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 戯れ言4 2007年1月から2007年3月分



○医学書について=学問と経験
○奇病・難病の時代=複合化によって「死に至る病」
○何の目と目?
○「生き残れるのか?」=tamaさんにご指導たまわりたい
○閉塞・収斂の時代=不安定な心
○Windowsセキュリティの緊急警告
○聞き違い?=結構でございます
○スペイン交響曲=黒髪の長い女
○Xファイルの「三つの願い」=私の「三つの願い」
○簡単な健康法=命がけのテスト
○昔からある納豆
○グーグルの秘密=なぜタダなのか?
○化けメールと化け化けメール
○尿カップの利用
○血圧と生活習慣
○血圧計で高血圧に注意!
○右顧左眄(うこさべん)・右往左往(うおうさおう)することなかれ
○食べものに気をつけましょう。
○人生万才(まんざい)
○見えるものがすべてではない
○マープル・ホームズ・ポワロ・モンク=四人四様
○セロ弾きのゴーシュ=農が輝く健全な社会を
○注文の多い料理店=もしかしたらエイリアン
○私の遠野物語=サウナで長ぶろ?
○Xファイルの論理=支離滅裂・荒唐無稽の中に
○病気と予後=計画の挫折
○ホームズとカレニーナ=名作といえども
○Xファイルの意味=意識の慣習化
○XファイルのXはいる=ロズウエルの可能性
○すっぱい葡萄?=はや二年間のお付き合い
○道具の道具=何のために何をしているか?
○科学は虚学=本当だろうか?
○私は貝になりたい=人格の喪失
○あいさつをしない人=ボケか意識か?
○三つの「こころ」=イメージの違い
○多摩の横山=七つのゴルフ場
○法律の勉強=治安維持法の初適用
○私のUFO=原風景とデジャビュ
○ればない=新しい生活習慣?
○生死は意識か=意識はエネルギー
○豚丼の効用=ヒポクラテスの意見
○ボケと気違い=異常な人が増えている
○初詣=由緒ある小野神社


○医学書について=学問と経験


 医学書を見ると、実に細かいことまでが書いてある。
 知識の集大成で、まったくいたれりつくせりだ。

 しかし、例えば医者が実際に糖尿病を数十年も患って、それを完治してその体験を書いたようなケースは、あまりないんじゃないだろうか。
 つまり、患者の言葉や学会の論文などで理解していて、実体験ではない指導や解説が多いのではないか。

 同様なことがアルトハイマーなどについても言える。実際に、医者がアルトハイマーになっちゃった場合もあるだろう。しかし、そのときは自分自身でその経過などを記述できない。あくまでも、他人を観察した所見や診断を述べるに過ぎないのではないか。

 以上、私が何を言いたいかと言えば、医者が患者をマテリアルとして診ていて、患者の立場に立った心の状態などをもって見ることができないのではないかということ。

 そして、その見れないことによって、患者はなかなか完治しないのである。そんなことを考えてみると、何とも仕方のないことである。(2007/03/21)


○奇病・難病の時代=複合化によって「死に至る病」


 皆さん、お元気ですか?
 現代は、奇病や難病が流行する時代のようです。

 私もカテーテルから院内感染をしてしまい、どうやら「慢性の疾患」におちいってしまったようです。なぜならば、入院・手術・退院、そして通院を繰り返しながら、いまだに治らないまま、すでに9ヶ月以上になるからです。このまま、おそらく死ぬまで続くんじゃないかと心配です。
 そして、もしかしたら風邪などをこじらせて体力が衰えたときに、急速に悪化して、そのまま「死に至る病」になっちゃっうんじゃないかと、何となく思います。

 かつて、ヨーロッパにペストやコレラが蔓延したように、私たちの周りには「死に至る病」が、どんどん増えているようで不気味ですね。その多くはかなり早いテンポで進む「死に至る病」なのですが、そうかと言ってキルケゴールの書き残したような知的なものではありません。

 ここで言う問題は、いくつかの病気が身体の中で、同時進行をすることです。ちょうど、有吉佐和子『複合汚染』のような状態が、私たちの身体で起こっているのです。
 そして、すでに原因は大半がすでに体内にあるということです。むろん、空気汚染のように、体外から徐々に襲ってくるものもあるでしょう。

 いっぽうでは、ガンも急速に増えてきました。
 「癌」という字を見ると「品物が山のようにある病」ということになります。豊かな社会なのに、病んで死に至るというのは、まったく不思議なことです。

 「スタートレック」や「タイムマシン」などは、未来に「地球の外部」を征服していく話ですが、現実は近未来に「人体の内部」から制服され、やがて恐竜やマンモス、そしてサーベル虎などのように滅んじゃうような気さえします。
 そんなわけで私は、何とか「口」の周りに「五隹止矢」で我慢をします。なぜならば、それがいちばん「死に至る病」に遠ざかる方法ということがわかったからです。



 皆さんは、いかが?
 なお、上の書と説明は作左部幸秋先生がお書きになりました。
 ご説明の最後にある蹲い(つくばい)は、わざわざ京都まで行かなくても、多摩センター駅南口前のパルテノン多摩にもあります。屋上の水が流れているところですから、私はときどき見に行くんです。


 作左部幸秋先生はのお姿も、上に示しておきましょう。ただし、右側にいる初老の男は、二年前の私なんです。


○何の目と目?


 いったい次の目は、何の目でしょうか?






 上は、カンムリバトの目。
 下は、靉光(あいみつ)の「目のある風景」の目。
 お分かりでしたでしょうか?

 ルドン(Odilon Redon(1840-1916))の「キュクロプス」目も何となく不気味。
 さらに、ネパールのボダナードにある巨大なストゥバ四面に描かれた目など。
 「Xファイル」の最初に出てくる目も、ちょっとおっかないですね。


○「生き残れるのか?」=tamaさんにご指導たまわりたい


 tamaさんには、いつも政治と宗教のことでご指導をいただき、心から感謝をしています。
 そこで、きょう(2007年3月8日(木)たまたま午後7時のNHKニュースで見た政治・健康・宗教などについて、自分ながら考えました。ふだんは、ニュースなどはあまり興味がなく、見ないからです。でも、いざ考えてみても慣れない分野なのでわかりません。

 そんなわけで、どうぞご指摘・ご指導をたまわりたいと思います。
 ニュースで聞いたという内容は、下記の三点です。
 よろしく願います。

(1) 政治(日朝会談)

 日朝会談が、進展しなかったという。話が、まったく噛み合わないのである。
 ベースをどこに置くかで、論点が異なってくるのは事実であろう。「何をしたから、何を仕返しにする」というのでは、互いにキリがなく結論が出ない。
 「朝」は、当然のごとく「従軍慰安婦」や「戦時の強制徴兵」などを話題にする。そんなことと比べると、「拉致の人数などは取るに足りない」と言わんばかりである。

 いつの時代までさかのぼって精算をすればよいのだろうか。そのようなときには、時効などという概念が議論にはなくなってしまう。

 旧約のサムソンとデリラの時代から、仲の悪かった相手同士。それが、後に12世紀前後の十字軍遠征になって、さらにその応酬の続きがツインビルの破壊などに至っている。そのように言ったら、大げさであろうか。
 サムソンは純粋なユダヤ人、そしてデリラはペリシテ人だった。そのペリシテが現在のパレスチナであることを考えると、現時点だけで善悪や正否を決めようというのは、どだいムリなのであろう。
 そんな理屈を互いに提示すれば、当然のことながら、平行線をたどってキリがない。

(2) 健康(水俣病の認定)

 水俣病の患者として、久々に二人が認定された。22年ぶりの認定である。驚くほど時間を経過してからの話ではないか。それも、「認定」であって「完治させてくれた」というわけではない。
 国は担当者が引き継ぎながら国費で裁判をするが、個人である当事者の立場ではたまったものでない。健康を害され、さんざん苦労をして、ようやく認定。それも、何億円という金が一時に支払われるというわけではないだろう。人生をムダにした無念さが残るに違いない。

 そこで、今後は国が何もいわないことにも、個人的には健康を忘れないようにして、常日ごろから注意をしたい。私たちは誰もが「健康には絶えず注意」をして、なるべく「病気にならない」ようにする必要があると思う。

(3) 宗教(アーレフから分離・独立)

 かつてのオウム真理教から、アーレフという集団ができて1600人ほどになった。それが、また内部で意見対立を生じ、代表者が65人とともに脱会。新たに独立をしようという。そして来月は、200人くらいになるらしい。まったく宗教の力は、何とも恐ろしいもんだ。

 まだ私が若いころ、渋谷と代官山の間にあるビルに知人が会社を設立した。そのときに、最初のころ週2日ほど手伝いに行った。たまたまそのビルで、数人の信者が修行をしていたのを見たことがある。それが、その宗教の母体であったらしい。
 そのころは、まったく関係のない集団だと思っていた。むろん、今も興味があるわけではない。
 なぜならば、「宗教は基本的に個人差が大きい」ものであるから、「究極的には一人一宗教」になると私は考えているからだ。

 宗教といえども、なかなかその運営が難しいようだ。絶えず互いに意見が衝突して、内部で争ったり、分裂をしているらしい。
 キリスト教のプロテスタントでさえ、ルターが出て来てカソリックから分裂・独立をした。そして、アメリカでは次々と分裂してカルト集団を含め、カソリックの他に、3000ほどのキリスト教系宗派になったという。
 日本でも、本願寺に東と西があるように、またずっと下って内村鑑三が言うように。

 そんなことを考えると既存の宗教ではダメで「自分の中に知的空間をもつしか、人生を満たす方法はない」と言えるのではないでしょうか。
 その知的空間に関しては、

    知的空間(その奥義)


に、これから何とかまとめようと考えています。


○閉塞・収斂の時代?=不安定な心


 昨日は、聖蹟桜ヶ丘VITA7階までお越しくださり感謝をしています。
 この閉塞をして何かに収斂をしていく時代に、いろいろとご意見をたまわり、とても参考になりました。

 でも、私の考えは旧式で、少しばかりあなたのお考えと違っています。
 私に「博学、悪く言うとペダンチック(衒学的)な文章を書く」と言ってくださる人もあります。それは褒(ほ)めるというよりか、相手をバカにした意味でしょう。

 しかし、本人はまったくそのような気持ちがありません。私は人生において「名を残す」とか「金を残す」などということは、心底から無意味だと考えているからです。そんなことは、一種の幻想ではないでしょうか。

 さて、おっしゃったことに対する反論。
 迷信や非科学的なことが言われなくなった今もなお、なかなか理解できないことがあるのはなぜでしょうか。
 それについて、私は「私たちが知り得ないことが、ほとんどであって今日でも知っていることのほうがわずかである」と考えます。

 確かに、宇宙開発や情報機器などはすばらしい科学の成果でしょう。
 しかし、肝心の人間の心については、まだまだ未知な領域があるのではないでしょうか。

 漱石の「こころ」などを読んでも、いまだに「先生の遺書」の内容に心を打たれるのは私だけでしょうか。
 また、「Xファイル」や「世にも奇妙な物語」を見ていて、それがまったくのフィクションに過ぎないと考えないで、中に事実が含まれているのではないかと感じるのは私の愚かな錯覚なのでしょうか。

 さらに、「雨月物語」や「りょうさいしい」などに心を寒(さむ)からしむのは私の愚かさなのでしょうか。
 「日本書紀」や「今昔物語」に書かれていることは、すべて荒唐無稽なことなのでしょうか。また、近くは「遠野物語」などに口述をして語られていることは、まったく事実無根なのでしょうか。

 ドッペルゲンゲルなどは、特異なものではなく、多かれ少なかれ誰にでも起こりえる現象ではないのでしょうか。
 ヨーロッパの悪魔払いなども、単に恐怖心や意味のないことではなかったのでしょうか。
 デジャビュ(既視感)などは、単に気のせいなのでしょうか。
 原風景を見て、なつかしく思うのは単にノスタルジアのためなんでしょうか。

 そして、墓参り初詣(はつもうで)をするのは古いしきたりで、現代ではすでに意味のないことなのでしょうか。

 素直な気持ちで、この時代でもわからんことを文献などから調べて考えるのは無意味なことなのでしょうか。
 古代文字や失われたロンゴロンゴ文字などを研究するのは、無意味なことなのでしょうか。

 幽霊の研究をした平田篤胤井上円了柳田国男などという人たちは、無学で無教養な人だったのでしょうか。
 高橋鐵が言っている「ヨミとは闇のことか」などは下らんことでしょうか。そして、それが死を意味していて「復活」やいわゆる「ヨミ帰り」つまり「甦り」という学説は、まったく荒唐無稽なものでしょうか。

 私の手持ち資料に昭和二年七月号の『文藝春秋』の鼎談というか、菊池寛がいわゆる司会をした四人の対談があります。
 そのメンバーは、
  菊池寛(作家であるが文藝春秋の主催者)
  芥川龍之介(作家、合理主義と芸術至上主義的作風で一世を風靡。神経衰弱で自殺)
  柳田国男(民俗学者、貴族院書記官長から朝日新聞、退社後は民間にあって研究)
  尾佐竹猛(裁判官、大審院判事をするかたわら日本歴史を研究)
です。

 そこに、いろいろと暗示を与えることが書いてあり、私は大いに触発されるのですが、あるいは彼らの言っていることは愚かしいことなのでしょうか。それぞれの人についての知識が多くありませんので、何となく心配です。

