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 配信メモ(5) 2005年08月から2005年09月分


○書展にて(2005.09.30)
○言葉と救い(2005.09.29)
○マクロビオティック夫妻(2005.09.28)
○何となく思い知らされる言葉四つ(2005.09.27)
○はなはだしい怠慢? (2005.09.26)
○後悔無用! (2005.09.25)
○4本の指と言い過ぎ? (2005.09.24)
○憂患の始め? (2005.09.23)
○最近になって思うこと三つ(2005.09.22)
○才の乏しさとわずかな知識(2005.09.21)
○付け焼き刃 (2005.09.20)
○この世の客(3/3)(2005.09.19)
○この世の客(2/3)(2005.09.18)
○この世の客(1/3)(2005.09.17)
○出来事(3/3)(2005.09.16)
○出来事(2/3)(2005.09.15)
○出来事(1/3)(2005.09.14)
○現在の一瞬(3/3)(2005.09.13)
○現在の一瞬(2/3)(2005.09.12)
○現在の一瞬(1/3)(2005.09.11)
○孤独な人(3/3)(2005.09.10)
○孤独な人(2/3)(2005.09.09)
○孤独な人(1/3)(2005.09.08)
○空しいこと(3/3)(2005.09.07)
○空しいこと(2/3)(2005.09.06)
○空しいこと(1/3)(2005.09.05)
○もう一人の自分(3/3)(2005.09.04)
○もう一人の自分(2/3)(2005.09.03)
○もう一人の自分(1/3)(2005.09.02)
○鍛錬(3/3)(2005.09.01)
○鍛錬(2/3)(2005.08.31)
○鍛錬(1/3)(2005.08.30)
○生きるために食う(3/3)(2005.08.29)
○生きるために食う(2/3)(2005.08.28)
○生きるために食う(1/3)(2005.08.27)
○近道を行く(3/3)(2005.08.26)
○近道を行く(2/3)(2005.08.25)
○近道を行く(1/3)(2005.08.24)
○一本の葦(3/3)(2005.08.23)
○一本の葦(2/3)(2005.08.22)
○一本の葦(1/3)(2005.08.21)
○ちょうちょの夢(3/3)(2005.08.20)
○ちょうちょの夢(2/3)(2005.08.19)
○ちょうちょの夢(1/3)(2005.08.18)
○おもいやりといつくしみ(つづき2)(2005.08.17)
○おもいやりといつくしみ(つづき)(2005.08.16)
○おもいやりといつくしみ(2005.08.15)
○大きいことと小さいこと(つづき2)(2005.08.14)
○大きいことと小さいこと(つづき)(2005.08.13)
○大きいことと小さいこと(2005.08.12)
○相手のことと自分のこと(つづき2)(2005.08.11)
○相手のことと自分のこと(つづき)(2005.08.10)
○相手のことと自分のこと(2005.08.09)
○直していきましょう(つづき2)(2005.08.08)
○直していきましょう(つづき)(2005.08.07)
○直していきましょう(2005.08.06)
○初めに言葉(つづき2)(2005.08.05)
○初めに言葉(つづき)(2005.08.04)
○初めに言葉(2005.08.03)
○自分を賞賛する(エラスムス)(2005.08.02)
○自分のために(ヒレル)(2005.08.01)


○書展にて


(1) 気に入らぬ風もあろうに柳かな(仙崖和尚(せんがい おしょう))
(2) 稽古とは一より習い十を知り 十よりかへるもとのその一(利休道歌九十番) 


 2005年1月に、三鷹の作左部幸秋(さくさべ こうしゅう)先生の書展で拝見をした作品。
 (1)については、大いに反省をさせられました。そして、(2)には「何事もくどくどとする自分自身」に対して、ちょっとこの道歌がなぐさめてくれたようです。
 もしかしたら、「利休」は「利久」だったかもしれません。(2005.09.30)


○言葉と救い


ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば。(太宰治)

 太宰治の『晩年・葉』にある言葉です。それは、私に孔子の次の言葉を思い出させます。
 「言葉は、互いに意味が通じさえすればよい。言葉ばかり達者で、愛想がいい人は、本当のおもいやりや、心からのいつくしみが少ないものだ。」
 後ろの部分が、有名な「巧言令色少なし仁」です。

年月は、人間の救いである。忘却は、人間の救いである。(太宰治)

 太宰治の『お伽草子・浦島さん』にある言葉です。年月や忘却が、私たちにとって救いであることは、紛れもない事実でしょう。しかし、中には年月が経っても忘却をできないこともあるようです。(2005.09.29)


○マクロビオティック夫妻


正しい食べ物で病気は治る。薬や手術で病気を治そうとするのは、法律を破っておきながら、弁護士や金の力で刑罰をのがれようというのと同一で、さもしい見下げ果てた心持ちである(桜沢如一)

 桜沢如一は、マクロビオティック健康法の創始者です。
 また、アレキシス・カレルの『人間−−この未知なるもの』をフランス語から翻訳したことでも有名です。日本では健康に関してあまり評価をされませんでしたが、フランスではパリ名誉市民になっています。
 桜沢如一のフランス名は、「Gorge Osawa」です。

(1) 人間が食物を作るのではなく、食物が人間を造る。
(2) 「いただきます」に相当する言葉は外国にない。食事は祈りである。(桜沢里真)

 桜沢如一の奥様であられた桜沢里真(おうざわ りま)著『マクロビオティック料理』に書いてあった言葉です。
 その本の副題には、「玄米食養家庭料理800種」とありました。そして「食養料理について」に(1)、また「むすび」に(2)が書かれています。

 なお、桜沢里真は、1899年に山梨県生まれ、1938年桜沢如一と結婚、そして1966年に桜沢如一に死別しました。結婚当時は、何も知らなくて苦労をしたり、大いに勉強をしたということです。「まり」でなく「りま」という名前も、何となくフランス向きで素敵ですね。

 私は、(1)については「まったくその通りだ」と思います。なぜならば、和辻哲郎の『風土』にも、そのような記述があったのを覚えていたからです。
 しかし、(2)については「本当かな?」とも思います。だって、食事の前後に祈るような国もあるのですから、……(2005.09.28)


○何となく思い知らされる言葉四つ


食物を薬に、薬を食物にしよう。(ヒポクラテス)

 紀元前400年に医聖ヒポクラテスが書き残した言葉です。私は、中国の『医食同源』という言葉を思い出しました。
 また、薬を食べ物にするということは意味がわからないのですが、最近のサプリメントなどについてはどう考えたらいいのでしょうか。


自分の病気を治すのは、自分自身だ。(ヒポクラテス)

 もう一つヒポクラテスの言葉をあげておきましょう。
 紀元前に、すでにホメオスタシスつまり自然治癒力に関して言っているのはさすがです。


自然から遠ざかると、病気に近づく。(ゲーテ)

 ゲーテの言葉としては、前に「何か失敗をしたときに、その原因がずっと以前にあるにもかかわらず、結果のすぐ間近にあるものと考えてしまいがちである。」というのがありました。
 しかし、よく考えてみると病気に対しても、前の言葉が言えるのではないでしょうか。つまり、病気の原因はかなり過去にある場合が多いからです。


私の知るかぎり、死ぬときの病気のほかは、父も母も病気で伏せったことが一度もなかった。父は八十九歳で、母は八十五歳で亡くなった。(フランクリン)

 『フランクリン自伝』(p17)にあった言葉です。正しい食べ物を摂って、正しい生活習慣を心がければ、おそらく誰もがそうなることでしょう。(2005.09.27)


○はなはだしい怠慢?


