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 『聖 書』 私的研究



○抽出をしたテキスト

 遅蒔きながら、安心立命を実現する一つの方向として、『聖書』の研究を私的に始めることにしました。
 そして、取りあえず「旧約聖書」と「新約聖書」から数巻を学ぶことにしたのです。本当は、もっと多くを学びたかったのですが、それはムリでしょう。なぜならば、もはや私には人生の持ち時間が多くありません。膨大な聖書を細かく当たるための時間が、すでになくなってしまったからです。
 そこで、旧約聖書からは

   創世の書」(Genesis・「創世記」) 全
   脱出の書」(Exodus・「出エジプト記」) 全
   レビの書」(Leviticus・「レビ記」) 全
   荒野の書」(Numeri・「民数記」) 全
   第二法の書」(Deuturonomium・「申命記」) 全

   旧約聖書抽出テキストあらまし (上記の1〜5の内容をまとめたものです) まだ、完成していません。

の5つを選びました。いわゆる「モーセ五書」です。
 また、新約聖書からは

   ルカによる文書(一)」(Lucas・「ルカによる福音書」・「聖霊による福音書 上巻」) 全
   ルカによる文書(二)」(Actus Apostolorum・「使徒行伝」・「聖霊による福音書」) 全
   ヨハネの黙示録」 全

   新約聖書抽出テキストあらまし (上記の1と2の内容をまとめたものです。) まだ、完成していません。

の2つです。
 他に、パウロの手紙なども読みたいのですが、当面は時間が足りそうありませんので諦めました。近い将来、時間が余ったら何とか手がけてみたいと考えています。
 いっぽうでは、聖書の言葉をいくつか抜き書きをしてみようと考えています。

   聖書の言葉

です。

○作成した目的と利用の制限

 繰り返しますが、人生も最終点に近くなってきたので、私も聖書について改めて学んでみたいと考えました。
 そこで、このテキストを作成した次第です。

 また、他の宗教とも「比較研究」をしてみたいという目的があります。そのテーマとしては、例えば、
   パウロと親鸞
   ルカ(またはテモテ)と唯円
   「旧約聖書」と「法華経(正しい教えの白蓮)」
   放蕩息子とプロディカルサン、その他の説話・教訓的ストーリの宗教間比較。
   イエスと日蓮(一途(いちず)な性格。他宗教の批判など、人物的な比較研究)
   ……
などです。

 しかし、現時点でも自分が気づかないままに「とんでもない間違い」を犯していることでしょう。
 なぜならば、私自身がまだ学問的に未熟であるからです。しかし、これは「私の個人的な研究」なので、そのようなことがあっても致し方がありません。あくまでも、自分自身の研究用に作成したものですから、自分自身が理解できないときは「権威のある文書」でも、「猫に小判」や「豚に真珠」になってしまいます。そんな考え方で、まず自分自身が理解できるものにしたいと考えました。
 インターネットに接続しているので、内容を見てくださる人もいるかもしれません。もしも、その場合には事情を理解していただかないと困ります。

 卜部兼好の言うように「すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。」と思っていても、仁和寺のある法師のように、その機会が私にもなくて、まったく独りよがりだからです。したがって、そんなことはないとは思いますが、もしもあなたがこの資料を信仰のため、またはご自分の研究のために使うときは、内容について大いに注意をしていただく必要があるでしょう。

○記述の基本方針

 カソリックのフェデリコ=バルバロ師の『聖書』を中心的なテキストとさせていただきました。そして、その他に数冊の『共通訳聖書』や古い『文語体聖書』を用いました。
 さらに、芥川龍之介の『西方の人』『続西方の人』や太宰治『駆け込み訴え』なども参考にしました。
 ウナムーノ『殉教者 聖マニュエル=ブエノ』も、かなりこの作業のアドバイスになりました。

 聖書自体についてはブルガタ訳、Q(クー)などの記述も考慮をしました。そして、さらに「死海文書」「クムラン文書」「ナグ・ハマディ文書」などの学術的研究の一部を引用した箇所があります。
 しかし、何と言っても残念なことに、私がヘブライ語やギリシア語が読めないことでしょう。ほんとうは、そこから勉強をしなければいけないのですが、もはや還暦を過ぎて人生に余す時間がありません。したがって、すべてが和訳されたものと若干の英文によるもののほかにありませんでした。それはちょうど、『法華経』をまとめたときに、サンスクリットが読めないので、くまらじゅうの漢訳で我慢をしたときと同じ残念さが残ります。

