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 歴代秀歌



はじめに
『古事記』
 尾張に……一つ松……
『日本書紀』
 大和(やまと)は国のまほろば……<日本書紀 日本建命(やまとたけるのみこと)>
 級照(しなて)る……<日本書紀 巻二十二>
『万葉集』
 籠(こ)もよ……<万葉集 巻一(一) 雄略天皇>
 磐代(いわしろ)の……<万葉集 巻二挽歌(一四一) 有間皇子>
 家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を……<同(一四二 前歌と連作)>
 あしひきの山の雫(しづく)に妹(いも)待つと……<万葉集 大津皇子>
 青丹(あおに)よし寧楽(なら)の京師(みやこ)は……<万葉集 小野老(おののおゆ)>
 なかなかに人とあらずば……<万葉集 巻三雑歌(三四三) 大伴旅人>
 あな醜(みに)く……<同(三四四)>
 生者(いけるもの)……<同(三四九)>
 子等を思ふ歌一首並びに序……<万葉集 巻五(八〇二・八〇三) 山上憶良>
 士(おのこ)やも……<万葉集 巻六(九七八) 山上憶良>
 天平十年 戊(つちのえ)寅(とら)……<万葉集 巻六雑歌>
 石激(いわばし)る……<万葉集 巻八雑歌(一四一八) 志貴皇子>
 秋の野に……<万葉集 巻八 山上憶良>
 多摩川に曝(さら)す……<万葉集 巻十四東歌の相聞(三三七三)>
 赤駒(あかごま)を……<万葉集 巻二十(四四一七) 宇遅部黒女>
 石麻呂に……<万葉集 巻十六雑歌(三八五三・三八五四) 大伴家持>
『古今和歌集』
 やまひして弱くなりにける時よめる……<古今和歌集 巻十六哀傷歌 在原業平>
 わたの原八十島かけて漕ぎ出(い)でぬと人には告げよ海人(あま)の釣り船<小野篁>
『後拾遺和歌集』
 あらざらん……<後拾遺和歌集 巻十三恋歌三 和泉式部>
『千載和歌集』
 さざ浪(なみ)や……<千載和歌集 巻一 読人知らず>
西行
 身をすつる人は……<西行>
 さびしさに……<新古今和歌集 巻六冬歌 西行法師>
 願はくば花の下(もと)にて……<山家集(さんかしゅう) 西行>
 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな<百人一首 西行>
 花見んと群れつつ人の来るのみぞ……<西行>
 ながらへむと思ふ心ぞ……<西行>
 思ひ出づる過ぎにしかたを……<西行>
『金槐集』
 ふく風のすずしくもあるか……<金槐集(一五八) 源実朝>
 あづさ弓……<金槐集(五八七) 源実朝>
 世の中は鏡にうつる影に……<金槐集(六一四) 源実朝>
 大海の磯もとどろに……<金槐集(六四一) 源実朝>
細川幽斎
 いにしへもいまもかわらぬ……

釈契沖
 われを知る人は君のみ……<釈契沖>
十返舎一九
 この世をば どりゃおいとま……<十返舎一九>
良寛
 のみしらみ音(ね)に鳴く……<良寛>
橘曙覧
 蟻と蟻 うなずきあひて……<橘曙覧>
 たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時<橘曙覧>
 たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人を見しとき<橘曙覧>
 たのしみは世に解きがたくする書の心をひとりさとり得し時<橘曙覧>
 たのしみは数ある書を辛くしてうつし竟(お)へつつとじて見るとき<橘曙覧)
四方赤良(よものあから)=蜀山人(しょくさんじん)
 世の中に かほどうるさき……<四方赤良(よものあから)=蜀山人(しょくさんじん)>


はじめに

 歴代秀歌なんちゃって、ちょっと大げさだったかなぁ。
 今までにメモったものをここに集めた。したがって、まんべんなく記述をしてあるのではなく、私の好きな人の作品を一方的にインプットしたにすぎない。そんな意味で、数の多い西行の歌がとくに優れているというわけではない。

 各項は作者や出展、そして冒頭の部分を示した。中には、作者未詳のものもある。また、その時点で私には出展がわからなかったので作者だけのものもある。
 続いて、その部分の全文。そして作品の「概略」を自分(黒田康太)なりに示したものが多い。そんなために、間違った解釈があるかもしれない。解釈は、あくまでも私的なものであるから、引用などには注意をしてほしい。また、学生さんは、試験の回答などには用いないほうがよいでしょう。