多数の者が寒さおよび暑さに対して身体を鍛えずにいることは、はなはだしい怠慢とは思えないか?(ソクラテス)

 ソクラテスは、著述を残していません。上の言葉は、クセノフォーンの『ソークラテースの思い出』(p66)にあったもの。ソクラテスは常日頃から鍛錬をして、非常に丈夫な身体をしていたということです。(2005.09.26)


○後悔無用!


後悔は二重に不幸。(スピノザ)

 一つは、「そのこと」つまり「そのことをしたということ」です。
 もう一つは、「後で悩むこと」つまり「後になってくよくよ考えてしまうこと」なのです。
 結局、「後悔自体は無意味である?」または「後悔は無用である!」ということなのでしょうか。(2005.09.25)


○4本の指と言い過ぎ?


「あの人がそうだ」と言って人差し指で示すときは、残りの4本の指が自分を指していることを忘れてはいけない。(ルイス・ナイザー)

 ルイス・ナイザー(Louis Nizer)はアメリカの弁護士であり、作家でもありました。
 人のことを言うときは、どうしても自分自身のことも含まれてくることを言ったのでしょう。ただし、親指についてはちょっと外れていて、せいぜいつま先の方向ですから、あまり問題がありません。
 どうしても、自己欺瞞に陥りがちなものです。


よいことでも過ぎると悪い。談義や説法、教訓なども言い過ぎると、むしろ害になることがある。(『葉隠』)

 『葉隠』はアナクロニズムだという人がいます。しかし、心を静かに読み直してみると現代の英知が多く含まれていることに気づくでしょう。(2005.09.24)


○憂患の始め?


字を識(し)るは、憂患の始め(宗・蘇軾(そしょく))

 人生において、文字を知って覚えることは、心配をしたり心を痛めることの始まりなんです。
 学問をして文字を知ると、いろいろな情報が自分自身に入って、それから悩みが生じます。
 むしろ、何もしらないほうが気楽でよいのかもしれません。(2005.09.23)


○最近になって思うこと三つ


生まれたものに、死は必ず来る。死んだものは、必ずまた生まれる。避けられないことを嘆いてはいけない。(『バガバド・ギーター』)

 バガバド・ギーターは古代インドの叙事詩『マハー・バーラタ』の一部です。ガンジーの思想の基本は、この『マハー・バーラタ』にあると言います。「マハー」は「大きい」という意味ですが、「バーラタ」の意味は何でしょうか?


■何よりもまず自分で自分を脅(おど)かすようなことをしたらダメ。つまり「一人じゃ戦争ができない」などと言ってはいけないのだ。(ドストイエフスキー)


■つねに行為の動機だけを重んじて、その結果をあまり考えるな。報酬への期待を行動の原因とする人々の一人となるな。(ベートーベン)
(2005.09.22)


○才の乏しさとわずかな知識


■凡(およ)そ学に志す者は才の乏しきを悲しむなかれ、努ることの足らざるを恐れよ。(河上肇)

 これは、私の父が京大の「河上会」に入っていた関係で、何かの記念式典のときにもらった色紙に書いてあったものです。タイトルはないんですが、大正六年夏七月となっていて署名の下に立派な落款が押してあります。そして、その色紙は今も私の部屋に飾ってあって、ときどき読んでは大いに反省をするのです。


そうたい男でも女でも、生かじりの者はそのわずかな知識を残らず人に見せようとするから困るんですよ。(与謝野晶子訳『源氏物語』帚木)

 何となく自分が言われているようで、「ドッキリ」とするような文章です。なぜならば、私がそうだからです。しかし、極めるのは余命の関係で、いずれにしてもムリなんです。(2005.09.21)


○付け焼き刃

■日本は今の科学の成果のみを取ろうとしていて、その成果をもたらした精神を学ぼうとはしない。(ベルツ)(2005.09.20)


○この世の客(3/3)


仮面の父

 親は子を育て、その子は親になり、また子を育てます。
 ふつう、子はその父親を、理解しにくく近づきにくい存在と思うようです。わからなかった父、そしてとっつきにくかった父、私もようやく50になり、ふと自分の中に生前の父を見つけた思いをして、はっとすることがあります。
 おそらく、私の子もそうなるでしょう。

 人は、やがて中年になると自分の中に自分の親を見いだします。そのとき、いったい親子とは何でしょうか。
 そして、それがさらに進むと自分の中に自分以外、つまり自分を批判する自分を見てしまいます。そして、いつしかその自分の中の自分さえもどうすることもできなくなってしまうのではないでしょうか。
 最近、自分の身一つが思うようにならず、子の前で仮面をかぶっていた父とまったく同じことをしているその子、つまり、自分がいとおしく感じることがあります。(2005.09.19)


○この世の客(2/3)


この世の客

 自分の身体(からだ)さえもて余し、やる術(すべ)のないときがあるのは、いったいどうしたことだろうか。
 それは、この世に客として招かれているからかもしれない。

 親鸞が「私が死んだら加茂川に流し、私の身体を魚の餌にしなさい」と言ったり、檀林皇后が「私が死んだら、死体を庭に放り出し、犬の食べるままにしなさい」と言ったこと、さらに、ヨブが苦悩の果てに「裸で生まれてきた。何もなく大地へ帰ろう」とつぶやいた言葉には、人間の究極があるようです。

 私たちは、この世で客なのか、あるいはあの世に行って客になるのかわかりません。さらに、どちらの客でもなければ、いったい落ち着けるところは、いつどこにあるのでしょうか。

 スエーデンボルグという偉大な科学者は死後の世界へ行き、天界と地獄を体験したそうです。そして、その詳細な記録を大量に残しています。
 もしかしたら、人間は何らかの形で永遠に回帰して、未来永劫に生きていくのかもしれません。

 現在、人類が発展途上にあるのか、あるいは滅亡へ向かっているのか、よくわかりません。私たちの身の回りに、私たちを破壊に導くものがあまりに多いのも異常です。
 また最近、いたるところに目的と手段の倒錯が見受けられ、無気力な人間が増えています。仮に現在が発展をしていく世の中であっても、子が親を越える力がなければ、人類は滅びてしまうでしょう。
 「人生の悲劇の第一幕は親子になったことに始まっている」と芥川龍之介の『侏儒の言葉』にあります。(2005.09.18)


この世の客(1/3)


■この世に客に来ていると考えれば、不自由も我慢できる。たとえ、朝晩の食事がまずくても、おいしいと言って食べるくらいは何でもないことだ。(伊達政宗)
(2005.09.17)


