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この資料に関するコメント

 意訳 御書要文 全巻



 御書要文上巻

(1) 法華経を信じて、いささかも謗(そしり)を生ぜざらん人は、(その功徳により)余の悪にひかれて悪道に堕つべしとは覚えず。
 法華経を信じ侍るは、させる解なけれども、三悪道には堕すべからず。
 謗法と申すは、違背の義なり。随喜と申すは、随順の義なりさせる。
 無智の者のわづかに浅き随喜の功徳を、四十余年の諸経の大人・上聖の功徳に勝れたる事を顕わさんとして、(法華経では)五十展転の随喜は説かれたり。
 「法華経勧持品」に云く、「諸の無智の人、悪口罵詈などし、および刀杖を加うる者有らん、我等皆当に忍ぶべし」
 (末法になると世間の人は、形式だけの聖人である)権経の比丘を貴しと見て、(一切衆生を救おうとする)実経の人を憎まん。
 悪知識と申すは、甘く語らひ、詐り媚び、言を巧にして、愚癡の人の心を取つて善心を破るといふことなり。
 実には(成仏が)叶うまじき権教に心を移して、僅かに法華経に結縁しぬるをも飜えし。また、人の法華経を行ずるをも随喜せざる故に、師弟ともに謗法の者となる。
 仏の遺言(である「涅槃経」)に依法不依人と説かせ給いて候へば、経の如くに説かざるをば、何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か?

(2) 一切の諸仏・菩薩は、我等が慈悲の父母、此の仏・菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は、ただ「法華経」にのみとどまれりと覚しめせ。
 (念仏により往生するという)仰せの法門は、「さも侍るらん(そうであろう)」 また、世間の人も多くは道理と思いたりげに侍り、ただし(日蓮の)身には此の(世間で重宝されている)義に不審あり。
 一切の聖人、国を捨てて去らば、悪鬼便りを得て乱れ入り。悪風吹いて五穀も成らしめず。疫病流行して人民をや亡さんずらん。
 本尊は、「法華経八巻一巻一品」あるいは「題目を書いて」本尊と定む可しと「法師品」ならびに「神力品」に見えたり。
 本尊の御前にして、必ず(立つか座るか)坐立行なるべし。道場を出でては、(題目を唱えるためには歩いても伏せても)行住坐臥をえらぶべからず。
 常の所行は、題目を「南無妙法蓮華経」と唱うべし。
 志あらん人は、必ず習学して、これを観ずべし。諸経の題目に、これを比ぶべからず。その上、法華経の肝心たる方便寿量の一念三千久遠実成の法門は、「妙法」の二字におさまれり。
 一切の諸仏・菩薩十界の因果、十方の草木瓦礫など(である宇宙どれを取っても)、「妙法」の二字にあらずと云う事なし。

(3) 「妙法」の二字に、諸仏皆収まれり。故に、「妙法蓮華経」の五字を唱うる功徳、莫大なり。諸仏・諸経の題目は、「法華経」の所開(開かれる対象)なり。「妙法」は、能開(開く主体)なりとしりて、「法華経」の題目を唱うべし。
 機も知らず、「法華経」を説かせ給はば、信ずる者は左右に及ばず。もし謗ずる者あらば、定めて地獄に堕ち候はんずらん。
 「方便品」等には、機をかがみて此の経を説くべしと見え、「不軽品」には謗ずとも、ただ強いて、之を説くべしと見え侍り。
 末代には、善無き者は多く、善有る者は、少し故に悪道に堕ちんこと疑い無し。同くは「法華経」を強いて、説き聞かせて毒鼓の縁と成す可きか? 然らば、「法華経」を説いて謗縁を結ぶべき時節なる事、諍い無き者をや。
 時の機を見て、説法する方もあり。皆、国中の諸人権経を信じて実経を謗し、強に用いざれば弾呵の心をもて説くべきか、時に依つて用否あるべし。
 人師の中に大小をば分つて、大にをいて権実を分たず。或は、語には分つといへども、心は権大乗のをもむきを出でず。此等は、不退諸菩薩その数如恒沙亦復不能知と覚えて候なり。
 第六天の魔王は、仏滅後(である現代)に、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて、(魔が説くとは思えない釈尊が説いた)四十余年の経を説くべし。

(4) ただし、法門をもて邪正を正すべし。(演説の才能や容姿などの)利根と(道理に叶っていない)通力とにはよるべからず。独りこのことを愁いて、胸臆に憤徘す。客来って、共に嘆く屡談話を致さん。
 世皆 正(法)に背き、人ことごとく悪に帰す。故に善神は、国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還りたまわず。これを以て、魔来り・鬼来り・災起り・難起る。言わずんば、ある可からず。恐れずんば、ある可からず。
 「大集経」に云く。「仏法実に隠没せば、(現実生活もままならず)鬚・髪・爪 皆長く、諸法もまた忘失せん」
 国土乱れん時は、先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に、万民乱る。
 もし、王の福(聖人を敬う心)尽きん時は、一切の聖人皆為に捨て去らん。もし一切の聖人去らんときは、七難必ず起らん。
 我が法(法華経)の滅せんを見て、捨てて擁護せずんば、かくの如く種ゆる所の無量の善根、ことごとく皆滅失して、其の国、当に三の不祥のこと有るべし。一には穀貴(飢饉)・二には兵革(戦争)・三には疫病なり。
 菩薩悪象などに於ては、心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては、怖畏の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては、(地獄・餓鬼・畜生の)三趣に至らず。悪友の為に(求道心をも)殺されては、必ず三趣に至る。

(5) 我れ涅槃の後(釈尊が亡くなってから)、無量百歳(年月が立つと)四道の聖人(釈尊を知る聖人たちも)ことごとく復た涅槃せん。
 正法滅して後、像法の中に於て当に(悪い)比丘有るべし。
 持律に似像して少く経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶 猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し(自らの地位を守るために必死になっている)。
 常に、この言を唱えん。我羅漢を得たりと、外には賢善を現し、内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。実には沙門(仏弟子)に非ずして、沙門の像を現じ、邪見・熾盛にして正法を誹謗せん。
 悪侶(言動や形だけが仏弟子で、振る舞いに現れていない人)を誡めずんば、豈善事を成さんや。
 悲しいかな、数十年の間百千万の人、魔縁に蕩かされて、多く仏教に迷えり。傍を好んで、正を忘る。善神、怒を為さざらんや。円を捨てて、偏を好む。悪鬼、便りを得ざらんや。如かず彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには。
 昔より今に至るまで、此くの如き(幕府に対しての)悪言未だ見ず。惶る可く、慎む可し。罪業至つて重し、(御成敗式目に書かれている)科条争か遁れん対座(一緒にいるだけで)、猶以て恐れ有り。杖に携われて、則ち帰らんと欲す。

(6) 主人咲み止めて曰く。辛きことを蓼の葉に習い、臭きことを溷厠に忘る。@@@
 (世間の評判に埋もれているので)善言を聞いて悪言と思い、謗者を指して聖人と謂い、正師を疑つて悪侶に擬す。
 汝疑うこと莫かれ。汝怪むこと莫かれ。ただ須く(見た目は仏教かも知れないが正法誹謗の)、凶を捨てて善に帰し、源を塞ぎ根を截べし。
 予少量為りと雖も、忝くも大乗を学す。蒼蝿(小さなハエ)・驥尾(馬の尾っぽ)に附して万里を渡り、碧蘿(高さのないつたが)松頭に懸りて千尋を延ぶ。弟子一仏の子と生れて、諸経の王に事う。何ぞ仏法の衰微を見て、心情の哀惜を起さざらんや。
 仏道に入つて数ば愚案を廻すに(破邪立正で)、謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、(安国である)国中安穏にして天下泰平ならん。
 早く天下の静謐を思わば、須く国中の謗法を断つべし。
 悦しきかな、汝、蘭室の友に交りて(心に蘭の花が咲き)麻畝(麻にならってまっすぐ伸びるよもぎ)の性と成る。
 国土乱れん時は、先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に、万民乱ると国を失い、家を滅せば何れの所にか世を遁れん。
 汝、須く一身の安堵(幸福)を思わば先ず四表(世界)の静謐(平和)を祷らん者か。

(7) 汝、早く信仰の寸心を改めて、速に実乗の一善に帰せよ。
 然れば、則ち(今、生活している)三界は皆仏国なり。仏国其れ衰んや、十方は悉く宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。
 国に衰微無く、土に破壊無んば、身は是れ安全、心は是れ禅定ならん。此の詞此の言信ず可く、崇む可し。
 弥よ貴公の慈誨を仰ぎ、益愚客の癡心を開けり。速に対治(念仏の破折)を回して、早く泰平を致し、先ず生前を安じて、更に没後を扶けん。ただ我が信ずるのみに非ず、また他の誤りをも誡めんのみ。
 文応元年[太歳庚申]之を勘う、(地震の起きた)正嘉より之を始め、(三年後の)文応元年に勘え畢る。
 古最明寺入道殿(北条時頼)に奏進申し了んぬ。これ偏に国土の恩を報ぜんが為なり。
 もし此の事妄言ならば、日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん。ただし、偏に国の為・法の為・人の為にして、身の為に之を申さず。
 (道徳を基準にした)世間の善悪は、眼前に在り。愚人も之を弁うべし、仏法の邪正・師の善悪に於ては、(長い年月の修行で悟ったような)証果の聖人・尚之を知らず。況や(釈尊を知らない)末代の凡夫に於ておや。
 願わくば、一切の道俗・一時の世事を止めて、永劫の善苗を種えよ。

(8) 世間荘厳の文(理由もないのに高く評価されている言葉)を安置し、無義の語を飾り、前を抄て後に著け、後を抄て前に著け、前後を中に著け中を前後に著けん。当に知るべし、是くの如き諸の悪比丘(僧侶)は、これ魔の伴侶なり。
 (正法と違って)誤り有る諸経に於て、信心を致す者・生死を離るべきや。
 (法華経法師品によると王難を受け、民衆を救う) 此の法華経、最も為れ難信難解なり。(生命軽視の)邪法を捨てて、忽に法華経に遷り、今度阿鼻の炎を脱れよ。
 手に法華経一部八巻を執らざれども、この経を信ずる人は、昼夜十二時の持経者なり。口に読経の声を出さざれども法華経を信ずる者は、日日時時念念に、一切経を読む者なり。
 無量の仏法を学ぶと雖も、国に流布する所の法の邪正を直さざれば、国中に大風・旱魃・大雨の三災起りて万民を逃脱せしめ、王臣定めて三悪に堕せん。
 「我身命を愛せず、但無上道を惜む」
 (涅槃経に)「謗法の人を見て、其の失を顕わさざれば、仏弟子に非ず」
 予仏弟子の一分に入らんが為に、此の書を造り謗法の失を顕わし、世間に流布す。
 願わくば、十方の仏陀此の書に於て力を副え、大悪法の流布を止め、一切衆生の謗法を救わしめたまえ。

(9) 提婆達多が六万蔵の如し智者の由を称するは、自身を重くし、悪法を扶けんが為なり。
 悪象の為に殺されては、三趣に至らず。悪友の為に殺されては、必ず三趣に至る。是の悪象等は、但身の怨と為り、悪知識は善法の怨と為らん。
 謬つて悪知識を信じ、邪法を習い、此の生を空うすること莫れ。
 法華経は、即ち釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には、釈迦牟尼仏入滅を取り(我々から遠く離れてしまう)、此の経を信ずる者の前には、滅後為りと雖も仏の在世なり(仏が目の前にいるようなものだ)。
 諸経には、十界互具無し。十界互具を説かざれば、内心の仏界を知らず。内心の仏界を知らざれば、外の諸仏も顕われず。
 凡夫もまた、十界互具を知らざるが故に、自身の仏界も顕われず。
 在世滅後の一切衆生の誠の善知識は、法華経是なり。
 在家の諸人(天台の高僧のような)別の智行無しと雖も、謗法の者を(破折し)対治する功徳に依つて、生死(の苦)を離る可きなり。
 ただし、法華経の題目計りを唱えて、三悪道を離る可き。
 此の経の題名を聞き信を生ずるは、宿善の深厚なるに依れり。設い今生は悪人無智なりと雖も、必ず過去の宿善有るが故に、此の経の名を聞いて信を致す者なるが故に悪道に堕せず。

(10) 先に解心無くとも、此の法華経を聞いて謗ぜざるは、大善の所生なり。
 法華経修行の者の所住の処を、浄土と思う可し。何ぞ煩しく、他処を求めんや。
 法華涅槃を信ずる行者は、余処に(仏国を)求む可きに非ず。此の経を信ずる人の所在の処は、即ち浄土なり。
 此の義無くんば、設い(一見素晴らしい)仏為りと雖も、之を信ず可からず。今は法華経の中の仏を信ず故に、仏に就て信を立つと云うなり。
 仁王経に云く、「三宝を護る者にして転た更に三宝を滅し破らんこと師子の身中の虫の自ら師子を食うが如し。外道には非ず」(想いの弱い不信の仏弟子である)。
 謗法の者は、自他共に子細を知らざる故に、重罪を成して国を破し、仏法を破するなり。
 仏法流布の砌には、天下静謐なり。
 近来二つの妖怪有り、人の耳目を驚かす所謂達磨の邪法と、念仏の哀音となり。
 法華経は、成仏得道の直路なり。
 現在の父たる教主釈尊を捨て、他人たる阿弥陀仏を信ずる故に、五逆罪の咎に依って、必ず無間大城に堕つ可きなり。
 浄土門に入つて師の跡を踏む可くば、臨終の時(法然も仰いだ高僧とされる)善導が如く自害有る可きか。念仏者として頚をくくらずんば、師に背く咎有る可きか如何。

(11) 仏法を弘めん輩は、教(が低くすぎないか)・機(が整っているか)・時(に適っているか)・国(土に合っているか)・教法流布の前後(より高い教えを広めているか)をかんがむ可きか。
 南無妙法蓮華経と申す事は、(持つのも広めるのも難しいので)唱えがたく、南無阿弥陀仏南無薬師如来なんど申す事は、唱えやすく、また文字の数の程も大旨は同けれども、功徳の勝劣は遥に替りて候なり。
 諸仏の名号は、題目の妙法蓮華経に対すれば、瓦礫(いしころ)と如意宝珠(思いのままに宝を出す魔法の宝石)の如くに侍るなり。
 法華経こそ、此の穢土より浄土に生ずる正因にては侍れ。念仏等は未顕真実の故に、浄土の直因にはあらず。
 聖道の人人の御中にこそ、(法論をしないので)実の謗法の人人は侍れ。彼の人人の仰せらるる事は、法華経を毀る念仏者も不思議なり。
 念仏者を毀る日蓮も奇怪なり。
 弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は、妙法蓮華経の五字を習つてこそ、仏にはならせ給ひて侍れ。
 穢土に於ては、法華経等教主釈尊等を捨閉し、閣抛し、浄土に至つて法華経を悟る可しとは、何れの経文に出でたるや(ないので邪義である)。
 今度分明なる証文を出して、法然上人の阿鼻(地獄)の炎を消さる可し。

(12)  (法華経を)裸形の猛者と、(大日経を)甲冑を帯せる猛者との譬(を真言宗は使っている)の事、裸形の猛者の進んで大陣を破ると、甲冑を帯せる猛者の退いて、一陣をも破らざるとは何れが勝るるや。
 また猛者は、法華経なり。甲冑は、大日経なり。猛者無くんば、甲冑何の詮か之有らん。
 過去現在の諸仏、法華経を離れて成仏す可からず。法華経を以て、(仏への目覚めである)正覚を成じ給う。(同志である)法華経の行者を捨て給わば、諸仏還つて凡夫と成り給うべし(成仏の)恩を知らざる故なり。
 法華経法師品に云く「我が所説の経典は、無量千万億已に説き、今説き当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経最も為れ難信難解なり」。
 法華経の外の諸経の大菩薩は、法華の名字即の凡夫(初めて法華経を聞いた仏弟子)より下れり。何ぞ汝、始めて之を驚かんや。
 教に依つて、人の勝劣を定む。先ず、経の勝劣を知らずんば、何ぞ人の高下を論ぜんや。
 (天台の立てた)十界互具百界千一念三千を(中国に密教を伝えた)善無畏は盗み取つて、我が宗の骨目とせり。
 一代(仏教全般)に簡われ諸経に捨てられたる二乗作仏は、法華に限れり。

(13) 若し(大日如来を)他土の仏なりと云はば、何ぞ我が主(護り)師(導き)親(慈しむ)の釈尊を蔑にして、他方疎縁の仏を崇むるや。不忠なり、不孝なり。
 十界互具百界千如を立てば、本経何れの経にか。十界皆成の旨之を説けるや、(法華賛嘆の)天台円宗見聞の後、(見た目ばかりで実のない)邪智荘厳の為に盗み取れる法門なり。才芸を誦し、浮言を吐くには、依る可からず正しき経文金言を尋ぬ可きなり。
 文筆を嗜みながら、文字を立てず。言と心と相応せず。天魔の部類、外道の弟子に非ずや。仏は文字に依つて、衆生を度し給うなり。
 汝が、立義一一大僻見なり。執情を改めて、法華に帰伏す可し。然らずんば、豈無道心に非ずや。
 諌臣(王を正しい方向に導く家臣)、国に在れば則ち其の国正しく、争子(親の誤りを正す子)家に在れば、則ち其の家直し。国家の安危は、政道の直否に在り。仏法の邪正は、経文の明鏡に依る。
 日蓮は、法華経の御使なり。経に云く「則ち如来の使、如来の所遣として如来の事を行ず」と。三世諸仏の事とは、法華経なり。
 (真言の祈祷、弥陀の念仏などの)万祈を抛つて、諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え。

(14) 夫れ仏閣(商店街のように)軒を並べ、法門(どの家にも)屋に拒る。仏法の繁栄は、身毒(インド)支那(中国)に超過し、僧宝の形儀は六通の(煩悩を断じた)羅漢(聖人)の如し。然りと雖も、一代諸経に於て未だ勝劣浅深を知らず。併がら禽獣(鳥や獣)に同じ。
 日蓮は、日本第一の法華経の行者、蒙古国退治の大将為り。
 若し日蓮が申す事を御用い無くんば、今世には国を亡し、後世は必ず無間大城に堕す可し。
 定めて日蓮が弟子、檀那(権力と団結した悪と戦うのだから)流罪・死罪一定(当たり前)ならん。少しも之を驚くこと莫れ。方方への強言申すに及ばず。是併ながら而強毒之の故なり。
 各各、用心有る可し。少しも妻子眷属を憶うこと莫れ。権威を恐るること莫れ。今度生死の縛を切つて、仏果を遂げしめ給え。
 良観上人等、弘通する所の法、日蓮が難脱れ難きの間、既に(邪義だと)露顕せしむ可きか。故に、彼の邪義を隠さんが為に、諸国の守護地頭雑人等を相語らいて言く、「日蓮並びに弟子等は、阿弥陀仏を火に入れ、水に流す汝等が大怨敵なり」と(デマを流した)云云、頚を切れ、所領を追い出せ等と(侍所などに)勧進するが故に、日蓮の身に疵を被り、弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり。

(15) 此れ偏に良観念阿道阿等の上人の大妄語より出たり。心有らん人人は、驚く可し、怖る可し云云。
 此等の悪人は、仏法の怨敵には非ず。三明六通の羅漢の如き僧侶等が、我が正法を滅失せん。所謂守護経に云く、涅槃経に云く。
 仏の出世は、専ら衆生を救わんが為なり。爰に、日蓮比丘と成りしより、旁法門を開き、已に諸仏の本意を覚り、早く出離の大要を得たり。其の要は、妙法蓮華経是なり。
 時に当つて賞を得、(史記によると)謀を帷帳(作戦会議用のテント)の中に回らし、勝つことを千里の外に決せし者なり。夫れ未萠(常識から予測可能な未来)を知る者は、六正の聖臣なり。法華を弘むる者は、諸仏の使者なり。
 早く賢慮を回らして、須く異敵を退くべし。世を安じ国を安ずるを忠と為し、孝と為す。是れ偏に身の為に之を述べず、君の為・仏の為・神の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり。
 兼ねて又、定めて喧嘩出来の基なり。貴坊本意を遂げんと欲せば、公家と関東とに奏聞を経て、露点を申し下し是非を糾明せば、上一人咲を含み下万民疑を散ぜんか。其の上、大覚世尊は仏法を以て王臣に付属せり。世出世の邪正を決断せんこと、必ず公場なる可きなり。

(16) 此の災夭を消さんが為に、真言師を渇仰し、大難を郤けんが為に、持斎等を供養す。譬えば火に薪を加え、冰に水を増すが如く、悪法は弥貴まれ、大難は益々来る。只今、此の国滅亡せんとす。
 書は言を尽さず、言は心を尽さず、悉悉公場を期す。
 (鎌倉時代の常識では)夫れ一切衆生の尊敬すべき者、三あり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき、物三あり。所謂、儒・外・内これなり。
 妙楽大師云く、「仏教の流化実に茲に頼る、礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」。
 大覚世尊は、此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり。外典・外道の四聖三仙(の七人)、其の名は聖なりといえども、実には三惑未断の凡夫(仏法を知らない)、其の名は賢なりといえども、実に因果を弁ざる事嬰児(赤ん坊)のごとし。
 一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹天親知つて、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみ、これをいだけり。
 仏(が現れる)前の外道は、執見あさし。仏後の外道は、仏教をききみて自宗の非をしり巧の心出現して、仏教を盗み取り。自宗に入れて、邪見もつともふかし。
 附仏教学仏法成(仏教の考えを盗み自分の教えを発展させる謗法)等これなり。

(17) 父母の家を出て出家の身となるは、必ず父母をすくはんがためなり。
 (法華経以外の諸々の経典では)二乗は、自身は解脱とをもえども、利他の行かけぬ設い分分の利他ありといえども、父母等を永不成仏の道に入るればかへりて不知恩の者となる。
 法華経に忽に悔還して、二乗作仏すべしと仏陀とかせ給はんに、人天大会(様々な境界の人たちの集まり)信仰をなすべしや。
 法華経の流通(弘通を勧めるための教え)たる涅槃経に末代濁世(である現代)に、謗法の者は十方の地のごとし(多く)、正法の者は爪上の土のごと(く少なし)しと、とかれて候はいかんがし候べき。日本の諸人は、爪上の土か、日蓮は十方の土か、よくよく思惟あるべし。
 賢王の世には、道理かつ(勝つ)べし。愚主の世に、非道先をすべし。
 (華厳経は理想卿を説く)此等程いみじき御経に、何事をか(重大な法門を)隠すべき。なれども、二乗闡提不成仏ととかれしは、(せっかくの美しい)珠のきずとみゆる上、三処まで始成正覚となのらせ給いて、久遠実成の寿量品を説きかくさせ給いき。
 珠の破たると月に、雲のかかれると日の蝕したるがごとし。不思議なりしことなり。

(18) しかりといえども、いまだ(凡夫即仏、久遠実成などの)発迹顕本せざればまことの一念、三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮べるににたり。
 千年五百年に一人なんども、正法の者ありがたからん。世間の罪に依つて悪道に堕る者は、爪上の土。仏法によつて悪道に堕る者は、十方の土。(常識とは違って)俗よりも、僧女より尼多く、悪道に堕つべし。
 日本国に此れをしれる者は、ただ日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難、必ず来るべし。いはずば、慈悲なきににたりと思惟するに、法華経涅槃経等に此の二辺(二者択一)を合せ見るにいはずば、今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕べし。
 いうならば、三障・四魔必ず競い起るべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし、王難等出来の時は退転すべくは、一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に、宝塔品の六難九易これなり。
 我等程の小力の者、須弥山はなぐとも我等程の無通の者、乾草を負うて劫火にはやけずとも、我等程の無智の者、恒沙の経経をばよみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしととかるるはこれなるべし。
 今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願しぬ。

(19) 夫れ小児に灸治を加れば、必ず(病気を治そうとお灸をした)母をあだむ。重病の者に良薬をあたうれば、定んで口に苦しとうれう。
 (皆が釈尊を尊敬していた)在世猶をしかり、乃至像末辺土(思想が乱れている場所)をや、山に山をかさね、波に波をたたみ、難に難を加へ非に非をますべし。
 されば、日蓮が法華経の智解は、天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事は、(二人の聖人も)をそれをもいだきぬべし。
 例せば、小乗の菩薩の(修行が半ばで)未断惑なるが願兼於業と申して、「つくりたくなき罪なれども『父母等の地獄に堕ちて、大苦をうくるを見て』かたのごとく、其の業を造つて」、願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし。
 毛宝が亀は、あをの恩をわすれず。昆明池の大魚は、命の恩をほうぜんと明珠を夜中にささげたり。(浦島太郎の亀のような)畜生すら、猶恩をほうず。何に況や、大聖をや。
 (末法で法華経を広める)地涌千界の大菩薩、大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にも(あまりに尊く)にるべくもなし。
 天台宗より外の諸宗は、本尊(根本的に尊敬する対象)にまどえり。

(20) 諸経の諸仏・菩薩・人天等は、彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども、実には法華経にして正覚なり給へり。
 (万人が名を知っている)弘法等の仏眼のごとくなる人、猶此の(六難九易の)文にまどへり。何に況や盲眼のごとくなる当世の学者等、勝劣を弁うべしや。
 一Hをなめて大海のしををしり、一華を見て春を推せよ。
 当世、日本国に第一に富める者は、日蓮なるべし。命は法華経にたてまつり、名をば後代に留べし。
 竜女が成仏は、末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。
 )今、法華経の時こそ、女人成仏の時。悲母の成仏も顕われ、達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕わるれ。此の経は、内典の孝経なり。二箇のいさめ、了んぬ。
 日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて、返年の二月、雪中にしるして有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず、みん人いかにをぢぬらむ。此れは、釈迦多宝十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給う明鏡なり、かたみともみるべし。
 大地は、指ばはづるとも春は、花はさかずとも(法華経の行者を無智・嫉妬・恐怖から迫害する)三類の敵人、必ず日本国にあるべし。

(21) 今末法の始には、良観念阿等偽書を注して将軍家にささぐ。(乱れた思想が権力と結託する構図を見ても)あに三類の怨敵にあらずや。
 日本国に但法華経の名のみあつて、得道の人一人もなし。誰をか法華経の行者とせん。寺塔を焼いて流罪せらるる僧侶は、かずをしらず。公家・武家に諛うて、にくまるる高僧これ多し。此等を法華経の行者というべきか。
 仏と提婆(釈尊を裏切った弟子)とは、身と影とのごとし。生生にはなれず、聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば、必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし、一眼の亀の浮木に値うなるべし。
 心地観経に曰く、「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」
 詮ずるところは、天もすて給え。諸難にもあえ身命を期とせん。身子(舎利弗の過去世と言われる素晴らしい仏弟子)が、六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵を(無駄に)ふる悪知識に値うゆへなり。(世間の皆が納得するような)善に付け、悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。

(22) 大願を立てん、日本国の位をゆづらむ。法華経をすてて観経等について、後生をごせよ(という誘惑)。父母の頚を刎ん、念仏申さずば(という脅迫)。なんどの種種の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり。其の外の大難風の前の塵なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願、やぶるべからず。
 今ま、日蓮強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし。鉄は火に値わざれば黒し、火と合いぬれば赤し。木をもつて急流をかけば、波山のごとし。睡れる師子に手をつくれば、大に吼ゆ。
 (住む場所を追われた母が子を抱いて旅する途上)恒河(ガンジス川)に逕由し、児を抱いて渡る其の水、漂疾なれども而も放ち捨てず。是に於て母子、遂に共倶に没しぬ。是くの如き女人、慈念の功徳命終の後、(天人の住処である)梵天に生ず。文殊師利、若し善男子有つて正法を護らんと欲せば、彼の貧女の恒河に在つて子を愛念するが為に身命を捨つるが如くせよ。
 諸経は智者猶仏にならず、此の経は愚人も仏因を種べし不求解脱解脱自至等と云云。

(23) 我並びに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑いををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし。
 設い山林にまじわつて、一念三千の観をこらすとも、空閑にして三密の油をこぼさずとも、時機をしらず。摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき。
 日蓮は、日本国の諸人にしうし(主師)父母なり。
 (種々の大難も)皆、法華経のゆへなれば、はぢならず。愚人にほめられたるは、第一のはぢなり。
 仏法は、時によるべし。日蓮が流罪は、今生の小苦なればなげかしからず。後生には、大楽をうくべければ大に悦ばし。
 百界千如は、有情界に限り。一念三千は、情非情に亘る。
 観心とは、我が己心を観じて十法界(凡夫の境界と仏の境界)を見る是を観心と云うなり。譬えば、他人の六根(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識のことで回りの環境と触れている部分)を見ると雖も、未だ自面の六根を見ざれば、自具の六根を知らず。明鏡(ここでは題目をあげる本尊)に向うの時、始めて自具の六根を見るが如し。