 さらに「概略」の次の段落に、思いついた「覚え」や「メモ」を残した。
 これも、あくまでも私の場合。あなたの場合は、おそらく異なってくるでしょう。

 はじめは「歴代」として作り始めたページではあるが、現代に近い作品も他に入れ場所がないので、後のほうに含めてしまった。そんなわけで、変な「歴代秀歌」ができてしまったんです。


『古事記』

 <尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾兄(あせ)を 一つ松 人にありせば 太刀佩(は)けましを 衣(きぬ)着せましを 一つ松 吾兄を>

 『古事記 中巻』にあります。
 尾張の国にまっすぐに向かっている尾津の崎に生えている一本松よ。もしもそなたが人であったら、太刀を帯びさせように、着物も着せように。愛すべき一本松よ。

 実際には、倭建命(やまとたけるのみこと)がかつて置き忘れた太刀があったのをふたたび来て見て、喜んだ歌と言う。
 後述する西行の歌にも似ているのがある。

(注) 倭建命(やまとたけるのみこと)は日本武尊とも書く。
 その晩年。南や北に征伐を次々と命じられて、健康をそこなってしまった。もしかしたら、天皇が乱暴な彼を都におきたくなかったのかもしれない。疲れ果てて尾張の尾津の崎まで戻ると、そこにやはり一本松があった。前に、その下で食事をしたときに忘れてしまった太刀も、そのまま残っていた。そこで、上の歌を作った。
 ある村に着いたとき、「足が三重に曲がってしまった。ひどく疲れた。」と言ったので、そこを「三重」と呼ぶようになった。さらに進んで、伊勢の国で故郷の地を思って、次の「大和は国のまほろば……」を作ったという。


『日本書紀』

 大和(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣山こもれる大和し うるはし
    <日本書紀 日本建命(やまとたけるのみこと)>

 私は、なつかしい古里の大和まで行けそうにない。青々とした山が、幾重にもなっている大和の国が恋しい。

 健康を害してしまったときの望郷の歌。日本建命が景行天皇の命令で、東国を苦労して平定した後のことである。


 級照(しなて)る 片岡山に 飯(いい)に飢(え)て 臥(こや)せる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝成りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ
    <日本書紀 巻二十二>

 片岡山に食べものに飢えて倒れている旅人は憐れなもんだ。お前は親が無くて生まれたのか、そうではあるまい。妻はないのだろうか、あったに違いない。だが、飢えて倒れているこの旅人よ、あああわれではないか。

 行き倒れを歌った作品。
 この時代の旅が、現在では考えられないくらい困難であったことが偲ばれる。


『万葉集』

 籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この岳(おか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞(いえき)かな 告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家をも名をも
    
<万葉集 巻一(一) 雄略天皇>

 何とよい籠を持ち、堀串(ふくし=土を掘る道具)も持っていて、この丘で菜をつんでいる娘さんよ。あなたの家は、どこかを聞きたい。さぁ言ってください。大和の国はすべて私が治めています。全部をですよ。この私にこそ、あなたの家もあなたの名も、教えてくれるでしょうね。

 万葉集の最初にある御製(おおみうた)です。古い時代に、天皇でありながら何とものどかな求婚をしているものと感心をします。


 磐代(いわしろ)の濱松が枝(え)を引き結び 真幸(まさき)くあらば また還(かえ)り見む
    <万葉集 巻二挽歌(一四一) 有間皇子>

 家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕 旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る
    
<同(一四二 前歌と連作)>

 磐代の海岸の松の枝と枝を結びつけておくが、その願いが叶って何事もなく都に帰ることになったら、そのときはこの道を通ってその結んだ枝を見るだろう。

 家では食器に盛って食べる飯だが、旅のことだから椎の葉に盛って食べている。

 十九歳のとき謀反を企てたが、発覚して捕らえられた。その護送の途中、紀伊の藤白坂で処刑された。
 そのいきさつのあらまし。
 大化の改新の後、都は飛鳥に戻ったのであるが、三度も宮殿の放火事件があって、世情はおだやかでなかった。孝徳天皇の皇子である有間皇子(有馬と書いた本もある。和歌森太郎『日本の歴史』など。有間山は有馬山とも書くので、どちらでもよいのかもしれない)の屋敷に、改新に出入りをして何かを企んでいたようだ。そこで、改心派は有間皇子を捕らえたのである。
 山上憶良は、有間皇子の運命を哀れんで作品を残している。(一四五のこと)