○出来事(3/3)


論理の不連続

 「運命論」というのを、ご存じですか?
 世の中のことは、太陽や月の運行のように何事もあらかじめ決まっているといいます。つまり、なるようにしかならないから、努力をしてもムダであり、すべてを諦めようという消極的な考え方です。

 そして、すべてが定まっていても当人は、それを事前に知らないので、右往左往をするというのです。このような考え方は、まったくナンセンスのような気もします。

 万事があらかじめ決まっていて、何をしてもムダだといって諦めるのならば、その諦めることもすでに決まっているのですから、……

 私たちは、できることとできないことを明確にする必要があります。また、何ともしがたいものを、いたずらに言葉だけで解決しようとしてもいけません。
 日常の出来事に対しても、全力であたり、現在に徹したいと思います。(2005.09.16)


○出来事(2/3)


パラドックスと詭弁

 世間には、常識で考えられないようなことや、理解に苦しむことが多くあります。常識とか理解ということ自体が、人間の狭い経験の範囲で、はぐくまれたものと思えば、いたしかたないのかもしれません。
 一連の論理は、その続き方に注意をする必要があります。

 ギリシアのソフィストや中国の詭弁家は、まったく不思議な論理を展開しました。彼らの目的は、互いに異なってはいましたが、……

 ゼノンのパラドックス(逆説)は有名です。その一つに、「放たれた矢は、ある瞬間には定まった点で静止している。したがって、矢は飛んでいる間は、動いていない」というのがあります。
 また、アキレスの歩幅に亀の歩幅を合わせ、それそれが不可分であるのに、微少な単位に分割をしてしまい、矛盾を隠したものもあります。歩幅に関して、亀とアキレスとの一歩を同じと考え、追い越せなくしてしまいます。


 『荘子』に、恵施(けいし)という人のことが書いてあります。
 恵施は多芸多才、蔵書も車5台にいっぱいあったが、学問は寄せ集めで、議論も的はずれでした。
 「矢がすばやく飛んでいくのに、進みもせず止まりもしないときがある」や「わずか1尺の鞭(むち)でも、毎日その半分ずつを取り除いていくと、万代かかってもなくならない」と恵施は説きます。
 しかし、荘子は「このような理論は、世の中の役には立たない」と看破しています。
 言葉だけで理論を組み立てようとすると、誤謬がともないます。(2005.09.15)


○出来事(1/3)


■わたくしたちの生活には、思いがけない出来事が起こり、それらがまったく関係ないように見える。しかし、その現象は、ただ連続の上に浮きでたものである。(ベルクソン)
(2005.09.14)


○現在の一瞬(3/3)


価値の基準と真実の意味

 価値観は、時代によって異なります。
 また、その時点の法律により善悪が左右されます。「禁酒法」が制定されたころは、お酒を飲むことは罪でした。商法のように、過去からの習慣によって基準を定めたものもあります。
 今日、「泥棒」をすれば犯罪で、悪いことに決まっています。
 しかし、厳しい教育で有名なギリシアのスパルタでは、若者らに泥棒を奨励しました。それが国家の目的でもある戦争に勝つための技術を取得するのに、都合のよい模擬訓練だったからです。

 『荘子』に、片端(かたわ)の支離疏(しりそ)や醜男(ぶおとこ)の哀駘蛇(あいたいだ)と話をしていると、すっかり心が和んで楽しく、逆に五体満足な普通の人たちの首が弱々しく細く見えるようになるとあります。
 そして、さらに正常な身体が、恥ずかしくさえなると書いています。
 いったい、何が基準なのでしょうか? (2005.09.13)


○現在の一瞬(2/3)


■新しい時代における古い考え

 現代は、科学万能の時代といいます。
 『葉隠』などというと、アナクロニズム(時代錯誤)もはなはだしく、唾棄すべきものと考える人が多いようです。しかし今、よく読んでみると、はっとする斬新なことや、深い意味をもつ言葉に出会います。
 また一方では、身近なことも書いてあります。
 例えば、あくびです。人前であくびをすると、自分を間の抜けた人間として見せるので気をつけなければならないといい、防止法を述べています。舌で、ちょっと唇をなめればよいのです。
 これは、エリートサラリーマンにも役立つ知識といえましょう。

 そういえば、イザヤ・ベンダサンの本の冒頭にも「口あけてはらわた見せるざくろかな」という皮肉の句があり、あくびどころではありません。
 カオス(混沌)という言葉の語源が、あくびを意味したのもうなずけます。自分自身の置かれている場所と時間を、あまり意識しすぎると、緊張のあまり疲れてしまいあくびが出るようです。

 動物たちは、人間と異なって、ただ現在に生きています。
 犬や猫は時間という概念をもたず、明日のことなども心配しないようです。腹が減ったら喰い、眠ければ寝るというのも一つの方法でしょう。時間という概念は、人間が勝手に考え出したものかもしれません。
 アモン派(アーミッシュ)の人たちは科学の恩恵をこばみ、あわただしい時間を意識しない、のどかな旧式の生活をしています。
 聖書に「明日のことを煩うな、今日の苦労は一日で足れり」とあります。(2005.09.12)


○現在の一瞬(1/3)


■まさに、現在の一瞬に徹する以外にはない。この一瞬が、積み重なって一生となる。ここに考えが及べば、あれこれと迷うこともなければ、探しまわることもない。(山本常朝)
(2005.09.11)


○孤独な人(3/3)


先生の思い出

 卒論を指導してくださった野本尚志教授は、強度の傴僂(せむし)でした。
 論文は「三値素子」というものでしたが、その内容はすっかり忘れました。しかし、先生の思い出は多く残っています。羊羹(ようかん)がとてもお好きであったことなど、今でもなつかしい思い出です。
 卒業後も、ずいぶんとかわいがってくださいましたが、早く逝かれました。ある教授が先生を追悼して「野本先生のことを思うと『人生は重き荷を負うて遠き道を……』という言葉を思い出す」と学会誌に書いていました。

 亡くなられてからも、美しい奥様の年賀を久しくいただきました。その奥様も一昨年逝かれ、今年はご子息からの書状が届きました。
 先生からお話をうかがっているときに、まだ私が若かったからでしょうか、少しもさびしさなどを感じませんでした。しかし、今思い出すとなつかしさとともに、悲しいかげりが先生のどこかにあったようです。
 それは、漱石の『こころ』の先生とも似た不思議な魅力でもありました。(2005.09.10)

(注) 野本尚志教授についての記述は、『RKOホームページへようこそ!』の『プロフィール』にある
 「○コンピューターとの出会い」にもあります。
 そこには、卒論で指導をしていただいた「三値素子」のあらましについて述べられています。



○孤独な人(2/3)