(24) 瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、諂曲(本心を隠し虚偽の自分をつくる)なるは修羅、喜ぶは天、平かなるは人なり。他面の色法に於ては、六道共に之れ有り。(仏界を含む)四聖は、冥伏して現われざれども委細に之を尋ねれば、之れ有る可し。
 末代の凡夫(である現代人が)、出生して法華経を信ずるは人界に、仏界を具足する故なり。
 願くば、大慈悲を起して之を信ぜしめ阿鼻の苦を救護したまえ。
 十界互具之を立つるは、石中の火木中の花信じ難けれども、縁に値うて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は、水中の火火中の水、最も甚だ信じ難し。
 釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う。
 上行・無辺行・浄行・安立行等(地涌の菩薩)は、我等が己心の菩薩なり。
 彼は脱此れは種なり。彼は一品二半此れは但題目の五字なり。
 当に知るべし、此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。
 天晴れぬれば、地明かなり。法華を識る者は、世法(世の常識)を得可きか。
 一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給う。

(25) 国難を顧みず、五五百歳(現代)を期して之を演説す。乞い願くば一見を歴来るの輩は、師弟共に霊山浄土に詣でて、(釈迦・多宝・十方の諸仏の)三仏の顔貌を拝見したてまつらん。
 夫れ仏法を学せん法は、必ず先づ時(タイミング・チャンス)をならうべし。
 彼の時鳥は春ををくり、鶏鳥は暁をまつ。畜生すらなをかくのごとし。何に況や仏法を修行せんに時を糾ざるべしや。
 霊山会上の砌には、閻浮第一の不孝の人たりし阿闍世大王座につらなり、一代謗法の提婆達多には天王如来と名をさづけ、五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる。
 勧持品に云く、「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん」。
 仏眼をかつて時機をかんがへよ。仏日を用て国土をてらせ。
 彼の大集経の白法隠没(正しい法が邪法と紛らわしくなる)の時は、第五の五百歳当世なる事は疑ひなし。但し、彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内八万の国あり。其の国国に八万の王あり。王王ごとに臣下並びに万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり。

(26) 国主等、其のいさめを用いずば、鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍(戦乱)一閻浮提(全世界)に起るべし。
 (広宣流布の時は)例せば、神力品の十神力の時十方世界の一切衆生一人もなく、娑婆世界に向つて大音声をはなちて、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。
 天台宗の学者の中にも、(斬首刑など)頭をさしいだす人一人もなし。而れば、法華経の実義すでに一国に隠没しぬ。
 (伝教大師は)此れ(法華経が釈尊の)を申すならば(法論さながら)喧嘩出来すべし。もだして(沈黙して)申さずば、仏誓にそむきなんとをもひわづらはせ給いしかども、終に仏の誡ををそれて桓武皇帝に奏し給いしかば、帝此の事ををどろかせ給いて、六宗の碩学に召し合させ給う。
 大集経の(中に説かれる)白法隠没の時に次いで、法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も、疑うべからざるか。
 大地は反覆すとも、高山は頽落すとも、春の後に夏は来らずとも、日は東へかへるとも、月は地に落つるとも、此の事(乱世において地涌の菩薩が広宣流布すること)は一定なるべし。

(27) 法華経をひろむる者は、日本国の一切衆生の父母なり。
 必ず日本国の一切衆生兵難に値うべし。されば、日蓮が法華経の行者にてあるなきかは、これにても見るべし。
 日本国に仏法わたて七百余年、伝教大師と日蓮とが外は、一人も法華経の行者はなきぞかし。
 日蓮は、閻浮第一の法華経の行者なり。此れをそしり、此れをあだむ人を結構せん人は、閻浮第一の大難にあうべし。
 不軽菩薩は、誹謗の四衆に向つて、いかに法華経をば弘通せさせ給いしぞ。されば、機に随つて法を説くと申すは、大なる僻見なり。
 月支(インド)より漢土(中国)に経論をわたす人、旧訳新訳に一百八十六人なり。(庶民と共に過ごす時間の多かった)羅什三蔵一人を除いては、いづれの人人も(その訳に)誤らざるはなし。
 一切の訳人の経経は軽くなりて、羅什三蔵の訳し給える経経殊に法華経は漢土にやすやすとひろまり給いしか。
 孔子は九思一言(一言話すにも九種類の気遣いをして話した)。周公旦は沐には三にぎり、食には三はかれけり(入浴や食事の際にも客人を待たせなかった)。外書のはかなき世間の浅き事を習う人すら、智人はかう候ぞかし。

(28) 師子の身の中の虫の師子を食うと、仏の記し給うは、まことなるかなや(仏教の高僧が法華経の行者を失おうと躍起になっている)。
 漢土・日本に智慧すぐれ才能いみじき聖人は度度ありしかども、いまだ日蓮ほど法華経のかたうどして、国土に強敵多くまうけたる者なきなり。まづ眼前の事をもつて、日蓮は閻浮提第一の者としるべし。
 権経の題目(念仏等)、流布せば実経の題目(南無妙法蓮華経)も又流布すべし。欽明(天皇の時代)より当帝にいたるまで七百余年、いまだきかず、いまだ見ず南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ我と唱えたる智人なし。
 日蓮は、日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもつてすいせよ、漢土・月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。
 此の災の根源(法華誹謗)を知らぬ人人(真言・念仏の僧侶)が、いのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか。
 閻浮提第一の大事を申すゆへに、最第一の瑞相此れをこれり。あわれなるかなや、なげかしきかなや、日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ。悦しきかなや、楽かなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる。

(29) 外典に曰く、未萠(常識的に判断できる将来)をしるを聖人という。内典に云く、三世を知るを聖人という。
 王地に生れたれば、身をば随えられたてまつるやうなりとも、心をば随えられたてまつるべからず。
 衆流あつまりて、大海となる。微塵つもりて、須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始めしは、日本国には一H一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は此れよりほかに、又もとむる事なかれ。
 日月天に処し給いながら、日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずば、一つには日蓮が法華経の行者ならざるか、忽に邪見をあらたむべし。
 当世、日本国の智人等は衆星のごとし。日蓮は、満月のごとし。
 伝教大師云く、「讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」。
 我が弟子等、心みに法華経のごとく身命もおしまず。修行して此の度仏法を心みよ。
 此等の経文は、正法の強敵と申すは悪王悪臣よりも、外道魔王よりも、破戒の僧侶よりも、持戒有智の大僧の中に大謗法の人あるべし。されば、妙楽大師かいて云く「第三(僭聖増上慢)最も甚し後後の者は、転識り難きを以ての故なり」。

(30) 予が分斉として弘法大師・慈覚大師・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵なんど(世間から評判のよい聖者)を「法華経の強敵なり、経文まことならば無間地獄は疑なし」なんど申す(難しさと比べるの)は、裸形にて大火に入るはやすし。須弥を手にとてなげんはやすし。大石を負うて大海をわたらんはやすし。日本国にして、此の法門(六難九易)を立てんは、大事なるべし。
 夫れ老狐は、塚をあとにせず。白亀は、毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや。
 仏教をならはん者、父母・師匠・国恩をわするべしや。此の大恩をほうぜんには、必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか。
 (古代の偉人である)比干が(殷の紂)王に随わずして賢人のなをとり、悉達太子(釈尊の在家時代の名前)の浄飯大王(釈尊の父親)に背きて、三界(人の住む世界全体)第一の孝となりしこれなり。
 仏の遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として、一切経の心をばしるべきか。
 小失(小さな犯罪さえ)なくとも、(悪人の讒言などにより)大難に度度値う人をこそ、滅後の法華経の行者とはしり候はめ。

(31) (天台が諸宗の僧侶を法論で破ったときは)僧正・僧都已上の人人、百余人なり。各各悪口を先とし、眉をあげ眼をいからし、手をあげ柏子をたたく。而れども、(天台大師)智法師は末座に坐して、(顔)色を変ぜず、言を誤らず、威儀しづかにして、諸僧の言を一一に牒をとり、言ごとにせめかえす。
 法華経の文には、已説・今説・当説と申して、此の法華経は前と並との経経に勝れたるのみならず、後に説かん経経にも勝るべしと、仏定め給う。
 (比叡山の)天台座主、すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其の主は真言師なり。
 秀句に云く、「浅きは易く、深きは難しとは、釈迦の所判なり。浅きを去つて、深きに就くは、丈夫の心なり」
 去ぬる文永八年九月十二日、(竜ノ口へ向かう直前)に平の左衛門並びに数百人に向て云く。「日蓮は、日本国のはしらなり。日蓮を失うほどならば、日本国のはしらをたをすになりぬ」
 師子のねぶれるは、手をつけざればほへず。迅流は櫓をささへざれば、波たかからず。盗人はとめざれば、いからず。火は薪を加えざれば、さかんならず。
 謗法はあれどもあらわす人なければ、王法もしばらくはたえず、国もをだやかなるににたり。

(32) 日蓮が大義も、強くせめかかる(争いの神である)修羅と、(善神の王である)帝釈と仏と魔王との合戦にも、をとるべからず。
 乾草を積みて、火を放つがごとく、大山のくづれて、谷をうむるがごとく、我が国他国にせめらるる事出来すべし、此の事、日本国の中に但日蓮一人計りしれり。
 (広布の時である)今度、命をおしむならば、いつの世にか仏になるべき。また何なる世にか、父母・師匠をもすくひ奉るべき。
 (稚児時代の師である導善房は法難の)後に、すこし信ぜられてありしは、いさかひの後のちぎりき(棍棒)なり。ひるのともしび、なにかせん。
 (立宗宣言の直後、浄顕房・義成房二人のおかげで)日蓮が景信にあだまれて、清澄山を出でしに、かくしおきてしのび出でられたりしは、天下第一の法華経の奉公なり、後生(仏と共に生まれること)は疑いおぼすべからず。
 日蓮が、南無妙法蓮華経と弘むれば、南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩のひるがごとく、秋冬の草のかるるがごとく、冰の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。
 日本乃至漢土・月氏一閻浮提に、人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて、南無妙法蓮華経と唱うべし。

(33) 此の事いまだひろまらず、一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮一人、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり。
 日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし。
 日本国の一切衆生の(法の正邪に対する)盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は、伝教天台にも超へ、竜樹(二、三世紀のインドで活躍した大乗の論師)・迦葉(釈尊の法を最初に広めた直弟子)にもすぐれたり。
 (苦のない)極楽百年の修行は、(苦を共に生きる)穢土の一日の功徳に及ばず。正像二千年の弘通は、末法の一時(の弘通)に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむる耳、春は花さき、秋は菓なる、夏はあたたかに、冬はつめたし時のしからしむるに有らずや。
 (法華経薬王品)「我滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して、閻浮提に於て断絶して、悪魔・魔民・諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等に、其の便りを得せしむること無けん」
 (末法において広宣流布しないという)其の義なくば、日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば、花は根にかへり、真味は土にとどまる。此の功徳は、故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。

(34) 御まへ(浄顕房)と義成房と二人、此の御房をよみてとして、嵩がもり(清澄寺にある森)の頂にて二三遍、また故道善御房の御はかにて一遍、よませさせ給いては、此の御房にあづけさせ給いて、つねに御聴聞候へ。たびたびになり候ならば、心づかせ給う事候なむ。
 爾りと雖も、(成仏を願いながら法華経を軽んじるのは)宝山に来り登つて瓦石を採取し、栴檀に歩み入つて伊蘭を懐き取らば、悔恨有らん。故に、万人の謗りを捨て、猥りに取捨を加う我が門弟、委細に之を尋討せよ。
 所詮・所対(比較・検討)を見て、経経の勝劣を弁うべきなり。強敵を臥伏するに、始て大力を知見する是なり。
 安楽行より勧持提婆宝塔法師と逆次に之を読めば、滅後の衆生を以て本と為す。
 涌出品の動執生疑より、一半並びに寿量品分別功徳品の半品已上一品二半を広開近顕遠と名く。(法華経の目的は)一向に滅後(現代人)の為なり。
 寿量品の一品二半は、始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり。滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。
 諸病の中には、法華経を謗ずるが第一の重病なり。諸薬の中には、南無妙法蓮華経は第一の良薬なり。

(35) 逆縁(すぐには仏法を信じない人)の為には、但妙法蓮華経の五字に限る。例せば、不軽品の如し。我が門弟は、順縁なり。日本国は、(法華経を信じないので)逆縁なり。
 日蓮は、広(仏法の詳しい説明)・略(簡単な説明)を捨てて、肝要(重要ポイント)を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。
 当に知るべし。此の国に悪比丘(出家者)等有つて、天子・王子・将軍等に向つて讒訴(無実の裁判)を企て、聖人を失う世なり。
 我が門弟、之を見て法華経を信用せよ。目を瞋らして、鏡(自分自身を見つめる対象)に向え。天瞋るは人に、失有ればなり。
 国土乱れて後に、上行等の聖人出現し、本門の(本尊・題目・戒壇)三つの法門、之を建立し、一四天(当時の世界観で世界中)四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か。
 (比叡山)天台宗の慈覚(円仁)・智証(円珍)の両大師も、天台伝教の善知識に違背して、心無畏不空等の悪友に遷れり。
 本を捨て、末を尋ね、体を離れて、影を求め、源を忘れて、流を貴ぶ。分明なる(仏の説く)経文を閣いて、(仏説でない)論釈を請い尋ぬ。本経に相違する末釈有らば、本経を捨てて末釈に付く可きか。然りと雖も、好みに随て之を示さん。

(36) 一念三千の観門を勧進せず、ただ題目許りを唱えしむるや。答えて曰く、日本の二字に、六十六国の人畜財を摂尽して一も残さず。月氏の両字に、豈七十ケ国無からんや。
 ただ、南無妙法蓮華経と唱うるに、解義の功徳を具するや否や。答う、小児 乳を含むに其の味を知らざれども、自然に身を益す(成長させる)。耆婆が妙薬、誰か弁えて之を服せん。水(は)心無けれども、火を消し火物を焼く。豈覚有らんや(インドで仏教を蘇生させた)竜樹(中国で法華経を宣揚した)天台皆此の意なり。重ねて示す可し。
 妙法蓮華経の五字は、経文に非ず。其の義に非ず、ただ一部の意なるのみ。初心の行者、其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当るなり。
 請う、国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ。進んで過去を尋ぬれば、八十万億劫に供養せし大菩薩なり。豈熈連一恒の者に非ずや、退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して、五十の功徳を備う可し。天子の襁褓に纒れ、大竜の始めて生ずるが如し。蔑如すること勿れ、蔑如すること勿れ。妙楽の云く、「若し悩乱する者は頭七分に破れ、供養すること有る者は福十号に過ぐ」
 我が門人等は、福過十号疑い無き者なり。

(37) 法華経と阿弥陀経等の勝劣は、一重二重のみならず。天地雲泥に候けり。
 仏法には、賢なる様なる人なれども、時に依り、機に依り、国に依り、先後の弘通に依る事を弁へざれば、身心を苦めて修行すれども、験なき事なり。
 儒家の本師たる孔子・老子等の三聖は、仏の御使として漢土に遣されて、内典の初門に礼楽の文を諸人に教えたりき。
 妙楽大師云く、「礼楽前に馳せ、真道後に啓く」
 彼彼の経経と法華経とを並べて行ずれば、不正直の者となる。世間の法にも、賢人は二君に仕へず、貞女は両夫に嫁がずと申す是なり。
 此を背く人世に出来せば、設い智者賢王なりとも用うべからず。
 地涌の大菩薩、末法の初めに出現せさせ給いて、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり。
 釈尊は、我等がためには賢父たる上明師なり、聖主なり。一身に、三徳を備へ給へる。
 余此の事(世間の高僧が諂曲にして邪法を流布していること)を見る故に、彼が檀那等が大悪心をおそれず強盛にせむる故に、両火房内内諸方に讒言を企てて、余が口を塞がんとはげみしなり。

(38) 日本国に智者とおぼしき人、人一人も知らず。国、すでにやぶれなんとす。其の上、仏の諌暁を重んずる上、一分の慈悲にもよをされて、国に代りて身命を捨て(妙法への帰依を)申せども、国主等彼(念仏・真言等の僧侶)にたぼらかされて、用ゆる人一人もなし。
 両火房(極楽寺良観のこと、良観の寺院が焼けた際に鎌倉御所に飛び火し両方消失したことから大聖人がこう名づけた)真の人(仏の弟子)ならば、忽に邪見をもひるがへし、跡をも山林にかくすべきに其の義なくして、面を弟子檀那等にさらす。
 上剰讒言を企て、日蓮が頚をきらせまいらせんと申し上あづかる人の国まで状を申し下して、(一切衆生が仏になる)種をたたんとする大悪人なり。
 今の人人は、人毎とに経文を我もよむ、我も信じたりといふ。只にくむところは、日蓮計なり経文を信ずるならば、慥にのせたる(三類の)強敵を取出して、経文を信じてよむしるしとせよ。若し爾らずんば、経文の如く読誦する日蓮をいかれるは、経文をいかれるにあらずや、仏の使をかろしむるなり。
 (伝教の弟子たちが弘法の弟子に負けたため)天台山は名計りにて、真言の山になり法華経の所領は大日経の地となる。天台と真言と座主と大衆と敵対あるべき序なり。

(39) 人のあまりににくきには、我がほろぶべきとが(自分自を滅ぼす罪)をもかへりみざるか。
 自讃には似たれども、本文に任せて申す余は、日本国の人人には上は天子より、下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母なり、二には師匠なり、三には主君の御使なり。
 或(あるい)は身に疵をかふり、或は弟子を殺され、或は所所を追れ、或はやどをせめしかば、一日片時も地上に栖むべき便りなし。
 今度、法華経の大怨敵を見て、経文の如く父母・師匠・朝敵・宿世の敵の如く散散に責るならば、定めて万人もいかり、国主も讒言を収て、流罪し頚にも及ばんずらん。
 信心をも増長せんと、退転なくはげみし程に案にたがはず。去る文永八年九月十二日に、都て一分の科もなくして、佐土の国へ流罪せらる。外には遠流と聞えしかども、内には頚を切ると定めぬ。余また兼て、此の事を推せし故に、弟子に向つて云く、「我が願、既に遂ぬ(達成した)。悦び身に余れり」 人身は受けがたくして破れやすし、過去遠遠劫より由なき事(仏法以外の理由)には、失いしかども法華経のために命をすてたる事はなし。
 法華経の第二の巻に、主と親と師との三大事を説き給へり。一経の肝心ぞかし。

(40) 仏の涅槃経に記して、末法には法華経誹謗の者は大地微塵よりもおほかるべしと記し給いし是なり。
 内典には(主・師・親の)恩を棄て、無為(仏の境界)に入るは真実に恩を報ずる者なりと、仏定め給いぬ。
 悉達太子(釈尊のこと、シッダルータ)は、閻浮第一の孝子なり。父の王の(出家するなという)命を背きてこそ、父母をば(仏道に)引導し給いしか。
 問うて云く、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊(根本的に尊敬するもの)と定むべきや。答えて云く、法華経の題目を以て本尊とすべし。
 末代今の日蓮も、仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり。
 大日経は法華経に劣りたるのみならず、大日経の疏は天台の心(一念三千法門)をとりて、我が宗に入れたりけりと勘え給へり。
 彼の(比叡山法主、慈覚・智証)両大師、華厳・法華の勝劣をばゆるさねど、法華・真言の勝劣をば、永く弘法大師に同心せしかば、存外(天台・伝教への尊敬をやめてもいない)に本の伝教大師の大怨敵となる。
 日蓮は、東海道十五箇国の内、第十二に相当る安房の国長狭の郡東条の郷片海の海人が子なり。

(41) 仏法の邪正乱れしかば、王法も漸く尽きぬ。結句は、此の国他国にやぶられて、亡国となるべきなり。此の事、日蓮独り勘え知れる故に、仏法のため、王法のため、諸経の要文を集めて一巻の書を造る。仍つて故最明寺入道殿(北条時頼の出家名)に奉る立正安国論と名けき。
 日蓮がいさめを御用いなくて、真言の悪法を以て大蒙古(モンゴル)を調伏(祈りの力で敵を従わせる)せられば、日本国還つて調伏せられなむ、還著於本人と説けりと申すなり。
 然らば、則ち罰を以て利生を思うに、法華経にすぎたる仏になる大道はなかるべきなり。
 経には、上行無辺行(地涌の頭領)等こそ(末法に)出でて、(法華経を)ひろめさせ給うべしと見へて候へども、いまだ見へさせ給はず。
 日蓮は、其の人に候はねども、ほぼこころえて候へば、地涌の菩薩の出でさせ給うまでの口ずさみにあらあら申して、況滅度後(末法は釈尊在世より迫害が大きいとの経文)のほこさきに当り候なり。
 願わくは、此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候。其の旨をしらせまいらせむがために、御不審を書きおくりまいらせ候に、他事をすてて此の御本尊の御前にして、一向に後世をもいのらせ給い候へ。

(42) 文字は、是一切衆生の心法の顕れたる質(すがた)なりされば、人のかける物を以て、其の人の心根を知つて相する事あり。
 喉過ぬればあつさわすれ、病愈えぬれば医師をわすると云うらん譬に少も違わず相似たり(成長してから先輩や師匠の恩を忘れてはいけない)。
 (華厳・真言には素晴らしい法門が説かれているが)訳者に虚妄有り。(サンスクリットから漢語に訳すとき)法華の極理を盗み取て、事密真言とか立てられてあるやらん不審なり(疑わしい)。
 (法然の念仏は)権教の中の権教なり。譬えば、夢の中の夢の如し有名(文字の上では功徳がある)・無実(実際に成仏する人がいない)にして、其の実無きなり。一切衆生願て、所詮(浄土に生まれるという結果)なし。
 妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも、若し己心(自分の心)の外に法ありと思はば、全く妙法にあらず。
 妙法と唱へ、蓮華と読まん時は、我が一念(一瞬の生命の働き)を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
 心外に道を求めて万行万善を修せんは、譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきが如し。

(43) かくの如きの人(仏法を習いながら因果・功徳・罰が外から起こると考える)をば、仏法を学して外道となると恥しめられたり。爰を以て、止観には雖学仏教還同外見(仏教を学ぶといえども、かえって外道と同じ)と釈せり。然る間、仏の名を唱へ、経巻をよみ、華をちらし、香をひねるまでも、皆我が(内にある)一念に納めたる功徳善根なりと、信心を取るべきなり。
 衆生の心けがるれば、土(環境)もけがれ、心清ければ、土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云うも、土に二の隔(違い)なし。ただ我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云うも、仏と云うも、また此くの如し。 迷う時は衆生と名け、悟る時をば仏と名けたり。譬えば、闇鏡(鎌倉時代の鏡は金属製で磨かないでいるとサビで曇っていく)も磨きぬれば玉(光を放つ宝玉)と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心(凡夫も仏と同じような強い人間になれると信じることができない心)は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡(仏の覚悟で一切衆生を救っていく心)と成るべし。深く信心を発して、日夜・朝暮にまた懈らず磨くべし。何様にしてか、磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。

(44) 経王なれば、成仏の直道とは云うなり。この旨を深く信じて、妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑あるべからず。故に経文には、「我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし。この人仏道に於て決定して疑有る事無けん」とのべたり。努努不審をなすべからず。
 釈迦仏は、我等が為には(守護してくれる)主なり。(導いてくれる)師なり。(同苦し救ってくれる)親なり。一人して、すくひ護ると説き給へり。
 法華経を信 じたらん衆生は、これ真仏子とて是実の我が子なり。この功徳をこの人に与へんと説き給へり。
 法華経を信ぜざらん人は、争か仏になるべきや能く能く心を留めて案ずべし。
 (法華経の譬えを考えると)我等衆生無始曠劫より已来妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども、無明の酒にたぼらかされて、衣の裏にかけたりとしらずして、少きを得て足りぬと思ひぬ。
 ある時は、人に生れて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて是れ程のたのしみなしと思ひ、少きを得て足りぬと思ひ、悦びあへり。これを仏は、夢の中のさかへまぼろしのたのしみなり、ただ法華経を持ち奉り速に、仏になるべしと説き給へり。

(45) 此の経を信じまひらせて聴聞するならば、提婆達多程の悪人だにも仏になる。まして末代の人は、たとひ重罪なりとも、多分は十悪をすぎずまして深く持ち奉る人、仏にならざるべきや。
 竜王のむすめ(当時、社会的に立場の弱かった、女性であり子供)竜女と申すは、八歳のくちなは仏に成りたる品にて候。此の事(社会的弱者が最初に成仏すること)、めづらしく貴き事にて候。
 善男子・善女人、此の法華経を持ち南無妙法蓮華経と唱え奉らば、此の三罪(瞋いかり・貪むさぼり・癡おろか)を脱るべしと説き給へり。何事か是にしかんたのもしきかな、たのもしきかな。
 経経に依つて勝劣を判ぜん時は、いかにも法華経は勝れたるべきなり。人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し。
 此の経に至らざれば、菩薩の行には有らず、善根を修したるにも有らずと云う文なり。また菩薩の行無ければ、仏にも成らざる事も顕然なり。
 大乗の心は、心より十界を生ず。
 今の妙法とは、此等の十界を互に具すと説く時、妙法と申す。
 外道に三人あり。一には、仏法外の外道(九十五種の外道)。二には、附仏法成の外道(小乗)。三には、学仏法の外道(妙法を知らざる大乗の外道)なり。

(46) 法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば、仏に成らんと願うには必ず九界を厭う。九界を仏界に具せざるが故なり。されば、必ず悪を滅し、煩悩を断じて、仏には成ると談ず。凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に。
 煩悩を断じ九界を厭うて、仏に成らんと願うは、実には九界を離れたる。仏無き故に往生したる実の凡夫も無し。
 何にも法華円実の菩提心を発さん人は、迷の九界へ業力に引かるる事無きなり。
 我が身が、三身即一(智慧・慈悲・勇気を一身にそなえた仏)の本覚の如来にてありける。
 我が心身より外には、善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物を、されば我が身が頓て、三身即一の本覚の如来にてはありける事なり。これをよそに思うを衆生とも、迷いとも、凡夫とも云うなり。
 これを信じて、一遍も南無妙法蓮華経と申せば、法華経を覚て如法に一部をよみ奉るにてあるなり。十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり。かく信ずるを如説修行の人とは申すなり。
 妙楽大師釈して云く、「当に知るべし、身土一念の三千なり故に、成道の時此の本理に称て、一身一念法界に遍し」

(47) 我が身即(三徳究竟の体=仏)にて、三身即一身の本覚の仏なり。これをしるを如来とも、聖人とも、悟とも云う。知らざるを凡夫とも、衆生とも、迷とも申す。
 我が身本覚の如来なること悟り出され、無明の雲晴れて、法性の月明かに、妄想の夢醒て、本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身・煩悩・具縛の身(悩み苦しんでいる自分自身)、即本有常住の如来(一切衆生に同苦する仏)となるべし。
 これを即身成仏(生まれ変わらずに仏となる)とも、煩悩即菩提(悩みを成長の種とする)とも、生死即涅槃(凡夫のまま不死の境界を得る)とも申す。
 妙法蓮華経の五字は、また我等が一心に納りて候けり。
 此の妙法蓮華経を唱うる時、心中の本覚の仏顕る。
 妙法蓮華経と唱うる時、心性の如来顕る耳にふれし類は、無量阿僧祗劫の罪を滅す。一念も随喜する時、即身成仏す。縦ひ信ぜざれども、種と成り、熟と成り、必ずこれに依て成仏す。
 此の娑婆世界は、耳根(耳は本人が嫌がっていても情報を受け入れれるという意味、耳が聞こえなくても題目の法門に触れることで成仏できる)得道の国なり。
 法華経の行者は、如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し。譬えば、春夏田を作るに早晩あれども、一年の中には必ず之を納む。

(48) 此の(法華)経は、専ら聞を以て本と為す。凡此の経は、悪人(反省し改心してからも世間から悪人と呼ばれても)・女人(男社会にあって差別される側であっても)・二乗(仏を外に置き特別視する考え)・闡提(正法に関心がなく信じない)を簡ばず故に、皆成仏道とも云ひ、又平等大慧とも云う。
 善悪不二(善も悪も心の働きの一つであり根源は同じ)・邪正一如と聞く処に、やがて内証成仏す。故に即身成仏と申し一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ。
 二乗作仏を許さずんば、菩薩の成仏もまたこれ無きなり。
 (成仏を妨げる)五種の過失とは、一には下劣心(自身の仏性を信じない)、二には高慢心(自分は悟っていると思う)、三には虚妄執(法門より自分が優れていると思う)、四には真法を謗じ(諸法の智慧を軽んじる)、五には我執を起す(一切衆生への慈悲がない)なり。
 法華経の名字を聞いて、或は題名を唱え、一字一句・四句一品・一巻八巻等を受持し、読誦し、乃至亦上の如く行ぜん人を随喜し讃歎する人は、法華経よりの外、一代の聖教を深く習い義理に達し、堅く大小乗の戒を持てる大菩薩の如き者(伝説の人物たちのこと)より勝れて、往生成仏を遂ぐ可し。