 なお、テキストや参考文献については、『RIKOホームページ』の「おわり」にある「参考文献など」を参照して下さい。

○記述の基準

【縦書きと横書きの相違など未処理事項】

 最初に原稿とした聖書は、縦書きのものでした。
 それをそのまま横書きのページにインプットしたので、何となくそぐわない箇所があります。
 例えば、数字です。現時点では、数字は原文のとおり漢字のままなのです。それは、インプットしたときの都合ですから、仕方がありません。(2005.11.19現在)
 しかし、原文は縦書きであっても、このホームページは「短歌」などの一部を除いてすべて横書きです。そして、私の聖書の研究も横書きで行いますから、改めてすべてを算用数字に変更をしようと考えています。
 いずれにしても、まだ全体が完成をしていない状態なのです。今後とも、直していこうと思っている次第です。
 言葉の「……」『……』などの利用方法なども、そのままインプットしたので、実際には原則をまだ確立をしていません。

 また、原文では「詩」や「散文」になっていて、短い行の続いているところがあります。
 しかし、このテキストでは節の単位を大切にしているので、なるべく詩の言葉を用いてはいますが、最初の部分を行替えするくらいの配慮しかしていません。つまり、行替えをするところも、下に続けてしまいました。

【神の言葉】

 ふつうの発言や会話は「……」のようにして、さらにその中に言葉があったり、重要なフレーズがあるときは『……』を用います。
 しかし、ここのテキストでは見て読むときに直感的にわかりやすいように、神や主(しゅ)の言葉は、「……」の代わりに〈……〉を、そして『……』の代わりに《……》を用いました。
 慣れるまでは、ちょっと奇異な感じがしないでもないが、見慣れてしまうとわかりやすいのではないでしょうか。とくに、神とモーセとの会話が頻繁に行われているときには、読み間違いによる誤解が少なくなるようです。
 なお、神の言葉であっても、モーセが以前に聞いた内容を間接的に語る箇所については、ふつうの「……」『……』を用いています。

 最近の若い世代の人の利用も考えました。
 さすが、「らぬき」にはしませんでしたが、敬語は煩わしく受け身とも取られがちですゆえに、改めてしまいました。
 例えば、『レビの書』第七章38節にあった記述です。

 <38 主がシナイ山においてモーセに命じられた内容である。主はこの日、シナイの荒野において、イスラエル人に以上の供え物を命じられたのである。>

 どうしても、「モーセに命じられた」と読んでしまいます。主語が離れているから、敬語とは取りにくいようです。
 また、後のほうも何となく「イスラエル人が命じられた」のではないかと、つい読み過ごしてしますでしょう。
 なぜならば、それほど細心の注意を払って文を読む人は少ないからです。
 そこで、次のように改めさせていただきました。

 <38 主が、シナイ山においてモーセに命じた内容である。この日、主はシナイの荒野において、イスラエル人に以上の供え物を命じたのである。>

 また、上の文ではないのですが、「主に……」となっているところが多くあります。
 これなども、「主(しゅ)に……」と読まずに、うっかりとして「主(おも)に……」と読んでしまう慌て者がいるかもしれません。そのような箇所は、括弧の中にふりがなを入れて、間違わないようにもしました。

 しかし、神さまのお言葉でも、何となく別な神さまのように思われる箇所は、〈……〉《……》とはしないで、ふつうの「……」『……』としました。

 <09 神は、バラムのもとに来て言った「あなたのもとにいるこれらの者は何者か?」(『荒野の書 第二十二章09節』)>

 聖書自体には、神の言葉として、神の言葉を書き換えてはいけないというような記述もあります。
 例えば第二法の書にある、

 <02 あなたたちは、私が命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。私が命じるとおりに、神の戒めを守りなさい。>(第四章02節)

 <01 あなたたちは、私が命じることをすべて忠実に守りなさい。それに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。>(第十三章01節)