 その四人は、当時の社会では愚かしい人だったのでしょうか。
 わからないことばかりです。


○Windowsセキュリティの緊急警告


 最初(2003年3月)に買った富士通のノートパソコン(FMV-BIBLO NB16C)から、ノートンをアンインストールした。インターネットから切り離して、スキャナーやプリンタ専用として利用しているからだ。
 通信回線に接続しないでノートンを起動しておくと、いろいろと不都合なことがあったり、ハングアップをすることがある。そんなために、使っていないものであるから不要だと考えた。

 やってみて驚いたことは、かなり軽くなったことだ。スイスイとまではいかなくても、何とか使える。考えてみれば、回線に紛れ込んだウイルスのお陰で、利用者は膨大なソフトをパソコンに入れているということが改めてよくわかった。
 全体で考えると、何と膨大なムダをしていることであろうか。
 それは、変な人がいるからと言って、すべての学校にファイヤーウォールではなく刑務所のような大がかりな鉄筋コンクリートの塀を周囲に付ける計画のようなものである。

 また、HTMLを嫌うのは「飛行機が危険であるから、舟で行きなさい」という戦前の洋行のようなものであろう。このようなアナクロニズムが行われるのは、人の心が完全ではないという証拠。とどのつまり、高度な情報機器を利用するほどに人間の心が成熟していないのではないか。
 未だに互いにムダなことをする。
 かつての米ソ冷戦のように、莫大な費用がかかる。お互いに疑心暗鬼になって、ムダな経費を限りなく使うからだ。もしかしたら、それは○○の目論見(もくろみ)かもしれない。

 DELLのデスクトップ(DIMENSION 8400)への画像や音声の移動は、今までのようにインターネット経由ができない。でも、CDやDVDを利用すると簡単。ついでに、それが同時にバックアップ用にもなるので便利。印刷をする文書などは、フロッピィディスクでも十分。あまり不便を感じない。

 ただ、タスクバーに2つのアイコン表示が出る。それは、

 「パソコン二台に×のしるし」
 「黄色の盾マークの中に×のしるし」

である。
 そして、下のアイコンにマウスを当てると「Windowsセキュリティの緊急警告」というコメントが出る。
 以上、やってみてわかったこと。(2007.03.03)


○聞き違い?=結構でございます


 同じ言葉でも、受け取り方によって異なることがある。
 どちらにも取れる言葉のこと。
 例えば、「結構でございます。」というのは引き受けるときにも、断るときにも使える。そこで、お見合いのときなどには相手を傷つけないために用いる。

 「結構でございます。」と言われたので待っている。なかなか具体的な申し入れがない。心配になって相手に問い合わせてみると、あのときに「結構でございます。」と言ってお断りしたはずなのに、などと言われてしまう。

 この間、テレビを見ていたら合間に他の番組のコマーシャルが入った。
 「ボーンズ」という女性の学者が、

 「あの鞄(かばん)には重い物が入っている。肩の骨(の歪んだ形)でわかるの。」

と言った。
 ライバルの男性のFBI捜査官ブースは、聞き込み捜査などすべて事実を追いかけている。
 そこで、

 「確証がないので、逮捕できない。」

と叫ぶ。
 しかし、吹き替え版であったので私には、

 「隠しようがない」

と聞こえた。
 それでは、意味がまったく反対。
 そんな聞き違いは、よくあることだ。

 やはりテレビで見ていた時代劇。
 悪役代官が、

 「この度、ヒットラー氏が……」

と言ったので、びっくりしてしまった。
 よく前後を考えてみれば、「ヒットラー氏」ではなく「引っ捕らえしが、……」であったようだ。

 歌の聞き違いもよくあった。
 そんなことを以前、

http://www1.ttv.ne.jp/~riko/sakusya.html

に書いてみたんだが、……
 皆さんは、どうですか。(2007/02/28)


○スペイン交響曲=黒髪の長い女


 2007年2月8日(木)朝の9時から10時まで、211チャネル「スカイA・sports+」で、サテライトクラシックをやっていた。プログラムは、

(1) モーツアルト 交響曲第25番 K.183(小ト短調の交響曲)
(2) ラロ スペイン交響曲

である。
 RAI 国営放送管弦楽団と字幕で出ていたが、指揮者の名前もヴァイオリニストも誰であるか覚えていない。それでも、大いに印象に残ったので、ここにメモをしておこう。

 小ト短調の交響曲は20数分の曲ではあるが、むしろ40番よりも緊張感があって私は大好きだ。4つの楽章でできているが、冒頭の部分が何とも言えない緊迫した美しさをもっているだけでなく、第三楽章のメヌエット・トリオが素晴らしい。

 オーケストラ全体を録画してあるのだが、とても見応えがある。
 この曲は、二管編成であまり大がかりではない。見ているとヴィオール族でも、弓を大きく使う人とそうでない人がいる。また、ときどき上目で指揮者を見る人も何人かいた。とくに、コンサートマスターの女性は指揮者をかなり意識していたようだ。

 指揮者もちょっと小太りの人であったが、なかなか手慣れているらしい。指揮棒を持ち替えるところなどは、何となくジェスチャーらしく私には思えた。

 ラロのスペイン交響曲は、かなり大編成の曲である。ファゴット(バズーン)、ティンパニーはむろんのこと、ハープまで入っている。
 また、フルートと持ち替えではあるが、ピッコロもときどき鳴る。
 しかし、会場の録音であるから、独奏部分がやはり音が弱い。
 それでも、黒髪の長い女性が力いっぱい弓を引いているので、見ていても音が輝いている。ともすると、髪が前にきて駒のところに触れてしまいそうで、ヒヤヒヤする。

 やはり弾き慣れた女性であろう。途中で弓の糸が数本切れたようで、空中を動き回っていた。しかし、管楽器のパートを写して、次の独奏になったときは、すでに糸がなく、自分でちぎっていたようだ。
 ビブラートも、かなり高域の音にまで付けたりしているので、ていねいな演奏だったと思う。

 スペイン交響曲の最後のテュッティの部分。オーケストラと独奏が同時に高まって終わるところで、ヴァイオリンは最後にG線の音を力強く長く鳴らす。そのときに、女性の弓をもつ右手の脇の下が上になり、下からクローズアップで映し出された。それが、なんとも艶(なま)めかしく感じられたのは私だけであろうか。

 小ト短調もラロも、全体的に見事なものであった。一糸乱れぬと言っていいほどの演奏である。指揮者も身振りが大きく、頑張っていたようだ。私は、ちょっと小太りの指揮者が脳溢血になるんじゃないかと心配をしたほどだ。
 二曲を聴いたのだが、放映のときは幕間(まくあい)がないので、演奏会と違って緊張感がかなり高まった次第。
 とても楽しかった。(2007/02/25)


○Xファイルの「三つの願い」=私の「三つの願い」


 きょう(2007年2月16日(金)午前8時〜45分間)233チャネルでXファイル(#721)を見たら、たまたま「三つの願い」というタイトルであった。とても面白い内容だったので、ここにメモをしておこう。

 まず、ストーリ。
 なまけ者の倉庫の掃除係が古い絨毯(じゅうたん)の中から眠っている女を見つける。その女は素敵な美女ではあるが、三つの願いをかなえてくれる魔法使いでもあった。

 そんなわけで、その掃除係の男は最初に「口うるさい上司の口が閉じてしまえばよい」と考える。すると、本当にそうなってしまったのだ。
 ようやく手術をして口を取り戻した上司の男がモルダーを訪ねてくるところから、話が進展していく。

 いっぽう、掃除係は「ヨットが欲しい」と願って、自宅の横に大きなヨットをもつ。しかし、そこに置かれているだけで海に浮かべるわけにはいかない。
 さらに、考えて「透明人間になりたい」と言った。すると、それが実現したのだが通りに出て車に轢かれてしまう。その透明な死体が検死室に運ばれて、スカリーが調べることになる。何も見えないので、黄色い粉を塗(まぶ)して形を知る。スカリーも驚いてしまう。

 学会に発表をすることになって、学者が死体置き場に来る。スカリーが冷凍室から取り出そうとすると死体が無くなっている。透明死体が消えているのだ。理由は、男の弟が「兄を生き返らせてくれ」と願ったからだ。その兄は思ってもいなかったような状態で、弟の前に帰ってくる。

 現代的な女が魔女を演じることで、ちょっと内容が恐ろしくなくなって、愚かしくもなっている。しかし、その設定はよく考えられているのではないか。
 女は言う。自分は、500年前にやはり先代の魔女に会って、健康と長寿を願ったのである。そして、魔女を引き継いだ。さらに、「500年間、人間の愚かさは変わっていない」と言い足す。
 それは、自分が多くの人の願いを聞いて、悟ったということ。

 自分が体験したことさえも夢と考えて信じないスカリーに、モルダーが映像を見せる。そこには、古い記録映画でムソリーニの隣りに女がいる。また、後の時代ではニクソン(だったかな?)の隣にも、その女が映っていた。それぞれの願いを女がかなえていたというのだ。
 モルダーは超自然の事象も信じているので、現実的な体験までしたスカリーの疑っている心象がわからない。

 最後にモルダーが考え抜いて「世界平和」を願った。
 すると、通りからは自動車が消えて(実際には止まった状態で放置されて)、さらに人が一人もいなくなってしまう。それが、魔女が実現した世界平和であった。

 何のことはない。
 「アラジンの魔法のランプ」の焼き直し現代版である。
 また、ジェイコブスの「三つの願い」とも似ているが、メディアが画像であるだけに、ジェイコブスのような心が戦慄するほどの恐ろしさがない。

 私ならば、「三つの願い」は自分自身と世界中の人々の「健康」「老化予防」「安心立命」というであろう。40歳代から考えたことである。
 そんなわけで、その三つを記述したホームページ

http://www1.ttv.ne.jp/~riko/

を三年ほど前から作っている。まだできていないが、……

 なぜ、そんな大それたことを考えたかというと、四年前にはグーグルとヤフーで検索をしても「健康」と「老化予防」と「安心立命」について記述してある日本語の情報が一つもなかったからである。
 むろん、ANDでなくORや一つだけのものは膨大な数のホームページがあった。

 なお、ジェイコブスについて関心があれば、同じく

http://www1.ttv.ne.jp/~riko/

の「青空ライブラリ」にある「日々の格言 座右訓」ちゅうところにある

■相手を熟知し、自分のことも知っていれば万全だ。しかし、相手のことがわからないと、うまくいったりいかなかったり、さらに、自分自身を知らないと危ないばかりだ。(孫子)

を参照してください。(2007/02/25)


○簡単な健康法=命がけのテスト


 ここのところ、糖尿病や高血圧を完治させるための実験をしてみました。誰からも発表されていないので、仕方なく自分自身でやって確かめてみたんです。
 実は、ここ数ヶ月ほど肉を多量に食べて、また甘い物の大食いをしたんです。
 その最終テストの限界が先々週でした。しかし、そうはいっても本当にアウトになってしまって、お迎えが来るほどのテストはできません。私は非常に臆病で、死ぬのがおっかないからです。

 20日ほど前に測定をしたら、

    最高血圧が210前後、最低血圧が110前後

でした。
 また、尿糖と尿蛋白については

    尿糖が「多めに検出」というところで、500mg/dl以上
    尿蛋白は幸い「多めに検出」でも、30mg/dl

程度でした。

 その折りに、ちょっとフラフラしたものの、それでも日常の生活には問題がなかったようです。何となく気力がなくなったのは事実ですが、まだまだ昏睡状態ではありません。しかし、この状態が一ヶ月ほど続くと救急車になるのは明白です。
 そこで、回復をしようと思って肉食と砂糖漬けをやめました。そして、きょうお目にかかったときは、何とか生き延びて、ご覧のように肌色も戻って元気になった次第です。

 私が糖尿病と高血圧を直すためには、多量の「生水(なまみず)」を飲んだだけです。
 しかし、おそらく水道の水ではダメでしょう。逆効果になるのではないかと思うからです。
 また、ペットボトルの水なども効果が少ないと思います。私は、いわゆる「生水」を飲んだのです。できたら、富士山の裾野からわき出ている日本の名水百選というような水がいいのです。

 日本で発売されている「冨士の白雪の〜溶けた水」などというのは、法令による高温滅菌をしてあるので逆効果。また、フランスから輸入をしている源水のままの水なども、カルシウムが多量に含まれているので、飲み続けると危険で、健康に支障をきたしてしまうでしょう。

 具体的にどうやって健康のための水を自宅で作っているかという説明は、ちょっと長くなります。
 また、誤解があってもいけません。
 したがって、次回お目にかかったときに説明いたしましょう。
 私は医者ではありませんから、治療などはできません。しかし、予防に関しては大いに研究をしています。今回の人体実験は、自分自身で予防に関する確証を得るために行ったことなのです。

 いずれにしても、「生水」を飲むことが少なくなった現代人は、どうしても健康を損なってしまいがちです。現在のように都会で生水が得られなくなってしまった環境では、病人が増えてしまうのは当然なことかもしれません。そして、そのことを誰も言わないのが不思議です。

 また、あなたの手の甲の静脈が盛り上げっているというお話がありました。
 そして、動脈瘤が破裂をしたり、脳梗塞や心筋梗塞のご心配をしておられました。確かに、そのとおりだと私も思います。

 手や額から血管が浮き出るのは、よほど血圧が高くなる憤怒の相をするか、体内の組織が衰えてしまったときです。仁王様は前者、老人の手は後者です。なぜならば、血管の行き場所がなくなって皮膚のほうに盛り上がってくるからです。

 しかし、赤ちゃんの手を思い出してください。血管が盛り上がっていますか。
 私の手の甲は、つまんで1mmくらいしかありません。それでも、ご覧になったように血管がほとんど浮き上がっていないんです。もっとも、先々週くらいまではテストのために血圧が高くなっていたので、かなり浮き上がっていましたが。
 おそらく、きょうお目にかかった関戸の皮膚科の先生も、そうおっしゃることでしょう。(2007.02.22)


○昔からある納豆


 だいぶ前にテレビ(2007年1月7日(日)のフジ)を見て、おかしなことに気づいた。
 それは、ずいぶん矛盾をした内容で、アメリカでは朝晩納豆を2パック食べてダイエットをするという。

 30年ほど前にアメリカ医学会で、一大センセーションをもたらした糖尿病や高血圧対策の「ライス・フルーツ療法」というのがあった。それも早とちりで、過大な肉食をしているアメリカ社会において、栄養の過分摂取を解決する結果であったからだ。

 今回の報道も、杜撰(ずさん)である。納豆だけでは、報道のような効果は考えられないからである。そんなことを考えていたら、しばらくして番組内容が捏造(ねつぞう)であったという。
 まったく、いいかげんなことを言ったり、報道をしたりするので困ってしまう。

 食べものは、私たちの命を保持するものである。
 長年にわたって育(はぐく)んできた食生活を大事にしたい。そんな意味で、風土の異なるアメリカの報道で勘違いをさせられる人たちは、おっちょこちょいなのかもしれない。(2007.02.21)


○グーグルの秘密=なぜタダなのか?