(49) 仏の滅後四十年にさえ、既に謬(あやま)り出来せり。何に況んや、仏の滅後既に二千余年を過ぎたり。
 修羅道とは止観(天台の最高傑作)の一(巻)に云く、「若し其の心、念念に常に彼(身の回りの人)に勝らんことを欲し耐えざれば、人を下し、他を軽しめ、己を珍ぶこと鵄の高く飛びて下視が如し。而も外には、仁義礼智信を掲げて下品の善心を起し、阿修羅の道を行ずるなり」
 菩薩界とは、六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ、他人を重んじ、悪を以て己に向け、善を以て他に与えんと念う者有り。
 爾前の人、法華経に至りぬれば、余界の功徳を一界に具す。故に、爾前の経即ち法華経なり。法華経即ち爾前の経なり。法華経は、爾前の経を離れず、爾前の経は法華経を離れず。これを妙法と言う。
 法華経に於ては、二乗・七逆の者を許す。上博地の凡夫、一生の中に仏位に入り、妙覚至つて因果の功徳を具するなり。
 時を知らずして、法を弘めば益無き上、還つて悪道に堕するなり。
 法華経を読む者、これ無し。法華経を読む者、これ無ければ国師となる者無きなり。
 日本国の当世は、如来の滅後二千二百一十余年後五百歳に当つて、妙法蓮華経広宣流布の時刻なり。これ、時を知れるなり。

(50) 法然隆寛、浄土宗を興し、実大乗(法華経)を破して権宗(浄土宗)に付き、一切経を捨てて教外を立つ。譬えば、珠を捨てて石を取り、地を離れて空に登るが如し。これは教法流布の先後を知らざる者なり。
 三類の敵、人を顕さずんば法華経の行者に非ず。これを顕すは、法華経の行者なり。而れども、必ず身命を喪わんか。例せば、師子尊者・提婆菩薩等の如くならん。
 因果をしらぬ者を邪見と申すなり。世間の法には、慈悲なき者を邪見の者という。当世の人人、此の地獄を免れがたきか。
 此の(無間)地獄の香のくささを、人かくならば四天・下欲界・六天の天人(世界中の人々)皆ししなん。
 逆縁・順縁のために、先ず法華経を説くべしと仏ゆるし給へり。
 仏法をひろめんとをもはんものは、必ず五義を存して正法をひろむべし。五義とは、一には教(法華経を)、二には機(相手の状況によらずに)、三には時(末法である現在)、四には国(世界中の人々に)、五には仏法流布の前後(順序はただ法華経を一番最初に説く)なり。
 (成仏できないと諸経典に説かれる)闡提とは、天竺の語此には不信と翻す。不信とは、一切衆生悉有仏性を信ぜざるは闡提の人と見へたり。

(51) 釈迦如来、過去・現在・未来の三世の諸仏、世にいで給いて各各一切経を説き給うに、いづれの仏も法華経第一なり。
 諸大乗経の者が、法華経をは(破)するは謗法となるべし。法華経の者の諸大乗経を謗するは、謗法となるべからず。
 二種の人有り、仏・法・僧を謗ずと、一には、不信にして瞋恚の心あるが故に、二には、信ずと雖も義を解せざるが故に。
 法華経に云く、「信を以て入ることを得」 一代聖教の中には、法華独り勝れたり。唯人、師の釈(経典の解釈)計りを憑みて、仏説によらずば、何ぞ仏法と云う名を付くべきや。言語道断の次第なり。
 ただ、法華経計りこそ最後の極説なるが故に、已今当(過去・現在・未来)の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ。
 須く、汝、仏にならんと思はば、慢のはたほこをたをし、忿りの杖をすてて、偏に一乗に帰すべし。名聞・名利(名声や蔵の財)は、今生のかざり。我慢・偏執(謝った教えに執着する心)は、後生のほだしなり。嗚呼、恥づべし、恥づべし、恐るべし、恐るべし。
 経には、「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして、十方の仏前に生ぜん」

(52) 法華経をよみたもたん者を見て、かろしめ、いやしみにくみ、そねみうらみをむすばん其の人は、(仏法を学びきわめていても)命をはりて(終わりて)、阿鼻大城に入らんと云へり。
 一切の草木は、地より出生せり。これを以て思うに、一切の仏法も又人によりて弘まるべし。
 持たるる法だに、第一ならば持つ人随つて第一なるべし。
 臨終已に今にありとは知りながら、我慢・偏執(自分の経験や考えに執着してしまう)・名聞・利養(目先の利益を重視してしまう)に著して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下にかひなし。
 願くは、「現世安穏、後生善処」の妙法を持つのみこそ、ただ今生の名聞、後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧んのみこそ、今生人界の思出なるべき。
 仏の御意あらはれて、法華の文字となれり。文字変じて、また仏の御意となる。されば、法華経をよませ給はむ人は、文字と思食(おぼりめす)事なかれ。すなわち仏の御意なり。
 今、真言を以て日本の仏を供養すれば、鬼入つて人の命をうばふ鬼をば、奪命者といふ。魔入つて功徳をうばふ魔をば、奪功徳者といふ。

(53) 鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。魔をたとむゆへに、後生には無間獄に堕す。人死すれば、魂去り、其の身に鬼神入り替つて、子孫を亡ぼす。餓鬼といふは、我をくらふといふ是なり。
 此の提婆品に、二箇の諌暁あり。所謂、達多の弘経、釈尊の成道を明し、また文殊の通経、竜女の作仏を説く。
 八歳の竜女、蛇身をあらためずして仏前に参詣し、価直三千大千世界と説かれて候。如意宝珠を仏に奉りしに、仏悦んでこれを請取り給いしかば、此のとき智積菩薩も舎利弗も不審を開き、女人成仏の路をふみわけ候。
 法華已前の諸経の如きは縦い、人中天上の女人なりといふとも、成仏の思絶たるべし。然るに竜女畜生道の衆生として戒緩の姿を改めずして、即身成仏せしことは不思議なり。
 鬼道の女人たる十羅刹女も成仏す、然れば尚殊に、女性の御信仰あるべき御経にて候。
 我深く、良観上人の如く及ばぬ身にも、わろき道を作り、深き河には橋をわたさんと思へるなり。その時、居士示して云く。汝が道心、貴きに似て愚かなり。今談ずる処の法は、浅ましき小乗の法なり。
 仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず。ただ経文を先きとすべし。身の賎をもつて、その法を軽んずる事なかれ。

(54) 今の法華経、最第一と説かれたり。然るを弘法大師は、一の字を三と読まれたり。
 四恩あり。之を知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす。予、父母の後世を助け、国家の恩徳を報ぜんと思うが故に、身命を捨つること、敢て他事にあらず。ただ知恩を旨とする計りなり。
 親の命に随ひ、(念仏を唱えるなど)邪正を簡ばず。主の仰せに順はんと云うこと、(法華経を信じない)愚癡の前には忠孝に似たれども、賢人の意には不忠・不孝これに過ぐべからず。
 今、既に得難き人界に生をうけ、値い難き仏教を見聞しつ、今生をもだしてはまた何れの世にか、生死を離れ菩提を証すべき。
 聖人示して云く。汝蘭室の友に交つて麻畝の性(よもぎが麻をまねて高く成長する)と成る。誠に禿樹(葉のない木)禿に非ず。春に遇つて栄え華さく、枯草枯るに非ず、夏に入つて鮮かに注ふ。
 邪正肩を並べ、大小先を争はん時は「万事」を閣いて謗法を責むべし。これ折伏の修行なり。
 身命をばほろぼすとも、正法をかくさざれ。その故は、身はかろく法はおもし。身をばころすとも、法をば弘めよとなり。
 若し仏法を行ずる人有つて、謗法の悪人を治罰せずして、観念思惟を専らにして、邪正権実をも簡ばず、詐つて慈悲の姿を現ぜん人は、諸の悪人と倶に悪道に堕つべし。

(55) ただ南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば、滅せぬ罪やあるべき、来らぬ福や有るべき。真実なり、甚深なり、これを信受すべし。
 上は、非想の雲の上。下は、那落の炎の底まで。所有一切、衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり。
 一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて、爰に集まる時、我が身の法性の法、報応の三身ともにひかれて、顕れ出ずる。これを成仏とは申すなり。
 例せば、篭の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる。これを見て篭の内の鳥も出でんとするが如し。
 嬰児(赤ん坊)に乳をふくむるに、其の味をしらずといへども、自然に其の身を生長す。医師が病者に薬を与うるに、病者薬の根源をしらずといへども、服すれば任運と病愈ゆ。
 法華経の法理を教へん師匠も、また習はん弟子も久しからずして、法華経の力をもつて倶(とも)に仏になるべし。
 妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来らざる事なく、善根として動かざる事なし。譬ば、網の目 無量なれども一つの大綱を引くに動かざる目もなく、衣の糸筋巨多なれども、一角を取るに糸筋として来らざることなきが如し。

(56) 汝、当座は信ずといふとも、後日は必ず(正法から)翻へさん。魔来り、鬼来るとも騒乱する事なかれ。夫れ天魔は、仏法をにくむ。外道は、内道をきらふ。
 末法、今の時は、教機・時刻 当来すといへども、其の師を尋ぬれば凡師なり。
 弟子また闘諍・堅固・白法・隠没・三毒・強盛の悪人等なり。
 故に、善師をば遠離し、悪師には親近す。其の上、真実の法華経の如説・修行の行者の師弟・檀那とならんには、三類の敵人決定せり。
 法王(釈尊)の宣旨、背きがたければ経文に任せて、権実二教のいくさを起し、忍辱の鎧を著て、妙教の剣を提げ、一部 八巻の肝心 妙法五字の旗を指上て、(無量義教に説かれる)未顕真実の弓をはり、正直捨権の箭(矢)をはげて、大白牛車に打乗つて、権門をかつぱと破り、かしこへおしかけ、ここへおしよせ、念仏・真言・禅律等の八宗十宗の敵人をせむるに、或はにげ、或はひきしりぞき。或は生取られし者は、我が弟子となる。或はせめ返し、せめをとしすれども、かたきは多勢なり。
 法王の一人は、無勢なり。今に至るまで、軍やむ事なし。
 仏法を修行せんには、(仏の意をくんでるのか分からないような)人の言を用う可らず。ただ仰いで、仏の金言をまほるべきなり。

(57) 国中の諸学者等、仏法をあらあら学すと云へども、時刻相応の道をしらず。四節四季取取に替れり。夏は熱く、冬はつめたく、春は花さき、秋は菓なる。春種子を下して、秋菓を取るべし。秋種子を下して、春菓を取らんに豈取らる可けんや。
 極寒の時は、厚き衣は用(役に立つ)なり。極熱の夏は、なにかせん。凉風は、夏の用なり。冬は、なにかせん。
 鷄の暁(日の出)に鳴くは、用なり。宵(真夜中)に鳴くは、物怪なり。権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして、山林に閉じ篭り、摂受を修行せんは、豈法華経修行の時を失う。物怪にあらずや。
 如説・修行の法華経の行者には、三類の強敵、打ち定んで有る可しと知り給へ。
 縦ひ頚をば鋸(のこぎり)にて引き切り、どうをばひしほこ(尖った矛)を以てつつき、足にはほだし(馬用の足かせ)を打って、きりを以てもむとも、命のかよはんほどは、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて、唱へ、死に、死る。
 仏の滅後に於て、四味・三教等の邪執を捨て、実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩法華の行者を守護せん。此の人は、守護の力を得て、本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て、閻浮堤に広宣・流布せしめんか。

(58) 例せば、威音王仏の像法の時不軽菩薩「我深敬等」の二十四字(の法華経)を以て、彼の土に広宣・流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。
 彼の二十四字と此の五字(の題目)と其の語 殊なりと雖も、其の意これ同じ。彼の像法の末(正法が滅しようとする時)と、是の末法の初(正法が滅した時)と全く同じ。彼の不軽菩薩は、初随喜の人。日蓮は、名字の凡夫なり。
 若し日蓮無くんば、仏語は虚妄(空しい嘘)と成らん。
 日蓮を蔑如するの重罪、また提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり。我が言は、大慢に似たれども、仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり。
 世の人疑い有らば、委細の事は弟子に之を問え。
 願くは、我を損ずる国主等をば、最初に之を(正法に)導かん。我を扶くる弟子等をば、釈尊に之を申さん。我を生める父母等には、未だ死せざる已前に此の大善を進めん。
 安州の日蓮は、恐くは三師(釈尊・天台・伝教)に相承し、法華宗を助けて末法に流通す三に一を加えて、三国・四師と号く。
 問う。妙法蓮華経とは其の体何物ぞや? 答う。十界の依正即ち妙法蓮華経の当体なり。
 悪縁に遇えば、迷と成り。善縁に遇えば、悟と成る。悟は、即ち法性なり。迷は、即ち無明なり。

(59) 所詮、妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子・檀那等の父母所生(両親か生まれた生身)の肉身これなり。
 無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子(出家の門下)・檀那(在家の門下)等の中の事なり。
 此の経は、これ十界の仏種に通ず。若し、此の経を謗せば、義これ十界の仏種を断ずるに当る。この人、無間に於て決定して、墮在す。何ぞ出ずる期を得んや。
 凡そ妙法の五字は、末法流布の大白法なり。地涌千界の大士の付属なり。
 一切衆生のみならず、十界の依正(自分自身と活躍する場所)の二法、非情の草木・一微塵にいたるまで、皆十界を具足せり。
 二乗(仏を一切衆生から切り離す考え)を永不成仏(絶対に成仏できない)と説き給ふは、二乗一人計りなげくべきにあらざりけり。我等も同じなげきにてありけりと、心うるなり。
 慈悲魔と申す魔身に入つて、三衣一鉢(釈尊と同じ服装)を身に帯し、小乗の一法を行ずるやから、はづかの小法を持ちて、国中の棟梁たる比叡山竜象の如くなる智者どもを一分我が教にたがへるを見て、邪見の者悪人なんどうち思へり。

(60) 如意宝珠を捨て、瓦石を取つて宝と為す可きか? 悲しいかな、当世天台宗の学者は、念仏真言禅宗等に同意するが故に、天台の教釈を習い失つて、法華経に背き、大謗法の罪を得るなり。
 目を開いて、妙法を思えば、(妙法即万物と見え)随縁真如なり。目を閉じて、妙法を思えば、(万物即妙法と見え)不変真如なり。
 此の両種の真如は、ただ一言の妙法に有り。我妙法を唱うる時、万法茲(ここ)に達し、一代の修多羅(sutra・経典)一言に含す。
 所詮、迹門を尋ぬれば迹広く、本門を尋ねぬれば本高し。如かじ己心の妙法を観ぜんにはと思食されしなり。
 我弟子等の中にも、信心薄淡き者は、臨終の時、阿鼻獄の相を現ず可し。その時、我を恨む可からず。
 如来は、大慈悲有つて、諸の慳りん(ものを惜しんで欲深い)無く、また畏るる所無く、能く衆生に仏の智慧・如来の智慧、自然の智慧を与う。
 一切法とは、一切皆是れ仏法なり。
 已今当の三説の中に、仏になる道は法華経に及ぶ経なしと云う事は、正しき仏の金言なり。
 末法当時は、久遠・実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘めさせ給うべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて、利生・得益もあり。上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり。

(61) 法華経を以て国土を祈らば、上一人より下万民に至るまで、悉く悦び栄へ給うべき鎮護国家の大白法なり。
 よき師と、よき檀那と、よき法と此の三、寄り合いて祈を成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。
 よき師とは、指したる世間の失無くして、聊のへつらうことなく、小欲知足(欲が少なく、最低限で満足を知る)にして、慈悲有らん僧の経文に任せて、法華経を読み持ちて、人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉、第一の法師なりと讃められたり。
 何なる衆生か仏になるべきと問わば、法華経を受持し奉らん人、必ず仏になるべしと答うべきなり。これ仏の御本意なり。
 とてもかくても、法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は、仏になるべし。謗ぜん者は、(不軽品に説かれるように)毒鼓の縁となつて仏になるべきなり。
 口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は、在世の竜女・小喬曇弥耶輸陀羅女の如くに、やすやすと仏になるべし。
 凡そ妙法蓮華経とは、我等衆生の仏性と、梵王・帝釈等の仏性と、舎利弗・目連等の仏性と、文殊・弥勒等の仏性と、三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり。

(62) 我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり。譬えば、篭(かご)の中の鳥なけば、空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば、篭の中の鳥も出でんとするが如し。
 口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ。梵王(インドの神話で宇宙を創造した神)・帝釈(インドの神話で神々の王)の仏性は、よばれて我等を守り給ふ。仏・菩薩の仏性は、よばれて悦び給ふ。
 仏になる道には、我慢(自分が偉いと思う)・偏執(自分の意見が一番と思う)の心なく、南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。
 言と云うは心の思いを響かして、声を顕すを云うなり。凡夫は我が心に迷うて知らず、覚らざるなり。
 然れば、八万四千の法蔵(インドから中国に渡った数多くの尊い経典)は、我身一人の日記文書なり。この八万法蔵を我が心中に孕み、持ち懐き持ちたり。我が身中の心を以て、仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを、迷いとは云うなり。此の心が、善悪の縁に値うて、善悪の法をば造り出せるなり。
 此の十法界は、一人の心より出で、八万四千の法門と成るなり。一人を手本として、一切衆生平等なること是くの如し。

(63) 痛ましいかな、悲しいかな、末代の学者。仏法を習学して、還つて仏法を滅す。
 「一切の法は、皆是れ仏法なり」と知りぬれば、教訓す可き善知識も入る可らず。「思うと思い」「言うと言い」「為すと為し」「儀いと儀う」行(外で歩く)・住(屋内で立つ)・坐(座る)・臥(伏せる)の四威儀(唱題)の所作は、皆仏の御心と和合して一体なれば、過も無く、障りも無き自在の身と成る。此れを、自行と云う。
 我が心の鏡と、仏の心の鏡とは、ただ一鏡なりと雖も、我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う。如来は面に向つて我が性の理を見たまえり故に、明と無明とは其の体ただ一つ。
 法華経は、自行・化他の二行を開会して、不足無きが故に、鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く、成仏滞り無し。
 春の時来りて、風雨の縁に値いぬれば、無心の草木も皆悉く萠え出生して、華敷き栄えて世に値う気色なり。秋の時に至りて、月光の縁に値いぬれば、草木皆悉く実成熟して、一切の有情を養育し寿命を続き長養し、終に成仏の徳用を顕す。これを疑い、これを信ぜざる人、有る可しや。無心の草木すら猶以て是くの如し。何に況や人倫に於てをや。

(64) 我等は迷の凡夫なりと雖も、一分の心も有り、解も有り。善・悪も分別し、折節を思知る。然るに宿縁に催されて、生を仏法流布の国土に受けたり。
 天竺より仏法、漢土へわたりし時、小大の経経は(仏の)金言に(人師の)私言まじはれり。
 月氏(インド)より漢土(中国)に経を渡せる訳人は、一百八十七人なり。其の中に(民衆と共に暮らす期間の長かった)羅什三蔵一人を除きて、前後の一百八十六人は(チーズになる)純乳に(腐る原因となる)水を加へ、薬に毒を入たる人人なり。
 日蓮が、法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は、諸天世間の眼にあらずや。眼には、五あり。所謂、肉眼(視力)・天眼(洞察力など)・慧眼(智慧のある判断)・法眼(同苦するための慈悲)・仏眼(広布の勇気)なり。此の五眼は、法華経より出生せさせ給う。
 尼倶律陀長者、氏神に向て大悪口大瞋恚(怒り)を生じて、大願を成就し賢子をまうけ給いぬ。当に知るべし、瞋恚は善悪に通ずる者なり。
 今、日蓮は去ぬる建長五年四月二十八日(立宗の日)より、今年弘安三年十二月(執筆日)にいたるまで、二十八年が間又他事なし。ただ、「妙法蓮華経」の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんと、はげむ計りなり。

(65) 此れ即、母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。
 涅槃経に云く、「一切衆生異の苦を受くるは、悉く是如来一人の苦なり」等云云。日蓮云く、一切衆生の同一苦は、悉く是日蓮一人の苦と申すべし。
 経文の如くんば、「南無妙法蓮華経」と申す人をば、大梵天・帝釈・日月四天等昼夜に守護すべしと見えたり。
 天竺国(インド)をば、月氏国と申すは、仏の出現し給うべき名なり。扶桑国(日本の旧名)をば、日本国と申す、あに聖人出で給わざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法の東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり。
 月は光あきらかならず、在世は(法華経説法の期間と言われている)但八年なり。日は光明月に勝れり、(末法)五五百歳の長き闇を照すべき瑞相(前触れとなるような事件)なり。
 末法には一乗(法華経)の強敵充満すべし。不軽菩薩の利益此れなり。各各我が弟子等、はげませ給へ、はげませ給へ。
 後には、謗法の法然に同じて、師子(竜や白虎すら恐れる伝説の獣)身中の虫の自ら師子を食うが如し。
 (伝教大師の法華)秀句の下に云く、「法華経を讃むと雖も、(求道と勇気がなければ)還つて法華の心を死す」

(66) 我が滅度の後に於て、応にこの経を受持すべし。この人、仏道に於て決定して疑有ること無けん。
 この法華経は、最も為れ難信・難解なり。随自意の故に、(凡夫が仏になる)随自意の説は、(仏が凡夫を育てる)随他意に勝る。
 御義口伝に云く、「南無」とは梵語(古代インド語でサンスクリット語のこと)なり。
 此(漢土の言葉)には、帰命(命をささげる)と云う。(帰命の対象には)人・法これ有り。
 人とは、(自分の中にある最高の人格である)釈尊に帰命し奉るなり。
 法とは、法華経(末法においては題目)に帰命し奉るなり。また「帰」と云うは、迹門不変真如の理(万物の根底にあり変化せず崩れない仏性)に帰するなり。
 命とは、本門随縁真如の智(万物を縁として現れる仏の振る舞い)に命(もとづ)くなり。
 「帰命」とは「南無妙法蓮華経」これなり。
 (伝教大師の)釈に云く、随縁(本門)・不変(迹門)・一念(善悪ともに具えた一瞬の生命の働きに)・寂(不変の仏性と)・照(仏の振る舞いを現実に現す)と、また「帰」とは我等が色法(肉体、行動)なり。「命」とは我等が心法(精神、思想)なり。
 色心不二(思想と行動は二つであるが一致する)なるを「一極」と云うなり。釈に云く、一極に帰せしむ故に、仏乗と云うと。

(67) また、云く。「南無妙法蓮華経」の「南無」とは梵語。「妙法蓮華経」は漢語なり。梵・漢共時に「南無妙法蓮華経」と云うなり。
 また、云く。梵語には「薩・達磨・芬陀梨伽・蘇多覧」と云う。此には妙法蓮華経と云うなり。「薩」(不思議なほど正しい)は妙なり。「達磨」(法則)は法なり。「芬陀梨伽」(白い睡蓮)は蓮華なり。「蘇多覧」(経典)は経なり。
 九字(サンスクリットで九音節のこと)は、九尊の仏体(九体の仏)なり。九界即仏界(凡夫である九界がそのままの姿で仏の振る舞いをする)の表示なり。
 妙とは、法性(迷いのない生命)なり。法とは、無明(現実にあって迷う生命)なり。無明・法性 一体(根源は同じ)なるを妙法と云うなり。蓮華とは、(他の植物と違い花が咲くと同時に実が完成している)因(花)・果(実)の二法なり。
 これまた、因果一体なり。「経」とは(仏だけでなく)一切衆生の言語・音声を経と云うなり。(章安大師の)釈に云く、「声仏事(如来が一切衆生を救うこと)を為す之を名けて経と為す」と。或は、三世常恒(人が死んでも形が残る)なるを経と云うなり。
 法界は妙法なり。法界(世界)は蓮華なり。法界は経なり。蓮華とは八葉九尊の仏体なり。能く能く之を思う可し已上。

(68) 伝教、云く。法華経を讃むると雖も、還つて法華の心を死すと。死の字に心を留めて、これを案ず可し。不信の人は、(仏説を聞いたことにならないので)如是我聞の聞には非ず。
 火の能作としては、照焼の二徳を具うる南無妙法蓮華経なり。今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、生死の闇を「照し」晴して涅槃(死を不幸としない境界)の智火明了なり。
 生死即涅槃と開覚するを照則闇不生(照らせば生死の闇は生じない)とは云うなり。煩悩の薪を「焼いて」菩提(欲を未来への希望へと転換する)の慧火現前するなり。煩悩即菩提と開覚するを焼則物不生(焼けば三毒の物が生じない)とは云うなり。
 去て依正二報(自身と環境)の成仏の時は、此の品の下至阿鼻地獄の文は依報(地獄の環境)の成仏を説き、提婆達多の天王如来は正報(地獄の衆生)の成仏を説く。依報正報共に妙法の成仏なり。今日蓮等の類い聖霊を訪(とむら)うとき、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱え奉るとき、題目の光、無間に至りて即身成仏せしむ。(五座の)廻向の文、此れより事起るなり。

(69) 無問自説とは、釈迦如来・妙法蓮華経を無問自説し給うなり。今、日蓮等の類いは、無問自説なり。「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」(当時、世間で尊いとされた四つの宗派の堕落を具体的に述べたもの、この四つの格言を文字通りに扱うのはむしろ大聖人の心を無視することとなる)と喚ぶ事は、無問自説なり。三類の強敵、来る事は此の故なり。
 一切衆生実相の仏なれば、妙なり不思議なり。謗法の人、今これ(法華経を信じれば成仏できるということ)を知らざる故に、これを秘と云う。
 中に竪(たて)に高く、横に広しとは、竪は本門なり、横は迹門なり。根とは、草木なり。草木は、上へ登る。此れは、(師を越えようと弟子が師に向かって決意する)迹門の意なり。源とは、本門なり。源は、水なり。水は、下へくだる。此れは、(師弟不二の弟子が師を背に広布を決意する)本門の意なり。条茂とは、迹門十四品なり。流長とは、本門十四品なり。
 我等が頭は、妙なり。喉は、法なり。胸は、蓮なり。胎は、華なり。足は、経なり。此の五尺(約150cm、6尺は約180cm)の身、妙法蓮華経の五字なり。
 我等が一身の妙法五字なりと開仏・知見(仏の智慧と眼)する時、即身成仏するなり。開とは信心の異名なり。信心を以て妙法を唱え奉らば、軈(やが)て開仏知見するなり。

(70) 師弟感応して受け取る時、如我等無異(釈尊と弟子が等しい境界で異なることがない)と悟るを、悟仏知見と云うなり。
 生死の二法は、一心の妙用。
 瞋恚(怒りにしばられ)増劇にして、刀兵(戦争)起り、貪欲(欲望に支配され)増劇にして、飢餓(異常な貧富の差)起り、愚癡(愚かさ)増劇にして疾疫(伝染病の恐怖)起り。
 我とは釈尊我実成仏久遠の仏なり。此の本門の釈尊は、我等衆生の事なり。
 今、日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり。豈今者已満足に非ずや。已とは、建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して、已と意得可きなり。妙法の大良薬を以て、一切衆生の無明の大病を治せん事、疑い無きなり。此れを思い遣る時んば満足なり。満足とは、成仏と云う事なり。
 大悲とは、母の子を思う慈悲の如し。今、日蓮等の慈悲なり。
 合掌とは、法華経の異名なり。向仏とは、法華経に値い奉ると云うなり。合掌は、色法なり。向仏は、心法なり。色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍と説くなり。

(71) 惣じて、鏡に付て重重の相伝、之有り。所詮、鏡の能徳とは万像を浮ぶるを本とせり。「妙法蓮華経」の五字は、万像を浮べて、一法も残る物之無し。また云く、鏡に於て五鏡之れ有り。「妙」の鏡には、法界の不思議を浮べ、「法」の鏡には、法界の体を浮べ、「蓮」の鏡には、法界の果を浮べ、「華」の鏡には、法界の因を浮べ、「経」の鏡には、万法の言語を浮べたり。
 一門とは、法華経の信心なり。「車」とは、法華経なり。「牛」とは、南無妙法蓮華経なり。「宅」とは、煩悩なり。自身法性の大地を生死、生死と転ぐり行くなり。
 一念三千も、信の一字より起り、三世の諸仏の成道も、信の一字より起るなり。此の「信」の字、元品の無明を切る利剣なり。其の故は、「信」は無疑曰信とて、疑惑を断破する利剣なり。
 法華経は、一切衆生の父なり。此の父に背く故に、流転の凡夫となる。釈尊は、一切衆生の父なり。此の仏に背く故に、備さに諸道を輪ぐるなり。
 日本国の一切衆生は、子の如く、日蓮は、父の如し。法華不信の失に依つて、無間大城に堕ちて、返つて日蓮を恨みん。また、日蓮も声も惜まず、法華を捨つ可からずと云うべきものを霊山にて悔ること、これ有る可きか。

