのです。残念ながらイタリア語であろう原文を私は読めないのです。もしかしたら、いずれにしても私の記憶違いかもしれませんが、……

 また、石川啄木『一握の砂』に、
   <学校の図書倉(くら)の裏の秋の草
   黄なる花咲きし
   今も名知らず

   愁(うれ)ひ来て
   丘にのぼれば
   名も知らぬ鳥啄(ついば)めり赤き茨(ばら)の実>
というのがありました。

 さらについでながら、
   木の葉がさらさらと散って秋がきた。
というような文章も、ちょっとばかり疑問です。実際には、「秋が来た。(だから、落葉樹であるその)木の葉がさらさらと散った。」のではないでしょうか。つまり、順序が逆なのです。
 そのようなことをいろいろ考えると、文を書くという自信がなくなってくるようです。どうも弱気になるのが、私の悪い逃避癖かもしれません。


氏名や地名などの固有名詞

 固有名詞の使い方には、注意が必要です。実際の調査ができないときには、その旨を文中でことわる必要があるでしょう。
 氏名の読み方や綴りに関しては、書く人のささいな勘違いであっても、本人やその関係者には不愉快でしょう。例えば、「西田幾多郎(にしだきたろう)」という人を「西田幾太郎」と書いても、「にしだいくたろう」と読んでも、失礼であり、著者の不覚でもあります。

 読みやすくするために、必要に応じて氏名は分かち書きをするとよいかもしれません。
  森林太郎 → 森 林太郎(「しんりんたろう」とならないために)
  山東京伝 → 山東 京伝(「やまとうきょうでん」とならないために)
 ここで全角を用いると、ちょっと開きすぎた感じになるから半角でもよいでしょう。
 組織名や地名などについても、同じようなことがいえます。


外国人の氏名

 外国人の氏名でカタカナ書きのときは、ふつう「氏」と「名」の間には「・」を用います。
 しかし、「=」にしたほうがよいでしょう。なぜならば、「・」はふつう似た概念ではあるが別なものを並列に並べるときに用いるからです。例えば、
  多摩市には、多摩川・大栗川・乞田川などが流れています。
のようにです。
 外国人の氏名は、サン・テグジュペリとしないで、
  サン=テグジュペリ
のようにしたほうがよいようです。
 実際に岩波書店の『星の王子さま』は、そうなっています。


モチーフの収集と記録

 思いついたときに、書きとめておきます。そのような些細な習慣も大切なのです。(実は、このホームページ全体が思いついたときに私が書きとめておいたものなのです)
 思いついたときには、すぐにメモを取ります。それを貯めておくと、そのストックが作品に成長するのです。
 小さいモチーフを大きくすることもできましょう。例えば、
   富士には月見草がよく似合う(太宰治) → 「富嶽百景」
 逆に、大きいモチーフを小さくすることも可能です。
   現代の老人 → 高齢化社会問題
   教育問題
 つまり、真っ向から行くのではなく、部分的に攻めていくことができるのです。

 次々とメモが増えていきます。しかし、メモはあくまでモチーフであって、それ自体では作品ではありません。作品にするという努力と時間が、やはり必要です。ちょうど本を次々と買っても、読む時間がないのと似ています。つまり、作りっぱなし、「百舌(もず)の生け贄(いけにえ)」なのです。
 そしてその状態は、ともすると精神的にかなりの負担を生じることさえあります。
 もっと身近な例でいうと、食事を作るために材料を買い込んで、そのまま放置しておくようなものです。いざ作ろうとしたときには、材料のあるものは腐ってしまって、使えない状態になっているのです。そんな状態に似ているのでないでしょうか。そして、不安と葛藤にさいなまれるのです。


モチーフの原始記録

 いろいろな大きさのメモ用紙を作っておきます。
 裏面に印刷がなされていない広告用紙や、使用後の封筒を広げて裏を利用してもよいでしょう。とにかく、廃物利用でよいのです。色の付いた用紙や厚手のものでも十分です。
 大きさは名刺大のものから、せいぜいA5判ぐらいでよいでしょう。
 モチーフを書き留める用紙は、あまり大きくないほうがよろしい。A4判やB5判では大きすぎるようです。私はB6判、つまり@@@cm×@@@cmのものを主に用います。各自で、自分が使いやすいものを選べばよいでしょう。
 また、用紙上の記述は横書きであっても、縦書きであってもかまいません。
 私はメモ用紙を二つに折ってクリップで止め、間に小さい筆記具をはさんで胸のポケットに入れています。


パーツの活用=集めたメモ・モチーフの利用

 メモはいわゆる断片であるから、それ自体は未加工のパーツにすぎません。それを、モチーフに利用するためには、次のような手順が必要になります。

(1) パーツを集める
(2) パーツを並べ替える
(3) 不足なパーツを補う
(4) まとまったモチーフとする

 以上のような作業をすると、頭脳の訓練にもなるでしょう。この作業自体が適当に頭を使うので、呆(ぼ)けないのです。
 何でもためるだけためたら、使ってみたくなるものです。ある程度の分量になったら、作品にまとめることを考えましょう。
 お金も貯めるだけでは意味がありません。有効に活用することが目的であるから、さしあたり必要なだけを貯えればよいのです。万一のことを考えて、たくさん有りさえすれば心強いというのは、必ずしも賢い考え方ではないでしょう。


モチーフの加工

 対象となるモチーフを決めたら、それを加工します。
 ある程度まとまったモチーフには、必ずタイトルを付けておきます。もしも、どうしても適当なタイトルがないときは、「未タイトル」「無題」などとしておくとよいでしょう。また、複数のタイトルが考えられるときは、すべてを記しておくと後で助かります。例えば、
   タイトル1=タイトル2=タイトル3
のように、イコールで結んでおきます。

 この時点では、メモ用紙またはワードプロセッサにあるのだから、横書き原稿の場合が多いでしょう。これは、あくまで作品が完成するまでの仮の形であるから、最後にタイトルも最善のものに絞り込まねばなりません。
 正式の原稿になるまでは、あまり情報を捨ててしまわないようにしたほうが無難です。
 タイトルには、仮にランクを設定しておきます。なぜならば、後で拾い出すときの便宜です。項(こう)程度のまとまったタイトルには、ランク3ぐらいのレベルが好ましいでしょう。
 そのタイトルの付いた一まとまりのモチーフが、やがて作品の一部を構成する部分となるのです。


ストーリを作るフローチャート

 [思いついたことをメモしておく]
 [集めたものを並べてみる]
  <不足部分があるか?>
 [不足部分を作って継ぎ足す]

 あらかじめ作った素材を組み合わせ、不足部分を埋めていく方法が好ましいでしょう。なぜならば、全部を新たに仕入れると大変だからです。
 お料理の素材で例えると、あるもので何とか食事を作るようなものです。したがって、冷蔵庫にあるものを知っていなければなりません。そうすれば、足りないものだけを買ってくることができるからです。


ストーリを作る

 基本的なストーリは「伝道者の書」の記述のように、もはや出尽くしてしまったかもしれません。
 しかし、何とかして素材からストーリを作る必要があるのです。そのためには、いろいろと素材を組み合わせて、その可能性を探していくことが必要です。
 考えていくと、結構斬新なストーリーが思い付く場合があるから、何とも不思議です。
 物語の作り方には、ちょっとしたコツが必要です。

 とりあえず全体を作り上げてしまうようにします。
 その際に、少々変なところがあってもかまいません。
 作り上げてしまってから、細部の手直しをしていくのです。つまり、最初からあまりこだわってはいけません。そのようにすると、なかなか先に進みませんし、全体の構造を見落としてしまうからです。


起承転結と序破急

 作品を4つの部分に分けて、
   起  承  転  結
とする方法と、3つの部分に分けて、
   序  破  急
とする方法があります。
 さらに細かく分けてもよいのですが、複雑な構造になってしまうので、3つか4つの大区分でよいでしょう。さらに細かくするときは、それを細分化していけばよいからです。

 この起承転結と序破急は、何となく音楽のソナタ形式と協奏曲形式に似ている感じがしないでしょうか。
 結局は、「何がどうした」ということを展開するためのステップの数だからです。いちがいにどちらが優れているかなどとは言えません。


クライマックスを作る

 ストーリの中にクライマックスを作る必要があります。
 盛り上げていく手法と終わるときのタイミングを決め込む技法が必要になるでしょう。
 あまり初めのほうでクライマックスを作ってしまうと、後が続きません。むしろ、最後の一歩手前くらいにクライマックスを置くのがよいでしょう。

 クライマックスの位置を設定したら、そこに文を盛り上げていかなければなりません。
 それは、ちょうど山を登るような感じでしょうか。いろいろなルートがあって、それぞれに行程が異なっています。その方法などは、やっているうちに身についてくることでしょう。


わかりにくい文とあいまいな表現

 なるべく、わかりにくい文を書かないようにしなければいけません。本当は、「絶対に」と言いたいところですが、そうもいかないでしょう。文中に、連体修飾が多すぎると、文はわかりにくくなるからです。例えば、
   太郎が花子が次郎が雪子が買った本を贈ったその少年に書いた手紙を読んだ
という文章は、
   太郎が
    花子が
     次郎が
      雪子が買った本を
     贈った
    その少年に書いた
   手紙を読んだ
という意味になるのでしょう。また、
   AさんはBさんみたいに酒が飲めない
という文は、「Bさんは酒が飲めない」か「Bさんは酒が飲める」かのいずれかです。
 しかし、Aさんは酒が飲めないことは明らかでしょう。

   彼と妹の姉は美しい人です
 これでは、
   「(彼)と(妹の姉)の二人」か「(彼と妹の姉)の一人」なのかわかりにくい。したがって、誤解をされることがありそうです。