などです。
 上の文は、聖書に書かれている言葉自体を言っているようです。そして、下の文は実際に行われる信仰の内容に及んでいるのではないでしょうか。
 しかし、何回も読むときに文自体の意味がわからなくては仕方がありません。言葉は、単に情報伝達のイメージでしかないと考えて、その内容をいちばん理解できると考えた形に置き換えたのであって、とくに加えたこともありませんし、また減らしたこともないことをお伝えしておきましょう。

【神と主】

 神と主(しゅ)との使い分けがはっきりしていないように思われる。
 何となく、イスラエル人が呼びかけるときが主であって、一般的に言うときが神のようにも思います。
 しかし、神ご自身がご自分を「主」と言っておられるところもあるので、その辺の使い分けが私にとっては明確でないんです。宗教の教義では、厳密に定まっているのでしょうが、このテキストでは「神」という概念で捉えることにしました。つまり、第三者からは、単純に同じものと考えたのです。
 あまり、私は宗派とか神学には詳しくないのです。
 そんな意味で、「祭司」などという言葉もとくに「司祭」としたり、あるいは「神父」などとはしませんでした。

 主という言葉は「主人」に通じる概念なのでしょう。『創世の書』では、ヨセフは自分自身に対して使っているからです。
 <08 私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神が私をファラオの顧問、宮廷全体の、エジプト全国を治める者としてくださったのです。
 09 急いで父上のもとへ帰って、伝えてください『息子のヨセフがこう言っています。神が、私を全エジプトのとしてくださいました。ためらわずに、私のところへお出でください。>
 そのような箇所はそのままにしておきました。
 また、神と主が続けて使われているような箇所も、そのまま残しておきました。

【神さまとイエスさま】

 旧約の神さまには大変失礼かとも思いましたが、その敬語を省略した文章があります。つまり、ある箇所では何となく神さまと人間が対等な関係にあるような会話のしかたが、平然となされているところが生じました。
 単語の敬称も、かなり省略をした場合があります。
 例えば、「み使い」「み言葉」などは、単に「使い」「言葉」などとしました。さらには、単に「天使」などとしたところもあります。

 また、新約でもイエスに対して弟子たちが、いわゆる「Q(クー)」の時点でのように、まだ「神」としてではなく「先生」というか「義の教師」として、心から尊敬しているような会話方法になってしまったところが多くあります。
 『ルカによる福音書』の第二十二章11節に、イエスの言葉として
 <家の主人に、「先生が弟子たちとともに過ぎ越の食事をする部屋はどこか」と言いなさい。」……>
のような記述があるからです。
 イエスを陥れようとしたサドカイ人も、同じく第二十章28節で
 <先生、ある人に兄弟があり、その人が結婚したのち子なしで死んだら、……>
というように「先生」と言っています。
 また、イエス自身が「義の教師」だったわけですから、当然のことながら「先生」と呼ばれていたわけです。
 以上は、原典を親しみやすく、また読みやすくするために考えた私なりの工夫なのです。

【文を読みやすくした】

 何度も、何度も繰り返して読む文章であるので、思い切って文を短くし、読みやすくしました。
 つまり、長い文は途中で区切りました。あまりにも息の長い文章であると、読んでいて疲れてしまうからです。
 また、その節と次の節の間に時間の隔たりがかなりある場合には、行を空けるようにしたところがあります。そうしたほうが文を読んでいて、何となく理解がしやすくなるからです。
 さらに、文の構成には関係なく、行を空けたところもあります。あまり長いと、読むときに行とばしがおきたりして、読みにくくなってしまうからです。

 なるべく節で文章が切れるようにして、読みやすくするための工夫もしました。そんなために、次の節の最初に「そして、」「そこで、」「すると、」などと補った場合があります。
 当然のことながら会話の部分、つまり「」から始められる一連の文章は、数行にまたがって続き「」で終わることもあります。

 ふつう、一つの章が内容のまとまりです。しかし、度重なる追加・変更などによって、かなり内容が増えてしまったのではないでしょうか。おそらく、福音書などは「幸福の音信」という内容の書式さえもが失われてしまって、何となく時間に沿った「伝記」や「行状録」のような形になってしまったようです。そこで、章をいくつかに区切って内容に関する「小見出し」のようなものを付けてみました。内容を区切りを示して読みやすく、数行をまとめて意味をわかりやすくするためです。つまり、読むときの呼吸を大幅に楽にして、目の疲れなどを軽減するのが目的です。例えば、