■多数の中の孤独

 東京でオリンピックが開催されたときのことです。
 優勝をした外国のマラソン選手に、年配の報道記者が尋ねていました。
 「完走、おめでとうございます。どうですか、走っていて孤独感におそわれませんでしたか?」
 その優勝者は、怪訝(けげん)な顔をして言いました。
 「あんなに大観衆がいるのに、何でさびしく感じるのですか。南極を一人で横断するのならともかく、……」
 記者の質問が、いったい何を意味しているのか、その外国人には理解できなかったようです。

 晩年の母が、ふともらした嘆きです。
 「今日(こんにち)のように、物や情報が豊かな時代に、何でこのようにさびしいのだろうか。若いころは、それを癒(いや)すこともできたが、今のこの気持ちは、いったい何なのだろう。毎日、少しずつ大きくなってきて、もうどうしょうもない!」
 それが、私の覚えている母の最後の言葉です。

 若いときのさびしさは、解決ができます。悲しさも時間とともに希釈され、やがて回復をするでしょう。
 しかし、老年のさびしさには、なす術(すべ)がないようです。
 それは、あたかも快癒したかに見えた傷口が、ある日、ふと気がつくと再発をしていて、ますます大きく悪化し、その正体もつかめないままに時が過ぎ、やがて死に至るようなものでしょうか。(2005.09.09)


○孤独な人(1/3)


■人生とは、重い荷物をもって遠い道を行くようなものだ。決して、急いではいけない。
 我慢をすることは、安全で長続きするための基本である。(徳川家康)
(2005.09.08)


○空しいこと(3/3)


言葉と知識

 いったい言葉と知識の関係は、どうなっているのでしょうか。
 言葉は、互いに意志を伝達する媒体であるとともに、個人の知識を形成する概念です。したがって、パラドックスや詭弁は、言葉の遊びです。もっとも、ソフィストや詭弁家にとっては生活の手段だったのでしょうが、……
 「言葉」の「言」と「葉」から成っています。これは、古来「ことだま」という言葉を意味し、神聖な魂(たましい)を指したようです。言葉が精神的な充足を与えることを意味したのかもしれません。

 知識は、言葉によって吟味され、広がります。言葉は、その目的が達しさえすれば短くてもかまいません。短歌や俳句は、切りつめた言葉の中に、非常に大きな内容をもっています。
 種田山頭火の俳句のように、従来の形式にとらわれず、必要最小限の言葉で自分の意志を表現できたら、もう名人の域に達したといえましょう。
 プログラムの記述やホームページの作成についても、同じことが言えそうです。(2005.09.07)


○空しいこと(2/3)


■物理的空間とこころの空間

 私たちの社会は、高度に技術や組織が発達し、情報がいたるところに氾濫しています。これを収集すると際限がなく、むしろ不要なものには関係をしない手法が必要です。
 このような時代には、全体を広く見渡し、将来を見通す技術も大切です。

 現代は、物が余っている時代といいます。
 過剰気味に生産された物質が、あらゆるところに見受けられます。さらに、それらが活用されないままに、捨てられているケースも多いようです。
 しかし、情報はともかく、物は絶対に不足しないのでしょうか。
 無限のようでも地球の資源には限りがあります。さらに、太陽の寿命でさえ有限でしょう。冷静に、大きい立場や長い目で見ることも、ときには必要ではないでしょうか。

 人間は、外への広がりを求めたり、また内への思考を深めます。
 アレキサンダー大王やナポレオンの行動範囲、つまり征服は驚異です。その支配は、非常に大きな地域に及びました。それは、大きいがゆえに偉大なのでしょう。
 いっぽう、釈迦やイエスの生涯も偉大です。生前、彼らが活躍した布教場所はごく狭い範囲でした。しかし、現在ではその思想が全世界に広がっています。

 世界旅行を楽しむ人や、どこにも行かない人がいます。
 「人間は、必要でないことを多く知るよりも、必要なことを少し考えたほうがよい」とバーナード・ショーは言いました。(2005.09.06)


○空しいこと(1/3)


■あなたは、空しいことを知りたがってはいけません。
 自分の仕事に関する専門知識や、気持ちをやすらげるもの以外には、むやみに深入りをしてはいけません。(レオ13世)
(2005.09.05)


○もう一人の自分(3/3)


意志と本能

 自分が何かをしようと考えても、なかなかできないことがあります。意志が弱いから、完成しないのかもしれません。私は図体が大きいので、とくに動作がにぶく、仕事が思うようには進みません。
 いっぽう、あまり意識したわけではないのに、先に結果がわかったりすることもあります。本能というのでしょうか。何となくいやだと思ったことが、事故になったりしています。

 原稿を書いたり、プログラムを作っているときに、ふと妙な気がすることがあります。それは、そんな自分を冷ややかに見ているもう一人の自分がいるのに気づいたときです。
 ちょうど、碁や将棋をしているのを後ろから見ている人のような感じです。しかし、この場合、見られるものと見るものが同じです。したがって、客観がなく心に激しい葛藤(かっとう)が生じます。
 最近、のろまな自分をあわれに思うことがあります。(2005.09.04)


○もう一人の自分(2/3)


刹那(せつな)的な考え

 ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 1749−1832)は、ドイツの作家です。初めイタリアで美学を研究し、後に古典主義に転じました。青年時代の書簡体小説『若きウェルテルの悩み』は有名です。
 私も、学生時代にドイツ語の辞書を引きながら読んで、感激したのを今でも覚えています。やはり、そのころ読んだリルケの『マルテの手記』とともに、鮮明な記憶がよみがえってきます。
 また、詩劇『ファウスト』の言葉にも強烈な印象を受けました。
 例えば、主がメフィストーフェレスにいう言葉、「人間は努力をするかぎり、迷うものだ」という箇所は、今でもよく思い出します。生きていること自体が迷いと考えられるからです。

 人間の迷いは、その人の人生観・価値観と関係します。
 講義に出て若い学生と話をすると、価値観が私とは大きく違っていることに気づきます。それは、不自由もなく伸び伸びと育った世代からでしょうか、非常に明るいことです。
 若い人たちは、現実の問題に大きな関心をもちます。
 人生の設計などという、いわば途方もない問題には遠ざかります。そして、「人間は、なぜ生きるか」などというテーマにも近づきません。悪く言えば、刹那(せつな)的といえます。
 個々というものがありながら、群れながら全体のムードに流れて行動をする世代です。全体から切り離した個などは存在しないのですから、それが本来の姿かもしれませんが、……(2005.09.03)


○もう一人の自分(1/3)


■何か失敗をしたときに、その原因がずっと以前にあるにもかかわらず、結果のすぐ間近にあるものと考えてしまいがちである。(ゲーテ)
(2005.09.02)


○鍛錬(3/3)


■フィードバックとホメオスタシス

 ものとものの関係を正しく理解し、目的と手段、結果と原因などの相関性をしっかりと意識することが効率のよい活動のために必要です。人間は、学習によって可能性を少しずつ増していきます。
 そして現在、自分が「何のために何をしているか」のか、つまり目的と動作を並行して認識することが大切です。つまり、システムに正しくアプローチすることです。