 言葉の修飾にも留意をする必要があります。
   美しい日本の私(川端康成)
   美しい水車小屋の娘(シューベルトの歌曲)
などは、まだよいとしても
   母を愛している父を愛している私
となると、ちょっとわかりにくいですね。

   この私は、どうやら年頃の女の子のような感じがするのではあるが……。
というような文は、前後の文があって何とか理解できるようです。
 読者が理解できない単語が、たまには文の中に一つあってもよいけれども、二つ以上あっては投げ出されることになりかねない。
   本体とペリフェラルの間にあるものをインタフェースといいます
などのような専門用語を複数使うものはまずい。また、
   いまあなたの心にほのぼのとしたものを感じたら、それを幸せといいます
という文も、あまりよくないでしょう。なぜならば、意味がわかりにくいうえにインパクトがないからです。

 漢語は効果を考えて使うほかは、あまり使わないようにします。例えば、
   嬰児が莞爾する  嬰児を遺棄する
   襤褸(らんる)を纏(まと)って逍遥する
などといっても、耳で聞いただけでは意味がわからないからです。むしろ、
   赤ちゃんがにっこりした  赤ちゃんを捨てる
   ぼろを着てぶらつく
としたほうが、はるかにわかりやすいのではないでしょうか? なぜならば、耳で聞いても意味がわかるからです。 一般に、日本人はむずかしく言うのを好むようです。簡単にいうと、そうしないと学がないと思われるせいかもしれません。


読み違いやすい表現=読み間違いと意味の変化

 読み違いをしそうな言葉には注意をします。
 『フランクリン自伝』p7に、
 <神のみ恵みが……>
 <神のみの知り給うところで、……>
という文章がありました。
 前の文章の「み恵み」は「御恵み」という意味です。後の文章は「神だけが」という意味でしょう。同じようにひらがなで「のみ」と書かれていますが、用法はまったく異なっているので注意をしなければなりません。

 次のようなのは、どうでしょうか。
 <こうして、クマソ兄弟をうちとったミコトは、大和におかえりになるとちゅうも、ほうぼうの山河や、海峡などのけわしいところにひそんでいたわる者どもを、……>
 福田清人著『日本神話物語集』p229の記述です。
 慌て者や不注意な人は「潜んで労(いたわ)る者」と取るかもしれません。できたら初めから「悪者」としてしまいたいところです。

 上と同じ『日本神話物語集』のp240ページです。
 <とちゅう、相模の国の足柄山の坂の下で食事をしていると、この坂にいたわるい神が、……>
とありました。
 小学生に読ませる本は、教育漢字の制限のためでしょうか、何となくおかしな表現になっているところが、かなりあるようです。また、「わるい神」の前のほうにある「相模の国の足柄山の坂の」とインプットとしていると、《「の」の連続》というメッセージが出てきました。(2005.08.31 フロントエンドプロセッサATOK17使用中)

 また、意味が似ていて同音になる漢字には気を付けてください。
   臭い臭い → くさい臭(にお)い
   人指し指 → 人差し指  指で指す → 指でさす
   抱き抱える → 抱きかかえる

 読むときだけではなく、耳で聞いたときも同様な問題が起こります。
 例えば、この本を読もうと決心をして、
   「よしこのほんをよもう!」
と言ったとします。自分一人だけならば何も問題が起こらないでしょうが、仮にその場に好子さん、良子さん、佳子さん、淑子さんたちの誰かがいたら、どうなるでしょうか。例えば、
   「芳子の本を読もう!」
と聞き間違えるかもしれません。

 同様に、
   「もうこのうまは乗ることができない。」(モウコノウマ(学名)は、野生ではすでに絶滅をしてしまった。)
   「ながいものおいしい食べ方」(「長芋の」が「長い物」と聞こえてしまう。)
 また、漢字があるときは続き具合にも注意が必要です。
   「この先生きのこるには」(「この先」ではなく「この先生」と間違えます。そして「きのこる」では意味がわかりません。)
 そのような場合は、
   「この先、生き残るには」のように「、」を打つとよいでしょう。

 これは私だけの問題かもしれません。
 『Xファイル』に出てくる素敵な女性のスカリー捜査官の言葉です。
   <私も彼をクロだと思っているわ。>
というのは、できたら私は
   「……だと」 ではなく 「……と」
としてほしいと思いました。
 なぜならば、私の場合「彼を黒田と思って……」と聞こえるからです。

 私は、電話をかけるときは必ず
   「多摩の黒田です。」
と最初に言います。
 しかし、町田の玉野先生や枚方のTamaさんにかけるときは、ちょっと考えてしまいます。
 なぜならば、
   「たまのくろだです。」
と言うと「玉野くろだです。」とか「Tamaのくろだです。」と聞こえるので、変な感じをされるのではないかと、心配をするからです。

 かつて、日本電子の高橋専務からお電話をいただいたときは、必ず「小金井の高橋です。」と言っておられました。しかし、高校の同級生の鈴木正信さんは、いつも「鈴木です。」としか言いません。鈴木という人で知り合いが20人近くいるので、最初にちょっと戸惑ってしまいます。
 向こうにしてみれば、「お前と俺じゃないか」と思うでしょうが、顔の見えないときは注意をする必要がありそうです。なぜならば、互いに常識までを疑われるからです。
 とくに、インターネットでメールなどを行うときも、同様の注意が必要になるでしょう。


読み違いやすい名前=名前の文字の区切り

 漢字とかなが混ざっているのではなく、漢字だけでも勘違いをすることがあります。
 例えば、
   高尾山東京伝記
は、ふつう「高尾山+東京+伝記」と読んでしまって、「高尾(地名)+山東京伝(人名)+記」とは読まないでしょう。
 また、京王線の沿線に住んでいる人は、
   高橋不動産
という看板を見ると、なぜか「高幡不動尊」と読んでしまうのです。

 同様なものに、
   日吉住宅公団  最初にちらっと見たときは、日本住宅公団と勘違いをした。
   東京法経学院  「法華経」を連想してしまった。
   宮崎硝子  公取(公正取引委員会)に調査をされたガラス会社だったが、何となく女性の氏名に思えた。
   ナルヘソ  これを「メルヘン」と読める人は、素晴らしい人でしょう。
   うこん(鬱金)  これを「うんこ」と見間違いをしたら、もうカレーライスは食べたくなくなってしまいそうです。
などがあります。

 また、ことさらに別の意味を連想させることを避けなければなりません。ここでは、厳密な意味の変化ではなく、単に読み違いの意味も含めて、
 主人公に付ける名前にも気をつける必要があります。
   大場加奈子  大庭加奈子
などは、あまり好ましくありません。つまり、「大馬鹿な子」を連想させてしまうからです。
 実際にある名前ですが、おそらくそれは芸名でしょう。
   朝霞ゆい
さんの場合です。
 「朝霞」が姓で、「ゆい」が名でしょう。ハイカラなよい名前ですが、全体では何となく「朝痒(かゆ)い」と読んでしまって、背中がむずむずとしてきそうです。

 しかし、小説などの登場人物として、最初から何かを連想をさせるときには効果的です。
   御津友内先生 → みっともない先生
   和田平助 → 後から読むと「すけべーだわ」 

 柳亭痴楽の「ラブレター」という落語に出てくる女性は、
   荒井ヤヨ
という名前なのですが、その区切りを変えておもしろ可笑しく「あら、いやよ」と読んでいました。

 人名でなく場所の名前ですが、次のようなことがありました。
 多摩市の関戸図書館で、本の所在を調べていると「本館にあります」という表示が出ました。そこで、くまなく探したところありません。仕方なく係員に聞くと「その本は本館にある」というのです。そして「本館」とは、多摩市役所内にある最初からあった図書館だそうです。
 「本館」と「別館」ならともかく、アネックス側がすべて「○○図書館」となっているので、つい勘違いをしました。例えば、警察官が「本官」というと自分のことです。そのように「本館」は、ふつう「ここ」という意味に取られるので、命名には注意していただきたいものです。


物の名前を読み替える

 物の名前を別のものに読み替える方法があります。
 井の頭線の明大前駅下りホームにある小さな池には、
   無事湖
という名札が付いていました。おそらく「無事故」の願いがこめられているのでしょう。
 しかし、その後駅を改装して「追分け団子」などの売店などを作ったためになくなってしまいました。

 また、ダイソーで売っていた梟(ふくろう)の置物には、
   不苦労
という名前が付けてありました。これも、苦労をしないという縁起をかついだものでしょうか。


何となく名前に聞こえる言葉

 作品は朗読をしたり、ドラマになったときのことも考えておかなければなりません。
 物の名前などがアクセントの関係で、人名に聞こえてしまうことがあります。そのようなことは、作品を作る段階で注意をしておくほうがよいでしょう。
 例えば、
   アミノ酸  何となく「網野さん」という人がいるような気がします。
   不動産  この場合は「不動産」が聞き慣れたことばですから、間違いはないでしょう。
         逆に、「富道」などという名前を付けることは避けたほうがよさそうです。
   カザフ人  どうしても「夫人」「婦人」がひとまとまりに聞こえてしまいます。


単語や文字の区切り

 区切り方によって意味が異なってしまうことがあります。
   小女子干(こおなご ぼし)
は「小女子(こうなご)」という小魚を干したものです。
 「小女」「子干」と区切って、「こおんな」「こぼし」としてはいけません。


文の表現の統一

 あまり確立がなされていない語句については、ある程度決まった表現をします。また、漢字を使うかひらがなにするかなどについても基準を決めておくとよいでしょう。
   三か月(さんかげつ)<三ヶ月、三箇月
   私たち<私達
   友達<友だち
   さすが上司も……<流石上司も……
   ふたたび<再び
 なお、詳細は別表「@@@」によってください。