 あしひきの山の雫(しづく)に妹(いも)待つと吾れ立ち濡れぬ山の雫に
    <万葉集 大津皇子>

 あなたを待っていて、山の雫に濡れてしまった。

 何のこともない歌であるが、何となく哀れをもよおす。
 大津皇子(おおつのみこ)は、天武天皇の第三王子であるが、天皇の死後に謀反の罪に問われて刑死した。


 青丹(あおに)よし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にお)ふが如く今盛りなり
    <万葉集 小野老(おののおゆ)>

 奈良の都は咲いている花が匂うように今や繁栄をしている。


 なかなかに人とあらずば酒壺(さかつぼ)になりにてしがも酒にしみなむ
    <万葉集 巻三雑歌(三四三) 大伴旅人>

 あな醜(みに)く 賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば 猿にかも似る
    
<同(三四四)>

 生者(いけるもの)つひに死ぬるものにあれば今(こ)の世なる間(ま)は楽しくをあらな
    <同(三四九)>

 なまじっか人間ではなく、酒壺になってしまいたい。そうすれば酒に浸(ひた)っていれる。

 ああ見苦しい。賢ぶって酒を飲まない人をよく見ると、何と猿に似ているじゃないか。

 生きていても最後は死ぬんだから、この世にいるうちは楽しくしたいもんだ。

 万葉の時代にも、かなりの飲んべえで、楽観的な人がいたことに驚かされる。


 子等を思ふ歌一首並びに序

 釈迦如来、金口(こんく)に正に説き給はく、等しく衆生を思ふこと羅ご羅の如しと。又説き給はく、愛は子に過ぐるは無しと。至極の大聖すら尚子を愛(うつく)しむ心あり。況して世間の蒼生(あおいぐさ)、誰か子を愛(お)しまざらめや。

 瓜食(は)めば子等(こども)思ほゆ くり食めば ましてしぬばゆ 何処より来たりしものぞ まなかひに もとな懸りて安寝(やすい)しなさぬ

 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる寶 子にしかめやも

    <万葉集 巻五(八〇二・八〇三) 山上憶良>

 釈迦如来がみずから言ったことには、「平等に人間をかわいいと思うことは、我が子のラゴラと同じである。」 そしてまたおっしゃった。「愛は、子供に対するもの以上のものはない。」 極めて優れた大聖人ですら、やはり子供を愛する心がある。まして、世間一般の人々で、誰が子供を愛さないものがあろうか。

 瓜を食べると、子供のことを思う。栗を食べると、なおさら思い偲ばれる。子供の面影は、いったいどこから来たものであろうか。眼前に、その姿がちらついて夜も安らかに眠れない。

 (反歌)銀も黄金も宝玉も何になるであろうか。それらの宝は、子供に及ぶことがあろうか。

 愛児を都に残して、遠く赴任をしていたときのものと思われる。また、亡き子を偲んだのではないかとも言われる。いずれにしても、山上憶良は人一倍子煩悩であったようだ。


 士(おのこ)やも空しかるべき万代(よろづよ)に語りつぐべき名はたてずして
    <万葉集 巻六(九七八) 山上憶良>

 男ならば、何の手柄もなく、後世に語り継がれるようなことをしないで一生を終わることは、何とも空しい。

 山上憶良が不知の病におちいったときに、見舞いの客に儀礼として述べた歌。だから、自分では空しい生涯を送ったとは必ずしも考えてはいなかったのではないか。


 天平十年 戊(つちのえ)寅(とら) 元興寺の僧のみづからなげき歌一首
 白珠は人に知らえず 知らずともよし 知らずとも われし知れらば 知らずともよし

    <万葉集 巻六雑歌>

 海中にある真珠のように、私の価値は人に知られない。人が知らなくても、かまわないんだ。私自身が自分の価値を知っていれば。

 五・七・七・五・七・七であるから、旋頭歌である。この時代にも、「認められない自分の才能」を嘆いた僧がいたということがわかる。後に、釈契沖(しゃくけいちゅう)の歌がある。


 石激(いわばし)る垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の 萌え出(もえい)づる春になりにけるかも
    <万葉集 巻八雑歌(一四一八) 志貴皇子>