 モジュールをいくつか集め、一つのまとまったシステムを構築しようとする場合は、しっかりと全体像を認識しないといけません。そうしないと完成したときに、仕様が満足しないからです。
 人間の身体はホメオスタシスといい、それ自身で一つの有機体です。
 肉体は結果の一部を原因にもどして評価したり、体温や心臓の鼓動を一定に保つ働きがあります。すばらしい肉体構造ゆえに、精神面でも大きな可能性があって当然です。(2005.09.01)


○鍛錬(2/3)


■記憶と学習

 科学は、人間の考え方や行動パターンの基準も変えてしまいます。
 今日(こんにち)、「なせばなる、なさねばならぬ何事も」などと言うとアナクロニズム(時代錯誤)だと思われます。「ならぬは人のなさぬなりけり」と続くと、もう精神論のカテゴリー(範疇)です。
 しかし、いつの時代でも訓練が大きな結果を生む事実も見逃せません。
 百足(ムカデ)は、足を考えながら動かしているわけではないと思います。しかし、実にスマートに動きます。また、運動選手も足を考えて交互に動かしません。その動きは、訓練した反射神経が行う活動と言えます。
 また、ピアニストの指の動きも数多く反復したレッスンの結果です。演奏を聴いていると、人間が音楽の表現に対して限りない可能性をもっていることの断片をかいま見ます。

 宮本武蔵(1584−1645)は、江戸初期の剣豪です。播磨の生まれといわれ、武道修行のために諸国を遍歴しました。二刀流を案出し、剣法の祖といわれています。また、水墨画にも優れていたそうです。
 自己に課した多くの練習、つまり鍛錬が大きな結果をもたらすことは明白な事実です。さらに、瞬間のひらめきや禅でいう悟りなどは、ずいぶん高い境地からくるものでしょう。
 ここで、訓練が正しい方法で行わなければならないことに、とくに注意すべきです。また、訓練は科学的に実施されねばなりません。

 ヒューリスティック(heuristic:発見的学習法)な方法と、適切な期間と量のフィードバック(feedback:もどすこと)が大切です。(2005.08.31)


○鍛錬(1/3)


■千日の練習を「鍛」とし、百日の反復を「錬」と言おう。
 自分の考えでしたことに関しては、後で悔やまないようにすべきだ。(宮本武蔵)
(2005.08.30)


○生きるために食う(3/3)


■時間による解決

 コンピューターの発展を考えたときに、この30年間に約3000の言語が開発されたといいます。このような中で、プログラミング言語とオペレーティング・システムのゆくえを考えると少々心配になります。ツールが不備で、すべて言語で処理をした時代があります。
 プログラミングの知識がなくても、ホームページが簡単にできるようになったのは、一代飛躍ともいえましょう。

 最初には考えられなかったことが、次々と実現していくことは、まったく素晴らしいことです。
 私たちの身の回りには、そのときには注目されないものが、後日になって脚光を浴びることも見受けられます。このような心配は、時間が解決してくれるでしょう。
 時間は、すべてのものを客観的に判断をするからです。(2005.08.29)


○生きるために食う(2/3)


■目的と手段の倒錯

 コンピューターが実用化してから、まだあまり時間が経過していません。
 しかし、以前に大きかった装置も、現在では1チップの素子となってしまいました。中央処理装置というと大げさですが、初期のコンピューターでは実際に何トンという設備でした。
 これは、目的に対して手段が大きく進歩した例です。
 同じ機能であれば小さいほうが好ましく、経済的にも有利です。現代では、すべてのものが量産され、そして大量に消費される経済構造へと変化していくようです。
 めったに用いない部品や、不要な機能を搭載した商品が、ユーザの多様化に対応するために作られます。シンプルな構造のものを技術で使いこなしたり、工夫するという時代は終わったのでしょうか。

 キケロ(Marcus Tullius Cicero 前106−前43)は、古代ローマの哲学者で、政治家でもありました。才能があり雄弁でしたから、政界で相当な地位を築きました。しかし、後にアントニウスと対立して殺されました。
 言葉は意志を伝達する手段です。むろん、言葉自体が目的ではありません。言葉が少なくても、意志が通じればよいのです。さらに、黙っていても相手が理解できれば、すばらしいことでしょう。
 プログラムは、コンピューターに対する言葉です。少ない言葉で目的を正確に達成したいと思います。なぜならば言葉があまり多いと、目的に対して手段が増えるからです。
 病は口より入り、災いは口から出ていくともいいます。(2005.08.28)


○生きるために食う(1/3)


■君は生きるために食うけれども、食うために生きるのではない。
 生きていても、同じ原因で何回も失敗したら、世間の笑いものになって恥ずかしいことである。(キケロ)
(2005.08.27)


○近道を行く(3/3)


最短コース

 私たちは、何かするときに段取りを考えます。
 それは、経験と勘によっているようにも見えます。いくつもの方法の中から最適なものを選ぶために、全部を瞬間に評価します。しかし、不十分な検討で決めてしまうことも多いようです。
 また、勝手に気分で思い込んだり、見過ごしたりすることもあります。とくに不愉快な記憶につながる事柄に対しては、遠ざかりがちです。他人の注意や、アドバイスなども耳ざわりです。

 プログラマやシステムエンジニアは、常に最短コースで目的に達する方法を考えねばなりません。そのため、パターンを数多く知っていることと、安全な範囲で新しい試みをすることが大切です。
 システムを構築するときやプログラミングの際にも、PERTやCPM などの手法が大切です。常に柔軟な頭脳で考え、臨機応変な処理ができれば、一人前のプロと言えるでしょう。(2005.08.26)


○近道を行く(2/3)


■知っていることと知らないこと

 現代社会は、高度に発達した科学技術に支えられています。
 そして、専門的な技術や情報が身近なところで利用されています。もはや、江戸時代に学者だけが知っていたような知識でさえも、今日では中学生たちの常識になってしまいました。
 いたずらに情報を収集すると際限がなく、むしろ不要なものには関係しない工夫が必要になってきました。また、身近な道具なども高度な機能に備えて、操作が非常に複雑になっています。
 孟子(もうし、前372−前289)は、中国戦国時代の哲学者です。王道主義を諸国の王侯に説いて回りました。しかし、残念ながら用いられませんでした。そこで、退いて『孟子』7編を著述したのです。
 それは性善説を基調として、人間社会における礼儀や義理の大切さを説いたものです。

 いつの世にも、斬新な考えをもつ人がいます。しかし、優れた思想も社会の状況によって受け入れられず、後世になってから改めて認識されることがよくあります。
 自分の専門の仕事で近道に気づかなかったり、最適な方法を知らないということは困ったことです。しかし、ついうっかりとしてムダな行動や意味のないことをしてしまいます。
 「知っていなければならないことをまったく知らない」ことと「知る必要のないことを詳しく知ろうとする」ことは進歩を妨げます。まず、基本を完全に理解することから、ものごとを始めましょう。(2005.08.25)


○近道を行く(1/3)


■近道があるのにそれに気付かず、わざわざ遠回りをする。
 また、もっと簡単な方法があるのだが、それを知らないで難しいやり方をしてしまうのだ。(孟子)
(2005.08.24)