デフォルメ

 文を適宜デフォルメすることによって、読者を飽きないようにすることも必要です。つまり、着目した一部分だけを強めて記述するのです。
 美しいものと醜いものを対比させると、ややグロテスクな強めになります。
   野獣の恋
   侏儒の言葉
   天使のはらわた


小説をわかりやすくするポイント

 次のような工夫をして、わかりやすくします。

(1) ありさまの描写を少なくして、動きの描写を多くする
(2) 会話を多く用いる
(3) 抽象的な言葉を避けて、具体的な表現をする
(4) 適当に説明的、印象的表現を混ぜる
(5) 文の長さを短くする


文の現在形と過去形=文末の工夫1

 日本語の文章、とくに小説では現在と過去の表現が厳密ではありません。
 文の調子を付けたり、単調さを避けるために文体に変化を付けて、現在と過去を混ぜることもあります。そのほうが読みやすく、文章も印象的になるからです。
 過去形の「た」で終わると軽快です。しかし、「……だ。」というようにすると何となく粗雑な感じがしてきます。
 「である調」「です・ます調」ともにいろいろと工夫が必要になってくるようです。
 「である調」の過去形は、ふつう「……であった」を用います。「です・ます調」であれば語尾は「……でした」や「……ました」になるでしょう。言葉の広がりができるわけですから、工夫をして飽きのこない文体にしなければなりません。

 なお「体言止め」については、この説の
   体言止め
を参照してください。


変わった形の語尾

 非常に変わった形の語尾があります。何となく気品がありませんが、それでも小説などの登場人物を限定する効果はあるでしょう。

   「あたい、疲れてしまったのよん。」
   「だって、面白くないのだよん。」


文末を同じにした小説=「た」で終わる小説=『六の宮の姫君』

 芥川龍之介の『六の宮の姫君』という小説は、すべて文末が「た」になっています。ただし、会話体の言葉は必ずしもそうではないのですが、地の文はすべてそうなっているので、最初に呼んだときはまったくの驚きでした。いずれにしても、非常に珍しい技法を用いた作品です。

 なお、このテーマは菊池寛も同じタイトルで用いて、感動的な内容とはなっていますが、文体にはとくに工夫がなされてはいなかったように思います。


「である調」と「です・ます調」

 ふつう文体は、「である調」と「です・ます調」(「ですます調」)に分けられます。
 原則として、どちらかを選ぶ必要があります。変化を付けるために、片方を少しだけ混ぜて使うのも上手にすると効果的でよいでしょう。いずれかに決めておいても、部分的に別の調を入れると変化ができるからです。また、会話の内容は全体の調に関係なく、いずれをも用いることができます。だから、調自体を変えるのではなく、むしろ会話の部分で変化を付けたほうがよいでしょう。

 いっぽう疑問文は、「……だろう」や「……でしょう」も使えます。「……じゃないですか?」とするのもよいでしょう。
 尋ねたり確認をする話法は、「そうじゃありまえんか?」とか「そうですね」などとするとよいようです。
 なるべく文全体に変化を付けるようにしてください。
 一般に「である調」はふつうの文体、「です・ます調」は少していねいな文体に用います。
 しかし例えば、
   「あの家の向こうに黄色いお花畑が見えるでしょう。」
というような文を「である調」で表現するのは、ちょっとむずかしいのです。

 「ですます調」と「である調」の他にも、それから派生した「であります調」や「のである調」があります。
 また、「……った」「……した」など文末をする方法や「……だ」とする「だ調」などもあるでしょう。
 文体や文章の調にはいろいろなものがありました。
 若松賎子(わかまつ しずこ)訳『小公子』の「かったです調」なども訳文に用いられ、効果的ではあったものの最近では用いられなくなってしまいました。


送りがな

 送りがなは、原則として文部省告示(本則)の方式によります。しかし、それが読みにくい場合には、むしろ多めにふるのがよいでしょう。
 中間の送り仮名については、動詞と名詞では異なるほうが自然です。つまり、連続した動詞の言葉で、動詞に用いられるときは前にもふるのです。名詞として用いられるときは、前にはふりません。原則としては、
   動詞は送りがなを付ける……書き込む、読み取る、飛び越える
   名詞は送りがなを付けない……書込み装置、読取り時間、飛越え
のようになります。つまり、
   動詞が重なる言葉は、原則として両方に送る
   名詞になる場合は前には送らず、後に送る
ということになるわけです。

 しかし、送らない習慣になっているものは、それに従います。
   受付、書留、取締役、売掛金、繰越、物語
などです。それらの言葉でも動詞として用いるときは送りがなを付けます。
   昼の休憩時間でしたが、受け付けてくれた
   それを、彼女はメモに書き留めた
のようにです。
 また、読み間違うおそれのあるときは、名詞の中間でも送り仮名を付けたほうがよいでしょう。
   並べ替え  「並替え」では「なみかえ」と読んでしまう恐れがある
 道路の注意標示に「大雨のため運転見合中」というのがありました。電光表示板の大きさの制限であろうか、送りがなが省かれています。「見合中」というのは「見合わせ中」を意味しているようだが、「見合い中」と読んでしまいます。


文の長さ

 一つの文は、できるだけ短くします。なぜならば、日本語では動詞が最後にくるから、文を長くすると紛らわしくなってしまうからです。つまり、結論がなかなか出てこないからです。例えば、次のような文は非常にわかりにくいでしょう。

  私は、彼があのようになぜ早く自動車を運転しているか、ここから見ただけでは、昨日の彼が話していたこと、つまり彼の会社の経営の状態などを考えてみても、わからない。

 これでは、いったい何のことかわかりません。


文章に変化をつける=文末の工夫2

 文が「……である」「……である」「……である」と続くと、読んで単調だし、何となく説得力があるようで逆効果になります。そこで、
   ……だ
   ……ではなかろうか ……ではないか
   ……でない ……ない
   ……と言える ……と考えられる
   ……(体言止め)
   ……だろう ……であろう
   ……ありますまい。
などと混ぜるとよいでしょう。

 また、つなぎ言葉も「そして、……」ばかりが続くと、目障りです。そこで、
   だから、……
   したがって、……
   いっぽう、……
   ……(つなぎ言葉なしで次の文に移る)
などを用いたり、
   その○○は、……
   この○○について考えると、……
などを用いるとよいと思います。さらに、
   ………というと、とんでもない。
   ………と関係深いのは、ご存じのとおり。
   ………と思われるケースが何と多いことか。
   それが、私たちコンピュータ技術者の常識だ。
   ほら、よく言うじゃありませんか。「………」って。
なども有効でしょう。

 ちょっと荒っぽい方法になりますが、「ちょうだい」「かも」「ねえ」「かな」なども使えます。
   砂糖や脂肪の多い食べ物は、とにかく避けるようにしてちょうだい。
   明日はお天気かも。(これは、「かもしれない」の省略形かもしれない。)
   むしろ、幼稚と言えますねえ。
   いったい、どっちなのかな。
などのようにです。
 また、女言葉の「だわ」などもあります。


文章に変化をつける=文末の工夫3=女口調(女言葉)

 文末の工夫として、いわゆる女口調や女言葉も文章に変化を付けることができます。
 例えば、
   「……だわ」  彼の後ろ姿は素敵だわ。
   「……思うわ」  私は、そんなことはないと思うわ。
   「……するわ」  思い切って彼と別れることにするわ。
   「……ですって」
   「……なの」
   「……なのよ」
などのような女性の口調も有効でしょう。
 なお、ここにある表現は必ずしも女性ばかりではなく、最近は男性も用いる場合があるようです。


文章に変化をつける=倒置した文の効果=文末の工夫4

   美しかった、その花は。
   私は驚いてしまった、そのことを聞いて。

 このように倒置をした文もなかなか効果的です。言いたいことが先に言えるし、また文脈の単調さを避けることもできるからです。


作中人物の氏名

 作中の人物には、ある程度のイメージを可能とする名前を与えるべきでしょう。
 また、強い印象を与える名前のほうがストーリの展開に有利です。

 「伊那かっぺい」(もしかしたら伊奈だったかもしれない)という津軽弁の講談師がいます。その子どもたちの名前が、何と「麻亜(まあ)」、「不思議」、「加奈(かな)」、「まさか(漢字は忘れました)」というそうです。いかにも落語家が考えて付けた名前で、そのセンスのよさに感心をします。

 また、実際に日本人らしくない名前もあります。
 「ガウンタッチ」という人で、何となく英語のような感じがしませんか? 実際には姓が「ガウン」で、名が「タッチ」という人です。その「がうんたっち」は、漢字で「臥雲辰致」と書きます。長野県の人で、紡績機を発明しました。もしかして、間違っていたらごめんなさい。
 また、日本で活躍した「アーネスト・サトウ」という外人がいました。しかし、「サトウ」は「佐藤」という日本語ではありません。元来からのドイツの姓名です。

 実際には、外国の名前の音を日本語に置き換えたような名前があります。
 江戸川乱歩や白井弁十郎などがそうでしょう。


敬語の使い方について

 最近は、敬語の使い方が滅茶苦茶。使わなくてもよい人に対して、必要以上にていねいな言葉を用いたりします。例えば、インタビューで犯人などに対して敬語を使う人がいます。
 交通機関でも「電車がまいります」などと言ったりするので、「丁寧ならばよい」という風潮があるようです。しかしあまり、ていねいな敬語を使うと相手を馬鹿にしているようにも聞こえるので注意をしたいものです。
 身内に対する敬語も、なかなか難しい。
 太宰治『斜陽』では、母のことを第三者に対して「おかあさま」と言っています。さらに、母が自分自身のことを「おかあさま」と言っているのです。
 貴族である母親が庭の薄(すすき)の陰で、おしっこを立ったまました後で、
   「なおこ、いまおかあさまは何をしているかわかりますか」@@@
と言うのです。