【人間の創造】

-- 神が、地と天を造ったときのこと。
05 地上の野には、まだ木も草も生えていなかった。神が地上に雨を送らなかったからである。また、土を耕す人もいなかった。

   …… 

【弟子たち】

12 それから弟子たちは、オリーブと呼ばれる山からエルサレムに帰った。その山はエルサレムに近く、安息日の道のりのところにある。
13 彼らは、泊まっていた家の階上にある部屋に上がった。ペトロ・ヨハネ・ヤコブ・アンデレ・フィリポ・トマス・バルトロマイ・マタイ・アルファイオスの子ヤコブ・熱心党のシモン・そしてヤコブの子ユダの十一人であった。
14 これらの者たちはみな、女たちやイエスの母マリア、イエスの兄弟たちとともに、心を合わせて、祈りと嘆願をして、そこにとどまっていた。

   ……

などのようにです。
 なお、例として示した上記の文章の上は「1 創世の書(Genesis・創世記) 全」の第二章の一部分、下は「2 ルカによる文書(二)(Actus Apostolorum・使徒行伝・聖霊の福音書) 全」の第一章の一部分です。
 つまり、【……】が小見出しなのです。そして、「05」「12」「13」「14」などが、現在の聖書の節番号です。
 なお、「--」となっているのは、前の小見出しのところから続いていたり、さらには前の章から続いている節の一部を示しています。

 漢字とかなの交じり工合なども配慮をして、読みやすくしました。また、句読点を増やして、読みやすくもしました。
 むずかしい言葉をやさしい言葉に言い直したり、読みにくい言葉を読みやすい言葉に言い直したりもしました。

 また、ちょっと記述が煩雑になって、意味が間違いがなくわかる同義反復は簡単にしてしまいました。
 例えば、
   石で打ち殺したので、彼は死んだ。(レビの書 第十五章36節)
は、読み過ちがないと思われたので、短くして
   彼を石で打ち殺した。
などのようにしました。

 翻訳をされた原文にある現在形・過去形の区別は、おそらく原典に忠実であろう。しかし、小説などの日本語では前後の関係から、その辺りはかなりフレキシブルである。そんなわけで、このテキストでは代名詞などとともに、日本語として読みやすい形に改めてしまった。しかし、もしかしたら、重大なミスがあるかもしれません。

【節番号を行頭に付け、段落の見出しを加えた】

 節の番号は、すべて2桁としました。
 つまり、第1節は「01」、第2節は「02」というように第9節「09」までは、前に「0」を付加したのです。
 そして、いわゆる聖書にある節の番号が、聖書自体の追加・訂正が頻繁に行われた後の現在でも、ある程度の意味が残っているものと考えました。そこで、それらをすべて独立をした文章にしたのです。
 したがって、意味段落などは1行の空き行をもって示すようにしてあります。そして、簡単な見出しを【……】のような形で、読んでいてわかりやすくするように意味段落に付けました。
 むろん、意味の切れ目などにも、新たに1行の空き行を入れたのです。
 しかし、なるべく「節の中で一つの文」としたかったために、句読点が不自然になってしまったところもあるでしょう。とくに、次の節へ続いている文の場合には、抵抗がないつなぎ方の工夫をしたのですが、果たしてどうでしょうか。
 なお、段落や節の最初の文字の書き出しに行う「一字下げ」は、まったくしませんでした。これは、最近の文章が多くそうなっていることを何となく模倣したものです。

【節が段落にまたがる場合】

 かなりの回数による改訂が現在の聖書に行われているために、原文の節が不自然になっているところがあります。つまり、段落に分けようとすると、途中で分けざるをえない節があるのです。
 そのようなときは、次の段落には節の2桁番号を示さずに「--」としてあります。つまり、その次の文章は、前の節番号に含まれていた内容ということを示しています。

【括弧・やくもの・句読点の利用】

 本来ならば「……。」『……。』となるべきところを「……」『……』のように、文末の「。」を省略しました。
 また、カギカッコの外の「。」つまり「……」。のようなときと、二重カギカッコの『……』。のような場合の「。」も思い切って省略をしてしまいました。その場合、文が次に続くときは1文字分のスペースを入れてあります。