(72) 法華の心を信ずるは、種なり。諸法実相の内証に入れば、仏果を成ずるなり。
 「南無妙法蓮華経」と唱え奉るは、謗法の有執(自分中心の論理)を断じて、釈迦法王と成ると云う事なり。破有の二字を以て、釈迦如来の種子とは云うなり。
 「記」(仏の名前)とは、「南無妙法蓮華経」なり。「授」とは、日本国の一切衆生なり。不信の者には、授けざるなり。また、之を受けざるなり。
 今、日蓮等の類い「南無妙法蓮華経」の記を受くるなり。また云く、授記とは法界の授記なり。地獄の授記は、悪因なれば悪業の授記を罪人に授くるなり。
 「南無妙法蓮華経」の光明を謗法の闇冥(目に見えない過ちや不信)の中に、指し出だす。これ即ち、迦葉(釈迦十大弟子の一人)の光明如来(迦葉が釈尊からもらった仏の名前)なり。
 化城即宝処とは、「即」の一字は南無妙法蓮華経なり。念念の化城(仏弟子を勇気付けるための小さな目標)・念念の宝処(成仏)なり。
 一念とは、「南無妙法蓮華経・無疑曰信の一念なり。即の一字心を留めて、これを思う可し。
 我等が滅する当体は、化城(仮の姿)なり。此の滅を滅と見れば、化城(凡夫の境界)なり。不滅の(意味を持つ)滅と知見するを宝処(仏の境界)とは云うなり。

(73) 「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者は、化城即宝処なり。我等が居住の山谷・曠野・皆皆常寂光(仏の慈悲の光に覆われている)の宝処なり。
 「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者は、一同に皆共至宝処なり。共の一字は、日蓮に共する時は、宝処に至る可し。不共ならば、阿鼻大城に堕つ可し。
 歓喜とは、善悪共に歓喜なり。十界同時なり、深く之を思う可し。
 大願とは、法華弘通なり。
 法華の行者は、(娑婆世界へ)如来の使に来れり。如来とは釈迦、如来事とは南無妙法蓮華経なり。如来とは、十界三千の衆生の事なり。
 今、日蓮等の類い、「南無妙法蓮華経」と唱え奉るは、真実の御使なり。
 法華の行者は、男女共に如来なり。煩悩即菩提、生死即涅槃なり。
 「南無妙法蓮華経」と唱え奉りて、信心に住する処が住在空中なり。虚空会(法華経説法のメイン会場)に住するなり。
 煩悩の淤泥の中に、真如の仏あり我等衆生の事なり。
 譬如大風とは、題目の五字なり。吹小樹枝とは、折伏門なり。今、日蓮等の類い「南無妙法蓮華経」と唱え奉るは、大風の吹くが如くなり。
 法華経を持ち奉るとは、我が身仏身と持つなり。

(74) 仏身を持つとは、我が身の外に仏無しと持つを云うなり。
 此の法華経を持つ者は、難に遇わんと心得て持つなり。
 「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者は、釈迦・法王の御子なり。
 (竜女が成仏したとされる)八歳とは、法華経八巻(の八)なり。我等八苦(生きている上で必ず現れる八つの苦悩)の煩悩なり。惣じて法華経の成仏は、八歳なりと心得可し。八苦(八つの苦が)即(題目により)・八巻(からなる法華経へと転換される)なり。八苦・八巻・即八歳の竜女と顕るるなり。
 (勧持品の)勧とは、化他。持とは、自行なり。「南無妙法蓮華経」は、自行化他に亘(わた)るなり。今、日蓮等の類い、「南無妙法蓮華経」を勧めて、持たしむるなり。
 (不惜身命の)身とは、色法。命とは、心法なり。事理の不惜、身命之れ有り。法華の行者田畠等を奪わるは、(蔵の宝の難であり)理の不惜身命なり。
 命根を断たるを(身の宝、心の宝に傷をつけられるので)事の不惜身命と云うなり。今、日蓮等の類い「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者は、事理共に値うなり。
 (師子吼の)師とは、師匠授くる所の妙法。子とは、弟子受くる所の妙法。吼とは、師弟共に唱うる所の音声なり。作とは、おこすと読むなり。末法にして南無妙法蓮華経を作すなり。

(75) 悪鬼とは、法然・弘法等是なり。入其身とは、国王・大臣・万民等の事なり。
 今、日蓮等の類い、「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり。鬼とは、命を奪う者にして、奪功徳者と云うなり。
 法華経は、三世諸仏の命根なり。此の経は、一切諸菩薩の功徳を納めたる御経なり。
 「妙法蓮華経」を安楽に行ぜむ事、末法に於て今日蓮等の類いの修行は、妙法蓮華経を修行するに難来るを以て、安楽と意得可きなり。
 南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、皆地涌の流類なり。
 火は物を焼くを以て行とし、水は物を浄むるを以て行とし、風は塵垢を払うを以て行とし、大地は草木を長ずるを以て行とするなり。四菩薩の利益是なり。四菩薩の行は不同なりと雖も、倶に妙法蓮華経の修行なり。
 法を受持するは信の一字なり。元品の無明を対治する利剣は信の一字なり。無疑曰信の釈之を思ふ可し。
 無作(悩みと向き合うそのままの姿)の三身(智慧、慈悲、勇気の備わった仏)とは、末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。
 無作の三身の所作は、何物ぞと云う時、南無妙法蓮華経なり。
 無作の三身をば、一字を以て得たり。所謂(いわゆる)「信」の一字なり。

(76) 我実と成けたる仏にして、已(過去)も、来(未来)も無量なり。無辺なり。
 生死を見て、厭離(嫌がり恐れる)するを迷と云い、始覚(迹門)と云うなり。さて本有の生死(過去にいくつも経験していて恐れていない)と知見するを「悟」と云い、本覚(本門)と云うなり。
 邪師の法を信受するを名けて、飲毒と為す。
 本心を失うとは、謗法なり。本心とは、下種なり。不失とは法華経の行者なり。失とは本有る物を失う事なり。今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、本心を失わざるなり。
 法華の行者、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり。法華の行者は、罵詈せらるれども忍辱を行ずるは、瞋恚の病を除くなり。法華経の行者は、是人於仏道決定無有疑と成仏を知るは、愚癡の煩悩を治するなり。
 自も我も得たる仏来れり。十界本有の明文なり。我は法身(不動の境界)、仏は報身(智慧)来は応身(慈悲の行動)なり。此の三身無始無終の古仏にして、自得なり。
 霊山とは、御本尊並びに日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり。

(77) 南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、一切衆生の父なり。(謗法の衆生が堕ちるとされる)無間地獄の苦を救う故なり云云。
 涅槃経に云く、「一切衆生の異の苦を受くるは、悉く是れ如来一人の苦」と云云。
 日蓮が云く、一切衆生の異の苦を受くるは、悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。
 無上道(法華経の身読でこれ以上に尊い道はないという意味)とは、寿量品の無作の三身なり。此の外に、成就仏身之れ無し。今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は成就仏身疑無きなり。
 (自我得仏来の)自とは、(自我偈の)始なり。速成就仏身の身は、(自我偈の)終りなり。始終自身なり。中の文字は(自受用身の)受用なり。仍つて自我偈は、自受用身(生まれたときから仏性を具えている)なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば、自我偈に非ずと云う事なし。自受用身とは、一念(一瞬の心の働きに)・三千(森羅万象を具えている)なり。
 此の(寿量)品の所詮(最も重要な部分)は、久遠実成(仏は特別な人がなるのではなく元からある仏性を開くだけということ)なり。久遠とは、はたらかさず、つくろわずもとの侭と云う義なり。

(78) 無作(凡夫の姿)の三身(仏の境界と智慧と慈悲)なれば、(幾度も生まれ変わって)初めて成(仏)ぜず。是れ働かざるなり。卅二相・八十種好(古代インドで描かれた神の特徴)を具足せず。是れ繕わざるなり。本有常住の仏なれば、本の侭なり。これを久遠と云うなり。
 修行とは、無疑曰信の信心の事なり。授与の人とは、本化地涌の菩薩なり。
 信の処に解あり。解の処に信あり。然りと雖も、信を以て成仏を決定するなり。
 喜とは、自他共に喜ぶ事なり。自他共に、智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり。法蓮華経の(法師功徳とは)法の師と成つて、大なる徳有るなり。「功」は「幸」と云う事なり。
 悪を滅するを「功」と云い、善を生ずるを「徳」と云うなり。
 功徳とは、即身成仏なり。また、六根(五感と知能)清浄なり。法華経の説文の如く修行するを「六根清浄」と得意可きなり。
 眼の功徳とは、法華不信の者は無間に堕在し、信ずる者は成仏なりと見るを以て眼の功徳とするなり。
 法華の題目は、獅子の吼ゆるが如く、余経は余獣の音の如くなり。諸経中王の故に、王と云うなり。
 日本国の一切衆生を法華経の題目の機なりと知見するなり。

(79) (不軽菩薩が万人への礼拝行で唱えた我深敬汝等不敢軽慢所以者何汝等皆行菩薩道当得作仏「私はあなた方を決して軽蔑しない。なぜならばあなた方はいずれ菩薩道を行じ、仏となれれる尊い方だからです。」という経文の)廿四字と妙法の五字は替われども、其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり。
 南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、色心共に清浄なり。
 南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無智の比丘(修行者)と謗ぜられん事経文の明鏡なり。無智を以て法華経の機と定めたり。
 南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、末法の不軽菩薩なり。
 過去の不軽菩薩は、今日の釈尊なり。釈尊は、寿量品の教主なり。寿量品の教主とは、我等法華経の行者なり。さては、我等が事なり。今日蓮等の類いは、不軽なり。
 末法の仏とは、凡夫なり、凡夫僧なり。法とは、題目なり。僧とは、我等行者なり。仏とも云われ、また凡夫僧とも云わるるなり。
 若し法華誹謗の失を改めて、信伏随従する共浅く有りては、無間に堕つ可きなり。先謗強きが故に、依るなり。千劫無間地獄に堕ちて、後に出づる期有つて、又日蓮に値う可きなり。復遇日蓮なるべし。

(80) 妙法蓮華経の五字は、三世の諸仏共に許して、未来滅後の者の為なり。
 不軽礼拝の行は、皆当作仏と教うる故に慈悲なり。すでに杖木・瓦石を以て打擲すれども、而強毒之するは慈悲より起れり。仏心とは、大慈悲心是なりと説かれたれば、礼拝の住処は慈悲なり。
 不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆所具の仏性、また不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向つて礼拝を成す時、浮べる影また我を礼拝するなり。
 慢の四衆、罵詈・瞋恚を成して虚妄の授記と謗ずと云えども、不生瞋恚と説く間、忍辱地に住して、礼拝の行を立つるなり。
 本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱の力を以て、弘通するを「娑婆」と云うなり。忍辱は、寂光土なり。此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり。娑婆とは、堪忍世界と云うなり。
 華の心は、煩悩即菩提生死即涅槃なり。離解の二字は、此の説相に背くなり。然るに、離の字をば明とよむなり。本門寿量の慧眼開けて、見れば本来本有の病痛苦悩なりと明らめたり。
 (妙音菩薩の)妙とは、不思議なり。「音」とは、一切衆生の吐く所の語言・音声が妙法の音声なり。三世常住の妙音なり。所用に随つて、諸事を弁ずるは慈悲なり。これを菩薩と云うなり。

(81) 法華経を持ち奉るを以て、一切の孝養の最頂とせり。
 謗法の人は獄卒来迎し、法華経の行者は千仏来迎し給うべし。今日蓮等の類い「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者は、千仏の来迎疑無き者なり。
 法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり。此を去つて、彼に行くには非ざるなり。道場とは、(悩みながらも生きている)十界の衆生の住処を云うなり。今日蓮等の類い「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者の住処は、山谷曠野皆寂光土(仏の住む世界)なり。これを道場と云うなり。
 釈尊八箇年の法華経を八字に留めて、末代の衆生に譲り給うなり。八字とは「当起遠迎当如敬仏」(まさに立って遠くからを迎えるまさに仏を敬うがごとく)の文なり。
 桜梅桃李の己己の当体を改めずして、無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり。今日蓮等の類い「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者は、無作三身の本主なり。
 法華経を信仰せば、天下安全たらむ事、疑有る可からざるなり。
 我が心本より覚なりと、始めて覚るを成仏と云うなり。所謂「南無妙法蓮華経」と始めて覚る題目なり。
 衆生の心は、本来仏なりと説くを常住と云うなり。万法元より覚の体なり。

(82) 自身の仏乗を悟つて、自身の宮殿(絶対的幸福境界)に入るなり。所謂「南無妙法蓮華経」と唱え奉るは、自身の宮殿に入るなり。
 己心より外に実相(諸仏の智慧)を求む可からず。所謂「南無妙法蓮華経」は、不求自得なり。
 当来(これからの未来)の成仏顕然なり。所謂「南無妙法蓮華経」なり。
 (今世にあって)始めて我心、本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く。所謂「南無妙法蓮華経」は、歓喜の中の大歓喜なり。
 我等が一念の妄心(仏になるとは思えないような心)の外に、仏心無し。九界の生死(不死不滅の理想世界ではない現実)が、真如(仏に属するもの)なれば、即ち自在(心に縛られて不自由でない)なり。
 「南無妙法蓮華経」と唱え奉るは疾得なり。
 三惑(三種類の成仏の妨げとなる迷い)の全体、三諦(一切衆生を救う仏の智慧と勇気と慈悲)と悟るを変と説くなり。所謂「南無妙法蓮華経」と唱え奉るは、三惑即三徳なり。
 色心(心と体)・幻化(目に見えるもの、見えないもの)・四大(地水火風、当時の哲学では原子に相当する)・五陰(人間の五感と心の働き)元より悪習なり。然るに(けれども)本覚(もとからあるの仏性)真如(最上の智慧)は、常住(消えはしない)なり。

(83) (昼夜に常に精進す仏道を求めたるがが故なりとは)一念(一瞬の生命に)に、億劫(宇宙が数億回、完成し滅ぶ機関)の辛労(悩みと労苦)を尽せば、本来無作の三身念念(瞬間、瞬間)に起るなり。所謂「南無妙法蓮華経」は、精進行なり。
 万法(宇宙の法則に従うもの、宇宙全体)を無作の三身と見るを如実知見(仏の目で見たもの)と云う。無作の覚体なれば、何に依つて生死(生老病死による苦しみ、敗北感)有りと云わんか。
 一切の万行(多くの修行)・万善(多くの善行)、但一心本覚の三身を顕さんが為なり。善悪一如(善も悪も相対的でいつでもマイナスからプラスに転換できる)なれば、一心福とは云うなり。
 地獄(の苦)も仏界(の歓喜)も、一如(元は同じ人間の心の働き)なれば、(たとえ苦悩のさなかにあっても)成仏決定するなり。
 釈迦如来の悟(生老病死を恐れない不死の境界)の如く、一切衆生の悟と不同有ること無し。故に如来の智慧を信ずるは、即ち妙法なり。
 久遠を悟るを身、不動揺と云うなり。惑障を尽くさず(消滅させない)して、寂光(仏の行動、境界)に入るを三昧とは云うなり。

(84) 皆成仏道の法は、「南無妙法蓮華経」なり。
 妙法の五字は、九識(心の王、仏性)方便は八識(実際の心の働き、正邪がある)已下なり。九識は、悟なり。八識已下は、迷なり。
 「妙法蓮華経」方便品と(続けて)題したれば迷悟不二なり。
 色心(決意と行動)共に法師にして、自行(法を師とする)化他(師となって法を説く)を顕すなり。
 かかる宝塔(法華経を証明するために出現したとされる巨大な宝の塔、インドに出現した場合オーストラリアからも見える大きさ)も、「妙法蓮華経」の五字より外は之れ無きなり。「妙法蓮華経」を見れば宝塔即一切、衆生一切、衆生即「南無妙法蓮華経」の全体なり。
 所詮、釈尊(インドに出現した聖人)も文殊(法華経を聞いたことがある菩薩)も提婆(釈尊に敵対した弟子)も竜女(竜王の娘、獣であり、子供であり女性、当時の考えでは差別される側の存在)も、一つ種の「妙法蓮華経」の功能なれば、本来成仏なり。仍つて、「南無妙法蓮華経」と唱え奉る時は、十界同時に成仏するなり。
 「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者は、従地涌出の菩薩なり。(自分自身が偉大な菩薩であるのだから)外に(救済を)求むること莫かれ。

(85) 功徳とは、十界己己の当体の(いかり・むさぼり・おろか)三毒の煩悩を此の品の時、其の侭、妙法の功徳なりと分別するなり。
 父母所生(与えられた)の六根(五感と意識)は、清浄にして自在無碍なり。妙法の六根なれば、十界三千の六根皆清浄なり。
 (不軽)菩薩の礼拝の行とは、一切衆生の事なり。自他一念の礼拝なり。父母果縛(欲から離れられない)の肉身を「妙法蓮華経」と礼拝するなり。
 仏性(仏の心)も、仏身(仏の体、行動)も、衆生の当体(そのままの姿)の色心なれば、直ちに礼拝を行ずるなり。仍つて皆当作仏の四字は「南無妙法蓮華経」の種子に依るなり。
 法界(宇宙全体)の音声「南無妙法蓮華経」の音声に非ずと云う事なし。
 法華経は、生死・生死と転りたり。
 「南無妙法蓮華経」の七字なり。末法弘通の要法唯此の一段に、之れ有るなり。此等の心を失うて、要法に結ばずんば、末法弘通の法には、不足の者なり。剰え日蓮が本意を失う可し、日蓮が弟子・檀那別の才覚無益なり。
 子とは、地涌の菩薩なり。父とは、釈尊なり。世界とは、日本国なり。益とは、成仏なり。法とは、「南無妙法蓮華経」なり。

(86) 末法は「南無妙法蓮華経」の七字を弘めて、利生得益あるべき時なり。されば、此の題目には余事を交えば、僻事なるべし。
 法華経二十八品は、影の如く響の如し。題目の五字は、体の如く、音の如くなり。題目を唱え奉る音は、十方世界にとずかずと云う所なし。
 我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし。
 九識本法の都(心の中にある仏の住まい)とは、法華の行者の住所なり。
 下種の華によって、成仏の蓮を取る。「妙法蓮華」即ち下種なり。下種即ち「南無妙法蓮華経」なり。
 所詮、法華経の意は、煩悩即菩提生死即涅槃生仏不二迷悟一体といえり。
 聞は即身成仏法華経に限ると聞くなり。
 法華経を行ずる日蓮等が弟子・檀那の住所は、いかなる山野なりとも霊鷲山なり。行者豈釈迦如来に非ずや。日本国は、耆闍崛山。日蓮等の類は、釈迦如来なるべし。
 法華経を下種として、成仏すべしと。
 人法一体(人が法を証明し、法が人を磨く)にして、即身成仏なり。
 父母の成仏、即ち子の成仏なり。子の成仏、即ち父母の成仏なり。
 法華経の行者は、男女悉く世尊に非ずや。

(87) 諸法(森羅万象が)実相(仏に属する)なれば、十界の衆生を仏とは云うなり。十界の衆生の語言・音声成就(仏法)にして、法華経なり。
 成就とは、我等衆生の煩悩即菩提生死即涅槃の事なり。
 十如是は、法華経の眼目、一切経の惣要たり。
 日蓮も三十二までは(国難に遭ってまで法華経を広めるのは)畏れありき。若しや此の「南無妙法蓮華経」を弘めずしてあらんずらんと畏れありき。今は即ち此の恐れ無く、既に末法当時「南無妙法蓮華経」の七字を日本国に弘むる間恐れなし。終には、一閻浮提に広宣・流布せん事一定なるべし。
 疑の字は、元品の無明の事なり。
 此の疑を断つを信とは云うなり。(天台大師)釈に云く、無疑曰信と云えり身子(舎利弗)は此の疑無き故に華光仏と成れり。
 法華経の行者、三類の強敵を堪忍して、妙法の信心を捨つ可からざるなり。信心を以て、眼とせり。
 法華経に値い奉りて、「南無妙法蓮華経」と唱え奉る時、煩悩即菩提生死即涅槃と体達するなり。
 「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者は、男女・貴賎(世間的な身分の違い)共に「無上宝聚不求自得」(この上ない仏性と言う宝を求めずして得ている)の金言を持つ者なり。智者・愚者をきらわず、共に即身成仏なり。

(88) (ブッダを尊敬する余り形式に陥った)爾前の心は、煩悩を捨てて生死を厭うて、(自分や身の回りとは)別に(遠方や死後の世界に)菩提涅槃を求めたり。
 (ブッダの行動を讃えた)法華経の意は、煩悩即菩提生死即涅槃と云えり。
 「南無妙法蓮華経」と唱え奉る者の、住処(であれば世界中どこだって)即寂光土(仏の住む世界)と心得可きなり。
 釈迦と多宝(法華経の中で釈尊の言葉が真実であると証明した他土の仏)の二仏は、我等が己心なり。
 此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして、釈迦多宝二仏(虚空会の儀式の中で)並座して、(譬喩品に説かれる)乗此宝乗直至道場(この宝の乗り物に乗り直接、仏の道へ至る=お題目をあげればそのままの姿で仏の境界を開いていける)を顕わし給えり。
 一華一香(を仏前に供養する)の小善も、法華経に帰すれば大善となる。縦い法界に充満せる大善なりとも、此の経に値わずんば善根とはならず。
 (法華経の真意は)煩悩を以て、如来の種と為す。
 今日蓮等の類い「南無妙法蓮華経」と唱え奉る。豈三世の諸仏の仏種を継ぐ者に非ずや。

(89) (善智識の)知識とは形をしり、心をしるを云うなり。これ即ち、色心の二法なり。
 謗法の色心を捨てて、法華経の妙境(仏の振る舞い)・妙智(仏の心)の色心を顕すべきなり。悪友は謗法の人人なり。善友は日蓮等の類いなり。
 日蓮も生年三十二にして、自得し奉る題目なり。
 (法華経を)聞く故に、持ち奉るの故に、三類の強敵来る。
 来るを以て、現世安穏の記文顕れたり。法華の行者なる事、疑無きなり。法華の行者は、かかる大難に値うべしと見えたり。大難に値うを以て、後生善処の成仏は決定せり。これ豈、現世にして安穏なるに非ずや。
 現世安穏は色法、後生善処は心法なり。
 十界の色心、妙法と開覚するを現世安穏・後生善処とは云うなり。所詮、法華経を弘むるを以て、現世安穏・後生善処と申すなり。
 善人・悪人、二乗(世間から離れた仏弟子)・闡提(法華経を信じない偏見無智の衆生)、正見邪見等の者にも、妙法の雨を惜まず、平等にふらすと云う事なり。
 「南無妙法蓮華経」を日本国の一切衆生の頂上にふらすを法の雨をふらすと云うなり。

(90) 法華より外の一切衆生は、いかに高貴の人なりとも(心の長者とはなれないので)、餓鬼道の衆生なり。
 (遇大王膳:正法にめぐり合うのは飢えた人が大王の晩餐にまぬかれるようなものだというたとえ)大王膳とは、所謂「南無妙法蓮華経」これなり。
 遇の字には、人法を納めたり(最高の法と師にめぐりあうことだ)。
 大歓喜と云う時は、日蓮が弟子・檀那等の信者をさすなり。
 末法当今に於いて、「妙法蓮華経」の宝珠を受持し奉りて、己心を見るに、十界互具(悩んでいても仏であり、仏もまた悩みは尽きないという法門)百界千如一念三千(一瞬の生命の中に宇宙が含まれている)の宝珠を分明に具足せり。
 これ併ら、末法の要法たる題目なり。
 伝教大師云く。法華経を讚むると雖も、還つて法華の心を死す。
 不染世間法如蓮華在水従地而涌出(地涌の菩薩は沼の中の蓮の花のように世間の法に染まらずしかも地から涌き出る)の事、仰に云く。
 世間法とは、全く貪欲等に染せられず。譬えば、蓮華の水の中(世間的な苦悩)より生ずれども、淤泥にそまざるが如し。此の蓮華と云うは、地涌の菩薩に譬えたり。地とは、法性の大地なり。所詮法華経の行者は、蓮華の泥水に染まざるが如し。

(91) 涌出とは、広宣・流布の時、一閻浮提の一切衆生、法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり。
 信と随喜とは、心同じなり。随喜するは、信心なり。信心するは、随喜なり。一念三千の法門は、信心随喜の函に納りたり。
 末法に入つては、仏を見るとは寿量品の釈尊。法を聞くとは、「南無妙法蓮華経」なり。
 「妙法蓮華経」の五字は万法能生の父母なり。
 妙音菩薩とは、十界の語言音声なり。此の音声、悉く慈悲なり。菩薩とは、これなり。
 (釈尊の真意を考えれば)我が弟子とは、(末法で弘教している)上行菩薩なり。我が法とは、(万人を成仏させる)「南無妙法蓮華経」なり。
 仏意とは、法華経の異名なり。法華経を以て、一切経の心法とせり。
 此の経を信じ奉る人に、水火の不同あり。其の故は、火の如きの行者は多く、水の如き行者はまれなり。
 火の如しとは、此の経のいわれをききて、火炎のもえ立つが如く貴く殊勝に思いて、信ずれどもやがて消失す。此れは、当座は大信心と見えたれども、其の信心の灯きゆる事やすし。
 さて、水の如きの行者と申すは、水は昼夜不退に流るるなり。少しもやむ事なし。其の如く法華経を信ずるを、水の行者とは云うなり。

(92) 我が心なりとも不信の意出来せば(反省し)、忽に信心に住すべし。所詮不信の心をば師となすべからず。信心の心を師匠とすべし。浄心信敬に法華経を修行し奉るべきなり。
 天台大師云く、若し悪友に値えば則ち本心を失うと云云。此の釈に、悪友とは謗法の人の事なり。本心とは、法華経なり。
 末法に入つて、本心とは日蓮弘通の「南無妙法蓮華経」これなり。
 諸天・善神等は、日蓮に力を合せ給う故に、竜口までもかちぬ。
 其の外の大難をも脱れたり。今は魔王もこりてや候うらん。日蓮死去の後は、残党ども軍を起すべきか。
 上行菩薩に授与し給う題目の外に、法華経の極理は無きなり。
 我等凡夫即極とはたと打かためたる(しっかりと打ち固めたる)成仏なり。
 (今は亡き)釈迦如来の跡(一切衆生を救う願業)を法華経の行者にゆずり給えり。其の証文に云く、如我等無異(釈尊と等しくして異なることなきが如く)の文是なり。
 煩悩無辺なれども、煩悩即菩提生死即涅槃と体達す。
 釈(高僧の解説)に云く、彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり。

(93) 今日蓮等の類いは、「南無妙法蓮華経」を以て、衆生を度する(人間革命させるという方法で救う)。此より外は、所詮なきなり。速成就仏身(すみやかに仏の振る舞いを成就する)是なり。
 法華の正義を以て(指して)、外道の邪教と称するは、何の経何れの論文ぞや。諸経多しと雖も、未だ両眼に触れず。法華の中に諸経を破るの文之有りと雖も、諸経の裏に法華を破るの文全く之無し。
 夫れ仏法は、王法の崇尊に依つて威を増し、王法は仏法の擁護に依つて長久す。正法を学ぶの僧を以て、外道と称せらるるの条理豈然る可けんや。
 法自ら弘まらず、人法を弘むる故に、人法ともに尊し。
 成仏は難きに非ず。此の経を持つこと難ければなり。
 (釈尊や大聖人の)久遠の本師は、妙法なり。
 折伏を本とし、摂受を迹と定む。
 信心強盛にして、唯余念無く「南無妙法蓮華経」と唱え奉れば、凡身即仏身なり。
 数輩(数えるほど)の弟子有りと雖も、疑心無く正義を伝うる者は希にして、一二の小石の如し。
 日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり。父母なり、師匠なり。