   先生がお話されたように、この本は役に立つ。
   父にお目にかかっていただけませんか。
という上のような文が正しいと思っている人が75パーセントもいるという調査結果があるらしい。したがって、このようなことも考慮をしておかなければならないのです。


書き方の種類

 ふつうの論述的な文章の他にも、次のような書き方があります。
(1) 話しかける調子……○○○をご存じでしょうか。
(2) 問いかける話法……いったい、どうしたらよいのでしょうか。あなたなら、どうします。
   ボスの絵に「頭の手術(石の取出し)」というのがある。御存知だろうか?
(3) 相槌を求める……きっとあなたもそうするでしょう。
(4) 独白(自分の秘密を読者に打ち明ける)
   本当のことを言うと、私は自信がないのです。つい何だか恐ろしくなってしまい、はっきりと説明をすることができません。
 これらを効果的に混ぜて用いると、パンチの効いた文章になるでしょう。


タイトルをどうするか?=作品の題名

 「小説のタイトルをどうするか?」とか「作品のタイトルをどうするか?」という問題は、非常に重要なことです。
 すでにある言葉を利用してしまうということは、かなり効果があがることでしょう。
 簡単なのは、聖書からの引用です。
 例えば、
   <『日はまた昇る』>(『陽はまた昇る』でもよいでしょう。)
   <『エデンの東』>
などです。
 しかし、この方法では作品の内容に対して、タイトルが大きすぎてしまうことがしばしばあります。そのようなことも注意をしなければいけません。


タイトルから内容を読み手に想像させる

 タイトルから内容をある程度読者に想像させる方法もあります。
 例えば、「斧をもつ男」「カメレオンを飼う女」などです。
 あらかじめ内容を想像させるのであるが、実際には意表を突いて想像をした内容と異なっていることが多い。しかし、期待どおりであっても一向に差し支えない。つまり、その場合には読者の満足が得られるからです。
 そんなことも考えてみてください。


身体の一部をタイトルやテーマにする

 身体の一部をタイトルにしたり、テーマにすると意外にも斬新な小説ができるかもしれません。
 例えば、鼻です。

・ 『鼻』  芥川龍之介
・ 『鼻』  ゴオリキ
・ 『洟をたらした神』  吉野せい

などがあります。
 他にも
   「クレオパトラの鼻」(パスカルの『パンセ』から発展をさせる)
   「鼻行類」(日高氏の書籍からアイディアを作成)
   「像と獏」(獏の鼻は進化の途中?)
などというのはいかがでしょうか。


読者に尋ねる形のタイトル

 読者に尋ねる形のタイトルがあります。
 例えば、
   「ヴィヴァルディはお好き?」
   「ブラームスは嫌い」
などです。
 「ブラームスは嫌い」というのは、「自分が嫌い!」という場合と尋ねられている場合があります。つまり、
   「ブラームスは嫌い?」というのは「ブラームスは嫌いですか?」
ということになるでしょう。

 前者は「ヴィヴァルディ」というように濁点が3つあるにかかわらず、私には澄んでいるような感じがします。そして、「ブラームス」に至っては、何となくねばっこく、罪悪感とあこがれをもっている言葉のように感じられるのです。いったい、どういうことなのでしょうか。
 なお、ついでながらブラームスはシューマンの奥さんであったクララ・シューマンを好きになったそうです。しかし、彼は一生独身でした。


命令形や疑問形のタイトル=動詞の題名=疑問形の題名

 命令形のタイトルも、なかなかパンチが効いてよさそうです。
 例えば、
   <『現金に手を出すな』>(ここで、「現金」は「げんなま」と読みます。)
が命令形のタイトルで、
   <『誰がために鐘は鳴る』>
は、疑問形のタイトルでしょう。
 「鐘は鳴る」というのは、すでに省略形で実際には「鐘は鳴るのでしょうか?」という意味なのです。

 また、疑問符(?)や感嘆符(!)を付けると効果がいっそう上がるようです。
   <「人はどれだけの土地を必要とするか?」>
   <「太陽にほえろ!」>
などのようにです。

 動詞のタイトルとしては、「美しく燃える」や単に「燃える」などはどうでしょう?
 塙保己一のような盲目の人の最期を描いて、「見える」などとしたら、効果はないでしょうか。
 また、「生きる」とか「図太く生きる」なども動詞のタイトルと言えるでしょう。そして、
 「食べる」、さらに具体的に「猫を食べる」などとするのも一つの方法です。
 実際に、
 <『短くも美しく燃え』>
 <『私は貝になりたい』>
などという映画がありました。


想像をふくらませる

 主人公が、あまり周知の人物であると想像の範囲が少なくなってしまいます。
 例えば、聖書に書かれた人物であるとイエスはむろんのこと、ヨブやパウロなどは周知の部分が多くフィクションになりにくいのです。なぜならばすでに記述されていることが多く、それらと矛盾がないように配慮をしなければならないからです。
 むしろ、ナオミ、ティモテ、コーネリヤなどを上手に配色をすれば、目(ま)の当たりに感じられる人物になるでしょう。さらには、ヘルモゲナや@@@なども、イスカリオテのユダを書く場合とは異なって、イメージとしては彷彿とすることでしょう。


余韻を残したり、読み手に想像をさせる

 文を完結しないで、
   ○○○○○○……
   ○○○○○○……。
のようにするのもよいでしょう。
 前記に対して、後記のほうが「。」があるだけ、まとまった感じが残せるようです。なお、
   ……○○○○○○
とすると、引用の最初の部分を省略する場合などに利用できるでしょう。


比喩とたとえの問題

 比喩やたとえを用いて話すと、内容が直感的に理解できます。しかしその反面、表現に対してあいまいな解釈が生じ、後で混乱をすることもあるので注意が必要です。また、聞くものはそれぞれ自分に有利なように解釈をすることが多いことも心配です。
 そのような言葉による混乱や誤解、勝手な解釈は「釈迦の説法」や「イエスの言葉」にさえも多く見られます。


寓意とアレゴリー

 寓意(ぐうい)とは、他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすことです。
 また、アレゴリー(allegory)は喩(たとえ)、比喩、風諭、寓意などのことです。
 これらを上手に用いると、豊かな表現が可能になるでしょう。


譬(たとえ)と比喩(ひゆ)

 比喩や譬には、読者の理解を早める効果があります。しかし、その比喩や譬を読者が理解していないと、むろん効果がありません。そこで、比喩や譬を使うときは検討をする必要が生じるのです。
 譬は、割に親しみやすい。いっぽう、比喩のほうは曲解されやすいので注意をしなければなりません。
 比喩には、隠喩と明喩があります。
 隠喩は、いわゆる見立てをするもので、例えば、
   風は激しく怒り狂った。
   奈々子の目は、ちょっと見られない高価な宝石であった。
   彼女の目は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。(川端康成)
などです。いっぽう明喩は、文体上わかりやすく「ような」とか「ように」を伴ったもので、
   狐につままれたような話
   滝のように流れる冷や汗
などがそうです。


著者の知っていること

 著者が知っていることを、つい書きすぎてしまうと読者が負担になって、理解への遠回りになってしまうので注意をしていただきたい。この文章技法もそうであるが、何だか押しつけがましくなってしまうからです。


文節の区切りに注意をする

 文節の区切りで、おかしな言葉になることがあるので注意が必要です。例えば、
   おめでたい意味の「私、箸に鯛」が、「私は死にたい」になってしまうからです。
 名前でも、私がいつも用いる「大庭加奈子(おおばかなこ)」も、実際には具合がわるい。「和田平助」なども逆に読むとおかしな意味になってくる。その例として、かつて日劇ミュージックホールの出し物に「和田平助の墓」というのがありました。

 八王子市教育委員会の申請書の書き方例として、
   大庭嘉門(おおばかもん) 妻=大庭かよ
というのがあった。しかし、申請者を馬鹿にしているというので、市側は謝罪をして改めたそうです。
 区切る箇所がわからないと、意味が不明になることもあります。例えば、
   しのし……師の死(先生が死んだ)
   ししのし……獅子の死(ライオンが死んだ)
   しのしし……師の獅子
なども、なるべく耳からでもわかるようにしておきたいものです。さらに
   今日教師を紹介する……きょうきょうしをしょうかいする
   今日教科書を理解した……きょうきょうかしょをりかいした
   今日海上は危険……きょうかいじょうはきけん
は、耳で聞くとわかりにくくなっています。しかし、これらは「今日、」としたり「今日は」「今日の」などとすればよいでしょう。
   ほんとうにしたがうその気持ち
と書いても「本当に従うその気持ち」か「本当にしたが嘘の気持ち」だかわかりません。

 町田に「SHOPIN」(INの部分はゴシック体)という雑貨店(ブーケ)がありました。字体は違っているものの「P」と「I」の間に間(ま)がないので、ショパンと読んでしまいます。
   よしこのほんをよめ
も「よし、この本を読め」か「良子の本を読め」かわかりません。
 「かいしゃかいしゃ」などと、尻取りのようになってしまうと紛らわしくていけません。「会社 社会 医者」という個別のイメージが薄らぐからです。
 「……は虫類」も「爬虫類」と聞こえたり、「カザフ人」が「カザ夫人」に聞こえたりするので注意が必要でしょう。


長い文の分割書き

 原則として長い文は書かないほうがよいでしょう。例えば、
   空は青く、海は白く光っていた。
のような表現は、
   空は青かった。そして、海は白く光っていた。
とします。また、
   半熟の目玉焼きのような夕日が西の地平線に落ちようとしていた。
という文章は、
   夕日が西の地平線に落ちようとしていた。そして、その夕日は半熟の目玉焼きのようであった。
としたらどうでしょうか。つまり、なるべく読み違いがなく、また読み手の負担を軽くするようにします。