 ビル=ゲイツが引退を表明してから、ちょっと寂しかったインターネットに強烈な大新星(ジャイアントスター)が現れた。それが、グーグル。
 そのコンピュータに関するソフトウエア技術は、もしかしたらNASAなどよりも優れているかもしれない。そして、最高級の技術で開発したソフトを惜しげもなく、タダで使わせてくれる。

 その際に、恩着せがましくではなく、さりげなく「ボクらは世界中の情報を整理したいんだ!」とつぶやく。つまり、「ネット民主主義」を狙っているようだ。
 兵器を開発するわけでもなく、また金儲けでもないいわゆる「知的財産の解放」である。わたしたちにとっては、ありがたい話ではないか。

 企業実績で見れば、3年で純利益が28倍になり、株式時価は上場2年でインテルを抜いた。ものすごいバイタリティである。すでに、世界最大の広告会社になってしまったんだ。

 考えてみれば、知的生産は日本も本来なら得意であろう。
 オペレーティングシステムなどの考え方は、むしろ日本のほうが優れているかもしれない。私がコンピュータを作っていたころは、ビル=ゲイツ氏は日電の下請けをしていた。N88BASICなどを手がけていたが、正直言ってあまり優れてはいなかった。むしろ、そのころハドソンソフトにいてヒューBASICなどを作った知り合いのほうが、よほど設計思想が優れていたようだ。

(注) かつて、日本でもトロンというOSが話題になって、騒がれたことがあった。しかし、その後どうなったかを私はしらない。もしかしたら、いつの間にか計画が立ち消えになったのではないか。
 また、縦書きのシステムは簡単にできる。そして、いっそのことディスプレイを縦にすると使いよいのではないか。未だに新聞や小説が縦書きであることを考えれば、そのような検討がなされてもよいのではないか。そして、それを誰も言い出さないのは、なぜであろうか。


 また、マイクロソフト社のMS-DOSも、当時としてみれば、デジタルリサーチ社のCPM などと比べると二番煎じの感がする。さらにウインドウ自体も、アップル社のほうがスマートであったかもしれない。

 やはり、当時のアメリカの世界戦略に乗ったのがマイクロソフト社。そして次にグーグルと言ってよいのではないか。日本では、考えが優れていても実現ができない状態になっているようだ。それは、国の情報産業に関する政策と税法の問題にあると思う。だから、ビル=ゲイツのような経営者は出ないんじゃないか。

 戦後のどさくさに成長した戦後成金たちと松下幸之助氏くらいが、税法の問題を無視してやる気を出して頑張った人たちかもしれない。誰もが、ほどほどにしてしまう中で、……
 それはともかく、グーグルの世界侵略はものすごい。

 あくまでも、「決定権はユーザーにある」と言いながらも、「世界中の情報を整理」してしまったようだ。日本などは問題でない。一件落着である。
 上級副社長のオミッド=コーデスタニ氏は、「お金よりも幸福が欲しい」と明言している。「安全性よりも利益を優先」させたり、「利用者の健康などはクソ食らえ」と言った日本によくある企業とは大違い。

 グーグル副社長のヴィントン=サーフ氏は、未来を見越しているようだ。
 ゴーグルの中では、長老格の1943年生まれ。還暦は、数年前に過ぎている。それでも、斬新な考え方をもっている。未来を見越しているというのは「破壊と創造は同時にやってくる」などと言いながら、太陽系にまでもネットを拡げようというような若々しい意気込みをもっているからだろう。
 何となく、アレキサンダー大王のような考え方ではないか。(2007.02.18)


○化けメールと化け化けメール



 いたずらでもなかろうが、上に引用したようなメールが来た。初めの10行ほどでを見ても、ちょっとわからない。ギリシア語であるような感じもするのだが、……
 おそらく、通信の途中で文字化けをしたのだろう。
 そこで、上のような内容で送信をしたら、受け取った人のメールが下のようになっちゃっていると言う。すべてではないが、通信の度に文章をコントロールする制御文字が含まれていると、通信文が崩れてしまう場合がある。

 情報は、次第に風化をしていくらしい。エントロピーとは逆に、有効な情報キーは減ってしまう。また、途中のノイズで大きく変更をしてしまうようだ。
 昔話にあるように「豆腐を1丁」と言わて、子どもが買い物に行かされる。忘れるといけないので、口で唱(とな)えながら歩いていく。しかし、途中に小川があって、またぐときに「よいしょ」と2回言った。
 店に入って、「よいしょを2つください。」と言うようなものである。
 もはや、店の主人も子ども自身も何のことかわからない。




○尿カップの利用




 オシッコをするときに便器にして、そのまま流してしまうということは、もったいないことです。なぜならば、オシッコには健康に関する貴重な個人情報が含まれているからです。
 私は、ここ40年ほど自宅では計量カップで尿の採集をしています。
 慣れてくると、試験紙を用いないでも尿糖や尿蛋白の出たときはわかります。さらに、健康の状態までがわかるのです。

 前立腺肥大症の手術を受けるまえまでは、左のカップを用いていました。しかし、手術後は量が多くなったために溢れてしまったり、そこまではいかないでもミスターブラウンの先にオシッコが付いたりします。そこで、右のカップに変えたのです。つまり、300ccのものから500ccのものになりました。



 上の中央は、女性用の尿カップです。
 前の画像からおわかりのように、同じ500ccの容量でも口が広くて丈(たけ)が短くなっています。男の場合は、ミスターブラウン自体をカップに差し込んですればいいんですが、女性の場合にはちょっとムリです。そこで、こぼれにくくするために広口になっているんです。
 また、女性が堂々とカップを目の高さにもってきて、真顔でスケールを読むのも、何となくお上品ではありません。そこで、上からチラッと見たときにでも量がわかるように、目盛りが内側にも付いているのです。

 用済みになったオシッコは、男女ともに大量の水を流しながら、洗面の流しに水とともに捨ててしまいます。出たての尿は、ふつう細菌もなく清潔だからです。砂漠の地方で、駱駝の尿で洗面をしている女性の姿をテレビで見たこともあるくらいですから、……


○血圧と生活習慣


 血圧とは、どういうことでしょうか?
 血液は身体が必要とする酸素・栄養分などを運んでいます。その原動力が心臓の鼓動です。ちょうど、それはポンプのような役目をしているのです。
 最高血圧(収縮期血圧)とは心臓が縮んで血液を送り出し、動脈がいちばん膨(ふく)らんだときの内圧です。
 いっぽう、最低血圧(拡張期血圧)は心臓が膨らんで、動脈が元に戻ったときの内圧です。
 そうは言っても、血圧は常に変動をするもので、気温などによっても異なってきます。また、ストレス・病気・運動・姿勢などによっても、すぐに変化をしてしまいます。
 しかし、高い血圧が続くと危険です。
 なぜならば、血管に持続的な圧力がかかって、脳・心臓・腎臓などの動脈硬化を進行させてしまうからです。

 血圧を高くしないためには、生活習慣に気をつける必要があります。

(1) 適当な運動をして、肥満防止・ストレス解消につとめる。
 自分に合った運動が大切。いきんだり、激しい運動は避けたほうが無難。
 常識を考え直す必要もあります。
 例えば、水泳です。屋内の循環式のプールで泳ぐのは、あまり健康的でないかもしれません。なぜならば、水が汚れていて細菌が繁殖しているからです。多量の塩素などによる滅菌をすれば雑菌は除けますが、身体にも悪い影響があるかもしれません。
 屋外の海や川などで、空気が澄んでいて日光がさんさんと輝いているような場所で、水が清潔であった時代の水泳は確かに健康的であったでしょう。

(2) 生活のリズムを崩さない。
 食事・排便・睡眠などの大きなリズムは、あまり崩さないほうがよいでしょう。

(3) 食べ過ぎ・塩分の取りすぎに注意する。
 塩分は控え目に。
 砂糖の取りすぎに注意。
 動物性の脂肪の取りすぎにも注意。
 新鮮な野菜・果物を。
 酒・コーヒーなどはほどほどに。
 食べ過ぎには要注意。

(4) 細かい日常の動作にも配慮。
 汗をかいたら、水分の補給。
 寒いトイレでいきみは禁物。
 寝不足のときに重労働をしない。


○血圧計で高血圧に注意!




 私は、血圧計を2つ利用しています。
 左側のものは、病院に置いてあるものと同じ構造のかなり本格的なものです。しかし、大きいので持ち運びができません。したがって、旅行などには右側の携帯用を持っていきます。
 携帯用のほうは、指を入れて測るのですが、腕で測ったのと同じような補正値になっていますので、数字はそのまま記録してもよいようです。
 とくに、旅に出ると血圧は上がりやすいものです。そんなわけで、外出先で体調を崩さないためにも、注意をして持っていくのです。


○右顧左眄(うこさべん)・右往左往(うおうさおう)することなかれ



     

 きょろきょろしても仕方ない。
 また、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしても、結局は空しいばかり。
 自分自身を諫(いさ)めるために作ってみた座右の銘です。

 『徒然草』の第七十五段に、次のような記述がありました。

 <つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。

 世に從へば、心外(ほか)の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄(みだ)りに起りて、得失やむ時なし。惑(まど)ひの上に醉へり、醉(よい)の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。

 いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>

 いかがでしょうか。
 意気投合をしたものの、しばらくして意見が合わなくなったり、互いに利害関係が対立することがあります。そして、まさしく「一度は喜び、一度は恨む」のです。何とも人間の性(さが)は愚かしいものですね。
 そんなために、自分自身を含めてすべてを放り出してしまいたいこともあります。これも「諸縁を止めよ」ではないでしょうか。


○食べものに気をつけましょう。


 

 食べものと生活習慣が大切ということが身に浸みてわかるまで、かなりの時期が必要。
 安ければそれでよいというわけにはいかない。


○人生万才(まんざい)




 かつて、大岩唯浩さんからいただいた手ぬぐいです。
 最後に「人生万才」という落款(らっかん)があります。初め、私は「八生」とばかり思っていました。また、「万才」はもしかしたら「万歳(ばんざい)」かもしれません。
 それはともかく、先生がどこかの観光地で買ったものと思われるが、その文章はなかなか意味深長だ。
 私は部屋の壁に貼って、ときどき眺めては復唱をしている。


○見えるものがすべてではない




 作左部幸秋先生の色紙です。
 目が可視光線、耳が可聴周波数しか見たり、聞いたりできないことを考えると当然なことでしょう。もっと広い帯域があるのですが、人間には認知できないのです。
 ルドルフ=シュタイナーが言うようなアストラル体なども、ふつうの人間には感じることもできません。
 神経を研ぎすますことによって、ある程度の事実を垣間見ることはできるようです。


○マープル・ホームズ・ポワロ・モンク=四人四様


 きょう(2007年2月11日、日曜日)、休みでもあったので続けて4つほどテレビを見ちゃった。朝の7時から、午後1時までである。そんなことは珍しいのであるが、とにかく楽しかった。

(1) 「ミス・マープル」 魔術の殺人
(2) 「シャーロック=ホームズの冒険」(完全版#37) 瀕死の探偵
(3) 「名探偵ポワロ短編」(完全版#14) ダベンハイム失踪事件
(4) 「名探偵モンク」(#19)

で、いずれも237のミステリチャンネル。
 まったく、探偵小説映画のテレビ三昧である。
 ただし、(1)と(2)の間に小一時間ほど、通りの向かえにある吉野家と駅下のミスタードナッツに行って朝飯を食べた。
 忘れないうちに思いついたことを記しておこう。

 マープルとポワロは、アガサ=クリスティ。そして、ホームズはコナン=ドイル。モンクは最近の作者らしいが、誰だかを忘れてしまった。
 コナン=ドイルはサーという称号をもっているから、貴族であったのだろう。そして、私の考えではフィアフィル魔亜尊であったのかもしれない。なぜならば、あまりにもとっぴな展開を小説にしているから。

(1) ミス・マープルは、すでに初老の婦人である。
 身内の親しいものの中に、しかも夫婦の間でも巧妙な殺人犯が存在するという慄然とするような物語をアガサ=クリスティは見事に展開している。よく考えついたものだ。

 しかし、私(黒田康太)は前に何かで「私が小説(の梗概)を思いつくのは、お皿を洗っているときが多いの。」と白状をしていたアガサ=クリスティの言葉を思い出す。そして、そのときに「なるほど」と思ったことなども記憶にある。