 ほとぼしり落ちている滝のほとりに生えている蕨が、新芽を出す春になったなぁ。

 春になった喜びを皇子が何かの折りに読んだものであろう。志貴皇子(しきのみこ)は不運であったという。


 秋の野に咲きたる花を指折りかきかぞふれば七種(ななくさ)の花
 萩(はぎ)が花 尾花(おばな)葛花(くずばな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふじばかま) 朝顔の花
    
<万葉集 巻八 山上憶良>

 秋の野に咲いている花を指折り数えてみると七種類の花がある。
 それは、萩の花、尾花、葛の花、なでしこの花、そして、女郎花(おみなえし)の花、藤袴の花、朝顔の花である。

 「秋の野の花を詠める歌二首」とある連作であるが、前のは短歌、そして後のは旋頭歌である。作品に文芸的遊技を詠み込んだ兆しではなかろうか。


 多摩川に曝(さら)す手作(てづくり) さらさらに何ぞこの子のここだ愛(かな)しき
    <万葉集 巻十四東歌の相聞(三三七三)>

 多摩川で晒(さら)している手織りの布。そんなことを考えると、見るごとにますますこの女(ひと)は、非常にかわいいものだ。

 武蔵の国(今の東京都)とあるが、調布から田園調布くらいまでのあたりであろうか。そんな光景は、すでに見られないが当時が偲ばれる。なお、高田の馬場駅の下を流れる神田川では、昭和30年代ころまでは、布を晒す光景が見られた。神田川は井の頭公園のお茶の水が源泉であるので、水質がよかったのであろう。

 調布駅の南口を少し行くと、バスどおりに出る。そこの交差点に下のような石に書かれた記念碑のようなものがある。




 もう少しアップすると、この短歌が絵入りで書かれているのがわかる。絵のほうに力点があるらしく、その解説が右下にあるようだ。





 赤駒(あかごま)を 山野に放し捕(と)り不得(かに)て 多摩の横山 歩(かし)ゆか遺(や)らむ
    <万葉集 巻二十(四四一七) 宇遅部黒女>

 多摩の横山に赤駒が放牧されているが、広いのでどこに行ったかわからない。(ちょっとこの解釈には、自信がない!)

 京王線のめじろ台駅の北1キロメートルくらいのところに、この石碑があった。八王子市の万葉公園内である。また、多摩市の南端に走っている尾根幹線に沿って、昔を偲(しの)ぶ「よこやまの道」という緑道が作られている。そのまま「横山の道」としなかったのは、往時と異なるルートが含まれているからかもしれない。つまり、「多摩の横山」は最近いなって、そのほとんどが宅地になってしまったのだろう。





 石麻呂にわれ物申す夏痩せに よしといふものぞ鰻(むなぎ)漁(と)り食(め)せ
 痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を漁(と)ると川に流るな

    <万葉集 巻十六雑歌(三八五三・三八五四) 大伴家持>

 石麻呂さん、申し上げます。あなたは痩せているが、夏痩せには鰻がいいんですよ。鰻を捕って食べなさい。
 でも、痩せていても生きていればいいんで、それでも鰻を捕ろうとして川に入り、流されてしまわないように。

 いずれも大伴家持(おおとものやかもち)が、皮肉や諧謔を盛り込んだ作品。後世の狂歌の起原ともいうべきか。この二首を見たときの石麻呂さんの顔が見たいものである。


『古今和歌集』

 やまひして弱くなりにける時よめる
 つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日(きのう)けふとは思はざりしを
    <古今和歌集 巻十六哀傷歌 在原業平>

 最後には行くところと前から聞いていたが、自分自身の死が今日明日(きょうあす)とは思わなかったよ。

 病にかかって重体になったときに詠んだのであろうか。五十六歳で没しているから、その頃のことであろう。とても平明な調べではあるが、この才人が最後に到達した心境かもしれない。