 御書要文下巻

(94) 日蓮は、安房の国東条片海の石中(という地の)の賎民(最下層)が子なり。威徳なく、有徳のものにあらず。
 末代濁悪世の愚人は、念仏等の難行易行(の法門)等をば抛つて、一向に法華経の題目を「南無妙法蓮華経」と唱え給うべし。
 釈迦如来の御名をば、能忍と名けて此の土に入り給うに、一切衆生の誹謗をとがめず、よく忍び給ふ故なり。
 其(法華経)の恩、大海よりも深し。其の恩、大地よりも厚し。其の恩、虚空(大空)よりも広し。
 二つの眼をぬいて仏前に空の星の数備ふとも、身の皮を剥いで百千万天井にはるとも、涙を閼伽(供養)の水として千万億劫仏前に花を備ふとも、身の肉血を無量劫(何度も生まれ変わって)仏前に山の如く積み大海の如く湛ふとも、此の仏の一分の御恩を報じ尽しがたし。
 日蓮、此の事を委く勘うるに、二つの失有つて閻魔王の責に予り給へり。
 一つには、大日経は法華経に劣るのみに非ず、涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばざる経にて候を、法華経に勝れたりとする謗法の失なり。
 二つには、大日如来は釈尊の分身なり而るを、大日如来は教主釈尊に勝れたりと思ひし僻見(勘違い)なり。
 仮令強言(きつい表現)なれども、人をたすくれば実語、軟語(やさしい表現)なるべし。設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり。

(95) 日蓮が法門を仮染にも毀るは、糞犬が師子王をほへ、癡猿が帝釈を笑ふに似たり。
 仏教をきはめて、仏になり、恩ある人をもたすけんと思ふ。
 仏になる(師弟の)道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり候らめ。
 日蓮は、日本国東夷東条安房の国海辺の旃陀羅(被差別民)が子なり。いたづらにくちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事、あに石に金をかふるにあらずや。各各なげかせ給うべからず。
 法華経の功徳と申すは、(仏の持つ)唯仏与仏の境界、十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの(莫大な功徳の)内証なり。
 無作の三身(凡夫の姿の仏)の仏果を成就せん事は、恐くは天台伝教にも越へ、竜樹・迦葉にも勝れたり。
 相構へ相構へて、心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は(六波羅蜜経に)記し給ひしなり。法華経の御為に身をも捨て、命をも惜まざれと強盛に申せしは是なり。
 日蓮が度度殺害せられんとし、並びに二度まで流罪せられ、頚を刎られんとせし事は、別に世間の失(ちゃんとした法的な罪)に候はず。
 今年は「殊に仏法の邪正たださるべき年」か?
 是れ偏に、仏法が一国挙りて邪なるゆへに梵天帝釈の他国に仰せつけてせめらるるなるべし。

(96) (師の恩は重く)根ふかきときんば、枝葉かれず。源に水あれば、流かはかず。はたきぎかくればたへぬ。草木は、大地なくして生長する事あるべからず。
 日蓮法華経の行者となつて、善悪につけて日蓮房・日蓮房とうたはるる此の御恩さながら、故師匠道善房の故にあらずや。
 但し、当時日蓮心ざす事は生処(来世でも法華経の行者として生まれること)なり。日本国よりも、大切にをもひ候。
 日蓮は、閻浮第一(世界一)の法華経の行者なり。
 夫れ、人身をうくる事はまれなるなり。已にまれなる人身をうけたり。また、あひがたきは仏法是もまたあへり。同じ仏法の中にも、法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり。まことに、まことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。
 日蓮は、日本第一の法華経の行者なり。すでに勧持品の二十行の偈の文(社会の悪を糾弾すると迫害に遭うという内容)は、日本国の中には日蓮一人よめり。
 上行菩薩末法の始の五百年に出現して、「南無妙法蓮華経」の五字の光明をさしいだして、無明煩悩(人の不幸の原因)の闇をてらすべしと云う事なり。日蓮は此の上行菩薩の御使として、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり。

(97) かかる者(立正安国を唱える日蓮)の弟子・檀那とならん人人は、宿縁ふかしと思うて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といはれぬる事、はや不祥なり。まぬかれがたき身なり。
 法華経は後生(未来世)のはぢをかくす衣なり。経に云く、「裸者の衣を得たるが如し」云云。
 (激闘が続いているので)古郷の事、はるか思いわすれて候。いつるに今、此のあまのりを見候いてよしなき心をもひいでて、うくつらし、かたうみいちかはこみなと(片海市河小湊)の磯のほとりにて、昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず、など我が父母かはらせ給いけんと、かたちがへなるうらめしさ、なみだをさへがたし。
 なづきをわりみを、せめていのりてみ候はん。たださきのいのりと、をぼしめせ。これより後は、のち(将来)の事をよくよく御かため候へ。
 各各、我が弟子となのらん人人は、一人もをくしをもはるべからず。をやををもひめこををもひ所領をかへりみることなかれ。無量劫よりこのかた、親子のため、所領のために命すてたる事は、大地微塵よりもをほし。
 法華経のゆへには、いまだ一度も捨てず。

(98) 法華経をば、そこばく行ぜしかども、かかる事(難)出来せしかば、退転してやみにき。譬えば、湯をわかして水に入れ、火を切るにとげざるがごとし。各各、思い切り給へ。此の身を法華経に変うるは、石に金を変へ、糞に米を変うるなり。
 仏滅後二千二百二十余年が間、「迦葉」「阿難」(釈尊の直弟子)等、「馬鳴」「竜樹」(仏教興隆のインドの哲人)等、「南岳」「天台」(中国で法華経を宣揚した師弟)等、「妙楽」「伝教」(日本で法華経を宣揚した伝教大師最澄とその師匠)等だにも、いまだひろめ給わぬ法華経の肝心諸仏の眼目たる「妙法蓮華経」の五字、末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相(前触れ)に、日蓮さきがけしたり。
 わたうども(和党共)二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝ぐれ、天台伝教にもこへよかし。わづかの小島のぬしらが、をどさんををぢては、閻魔王のせめをばいかんがすべき。仏の御使となのりながら、をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ。
 遠流死罪の後、百日一年三年七年が内に自界 叛逆難とて、此の御一門どしうち(同士打)はじまるべし。
 さいわひなるかな、法華経のために身をすてん事よ。くさきかうべをはなたれば、沙に金をかへ、石に珠をあきなへるがごとし。

(99) (世法の願いである)一丈の堀をこへぬもの、(崩れぬ成仏の境界という)十丈二十丈の堀をこうべきか。
 今日蓮は、日本第一の法華経の行者なり。其の上、身に一分のあやまちなし。
 日本国の一切衆生の法華経を謗じて、無間大城におつべきを助けんがために申す法門なり。
 今夜、頚切られへまかるなり。この数年が間、願いつる事これなり。
 此の娑婆世界(現実世界)にして雉(きじ)となりし時は、鷹につかまれ、鼠となりし時は、猫にくらわれき。或はめこのかたきに身を失いし事、大地微塵より多し。法華経の御ためには、一度だも失うことなし。
 されば、日蓮貧道の身と生れて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頚を法華経に奉りて、其の功徳を父母に回向せん。其のあまりは、弟子・檀那等にはぶくべしと申せし事これなり。
 (竜の口で役人に向かって)日蓮申すやう「いかにとのばらかかる大禍ある召人にはとをのくぞ、近く打ちよれや、打ちよれや」と、高々とよばわれどもいそぎよる人もなし。
 「さて、夜明けばいかに、いかに頚切べくは、いそぎ切るべし。夜明けなば、みぐるしかりなん」とすすめしかども、とかくの返事もなし。

(100) 今日蓮は末法に生れて、「妙法蓮華経」の五字を弘めて、かかるせめにあへり。仏滅度後二千二百余年が間、恐らくは天台智者大師も一切世間多怨・難信の経文をば行じ給はず。数数見擯出の明文は、ただ日蓮一人なり。
 釈迦如来の御ためには、提婆達多(師に敵対し反逆した弟子)こそ(釈尊の正義を証明することとなったので)第一の善知識なれ。
 今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうど(成仏を助ける味方)よりも、強敵が人をばよくなしけるなり。
 日蓮が仏にならん第一のかたうど(見方は)は、(本来敵である)景信法師には良観道隆道阿弥陀仏と平左衛門尉守殿ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。
 此の国の亡びん事、疑いなかるべけれども、且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、はうに過ぐれば罰あたりぬるなり。
 病の起りを知らざる人の病を治せば、弥よ病は倍増すべし。真言師だにも調伏(祈祷で戦争の勝利を祈ること)するならば、弥よ此の国軍に負くべし。
 (中国の故事にならって)三度国を諫めんに用ゐずば、国を去るべし。
 されば、(成仏を願い)仏法を習わん人、後世を願はん人は(知らずにしている)法華誹謗をおそるべし。

(101) 須弥の頂きにおはすとも、日蓮を捨て給うならば、阿鼻の炎にはたきぎとなり、無間大城にはいづるご(出るチャンス)おはせじ(なくなる)。
 此の罪 恐ろしとおぼさば、急ぎ急ぎ国土にしるしをいだし給え。本国へかへし給へ。
 (重罪を犯していても)釈尊に値い奉りて、出家をゆるし給にき。
 「南無妙法蓮華経」と申さざらん者をば、いかに法華経をよむとも、法華経のかたきとしろしめすべし。かたきをしらねば、かたきにたぼらかされ候ぞ。
 松栄れば、柏悦ぶ。芝かるれば、蘭なく情無き。草木すら友の喜び、友の歎き一つなり。
 心の月くもりなく、身のあかきへはてぬ。即身の仏なり、尊し尊し。
 法華経は一文一句なれども、耳にふるる者は既に仏になるべき。
 世末代に入りて、法華経をかりそめにも信ぜん者の人に、そねみねたまれん事はおびただしかるべきか。故に法華経に云く、「如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と云云。
 始に此の文を見候いし時は、さしもやと思い候いしに、今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと、殊に身に当つて思ひ知れて候へ。

(102) 一切衆生なくば、衆生無辺誓願度の願(一切衆生の幸福を願う)を発し難し。又悪人無くして菩薩に留難をなさずば、いかでか功徳をば増長せしめ候べき。
 薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども、僧有りて習伝へずんば、正法像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。
 問うて云く。法華経の意をもしらず、ただ「南無妙法蓮華経」と計り五字七字に限りて、一日に一遍、一月乃至一年十年一期生の間にただ一遍なんど唱えても、軽重の悪に引かれずして、四悪趣におもむかず、ついに不退の位にいたるべしや? 答えて云く。しかるべきなり。
 仏道に入る根本は、信をもて本とす。
 たとひさとりなけれども信心あらん者は、鈍根(理解の遅い人)も正見の者なり。たとひさとりある(理解の速い人)とも信心なき者は、誹謗闡提の者(爾前経で成仏できないとされた人)なり。
 さればさせる解りなくとも、「南無妙法蓮華経」と唱うるならば、悪道をまぬかるべし。
 譬えば、蓮華は日に随って回る。蓮に心なし。芭蕉は雷によりて増長す。此の草に耳なし。
 我等は蓮華と芭蕉との如く、法華経の題目は日輪と雷との如し。

(103) 秋・冬、枯れたる草木の春・夏の日に値うて、枝葉華菓出来するが如し。爾前の秋・冬の草木の如くなる九界の衆生(凡夫)、法華経の妙の一字の春・夏の日輪にあひたてまつりて、菩提心(他人を救う励ましの心)の華さき成仏・往生の菓なる。
 総じて成仏・往生のなりがたき者、四人あり。
 第一には、決定性の二乗。第二には、一闡提人。第三には、空心の者。第四には、謗法の者なり。此等を法華経にをいて仏になさせ給ふ故に、法華経を妙とは云うなり。
 諸経に嫌はれたりし女人を文殊師利菩薩の「妙」の一字を説き給いしかば、忽に仏になりき。あまりに不審なりし故に、宝浄世界の多宝仏の第一の弟子智積菩薩、釈迦如来の御弟子の智慧第一の舎利弗尊者、四十余年の大小乗経の経文をもつて、竜女の仏になるまじき由を難ぜしかども、終に叶はず仏になりにき。
 「妙」とは、蘇生の義なり。「蘇生」と申すは、よみがへる義なり。
 法華経をはなれて、仏になるべからず。
 上(幕府)の(日蓮を)せめさせ給うにこそ、法華経を信じたる色(功徳や罰)もあらわれ候へ。
 月は欠けて満ちしをはひてみつる事疑なし。此れも罰あり、必ず徳あるべしなにしにかなげかん。

(104) 心ざしあらん諸人は、一処にあつまりて御聴聞あるべし。
 勧持品に云く、「諸の無智の人有つて悪口罵詈し」等云云。日蓮此の経文に当れり。汝等(世間の僧は)何ぞ此の経文に入らざる。「及び刀杖を加うる者」等云云。日蓮は、此の経文を読めり。汝等何ぞ此の経文を読まざる。
 「悪口して顰蹙し、数数擯出せられん」 数数とは、度度なり。日蓮擯出衆度流罪は二度なり。法華経は、三世の説法の儀式なり。過去の(法華経の行者が無智の仏教徒に迫害される)不軽品は、今の(難が起こる末法での弘教を弟子が決意する)勧持品。今の勧持品は、過去の不軽品なり。
 今の勧持品は、未来は不軽品為る可し。其の時は、日蓮は即ち不軽菩薩為る可し。
 四節の転変は、万国皆同じかるべしと存候し処に、この北国佐渡の国に下著候て後二月は、寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども、日の光をば見ることなし。八寒(地獄)を現身に感ず。人の心は禽獣(鳥や獣)に同じく、主師親を知らず。何に況や仏法の邪正、師の善悪は思もよらざるをや。
 勧持品に云く、不軽品に云く。命限り有り、惜む可からず。遂に願う可きは、仏国也。
 鳥は木にすむ。木のひきき事をおじて、(安全な)木の上枝にすむ。しかれども、餌にばかされて網にかかる。

(105) 人もまた、かくの如し。世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨る事難し。故に、仏になる人もなかるべし。
 畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる。当世の学者(世間から尊敬を集めている仏寺の高僧)等は、畜生の如し。智者の(社会的立場の)弱きをあなづり、王法の邪をおそる。
 諛臣(国を亡ぼす家臣)と申すは、これなり。
 悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして(団結して)智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし。例せば、日蓮が如し。
 これおごれるにはあらず。正法を惜む心の強盛なるべし。
 おごれる者は強敵に値て、おそるる心出来するなり。例せば、修羅(戦いの神)のおごり、帝釈(神の王)にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し。
 千経万論を習学すれども、時機に相違すれば叶う可らず。
 (敵である)外道・悪人は、如来の正法を破りがたし。(本来は味方である)仏弟子等必ず仏法を破るべし。
 師子身中の虫の師子を食等云云。大果報の人(信仰者)をば他の敵やぶりがたし。親しみ(ある味方)より破るべし。
 日蓮は聖人にあらざれども、法華経を説の如く受持すれば聖人の如し。
 (法華経に説かれる)後生の疑をなすべからず。

(106) 日蓮、今生には貧窮下賎(経済的、社会的に最下層)の者と生れ、旃陀羅(武家や公家からすれば被差別民)が家より出たり。心こそすこし法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり。
 鉄は、炎打てば剣となる。賢聖は、罵詈して(種々の罵声を浴びせてその信心の強さを)試みるなるべし。
 余の種種の人間の苦報、現世に軽く受くるは、斯れ護法の功徳力(法を守護することによる功徳)に由る故なり。
 此八種(の難)は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責るによて、一時に聚り起せるなり。
 獄卒(地獄の処刑人)が罪人を責ずば、地獄を出る者かたかりなん。当世の(獄卒のように日蓮を迫害する)王臣なくば、日蓮が過去謗法の重罪消し難し。
 日蓮は過去の不軽の如く、不軽の因を行じて、日蓮一人釈迦仏とならざるべき。
 日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮がかく(流罪)なれば、疑ををこして法華経をすつるのみならず、かへりて(反逆して)日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人(勘違いの人)等が念仏者よりも久く(長い時間)阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし。

(107) 佐渡の国は、紙候はぬ上面面(全員)に申せば、(紙が無くなり)煩あり。一人ももるれば(自分には手紙がないと)恨ありぬべし。(その人たちのため)此文を心ざしあらん人人は、寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ。
 但生涯本より思い切て候。今に飜返ること無く、其の上又遺恨無し諸の悪人は、又善知識(成仏の助け)なり。
 設い日蓮死生不定(いつ命を奪われるか分からない)為りと雖も、「妙法蓮華経」の五字の流布は、疑い無き者か。
 各各我が弟子たらん者は、深く此の由を存ぜよ。設い身命に及ぶとも、退転すること莫れ。
 浅きは易く、深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去つて、深きに就くは、丈夫の心なり。
 夫れ在世と滅後と正像二千年の間に、法華経の行者、唯三人有り。所謂仏と天台・伝教となり。
 此の(あなたの母が作ってくれた)帷をきて、日天の御前にして此の子細を申し上げば、定めて釈梵諸天しろしめすべし。帷は一なれども、十方の諸天此れをしり給うべし。
 (消えてしまう)露を(消えない)大海によせ、土を大地に加るがごとし。生生に失せじ、世世にくちざらむかし。
 我が門家は、夜は眠りを断ち、昼は暇を止めて、之(広宣流布の戦い)を案ぜよ。一生 空しく過して、万歳 悔ゆることなかれ。

(108) 法華経を説く人は、柔和忍辱衣(難を耐える心の衣)と申して、必ず衣あるべし。
 物たねと申すもの一なれども、植えぬれば多くとなり、竜は小水を多雨となし、人は小火を大火となす。
 仏在世に仏を信ぜし人は、仏にならざる人もあり。仏の滅後に「法華経」を信ずる人は、無一不成仏如来の金言なり。
 この衣をつくりて、かたびらをきそえて、「法華経」をよみて候わば、日蓮は無戒の比丘なり。「法華経」は、正直の金言なり。毒蛇の珠をはき、伊蘭(悪草の草原)の栴檀(最高の香木)をいだすがごとし。
 此の功徳は、日蓮は之を知る可からず。併ながら、釈迦仏に任せ奉り畢んぬ。
 近きを以て遠きを推し、現(在)を以て当(未来)を知る如是相乃至本末究竟等是なり。
 我が弟子等、之を存知せよ。日蓮は、是れ法華経の行者なり。(正法を広め、いわれのない迫害に遭う)不軽の跡を紹継するの故に。
 (日蓮を)軽毀する人は、頭(の働きが)七分に破。信ずる者は、福を安明(須弥山の高さ)に積まん。
 日蓮は、一閻浮提第一の聖人なり。
 大集経に云く、仁王経に云く、涅槃経に云く、法華経に云く。設い(念仏、真言等の)万祈を作すとも、日蓮を用いずんば必ず此の国今の(蒙古に攻められた)壱岐対馬の如くならん。

(109) 我が弟子、仰いで之を見よ。此れ偏に日蓮が貴尊なるに非ず。法華経の御力の殊勝なるに依るなり。
 身を挙ぐれば慢ずと想い、身を下せば経を蔑る。松高ければ藤長く、源深ければ流れ遠し。幸なるかな、楽しいかな、穢土(現実世界)に於て喜楽を受くるは、但日蓮一人なる而已。
 やのはしる事は、弓のちから。くものゆくことは、竜のちから。男のしわざは、女のちからなり。いまときどの(富木殿)のこれ(日蓮のいるところ)へ御わたりある事、(同志であり妻である)尼ごぜんの御力なり。
 病なき人も無常(いずれ訪れる死)まぬかれがたし。
 尼ごぜん、また「法華経」の行者なり。御信心、月のまさるがごとく、潮(しお)の満つがごとし。いかでか病も失せ、寿ものびざるべきと、強盛にをぼしめし、身を持し心に物をなげかざれ。
 (大王の)妃(きさき)になりても、なにかせん。(苦のない)天に生れても、ようしなし。竜女(法華経で成仏する少女)があとをつぎ、摩訶波舎波堤比丘尼(釈尊に成仏を約束された女性信徒)のれちにつらなるべし。あらうれし、あらうれし。
 常忍上人は、持経を忘る。日本第一の好く忘るるの仁(ひと)か。
 (法華経の行者にはいかなる難も信心の妨げにならない)譬えば矢を放つて、虚空を射石を握つて水に投ずるが如し。

(110) 尼ごぜんの御所労の御事、我身一身の上とをもひ候へば、昼夜に天に申し候なり。
 城の主剛ければ、守る者も強し。城の主おずれば、守る者忙る。常に人を護ると雖も、必ず心の固きに仮りて(諸天善)神の守り則ち強し。
 薪(が)火を熾にし、風(が)求羅を益すとは是なり。言は紙上に尽し難し、心を以て之を量れ。
 魔の習いは(大)善を障えて、悪を造らしむるをば悦ぶ事に候。強いて(小さな)悪(さえも)を造らざる者をば、力及ばずして(小さな)善を造ら(せて満足させ)しむ(そうやって紛らわしく大善から引かせるのだ)。
 末代の凡夫、此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず。父母も又即身成仏せん。此れ第一の孝養なり。病身為るの故に、委細ならず。又又申す可し。
 夫れ病に、二あり。一には、軽病。二には、重病。重病すら善医に値うて急に対治すれば、命猶存す。何に況や軽病をや。
 業に、二あり。一には、定業。二には、不定業。定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す、何に況や不定業をや。
 命と申す物は、一身第一の珍宝なり。一日なりともこれを延るならば、千万両の金にもすぎたり。
 (金吾は)きわめてまけじたまし(不負魂)の人にて、我がかた(同志)の事をば大事と申す人なり。

(111) 命は三千(銀河全体の宝)にもすぎて候。而も齢も、いまだたけさせ給はず。而して「法華経」にあわせ給いぬ。一日もいきてをはせば、功徳つもるべし。
 日蓮は、世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり。是れ時の然らしむる故なりと思へば、喜び身にあまり、感涙押へ難く、教主釈尊の御恩報じ奉り難し。
 恐らくは(歴史に名高い)付法蔵の人人(大聖人、大賢人)も、日蓮には果報は劣らせ給いたり。天台智者大師・伝教大師等も及び給うべからず。
 此の法門は、年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり。総じて、日蓮が弟子と云つて「法華経」を修行せん人人は、日蓮が如くにし候へ。
 いのちはつるかめのごとく、さいはいは月のまさりしをのみつがごとくとこそ「法華経」にはいのりまいらせ候へ。
 (本門は)生死の長夜を照す大燈、元品の無明を切る利剣。
 「法華経」は爾らず、八部四衆皆一同に法華経を演説す。譬へば、定木の曲りを削り師子王の(獲物の)剛弱を嫌わずして、大力を出すがごとし。
 (宝の)珠をもつて石にかへ、(香りの高い)栴檀を凡木にうれり。仏法やうやく顛倒しければ、世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば、影ななめなり。

(112) 偏に日蓮を失わんと為て、無かろう事を造り出さん事兼て知る。
 今、末法に入りぬ。地涌、出現して弘通有るべき事なり。
 法華宗の心は、一念三千性悪性善妙覚の位(仏)に猶備われり。元品の法性(幸福の源泉)は、梵天・帝釈等と顕われ、元品の無明(不幸の原因)は、第六天の魔王と顕われたり。
 善神は、悪人をあだむ。悪鬼は、善人をあだむ。末法に入りぬれば、自然に悪鬼は国中に充満せり。瓦石・草木の並び、滋がごとし。善鬼は、天下に少し聖賢まれなる故なり。
 日本一同に、(一切衆生を救おうとする)日蓮をあだみて、国国・郡郡・郷郷・村村人ごとに、上一人より下万民にいたるまで、前代未聞の大瞋恚を起せり。
 結句は、(正邪の)勝負を決せざらん外は、此の災難、止み難かるべし。
 いたづらに曠野にすてん身を、同じくは一乗法華のかたになげて、雪山童子・薬王菩薩の跡をおひ、仙予有徳の名を後代に留めて(いずれ説かれる第二、第三の)法華涅槃経に説き入れられまいらせんと願うところなり。「南無妙法蓮華経」
 先業(過去の罪業)の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候へば、地獄の苦みぱつときへて、死に候へば、人天三乗一乗の益(六道で苦しまない境涯)をうる事。

(113) 外典の三墳五典(聖人の伝説を)には、読む人かずをしらず。かれがごとくに世ををさめふれまう事、千万が一つもかたしされば世のをさまる事も又かたし。
 法華経は、紙付に音をあげてよめども、彼の経文のごとくふれまう(振舞う)事かたく候か。
 抑俗諦(社会)・真諦(仏法)の中には、勝負を以て詮(肝心)と為し、世間(生活)・出世(信心)とも。甲乙を以て先と為すか。
 即身成仏は、法華経に限るとをぼしめされて候ぞ。我が弟子等は、此の事を(今世での)思ひ出にせさせ給え。
 此の経は、則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人、病有らんに是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん。
 (誰も治せない業病も)釈尊一仏の妙経の良薬に限つて、之を治す。
 勝れたる(法華)経を供養する施主、一生(生きているうちに)に仏位に入らざらんや。
 此の三界に受けたる者、苦を離るる者あらんや。羅漢の応供すら、猶此くの如し。況や、底下の凡夫をや。さてこそ、急ぎ生死を離るべしと勧め申し候へ。
 身命よりも此の経を大事と思食す事、不思議が中の不思議なり。これは、偏に今の事に非ず。過去の宿縁開発せるにこそ、かくは思食すらめ。

(114) 彼の天台大師は、迹化の衆(末法に生まれていない)なり。この日蓮は、本化の一分(末法に生まれている)なれば、盛に本門の事の分を弘むべし。
 一歳より六十に及んで、多くの物を見る中に、悦ばしき事は法華最第一の経文なり。
 (法華経)薬王品に云く、「後の五百歳の中に、閻浮提に広宣・流布して断絶せしむること無けん」
 末法に入て、今日連が唱る所の題目は、前代(天台伝教の時代)に異り自行(自分で唱える)・化他(他人に勧める)に亘りて、「南無妙法蓮華経」なり。
 (邪義というのは)箭を以て、日を射ると見し。
 方便品の長行書進せ候。先に進せ候し自我偈に、相副て読みたまうべし。
 此の経の文字は、盲眼の者は之を見ず。肉眼の者は、文字と見る。二乗は、虚空と見る。菩薩は、無量の法門と見る。仏は、一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり。
 仏、(自身ですら)尚我が所説なりと雖も、不審有らば之を叙用せざれとなり。今、予を諸師に比べて謗難を加う。然りと雖も、敢て私曲を構えず。専ら釈尊の遺誡に順つて、諸人の謬釈(誤った解釈)を糾すものなり。
 根露るれば枝枯れ、源乾けば流竭く。
 予、地涌の一分に非ざれども、兼ねて此の事を知る故に、地涌の大士に前立ちて、粗五字を示す。

(115) 此の大法を弘通せしむるの法には、必ず一代の聖教を安置し、八宗の章疏を習学すべし。
 伝教大師の云く、「讃する者は、福を安明(ヒマラヤの高さ)に積み、謗ずる者は、罪を無間(地の最低部の地獄)に開く」
 妙楽大師云く、「若し悩乱する者は、頭七分に破れ、供養する有らん者は、福十号に過ぐ」
 心ざしなくとも、末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業(真言宗の具体的な修行法)相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給いて候。
 今度、法華経に信心をとるべき信なくして、此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し。
 今、法華経と申すは、一切衆生を仏になす(誰も説かなかった)秘術まします御経なり。所謂地獄の一人、餓鬼の一人乃至九界の一人を仏になせば、一切衆生皆仏になるべき理(ことわり)顕る。譬えば、竹の節を一つ破ぬれば)(破竹の勢いで)余の節、また破るるが如し。
 今、法華経寿量品を持つ人は、諸仏の命を続ぐ人なり。我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや。もし此れを捨て給はば、仏還つて我が身を捨て給うなるべし。

(116) 法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは、三世の諸仏を敵とするになるべし。
 法蓮法師は、毎朝口より金色の文字を出現す。此の文字の数は、五百十字なり。一一の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来となり、大光明を放って大地をつきとをし、三悪道無間大城を照し。
 今の法華経の文字は、皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば、文字と見るなり。たとへば、餓鬼は恒河(ガンジス川)を(欲望を掻き立てる)火と見る。人は水と見、天人は甘露(不老長寿の秘薬)と見る。水は一なれども、果報(境界)にしたがつて見るところ各別なり。
 法華経を持つと申すは、経は一なれども持つ事は、時に随つて色色なるべし。或は、身肉をさひて(裂いて)師に供養して、仏になる時もあり。
 悪王あつて法華経を失わば、身命をほろぼすとも随うべからず。
 境(自分と)・智(仏の智慧が)合しぬれば、即身成仏するなり。
 境・智の二法は、何物ぞ。但「南無妙法蓮華経」の五字なり。
 法華経の敵を見ながら、置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。
 何に法華経を信じ給うとも謗法あらば、必ず地獄に落つべし。うるし千ばいに、蟹の足一つ入れ(うるしを全て無駄にし)たらんが如し。