○一本の葦(3/3)


■大きい目的と小さい手段

 大きな次元に向かい、小さい努力を続けます。このとき、努力が手段で次元が目的です。しかし、考えてみると目的と手段は一体のようでもあります。
 それはちょうど、大空を旋回していた鷹が地上の獲物を見つけ、捕るために舞い降りるようです。鷹は飛翔そのものが目的ではなく、捕獲のために飛んでいたと思われます。
 しかし、そうかといって鷹が、獲物をとるために飛ぶのか、また飛ぶために獲物をとるのか、確かめようがありません。鷹のことはよくわかりませんが、人間のことならわかります。

 私たちも、生きていくために食事をします。食事をするために生きているのではないのです。しかし、本当のことはよくわかりません。低い立場で考えると、目的と手段が不明確になってしまうからです。
 私たちは、コンピュータを使うためにプログラムを学習します。その学習の途中で、大げさな言い方をすれば、知的な空間に遭遇します。このとき、知的空間での飛翔が手段で、同時に目的なのです。

 ちょっと心配があります。
 この辺で、誰かが
 「ふん、何が知的空間か?」
と言いそうな気がして、びくびくしています。

 知的空間は、それぞれの人の価値観です。大きいか小さいか、あるかないかも考え方次第です。あるといえばある、ないといえばないでしょう。
 例えば、盆栽や箱庭の中に大自然があると言ったら、びっくりして疑う人がいます。プログラムの中も同じです。本人が思えばそれでよい、そんなふうに考えます。
 自分自身の可能性を引き出し、それを伸ばしていく場所が知的空間なのです。そして、それは果てしなく広がっているのです。いろいろと工夫をしてみてください。(2005.08.23)


○一本の葦(2/3)


■大から小へのアプローチ

 パンセ(瞑想録)には、興味深い言葉がたくさんあります。その中でとてもユーモラスなのは、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史が変わったろう」という部分です。
 また、短い言葉で「口のうまい人、悪いしるし」とあります。これも、孔子の言葉を思い出させて愉快です。東洋も西洋も、人間の本質には変わりなく、偉人の鋭い観察と深い洞察が、言葉の中にあります。

 また、「あまり若くても、老いても正しく判断できない」という箇所は、逆に佐藤一斎の「若いときに学問をすれば、大人になり役立つ。大人が学べば衰えない。老いても学べば名が残る」を考えます。
 自然は、一本に葦に比べたら大きいことは確かです。しかし、人間の考える空間はもっと大きいかもしれません。思考や思索は、限りない可能性をもっています。人間が考えるということ自体が、もう不思議です。

 人間は、自分自身の中に一つの宇宙をもつことができます。
 その大きさは、一人一人によって異なるでしょう。限られた狭い場所で現実の生活をする人もいます。一方では高い次元の空間をもった境地に、逍遙する人もいると思います。
 人間は自分の中で、自分自身を大きくしたり小さくしたりできるようです。考えることにより、人間の中に高い次元の思想ができることは、驚嘆に値することです。
 カオス(混沌)の状態から脱却し、自分自身を大きなシステム空間へ導くことが、おそらく誰にでも可能でしょう。(2005.08.22)


○一本の葦(1/3)


■人間は、自然の中で最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。
 だから、われわれのあらゆる尊敬は、考えることにある。(パスカル)
(2005.08.21)


○ちょうちょの夢(3/3)


■夢のまた夢

 パスカルのパンセ(瞑想録)の中に、こんな記述があります。
 「目覚めていると思っているこの人生そのものが、一つの夢にほかならない。死ぬときに、私たちは目覚めるが、それまでは真についても、また善についても原理を知らないということは、ありえないであろうか」
 非常に、感銘の深いくだりです。

 葬式で、蓮如の「白骨の章」を聞いたりすると、必ず思い出します。また、荘子が髑髏(どくろ)とする会話も印象的です。生き返らせてやろうかというと、髑髏が怒って、「この静かな幸福から人間社会に戻りたくない」と言います。
 フロイトは、「夢は願望の充足である」と考えました。人間の願望は果てしないようです。求めても求めても、次々と限りがないということは、いったいどういうことでしょうか。
 また、夢の中の矛盾と誤謬、さらには恐怖は何を意味するのでしょうか。

 人生が何であるかなど、わかっていなくても一向にかまいません。むしろ、そのほうが気楽です。本質はよくわからなくても、誰もが生きていくために、忘れずに人生の一部、つまり仕事や食事や睡眠をします。
 まったく不思議なことです。(2005.08.20)


○ちょうちょの夢(2/3)


むかしの夢と今の現実

 今日、技術革新が急速に進み、時代は大きく変わりつつあります。そして、過去の夢が、いくつも現実になりました。私たちは、かつてない激しい変化の中にいます。
 ちょうど、台風の中心が静かなように、その中にいると気付かずに過ごしてしまいます。それでは、私たちは、いったい今、どのような変化の中にいるのでしょうか。
 それは、物質とエネルギー中心の社会から、情報と知識が中枢となる社会へ転換していく過渡期なのです。しかし、このような周囲の激しい変化と、自分自身の中のこととは、だいぶ事情が違います。

 変化があまり速いと、全体の進み方や考え方に、個々の技術や常識がついていけないのでしょうか。最近、適応性のない多くの人々が、社会の進歩に追いつけない事実をあちこちで見かけます。
 この現象は、今後ますます激しくなるでしょう。
 つまり、物質の進歩に、考え方の進歩が伴わないのです。

 見方を少々変え、ハードウエアに関していうならば、ギリシア時代に走者がリレーして通信文を運んだこと、そして現在の光通信や衛星通信の技術を比較してみて下さい。
 次に、ソフトウエアについて、ギリシアの哲学者たちが考えたこと、現在の平均的日本人が考えていること、それらのどちらがレベルが高いか比較をしてみます。
 このような比較は、まったくナンセンスかもしれませんが、…… (2005.08.19)


○ちょうちょの夢(1/3)


■ちょうちょになった夢を見た。ひらひらと楽しく、やがてふと目が覚めた。あまりにも実感が残り、夢で蝶を見たのか、本当は自分が蝶で、いま人間の夢を見ているのかがわからない。(荘子)
(2005.08.18)


○おもいやりといつくしみ(つづき2)


言葉のからくり

 「人生とは考えることだ」と説明する人がいます。その人に、おそるおそる「それでは、考えるとはいったい、どういうことでしょうか?」と尋ねます。そして、いろいろと質疑応答を繰り返し、結局「うるさい!」になります。
 コンピューターについても、同じようなことが言えそうです。
 神が人間を作ったのか、人間が神を作ったのかは、わかりません。しかし、人間が機械を作ったことは事実です。人間が便利のために作った道具、それを動かす言葉のために苦労をするとしたら、困ったことです。