 わたの原八十島かけて漕ぎ出(い)でぬと人には告げよ海人(あま)の釣り船
    <小野篁>

 大海原(おおうなばら)の多くの島々に向かって、船を漕ぎ出したと都の人に知らせてくれ。漁師の釣り船の人よ。


『後拾遺和歌集』

 あらざらん このよのほかの思ひ出に 今ひとたびのあふこともがな
    <後拾遺和歌集 巻十三恋歌三 和泉式部>

 病気が重くなってきて、もう余命もありません。あの世に行く思い出として、せめてもう一度お目にかかっておきたいものです。

 淡々としているが、かなり激しい思いが籠められているのではないか。小倉百人一首にも採られている短歌である。


『千載和歌集』

 さざ浪(なみ)や しがの都は あれにしを 昔ながらの山桜(やまざくら)かな
    <千載和歌集 巻一 読人知らず>

 滋賀の古都は荒廃をしてしまって見る影もない。しかし山桜は昔のままに咲き誇っている。

 『平家物語』で有名な平忠度(たいらのただのり)の作品である。朝敵であったので、千載和歌集では「読み人知らず」となっている。平明な調べではあるが、平家の運命などを考えると感慨無量になる短歌だと私は思う。


西行

 身をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけり
    <西行>

 西行は、二十三歳で出家遁世(とんせい)をしたという。
 「すつる」(捨てる)を三回、そして「すてぬ」(捨てぬ)を織り込んでいるところに、「死」や「捨」や「無」を考えていたであろうと思われる


 さびしさに たへたる人の またもあれな 庵(いおり)並べむ冬の山里
    <新古今和歌集 巻六冬歌 西行法師>

 私と同様に、このような寂しさに耐えて暮らしている人がいればいいんだが。そうしたら、この山里に庵を並べて住めるんだがなぁ。

 すべてを捨てて出家をしたわけであるが、自然の寂しさの中にあって、ふと人が恋しくなった西行の心の奥底が何となく感じられる。もしかしたら、西行は鴨長明ほどにも、心が強くなかったのかもしれない。


 願はくば花の下(もと)にて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ
    <山家集(さんかしゅう) 西行>

 できたら桜の花の下で死にたいんだかなぁ。

 その願いどおりに、建久元年(1190年)2月16日、73歳で死んだ。

(注) 西行は、実に桜が好きだったようである。
 なお、桜の歌は『万葉集』にも多くあるが、不思議なことに菊の歌は『万葉集』に一つもない。そのようなことは、喜多村信節『嬉遊笑覧』巻十二(草木)にも書いてあった。


 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
    <百人一首 西行>

 月が「嘆け」と言って、私を物思いにふけらせようとするのだろうか。いや、そうじゃないんだ。実際は、恋の悩みなのに月のせいだといわんばかりに流れ落ちる私の涙なんだよ。

 百人一首86番の西行法師である。元は、『千載集』(恋・926番)。


 花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎(とが)にはありける
    <西行>

 西行は、桜をこよなく愛した人だったけれども、花見の客の騒々しさに嫌気がさしていたらしい。そんなところに、花見の客が続々と押しかけてくる。そこで、西行は「花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎(とが)にはありける」と詠んだ。
 つまり、桜に愚痴ったのである。「桜よ、お前さんが悪いんだ」と。そこへ桜の精が現れて、西行の考え方は人間の考え方で、もともと桜は草木であるから、人間世界でいう咎(とが)などであろうはずがないと言ったという。


 ながらへむと思ふ心ぞつゆもなき いとふにだにもたへぬ憂き身は
    
<西行>

 長く生きようとは、ちょっとも思っていない。嫌って避けたいほどの憂鬱な自分の身体は。

 何ともすごい自己険悪ではないか? と、私(黒田康太)は思う。


 思ひ出づる過ぎにしかたを恥かしみ あるにものうきこの世なりけり
    <西行>

 思い出す過去の恥がある。そんなために、生きているのが億劫(おっくう)になるんだ。

 これも、激しい自己険悪。
 実は、私(黒田康太)も思わず「わっ」と叫びたくなったり、突然に「走り出したり」したくなるような感情や衝動に襲われるときがあるんだ。
 なお、西行の歌には「我が心かな」「我が思ひかな」「心なりけり」という結句が多いと言われる。しかし、私は「心」や「思い」を採らなかった。むしろ、「この世なりけり」というように詠嘆をしているのが、印象的である。
 まったく別のことであるが、西行の心と夏目漱石の『こころ』の先生の心なども、時代は異なっても内奥(ないおう)が似ているのかもしれない。


『金槐集』

 ふく風のすずしくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり
    <金槐集(一五八) 源実朝>