(117) (涅槃)経に云く、「在在諸の仏土に、常に師と倶に生ぜん」。
 釈尊は、一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給う。此法門を日蓮申す故に、忠言(は君主の)耳に逆う。道理なるが故に、流罪せられ、命にも及びしなり。然ども、いまだこりず候。
 法華経は、種の如く仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。
 今、「妙法蓮華経」と申す人人は、その心をしらざれども、法華経の心をうるのみならず、一代の大綱を覚り給へり。
 「南無妙法蓮華経」と申すは、一代の肝心たるのみならず、法華経の心なり、体なり、所詮なり。
 日蓮をいやしみて、「南無妙法蓮華経」と唱えさせ給はぬは、小児が乳をうたがふてなめず、病人が医師を疑いて薬を服せざるが如し。
 題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は、猿をはなれて肝をたづねしはかなき亀なり。山林をすてて、菓を大海の辺にもとめし猿猴なり。
 栴檀(香木)には伊蘭(悪草)、釈尊(仏)には提婆(反逆者)のごとく、伝教大師と同時に弘法大師(法華経誹謗の悪侶)と申す(世間から尊敬を集める)聖人出現せり。
 仏法うせしかば、王法すでにつき畢んぬ。
 設い身は此の難に値うとも、心は仏心に同じ。今生は修羅道に交わるとも、後生は必ず仏国に居せん。

(118) 「南無妙法蓮華経」と唱へさせ給へ。現世安穏・後生善処、疑なかるべし。法華経の行者をば、一切の諸天不退に守護すべき経文分明なり。
 師檀(師弟)となる事は、三世の契り。種熟脱の三益(を)、別(々)に人を求めんや。
 「在在諸の仏土、常に師と倶に生れん。若し法師に親近せば、速かに菩提の道を得ん。この師に随順して学ばば、恒沙の仏を見奉る事を得ん」
 三世十方の仏は、必ず「妙法蓮華経」の五字を種として、仏になり給へり。
 信心のこころ全ければ、(穴がなければ)平等大慧の智水、乾く事なし。
 三千世界に満つる珍宝なれども、命に替る事はなし。
 謗国の失を脱れんと思はば、国主を諫暁し奉りて、死罪か流罪かに行わるべきなり。
 (失本心故の)本心と申すは、法華経を信ずる心なり。
 我等過去に正法を行じける者に、あだをなしてありけるが、今かへりて信受すれば、過去に人を障る罪にて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる。功徳・強盛なれば、未来の大苦をまねぎこして、少苦に値うなり。
 たとへば、くろがね(鉄)をよくよくきたへば、きずのあらわるるがごとし。石はやけばはいとなる。金はやけば(不純物が燃えて)真金となる。

(119) 強情に歯がみをして(歯を食いしばって)たゆむ心なかれ。例せば、(竜ノ口の刑場で)日蓮が平左衛門の尉がもとにて、うちふるまいいゐしがごとく、すこしもをづる心なかれ。
 仏になる道にはあらねども、(武士の世界など)恥を思へば、命惜しまぬ習いなり。なにとなくとも、一度の死は一定なり、(保身にあわてふためくなど)いろばしあしくて人に笑はれさせ給うなよ。
 法華経の極理「南無妙法蓮華経」の七字を始めて持たん。日本国の弘通の始ならん人の弟子・檀那とならん人人の大難の来らん事をば言をもつて尽し難し、心をもつて推し量るべしや。
 此の法門を申すには、必ず魔出来すべし、魔、競はずは正法と知るべからず。
 (摩訶止観の)第五の巻に云く、「行解既に勤めぬれば、三障四魔紛然として(非常に紛らわしく)競い起る。乃至(その障魔に)随う可らず。畏る可らず。之に随えば将に人をして、悪道に向わしむ。之を畏れば正法を修することを妨ぐ」
 今(兵衛志と大夫志の)二人の人人は、隠士と烈士(共に修行した過去の修行者)とのごとし。一も欠けけなば成ずべからず。譬えば、鳥の二つの羽、人の両眼の如し。

(120) 設ひ、いかなるわづらはしき事ありとも、夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし。中にも日蓮が法門は、古へこそ信じかたかりしが、今は前前いひをきし事、既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし。
 (自分中心で考えてしまう)心の師とはなるとも、心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり。
 此れより後も、いかなる事ありとも、少しもたゆむ事なかれ。いよいよ(声を)はりあげて、(弘教)せむべし。設ひ命に及ぶとも、すこしもひるむ事なかれ。
 夏と秋と冬と春とのさかひには、必ず相違する事(季節外れなど不可解な事)あり。凡夫の仏になる、又かくのごとし。必ず三障・四魔と申す障いできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり。
 今度、あひやすき父母のことばをそむきて、あひがたき法華経のともに離れずば、我が身仏になるのみならず。そむきしをやをもみちびきなん。
 代のおさまれるには、賢人見えず。代の乱れたるにこそ、聖人愚人は顕れ候へ。
 今年御つつがなき事(無事)をこそ、法華経に申し上げまいらせ候へ。
 日蓮は、上行菩薩(末法での法華経の弘教を託された菩薩)の御使にも似たり。此の法門を弘むる故に。
 貴辺も上行菩薩の化儀(生活の場へ仏法流布)をたすくる人なるべし。

(121) 心ざし大海より深く、善根は大地よりも厚し。
 (その人の成長を願っていても)忠言は耳に逆い、(病を治す手立ての)良薬は口に苦しとは、先賢の言なり。やせ病の者は、命をきらう。佞人は、諌を用いずと申すなり。
 各各、みわきかたき(命を狙う敵)もたせ給いたる人人なり。内より論(いさかい)出来れば、鷸蚌の相扼も「漁夫(の利」の故事)のをそれ有るべし。「南無妙法蓮華経」と御唱え、つつしむべし、つつしむべし。
 (鋭い)つるぎなれども、わるびれたる(戦う意志のない)人のためには、何かせん。
 闇なれども、灯入りぬれば明かなり。濁水にも、月入りぬればすめり。明かなる事、日月にすぎんや。浄き事、蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり、故に「妙法蓮華経」と名く。
 食法がきと申すは、出家となりて仏法を弘むる人、我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて、名聞・名利(名声と利益)の心を以て、人にすぐれんと思うて今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を食法がきとて、法をくらふがきと申すなり。
 僧の中にも、父母・師匠の命日をとぶらふ人はまれなり。
 (今頃あの世では)是こそ四条金吾殿の母よ、母よと(閻魔の使いの)同心に頭をなで、悦びほめ給うらめ。

(122) 「あはれいみじき(滅多にいない素晴らしい)子を、我はもちたり」と、釈迦仏と語らせ給うらん。
 日蓮、讃歎したてまつる事は、ものの数ならず。諸仏所歎と見えたり。あら楽(たの)もしや、あら楽もしやと、信心を深くとり給うべし、信心を深くとり給うべし。「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」
 さても、さても去る十二日の難のとき、貴辺(四条金吾)龍ノ口までつれさせ給い、しかのみならず(日蓮と共に)腹を切らんと仰せられし事こそ、(歴史に前例がなく)不思議とも申すばかりなけれ。
 今度、法華経の行者として、流罪・死罪に及ぶ。流罪は、伊東。死罪は、龍ノ口。相州の龍ノ口こそ、日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土に劣るべしや。
 石を珠といへども、珠とならず。珠を石といへども、石とならず。権経の当世の念仏等は、石のごとし。念仏は法華経ぞと申すとも、法華経等にあらず。また、法華経をそしるとも、珠の石とならざるがごとし。
 この事は、はや天も知ろしめしぬらん。
 「南無妙法蓮華経」と唱(とな)ふるところを、「煩悩即菩提生死即涅槃」と云うなり。
 生死の当体、不生不滅とさとるより外に、生死即涅槃はなきなり。

(123) (法華経に説かれる)多宝塔中にして、二仏並坐(釈尊と多宝如来が並んで座った)の時、上行菩薩に譲り給いし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり。此れ即ち、上行菩薩の御使いか。
 貴辺、日蓮に従(した)がひて、法華経の行者として、諸人にかたり給ふ。これ豈流通にあらずや。
 法華経の信心を通し給へ。火をきるにやすみぬれば火をえず。
 強盛の大信力をいだして、法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人ないし日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。
 法華経を一字一句も唱えん人にも、語り申さんものは、教主・釈尊の御使なり。然れば、日蓮賎身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して、この国に来れり。
 師子の筋を琴の絃にかけて、これを弾けば、余の一切の獣の筋の絃皆きらざるにやぶる(という言い伝えがある)。仏の説法をば師子吼と申す、乃至法華経は師子吼の第一なり。
 如何に(題目を)申さじと思うとも、毀らん人には弥よ申し聞かすべし。
 師子王は、前三・後一と申してありの子を取らんとするにも、又たけきものを取らんとする時も、勢いを出す事はただ同じき事なり。
 「南無妙法蓮華経」は師子吼の如し。いかなる病、さはりをなす(成仏の妨げになる)べきや。

(124) ただし、御信心によるべし。
 剣(つるぎ)なんども、すすまざる人のためには用る事なし。法華経の剣は、信心のけなげなる人こそ、用る事なれ。鬼に金棒(かなぼう)たるべし。
 日蓮が魂(たましい)をすみにそめながして、書きて候ぞ。信じさせ給へ。
 仏の御意は、法華経なり。日蓮が魂は「南無妙法蓮華経」にすぎたるはなし。
 災いも転じて、幸となるべし。あひかまへて御信心を出し、此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。
 他人なれども、(同志として広宣流布を)語らひぬれば、命にも替る(ほどの人)ぞかし。
 湿れる木より(出ないはずの)火を出し、乾ける土より(含まれていない)水を儲けんが如く、強盛に申すなり。
 ただ女房と酒うち飲んで、何の御不足あるべき。
 此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず。法華経を持たせ給う人は、一切衆生のしうとこそ、仏は御らん候らめ。
 此の法華経計りに、此の経を持つ女人は、一切の女人にすぎたるのみならず、一切の男子に超えたりとみえて候。
 信心の弱きものをば、法華経を持つ女人なれども、捨つるとみえて候。例せば、大将軍弱ければ従うものもかひなし。弓弱ければ、絃ゆるし。風ゆるければ、波小さきは自然の道理なり。

(125) 年はわかうなり、福はかさなり候べし。
 此の経を聞き受くる人は多し。まことに聞き受くる如くに、大難来れども、憶持不忘の人は希なるなり。受くるは易く、持つは難し。さる間、成仏は持つにあり。
 御祈りの叶い候はざらんは、弓の強くして弦(つる)弱く、太刀つるぎにて使う人の臆病なるやうにて候べし。あへて法華経の御とが(罪)にては候べからず。
 章安大師云く、「彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親なり」
 爾前の経経には、一切衆生煩悩を破るやうなれども、実には破らず。今法華経は元品の無明を破るゆへに大動あり。
 ただ、世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず。賢人・聖人も此の事は逃れず。
 ただ、女房と酒うちのみて、「南無妙法蓮華経」と唱へ給へ。
 苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて「南無妙法蓮華経」とうち唱へゐさせ給へ。
 すでに、日蓮かちぬべき心地す。
 正法をひろむる事は、必ず(あなたのような)智人によるべし。
 たとひ所領をめさるるなり(奪われる)とも、今年はきみ(君主)をはなれまいらせ候べからず。
 賢人は八風と申して、八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。

(126) (八風とは)利衰(経済的な栄枯)・毀誉(名声のあるなし)・称譏(評判の良し悪し)・苦楽(精神的な苦楽)なり。
 だんなと師と思ひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。
 智者と申すは、国の危うきをいさめ、人の邪見を申しとどむるこそ、智者にては候なれ。
 一丈の堀を越えざる者、二丈・三丈の堀を越えてんや。(極楽寺良観は)やすき雨をだにふらし給はず。況やかたき往生成仏をや。
 法華経に云く、「我れ身命を愛まず。但無上道を惜む」
 章安大師云く、「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれとは、身は軽く法は重し。身を死して法を弘む」
 設い日蓮一人は、杖木・瓦石・悪口・王難をも忍ぶとも、妻子を帯せる無智の俗(在家)なんどは争か叶うべき。
 日蓮が(釈尊後継の)道をたすけんと、上行菩薩(が)貴辺の御身に入りかはらせ給へるか、また教主釈尊の御計いか?
 一生はゆめの上、明日をごせず(期待できない)。いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うべからず。
 設ひ所領をめされ、追い出し給うとも、十羅刹女(法華経守護の鬼神)の御計いにてぞあるらむと、ふかくたのませ給うべし。
 大事になりぬれば、必ず大なるさはぎ(混乱)が大なる幸となるなり。

(127) 夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、王をば自在となづけたり。
 きたはぬ金(かね)は盛んなる火に入るれば、とく(一瞬で)溶け候。冰を湯に入るがごとし。剣なんどは大火に入るれども、暫くはとけず。是きたへる故なり。
 仏法と申すは、道理なり。道理と申すは、主(国主)に勝つ物なり。
 日蓮は、少より今生のいのりなし。ただ仏にならんと思ふ計りなり。
 吾方の人人をば、少少の事をば見ず聞かずあるべし。
 かくれたる事のあらはれたる徳となり候なり。
 (金吾)殿は、一定(普段から)腹あしき(怒った)相、顔に顕れたり、いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ。
 返す返す今に忘れぬ事は(竜の口で)頚切れんとせし時、殿(四条金吾)はともして馬の口に付きて泣き悲しみ給いしをば、いかなる世にか忘れなん。
 設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも、用ひまいらせ候べからず。
 (あなたと)同じく地獄なるべし。日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏法華経も地獄にこそをはしまさずらめ。

(128) 人身は受けがたし。(確立に低さをたとえると)爪の上の土。人身は持ちがたし。草の上の露。
 百二十まで(命を)持ちて、名をくたして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。
 中務三郎左衛門尉(四条金吾)は、主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよかりけり、よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ。
 蔵の財よりも、身の財優れたり。身の財より、心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは、心の財つませ給うべし。
 一代(仏教全体)の肝心は、「法華経法華経」の修行の肝心は、不軽品にて候なり。
 不軽菩薩の人を敬いしは、いかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は、人の振舞にて候けるぞ。穴賢、穴賢。賢きを人と云い、はかなきを畜といふ。
 「あはれをとこ(天晴男)やをとこや」とかまくらわらはべはつじち(道端)にて、申しあひて候しとかたり候。
 雙六(という遊びは)は、二ある石はかけらず。鳥の一の羽にて飛ぶことなし。
 (武将の代表といえる)将門さだたふがやうなりしいふしやうも一人は(天下取りも)叶わず。
 陰徳(人に見えない努力、勉強)あれば、陽報(目に見える結果や成長)あり。

(129) 日蓮、下痢去年十二月卅(30)日事起り、今年六月三日四日日日に度をまし、月月に倍増す。定業(死の運命)かと存ずる処に、貴辺(金吾殿)の良薬を服してより、已来日日月月に(苦痛が)減じて、今百分の一となれり。しらず教主釈尊の入りかわりまいらせて、日蓮をたすけ給うか。
 地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い(不思議に思い感謝し)候なり。
 根ふかければ枝さかへ、源遠ければ流長しと申して、一切の経は根あさく、流ちかく、法華経は根ふかく源とをし、末代悪世までもつきず、さかうべし。
 此の(日蓮の)法門につきし人、あまた候いしかども、をほやけわたくしの大難度度重なり候いしかば、一年二年こそつき候いしが、後後には皆或はをち(諦め)、或はかへり(反逆し)矢をいる。
 或は身はをちねども心をち、或は心はをちねども身はをちぬ。
 始(めて題目を唱えた人も修行)・中(の人も)・終(臨終まで)捨てずして、大難をとをす人、如来の使なり。
 いかに悪くとも、悪きよし。
 (愚癡)人にも、、また上へも申させ給うべからず候。よきところ、よきところと(実際とは違っても探し出し)申し給はば、またかさねて(所領を)給はらせ給うべし。

(130) (今の環境が)悪き処徳分(いいとこ)なしなむど候(言え)はば、天にも人にもすてられ給い候はむずるに候ぞ。
 いよいよ(仏)道(を求める)心堅固にして、今度仏になり給へ。
 法華経は毒変じて薬となると見えて候。
 敵と申す者は忘れさせて狙うものなり。
 神の護ると申すも、人の心強きによるとみえて候。法華経はよき剣(つるぎ)なれども、使う人(の勇気)によりて、物をきり候か。
 然れども此等の(法華経に登場する高貴な)人人には、(末法での弘教を)ゆづり給はずして、(我々)地涌の菩薩に譲り給へり。されば、能く能く心をきたはせ給うにや。
 頭をふれば、かみゆるぐ。心はたらけば、身うごく。大風吹けば、草木しづかならず。大地うごけば、大海騒がし。教主釈尊をうごかし奉れば、(諸天が来集し)ゆるがぬ草木やあるべき? 騒がぬ水やあるべき?
 余(日蓮)は、(立宗宣言から大御本尊建立まで)二十七年なり。其の間の大難は、各各かつ(語り)しろしめせり。
 日蓮末法に出でずば、(末法での大難を説いた)仏は大妄語の人。(釈尊を証明した)多宝十方の諸仏は、大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人、ただ日蓮一人なり。

(131) 各各師子王(空想上の生き物、竜より強い師子の王)の心を取り出して、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は、百獣にをぢず。師子の子、またかくのごとし。
 彼等は、野干(臆病な獣)のほうるなり。日蓮が一門は、師子の吼るなり。
 月月・日日につより給へ。すこしも(師への想いを)たゆむ(ゆるめる)心あらば、(仏法を怠らせる)魔たよりをうべし。
 我等現(世)には此の大難に値うとも、後生は仏になりなん。設えば、灸治のごとし。当時は痛けれども、後の薬(との覚悟)なれば痛くて痛からず。
 よからんは、不思議。悪からんは一定(当たり前)と思へ。
 夫れ運きはまりぬれば、兵法(作戦)もいらず。果報つきぬれば、(普段は言う事を聞く)所従もしたがはず。
 所詮(今、生きているのは)運ものこり、果報もひかゆる故なり。
 これにつけても、いよいよ強盛に大信力をいだし給へ。
 我が運命つきて、諸天守護なしとうらむる事あるべからず。
 心こそ大切なれ。日蓮、祈り申すとも不信ならば、濡れたるほくちに、火をうちかくるがごとくなるべし。
 なにの兵法よりも、法華経の兵法をもちひ給うべし。
 深く信心をとり給へ。あへて臆病にては、叶うべからず候。

(132) 法華経の方人(味方)として、難を忍び、疵を蒙る事は、漢土の天台大師にも越え、日域の伝教大師にも勝れたり。
 これ(末法流布の使命に生き切ること)は、時の然らしむる故なり。
 (諸天善神はあなたのような)法華経の行者を見ては、争か其の影(様々な形で現われること)をば惜しみ給うべき。我が一門は、深く此の心を信ぜさせ給うべし。
 日本国、皆、釈迦仏を捨てさせ給いて候に、いかなる過去の善根にてや、法華経と釈迦仏とを御信心ありて、各各あつまらせ給いて、(釈尊の誕生日である四月)八日を供養 申させ給うのみならず、山中の日蓮に華かうををくらせ候やらん。尊し、尊し。
 善なる事ありがたし。設ひ、善を作人も一の善に、十の悪を造り重ねて、結句は(仏法者すら)小善につけて、(同志誹謗等の)大悪を造り、心には大善を修したりと云ふ慢心を起す世となれり。
 日月は、東より出でさせ給はぬ事はありとも、大地は反覆する事はありとも、大海の潮はみちひぬ事はありとも、破たる石は合うとも、江河の水は大海に入らずとも、法華経を信じたる女人の世間の罪に引かれて悪道に堕つる事はあるべからず。

(133) 常(日々)の御所作(勤行)には、方便品の長行(十如是まで)と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ。
 また、別に書き出してもあそばし候べく候。余の二十六品は、身に影の随ひ、玉に財の備わるが如し。
 寿量品方便品を読み候へば、自然に余品は読み候はねども、備はり候なり。薬王品・提婆品は、女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、提婆品は方便品の、枝葉薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。
 されば、常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし(研鑽し)候て、余の品をば時時御いとまのひまにあそばすべく候。
 (自分の都合に合わせた意見である)邪見に住して、仏法を習ふといへども還つて、十悪を犯し五逆を作る罪よりも甚しきなり。
 悪象(物理的な死傷)等に於ては、畏るる心なかれ。悪知識(精神的な修行の妨げ)に於ては、畏るる心をなせ。何を以ての故に、悪象は但身をやぶり、意をやぶらず。悪知識は二共にやぶる故に。
 一Hの水を大海になげぬれば、三災(戦争・飢饉・疫病)にも失せず。
 未だ寿量品を説かざれば、実の一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。水(面)にやどる月の(月に劣るが)如く、根無し草の浪の上に浮べるに異ならず。

(134) 寿量品の肝心「南無妙法蓮華経」こそ十方三世(宇宙史全体の)の諸仏の母にて御坐し候へ。
 法華経を余人の読み候は、口ばかり言葉ばかりは読めども、心は読まず。心は読めども、身に読まず(体験しない)。色心二法(体験と心)共にあそば(研鑽)されたるこそ、貴く候へ。
 此の(命も見栄もすべて捧げて仏法を求めた)梵志の(説話の)意は、渇して水を求め、飢えて食を求むるがごとく、仏法を尋ね給いき。
 我等具縛の凡夫、忽に教主釈尊と功徳 等し。彼の功徳を全体 受け取る故なり。
 経に云く、「如我等無異」等云云。法華経を心得る者は、釈尊と斉等(等しい)なりと申す。
 犬は師子を吠(ほ)うれば、腸くさる。修羅は、日輪を射奉れば頭七分に破る(という伝説がある)。一切の真言、師は犬と修羅との如く、法華経の行者は日輪と師子との如し。
 軍には、大将軍を魂とす。大将軍、臆(おく)しぬれば、歩兵臆病なり。
 日蓮をば、日本国の上一人(時の執権)より下万民に至るまで一人もなく、あやまたんとせしかども、今までかうて候事は一人なれども、(迫害に耐える)心のつよき故なるべし。

(135) 法華経の難(かた)きならば、随ひ給うべからず。
 いよいよ強盛の御志あるべし。冰は水より出でたれども、水よりもすさまじ。青き事は藍より出でたれども、重ぬれば藍よりも色まさる。
 同じ法華経にてはをはすれども、志をかさぬれば、他人よりも色(結果や成長が)勝り、利生もあるべきなり。
 いかなる事も出来候はば(どのようなことがあっても)、これ(日蓮の元)へ御わたりあるべし見奉らん。(身延)山中にて(日蓮もあなたと)共に、飢え死にし候はん。
 天台大師の御弟子に章安と申せし人は、(中国全土)万里をわけて法華経を聞かせ給へり。
 伝教大師は、(日本から中国までの陸海路)二千里をすぎて、(天台の論である)止観を習い、玄奘三蔵は(中国からインドまでの)二十万里をゆきて、般若経を得給へり。道の遠きに、(仏法求道の)心ざしのあらわるるにや。
 第六天の魔王、十軍の戦(いくさ)を起こして法華経の行者と、生死海の海中にして同居穢土(この世界)を取られじ、奪はんと争う。
 日蓮其の身にあひあたりて、大兵を起こして二十余年なり。日蓮一度もしりぞく心なし。
 紙(は貴重で手元に)なくして、一紙に多く要事を申すなり。

(136) 日蓮は法華経の行者なる故に、三種の強敵あつて種種の大難にあへり。
 然るに、かかる者の弟子・檀那とならせ給う事不思議なり。(強烈な覚悟を)定めて子細候らん。相構えて能能御信心候て、(日蓮と共に)霊山浄土へまいり給へ。
 殿の(仕事で)御もちの時は、(人を斬るので)悪の刀、今仏前へまいりぬれば(法華経のための)善の刀なるべし。譬えば、(戦の才能ある)鬼の(求)道心をおこし(法華経の行者を守護し)たらんが如し。
 銭(ぜに)と云うものは、用にしたがつて変ずるなり。
 法華経も亦復是くの如し。闇には燈となり、渡りには舟となり、あるいは水ともなり、あるいは火ともなり給うなり。もし然らば、法華経は現世安穏・後生善処の御経なり。
 信心に飽かなくして(飽きることなく)、所願を成就し給へ。女房にもよくよく語らせ給へ。
 たとへば、はるの野の千里ばかり(見渡す限り)に、草の満ちて候はんに、すこしの豆ばかりの火を草ひとつに放ちたれば、一時に無量無辺(見渡す限り)の火となる。
 (あなたが供養して下さった)此の帷子(かたびら)も又かくのごとし。
 上 大聖より、下 蚊虻に至るまで、命を財とせざるはなし。これを奪へば、また第一の重罪なり。

(137) 人に食を施すに、三の功徳あり。一には、命をつぎ。二には、色をまし。三には、力を授く。
 伝教大師ことはりて云く、「法華経を讃すと雖も、(如来の使との自覚なければ)還って法華の心を死す」
 (他人に頼る事を本とする)外道は、(自分が仏になるはずの)仏経をよめども(手助けしてもらおうとして)、外道と同じ。
 (目のあまり機能していない)蝙蝠が、昼を夜と見るが如し。
 一経の肝心たる題目を我も唱へ、人にも勧む。麻の中の蓬墨うてる木の自体は正直ならざれども、自然に直ぐなるが如し。
 経のままに唱うれば、まがれる心なし。
 賢人と申すは、よき師より。(仏法を)伝へ(聞き)たる人、聖人と申すは、師無くして(行動を振り返れば)我(聖人なり)と覚れる人なり。
 上一人より下万民に至るまで、法華経の神力品の如く、一同に「南無妙法蓮華経」と唱へ給ふ事もやあらんずらん。木は(揺れずに)静かならんと思へども、風やまず春を留んと思へども夏となる。
 金は焼けば(不純物が燃えて)弥色まさり。剣は研げば弥利くなる。法華経の功徳はほむれば、弥功徳まさる。
 法華第三に云く、「(敵であるはずの)魔及び魔民有りと雖も、(結果として)皆仏法を護る」

(138) 法華弘通のはたじるしとして、(御本尊を)顕し奉るなり。
 此の御本尊の中に住し給い(中心にある)妙法五字の光明に照らされて、本有の(本来なら有るべき)尊形(仏の姿)となる。これを本尊とは申すなり。
 (法華不信の)謗法の者を(そばに寄せず)せかせ給うべし。悪知識(成仏の妨げ)を捨てて、善友に親近せよとは是なり。
 此の御本尊、全く余所に求る事なかれ。ただ我れ等衆生の法華経を持ちて、「南無妙法蓮華経」と唱うる胸中の肉団におはしますなり。これを(心の中心が仏性と覚悟する)九識心王真如の都とは申すなり。
 この御本尊も、ただ「信心」の二字に収まれり。以信得入(信じれば仏道に入れる)とは是なり。
 「南無妙法蓮華経」とばかり唱へて、仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は、信を以て源とす。
 (父のかたきの虎と思い石に放った矢が刺さった故事を踏まえ)石に矢のたつ、是れ又父のかたきと思いし至信の故なり。(仏法者でなくても信力があらわれるのに)何に況や、仏法においてをや。

(139) 法華経を後五百歳の女人(が)供養せば、其の功徳を一分も残さずゆづるべし。譬えば、(法華経の中の説話で)長者の一子に(子が求めずして)一切の財宝を譲るがごとし。
 法華経をば経のごとく(広宣流布を勧め)持つ人人も、(仲間である)法華経の行者を或は貪・瞋・癡により、或は世間の事により、或はしなじなのふるまひによつて憎む人あり。此は法華経を信ずれども、信ずる功徳なし。かへりて、罰をかほるなり。
 (鎌倉時代の伝承によると)山は(魔法の)玉をいだけば、草木かれず。国に聖人あれば、その国やぶれず。
 山の草木の枯れぬは、玉のある故とも愚者は知らず。国のやぶるるは、聖人をあだむ故とも愚人は弁へざるか。
 日蓮は、(日本中で信仰されていた)念仏の敵なり。
 凡、父母の家を出でて僧となる事は、必ず父母を助くる道にて候なり。
 道を違へず(真剣に修行していれば)ば、十羅刹女の(ような同志の)御守り堅かるべし。道を違へたる者をば、(身近にいる諸天善)神も捨てさせ給へる理りにて候なり。
 人にはあまたの子あれども、父母の心は病する子にありとなり。仏の御ためには、一切衆生は皆子なり。その中罪ふかくして、世間の父母をころし、仏経のかたきとなる者は病子のごとし。