(2) このホームズの「瀕死の探偵」というのは、文庫本で何回も読んでいる。しかし、映画は字幕であったので何とも素晴らしかった。

 スマトラ熱にかかって、犯人の医者に診てもらうことになる。
 そのときの敵を欺くホームズの演技は見事だ。ワトソンでも見抜けなかったくらいだから。犯人のスミスはホームズが苦しむのを見て、間もなく死ぬと確信をした。そこで、犯行のいきさつを告げる。

 間もなく、ホームズの「明るくしてくれ」というのを失明が近くなっていると思って、ランプの灯を強める。それが、合図で警部たちが踏み込む。

 私(黒田康太)は、この時代の小説のテーマになっているほどのことが現在でも行われていないことを有難く思う。
 例えば、街で配られているティッシュにコレラ菌やボツリヌス菌などを注射器で入れるような犯罪が、……
 このことは、(4)のモンクの小包による犯罪などでも考えさせられてしまう。
 インターネット上で、ウイルスが大流行(おおはやり)である現状を鑑(かんが)みれば。

(3) ポワロは古いほうのいかつい大柄の人ではなく、小柄で丸っこい卵形の顔のスーフドという俳優のほうである。また、さっき見たミス・レモンはいつものように前髪にたくさんの巻いた飾りがなく、左右に小さいのがあるだけなので、額が大きく見えて魅力的であった。

 内容は、ある事件を外出しないで自宅で推理することによって解決できるかどうかをジャップ警部と10ポンドの賭けをする。そこで、ヘイスティングが調査に大活躍。
 その間、ポワロは手品の研究をしたり、どこからか鸚鵡(おうむ)を預かったりしてストーリに変化を持たせている。さすが、アガサ=クリスティである。

 「隅の老人」などのような趣向をもたせた小説内で裏をかく技法である。ポワロの言葉で、
 「事実を全部出せば、解決する。」
というのは、印象に残って意味深長だ。

 犯人のスミスが、車のバックミラーで自分の髭を直す直後にポワロがやはり髭の手入れをする場面に移る。見ていて効果的な進め方と思う。いずれにしても、作者の考えか映画監督の考えか、見るものを飽きさせない工夫がしてあることがわかる。

(4) モンクは時代背景がなく、ほぼ現代で設定してある。したがって、わかりやすい。しかし、ちょっとばかり神経質でエキセントリックなのが、ときに私には嫌みに感じられるときもあるのだが。とくに、主人公が自己嫌悪におちいったときに。エドリアン=モンクは、この映画の中で
 「人を信じないから、泣きもみない。」
と言っていた。
 実際の俳優の性格と違っている演出をすると、つい行きすぎてしまうことがあるのかもしれない。

 昏睡状態に陥って病院のベッドにいる犯人が、郵便爆弾によって身内の二人を財産目当てでどうやって殺せるかという内容。それは、郵便ポストの仕組みにある。
 日本の場合と異なって、集配共に自宅前のポストからできる。そこで、ポストの上面に小包を糊で貼っておく。外からは、そのことがわからない。そして、ある期間が過ぎたら、小包が下に落ちて郵便配達が持っていくという設定。
 なかなかよくできている話である。

 いずれも、前に見た映画であったり、もとのストーリを読んでいる。それでも、斬新なイメージを得られて興味深かった。(2007/02/12)


○セロ弾きのゴーシュ=農が輝く健全な社会を


 神農の新春交流会で、チェロの演奏があった。
 昨年から「セロ弾きのゴーシュ」という案内が来ていたのだが、私は行かなかった。最近は億劫になって、どこにも行かないからである。
 それでも、多摩川の河畔や多摩の奥山など、一人で楽しめるところには行く。しかし、人がたくさんいて気兼ねをするところは、どうしても欠席をしがち。

 後で話を聞いて、いろいろなことがわかった。
 なぜ神農が、チェロなどを聞かせようとするのか。それは、宮沢賢治の農業に関する情熱を語り、現在の農業政策を考え直そうというようなもくろみの一つであるらしい。

 演奏と講演があったらしいが、そのパンフレットを見て、忘れないようにメモをしておこう。
 まず、「賢治の生きた時代」というのがある。
 そして、そこには

<1918年 富山県などで米騒動が起き始める。シベリア出兵。
 1921年 小作争議。日本農民組合結成。全国水平社創立。
 1923年 関東大震災。
 1925年 普通選挙法成立。治安維持法成立。
 世界恐慌の波及で失業者増大、東北地方一帯の大規模な冷害で農家子女の身売りなど。>

と書いてある。
 時代背景は、まさしくそのような過酷な世情であったろう。

 そして、演題は「暴力の連鎖を絶とう」「だめなものはいない」「農が輝く健全な社会を」と続いたそうだ。
 それらに関して、講演者でなく私(黒田康太)なりの考えを記しておこう。

 アメリカがパレスチナに侵攻をしたとき、ローマ法王ヨハネ=パウロ二世が止(と)めようとして和解の中心になって働いた。しかし、現実の経過はご存じのとおり。
 宗教では、物事を解決しにくい。十字軍のことを考えたら、わかるでしょう。さらに、「サムソンとデリラ」である。ペリシテ人と仲が悪かったのは、旧約の時代からで宿敵の関係。そのペリシテが、パレスチナの語源であるということを考えれば当然。

 宗教の他に、世界的規模の利権がからんだら、そしてそこに○○が介在したら、もう論理などはくそくらえになっちゃう。まったく、恐ろしい話である。

 宮沢賢治の「二十六夜」は、横暴な人間に鳥たちが集まって反撃をしようという話。鳥の長老は、それをやったら石原完爾ではないが、世界最終戦争になって終わってしまうと言う。やがて、鳥たちも心を静めていった。

 また、「双子の星」では蠍(さそり)と烏(からす)が命がけの戦いをする。しかし、双子の星が彼らを介抱したのである。生命の愛(いつく)しみは、互いをつないでいると賢治は言う。

 「どんぐりと山猫」は、誰がいちばん偉いかを議論する。大きいのがいちばん偉い、そうじゃなくて光っているのがいちばん偉いんだなどと際限がない。そこで、山猫が裁判長になって判決を言う。
 「君たちの中で、腐ってだめになりかかっているようなのがいちばん。」
 それで、競い合うのはやめてしまった。むろん、そのいちばんを名乗り出るものもいなかった。

 「セロ弾きゴーシュ」は、オーケストラの練習で下手なセリストが指揮者に何回も注意され、家に帰って練習をするのであるが、……

 宮沢賢治の小説はいずれも内容が深くて、なかなか難しい。私は何となく「グスコーブドリの伝記」が直裁的にわかりやすくて、いちばん素晴らしいと思うんだが。

 「アメニモマケズ」については、「青空ライブラリ」を参照していただきたい。

 私(黒田康太)は、いつも思う。
 荘子にあるように、有限の身体で無限ともいうべき目的を追い続けるのは実に滑稽なことである。じゃあ、何でそんなことを誰もがするのか。
 それは、近年になってアメリカを中心とする価値体系の教育がなされていることにあるのではないか。つまり、人間の価値観までを失わせて、無意味な競争を教育期間から行うことによって、マインドコントロールをしてしまう。

 また、食べものによる攻撃も始まっているらしい。
 多量の得体の知れない化学薬品を食べさせられることによって、大病人ができたり、精神構造のおかしな人が増える。…… つまり、ふつうの国民は消費者の立場に置かされている。支払いをして、○○を富ませるその他大勢の組になっていく。
 したがって、日々の食べものには注意をしないといけない。

 農薬を基準以上に用いて害虫の被害を絶無にしたり、安全性の問題よりも利益を優先させるというような考え方をもっている生産者が多いという。しかし、私はかねてから神農の関係者には、そのような不心得者は少ないように思っている。

 あたかも、私たちは目隠しをされて走る馬のようなものだ。目隠しまでされなくても、視野を狭くすることによってエキスパートではあるが、非人間的な性格の持ち主が増えちゃう環境に置かれている。
 困ったことである。(2007/02/08)


○注文の多い料理店=もしかしたらエイリアン


 前に、私がもしかしたらエイリアンかもしれないと思っている作家の「注文の多い料理店」という作品を何回か読んだことがある。
 同じ作家の「銀河鉄道の夜」ちゅうのも、何となく死後体験が書かれているような気がして、不思議に思ったりもしたんだが、……

 その中でとくに、カンパネルラとジョバンニが客車の中でする会話については、明らかにそう思う。考えると、まったく意味深長な内容であるから。また、その中にシュタイナーやパスカル、さらにはスエーデンボルグの書き残していることを思い出させる箇所があった。

 いずれの作品も、摩訶不思議の世界の心象である。最近テレビで再放送されているミステリーゾーン(原題はトワイライトゾーン)にも似た不思議な感覚にさせられる。

 それはそうと、訪問の少ないホームページや投稿の少ないメールのフォーラムなどは、どうであろうか。もしかしたら、意味のないことであり恥さらしなので、やめたほうがいいのかもしれない。

 生前には、宮沢賢治の場合も「注文の多い料理店」など数冊が出版されただけ。後の多くの作品、「銀河鉄道の夜」などは原稿がトランクに入ったままであったと、作者のご子息(宮沢清六氏)と親しかった須川力さんから聞いたことがある。

 私が中学生のときに読んだ「銀河鉄道の夜」には、「この後に、数ページ分の原稿が紛失」と書かれていたのを覚えている。その後、その部分が出て来たのか、誰かが補ったのか私は知らない。

 生前に出なかった作品が、作者の死後に次々と出てくる場合がある。また、いったん一世を風靡した作品が忘れられてしまうようなこともある。後者の例としては、ヴィヴァルディの協奏曲や声楽の場合。

 それはともかく、須川さんから清六さんのことを聞いたときにも、「もしかしたら作者は、エイリアンではないか」と私が何となく勘ぐった次第。
 なお、須川さんは東大の教授で、仙台の天文台の総長をしていた人。そして、物事を曲げて言うような人ではなかった。お目にかかったころは、まだご健在で、矍鑠(かくしゃく)としておられた。

 私はご子息の明勇さんと一緒に仕事した関係で、須川氏の三鷹上連雀のマンションを訪ねたことがある。そのときにも、いろいろと世間では言われていない宮沢賢治の秘密なども伺った。
 その中には、法華経の問題もあった。
 それらは今でも、なつかしい私の思い出である。(2007/02/07)


○私の遠野物語=サウナで長ぶろ?


 今日(2007年2月3日、土曜日)は、やはり妻と仙川にある「湯けむりの里」に行った。サウナに入って大汗を出し、身体の新陳代謝をよくするためにだ。毎週のことである。
 ところが、今日はいつもと事情がちょっと違った。

 ちょうど、お昼だった。
 サウナへ入ってテレビを見ると「小さな旅」が始まったばかり。そして、そのテーマは遠野市である。遠野物語については、かねがね興味があったので途中で出たくなかった。

 そこで、初回は12分計の二回り、つまり20分以上入っていた。
 いつもは、10分入って水風呂に2分、つまり12分サイクルで3回くらいする。しかし、今日は途中で出たくなかったので、暑いのを我慢をしたわけである。
20分で出たときも続きが見たかったので、冷水を被ってすぐにサウナ室に戻った次第。
 そんなわけで、ちょっと大変だったが40分ほどの番組ほとんどを見ることができた。

(1) 学生時代に柳田国男の『遠野物語』を読んで、感激をした。

(2) 日電子時代に、私の部に白土茂さんという人がいた。その人の入社面接をしたのであるが、出身が遠野市であると言う。
 その後、仕事の合間に遠野のことをいろいろと話してくれた。
 柳田国男の佐々木くんのようには詳しくなかったが、それでもなかなか興味深いものがあった。

 日電子にいたころ、私は東北地方と関係があったようだ。
 須川明勇さんの父上、須川力氏は仙台の天文台長であった。昭島の会社に何回か訪ねてこられた。彼は風戸健治社長を訪ねてきたのであるが、息子さんの配属されている私の部にも必ず立ち寄られた。

 須川氏と遠野物語や宮沢賢治の話をしたのを覚えている。
 とくに、宮沢賢治についてはご子息(宮沢清六氏)とも親しかったせいか、「革のトランク」の話しなども教えていただき、私は感激をしたものである。

 須川力氏は東大卒のエリートであるが、私が日電子を去ってから彼の自宅に招待をされて、気づいたことがある。堅物に似合わずに、奥さんがハイカラで、とても美人であったことだ。

(3) その後、私が技術顧問をした会社が新工場を建てるということで、遠野市の工場誘致に応じた。そして、ものすごく近代的な工場を建てたのである。
 そう言えば、私が最初に勤めていた三菱系の製紙会社でも、八戸に新しい工場を建てて、岡本さんたち多くの人が転勤をしたことを覚えている。

(4) 「遠野物語」がすばらしい作品であるので、朗読を用意した。
 現地の語りぐさではなく、柳田国男が書いたものである。60分のカセットテープ三巻に、すべての物語が入っている。ときどき寝しなに聞くのであるが、いつ聞いても面白い。

 中には、心を震撼とさせるものもある。
 例えば、山で茸(きのこ)を取ってきた家庭で、毒茸かどうかを話し合ってわからなかったのではあるが、よく晒(さら)せば大丈夫だということで食べた。しかし、食べなかった赤ん坊以外は、すべて食中毒で死んだという。そうしたら、近隣の人が次から次へとやってきて、品物をすべて持ち出してしまった。以前に貸したとか、もらう約束がしてあったなどと言って、じんだがめ一つ残らなかったそうだ。
 何とも、人間の心がにじみ出ていて、浅ましいことである。