 言葉だけで、問題を解決しようとする人がいます。
 仮に、意地の悪い人が神様に尋ねたとしましょう。
 「神さま、あなたはあなたよりも偉大なものをお作りになれますか?」
これは、どちらに答えても、神さまが御自分の限界を示したことになります。
 そこで、「神を試みてはいけない」ことになっています。

 コンピュータに命令を与える場合、くどいくらいの内容が必要です。人間は不言実行できますが、コンピューターは言葉を与えないと何も実行できません。(2005.08.17)


○おもいやりといつくしみ(つづき)


多すぎる情報と少ない価値

 私たちは、自分の考えを言葉により相手に伝えます。言葉の量よりも、確実に相手に伝わることが大切です。何回説明しても、なかなかわかってもらえず、もどかしいこともあります。
 おしゃべりな人や無口の人がいます。おしゃべりな人は無口な人にくらべ、出ていく情報量がずいぶんと多いようです。しかし、どちらの人も相手と情報交換をして、日々を過ごしていることは事実です。

 情報には、入ってくるものと、出ていくものがあります。自分を中心に考えると、人間が一つの情報処理マシンといえる活動を行っていることがわかります。
 問題は、この入ってくる情報です。近ごろは、情報量が非常に多く、価値の有無にかかわらず、怒濤のように押し寄せてきます。精力的に情報を得ようとすると、それだけで終わってしまいます。
 限られた時間の中で、集めることより、捨てるものの選択が必要になります。情報化というよりも、むしろ情報過多の時代となってきました。

 一方、いくら情報を収集しても、実態がつかめない言葉もあります。例えば「人生」です。誰もが経験をしているのですが、それぞれに違います。人生の目的は何か、つまり何のために生きているのか、本能とは何か、死んだらどうなるのか、人はどこから来てどこへ行くのか……
 もしも、このようなことを尋ねたら、相手は困ってしまいます。気の短い人なら「うるさい!」とどなり、「おれは、人生なんかに関係している時間はないんだ」と言うかもしれません。(2005.08.16)


○おもいやりといつくしみ


■言葉は、互いに意味が通じさえすればよい。
 言葉ばかり達者で愛想がいい人は、本当のおもいやりや心からのいつくしみが少ないものだ。(孔子)
(2005.08.15)


○大きいことと小さいこと(つづき2)


確実な積み上げ

 「空中を歩く術」を教える人が、おごそかに言います。
 まず、右足を踏み出しなさい。次に左足を、右足の位置が左足の高さまでに下がらないうちに出しなさい。今度は、右足を空間にある左足の高さより上に出します。
 これを繰り返せば、あなたは空中を自由に歩けます。

 しかし、実際に確かめるまでもなく、この方法は一つ一つのステップに無理があります。残念ながら、われわれの地球では実現が不可能です。別の重力の場、例えば宇宙では可能でしょう。
 このメールのサイトやグループ、そしてホームページでは、現実に可能な方法を採用しています。
 「健康」「老化予防」そして「安心立命」その他のターゲットなどを目指すときに、想定や過程が誤っていたり、一つの段階がしっかりしていないと完成をしないことがあるからです。(2005.08.14)


○大きいことと小さいこと(つづき)


■大きい世界と小さい世界

 わたくしたちは、社会の中で生活をしています。
 社会は家族、学校、会社、サークル、都道府県、国、世界など、いくつものレベルに分かれます。わたくしたち一人一人は世界の構成員であるとともに、国民の一人であり、さらに家族のメンバーなのです。
 これは、どのレベルでわたくしたちを対象とするかという区分にすぎません。社会や政治は、ブロック化することが好きですから……

 わたくしたち一人一人には、自分の考えがあります。
 その考えは、言葉で検討をしたり、表現をします。言葉を用い、大きい空間と小さい空間を、自由に行き来できるのです。
 言葉自身についても、小から大への広がりがあります。英語では、私という意味の「I」や、1つのの「a」です。これでは、表現に限りがあります。そこで、文字を続けて多くの語を作ります。例えば、「make」「program」などです。
 そして、それらの語を一定の規則で並べて文とします。
     I make a program.
も1つの文です。

 さらに、文を連ねてメモや記録、本格的な報告書や論文ができます。言葉はこのように発展し、一つの思想や知的空間を作るのです。
 ホームページもこれと似ています。しかし、もっと現実的です。言葉を用いて「健康」「老化予防」そして「安心立命」などを達成しないといけないからです。(2005.08.13)


○大きいことと小さいこと


■大きいことがしたければ、小さいことも努力しなさい。小さいことが集まって、大きくなります。小さいことをいいかげんにする人は、決して大きいことができません。(二宮尊徳)
(2005.08.12)


○相手のことと自分のこと(つづき2)


約束を守る彼

 私の知人に、いつでも約束を守る人がいます。
 彼は、引き受けた仕事や約束をしたことは、必ず期間までに仕上げました。遅れたことや失敗をしたことは、一回もありません。なぜでしょうか?
 いつもそのことが、のろまな私にはとてもうらやましく、また不思議でした。そこで、たまたま彼にあったときに、思い切って聞きました。
 彼の返答です。
 「私は、人よりも技術があるとは思っていない。ただ、自分の能力を超える約束は、どんなに条件がよくても絶対にしない」

 それだけでした。彼は、自分自身の力を知っていたのです。もっとも、彼は一流のプロですから、それが当然のことでしょうが、……
 依頼されたものを、依頼者の満足するように作ることが大切です。しかし、芸術家たちは、必ずしもそうではありません。このホームページでは、「健康」と「老化予防」と「安心立命」の確立をすることがねらいです。つまり、芸術家になるのではなく、確実に目的を達成しようというわけなんです。
 そして、そのためには、むだのない効率的な進み方をしなければなりません。なぜならば、能率の悪い作業を日々繰り返したら、大きな損失だからです。例えば、東に4キロメートル行くところを、西に4キロメートル進むのなら、むしろそこに留まっているほうがよいかもしれません。(2005.08.11)


○相手のことと自分のこと(つづき)


自分のことと相手のこと

 自分自身のことが、よくわかっていない人がいます。また、一方では自分勝手に物事を考え、相手の迷惑など一切関係なく行動する人がいます。希望が常に満たされるものと、錯覚をしている人もいるようです。
 ジェイコブスの『猿の手』という短編小説があります。
 ぞっとするような恐ろしいストーリです。読まれた方も多いと思いますが、ここにそのあらすじを述べてみましょう。

 3つの希望がかなえられるという魔法のかかった、ひからびた猿の手がありました。持ち主は、その猿の手を暖炉にくべてしまおうとしたのです。その場にいた老夫婦が、あわてて拾い出し譲り受けます。
 その晩、夫婦はさっそく「お金が欲しい」という願いをかけます。しばらくして、使いの人がやってきて大金が入ります。しかし、その金は彼らの最愛の息子が工場で事故にあい、亡くなった補償金でした。
 嘆き悲しんだ母は、今度は息子が生き返ってくることを願います。すると、どうでしょう。暗闇の中を遠くの方から、息子が帰ってきます。