否定の形容と二重否定

 原則として、否定の形容は紛らわしいのでしないほうがよいでしょう。例えば、
   彼のようにいつも仕事のことでいらいらはしていなかった。
というような文も、読者の負担が大きくなるので避けたほう無難です。
 さらに否定の否定、例えば、
   ないものはない。
などというような二重否定もわかりにくくなってしまいます。
 「なんでもある」と「なんにもない」という反対の状態を示しているからです。


分かち書きと「・」の効用

 タマネギを千切りにしたものを「オニオンスライス」と言います。したがって、
   オニオンスライス=オニオン+スライス
ですが、これを「オニオンス+ライス」と勘違いをすると、違ったことを連想します。そこで「オニオン スライス」のように半文字分の空きをとったら間違いにくくなるでしょう。
 また、単に分かち書きをするのではなく「・」を間に入れる方法もあります。「オニオン・スライス」のようにです。これは、外国人の氏名の間に用いることもあります。例えば「ブレーズ・パスカル」のようにです。
 しかし、そのようにすると知らない人は「ブレーズ」と「パスカル」が別の人と勘違いする場合もあります。そこで、人名に限っては「ブレーズ=パスカル」などのように「=」を用いる場合もあります。

 同様に「ニュージーランド」は、
   ○ ニュー ジーランド  ニュー・ジーランド  × ニュージー ランド  ニュージー・ランド
   ○ スター トレック  スター・トレック  × スタート レック  スタート・レック

 バス旅行の釣り広告に、「小江戸川越」というのがありました。小江戸といわれた川越へ行くのであるが、どうしても「江戸川」が目立ってしまいます。分かち書きをするなどして、工夫をして欲しかったところです。
 つまり、「小江戸 川越」または「小江戸・川越」とすると、間違いにくくなるのではないでしょうか?

 桐朋高等学校(中学校も)の所在地は、
   国立市中3−1−10
となっていました。
 地名の付け方も悪く、この表示板では読み違いやすいと思います。
 「HAKUBA/HAPPOONE」は「白馬/八方尾根」ですが、「ハッポワン」または「ハップーン」と読んでしまいそうです。そして、その辺の事情になりますと分かち書き以前の問題になってくるでしょう。


動植物の名前=カタカナ表記=動植物名の分かち書き

 魚の名前ですが、
   ミスジ リュウキュウ スズメ ダイ
というのがあります。
 つまり、「三筋」「リュウキュウ」「雀」「鯛」なのです。それが、動植物はふつうカタカナ表記ですから、わかりにくくなってしまいます。そうかと言って、専門用語ですから勝手に「・」を付けるのも具合が悪いでしょう。やはり、半文字か1文字を区切りのところに開けるのがよいでしょう。

(注) ついでながら、熱帯魚の学名として「バタフライフィッシュ」というのと「チョウチョウウオ」というのがありますが、まったく別な魚だそうです。名前は、まったく固有のものですから、必ずしも名前が形を表すとはかぎらないのです。


 同様に、
   ハナミズキ
もそうですが、これは周知をしていますから問題はないでしょう。
 実際に、「ミズキ」がありますから間違わないのです。しかし、まったく知らない人は「鼻水」などと考えるかもしれません。そんな意味で、「ハナ ミズキ」とするほうがよいかもしれません。

(注) ハナミズキは、4枚の白い葉が花のようにも私には思えるのですが、実際にはどうなんでしょうか。
 ブーゲンベリアの花のように、先端の地味な小さい部分ではなく、その後にある色づいた苞(ほう)の部分が花に見えるようです。


 分かち書きをしたほうがよい言葉は、字で読むばかりでなく朗読をしたときのことも考えておくとよいでしょう。
 例えば、
   ケンカタバミ
という紋章の名称です。
 どうしても「ケンカ」「タバミ」と聞こえてしまいます。実際には、「剣」が付いたデザインの「酢漿草(かたばみ)」なのです。実際には「カタバミ」という紋所もあるので、それと区別をするためなのです。

 植物の名前と動物の名前があるものもあるので注意をしてください。
 例えば、
   オオムラサキ
などです。
 「ムラサキ」や「オオムラサキ」という草花があります。
 いっぽうでは、「オオムラサキ」や「コムラサキ」という蝶がいることをご存じでしょうか?

 また、魚ではなく「ゴンズイ」という草花がありますし、「ママコノシリヌグイ」という草花もあるようです。
 しかし、「ママコノシリヌグイ」を知りませんので分かち書きができません。おそらく「継子の尻ぬぐい」ではないかとも思うのですが、もしかしたら「ママ、子の尻ぬぐい」かもしれません。 

 動植物には二つ以上の呼び名をもっているものもあります。
 例えば、
   シクラメン
です。
 「シクラメン」は和名で「ブタノマンジュウ」と言います。ちょっと「アルメリア」を「ハマカンザシ」と言うのに似ています。
 和名には、何となくおおらかな響きのものもあるようです。
 例えば、
   オオイヌノフグリ  タチイヌノフグリ
などです。

 日本古来からある「春の七草」にある「スズナ スズシロ」とは「蕪(かぶ)」と「大根」のことです。
 外国のものが入ってくると、区別をするための言葉が付くこともあるようです。
 例えば、
   オランダアヤメ  ドイツアヤメ
などのようにです。
 「セイタカアワダチソウ」や「ブタクサ」は、もしかしたら外来種かもしれません。


外国語の表記・おかしな名前・下品な想像をさせる言葉

 外国語は、なるべく発音に近い表記をします。しかし、常用になっている表記があれば、それに従います。
 フィンランド語に、
・ オサケ(株、株式)  オシンコ(配当、配当金)  ハカタ(なぐれ、ぶんなぐれ)
などというのがあるそうです。
 このようにフィンランド語は、母音が日本語とよく似ているそうです。
 旧約聖書の『ルツ記』の中に、「ナオミ」と「ボウズ」が出てきます。

・ レオニード・コーガン……ソ連のヴァイオリン奏者です。
 しかし、「コーガン」という響きは、何となくよくない連想をさせることがあります。
・ マンコ・カパック……インカ初代の国王
 どうも「マンコ」や「オマンコ」もよろしくありません。
 そのために、「マンコ焼き」というのは、「ばんこ焼き」となったようです。文字では「万古焼き」と書きます。
 また、沖縄の那覇(なは)に「満湖(まんこ)」という湖があります。ラサール条約で1999年5月に世界遺産として指定されました。そのニュースを報じたときに、何となく変な音になっていました。

・ 金玉均(きんぎょくきん)……これも、最初の2文字で読むと、ちょっと響きが悪いですね。
 勝海舟「氷川清話」(p121)にあります。
 オランダには、「スケベニンゲン」という地名があるそうです。むろん、意味はオランダ語によるのですが。
 ヘブル語で「話す」はダーバル。その活用形のダベールが「駄弁る」になったということです。
 他に、アタイ  アンタラ  アンマンなどもあります。

 これらの人名や地名などは実際にあるのですが、何となく関係のない日本語の読みの意味をつい考えてしまうので、創作の中に用いるときは、ちょっとした注意が必要でしょう。


下品な記述とシモネタ

 性器をあからさまに書いたり、小便や大便をする記述は避けたほうが無難でしょう。なぜならば、作品がちょっと品格を書いてしまうからです。よほど効果を考えて書くのでなければ、やめておいたほうがよろしい。
 古事記の書き出しも、実におおらかです。男女の性器のことを言っているのですが、むしろほのぼのとしています。
 室町時代の『犬筑波(いぬつくば)集』の巻頭には、
<かすみのころも すそはぬれけり 佐保(さほ)姫の春立ちながら尿(しと)をして>
とありました。
 この意味は、
 「春の野山がうっすらとしていて、まるで霞の衣をまとったみたいだ。そしてその衣の裾が濡れているのは、佐保姫が立ちションベンをしたからだ」となります。佐保姫は、実在の人物ではなくて春の女神ですから何とも失礼な言い方ではないでしょうか。まるで、お漏らしをしたと言わんばかりだからです。
 太宰治の『斜陽』には、庭の草むらの中で「おかあさまが何をしているかわかるか」と聞くくだりがあります。そして、「おしっこ」と言うのです。


類語辞典=言葉のシソーラス

 類語辞典を利用すると、言葉の置換えができます。すると文章の単調さがなくなって、だいぶ読みやすくなるでしょう。例えば、角川の「類語新辞典」はシソーラスに言葉が並べてあって、ずいぶんと重宝しました。しかし、最近はめんどうになってあまり見ません。字が小さいためです。
 むろん、辞書の活字が縮んだのではなく、私の眼が悪くなったのです。
 それに、なぜか「そして」とか「または」などのような言葉は書かれてなく、したがって置き換え例がないので、ちょっと物足りない感じもします。類語辞書の性格からでしょうか、名詞が主体のようです。


読みにくい漢字

 読みにくい漢字にも工夫が必要です。

   独活(うど)  うどの大木というが……
   湿地(しめじ)  きのこの一種
   端境期(はざかいき)
   帰趨本能(きそうほんのう)  きすうでない
   九十九折り(つづらおり)
   順風満帆(じゅうぷうまんぱん)  まんぽではない

などは、読みを補足するか平仮名で書くとよいでしょう。


読みにくい表現

 読み間違いをする恐れのある表現は、なるべくやめましょう。
   やっとこの夏休みに、……
のように書くと、ひらがなが続くので「やっとこの」が一まとまりに感じてしまいます。
 そこで、
   やっと、この夏休みに……
のようにしたらよいかもしれません。