 また、座敷童(ざしきわらし)や馬に恋をする少女の話のように、何となくノスタルジックなものもある。
 私も、そのような民話のようなストーリを作ってみたいと思ったことがある。しかし、その時間と必要性がなくて今日に至ってしまった。(2007/02/05)


○Xファイルの論理=支離滅裂・荒唐無稽の中に


 Xファイルは、素晴らしい作品だと思う。
 その中で、思考の法則や形式を進めていく方法がかなり突飛(とっぴ)ではあるが、何とも斬新である。その思考や議論を進めていく筋道には、ときには「あっと言わせる」ものがある。

 つまりこのストーリ内では、ある出来事に存在する法則的な筋道を追ってはいないからだ。45分番組で収まらずに「To be continued」になる場合も、そのことが言える。
 後になって、何のために続いたのかがわからないことも、終わりがいったいどこであることがわからないことさえもあるから。

 もしかしたら、この「To be continued」表示は作品自体の「未完」ということを示して、そこで完結をさせているのかもしれない。
 先週から今日までに、4回分の番組を見た。
 自分自身の覚えのため、忘れないうちにメモっておこう。

 それは、

(1) 1月18日(木) No.139 「創世記」
(2) 1月19日(金) No.140 (タイトルは忘れてしまった)
(3) 1月22日(月) No.141 (シーズン7-2 No.702 「第六のメッセージ(2)」)
(4) 1月23日(火) No.142 (No.703 「ハングリー」)

である。

 曜日の次にあるナンバーは、ケーブルテレビ局から送られてくる「Cable Guide」という地上波以外の番組表であるから、その番号の順番はおそらく正式なものであろう。
 ただし、土曜日と日曜日は他の番組が入っていて、Xファイルはないから、また番号から言っても(2)の次は(3)であることは明白。

 そこで、だ。私の考えを言おう。

 (1)と(2)は、確かにつながっている。しかし、(2)は(3)に続いているようにも、またそうでないようにも思える。そして、(3)が終わると続きがあるように思ったが、(4)は独立した一編と思ってよい内容であった。
 また、(3)で「シーズン7-2 No.702 第六のメッセージ(2)」とあるのも何となく不自然のような気もするが。

 それはともかく、素晴らしい内容であったので忘れないうちに概要と感想を記しておこう。

 創世記のイメージを引用して、(1)の物語は始まる。
 人間は10万年前に出現したという。さらにさかのぼって50億年前に生まれた一つの細胞から進化をした。
 そのような厳(おごそ)かなプロローグから始まって、南米の海岸で文字の刻まれた破片が発見される。それは、次第に集まって、何とか解読をされることになるのであるが、……

 スキナー長官はスカリー捜査官に対して、その問題には関与をしないと言う。ことの重大性を知っていたからだ。後になって、UFOの船体に文字が刻まれていることなどが明らかにされるので、すでに国家機密として扱っていることを恐れたのである。

 いずれにしても、科学と宗教の問題、それを古い信仰の中に見事に織り込んだ物語の展開である。その船体に書かれている未知の文字には、遺伝子情報やコーラン(旧約聖書でもあるが)に書かれている内容があって、驚愕をするのであるが、……

 ついでながら、あまり唐突な内容のためであろうか、また製作の常道であろうか、途中に数分のコマーシャルが入る。もっとも、費用を払って見ている番組なので商品の宣伝は少なく、放送番組の予告のようなものが多い。
 しかし、それらは画面の動きが早いというかチラチラどころでなく、ダイナミックに動くのがほとんど。もしかしたら、その中にサブミナル信号が含まれているかもしれないという懸念があるのではなかろうか。

 初めの二回分、(1)と(2)は断片的なストーリを興味深く続けているように思う。しかし、(3)はものすごい。
 モルダー捜査官が何者かによって、脳を破壊されていわゆる「生ける屍」になってしまう。物語は宇宙人によってなされたことを暗示するのであるが、その中でのイメージ。つまり、モルダーは周囲のことが聞こえるが、自分自身で伝えることができない。あたかも、死後の状態について丹波哲郎氏が言っているような状態である。

 モルダーの記憶の中で、その母や父が出てくる。字幕では、父のことを「君は……」と呼んでいるので、おそらく出生の秘密などもあるのであろう。
 この(3)は、ものすごく詰まった45分である。その中に2分程度のコマーシャルを何回も挟んでいるが。

 フォックス=モルダーとダナ=スカリーの仕事における友情の感情が切々と偲(しの)ばれる内容である。この回で言われる言葉(字幕であるが)が印象に残る。

 隠遁をするようにと、父が手配をしたフォルダーの新しい住居に現れる新しい妻(前にどこかで親しかったなつかしい女)が言う
 「夢ばかり追ううちは、大人とは言えない。」

 父(?)が言う
 「非凡な者ほど、平凡なることを望む。」

 ナホダの酋長で、かつて(太平洋戦争当時)の暗号解析の権威が言う
 「人間の力など、ちっぽけなものだ。」

 この(3)では、モルダーが子どものころに体験した光景などがカットバックで見事に描かれている。また、モルダーが老人になってしまった場面もある。その姿は、恐ろしいほどメイクアップ(メーキャップ)がよくできているので、不気味でもあった。さらに、「自分だけが老人になって残ってしまう恐さ」が描かれていた。

 私(黒田康太)は、浦島太郎やリップ=ヴァン=ウインクルのことを思い出して、慄然としてしまった。
 (3)は、イメージをつないだ素晴らしい出来と私は思うが、あるいは「だらだらと脈絡のないことが続く。夢と現実が交錯しているバカらしい空間」という人もあろう。

 スカリーが、切羽(せっぱ)詰(つ)まって
 「誰を信じてよい世界か?」
と言うが、確かに物語りそのものが一連の夢か現(うつつ)か渾沌としてしまう世界を描き出しているようだ。

 さっき見た(4)は、何となく(3)にはつながっていないように思うが、ついでに梗概を記しておこう。ちょっとドラキュラというか、異星人のエイリアンを思わせる内容なので。
 そう言えば、きのう見たものすごく古い映画「ミステリー・ゾーン」というのにも、異星人が地球に来て親切な助言をする話があった。人間は喜んで、その星に先を争って移住や旅行をする。しかし、実際には彼らの食料になるためであった。

 この(4)のハンバーグ店の事件では、スカリーとモルダーはふつうの姿で登場する。通常のストーリに戻ったらしい。事件は、閉店後に来た男が脳を食べられたことから始まる。
 若い店員ロブ(ロバート=ロバーツ)は一見まじめそうな好青年。しかし、空腹になるとどうしようもなくなる。そこで、人を襲って脳を食べる。不気味な話ではあるが、現実にありえることかもしれない。

 ロブが変身をするシーンもある。
 耳がなく、目が大きい。つまり、ドラキュラというよりも、グレートいうエイリアンに近い姿なのである。そして歯を外して、脳を啜(すす)って食べる。
 それが、「空腹になると、どうしようもない」という設定なので、私は何となく恐ろしくなってしまった。(2007/01/24)


○病気と予後=計画の挫折


 予後(よご)という言葉がある。
 「病気や手術などの経過について」の医学的な見通しのこと。「予後不良」と言うと、「病後でのリハビリ方法などが間違っている」という意味ではなく「その病気の回復する望みが、非常に少ないこと」を医学的に言うらしい。

 しかし、私たちはふつう「その病気が治ったあとの経過」を意味するようだ。その簡単な意味での私の予後。お恥ずかしい次第ではあるが、正直言って次のようなことがわかった。

(1) 前立腺肥大症の手術を受けるために、高血圧と糖尿病が問題であった。しかし、20キログラムほどの減量で、それらの問題は簡単に解決した。その減量も、あまり苦労はなく3ヶ月で問題なく成功。

(2) その後、25キログラムほど減量をした時点で問題が出始めた。
 まず、体温調節ができにくくなった。昨年と違って、冬は何とも寒い。暖冬と言われているのに、身にしみるようだ。

 「秋には脂肪の多い食べものを摂って、冬に備えなければならない」というヒポクラテスの言葉が大いに参考になったが、もう間に合わない。
 そこで、数年ぶりに股引(ももひき)をはいたり、室内暖房を常時することによってかろうじて耐えている。

(3) 首というか顎(あご)の辺りに弛(たる)んだ肉がぶら下がる。腹の回りもそうである。ちょっと老婆のだれ乳と同じ症状なのであろう。

(4) 体温調節が困難になったせいかもしれないが、風邪をひきやすくなった。また、いったん風邪気味になると、なかなか治らない。
 「風邪は万病の元」などというので、ちょっと心配。

(5) 何となく注意力も散漫になったみたい。

 以上のような問題が生じたので、何とかしなければならない。
 いろいろと、対策を考えているところ。
 ご参考までに。(2007/01/23)


○ホームズとカレニーナ=名作といえども


 今日(2007年1月21日)は、久々のゆったりとした日曜日。
 そこで、妻とテレビを見ることにした。

 午前10時からシャーロックホームズの長編で「最後のバンパイア」、そして正午からトルストイの大作「アンナカレニーナ」が番組表にあったからだ。
 ホームズもカレニーナも、いずれも100分ほどの長さである。
 アンナカレニーナは、1997年のアメリカ・イギリス合作映画。ソフィー=マルソ……という人が出演しているもの。そんなわけで、事前には大いに楽しみにしていた。

 ところが、である。
 一本目コナン=ドイルのほうは何とか最後まで見たが、アンナカレニーナのほうはダメであった。学生のころは三本立てでも平気であったのだが、ここのところ飽きっぽくなったみたい。

 でも、トルストイのは素晴らしい作品で、最初は仏典の「ジャータカ物語」にある「井戸に落ちた男」の悲劇。鼠が蔦(つた)をかじる話から始まる。全編に対して、暗いイメージをプロローグで与えようとする技法だ。それが、間もなく現実の野外スケート場に移るのだが。

 チャイコフスキーの「交響曲第六番」冒頭のファゴット(バズーン)の重々しい旋律がモチーフになっている。正(まさ)しく、悲愴ともいうべきストーリの演出であろう。
 やがて、モスクワ駅での光景。
 例えば連結器のところで係員が落下して、車両に轢(ひ)かれて死ぬ。おそらくアンナの最後の死の場面を予告させるためである。そんな感じの作り方・暗示の技法が、実に巧みに用いられている。

 その直後、つまり最初から15分ほどのところで、私はとうとう見るのをやめてしまった。
 今までに映画館で3回ほどアンナカレニーナを見たことがある。それらは、すべて異なったフィルムであるが、その都度どれも新鮮な感動をもたらした。「クロイチェルソナタ」などと同様に、内容の展開に引きずられて飽きてしまうなどということは、今までには決してなかったことだ。

 いったい、私はどうしたのだろうか。
 妻は、2時過ぎに昼食にしようと言って、真剣に見ている。
 しかたないので、私は通りのむかえにある吉野家に行って、牛丼を食べることにした。しかし、決して腹が減ったから見るのがイヤになったというわけではない。

 帰ってみたら、まだ妻はアンナカレニーナを楽しそうに見ていた。
 妻は、「コロンボ」なども好きである。2時間近い番組であるから、私はあまり見ない。また、クロフツの短編のように最初に犯人がわかって、その犯罪における犯人のミスを探偵が探す記述である。そんなこともあって、どうも私には興味が持続しない。

 第一、「樽」のような長編は読んだりするだけで、ものすごい努力が必要である。テレビのドラマも、せいぜい1時間が限界のようだ。
 むろん、このような長い文章も本当は苦手。目が疲れるからである。自分自身がインプットをするときはブラインドタッチができるので、何とか完成までこぎつける。
 しかし、小さい文字のホームページやギッシリと詰まった文章は、最初から見ないことにしているというのが正直なところ。

 皆さんは、どうですか。(2007/01/22)


○Xファイルの意味=意識の慣習化


 Xファイルなどの荒唐無稽と言ってよい内容のテレビ番組が、最近になって多いのはなぜか? また、実際は地底からなのであるが、宇宙から飛来するごとく見せかけたUFOやエイリアンの映画、そして爬虫類のような姿の人物が登場するテレビ番組、さらにはジェラシックパークのような映画が増えたのはなぜか?