(140) 仏語むなしからざれば、法華経ひろまらせ給うべし。
 法華経を信ずる人は、(苦悩を元に発心したのか、常に同志のことを悩んでいるためか)冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔より聞かず、見ず、冬の秋とかへれる事を。
 いまだ聞かず、法華経を信ずる人の(仏と成らずに)凡夫となる事を。
 それ信心と申すは、別にこれなく候。妻の男を惜しむが如く、男の妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く、子の母に離れざるが如くに、法華経釈迦多宝十方の諸仏・菩薩・諸天・善神等に信を入れ奉りて「南無妙法蓮華経」と唱へたてまつるを信心とは申し候なり。
 しかのみならず、正直捨方便不受余経一偈(法華経のみを信じよと)の経文を、女の鏡をすてざるが如く、男の刀をさすが如く、少しも捨つる心なく案じ給うべく候、あなかしこ、あなかしこ。
 即身成仏は唯法華経に限るなり。
 法華経の即身成仏の法門は、(身分の高い大人の男ではなく、身分の低い女の子である)竜女(の成仏)を証拠とすべし。
 (願いの)叶ひ叶はぬは御信心により候べし、まったく日蓮が咎(とが)にあらず。

(141) 仏は真に尊くして物によらず、昔の得勝童子は(なにか供養しようと地面の泥で)沙の餅を仏に供養し奉りて(その真心の功徳により)阿育大王と生れて、一閻浮提の主たりき。
 滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。
 (京に上っていい気になっているが)田舎法師にもあらず、京法師にもにず、(退転した)せう房がやうになりぬと覚ゆ、言をば(貴族に気に入られるものでなく)但いなかことばにてあるべし、なかなかあしきやうにて有るなり。
 日蓮は、聖人の一分にあたれり。此の法門のゆへに、二十余所をわれ結句流罪に及び、身に多くのきずをかをほり弟子をあまた殺させたり。
 日本国の在家の者には、但一向に「南無妙法蓮華経」ととなへさすべし。
 法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり。
 末法当世の有智・無智・在家・出家・上下万人此の「妙法蓮華経」を持つて説の如く修行せんに、豈仏果を得ざらんや。
 (折伏するときは)和らかに又強く、両眼を細めに見顔貌に色を調へて閑に言上すべし。
 兼兼申せしが如く、日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず。

(142) 法華経の本門の肝心「妙法蓮華経」は、三世の諸仏の万行・万善の功徳を集めて、五字と為せり。
 上下万人、此の「妙法蓮華経」を持つて、説の如く修行せんに、豈仏果を得ざらんや。
 公場にして理運の法門申し(勝利し)候へばとて、雑言強言自讃気なる体(姿)人目に見すべからず、浅ましき事なるべし。弥身口意(の振る舞い)を調え謹んで、主人に向うべし、主人に向うべし。
 御みやづかい(職務)を法華経(の修行)と覚しめせ、「一切世間の冶生産業は皆実相(妙法)と相違背せず」とは此れなり。かへすがへす御文の心こそ、思いやられ候へ。
 いくさけかちつづき候いぬ。国はいかにも候へ。法華経の広まらん事、疑なかるべし。
 貴辺此の病を受くるの理、或人之を告ぐ。予日夜朝暮に法華経に(病気の回復を)申し上げ、朝暮に青天に訴う。除病の由、今日之を聞く。喜悦何事か之に過ぎん、事事(元気な姿での)見参を期せん。
 惜しき物は、命ばかりなり。これを法華経にまいらせんとをもし。
 三世の仏は、皆凡夫にてをはせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給う。
 命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う、日蓮今度命を法華経にまいらせて。

(143) (難を恐れる随他意である)先の功徳は、螢火のごとし。(難即悟達の随自意である)題目の功徳は、日月のごとし。
 大事には、小瑞(小さな前触れ)なし。大悪 起これば大善きたる。すでに大謗法国にあり。大正法必ずひろまるべし。
 釈迦仏は(弟子から見るとあまりに尊く)三十二相(超人的姿)備わって身は金色面は満月のごとし。しかれども、或は悪人は(仏を)墨(すみ)と見る。あるいは、悪人は灰(はい)とみる。あるいは悪人はかたきとみる。
 末法に入つて、法華経を持つ男女の姿より外には、宝塔(法華経に説かれる巨大な塔)なきなり。若し然れば、貴賎上下をえらばず。「南無妙法蓮華経」ととなうるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり。
 「妙法蓮華経」より外に宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。宝塔また「南無妙法蓮華経」なり。
 此の(偉大な)四大菩薩(ですら)「南無妙法蓮華経」と唱えたてまつる女人をはなるるならば、釈迦多宝十方分身の諸仏の御勘気(罰)を此の菩薩の身に蒙らせ給うべし。
 弥信心をはげみ給うべし。仏法の道理を人に語らむ者をば、男女僧尼必ずにくむべし。よしにくまばにくめ、法華経釈迦仏・天台妙楽伝教章安等の金言に身をまかすべし。如説修行の人とは是れなり。

(144) (田の回りを囲む)畷(なわて)堅固なれども、蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し。謗法不信のあかをとり、信心のなはてをかたむべきなり。
 浅き罪ならば我よりゆるして、功徳を得さすべし。重き過ちならば信心をはげまして、消滅さすべし。
 此の経文は、一切経に勝れたり。地走る者の王たり、師子王のごとし。空飛ぶ者の王たり、鷲のごとし。
 力あらん程は、謗法をばせめさせ給うべし。日蓮が義を助け給う事。
 法華経は、女人の成仏を先とする。
 (朝鮮半島の)百済国と申す国より、聖明皇日本国に仏法をわたす。
 いまだ(結果の)あらわれたる事なければ、語のみにては信じがたきぞかし。其の時、語にまかせて(言うとおりに)大なる事度度あひ候へば、「さては後の事もたのもし(これからも信頼できる)」なんど申すぞかし。
 仏に土の餅を供養せし徳勝童子は、(インド統一の)阿育大王と生れたり。仏に漿(米のとぎ汁)をまひらせし老女は、辟支仏(縁覚)と生れたり。
 仏は子なり、法華経は父母なり。譬えば、一人の父母に千子有りて、一人の父母を讃歎すれば千子悦びをなす。一人の父母を供養すれば、千子を供養するになりぬ。

(145) 法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし。
 御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来れり。仏に成る道も此くの如し。我等は穢土(苦難のある現実)に候へども、心は(法華経説法の)霊山に住べし。
 此の経をきく人は、一人も欠けず仏になる。
 (鎌倉時代は男社会なので)男は、柱のごとし。女はなかわのごとし。男は足のごとし。女人は身のごとし。男は、羽のごとし。女はみのごとし。羽とみとべちべちになりなば、なにをもつてかとぶべき。はしらたうれなば、なかは地に堕ちなん。
 大悪をも歎く事無かれ。一乗(である自行化他の題目)を修行せば、(悪人成仏の)提婆が跡をもつぎなん。
 此の法華経は信じがたければ、仏人の子となり、父母となり、女となりなんどしてこそ信ぜさせ給うなれ。
 日蓮は又(釈尊の)御子にてあるべかりけるが、しばらく日本国の人をたすけんと中国(国の中心地)に候か。宿善たうとく候。
 また、蒙古国の日本にみだれ入る時はこれ(身延)へ御わたりあるべし。

(146) 末代の法華経の行者を供養するは、(法華経に説かれる)十(種の仏)号を具足しまします。
 如来を供養したてまつるにも、其の功徳すぎたり。また、濁世に法華経の行者あらんを留難をなさん人は、頭(心)七分にわるべし。
 日蓮ほどあまねく人に、あだまれたるものは候はじ。
 北海の(佐渡ヶ)嶋に放たれしかば、彼の国の道俗(僧侶と檀家)は、相州(本州)の男女よりもあだをなしき。
 野中に捨てられて、雪にはだへをまじえ、(自生している)草をつみて(食料としながら)命をささえたりき。
 これ(佐渡流罪)は、ひとえに我が身には失(刑事上の罪)なし。日本国を助けんと思いしゆへなり。
 尼ごぜん並びに入道殿(二人の夫婦)は、彼の国(佐渡)に有る時は、人目を恐れて夜中に食ををくり、ある時は国のせめをもはばからず。(難にあう)身にも、(日蓮と)かわらんとせし人人なり。
 日蓮を(わが子のように世話をしてくれたあなたですから)恋しくをはしせば、常に出ずる日、夕べに出ずる月を拝ませ給え。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。また、後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん。
 不軽菩薩は法華経の御ために、多劫の間、罵詈・毀辱・杖木・瓦石にせめられき。今の釈迦仏にあらずや。

(147) 命を惜みて(念仏の破折を)云はずば、国恩を報ぜぬ上、教主釈尊の御敵となるべし。
 日蓮は愚なれども、釈迦仏の御使、法華経の行者なりとなのり候。
 (法華経を考えると)日蓮は、日本国の人人の父母ぞかし。主君ぞかし。明師ぞかし。是を背ん事よ。
 日蓮は、中国(国の中心京)都の者にもあらず。辺国の将軍等の子息にもあらず。
 遠国の者民が子にて候いしかば、日本国(に仏法が伝来してから)七百余年に一人もいまだ唱へまいらせ候はぬ「南無妙法蓮華経」と唱え候。
 二十七年が間、退転なく申しつより候事、月のみつるがごとくし、ほのさすがごとく、はじめは日蓮ただ一人唱へ候いしほどに、見る人、値う人、聞く人、耳をふさぎ眼をいからかし、口をひそめ、手をにぎり、歯をかみ、父母・兄弟・師匠ぜんうもかたきとなる。
 一向念仏者なる者は、(日蓮門下を)父母のかたき、主君のかたき、宿世のかたきのやうにののしる。
 生死一大事血脈とは、所謂「妙法蓮華経」これなり。
 久遠実成の釈尊(寿量品に説かれる本当の仏の姿)と、皆成仏道の法華経(一切の仏の成仏の元となった経典)と、我等衆生との三つ、全く差別無しと解りて、「妙法蓮華経」と唱え奉る処を、生死一大事の血脈とは云うなり。

(148) 臨終、ただ今にあり。
 過去の生死、現在の生死、未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを、法華の血脈相承とは云うなり。
 日蓮が弟子・檀那等、自他彼此の心なく、水魚の思を成して、異体同心にして、「南無妙法蓮華経」と唱え奉る処を、生死一大事の血脈とは云うなり。
 然も今、日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば、広宣流布の大願も叶うべき者か。
 剰え、日蓮が弟子の中に異体・異心の者之有れば、例せば城者として城を破るが如し。
 金は大火にも焼けず、大水にも漂わず、朽ちず。鉄は水火共に堪えず。賢人は金の如く、愚人は鉄の如し。貴辺豈真金に非ずや。法華経の金を持つ故か?
 相構え、相構えて強盛の大信力を致して、「南無妙法蓮華経」臨終正念(今が死ぬときでも悔いのないよう)と祈念し給へ。
 生死一大事の血脈、此れより外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり。信心の血脈無くんば、法華経を持つとも無益なり。
 過去無量劫より已来師弟の契約有りしか? 我等末法濁世に於て、生を南閻浮提大日本国にうけ、忝くも諸仏出世の本懐たる「南無妙法蓮華経」を口に唱へ、心に信じ、身に持ち、手に翫ぶ事、これ偏に過去の宿習なるか?

(149) 予が如く弘長には伊豆の国に流され、文永には佐渡嶋に流され、或は竜口の頚の座等、此の外種々の難数を知らず。
 経文の如くならば、予は正師なり、善師なり。諸宗の学者は悉く邪師なり、悪師なり。と、覚し食し候へ。
 念仏・真言等の邪法・邪師を捨てて、日蓮が弟子となり給うらん有り難き事なり。
 釈尊の御使として来つて、(他者を教)化し給へるか。
 我等は流人なれども、身心共にうれしく候なり。
 されば、我等が居住して一乗を修行せんの処は、何れの処にても候へ。常寂光の都(仏の居場所)為るべし。我等が弟子・檀那とならん人は、一歩を行かずして天竺の(法華経説法の場である)霊山を見本有(永遠不変)の寂光土へ昼夜に往復し給ふ。
 法華経をもつていのらむ祈は、必ず(真の)祈となるべし。
 法華経の行者の祈る祈は、響の音に応ずるがごとし。影の体にそえるがごとし。すめる水に月のうつるがごとし。方諸の水をまねくがごとし。磁石の鉄をすうがごとし。琥珀の塵をとるがごとし。
 あきらかなる(さびを取り除いた)鏡の物の色をうかぶるがごとし。

(150) 竜女は、我(自分自身)が仏になれる経なれば、仏の御諌なくとも、いかでか法華経の行者を捨てさせ給うべき。
 諸大菩薩は本より、大悲代受苦の誓ひ深し。仏の御諌なしとも、いかでか(同志である)法華経の行者を捨て給うべき。
 (諸仏を差し置き)釈迦仏独主師親の三義をかね給へり。
 法華経の御ためには、名をも身命をも惜まざりけり。
 大地はささばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず。
 (法華経の)行者は、必ず不実なりとも、智慧は愚かなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備へずとも、「南無妙法蓮華経」と申さば必ず守護し給うべし。
 袋きたなしとて、(中身の)金を捨る事なかれ。
 (悪臭を放つ)伊蘭をにくまば、(同じ森の)栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば、蓮を取らざるべし。
 (同志である法華経の)行者を嫌い給はば、(虚空会での)誓を破り給いなん。
 とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば、いかでか祈りのかなはざるべき。
 法華経を信ぜん人、現世のいのり、後生の善処は疑いなかるべし。

(151) 法華経の行者は、信心に退転無く、身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて、金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず。今生も、息災・延命にして勝妙の大果報を得。広宣・流布・大願をも成就す可きなり。
 下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず「妙法蓮華経」
 凡夫は体の三身にして(実際に智慧と慈悲と勇気を現す)、本仏ぞかし。仏は用の三身にして、迹仏なり。
 地涌の菩薩のさきがけ、日蓮一人なり。地涌の菩薩の数にもや入りなまし。もし日蓮、地涌の菩薩の数に入らば、豈に日蓮が弟子・檀那、地涌の流類に非ずや。
 末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有つて流罪・死罪に及ばん。
 然れども、たえて(捨てずに)弘めん者をば、衣を以て釈迦仏をほひ(覆い)給うべきぞ。
 日蓮と同意ならば、地涌の菩薩たらんか? 地涌の菩薩にさだまりなば、釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。
 末法にして、「妙法蓮華経」の五字を弘めん者は、男女はきらふべからず。
 皆、地涌の菩薩の出現に非ずんば、唱へがたき題目なり。

(152) 日蓮一人、はじめは「南無妙法蓮華経」と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。
 剰へ広宣流布の時は、日本一同に「南無妙法蓮華経」と唱へん事は、大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて、身をまかせ給うべし。
 現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだ、せきあへず。
 鳥と虫とは泣けども涙落ちず、日蓮は泣かねども涙ひまなし。此の涙、世間の事には非ず。但偏に法華経の故なり。
 一閻浮提(全世界で)第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候て、三仏釈尊と多宝仏と十方の諸仏)の守護をかうむらせ給うべし。
 行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば、仏法はあるべからず。我もいたし、人をも教化候へ。
 行学は、信心よりをこるべく候。力あらば、一文一句なりとも語らせ給うべし。
 「南無妙法蓮華経」と唱へて、日本国の男女をみちびかんと思へばなり。
 上行菩薩の弘通し給うべき秘法を、日蓮先き立つて之を弘む身に当るの意に非ずや。上行菩薩の代官の一分なり。

(153) 正行には、ただ「南無妙法蓮華経」なり。
 予が弟子等は、我が如く正理を修行し給え。智者・学匠の身と為りても、地獄に墜ちて何の詮か有るべき。所詮時時念念に「南無妙法蓮華経」と唱うべし。
 法華経の文を見聞するに、末法に入つて教の如く法華経を修行する者は、留難多かる可き。
 法華経の為に御勘気(幕府からの処罰)を蒙れば、幸の中の幸なり。瓦礫を以て金銀に易ゆるとは是なり。
 本門の教主、妙法の五字、一閻浮提に流布せんこと疑無き者か。ただし、日蓮法師に度度之を聞きける人人猶此の大難に値つての後、之を捨つるか。
 貴辺は之を聞きたもうこと、一両度一時二時か? 然りと雖も未だ捨てたまわず、御信心の由之を聞く。偏えに今生の事に非じ。
 代の悪人等の成仏・不成仏は、罪の軽重に依らず。但此経の信不信に任す可きのみ。
 眠れる師子に手を付けざれば、瞋らず。流に竿を立てざれば、浪立たず。謗法を呵嘖せざれば、留難なし。
 もし、善比丘見壊法者置不呵嘖の置の字を恐れずんば、今は吉し。後を御らんぜよ。無間地獄疑無し。
 御きねんかなはずば、言のみ有りて実なく、華さいてこのみなからんか?
 いまも御らんぜよ、此の(小さな願い)事叶はずば、今度法華経にては(大願である)仏になるまじきか?

(154) 法華経の為に身を捨て命をも奪われ奉れば、無量無数劫(果てしなく長い時間)の間の思ひ出なるべしと、思ひ切り給うべし。
 法華経を持つ人は、男ならば何なる田夫にても候へ。
 三界の主たる大梵天王釈提桓因四大天王転輪聖王ないし漢土・日本の国主等にも勝れたり。
 何に況や、日本国の大臣・公卿・源平の侍・百姓等に勝れたる事申すに及ばず。女人ならば、僑尸迦女吉祥天女漢の李夫人楊貴妃等の無量・無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候。
 法華経を読む人は有りしかども、「南無妙法蓮華経」と唱うる人は日本国に一人も無し。
 何なる責め有りとも、いかでかさてせき留むべきと思ふ心に、今まで退転候はず。
 一劫が間、教主釈尊を供養し奉るよりも、末代の浅智なる法華経の行者の上下・万人にあだまれて、餓死すべき比丘等を供養せん功徳は勝るべしとの経文なり。
 徳勝童子と申せし幼き者は、土の餅を釈迦仏に供養し奉りて、阿育大王と生れて閻浮提の主と成りて、結句は仏になる。
 (質問していただいた)御文に云く。此の経を持ち申して後、退転なく十如是自我偈を読み奉り題目を唱へ申し候なり。ただし聖人の唱えさせ給う題目の功徳と、我れ等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候。

(155) ただし聖人の唱えさせ給う題目の功徳と、我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候。其の故は、愚者の持ちたる金も、智者の持ちたる金も、愚者の然せる火も、智者の然せる火も、其の差別なきなり。
 ただし、此の経の心(万人の幸福)に背いて唱へば、其の差別有るべきなり。
 法華経を持つ者をば、互に毀るべからざるか。
 何なる鬼畜なりとも、法華経の一偈一句をも説かん者をば、「当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし」の道理なれば、仏の如く互に敬うべし。
 例せば、宝塔品の時の釈迦多宝の如くなるべし。
 菩提心を発す人は多けれども、退せずして実の道に入る者は少し。
 都て凡夫の菩提心は、多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物なり。鎧を著たる兵者は多けれども、戦に恐れをなさざるは少なきが如し。
 我が身貧にして布施すべき宝なくば、我が身命を捨て、仏法を得べき便あらば、身命を捨てて仏法を学すべし。
 とても此の身は徒に山野の土と成るべし。惜みても何かせん、惜むとも惜みとぐべからず。人久しといえども、百年には過ず。その間の事は、ただし一睡の夢ぞかし。

(156) 遊戯・雑談のみして明し暮さん者は、法師の皮を著たる畜生なり。
 法師の名を借りて世を渡り、身を養うといへども法師となる義は一もなし。法師と云う名字をぬすめる盗人なり。
 在家の御身は、余念もなく日夜・朝夕「南無妙法蓮華経」と唱え候て、最後・臨終の時を見させ給へ。
 (過去世の誓いが弱ければ法華経の題目は)となふる事はゆめにもなし、人の申すをも聞かず。
 ただし、日蓮一人ばかり日本国に始めて、これ(題目)を唱へまいらする事、去ぬる建長五年の夏のころより、今に二十余年の間、昼夜・朝暮に「南無妙法蓮華経」と是を唱うる事は一人なり。
 師子の声には、一切の獣声を失ふ。虎の影には、犬恐る。日天東に出でぬれば(それまで空を飾っていた)、万星の光は跡形もなし。
 法華経のなき所にこそ、弥陀・念仏はいみじかりしかども、「南無妙法蓮華経」の声出来しては、師子と犬と、日輪と星との光くらべのごとし。
 妙荘厳王と申せし王は、(仏法を信じない)悪王なりしかども、御太子浄蔵浄眼の導かせ給いしかば、(父を想う真心に打たれ)父母二人共に法華経を御信用有りて、仏にならせ給いしぞかし。

(157) 父母の御恩は、今初めて事あらたに申すべきには候はねども、母の御恩の事殊に心肝に染みて貴く覚へ候。
 (宝塔品の六難九易を考えると、超人的な活躍をすることよりも)末法のけふこのごろ法華経の一句一偈のいはれをも、尋ね問う人はありがたし。
 (法華経はいかなる人も成仏させられる。例えば)水の底なる(火打ち)石に火のあるが如く、百千万年(一度も光が入らず)くらき所にも燈を入れぬればあかくなる。
 先臨終の事を習うて、後に他事を習うべし。
 法華経は実語の中の実語なり。真実の中の真実なり。
 白粉の力は、漆を変じて雪のごとく白くなす。須弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生ないし過去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根、皆変じて金色となり候なり。
 十二・十六の年より、三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候。
 (小さな善で満足することは大きな善の妨げとなるので)十悪五逆の罪人よりも強く地獄に堕ちて、阿鼻大城を栖として永く地獄を出でぬ事の候けるぞ。

(158) 謗法と申す罪をば、我れも知らず。人も失とも思はず。ただし仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に、(人を救っていなければ)此の人も又此の人にしたがふ弟子・檀那等も無間地獄に堕つる事あり。
 仏法の中には、仏いましめて云く。法華経のかたきを見て、世(間)をはばかり恐れて申さずば、釈迦仏の御敵(であるので)いかなる智人・善人なりとも、必ず無間地獄に堕つべし。
 譬へば、父母を人の殺さんとせんを子の身として父母にしらせず。王をあやまち奉らんとする人のあらむを、臣下の身として知りながら代をおそれて申さざらんがごとしなんど禁られて候。
 賢王の時は、仏法をつよく立つれば、王両方を聞あきらめて勝れ給う智者を師とせしかば、国も安穏なり。
 末法に入つて、法華経を謗じて地獄に堕つる者は、大地微塵よりも多く信じて仏になる者は、爪の上の土よりも少しと説かれたり。
 王となる人は、過去にても、現在にても、十善を持つ人の名なり。名はかはれども、師子の座は一也。此の名もかはるべからず。
 「妙法蓮華経」の徳あらあら申し開くべし。毒薬変じて薬となる。「妙法蓮華経」の五字は、悪変じて善となる。玉泉と申す泉は、石を玉となす。此の五字は、凡夫を仏となす。

(159) 日蓮が法華経を弘通し候を、上一人より下万民に至るまで、御あだみ候故に、一切の神を敬ひ、一切の仏を御供養候へども、其の功徳還つて大悪となり。やいとの還つて悪瘡となるが如く、薬の還つて毒となるが如し。
 自身仏にならずしては、父母をだにも救いがたし。いわうや他人をや。
 「南無妙法蓮華経」とただ一遍唱えまいらせ候い畢んぬ。愛(いと)おしみの御子を、霊山・浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり。
 因果のことはりは、華と果との如し。千里の野の枯れたる草に螢火の如くなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草・二草・十百・千万草につきわたりて燃ゆれば、十町・二十町の草木一時に焼けつきぬ。
 (迫害をいやがれば)適法華経を信ずる様なる人々も、世間をはばかり人を恐れて、多分は地獄へ堕つる事不便なり。
 子の心に親の随うをば、随他意と申す。親の心に子の随うをば、随自意と申す。
 事多しと申せども、此の程風(風邪)おこりて身苦しく候間留め候い畢んぬ。
 うれしきかな末法流布(濁世での精神闘争)に生れあへる我等。悲しきかな今度此の経を信ぜざる人々、抑人界に生を受くるもの誰か無常を免れん。

(160) 終に世間の悪業衆罪は、須弥の如くなれども、此の経にあひ奉りぬれば、諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし。
 法華の心に背きぬれば、十方の仏の命を失ふ罪なり。この掟に背くを謗法の者とは申すなり。(その境界を)地獄(というが)おそるべし。炎を以て家とす。
 (地獄という)かかる悪所にゆけば、王位・将軍も物ならず。獄卒の呵責にあへる姿は、猿をまはすに異ならず。此の時は争か名聞・名利・我慢・偏執有るべきや。
 法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば、悪道に行くべからず。何に況や、十度・二十度ないし五年・十年・一期生の間、供養せる功徳をば仏の智慧にても知りがたし。
 弥はげませ給うべし。懈ることなかれ。
 皆人の此の経を信じ始むる時は、信心有る様に見え候が中程は信心も弱く僧をも恭敬せず。供養をもなさず自慢して、悪見をなす。
 始より終りまで弥信心をいたすべし。さなくして後、悔やあらんずらん。譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩をはこびて、今一日に成りて歩をさしをきては、何として都の月をば詠め候べき。
 たまたま人間に来る時は、名聞・名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には、財宝をつくすに惜しからず。

(161) 信心と申すは、少しも私なく、経文の如くに人の言を用ひず。法華一部に背く事無ければ、仏に成り候ぞ。
 仏に成り候事は、別の様は候はず。「南無妙法蓮華経」と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相・八十種好を備うるなり。如我等無異と申して、釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。
 有解無信とて法門をば解りて信心なき者は、更に成仏すべからず。有信無解とて解はなくとも信心あるものは、成仏すべし。
 (凡夫とは到底思えないような)智慧第一の舎利弗も、但此の経を受け持ち、信心強盛にして仏になれり。己が智慧にて仏にならずと説き給へり。
 舎利弗だにも智慧にては仏にならず。
 後世を願はん者は、名利名聞を捨てて何に賎しき者なりとも、法華経を説かん。僧を生身の如来の如くに敬ふべし。
 教主釈尊とは、我等衆生の事なり。
 妙法を持つ人、寧ろ身命を失するとも不退転を得る。
 末法には法華経の行者必ず出来すべし。ただし、大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし。
 大難なくば、法華経の行者にはあらじ。
 僧も俗も、尼も女も一句をも人にかたらん人は、如来の使と見えたり。貴辺すでに俗なり。善男子の人なるべし。

(162) 生死の大海を渡らんことは、「妙法蓮華経」の船にあらずんば、かなふべからず。
 三徳を備へ給う事は、十方の仏の中に唯釈迦仏計りなり。
 (法華経誹謗の罪を)日本国には、ただ日蓮一人計り知って、始は云うべきか云うまじきかと、うらおもひけれども、さりとては何にすべき、一切衆生の父母たる上仏の仰せを背くべきか。
 我が身こそ何様にもならめと思いて云い出せしかば、二十余年所を追はれ、弟子等を殺され、我が身も疵を蒙り、二度まで流され、結句は頚切られんとす。これ偏に日本国の一切衆生の大苦にあはんを兼て知りて、歎き候なり。
 されば心あらん人人は、我等が為にと思食すべし。
 若し恩を知り、心有る人人は、(日蓮が受けるはずの)二当らん杖には、一は替わるべき事ぞかし。
 構へて、構へて所領を惜み、妻子を顧りみ、また人を憑みて、(自分の身を)危ぶむ事無かれ。ただ偏に思い切るべし。
 (元寇などのあった)今年の世間を鏡とせよ。若干の人の死ぬるに、今まで生きて有りつるは、此の事(境界革命できるほどの大難)にあはん為なりけり。

(163) 一劫が間、(世間でも聖人と認められている)釈迦仏を種種に供養せる人の功徳と、(法のため迫害に遭っている)末代の法華経の行者を須臾(ひと時)も供養せる功徳とたくらべ候に、其福復彼(釈尊供養の功徳)に過ぐと申して、法華経の行者を供養する功徳すぐれたり。
 日蓮を二度までながし、法華経の五の巻をもてかうべを打ち候いしはこり候はんずらむ。
 其(末法流布)の時、上行菩薩出現して「妙法蓮華経」の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。其の時一切衆生此の菩薩をかたきとせん。いわゆる猿の犬を見たるがごとく、鬼神の人をあだむがごとく。
 閻浮の内の人は、病の身なり、法華経の薬あり。
 (法華経を信仰してたった一年の)あつわらの者どもの御心ざし、異体同心なれば万事を成し、同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は、外典三千余巻に定りて候。
 日本国の人人は、多人なれども体同異心なれば、諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人人すくなく候へども、大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚へ候。
 悪は多けれども、一善にかつ事なし。
 日蓮は法華経の御使い。日本国の人人は(仏法を習おうとしたがかえって仏法の敵となった)大族王の一閻浮提の仏法を失いしがごとし。