漢字をかなにすると読みにくい例

 バス内の運賃表に、
   小児半額は数は一○円単位に切り上げ
というのがありました。この「は数」は「端数」のことでしょう。


ひらがなやカタカナで書くほうがよい言葉

   麒麟(きりん)  檸檬(レモン)  薔薇(バラ)
   基督教(キリスト)  木乃伊(みいら)  巴里(パリ)
などは、ひらがなやカタカナで書くのがふつうです。

 しかし、「基督教大学」はいまも漢字です。また、芥川龍之介の小説もキリストは漢字です。(当然か?)
   谺(こだま?) 加特力(カトリック)  三鞭酒(シャンペン) 枇杷(びわ)  枇杷の実
なども工夫が必要でしょう。


安易な語法=許せないと許さない

 「許せない」という言葉は、無責任な人が自分が当事者になりたくないために「許さない」と言えないので考えられたようです。


ひらがなが多い文章=ひらがなが多い場合

 ひらがなが続く場合は、区切る場所がわかりにくいものです。
 例えば、
 <その足はげにやさし、そは絶えて地に触れで、ただ諸人の頭の上ゆけばなり。>
という文章がプラトンの『饗宴』p90にありました。

 このような場合は、句読点を付けたり分かち書きをしたほうが読みやすいでしょう。原作を損なわないという観点から半文字分(半角)のスペースを用いるのも一つの方法です。つまり、
 <その足は げに やさし、……>
のようにするのです。
 慌て者の読者が、「「足」が「禿げ」にやさしい」と勘違いをしないためにです。なぜならば、後ろに「頭」という言葉があるからです。


漢字が多い文章=漢字が多い場合

 漢字がたくさん続くと、画面やページ面が重い感じになってしまうので注意をしなければなりません。とくに、長い熟語があるときには、工夫が必要でしょう。

   電気機関車や内燃機機関車は電動機や内燃機が動輪に歯車で動力伝達し、制動は圧縮空気を利用する……

などのような表現は、ちょっと若い人には苦手ではないでしょうか?
 また、そうかといってひらがなばかりでもこのようになってよみにくいのではないでしょうか。
 したがって、ひらがなと漢字のバランスが大切になるのです。ふつう1ページ単位で、経験的にわかったことですが、文字の中で漢字が占める割合を30パーセント以下とすれば読みやすいようです。


誤解されやすい表現は避ける

 例えば、

   たぬきは熊みたいに冬眠をしない。

は、わかりにくいので「たぬきは冬眠をしない。熊は冬眠をする。」と言い換えます。


専門用語

 専門用語は、それぞれの分野の基準によります。例えば、情報処理用語はJISの用法によって表記をします。しかし、あまり特殊な専門用語は、その利用効果を考えた場合のほかには、あまり使わないようにしなければなりません。


差別語

 差別語は、いっさい使ってはいけません。なぜならば、出版物やホームページで差別語を使うと、後で問題となることがあるからです。フィジカル・ハンディキャプを示す言葉に対しては、その都度、文章の中で好ましい穏当な言葉に置き換える必要があるでしょう。


流行語=未成熟な言葉

 よく用いられている言葉や、若者の間で大いにはやっている言葉でも、やがてすたれそうなものは安易に使ってはいけません。また、安易な略語や品位のない流行語も使わないようにします。
 例えば、

   いいじゃん → いいじゃないか いいじゃない?
   できるじゃん → できるじゃないか
   いまいち → 今市ではない。 もうひとつ もうちょっと
   あさいち 朝市ではない。「朝一番で」の意味
   あさしゃん 朝にシャンプーで髪を洗うこと

なども、そのような傾向のある言葉ではないでしょうか。

 また、何となくわかって使う言葉には、
   ちいろば  小さいロバ、つまりイエスがエルサレムに登城したときに乗った小さい驢馬(ろば)。
   いとちゅう  もしかしたら、伊東忠次という人が始めた事業。
   かなちゅう  神奈川県中央交通というような事業の略称。
   ぎゃくたま  玉の輿の逆な場合、つまり男性が豊かな女性と結婚をすること。
などがあります。

 ふつうの用法では、使うことが許されない言葉として、
   「許せない」という表現
は、使わないほうが無難です。
 なぜならば、「許せない」という表現は無責任な捨てぜりふに似ていて、啖呵(たんか)のような響きがするからです。必要なときは「私は、許さない」とするか「社会的に許されないことであった……」などとします。

 同様に、
   「頭にくる」
も、使わないほうがよいでしょう。
 どうしても、必要なときは「頭にきたのであろう……」くらいでよい。
 さらに、
   「ちなみに……」
は、原則として使いません。
 どうしても「ちなみに」が必要なときは「……をちなんで……したのだった」などと言い換えます。書き言葉を話し言葉に使うのは、何となく幼稚だからです。


話し言葉と書き言葉

 実際に書くときには、その文章が読まれても支障のないような配慮をしなくてはいけません。なぜならば、朗読に用いられるようなことも考えておく必要があるからです。
 例えば、次のような文章は好ましくないでしょう。
 女性同士で話している場合です。
 「私の姉もね、聞くところによると……」
は、読み上げるとどうしても「私のアネモネ、キク(菊)ところによると……」と聞こえてしまうからです。

 参議院選挙のときの演説で、扇千景党首が、
 <そんなにほんをつくるために……>
と言いました。(2001.07.12(木))
 実際には、「そんな日本を作るために、……」と言ったのでしょうが、そのときに抑揚や区切りから、私には「そんなに本を作るために」と聞こえました。

 もしかしたら、子供のマンガなどにある話かもしれません。
 犯人を捕らえて、白状させるときに言う
 <ありのままにいえ>
です。
 これは、子どもたちは
 「蟻(あり)のママに言え」
と思うようです。

 実際に「アンマン」「アルジェリア」「ナイジェリア」などという地名があります。書くときはカタカナですから、間違いは起こりません。しかし、朗読をするときには、前後の関係でどういうふうになるのかを考えておく必要がありそうです。
 そんなために、作られた謎言葉があります。ご存じでしょうか。歌になっていたと思います。
 「スワルトバートル」と「オストアンデル」です。
いかにも地名が何かのような響きですが、「スカート」と「あんぱん」のことなのです。


話し言葉を書く

 話し言葉をそのまま書くと、何となく文章の気品がなくなってしまいます。
 例えば、

   ……かも? (「……かもしれないかしら?」というような意味)
   ……じゃん。 (「いいじゃないか」というような意味)

などがあります。
 原則として、このような表現を本文では使わないほうが無難でしょう。しかし、会話部に抵抗のないような方法で少しずつ入れるのは、むしろ効果があるのではないでしょうか。


印刷への配慮

 作品はすべて、最初から軽印刷・本式の印刷をしたときの都合や効果を考慮して作ってしまいます。
 ただし、手数がかかるので文字の修飾はあまりしません。タイトルなどの大きな文字を使うときは、フォント指定をします。
 ルビは、前述のように丸カッコの中に入れておきます。新聞に発表するときは、そのままでよいし、また単行本などでも今後そのようになるでしょう。(最近では、ワードプロセッサで打ったものをそのまま写植印刷機にかけるため)




言葉のイメージ=人名から受ける印象

 言葉のもつイメージからだけでいうと、モモンガー(むささび)という言葉は、その実態を知らないと、モンスター(化け物)という言葉よりも、さらに恐ろしい感じがするかもしれません。その言葉や名前のもつ実際の意味を知らない人にとっては、おそらく別の内容を考えることが多いでしょう。
 そんな言葉が、人名にもかなりあります。例えば、
   マリー・ローランサン(かわいい女の人、しかし子供ではない。実際には女性の画家)
   サラサーテ(さらっとしている感じ、実際に女性整理用品の商標に使われている。元は名ヴァイオリニスト)
   アブラハム(油とハムを何となく連想してしまう、つまりベトベトしたしつこい感じ)
   マダム・バタフライ(油ぎったしつこい感じの女、バーのマダムを想像する)
たちです。
 つまり、バタフライの連想は「バター+フライ……こってりとした感じ」「ちょうちょ……軽やかな感じ」というような概念から、さらに「ストリッパーの前隠し……エロチック」などと思考を次第に巡らす人がいるかもしれない。
 そのような結果、歌劇「蝶々婦人」を知らない人は、マダム・バタフライが清楚で薄幸の女性ではなく、むしろ脂っこいしつこい人という想像をする場合が多いでしょう。
 そのようにして、固有名詞は実際とは大きく異なる印象を与えるようです。

 「美しくも短く燃え」(もしかしたら「みじかくも美しく燃え」だったかもしれません。)というスエーデン映画がありました。サーカスにいた美しい女性が、将校と駆け落ちするのです。最後は二人とも自殺をするのですが、その出演女優の名前が「ヘビドク」でした。日本語にすると、ちょっとイメージと異なってしまうようです。
 もっとも、映画の中の名前は「エルビラ・マディガン」という素晴らしい響きの言葉でしたが、……
 女性の名前には、カタカナで書くとイメージが異なってしまうものがあるようです。女性歌手のマリア・カラスなども何となく違ったイメージをいだきます。もっとも、若いころは痩せてすっきりしていたのですが、やがて太りだして体内にサナダムシを飼ってまで痩せることに努力をしたといいます。

 日本人の氏名でも同じようなことがいえます。例えば、
   滝 廉太郎
という名前は、知らない人には「繊細な音楽家」ではなくて、「清廉潔白な武士」を想像するでしょう。「名は体を表す」とは限りません。連想は知識のストックで行います。したがって、未知のことに関して見当違いをすることが多いのです。例えば、
   山東京伝……間に挟まった東京という綴りが目に付く。そのために姓と名の区切りを誤る。
 例えば、ジローという言葉でも、聞く人によって別な意味を連想します。熊谷次郎や二郎、フランス語のジロー、耳くそ、お尻の病気(痔瘻)などさまざまでしょう。