 風が涼しくなってきた。蜩(ひぐらし)が鳴いているので、秋が来たんだなぁ。

 実朝の同じような作品で、
   夏山に鳴くなる蝉の木がくれて秋ちかしとやこゑも惜しまぬ(一四九)
   今よりは涼しくなりぬ日ぐらしのなく山かげに秋のゆふ風(六七五)
などがある。
 山の蝉は、おそらく蜩(ひぐらし)のことであろう。しかし、つくつく法師であったもかまわない。むしろ、「おうしんつくつく」とせわしく鳴くほうが、実朝の心を不安にしたのではないだろうか。


 あづさ弓磯べに立てるひとつ松 あなつれづれげ友なしにして
    
<金槐集(五八七) 源実朝>

 磯に立っている一本松には、友の連れがいないので、いかにもさびしく退屈そうである。

 古事記に「一つ松 吾兄(あせ)を 一つ松 人にありせば 太刀佩(は)けましを」というのがあった。また、西行にも松を擬人化した作品があったと思う。


 世の中は鏡にうつる影にあれや あるにもあらず無きにもあらず
    <金槐集(六一四) 源実朝>

 世の中のことは、あると言えばある、無いと言えばないのではないか。

 「大乗作中観歌」というタイトルが付いている。大乗には、「空観」と「假観」と「中道観」とがある。北条氏によってロボット化された実朝のせっぱ詰まった心情なのかもしれない。


 大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも
    <金槐集(六四一) 源実朝>

 音を立てて寄せてくる波が、岩に当たって飛び散っている。

 何とも雄大な歌ではないか。


細川幽斎

 いにしへもいまもかわらぬよのなかに こころのたねをのこすことのは

 昔も今も変わっていない世の中に、心の中のさまざまな思いを書き残すというのは。和歌やホームページなどに。

 細川幽斎(ほそかわゆうさい 1534〜1610)は、安土桃山時代の武将であり、歌人でもあった。足利義晴・義輝・義昭を経て、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えて重用された。歌人としては、三条西実枝から古今伝授を受けたという。


釈契沖

 われを知る人は君のみ きみをを知る人も多くはあらじとぞ思ふ
    
<釈契沖>

 自分を知ってくれるのは君だけだ。そして、君のことを知っている人も多くはないであろう。

 釈契沖(しゃくけいちゅう)が、下河辺長流(しもこうべ ちょうりゅう)との親交を歌った。


十返舎一九

 この世をば どりゃおいとまにせん香のともにつひには灰さやうなら
    <十返舎一九>

 ぼつぼつおさらばだ。さようなら。

 ちょっとふざけた感じがしないでもないが、なかなか言い得て当を得ている。これでも、辞世の歌か?


良寛

 のみしらみ音(ね)に鳴く秋の虫ならば わがふところは武蔵野の原
    <良寛>

 蚤(のみ)や虱(しらみ)が秋の虫のようにいい声で鳴いたら、わしのふところは武蔵野の野原のように賑やかだろう。

 良寛は、蚤や虱にまでその命を認めた愛情があったようだ。


橘曙覧

 蟻と蟻 うなずきあひてなにか事ありげに走る西と東へ
    <橘曙覧>

 蟻がお互いに何かの合図をして、東西に走り去った。

 橘曙覧(たちばなのあけみ)は万葉調の歌を残した。また、自由画のような奔放さもあるようだ。


 たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時
    <橘曙覧>

 平成6年(1994年)に天皇・皇后両陛下が初めてアメリカをご訪問されたとき、歓迎レセプションでクリントン大統領がこの短歌を引用したと漏れ聞いたことがあります。大統領は、日本文化の精神と日米親善を讃えたそうです。『独楽吟』(どくらくぎん)の第九番目にある歌です。


 たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人を見しとき
    <橘曙覧>



 たのしみは世に解きがたくする書の心をひとりさとり得し時
    <橘曙覧>



 たのしみは数ある書を辛くしてうつし竟(お)へつつとじて見るとき
    <橘曙覧>

 「とじて」の「じ」は、「ち」に濁点です。


四方赤良(よものあから)=蜀山人(しょくさんじん)

 世の中に かほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず
    <四方赤良(よものあから)=蜀山人(しょくさんじん)>

 ぶんぶとは、文武のことであろうか。蚊の鳴き声にかけている。
 時勢を風刺した狂歌も残した。狂歌は短歌と同じ形式であるが、民衆の日常の言葉で皮肉や面白さなどを内容としている。


Kuroda Kouta (2006.10.01/2011.01.02)