 それは誰かが、私たち愚かな一般人民を異なった価値観へと意識を転換させるために用いている手段なのかもしれない。一種の自己暗示を与える洗脳であり、巧妙なマインドコントロールであろう。

 しかし、私たちは覚醒をして、自覚しなければならない。
 冷静になればわかることでも、無意識に見逃してしまうことが多い。ちょっと覚醒剤や茸(きのこ)などによる幻覚と似ているのではないか。

 自動車の教習所では、衝突について

 「同じ時刻に、同じ場所に行こうとすると、ぶつかって事故になる。」

と教えるそうである。
 私は大型と自動二輪車の運転免許をもっているが、教習所に行ったことはないので、そのようなことを習ってはいない。

 そういう論理であれば、1分後に前の車が走っていた場所に行っても問題はない。また、同じ時刻でも反対車線を走っている車どうしは衝突をしない。
 当たり前のことである。

 しかし、『金剛般若経』では違った観点からものを考えるようだ。
 つまり、同じ時刻でも同じ場所に無数のものが存在できると言う。私たちの科学とは、まったく異なった考え方かもしれない。そのことを平然と言っているのだから、おそらく万物の奥義をわきまえた誰かがいたのだろう。

 また、有名な「夢幻泡影」(むげんほうよう)なども意味深長である。
 それは、

 「人生は夢のようであり、幻のようである。また、水泡や陰影にも似ている。さらに、露(つゆ)のようにはかないものであり、電(いかずち)のように瞬時である。」

ということであろう。

 「Xファイル」に、次のようなストーリがあった。

 フォックスにもまして、スカリーが科学から外れた意見を言うのである。
 それは、ある地方の洞窟や地中にLSDと似た幻覚を与える菌がいて、肉食性のために人体を急速に蝕(むしば)んでゆく。そのために、白骨化をした死体が数体発見される。

 しかし、その遺体を見るというのも本人の幻覚であって、実際には茸という一種のエイリアンのなせる技(わざ)なのである。初めは信じなかったスカリーであるが、モルダーの

 「事実は事実だ。」

という体験談を聞き、さらに自分自身が幻覚を見て信じるようになる。

 似たような体験をいくつかするうちに、現時点の状態も幻覚であるとわかるようになる。そして、長官の前で報告をしていた二人が共通の幻覚を見ていることに気づく。実際には、その場に長官はいなかったのである。

 それでは、くどくどとこんなことを言っている私(黒田康太)は何を言いたいのか。それをはっきりとしよう。
 あなたは信じないかもしれないが、……

 エイリアンと言うと大げさであるから、私は彼らをフィアフィル魔亜尊と呼んでいる。その彼らが、最近になって地上の波長をコントロールしにくくなって、姿をカモフラージュできなくなってきたのだ。そこで、その存在を世界中に知られてしまうようになるだろう。

 そのようなときに、愚かな人類が暴動や混乱を起こさないために、あらかじめ洗脳をするというような方法で、テレビや小説の中で意識を植えつけているのである。
 トカゲのような容貌の人物が出て来たり、目の大きいグレーと呼ぶ種族が出てくるのは、それらの実物を私たちが見ても驚かないように慣らしておくためであろう。

 こう言うと、私が被害妄想のドン=キホーテだと、あなたは言うだろうか? (2007/01/18)


○XファイルのXはいる=ロズウエルの可能性


 いま(2007年1月16日(火)午前8時50分)、テレビFOX(233)チャンネルで『Xファイル』を見たところ。「アンナチュラル」というテーマで、半世紀ほど前の時代のアメリカ草野球を語っている。その物語の構造が非常に参考になったので、ちょっと長くなるのではあるが、直ちにメモというか、この覚えを作っている次第。

 私は、もはや小説を書くなどということはないだろう。
 しかし、あまりにもインパクトが強くて、勉強になった。そこで、記録をしておきたい気持ちになる。このような技法を使えば、短編小説などは簡単に次々とできてしまうであろうから。
 役に立たないことでも、忘れたくないときに、私はいつもそうしているのだ。

 今回は、捜査官フォックス=モルダーとダナ=スカリーとのコンビによる事件解決という手法ではなく、ものすごく込み入った技法で、全編にわたって興味を視聴者に与えている。
 つまり、大枠では物語の展開が「三重のネスト(入れ子)」になっていて、

(1) フォックスが古い新聞記事から野球を調べている。
 そこに、グレートいうチームの不思議な記事があったからだ。

(2) アマチュアの強い球団がロズウエルというところにあって、そこにエックスというプレーヤがいた。フォックスは、そのエックスのことを聞くために、すでに老人になって隠居をしている当時の警官、後のガードマンを訪ねる。

(3) カットバックのような技法で、野球の場面が展開する。老人の記憶の中のことをフォックスに伝えるためだ。
 バスで試合に遠征をするときの車内光景や人間模様なども印象的である。また、個室で夜間に練習をしていたエックスを見たときのガードマンの驚きなども、とても効果的に描かれる。

 さらに、事実を知った彼にエックスは大選手たちが同じ仲間であると告白。彼が「ベーブルースもそうだったか」と聞くとエックスは「そうだ」と答える。この辺で、物語は起承転結の「結」に、一気に向かっていく。

(4) あるとき、試合でエックスがデッドボールになる。顔に受けた球のために、失神をしたのだ。すると、何と緑色の血が出てグラブに流れ出し、顔の形、つまり容貌までも変わってしまう。

(5) また、あるときは野球の試合中に、KKKのような集団が馬に乗って襲ってくる。ピッチャーが球を投げて落馬をさせる。そして、その白い三角マスクを取ってみると、……

(6) エックスには、大リーガーからスカウトに来る。しかし、そのようなときには八百長で三振をしたりして応じない工夫をする。

 後で私(黒田康太)が考えるに、エックスは野球に興味を示したエイリアンであり、(5)は地球に来た彼らの目的を離脱したエックスを抹殺するため仲間が襲ったのであり、そして(6)はマスコミに叩かれるうちに正体がばれてしまうのをエックス自身が恐れたためであろう。

 また、彼らはどんな形にも容貌を変えることができるらしい。容貌ばかりではなく、体系まで変えられる。エックスが女性になって、元ガードマンにそのことを教えるシーンもあった。

 しかし、気を失ったりすると元の姿に戻ってしまう。
 だから、常に緊張をしていないといけないらしい。変幻自在ではあるが、ちょっと女性のお化粧に似ているのではないか。風呂に入って顔を洗うと、悲しいかなスッピンに戻っちゃって元の木阿弥。

 このことについて、次のような懸念を私はいだいた。
 人間には見えない色や聞こえない音がある。光なども、ほんの一部を見ているに過ぎない。可視光線の外のこと、つまり紫外線や赤外線のことを考えれば。また、音も可聴周波数などは狭い。実際に、コウモリなどは人間の聞こえない波長の音で、互いに連絡をしているらしい。

(7) 最後は去っていったエックスからプレゼントをされたバットでフォルダーが楽しんでいる。そこへ、スカリーがやってくる。最初、野球には興味を示さなかったスカリーであるが、モルダーからバッティングを教えられて、球を無心で打つ。
 やがて、球は大きく伸びて宇宙の彼方に消える。

 以上のような断片的な要素を思い出のカットバックで次々と続けた45分間。非常に勉強になった。
 いつも思うのであるが、奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)・奇想天外・驚天動地・摩訶不可思議(まかふかしぎ)な『Xファイル』ではあるが、異質のストーリ展開には素晴らしい効果を与えるようだ。

 さらにこの回を見て、私は何となく現実にエックスがいるような気がするのであるが、……
 あなたはいかがでしょうか。(2007/01/17)


○すっぱい葡萄?=はや二年間のお付き合い


 2005年2月、DELLのDIMENSION 8400を入れてから、かれこれ二年になる。ここで反省の意味も含めて、その間のことを振り返ってみよう。

 まず、新しいパソコンが来たときのこと。
 さっそく梱包を解いて、机の上に置いてみた。置いたというよりか、鎮座ましましたのである。バカでかい図体で、何とも立派である。
 本体は幅が20センチ、奥行きが50センチ、そして高さが45センチほど。
 画面も負けず劣らず幅42センチ、高さ35センチもある。その大きさの中で、1280×1024ドットが利用できる優れもの。

 ハードディスクは、160ギガバイト付いている。しかし、私はCドライブもDドライブもせいぜい50パーセント以下の利用にとどめている。なぜならば、その90パーセント以上を使ってしまうと、アクセスに時間がかかってしまうからだ。つまり、ガベージコレクションなどのアクセスタイムが大幅に増えてしまわないように。

 さっそくにやってみると、今までのノートが嘘みたい。
 まったく早いのである。応答が早いというよりか、サクサクと動作をする。まったく、このサクサクという言葉がぴったりなのだ。
 さずがに、4つもあるCPUはすばらしい動きを実現してくれるようだ。現物も見ずに、ただ説明員の話から決めた機種だっただけに、私はとてもうれしくなってしまった。

 実は、私がまだサラーリーマンの時代に、将来はコンピュータを自宅に持ちたいという夢をもったことがある。それは、昭和30年代のころ。今つらつら考えると、その頃に考えていたものの百倍以上の性能をもったものが来たことになる。

 そのようなことはよくあることだ。例えば、サンジェルマンの茶褐色の模様の入ったビニール袋を3つほど持っていたら、紫式部や清少納言の時代ならば家宝になって、嫁に行くときに誉れが高かったことであろう。

 引き続いて光ファイバーの接続を申し込んだが、説明員の話が何のことだか理解できない。しかたないので、申込を諦めて、とりあえずルーター・ハブ方式でインターネットに接続をしてみた。しかし、今までのノートとのネットワークがうまく構築できない。
 どちらも、まず問題なくインターネットと接続はできるのではあるが、……

 そんなわけで、LANも仕方ないので諦めた。
 2〜3日ほどあれこれ確かめると、おそらく解決するであろうが、どうも面倒くさい。そこで、前からあるノートとこのデスクトップをそれぞれに特化して使うことに決めた。

 新しい 4CPU は、三次元やフラッシュなどを駆使し、ムービーを作成するのに使おう。サワーグレープではないが、面倒くさいので変な諦めかたと特化をしたものだ。できないのではないが、時間をそれにかけるのがバカらしいのである。

 そのようなことはよくあることだ。
 例えば、私の知人のある団体の理事長は自動車のカーナビを使ったことがないという。つまり、車に付いていても、使い方を知らないのである。実は、そのことを誰にも漏らさないでくれと言ったんだが、……。

 また、内田百間(門構えの中は日でなく月)の短編に、ウナギの蒲焼きの食べ方が書いてあった。通になると、うなぎ自体は捨ててしまうのである。つゆだけを飯にしみこませて食べるという。まったく、変わった理屈である。

 私がローカルエリアネットワークの構築さえもできず、そしてブロードバンドルーターのインストールも満足にできないのは、それらを学んでまで続けるのが面倒なためである。

 さらに、そんな状態のまま二年も経ってみると、何となく初めの情熱が薄れてしまった。すでにノートの電源は外してしまい、このDELL一台が動いている。結局、私の技術力不足のため、ローカルエリアネットワークを構築できなかったのである。
 お恥ずかしい次第。(2007/01/16)


○道具の道具=何のために何をしているか?


 いつの間にか、自分が「道具の道具」になっちゃっているのに気付いた。
 それは、ちょうどフランツ=カフカの『変身』にあるグレゴール=ザムザの場合と似ている。不気味で理不尽なことであるが、自分自身では理由がわからないのである。私のは、ザムザほどの大変化ではないが、それでもかなりの「胸騒ぎのする夢」なのだ。

 つまり、最近になって自分のやっていることは、「ばかでかい毒虫」と同じなのではないか?
 なぜならば、当時(1900年ころのチェコスロヴァキア)から「現代の資本主義社会はその自覚者を罪人視する」からであり、それを知ってしまったからである。そんなために、言っていることもしどろもどろになりがち。

 小林よしのり氏のように勇気と才能があればよいのだが、私は生来(せいらい)の怠け者である。もたもたとして、魯鈍でもある。しかし、そんな私が大見得を切って「ホームページなどは簡単にできる」と市のサークルでうっかりやっちゃって以来、何とも大変な数年だった。

 結局、今になっても単なる情報伝達の道具であるパソコンやそのソフトがわからない。
 まず、Word。そして、ホームページビルダーをやった。さらに、Flashや画像処理のアプリケーション、とくにCG関係のものが専門的でわかりにくかった。それでも、がんばってわかろうとしたんだ。つまり、自分自身のほうが変身をしたのである。

 道具は揃ったが、使い切れない。道具ばかりが立派で、時間が足りないという矛盾。
 学ぶばかりで、作るのはだいぶ先になりそうだ。もしかしたら、私の人生には作る時期がないのかもしれない。何となく、ライスカレーを食べたいときに、ニンジンを作ろうとして畑を耕したり、ヒヨコからニワトリを飼育するようなものではないか?

 さらに、悪い事情がある。
 隠された世の中の仕組みを、ふとしたことから垣間見てしまったのである。そして、ほとんどの人が「道具の道具」となっていて、実際には「何のために何をしているか?」がわかっていないということ。
 つまり、フィアフィル魔亜尊の陰謀が…… (2007/01/15)


○科学は虚学=本当だろうか?