 また、ちょっと男か女かがわかりにくい名前があります。
 例えば、『ガス灯』(1944年アメリカ映画)や『カサブランカ』という映画に出ていたイングリッド・バークマンという素敵な女性です。(もしかしたら、バーグマンだったかもしれません。)しかし、知らないうちはその名前から、何となく男ではないかと思ってしまうのは私だけでしょうか。ピアニストのイングリッド・ヘブラーは、最初から女性だと思っていたのですが、……
 さらに、日本語にすると馴染むまでは何となく親しみにくい名前もあります。

 例えば、「アラン・ドロン」などという名前の印象はいかがでしょうか?
 「ドロン」という言葉の感じから、何となく鈍い感じを受けたり、あるいは忍者が消えたりする光景を思い出したりする人がいるかもしれません。


言葉のイメージ=物の名前や地名から受ける印象

 名前から受ける印象で、想像していたものと異なることがあります。例えば、
   デカメロン(大きなメロン、実際にそういう名前を付けた菓子パン(メロンパン)がある)
   アカデミック、アカデミー(何だか垢で汚れた感じ、みっともない感じがする。学術というイメージが少ない。)
   ブタペスト(ハンガリーの首都です。ブダペストということがあります。ブダ町とペスト町が合併したのです。)
などです。
 さらに、勘違いをしそうな言葉が多くあります。
   高橋不動産……京王線沿線の人は高幡不動尊と読み間違うかもしれません。
   相調二曲……邦楽のプログラムを考えてしまう。(実際には、相模原と調布間にある第二番目の線路がカーブしている部分)

 「暴れん坊将軍」という連続テレビ映画がありました。ふつう、テレビは見ないのですがたまたま唐木田の老人福祉センターで昼の時間にやっていたんです。(2001.06.11(月)) すると、
 <このたびヒットラー氏は……>
と言ったので、びっくりしました。
 しかし、よく考えるとそんなことを言うはずはありません。
 おそらく、「この度、引っ捕らえしは、……」と言ったのではないでしょうか。

 文字のもつイメージも非常に大切です。
 相模原に「清新」という地名があるのをご存じですか? その地名は、いかにも新興住宅街といったすがすがしい響きを感じさせます。しかし、そこは昔から「清兵衛新田」といって開墾をした百姓の名前に由来したものなのです。江戸川区にある「清新」という地名は、どのような由来なのでしょうか?
 けっこう、名前によってイメージが決まってくるものですね。逆に「土左衛門」などは、何となく悪いイメージをもつ名前でしょう。


私という主語

 あまり多く用いてはいけません。
 「私は………」「私が………」のような文が多いと、かえって不自然になります。不必要な主語は、思い切って省略してしまうほうがよいでしょう。
 また、「私」はふつう「わたし」と読みます。もしも「わたくし」と読むときは、ふりがなを振るか、ひらがなで「わたくし」と書きます。

 「ぼくが」「ぼくが」と言って、現在の天皇が皇太子殿下時代にブラウニング夫人に注意されたといいます。


一人称の語り

 一人称の語りは、当人と他人の区別がつきにくい。話を進めやすいが、他人と自分の区別がつきにくいという欠点があるので、注意が必要です。そこで、私は「私は」とするかわりに、そこを「自分は」とすればよいと考えています。


笑いとユーモア

 作品の中には、笑いとユーモアがないと息苦しくなってしまいます。
 太宰治の「斜陽」には、かなりの笑いが含まれています。しかし、「人間失格」にはすでにユーモアや笑いが少なくなってしまいました。したがって読み比べれば、暗い感じがするのは当然でしょう。


ゴミ集めとガベージコレクション

 使っていないメモリを集めて、一まとまりとする作業をガベージコレクションと言いました。日本語に訳すと「ゴミ集め」です。ちょっと安っぽくなるので、わざわざガベージコレクションと言ったのでしょう。最初に翻訳をした人の安っぽくしたくないという心遣いが、何となく感じられるようです。
 言葉におごそかさを残して、仕事を高邁化しようと考えるような傾向があったのかもしれません。
 もっとも最近になって用いられるWindowsでは、不要なファイルをいったん保存しておく「ごみ箱」というのがあります。


同じ音の言葉(同音語)=同音異義語

 文字で書いた場合には、問題をあまり生じません。しかし、朗読をしたときのことも考えておくほうが好ましいでしょう。最初から朗読をする場合のことを考えて作ると、わかりやすい名文を完成することができるようです。

   選択する 洗濯する 心を洗濯する 心の洗濯をする
   肢体と死体などは誤解を生じやすい。姿態
   廃人と俳人
   血管の欠陥
   思索にふける、詩作にふける、試作する、施策する
   公海の航海 石の意志……この2つは作例の『小石』にあったように思うのですが、……

 なるべく耳で聞いたときに、前後の関係がわかるようにしておきたいものです。

 むしろ、ちょっと読みを変えたほうが効果があるかもしれません。2音くらいなら問題はないようですが、4音になると何となく妙な響きがするようです。
   海溝の真上を航海している。……「かいこう」も「こうかい」も4音です。
   石に意志はない。……「いし」も「いし」も2音で、アクセントの位置が異なっています。


似ているが読みが違って効果を考える言葉=「飄々」と「翩翻」

 「推敲」という言葉は、「推」にするか「敲」にするかを考えた結果できたといいます。
 しかし、そんな大げさなことではなくても、言葉の読みを考えて効果をあげるようにしないといけません。
 「風に吹かれてひらひらする」意味の言葉に「飄々」と「翩翻」があります。
 「飄々」は「ひょうひょう」と読みますが、「翩翻」は「へんぽん」と読みます。「へんへん」でも「ほんほん」でもありません。読者が仮に正しく読めなくても、おおよその意味はわかるでしょう。そんな意味で、ちょっと難しめの言葉を交ぜて用いると読むという緊張が少しばかり持続するようです。短編小説の場合などは、読者に飽きられないために工夫をしないといけないのです。


同じ語句の繰返し

 雑草は雑草、バカはバカ……シェークスピア『ユリオレーノス』
 「嬰ハ短調の曲」p39「まったく……」@@@


あいまいな表現

 前後の関係が、はっきりしない表現は避けたほうがよいでしょう。
   「おまえ、ついているな」……運がよい 霊が憑いている


拗音

 拗音は、「や、ゆ、よ、わ」を他のかなの右下に小さく書き表す音です。例えば、
   きゃ くゎ(わは小さい)
などです。
 古い書物では「つ」を小さくしていないものがあります。拗音ではないかもしれませんが、Windowは「ウィンドウ」「ウィンドゥ」どちらでしょうか?

 また、本来ならば「つ」であるのが詰まってしまい、促音でもOKの文字もあります。
 例えば、「かつて」は「かって」と書く人も多いようです。


音の聞こえかた

 音の聞こえかたには、いろいろあります。例えば、にわとりの鳴き声は
   「コケコッコー」(日本式)
   「コッカドゥドゥルドゥー」(アメリカ式)
です。そのようなことは、たくさんあります。
   ひぐらしはカナカナ、ナカナカ
   つくつく法師はツクツクホウシ、オーシンツクツク
   オーノーは「ああ無念」


漢音と呉音

 漢音(かんおん)と呉音(ごおん)は、異なっているときがあります。
 お経などは、ふつう呉音で唱えますが格式の高いところでは漢音で読むこともあるようです。
 漢音は、奈良時代から平安初期に遣唐使などによって輸入されました。
 呉音は、日本では仏教で多く用いられました。
 例えば、「行」という字は漢音では「こう」、呉音では「ぎょう」と読みます。
 他に、唐音、宋音などがあります。


仏教とキリスト教の言葉

 仏教とキリスト教では、同じ文字でも読み方の異なることがあるので注意が必要です。
 例えば、「教典」という言葉です。
 仏教では「きょうてん」と読みます。しかし、キリスト教では「けいてん」と読むのです。そのようなことは、一種の約束だと思って、その通りにするのがよいようです。「福音」も「ふくいん」と読みます。それは「幸福の音信」のことで、「音信」が「おんしん」ではなく「いんしん」だから「ふくいん」となるのです。

 また、ふつうに使う法律という言葉です。しかし、キリスト教の聖書を初めとする文献では、なぜか逆にして「律法(りっぽう)」といいます。そして、その専門家を律法学者などと呼んでいます。
 そのようなことが、かなりあるので慣れてしまうまではちょっと大変です。


文を書く楽しみと生みの苦しみ

 やがて、この作業が一日の楽しみになることでしょう。凝り性の人でしたら、原稿用紙やワードプロセッサに向かうのが待ち遠しくなったりするのではないでしょうか?
 それでも、テレビを見ながらの作業とするのは、ちょっと無理でしょう。しかし、音楽を聞きながら行うと、はかどることが経験的にわかりました。私は、バロック音楽やクラシックの室内楽を聞きながら、この作業をしています。いわゆる、BGM(バックグラウンド ミュージック)です。

 文を書くのは飽きることのない楽しみであり、自己啓発でもあります。はじめはおっくうであったが、やがて文章を書くのが楽しみになることでしょう。とくに高齢になって仕事をしなくなってからは、そのようなことが言えるでしょう。
 つまり、メモ、断片、モチーフなどを育て上げていく楽しみ、もはやそれは盆栽を仕上げたり、子どもを育てるのと似たような楽しみになってくるからです。モチーフを一つの作品に育て上げる苦労と楽しみは、子どもを生んで育てるようなものです。子どもを育てるためには、まず生まなければなりません。
 そして、その生むことが苦しみである場合も見受けられます。母親が子を生む苦しみがあっても、子どもができる楽しみがそれを打ち消します。もうお産はいやだと言った母親が、また次の子を作ります。苦労など、何でもない。そのようなことが、作文にも言えましょう。