 さらに、前にある文章の最後の句読点「。」「、」を省略してカギカッコに入ることがあります。
 例えば、

 先生が言った。「恐れることはない。……」

のような表記を

 先生が言った「恐れることはない。……」

のようにです。

 人名や語句が対等に並ぶ場合は、原則として「、」ではなく「・」を用いました。
 そのために、一人の人名の中の区切りには「・」ではなく「=」を用いました。
 例えば、

 <箱船から出たノアの子らは、セム・カム・ヤフェトであった。>(『創世の書』 第九章 18節)
 <そのころチザル=アウグストから、全世界の人口調査を命じる詔勅が出た。>(『ルカによる福音書』 第二章 1節)

などのようにです。

【半角のスペース】

 なるべく句読点や括弧・やくものなどを利用して、読みやすくしました。しかし、それでも勘違いをしやすい箇所には、半角のスペースを用いたところがあります。
 例えば、次のような文章
   ひらがなばかりではちょっとわかりにくくまごついてしまうことがないともかぎりません。
   無論漢字でも同様誤解御判断を不注意無意識でする。
は、ちょっと読みにくいので、
   ひらがなばかりでは ちょっとわかりにくく まごついてしまうことが ないともかぎりません。
   無論 漢字でも同様 誤解 御判断を不注意 無意識でする。
などのようにしてあります。

【章や節の最初にある、書き出しの接続詞は省いた】

 文の冒頭にある、「さて、」「そこで、」「そのようにして、」などは省いてしまいました。
 それらの言葉がなくても、文意がわかるからです。そのために、ちょっと唐突な感じの書き出しになったところもあるが、むしろそのほうが単刀直入に入っていけて理解がしやすいのではないでしょうか。

【常用句でも馴染みのないものは省略した】

 「エジプトへ上って行く」「エルサレムへ下って行く」などという常用句も、あまり土地勘や歴史感のない私たちには、地形の上下や都という概念がわかりにくい。そこで、単に「エジプトへ行く」「エルサレムに行く」などとしてしまった。
 文章の前後関係で、どうしても「上って」「下って」が省略できないときは「向かって」「やって」などに変更をして、「向かって来た」「やって来た」のような置き換えをして残した。

 また、旧約聖書の規定の中にある「買い戻し」というような私たちに馴染みの薄い概念については、単に「救い」などというように置き換えてしまった。実際には、意味が異なるのであろうが、文章自体を理解できなければ意味がないと考えたからである。

【代名詞を省いたり、言い換えたところもある】

 「わたし」「わたしたち」は「私」「私たち」としました。そのほうが大抵の場合、読みやすいからです。
 また、漢字が続くような場合に、「全部」や「皆」を「すべて」に置き換えたりもしました。
   その土地全部全員一致で放牧地にした。
などは、
   その土地すべてを全員が一致して放牧地にした。
などとして、読みやすくする工夫をしました。
 不要な接続詞は省いたが、それがない箇所でも文の意味をわかりやすくするために逆に接続詞を追加した箇所もかなりあります。

 「彼は、彼らに彼らが集まった……」などと、原文をそのまま訳したような箇所は、自然になるような形に書き換えました。そのため、わかりきった代名詞は省いてしまいました。
 逆に、単に「彼は、……」などとあって、ちょっと文意がわかりにくい箇所は、「イエスは、……」などと名前に置き換えたところもあります。

 神のお言葉であっても、代名詞が多くあってかえってわかりにくい場合があります。原典を忠実に和訳したためでしょうか。かえって読みにくくなっているようです。
 例えば、次の文章です。

 <01 これは、あなたたちの神が、あなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。(第二法の書 第6章01節)>

 そこで、思い切って

 <01 これは、神が教えよと命じられた戒めと掟と法であり、渡って行って得る土地で行うべきもの。>

のようにさせていただきました。
 なぜならば、前後の関係からモーセが言っている言葉ということがはっきりしていて、しかも民に話しかけているのですから、読む場合には「あなたたち」がないほうが、直感的にはわかりやすいのではないでしょうか。

【ひらがなと漢字の置き換え】

 ひらがなを漢字にすることによって、読みやすくしてみました。
 例えば、「ほかに」を「他に」などとしました。
 とくに、ひらがなが続いているときには、読み間違えをしやすいようです。