 私の尊敬する人の著書に、章のタイトルとして

 <公認の物質中心主義で死後の世界を認めない「科学」は真理に到達することのない「虚学」だ>

というのがあった。
 翻訳を忠実に行ったためであろうか、ちょっと長たらしい文になっているが、その意味することは本当なのだろうか?
 さらに、続いて次のような記述がある。

 <「宗教」の影響力が減退し始めたころ、新たな精神監獄が作り出された。いわゆる「科学」がそれだ。それは真の学問ではない。「物質的世界がすべてであり、死後の世界は存在しない」というのが、現在において公式化されている「科学」だ。>

 つまり、原文にある精神監獄とは、だいぶ前の箇所で説明がなされている「精神的に無知な民衆を支配するための一連の教義」というような意味なのである。
 例えば、「地球は丸くなく平べったい」とか「太陽が地球の周りを回転している」とか「明治憲法は絶対で、天皇は神である」とか「サリドマイドやアスベストは安全である」などというように、その時点では常識であったことだ。

 しかし、現在でもある人たちにとっては、そのようなことでも信奉者があって頑(かたく)なに残っているものもある。アメリカには「地球は平(たいら)協会」というのがあって、今でも活動をしているとのこと。

 私(黒田康太)も、正直言って

 「『そういうことは科学的にありえない』というようなことは、ふつうありえない」

ことと思う。

 考えてみれば、科学などは医学も含めて頼りないものである。
 確かに、各分野の先端技術は目を見張る素晴らしいものであろう。しかし、本質的には多くの病人が現時点で存在するのであるから、医学といっても、まだ最終地点には到達していない。

 「そんなことはありえない」などと考えるのは、もしかしたら思考の支配化が行われているからかもしれない。だいぶ前に問題になった新興宗教の内部でも、まったく部外者と異なる価値観や常識がまかり通っていたようだ。
 つまり、そこは別世界なのである。

 同様に、私たちは本来動物がもっていた本能や感覚などの外部に存在する別世界に置かれているのではなかろうか。死後のことも含めて、今までの常識と体験とはまったく異なる次元の世界があるのではなかろうか。
 とくに敏感で知性的な人は、それがわかるらしい。そして、そのことを文章にして残した人もいる。例えば、老子や荘子である。

 私も余生が少なくなったせいか、そんなことを考えざるをえない。(2007/01/14)


○私は貝になりたい=人格の喪失


 ここのところ、記憶力や判断力のおかしくなってしまった人や、自己本位な人たちが増えている。その理由は、どうやら化学薬品症候群らしい。

 おそらく今後、夫がささいなことで妻を殺したり、妻が生命保険金目当てで夫を殺害したり、兄が妹の身体を感情的な問題からバラバラにしたり、さらには恋人を殺して食べてしまったりするような怪奇事件が、ますます増えることでしょう。

 体内に蓄積した化学物質が、思考のコントロールを鈍くしてしまい、判断を刹那的にしてしまうからです。

 フランキー堺が出演した映画に「私は貝になりたい」というのがあった。
 私は学生時代に見て、その後ずっともう一度見たいと考えていた。すると、すでに10年くらい前だったろうか、フランキー堺が死んだときに民放から記念番組として放映された。

 その前に一度、ビデオ屋で調べたのだが、リメーク版はフランキー堺のではなかったので、借りるのをやめてしまったことがある。そんなわけで、その記念番組にはひとしお感激をした。

 ストーリは単純なものである。
 南方の島に出兵して、そこで上官の命令によって、捕虜にしたアメリカ兵を銃剣で刺し殺すのである。そのときの殺伐として心情が、それでも映画にはためらいが、自暴自棄になる様子とともに描かれていたと思う。自分自身が戦争という異常な場において、命令のもとに仕方なくなしたことだ。

 そしてそのことが、後になって大きな問題になる。
 さらにその結果、人間そのものをやめてしまいたくなったのであろう。

 軍事裁判では、「天皇から、直接に命令を指示をされたのか」と問いただされる。そうでないと答えたら、「それでは、なぜ直ちに天皇に確かめなかったのか」と尋問が続く。
 まったく、当時の事情がわかっていない勝者の一方的な質問ではないか。わずかな時間の経過で、状態が一転するとともに、敗戦によって価値観や考え方がすべて異なってしまったのである。

 そんな状態におかれると、仮に生まれ変われるとしても、煩わしい人間にはもうなりたくない。そこで、いっそのこと貝になりたいとまで考えてしまうようになるのではないか。

 非常によくできていた映画である。
 軍事裁判でA級戦犯にならないまでも、私たちも老齢になると、意志が何となく薄弱になって、すべてを忘れてしまいたいことが多くなるようだ。

 人体に不都合な食べものを摂取したり、悪い生活習慣に変化することで、考える価値観もそこなわれていくようである。現代における食生活の乱れは、ちょっと戦争にも似ているのではないか。
 いかがなものであろうか。(2007/01/13)


○あいさつをしない人=ボケか意識か?


 先日、駅の周辺を臼井さんと歩いていたら、前に人生について私に相談をしに来られた人に遇(あ)った。そこで私は、その人を臼井さんに紹介しようと思って、声をかけたのである。

 すると、その人(仮にTさんと言おう)はニコニコ笑って不思議そうな顔をしている。つまり、私のことを知っているのだが、どういう関係であったかがわからないらしい。もしかしたら、思い出せないのではなく、実際にはわかっているのかもしれないが、……

 そして、

 「どこでお目にかかったでしょうか」

と言うではないか。

 その言葉を聞いて、私はびっくりしてしまった。つい数ヶ月前に、相談があると言って訪ねて来られたので、いろいろとアドバイスをした記憶が今でも私に残っているからだ。あまりにも、それが生真面目な態度の質問であったので、ちょっとTさんの真意がわからない。

 前に、三木アヤ先生がアルトハイマーになったばかりのときも、そのような状態を経験した。ニコニコと笑っておられたが、ご自分との関係をどうしても思い出せないようであった。
 Tさんも、和やかであり顔が引きつっていたりしないので、おそらく悪意などはないのだろう。本当に記憶が薄れてしまって、度忘れをしたようだ。

 また、最近はあいさつをしない人が増えたみたい。
 そのことは、よく福祉センターでも話題になる。誰々は道で遇っても挨拶もしないなどと、こぼす人がいるようだ。しかし、そんなことは昔からあることではないか。

 ソクラテスは、憤慨している人からそのことを聞いて、

 「君は、向こうから足のない人が歩いてきたら怒るか」

と言ったという。
 肉体的な欠損があるのと同様に、精神的な欠陥がある人もいるというのである。そして、ソクラテスはそんなことをわざわざ怒っても仕方がないと教えたらしい。

 しかし、Tさんはつい数ヶ月前に相談に来られたので、何となく演技ではないかとも疑ってしまう。世の中には、人間嫌いの人もいるようだ。自分の困っているときは、誰彼となく近づく。そして、問題が解決すると自分自身の世界に戻り、閉じこもってしまう。

 フランキー堺の映画「私は貝になりたい」のような心情になってしまうことがあるようだ。自分自身が戦争という異常な場において、命令のもとになしたことが、後になって問題になったりすると、人間そのものをやめたくなるのであろう。

 軍事裁判で、「天皇から直接指示をされたのか」と問いただされ、そうでないと答えたら、「それでは、なぜ天皇に確かめなかったのか」と尋問される。わずかな時間の経過で、状態が一転するとともに、まったく価値観や考え方が異なってしまったのである。

 そんな状態におかれると、仮に生まれ変われるとしても煩わしい人間ではなく、いっそのこと貝になりたいとまで考えてしまうようになるのではないか。
 軍事裁判でA級戦犯にならないまでも、老齢になると意志が薄弱になって、すべてを忘れたいことも多くなるようだ。(2007/01/12)


○三つの「こころ」=イメージの違い


 きょう(2007年1月10日)、チャンネルNECOで1955年(昭和30年)の日活作成「こころ」を見た。122分のモノクロ映画であるが、その最後の30分ぐらいであろうか。

 市川昆(やまがんむりがあったかもしれない)監督、森雅之・新珠三千代・安井昌二・三橋達也などが、それぞれ特徴を生かして出演している。全体では、なかなか見応えのある映画だったろう。

 この1ヶ月くらい前に、『RKOホームページへようこそ!』の「検索・ニュース・地図など」欄にあった「朗読」でも、「こころ」の何回分かを聞いた。これも、味わいのあるナレーションではあったが、何分(なにぶん)延々と回数が続くのである。

 「こころ」は、夏目漱石の名作である。
 先生と私というような簡単な設定で、心の状態が綴られる。後に先生の妻になる下宿の娘(お嬢さん)と相宿(あいやど)をしていた親友、彼は自殺するのであるが、その四人が展開をする単純なストーリ。それを私が知る。

 親友を自殺にまで追い込んだ先生の学生時代における悲劇とその懊悩(おうのう)を手紙などを用いることによって、先生自身の自殺にまでもっていく。それは、明治天皇の崩御と乃木大将夫妻の殉死などと重ねて、何となく小さなことに見せてはいるが、……

 そんなわけで、私(黒田康太)が体験をした「こころ」は三つである。本当は青空文庫も含めると四つであるが、それはホームページと同様な理由で投げ出してしまった。

 つまり、文庫本の「こころ」、朗読の「こころ」、そして映画の「こころ」である。それぞれに、ちょっとイメージが異なる。そして、なぜか三種類の「こころ」に不思議なことがある。
 文庫本の「こころ」は、まだ学生であったころに読んで感激をした。

 その後、社会に出てからも数回読んだ。そんなこともあって、数年前に青空文庫から「こころ」全巻を原文でダウンロードしたんだ。
 そして、富士通音声朗読でやってみた。
 しかし、ストーリの展開が何とも遅いので、途中でやめてしまった。また、ホームページの「こころ」でも同じ感じである。だから、その「文学作品朗読」のページ自体も除いてしまった。

 そして、今日見た映画。
 やはり、何となく物語の展開が遅く感じる。そこで、じっとして見ているのがしんどい。原作を何回か読んで、すでに自分なりにストーリを知ってしまっているためであろうか。

 それとも、歳をとって物事に対する情熱が薄れてしまったためであろうか。あるいは、自分自身にあまり関係のないことに対して、老化予防が始まったために、興味を失ってしまったのであろうか。(2007/01/11)


○多摩の横山=七つのゴルフ場


 かつて、『万葉集』で「多摩の横山」と呼ばれた地に私は住んでいる。
 この辺(あた)りは、いちめん田圃だったところと小高い山だったところを開発して住宅にしたのだ。関戸という小さな駅だったが、分譲をするのに具合が悪いので「聖蹟桜ヶ丘」になった。

 すでに小田急に「桜ヶ丘」という駅があったので、「聖蹟」を冠したらしい。そのころは、小田急と京王は同じ扱いの路線だった。だから、下北沢という駅には改札などなくて、そのまま乗り換えができた。
 そんなわけで高校時代には定期券をもっている悪いのがいて、箱根から50円くらいで帰ってきたようだ。いま、下北沢駅はどうなっているのだろうか。

 関戸という村は何もないところであった。しかし、しいて言えば明治天皇が兎や鮎猟にきたくらいだろう。その聖蹟が、大変化をした。
 ゴルフ場が沢山あって、素晴らしい環境の土地だと言う人もいる。
 私の住んでいるところの回りには、

  府中CC(南西5キロメートル)
  東京国際CC(南南西5キロメートル)
  桜ヶ丘CC(東2キロメートル)
  多摩CC(東3.5キロメートル)
  東京よみうりCC(東南5キロメートル)
  よみうりCC(東南6キロメートル)
  米軍のゴルフ場(東1.5キロメートル)

などがある。

 また、近所に日本百選に選ばれた湧水がある。
 地下水がどのように流れているか知らない。しかし、多摩川の伏流水があるので、やはりゴルフ場の近くは除草剤などの化学物質で汚染されているのではなかろうか。

 団地になっているところは江戸川の水を利用しているが、私の地域はいまだに、水をポンプで汲み上げる地下水方式を利用している。
 私は、引っ越しと同時にハーレーという浄水器を付けた。そして、水道水をそのまま飲まないようにしている。果物や野菜から水分を摂るのも、一つの安全策であろう。

 問題は米軍のリクレーションセンターである。
 学徒動員をした古老の話では、風船爆弾を作らされたということだ。その他その地では、化学薬品や生物兵器の研究をしていたらしい。
 そしてその後は、そのまま埋めたままで放置をされているようだ。
 だいじょうぶだろうか。(2007/01/10)


○法律の勉強=治安維持法の初適用


 1925年(大正14年)12月1日、「京都学連事件」が発生した。
 当時の文部省は、軍国主義者たちが計画した学生軍事教練に着手しようとした。しかし、良識のある人たちによって「学園軍国主義化反対闘争」が起こったのである。そんな事情のもとに、憲兵と特高とが協力して学生たちを検挙した一連の事件のことを「京都学連事件」と言う。

 京都府警特高課(内務省)は、出版法・治安警察法違反容疑で、学生らの下宿や寮、自宅などの一斉捜索を行い、学生38名が治安維持法違反によるわが国(くに)初(はつ)の犠牲者として検挙された。

 1926年(この時点では大正15年・後に昭和元年となる)1月15日に、検察は「京都学連事件」の検挙者たち全員を起訴した。
 そのときの様子。
 15日午前3時、京都市内の全刑事が川端、中立売署に召集され、6時活動を開始。7時半までに京大社研の

  淡徳三郎(大学院)・岩田義道(経三)・石田英一郎・熊谷孝雄(以上経二)
  栗原佑・太田遼一郎・泉 隆・白谷忠三・黒田久太(以上経一)
  山崎雄次(法三)・橋本省三(法二)

たちと同志社社研

  内海洋一(経一)・大浦梅夫(高商三)

を検挙した。

 これら学生たちの検挙と同時に、京大教授河上肇・同志社大講師河野密・山本宣治の私宅、農民組合事務所、京都地方評議会事務所と評議会の国領伍一郎・辻井民之助・半谷玉三・奥村甚之助・谷口善太郎、農民組合の森英吉・京大助手(新人会員)杉野忠夫たちが家宅捜索をうけた。
 兵庫県内でも、関西学院大教授河上丈太郎・松沢兼人・新明正道など十数ヵ所が家宅捜索をうけた。

 同じ15日、東京では村尾薩男(東大文三)・清水平九郎(明治学院)・広谷賀真(慶応)が検挙された。
 さらに、18日には京都で鈴木安蔵(京大経一)を追加。
 そして、不敬罪にも問われている石田を除く17名は、1月26日出版法違反ならびに治安維持法違反で起訴、予審に付せられた。

 しかし、検挙はそれで終らずに1月27日午後から第二次検挙が開始され、同日夕刻までに京大社研

  逸見重雄(経三)・鷲谷武二(文二)・古賀二雄(法一)・藤井米三(経卒)

同志社社研

  宮崎菊二・沢田政雄(以上経一)

さらに

  小崎正潔(関西学院)・蓬台恒治(神戸高商)