 したがって、思いついたことはその都度メモに書き留めることを忘れないでください。ふと思いついたことでもよいのです。メモにしないで、覚えていようとしてもムリで、忘れてしまうことが多いからです。小さいメモ用紙を身近に用意しておいて、必ずそこに記述するようにします。そして、後でそれを文章の素材にするのです。文章にしてしまえば、もはやそのメモ用紙は捨ててしまってかまいません。

 推敲、王安石の文字学、黄絹(五十歩の差)別の場所にある@@@


知的空間を拡張する

 知的空間を広げる楽しみ、これが人生において最高でしょう。物質による財産を増やすことは、必ずしも満足できるとは限りません。むしろ、持ち物を少なくするほうが充足することもあるからです。@@@方丈記
 そうこうしているうちに、やがて文章を書くのが楽しくなって、さらに励みになってきます。しかし、文筆業のようなプロの場合には、そうはいかないかもしれません。
 生きる証明に書くという行為を選択した場合には、あまり苦にならず、むしろ楽しみになってくるでしょう。


生きる目的をもつ

 いったい自分は何を求め、このように毎日あくせくとしているのだろうか? 少なくとも一日に一回、そのように自分に問いかけてみると、少しずつ生活が改善できるでしょう。そして、有意義な日々を過ごし、充足感を得るようになるはずです。
 つまり、目的を明確化しないと、それをどのように処理してゆけばよいかがわからないからです。生活に追われ、雑務に忙しくても、おそらく大きな満足は得られません。また、目的がないと、行動に対する評価ができないのです。その結果、時間だけがいたずらに過ぎていくという焦りを感じるようになります。そしてそれが、心をさいなむのです。したがって、目的を設定することによって、日々を充足させることが大切なのです。

 全部を書きたいという誘惑――有限の身で無限を追うのは危うい
 キリがないことは、ほどほどにやめる――これも非常に大切です。『荘子』に「有限な身体で無限なことをしようとする愚」について書かれています。まして有意義なことでなく、自分の満足感を追うだけのために、そのようなことをするのであれば、まったく愚かしいことでしょう。
 つまり、それは「かえるの腹自慢」にすぎないのです。


百舌の生け贄=忘れることの愚と効用と

 「百舌の生け贄」(もずのいけにえ)という言葉があります。「百舌のはやにえ」ということも同じです。
 図書、着物、道具など、一回だけ使って、その後使わないということが多い。あるいは買っても読まない本、使わない道具などがあります。そして、そのまま買ったことさえも忘れてしまうのです。それは、何と愚かなことでしょうか。
 いったんしまったらしまいっぱなしというのは、いちばんまずい。それと同様に、作ったら作りっぱなし、それでは意味がありません。つまり、買ったものを一度も使わずに忘れてしまうようなものです。そのようなことが、ないようにしてください。


本を書かなかった聖人

 釈尊やイエスは、一冊の本も書いていないといいます。
 釈尊の場合は、死後5百年くらいになってから、弟子たちによって経としてまとめられました。
 イエスの場合も同じです。新約聖書は紀元50年ごろから100年ごろまでに完成したそうです。ここに問題があるのではないでしょうか。それは、歴史上の人物が風化をしたり、伝説化してしまったことです。

 如是我聞の意味……「『このように私は聞きました』ということを私も聞きましたということを……」というような意味でしょう。実際に釈尊から直接に聞いた人は、すでに一人もいないからです。
 『ルカによる福音書』にも「………私は聞いておりますから………」とあります。四福音書とも作者(著者)は、イエスの生前の直接の弟子ではないことが問題です。むろん、十二使徒でもありません。

 また、ソクラテスも自分で書いた書物は一冊も残していないのです。プラトンやクリトンなどがソクラテスの思想や行状を残しているだけなのです。むろん書いた人の考えが、大きく入っています。それは、アリストパーネスが書いたものを見ると、何となくわかってくるでしょう。
 プラトンの場合も、違った意味で同じようなことが言えるのじゃないでしょうか?

 釈尊やイエスやソクラテスは、書く必要がなかったのです。
 『老子』や『葉隠』なども内容が優れていたので、縁があった誰かが内容を残すことになった書物です。
 「中江藤樹は議論より実行を重んじたのだから、著書といっては、別に今日まで伝はって居るようなものもない」と勝海舟『氷川清話』にありました。
 ついでながら、大隈重信の書いたものはあまりなく、残っているものも少ないそうです。


発表をしなかった作品

 デュパルクのチェロソナタ(ピアノとチェロ)の場合です。
 本人が破棄をしたが、死後に孫娘のかばんの中から出てきました。近代フランスの曲としても、おかしくない出来ですので、なぜ破棄をしたのかわからないそうです。一楽章だけのようであるから、本人は未完と考えていたのかもしれません。私は、1994年11月28日のFM放送で聞いたが、しっかりした構成でメロディも美しく、ブラームスのチェロソナタに匹敵するかもしれないと思いました。

 カフカの作品、宮沢賢治の鞄の中の作品などの場合と同じような事情でしょうか?
 宮沢賢治のトランク@@@
 宮沢賢治は生前に、童話風の短編小説『注文の多い料理店』を自費出版しています。詩集では『春と修羅』だけだといいます。つまり、ほとんどの作品がなぜか死後に認められ、読まれるようになったのです。
 ヴィヴァルディの復活についても、同じようなことが言えるでしょう。


文献によることば

 初めに言葉があった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとして、これによらないものはなかった。(『ヨハネの福音書』より)

 「ここに言葉が作られ、できあがっている。こうしなければいけない」などとは言いません。世間の意見にしたがって、改良しなければならないところは、直していきましょう。(ザメンホフ『エスペラントの父ザメンホフ』より)

 言葉は、互いに意味が通じさえすればよい。言葉ばかり達者で、愛想がいい人は、本当のおもいやりや、心からのいつくしみが少ないものだ。(孔子のことば『論語』より)


晩年の著作=空海

 空海は晩年の八十五歳すぎてから、ものに憑かれたように書き始めました。
 むろん、若いときの著作もあり、『三教指帰(さんごうしいき)』などは、23歳のときに書かれました。それは戯曲の形で書かれていて、儒教、道教、仏教の三つの教えを対話形式で比較し、仏教を最も優れたものとしています。
 歳をとると人生経験も豊かになるので、内容も奥深くなっていきます。


晩年の著作=鴨長明

 『方丈記』が書かれたのは、鴨長明が58歳のときであったという。やはり、その歳にならないと、あれだけのことは書けないのかもしれない。単に事実を連ねていくだけでなく、人生観を述べるにはかなりの経験が必要になるからでしょう。


死ぬまで加筆訂正=親鸞の『教行信証』

 親鸞も、やはり晩年になってから多くの著述を残しました。
 親鸞の著した全六巻の大作『教行信証』は、念仏の重要さについて述べています。越後流罪を許された後、関東に留まっていたときに書きためたもので、死ぬまで加筆訂正をしたといいます。しかしそれでも、なお未完の書なのです。有名な「正信偈」は、正しくは「正信念仏偈」といい、『教行信証』の「行の巻」末尾にあります。
 親鸞は三人の妻をめとりました。しかし、いつも貧しかった。
 子供は、どこへいったかわからない者が多い。末娘の彌女は、妾や女中になったのです。また息子の善鸞は、関東の門人たちを惑わしました。親鸞は、ことごとく子供のことで心を痛めたのです。

 だいぶ後になって、明治天皇が親鸞に「見真大師」という大師号をおくりました。
 なお、『歎異抄』は親鸞の言葉を弟子の唯円(ゆいえん)が記したものといいます。


晩年の著述家=貝原益軒

 貝原益軒は37歳のとき、最初の著述『易学提要』を書きました。
 しかし、大著述家としての本領を発揮したのは、七十歳からです。主な著書だけでも99部・251巻に及ぶといいます。84歳で『養生訓』を完成した直後に夫人を亡くし、翌年85歳で没しました。
 『養生訓』に、

   <年老ては、やうやく事をはぶきて、すくなくすべし。事をこのみて、おほくすべからず。>

とあります。


あいさつをしない人

 最近、あいさつをしない人が増えてきました。しないのではなく、できないのかもしれません。
 ソクラテスの言葉に、

   <足のない人や手のない人が向こうからやってきたら、君は怒(おこ)るか?>

というのがありました。あいさつをしないというのは、精神的な欠陥者だというのです。
 現代のような複雑な社会の中では、精神的に書けている人がいても仕方のないことでしょう。


文心方(ぶんしんほう)という名の由来

 医心方(いしんほう)という書物があります。古来の医学に関する記述を抜き書きして、集大成をしたものです。例えば、食物の部には@@@
 ここでは、そのような手法を習って文章における考え方の基本を集め、分類をしてみました。原文の引用については、必ずしも忠実ではなく、句読点や送りがなを補ったり、漢字を現在用いられているものに改めたりしました。また、漢文や文語文を現代仮名づかいの口語文に直したりもしています。
 そんなわけで、疑問のある場合は参考文献にあげた原文を当たっていただきたい。
 なお、医心方の編者丹波@@@のご子孫には、医科大学を作った方がおられる。さらにその末裔には、霊界の宣伝をしている方までいるのをご承知でしょうか?


その他

 ある程度の基準が必要になったときには、この覚えの訂正をしたり、記述を追加していきましょう。


Kuroda Kouta (2004.02.28/2011.02.03)