(164) 智者とは、世間の法より外に仏法を行ず。世間の治世の法を能く能く心へて候を、智者とは申すなり。
 此等(の英雄は)は、仏法(伝来)已前なれども、教主釈尊の御使として民を助けしなり。
 外経の人々は知らざりしかども、彼等の人々の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり。
 大悪は、大善の来るべき瑞相(前触れ)なり。
 一閻浮提うちみだすならば、閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ。
 同じ米穀なれども、謗法の者を養うは仏種をたつ。命をついで弥弥強盛の敵人となる。また、命をたて終に法華経を引き入るべき故か? また、法華の行者を養うは、慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし。一切衆生を利益するなればなり。
 その国の仏法は、貴辺にまかせたてまつり候ぞ。仏種は、縁に従つて起る。この故に、一乗を説くなるべし。
 夫れ、木を植え候には、大風吹き候へども強きすけをかひぬれば倒れず。本より生いて候。木なれども、根の弱きは倒れぬ。甲斐無き者なれども、助くる者強ければ倒れず。すこし健の者も独なれば、悪しきみちにはたうれぬ。
 されば仏になるみちは、善知識(仏法を勧めてくれる同志)にはすぎず。わが智慧なににかせん。

(165) ただ暑きき冷たきばかりの智慧だにも候ならば、善知識 大切なり。
 而るに、善知識に値う事が第一のかたき(難しい)事なり。されば、仏は善知識に値う事をば一眼の亀の浮木に入り、梵天より糸を下て大地の針の目に入るに例へ給へり。
 日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。また、道理・証文よりも現証にはすぎず。
 すりはむどく(須梨槃特)は、(頭が非常に悪く)三箇年に十四字を暗にせざりしかども、仏に成りぬ。提婆は六万蔵を暗にして、無間に堕ちぬ。これ偏に、末代の今の世を表するなり。
 雪至つて白ければ染むるに染められず。漆至つて黒ければ白くなる事なし。
 此れより移りやすきは、人の心なり。善悪に染められ候。
 いかにも御信心をば雪・漆のごとくに御もち有るべく候。
 このまんだらを身にたもちぬれば、王を武士のまほるがごとく子を親の愛するがごとく、魚(いお)の水を頼むがごとく、草木の雨を願うごとく、鳥の木を頼むがごとく、一切の仏神等のあつまりまほり、昼夜にかげのごとくまほらせ給う法にて候。よくよく御信用あるべし。

(166) 甘酒 一桶、山のいもところせうせう給了んぬ。梵網経と申す経には、一紙一草と申して紙一枚、草ひとつ(の功徳が説かれている)大論と申す。論には、土のもちゐを仏に供養せるもの、閻浮提の王となる由を説かれて候。
 これは、それには似るべくもなし。そのうへをとこにもすぎわかれたのむかたもなきあまのするがの国西山と申すところより甲斐国のはきゐ(波木井)の山の中にをくられたり、人にすてられたるひじりの寒さにせめられていかに心ぐるしかるらんとをもひやらせ給いてをくられたるか、父母にをくれしよりこのかたかかるねんごろの事にあひて候事こそ候はね、せめての御心ざしに給うかと覚えて涙もかきあへ候はぬぞ、日蓮は悪き者にて候へども、法華経はいかでかおろそかにおわすべき、袋は臭(くさ)けれども、つつめる金は清し。池は汚なけれども蓮(はちす)しやうじやうなり。
 日蓮は、日本第一のえせものなり。法華経は、一切経に優れ給へる経なり。心あらん人、金を取らんとおぼさば、袋を捨つる事なかれ。蓮を愛せば、池を憎む事なかれ。
 わるくて仏になりたらば、法華経の力あらはるべし。よつて臨終わるくば、法華経の名をりなん。さるにては、日蓮は悪くても悪かるべし、悪かるべし。

(167) 木の下なる虫の木を食らひたうし。師子の中の虫の師子を食らいうしなふ。
 法華経のかた(味方)をあだむ人々は、(仏の眼から見れば)剣を飲み、火を手に握るなるべし。
 根 深ければ、葉 枯れず。泉に玉あれば、水 絶えず。と、申すやうに御信心の根の深くいさぎよき玉の心のうちにわたらせ給うか。
 この仏、不死の薬(不死の境界)をとかせ給へり。今の「妙法蓮華経」の五字これなり。
 しかも、この五字をば閻浮提人病之良薬とこそ説かれて候へ。
 この病ひは仏の御はからひか? そのゆへは、浄名経涅槃経には病ある人仏になるべきよし説かれて候。病によりて、道心は起こり候なり。
 ただいまに霊山にまいらせ給いなば、日いでて十方をみるがごとくうれしく、とくしにぬるものかなと、うちよろこび給い候はんずらん。
 中有の道にいかなる事もいできたり候はば、日蓮が弟子なりと名乗らせ給へ。
 日蓮は、日本第一のふたうの法師。ただし、法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり。
 法華経の題目をつねはとなへさせ給へば、此の妙の文じ御つかひに変ぜさせ給い、あるいは文殊師利菩薩、あるいは普賢菩薩、あるいは上行菩薩、あるいは不軽菩薩等とならせ給うなり。
 妙の文字は花の木の実となるがごとく、半月の満月となるがごとく、変じて仏とならせ給う文字なり。

(168) (題目の)「妙」の文字は、月なり、日なり、星なり、鏡なり、衣なり、食なり、花なり、大地なり、大海なり。
 一切の功徳を合せて「妙」の文字とならせ給う。または、(一切の宝を意のままに出せるという)如意宝珠の玉なり。
 故なく民を煩はして宝をまうけて(他人に迷惑をかけた上で財産を築き、聖人に供養するなどの)善根をなす。此等は大なる仏事とみゆれども(功徳がないので)仏にもならざる上、その人々あともなくなる事なり。
 仏法を学する者は、大地微塵より多けれども、まことに仏になる人は、爪の上の土よりも少なし。
 仏法をば学すれども、或は我が心の愚かなるにより(成仏はできない)、或はたとひ智慧は賢きやうなれども師によりて我が心の曲がるを知らず、仏教をなをしく(曲げることなく)習ひうる事かたし。
 (凡夫が)仏にならむとする時には、必ず影の身にそうがごとく、雨に雲のあるがごとく、三障四魔と申して七の大事出現す。
 設ひからくして六はすぐれども、(王難をも引き起こす)第七(の天子魔、つまり権力の弾圧)に破られぬれば、仏になる事かたし。

(169) (法華経の行者を見ると第六天の魔王は手下にこう言うと経典には説かれている)「各々ののうのう(能力)に随つて、かの行者を悩ましてみよ。それにかなわずば、彼が弟子・旦那ならびに国土の人の心の内に入りかわりて、あるひは諫め、あるいは脅(おど)してみよ。
 それに叶はずば、我みづからうちくだりて、国主の身心に入りかわりて脅して見むに、いかでか(成仏を)とどめざるべきとせんぎし候。
 聖人は未萠を知ると申して、三世の中に(先例から判断し)未来の事を知るをまことの聖人とは申すなり。
 法門の事は佐渡の国へ流され候いし已前の法門はただ仏の爾前の経と(同じく土台に過ぎないと)をぼしめせ。
 日蓮は其の(法華経流布を釈尊から言い渡された)御使にはあらざれども、其の時剋にあたる上、存外に此の法門を悟りぬれば、(いずれ現われる)聖人の出でさせ給うまでまづ序分にあらあら申すなり。
 (本来なら末法は)但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候。
 法門の事こまごまとかきつへ申すべく候へども、事ひさしくなり候へばとどめ候。

(170) 十字(むしもち)一百まいかしひとこ給い了んぬ。正月の一日は、日の始め、月の始め、年の始め、春の始め、此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりて明かなるがごとく、とくも勝り人にも愛せられ候なり。
 地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経文もあり。或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。
 仏と申す事も、我等の心の内にをはします。譬へば(冷たい火打ち)石の中に火あり。
 我等凡夫は睫(まつげ)の近きと、虚空の遠きとは見候事なし。我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ。
 蓮は清きもの、(輝くことのない)泥より出(いで)たり。栴檀(せんだん)は香ばしき物、(香りのしない)大地よりをいたり。桜は(美しく)面白き物、(ごつごつした)木の中より咲きいづ。楊貴妃は見めよきもの、(身分が低い)下女の腹より生まれたり。
 月は山よりいでて山をてらす。災いは口より出でて、身を破る。幸い、心より出でて我を飾る。

(171) 法華経を信ずる人は、(その境界から自然と)さいわいを万里の外よりあつむべし。
 影は、体より生ずるもの。法華経を敵とする人の国は、(国主の偏見など種々の原因により)体に影のそうがごとく災い来るべし。
 法華経を信ずる人は、栴檀に香ばしさのそなえたるがごとし。
 一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ、本にはなり候べけれ。
 いかなる大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経の敵をだにも攻めざれば得道ありがたし。
 たとへば、朝(天皇や将軍)につかふる人の十年・二十年の奉公あれども、(主)君の敵をしりながら奏もせず、私にもあだまずば(今までの)奉公皆 失せて、還つて咎(とが)に行はれんが如し。
 (現在というのは)悪よりも善根にて、多く悪道に堕つべき時刻なり。
 悪は愚癡の人も悪としれば、したがはぬ辺もあり。火を水を以て消すが如し。善はただ善と思ふほどに、(中途半端な)小善に付いて大悪の起る事をしらず。
 善なれども大善をやぶる小善は、悪道に堕つるなるべし。
 日蓮は唯一人、かたうど(味方)は一人もこれなし。今までもいきて候は不可思議なり。

(172) 日本国に法華経よみ、学する人これ多し。
 (ご成敗式目に反する)人の妻を狙ひ、盗み等にて打はらるる人は多けれども、(仏使として)法華経の故にあやまたるる人は一人もなし。
 されば日本国の持経者は、いまだ此の経文にはあわせ給はず。ただ日蓮一人こそ、読みはべれ。我不愛身命但惜無上道是なり。されば、日蓮は日本第一の法華経の行者なり。
 もしさきに(今世を)たたせ給はば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし。
 日本第一の法華経の行者、日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ。
 とくとく(今すぐにでも)見参して、みづから申しひらかばや。語は文につくさず。文は心をつくしがたく候へば、とどめ候いぬ。
 妙法華経の文に、世尊の法は久くして後に要ず、当に真実を説くべし、「妙法華経」ないし皆是真実と申す文を以て之を思うに、女人の往生・成仏決定と説かるる法華経の文は、実語不妄語戒と見えたり。
 生きてをはしき時は、生の仏。今は、死の仏。生死ともに、仏なり。
 即身成仏と申す大事の法門これなり。
 夫れ浄土と云うも、地獄と云うも、外には候はず。ただ我等が胸の間にあり、これを悟るを仏といふ。これに迷ふを凡夫と云う。

(173) たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経を離るるならば、ただいつも地獄なるべし。
 法華経の法門を聞くにつけて、なをなを信心を励むをまことの道心者とは申すなり。
 天台云く、「従藍而青」云々。此の釈の心は、藍(あい)は葉のときよりもなを染むれば、いよいよ青し。法華経は藍のごとし。修行の深きは、いよいよ青きがごとし。
 さのみ嘆き給うべからず。また、嘆き給うべきが凡夫のことわりなり。
 ただし、聖人の上にもこれあるなり。釈迦仏、御入滅のとき諸大弟子等の悟りの嘆き、凡夫の振る舞ひを示し給うか?
 心地を九識にもち、修行をば六識にせよ。
 仏を一中劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあながちに憎む法華経の行者を供養する功徳は優れたり。
 むぎひとひつかわのり五条はじかみ六十給了んぬ。いつもの御事に候へば、驚かれず、珍しからぬやうにうちをぼへて候は凡夫の心なり。
 いまだ聞かず、法華経の故に日蓮ほど人に悪まれたる者はなし。
 二十余年が間、一時片時も心安き事なし。頼朝の七年の合戦も暇やありけん。頼義が十二年の闘諍も争かこれにはすぐべき。

(174) 日蓮、日本国に出現せずば、(法華経の行者が難に遭うといの)如来の金言も虚くなり、多宝の証明も何かせん。十方の諸仏の御語も、妄語となりなん。
 (釈尊が)一代(で説いたとされる)聖教の中に、法華経は明鏡の中の神鏡なり。
 銅鏡等は人の形をば浮かぶれども、いまだ心をば浮かべず。
 法華経は人の形を浮ぶるのみならず、心をも浮べ給へり。心を浮ぶるのみならず、先業をも、未来をも鑒み給う事くもりなし。
 親によき物を与へんと思いて、せめてする事なくば一日に二三度えみて向へ。
 かくれての信あれば、あらはれての徳あるなり。
 友達の一日に、十度・二十度来れる人なりとも、千里・二千里来れる人の如く思ふて礼儀いささか愚かに思うべからず。
 (社会的地位が低く)我より劣りたらん人をば、我が子の如く思いて、一切あはれみ慈悲あるべし。
 人となりて仏教を信ずれば、先づ此の父と母との恩を報ずべし。
 父の恩の高き事、須弥山猶ひきし。母の恩の深き事、大海還つて浅し。相構えて、父母の恩を報ずべし。
 相構て、相構て心を翻へさず。一筋に信じ給ふならば、現世安穏・後生善処なるべし。

(175) 日は、赫々たり。月は、明々たり。法華経の文字は、かくかく・めいめいたり。めいめい・かくかくたり。明かなる鏡に、顔を浮かべ、澄める水に、月の浮かべるがごとし。
 夜・昼、法華経に申し候なり。御信用の上にも、力も惜しまず申させ給え。
 あえてこれよりの心ざしの弱気にはあらず、各々の御信心の厚くうすきにて候べし。
 法華経を持ちまいらせぬれば、八寒地獄の水にも濡れず、八熱地獄の大火にも焼けず。
 事多しと申せども、年せまり御使急ぎ候へば、筆を留候い畢んぬ。
 虎うそぶけば、大風吹く。竜 吟ずれば、雲起こる。野兎のうそぶき、驢馬のいはうるに風ふかず。雲起こる事なし。
 愚者が法華経を読み、賢者が義を談ずる時は、国も騒がず、事も起こらず。聖人出現して、仏のごとく法華経を談ぜん時、一国も騒ぎ、在世にすぎたる大難 起こるべしとみえて候。
 今日蓮は賢人にもあらず。まして、聖人は思ひもよらず。天下第一の僻人にて候が、但経文計りにはあひて候やうなれば、大難来り候へば(亡くなった)父母の生き返らせ給いて候よりも憎きものの(命に及ぶ)ことにあふよりもうれしく候なり。
 愚者にて而も仏に聖人と思はれまいらせて候はん事こそ、うれしき事にて候へ。

(176) 日蓮が弟子にせう房と申しのと房といゐなごえの尼なんど申せし物どもは、欲深く、心臆病に愚癡にして、而も智者と名乗りしやつばらなりしかば事の起こりし時、たよりをえて多くの人をおとせしなり。
 (広布が進めば)日本国一時に信ずる事あるべし。爾時我も本より信じたり、信じたりと申す人こそ多くをはせずらんとおぼえ候。
 法華経の(あつい)信を薄くなさんずるやうを、(退転するように)たばかる人出来せば、我が信心を試むるかとおぼして、各々これを御けうくんあるはうれしき事なり。
 今の旦那の白麦は賤しくて、仏にならず候べきか?
 在世の月は、今も月。在世の花は、今も花。むかしの功徳は、今の功徳なり。その上、上一人より下万民までに憎まれて山中にうえしにゆべき法華経の行者なり。
 信心の楔(くさび)に志のあぶらをささせ給いて、霊山・浄土へまいり給うべし。
 抑今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。
 聴聞する時は、燃へ立つばかりを燃へども遠ざかりぬれば捨つる心あり。水のごとくと申すは、いつもたいせず信ずるなり。
 此れはいかなる時も、つねはたいせずとわせ給えば、水のごとく信ぜさせ給へるかたうとしたうとし。

(177) (難や迫害に遭遇したときは)法華経の行者を悩まして頭を割らんとをもふ鬼神の候べきか。また、釈迦仏・法華経の御そら事の候べきかと深く思し召し候へ。
 臨終に「南無妙法蓮華経」と唱えさせ給いける事は、一眼の亀の浮木の穴に入り、天より下糸の大地の針の穴に入るがごとし。
 天は睫(まつげ)のごとしと申すはこれなり。虚空の遠きと、睫の近きと、人みな見る事なきなり(日蓮の法門では成仏がまつげのように近くあるので信じがたいのだ)。
 今末法に入りぬれば、余経も法華経もせんなし。ただし、「南無妙法蓮華経」なるべし。
 かう申し出だして候も、私の計いにはあらず。釈迦多宝十方の諸仏・地涌千界の御計なり。この「南無妙法蓮華経」に余事(成仏以外の低い境涯を勧めること)を交じへば、ゆゆしきひが事なり。
 日出でぬればとほしびせんなし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。
 嬰児に乳より外のものをやしなうべきか? 良薬に又薬を加えぬる事なし。
 法華経供養の功徳、重ならばあに(即身成仏の)竜女があとをつがざらん。
 此の法門は、当世日本国に一人も知りて候人なし。ただ日蓮一人計りにて候へば、これを知って申さずば、日蓮無間地獄に堕ちてうかぶ期なかるべし。

(178) 譬へば謀反の者を知りながら、国主へ申さぬとがあり。申せばかたき雨のごとし。風のごとし。謀反の者のごとし。海賊・山賊の者のごとし。かたがた忍びがたき事なり。
 (あなたに)慈悲なければ、天も此の国をまほらず。
 かかる世にいかなる宿善にか、法華経の行者を養わせ給う事、ありがたく候、ありがたく候。事々見参の時申すべし。
 (他仏を頼る)念仏を申し、(外圧である)かいを保ちなんどする人は多けれども、法華経をたのむ人少なし。星は多けれども、大海を照らさず。草は多けれども、大内の柱とはならず。
 念仏は多けれども、仏と成る道にはあらず。戒は持てども、浄土へ参る種とは成らず。
 ただし、(自らの仏性に頼る)「南無妙法蓮華経」の七字のみこそ、仏になる種には候へ。これを申せば、人はそねみて用ひざりしを故上野殿信じ給いしによりて、仏に成らせ給いぬ。
 日蓮種々の大難の中には、竜口の頚の座と刀杖(とうじょう)の難には過ぎず。
 その故は、諸難の中には命を捨つる程の大難はなきなり。
 或はのりせめ、或は処を追われ、無実を云いつけられ、或は面をうたれしなどは物の数ならず。されば、色心の二法より起こりてそしられたる者は、日本国の中には日蓮一人なり。

(179) 去年のこよみ、昨日の食のごとし。(その時は意味があるが)今日の用にならず。
 末法の始の五百年に、法華経の題目をはなれて成仏ありといふ人は、仏説なりとも用ゆべからず。何に況や人師の義をや。
 (釈尊を陥れた悪人の)提婆は、釈迦如来の昔の師なり。昔の師は、今の弟子なり。今の弟子は、昔の師なり。古今、能所・不二にして法華経の深意をあらわす。
 上行菩薩等の末法に出現して「南無妙法蓮華経」の五字を弘むべしと(法華経の中に)見へたり。しかるに先日蓮一人出来す。六万恒沙(という数え切れないほど)の菩薩よりさだめて忠賞をかほるべしと思へば、たのもしき事なり。
 とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ。殿一人にかぎるべからず。信心をすすめ給いて、過去の父母等をすくわせ給へ。
 日蓮生れし時よりいまに、一日・片時もこころやすき事はなし。この法華経の題目を弘めんと思うばかりなり。
 相かまへて、相かまへて、自他の生死はしらねども、御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず迎いにまいり候べし。三世の諸仏の成道はねうしの終わりとらのきざみの成道なり。

(180) 飢(かつ)へて食を願ひ、渇して水をしたうがごとく、恋いて人を見たきがごとく、病に薬を頼むがごとく、みめかたちよき人べにしろいものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ。さなくしては、後悔あるべし。
 法華経は草木を仏となし給う。いわうや心あらん人をや。
 法華経は焼種(からは芽が出ないと)の二乗を仏となし給う。いわうや生種の人をや。
 法華経は一闡提を仏となし給う。いわうや信ずるものをや。
 (仏弟子でありながら難に負け退転した)かれは人の上とこそみしかども、今は我等がみにかかれり。
 願くは、我が弟子等大願を起こせ。去年・去々年の疫病に死にし人々の数にも入らず。また、当時蒙古の攻めにまぬかるべしともみへず。
 とにかくに、死は一定(確実)なり。其の時のなげきは当時のごとし、同じくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ。
 露を大海にあつらへ、塵を大地にうづむと思へ。
 一切の事は、時による事に候か。
 春は花、秋は月と申す事も時なり。
 花は開いて果となり、月は出でて必ず満ち、燈は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさかう。人は善根をなせば、必ずさかう。

(181) (法華経の故にあう)しばらくの苦こそ候とも、ついには楽しかるべし。国王一人の太子のごとし。いかでか位につかざらんと思し召し候へ。
 乞い願わくは、悲母我が(若くして死んでしまった)子を恋しく思食し給いなば、「南無妙法蓮華経」と唱えさせ給いて、(夫である)故南条殿(子息である)故五郎殿と一所に生れんと願はせ給へ。
 人のものを教ふると申すは、車の重けれども油をぬりてまわり、船を水に浮かべてゆきやすきやうに教へ候なり。
 仏になりやすき事は、別のやう候はず。旱魃に乾けるものに水を与へ、寒冰にこごへたるものに火を与ふるがごとし。また、二つなき物を人にあたへ、命のたゆるに人のせにあふがごとし。
 大地はささばはづるとも、日月は地に堕ち給うとも、潮は満ち干ぬ世はありとも、花は夏にならずとも、「南無妙法蓮華経」と申す女人の思ふ子にあわずという事はなしと説かれて候ぞ。
 釈迦仏は我を無量の珍宝を以て億劫の間供養せんよりは、末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん。功徳は百千万億倍過ぐべしとこそ説かせ給いて候。
 法妙なるが故に、人貴し、人貴きが故に、所尊し。

(182) 此の砌に望まん輩は、無始の罪障忽に消滅し、(身・口・意の)三業の悪転じて、(智慧・慈悲・勇気の)三徳を成ぜん。
 一切の事は、国により、時による事なり。仏法は、此の道理をわきまうべきにて候。
 法華経と申すは、手に取れば其の手、やがて仏に成り、口に唱ふれば、其の口即仏なり。
 経に云く、「若し法を聞くこと有らん者は、一として成仏せざること無し」云々。
 文の心は、「この経を持つ人は、百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成る」と申す文なり。
 日蓮は所らうのゆへに、人々の御文の御返事も申さず候。いつるがこの事はあまりになげかしく候へば、筆をとりて候ぞ。
 抑法華経の大白牛車と申すは、我も人も法華経の行者の乗るべき車にて候なり。
 我より後に来り給はん人々は、此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候。
 日蓮も同じ車に乗りて、御迎いにまかり向ふべく候。
 地に倒れたる人は、かへりて地より起く。法華経謗法の人は、三悪並びに人天の地には倒れ候へども、かへりて法華経の御手にかかりて、仏になるとことわられて候。
 日蓮が法門をば、上一人より下万民まで信じ給はざる。上たまたま信ずる人あれば、或は所領或は田畠等に煩いをなし、結句は命に及ぶ人々もあり、信じがたき。

(183) すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけて脅さんと心み候か。命はかぎりある事なり。少しも驚くことなかれ。
 (時光をいじめる)鬼神めらめ此の人を悩ますは、(法華経の敵となって)剣をさかさまに呑むか、また大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか、あなかしこ、あなかしこ。
 此の人の病いを忽に治して、かへりてまほりとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。其の義なくして、現在には頭破七分の科に行われ、後生には大無間地獄に堕つべきか。永く止(とど)めよ、止めよ。
 日蓮が言をいやしみて、後悔あるべし、後悔あるべし。
 日本国は、月氏(聖地インド)より十万よりをへだてて候。辺国なる上へびすの島、因果の理りも弁えまじき上、末法になり候いぬ。仏法をば(名を知り、尊さを知りながら実践しないので)信ずるやうにて、そしる国なり。
 願くは、我が弟子等は(法華経への信を取り)師子王の子となりて、(正法誹謗の)群狐に笑わるる事なかれ。過去遠々劫より、已来日蓮がごとく、身命を捨てて強敵の科を顕せ。
 師子は値いがたかるべし、国主の責めなををそろしいわうや閻魔のせめをや、日本国のせめは水のごとしぬるるを恐るることなかれ。閻魔の責めは火のごとし。裸にして入ると思へ。

(184) 大涅槃経の文の心は、仏法を信じて、今度生死をはなるる人のすこし心のゆるなるをすすめむがために、疫病を仏のあたへ給う。はげます心なり。すすむる心なり。
 法華経と申すは、随自意と申して、仏の御心をとかせ給う。仏の御心は、よき心なるゆへに、たといしらざる人も、此の経をよみたてまつれば、利益はかりなし。
 麻の中のよもぎ、つつの中のくちなは、よき人にむつぶもの、なにとなけれども、心もふるまひも言もなをしくなるなり。
 つゆつもりて河となる。河つもりて大海となる。塵つもりて山となる。山かさなりて須弥山となれり。小事つもりて大事となる。
 設いこうをいたせども、まことならぬ事を供養すれば、大悪とはなれども善とならず。設い心をろかに、すこしきの物なれども、まことの人に供養すればこう大なり。
 何に況や心ざしありて、まことの法を供養せん、人人をや。
 当世は、世みだれて民の力よわし。いとまなき時なれども、心ざしのゆくところ、山中の法華経へまうそうかたかんなを(送)をくらせ給う。福田によきたねを下させ給うか。なみだもとどまらず。
 いのちと申す物は、一切の財の中に第一の財なり。遍満三千界無有直身命ととかれて、三千大千世界にみてて候。財も、いのちにはかへぬ事に候なり。

(185) 財あるも、財なきも、命と申す財にすぎて候財は候はず。されば、いにしへの聖人・賢人と申すは、命を仏にまいらせて(仏法のために生ききって)、仏にはなり候なり。
 ただし、仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す。文字を心へて、仏になり候なり。
 爾前の経の心心は、心より万法を生ず。譬へば、心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地即草木なり。爾前の経経の心は、心のすむは月のごとし。心のきよきは花のごとし。法華経はしからず、月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。
 食には、三の徳あり。一には、命をつぎ。二には、いろをまし。三には、力をそう。
 人に物をほどこせば、我が身のたすけとなる。譬へば、人のために火をともせば、我がまへあきらかなるがごとし。
 (この法門は)あなかちに申させ給へ。日蓮が身のうえの一大事なり。あなかしこ、あなかしこ。
 (大聖人の御書は、上の一節で終わっている)
 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家・出家どもの輩は、非法の衆たるべきなり。
 日興が云く、彼の天台伝教所弘の法華は迹門なり。今、日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり。此の旨具に状に載せ畢んぬ。

(186) (退転の弟子・五老僧は大聖人の御書を)在家の人の為に、仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若は俗男・俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に、施主分を書いて愚癡の者を引摂したまえり。(と言ったが)而るに、日興、聖人の御書と号してこれを談じ、これを読む。
 於戲仏法に値うこと希にして、喩を曇華の蕚に仮り、類を浮木の穴に比せん。尚以て、足らざる者か、爰に我等宿縁深厚なるに依つて、幸に此の経に遇い奉ることを得。
 謗法を呵責せずして、遊戲・雑談の化儀、並に外書・歌道を好む可からざる事。
 学問未練にして、名聞・名利の大衆は、予が末流に叶う可からざる事。
 義道の落居(大聖人仏法のマスター)無くして、(理の一念三千等)天台の学文す可からざる事。
 当門流に於ては、御書を心肝に染め、極理を師伝して、若し間有らば台家(摩訶止観)を聞く可き事。
 未だ広宣流布せざる間は、身命を捨て、随力弘通を致す可き事。
 下劣の者為りと雖も、我より智勝れたる者をば、仰いで師匠とす可き事。
 時の貫首為りと雖も、仏法に相違して己義を構えば、之を用う可からざる事。
 謗法と同座す可からず。与同罪を恐る可き事。
 謗法の供養を請く可からざる事。
 此の内、一箇条に於ても犯す者は、日興が末流に有る可からず。

Kuroda Kouta (2003.06.01/2007.02.13)