の8名、翌28日には

  黒川健三・原田耕(以上大阪外語)

の2名が検挙され、その後検挙は4月中旬まで続いた。
 その間に京都社研では、

  武藤丸楠(経一)・池田隆(医二)・大橋積(経卒)

東大新人会では、

  是枝恭二(文二)・松本篤一(文二)・後藤寿夫(法三)

その他として、

  実川清文(日本大)・秋笹政之輔(早稲田高等学院)
  野呂栄太郎(慶応卒)・上村正夫(京都無産者教育協会書記)

らが検挙された。
 そして、1927年(昭和2年)5月30日に行われた京都地裁の判決では、
 「禁錮1年が4人、禁錮10ヵ月が11人、禁錮8力月が23人、計38人が全員有罪」となった。

 なお、双方が控訴をした控訴審の始まった1928年(昭和3年)年3月5日の10日後に起きた治安維持法の本格的適用である「3・15事件」である。
 控訴審は、京都学連事件と3・15事件を一連の事件として裁き、無罪3人の他は、最低で禁鋼1年6カ月、最高で懲役7年の判決を言い渡した。


(注) 上記は佐々木敏二著『山本宣治(下)』を参照させていただいた。
 しかし、いま思えば言語道断、べらぼうなことである。
 歴史的に振り返って、「何がどうした」というようなことを言ってみる価値が、どうであろうかということを私が自分自身で知るために、この記事を作ってみたんだ。

 なお、この一連の事件については、当時京大の教授グループから問題が提起された。また、新聞報道も強引な特高のやり方に、強い批判を加えた。そんなわけで、京都府警も起訴できる証拠を収集できなかった。だから、数週間後には全員をいったん釈放した。

 そんな状態であっても、特高に代わって強引な検察(司法省)が動き始めたのである。検事総長・各地裁検事正に各府県特高課長も加わった秘密会議が行われ、治安維持法の第一回適用を行い、学生達を検挙する方針を固めたのである。

 まったく、いま思えば狂気の沙汰であると私(黒田康太)は思う。
 いかがなものであろうか。(2007/01/09)


○私のUFO=原風景とデジャビュ


 あなたは、UFO(unidentified flying object)を見たことがありますか。
 昭和30年代、三鷹市の井の頭四丁目(そのころは牟礼と言った)に住んでいたころのことですが、私は太陽のような大きな火のかたまりが、ゆっくりと流れて、日本無線の向こうに落ちたのを見たのです。

 それは夕日というか、火の玉のようなものでした。あるいは、何か飛行体が事故で燃焼をして、墜落をしたのかもしれません。

 実際にあった記憶なのか、非常にインパクトの強い夢の中の出来事だったのかがわからないこともあります。
 見た景色などについても、そのようなことがあるかもしれません。
 「原風景」などは、おそらく太古から経験をした景色が、遺伝子に組み込まれているためではないでしょうか。

 また、「デジャビュ」(既視感)などと言って、光景や気持ちを以前に体験したような気がすることがあります。そのことは、『徒然草』第七十一段などにも

<……またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。>

のように書かれているので、私だけのことではないでしょう。
 なお、『徒然草』については『RKOホームページへようこそ!』の「青空ライブラリ」を参考にしてください。

 自分自身でもわからない記憶は、いったい何を意味するのでしょうか。
 実は、私はUFOに乗せられた記憶があるのです。しかし、いわゆるエイリアンも出て来ませんでしたし、その内部で人体実験をされた記憶もありません。それどころか、間近で別のUFOの機体を見たのです。

 私の乗せられたUFOが、他の人が乗せられたUFOと別れていくときです。ちょうど、『山椒大夫』の安寿と厨子王との舟が別れるシーンを思い出してください。そのときに、円窓から他の一台の船体が見えました。
 それは、ゆっくりと回転をしていて、なぜか胴体には旧式なリベットが数多く打ってあるのです。その一つ一つまでの形状を覚えています。まったく不思議な記憶です。

 夢もよく見ます。
 どういうわけかわかりませんが、その中に四つんばいになって草原を駆ける体験をすることがあります。追われていて、ふつうに走っていてはアウトになってしまいそうなときです。
 かなり原始的な、まだ四つ足だったころの追体験なのでしょうか。

 私は、脊椎動物門・哺乳綱・霊長目・ヒト科に属しますが、スウェーデンの学者リンネは「自然分類法」で、野生人間をヒトの亜種としたそうです。そして、その亜種は四足で歩き、言葉も満足に使えないということでした。

 そんなことを考えると、もしかしたら私はヒト科ではないのかもしれません。あるいはヒト科でも、私の四つんばいは「原始時代から引き継いだ」遺伝子によるものではないでしょうか。

 そして、UFOの記憶はもしかしたら、私が「母の胎内から出る」ときに何らかのはずみで脳にプリントされた一種の幻影かもしれないのです。
 そんな方面のこと、わかっている人は教えてください。(2007/01/08)


○ればない=新しい生活習慣?


 「たら・れば」という言葉がある。
 「……たら」とか「……れば」などという弁解の言葉を言わないという意味。とくに、歴史の場合には「たら・れば」などには意味がない。当事者の反省ならともかく、部外者が後で考えることだからだそうだ。

 「もしも、原爆が落ちなかったら」とか「日本に、資源があれば」などと言ってみても、歴史の中では仕方がないということだろうか。
 ちょっと、それと同じようなことかもしれないが、私は「ればない」をこれから日々の信条としようと考えた。

 例えば、

・ 喉が渇かなければ、水を飲まない。

・ 腹が減らなければ、食わない。

・ 眠くならなければ、寝ない。

などである。

 こんな安易な考えを実行しても、身体が大丈夫だろうか。
 有名な禅の言葉に、

 <一日(いちじつ)作(な)さざれば、一日食(くら)わず>

というのがある。
 百丈和尚が言った言葉である。

 弟子たちが94歳になった百丈和尚の健康を気遣って、和尚の農具を隠してしまった。すると、和尚は働かないかわりに食事をとらなかった。
 結局、弟子たちは農具を返したので、和尚は絶食をやめた。
 そのときの言葉。

 私のは、そんな高邁(こうまい)なことではない。
 単に思いつきで、ちょっと確信がないのではあるが、当分の間は試行期間として人体実験をやってみようと思う。

 一日の生活リズムが不自然になってしまうが、人生の残り時間が少なくなってしまったので、有効な日々が過ごせるのではないでしょうか?
 しかし、何となく自信はないのだが、…… (2007/01/07)


○生死は意識か=意識はエネルギー


 生死(しょうじ)とは、いったい何であろうか。
 生死はふつう「せいし」と読んで、「生きることと死ぬこと」を意味する。そのことから、生きているか死んでいるかという問題になる。つまり、「生き死に」である。例えば、「生死を共にする」などと言う。

 仏教では、ふつう「しょうじ」と読む。
 むろん、「生きることと死ぬこと」つまり「生と死」のことであるが、人間や動物などの生命があるものが、生まれては死に、死んでは生まれることを何回もくり返すことを意味するようだ。
 そのことを「輪廻転生」(りんねてんせい)などと言う。

 また、生と死を逆にして死生(しせい)と言うこともある。
 生死と同じ意味ではあるが、死のほうに重きを置いている。「死生命あり」は「人間が死んだり生まれたりするのは、天の定めによるもので、人間が自分自身ではどうすることもできない」と言う意味。
 それには、自殺などの問題が残るが、……

 そのような生死に含まれる愚かしさを繰り返す人間や動物をひっくるめて、「衆生」(しゅじょう)と呼んでいる。
 そんなことを考えると、衆生の生死は意識に他ならない。とくに、人間の場合においては。

 そして、意識というのはエネルギーである。したがって、エネルギーは他の形態に変化をすることがあっても、消滅することはないのではないか。
 そのように考えると、死んだらすべてが無くなるというのは、思い違いかもしれない。

 何となく自分の実態は、自分の肉体に命を与えている無限の意識体ではないかと考えることがある。
 あなたは、どのように考えておられますか。(2007/01/06)


○豚丼の効用=ヒポクラテスの意見


 今朝(4日)も吉野家に行って、豚丼を食べた。
 ここのところ何となく面倒になっちゃって、外食をすることが多い。
 そして、大発見。

 今年は、足の踵(かかと)に毎年できる皹(あかぎれ)が生じないのである。去年までは踵が割れてしまって、治療が必要だったのに。
 おそらく、初秋から動物性の脂肪を摂取したためであろう。

 ヒポクラテスは、秋から冬にかけて脂肪を多量に摂って、体内に貯えるのがよいと書き残している。確かにそのとおりだということが、身をもってわかった次第。
 ブタの体温はヒトよりも高いので、多くを摂ると問題が生じるであろう。
 しかし、いつも食べるブタ丼には薄いスライス状の脂肉(あぶらにく)がわずかに入っているだけであるから、問題がないのかもしれない。

 さらに、今まで忌諱(きき)していたことの誤りも発見。
 ミスタードーナッツで甘いのをふつう3つ、多いときは4つ食べる。以前には尿糖が出るというので、甘いものはいっさい食べなかった。料理にも砂糖は使用しなかったほどであるから。

 なお、アメリカンコーヒーまたはカフェオレは必ずお代わりをして2杯飲以上飲むが、それらには砂糖もミルクも入れない。ただ、水で少々薄めるだけである。

 そんなあんばいで心配なときは、帰ってから検尿をしてみる。しかし、ここのところ尿糖も蛋白も、さらに潜血もまったく出なくなった。だから、いまのところは安心して外食ができる。
 何となくビクビクしながらの「鬼の居ぬ間に洗濯」といったような心境ではあるが。

 人間のホメオスタシスは、非常に巧妙にできているらしい。
 何とか、この状態を維持していきたい。
 肉食や甘党、そして大食い(おおぐい)などができる幸せ。(2007/01/05)


○ボケと気違い=異常な人が増えている


 どちらにも、私はなりたくない。
 が、ここのところボケや恍惚の人が増えているみたい。
 そして、一方では頭がおかしくなってしまった人もかなりいるようだ。発狂をしてしまった人たちである。

 恍惚状態は今までにも多く見たが、最近になってぐんと発狂の初期症状である人をあちこちで見かけることが多くなった。道を歩いているときや、電車の中などである。気違いというのが差別語なら、おかしくなった人というほうがよいのかもしれないが、……

 何かを怒っているようで、絶えず意味のわからないことをブツブツと言っている。そして、ときどき大声で怒鳴ったりする。その相手が誰であるか、また何の目的に話しているかがわからない。
 中には、演説口調で総理大臣に話しかけている人もいた。
 おそらく頭の中が異常になってしまったのだろう。

 そんな中で、非常に心配なことがある。
 もしかしたら、自分自身が恍惚の人になってしまったり、発狂をしてしまうことだ。なぜならば、発狂の人を見ていると、本人は真剣になっていることが多いからである。

 すでに、こんなことを一所懸命になってしていること自体、おかしくなりかかっているのではなかろうか、などと心配をすることもある。有名なドン=キホーテのように、身体の一部分だけが異常な症状の場合もあるでしょう。
 また、かつて読んだ魯迅の「阿Q正伝」などのことを思い出すと、何となく自分の正常さに自信がなくなってしまう。

 この年になって、「病気には絶対にならない!」などと言えないのと同様に、「私は恍惚になったり、発狂はしない」などとは必ずしも言えないのではないか。すでに、体内には化学薬品などの有害物を多量に摂取していたり、有害な放射線などの危険物を照射されているからである。

 皆さんは、自信がありますか。(2007/01/04)


○初詣=由緒ある小野神社


 多摩市一ノ宮にある小野神社の起源は古く、8世紀中ごろの創立と言われている。中世には、武蔵国にあって筆頭の「武蔵一宮」と言った。現在のさびれた状態からは、想像ができないだろう。

 御祭神は、天乃下春命・素戔鳴尊・彦火々出見尊など全部で8柱のお名前が書いてある。「延喜式内 武蔵国一之宮 小野神社」というのが正式な名称であり、その末社を14社も連ねる。

 そこに、私と妻は初詣に行く。
 ここのところ毎年のことで、すでに8年ほどになる。
 しかし、その境内には人がまばらで、元日の午前10時ごろに行っても、10人くらいしか来ていない。大国魂神社や高幡不動尊のことを思えば、なぜか嘘のようである。

 しかし、私たちの住んでいる部屋から歩いて10分ほどで行けるので、元日以外にも参拝に行くことがある。そのときは、私たち以外には誰も来ていないことが多い。
 臼井さんは、かつて「こんな近いところに、こんな立派な神社があるのに、人が来ないのが不思議だ」と言われたことがある。
 妻は、「参拝者が少ないので、御利益も少ないのではないか」と言う。
 しかし、私は「逆に一人当たりの御利益は大きい。何万人と出るところは、一人当たりの効果が分散されるために、ほとんどないほどに小さくなってしまうのではないか」と妻に言い聞かす。

 帰りには、参道を通って聖蹟桜ヶ丘駅に出る。その途中、新興宗教の教会があって、あふれるほどの人が入っている。教会の駐車場などは車が入りきれないほどで、ガードマンが整理をしていて、まるで観光地なみである。

 とにかく、私たちは毎年のとおり破魔矢を買い求める。
 その破魔矢には、「開運・厄除け」と書いてある。
 現代の常識として、除夜の鐘や初詣などはバカバカしいと言う人も多くいるだろう。しかし、私はともかく妻は信じ切っているので、いつも同行をするわけである。

 何となく神仏に対する疑いの気持ちも交えて、……。(2007/01/01)


Kuroda Kouta (2007.01.01/2007.09.12)