 ひらがなを漢字にすることによって、読みやすくするのと反対に、漢字をひらがなして抵抗を少なくした言葉もあります。
 例えば、「既に」を「すでに」、「及び」を「および」、「早速」を「さっそく」、「甚だ」を「はなはだ」などとしました。
 その他、「一体」を「いったい」などがあります。

 また、読みやすくするために読点「、」を付けた言葉もあります。
 例えば、「しかし」「そして」などは、「しかし、」「そして、」などとして、読みやすい呼吸にしてみました。そのような言葉には、他にも
   「さて、」「だが、」「すると、」「すでに、」「ところで、」「むしろ、」
などがあります。
 そのようにしたのは、文章の初めにある場合で、文章の途中にある場合には必ずしもそうではありまえん。つまり、次の文章のような形になることがあります。
   つまり、問題はその解釈なのです。聖書と言っても、つまり人間の書き記した部分がかなりあるので、……
 言うならば、読む呼吸の負担を少なくして、読みやすくしただけであり、とくに意味はありません。

【語句の統一】

 なるべくわかりやすく、やさしい表現で語句を統一しました。もしかしたら、学問的に間違っている箇所があるかもしれません。また、無知のために専門用語から外れてしまったのではないかと心配です。そのようなことが明白になったら、その時点で改めるつもりです。
 例えば、下記のような語句を用いました。
 イスラエルの子ら ← イスラエルのすべての人々 イスラエルの人々
 裁判官 ← 裁判人

 捧げる人 ← 奉納者
 供え物 ← 献げ物 奉納品 奉納物 献納物
   全焼の供え物 ← 全焼の献げ物
   和解の供え物 ← 和解の献げ物
 償いの(つぐないの) ← 贖罪の
 出会いの幕屋 ← 臨在の幕屋 出会いの住まい

 なるべくわかりやすく、やさしい表現にしようと考えたために、言葉の統一がなされていません。共通訳聖書とカソリック版との違いなどについては、まったく考慮をしていないのです。「モーセ」(共通訳)というか「モーゼ」(カソリック版)というかなども、そのときどきで簡単なほうを選びました。したがって、専門家から見ると変な文章になっていると思います。しかし、命名については、自分自身がわかればよいという基本的なことから出発しています。
 したがって、例えば地名の「カペルナウム」「カファルナウム」なども、簡単な「カペナウム」としてしまいました。また「ファリサイ人」も「パリサイ人」としました。

 また、それぞれの書でとくにわかりにくい言葉をやさしく言いまわした言葉には、次のようなものがあります。

 創世の書」(Genesis・「創世記」) 全

 脱出の書」(Exodus・「出エジプト記」) 全

 レビの書」(Leviticus・「レビ記」) 全

 荒野の書」(Numeri・「民数記」) 全

 第二法の書」(Deuturonomium・「申命記」) 全

 受け継ぐ ← 嗣業の  受け継ぎ ← 嗣業  ……
 ルベン族 ← ルベン人
 ガド族 ← ガド人
 レビ族 ← レビ人

 ルカによる文書(一)」(Lucas・「ルカによる福音書」・「聖霊による福音書 上巻」) 全

 ルカによる文書(二)」(Actus Apostolorum・「使徒行伝」・「聖霊による福音書」) 全

 ヨハネの黙示録

○個人的な研究の成果

 一連の研究結果は、改めて別に示します。(ルカによる文書(二)の後に、別ページとして付加します。)
 そこには、アルカナや奥義などの個人的な解釈が、わかりやすい形で述べられることでしょう。
 しかし、それはバチカンなどで行われた決定とは、かなり異なっている箇所があったり、私が勘違いをして間違っている考え方があったりするかもしれません。なぜならば、ここでは非常に大きな立場から「聖書」を捕らえているからです。

 つまり、時間と空間によって考えられ、支えられている現代の最先端の科学よりも、さらに先に進んでいると思われる理論に基づいた大きなスケールで、「時間の可逆性」(日々用いている時間とは異なって前後できるという理論)や「空間の同所性」(同じ場所に、同時に別な物が存在できるという理論)などを研究しているからです。例えば、映画のフィルムを前後させて未来のことを見たり、身体の小さな毛穴に何万柱もの神や仏が同時におわしますというような理論なのです。
 それは、ちょっと奇想天外といった範疇に入ってしまうかもしれませんが、……


Kuroda Kouta (2005.11.10/2007.03.25)