 初め、大喜びをした夫婦ですが、息子が近づくにつれ、事故で大怪我をして、面影も留めないほど無惨な姿になっていることがわかります。血だらけのまま、だんだん家に近づいてきます。
 息子がドアの向こうへ来て、入ってこようとしたときです。
 そのとき、父親は最後の願いをかけました。それは、「息子が行ってしまう」ことです。重い足取りで傷だらけのまま、息子は闇の中へ消えていきます。
 これで、3つの願いはかなえられました。(2005.08.10)


○相手のことと自分のこと


■相手を熟知し、自分のことも知っていれば万全だ。しかし、相手のことがわからないと、うまくいったりいかなかったり、さらに、自分自身を知らないと危ないばかりだ。(孫子)
(2005.08.09)


○直していきましょう(つづき2)


言葉の変貌

 つい、私が作ったホームページなどと考えます。うぬぼれも、はなはだしい限りです。実際は、自分自身が考えたことなどほとんどなく、ただ見よう見まねで作っただけなのです。
 確かに、パソコンに張り付いて、一字ずつをインプットしました。その途中で、いつも不安になります。曽子(そし)が言った「よく理解していないことを受け売りで人に教えた」のではないかという心配です。
 恥や心配を考えたら、ホームページなどは作れないのかもしれませんが、……

 わたくしたちの言葉は、少しずつ変化をし、発達しています。
 遣隋使・遣唐使の派遣は、漢字をはじめ多くの文化を中国から日本にもたらしました。日本語は、中国の影響を大きく受けました。明治時代には、西洋の科学用語に対して、多数の新しい日本語が作られました。言文一致の運動もありました。この時期に、日本語は一つの変貌を遂げます。
 その後、言葉の合理化が、いろいろな方面で行われました。動植物の名前のカタカナ表記などもその例です。さらに、現代かな遣い、漢字の省略化、常用漢字の制定、JISによる専門用語の統一などがあります。(2005.08.08)


○直していきましょう(つづき)


コンピュータと私の人生

 学生時代、初めてコンピューターに接したときの感激は、いまも記憶に鮮やかです。それ以来、コンピューターに興味をもち、卒業後もコンピューター関係の仕事をしたりして、もうかれこれ50年になります。
 いっぽうでは、幼いころ片言をしゃべり、学校へ行き国語を学習し、英語を習い、さらにドイツ語を覚えました。その後、社会に出てからも、文章を書いたり、意見を発表したり、また講演や講義に出たりしました。
 実は、もう間もなく私は70歳です。少なくとも日本語を60年以上も使って生活しました。しかし、いまだに満足な文章が書けません。まったく、困ったことです。

 パソコンやインターネットに関しても、よく考えると、まだあまりわかっていないということに気づきます。ホームページも、だいたい作り方がわかったという程度なのです。技術の進歩に、ついていけないのでしょうか。
 これは、日常の言語を何年間も使用したからといって、小説がすらすら書けないことを考えると、仕方ないことかもしれません。聞き苦しい言い訳を、どうかお許しください。

 例えば、金槌(かなづち)で釘を打つ方法、鑿(のみ)で穿(うが)つこつ、鉋(かんな)のかけ方、鋸(のこぎり)の引き方などを個別にマスターしても、立派な家が建つとは限りません。
 細かいことより、肝心な家全体の設計や、部材の構築方法を熟知しないと、一人前の大工さんとは言えないでしょう。反対に、すばらしい家を設計しても、作る基本を知らないと実現しません。(2005.08.07)


○直していきましょう


「ここに言葉が作られ、でき上がっている。こうしなければいけない」などとは言いません。世間の意見にしたがって、改良しなければならないところは、直していきましょう。(ザメンホフ)(2005.08.06)


○初めに言葉(つづき2)


コンピュータの言語

 コンピュータの言語にも、さまざまな種類があります。
 コンピュータ言語は、人間の言語とは異なり、一つのソフトウエアツールなのです。それは、人間が人間の言語に似せて、コンピュータを動かすために考えた人造語です。したがって、作った人の考え方や製作目的が大きく反映しています。
 コンピュータの言語やソフトウエアは、目的の応じて使い分ける必要があります。しかし、言語やソフトによって簡単に使えるものと、そうでないものがあります。
 日本語がダメで英語がよいなどと言ったら、少々偏見があると思われます。日本語が話せず、英語しかできない外国人でも、決してそのようなことは言わないでしょう。

 いっぽう、コンピュータ言語の場合、BASICをとくに嫌う人がいました。Cでなければいけないなどと言うんです。これは、少々困ったことです。このようになってくると言語の好みは、もはや美人投票のようなもので、各自の好き嫌いや性格がその意見に大きく反映をするでしょう。
 特殊な目的の言語やソフトは、ふつう利用する人が少ないのです。

 例えば、「シーラカンスの飼育法」という本は、よほど特殊な人にしか必要がないでしょう。さらに「アンモナイトのおいしい食べ方」にいたっては、内容がどれほど優れていても、現代では実用にはなりません。
 ここでは、あまり特殊なことや専門的なことには触れずに、誰でも簡単に「健康」「老化予防」「安心立命」などのテーマについて、具体的な解決ができるように、簡単な言葉で説明をしていくつもりです。(2005.08.05)


○初めに言葉(つづき)


意志の伝達手段

 人間が言葉を使い始めてから、数十万年が経過したと考えられます。
 言葉は意志を伝達する手段をして用いられ、簡単な発生から次第に発達をしたようです。言葉は世界のすみずみで話され、さまざまに成長しました。
 言葉には、いろいろな種類があります。
 英語のような、多くの国の人々が今日用いる言語があります。また、文法の難しい言語にバスク語や、わたくしたちの日本語があります。
 非常に限られた、狭い範囲で用いられる言語は、独自の特色を残しています。また、あまり実用化されませんがエスペラントのような優れた人造語があり、あるいは民族とともに滅びてしまった言語もあるでしょう。
 言葉は事象をすべて表現しようと進化します。具体的なことから、抽象的なことまで、実に多くの事物を含みます。言葉を自由に使いこなすことにより、思索を深めたり、知的空間を作ることができます。

 明治の政治家、森有礼は教育制度の改革に貢献のあった人です。訪米の際に「日本語を英語に変えてしまう」などと言い、アメリカの学者や知識人をおおいに驚かせました。
 昭和21年、日本語の複雑さを国際間の不利とも考え、「国語をフランス語に変えてしまう」という意見を、小説の神様といわれる志賀直哉が発表しました。戦後間もないことですが、今思えば一つの混乱をした時代でした。
 ヨーロッパの征服された民族の例を見てもわかるように、言葉は少々の欠点があっても、国民の文化や思想とともに根強く生き残ります。(2005.08.04)


○初めに言葉


初めに言葉があった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとして、これによらないものはなかった。
(『ヨハネによる福音書』)(2005.08.03)


○自分を賞賛する(エラスムス)


■誰も賞賛してくれないときに、自分で自分を賞賛するのは当然のことである。(エラスムス『痴愚神礼賛』)
(2005.08.02)


○自分のために(ヒレル)


■自分で自分のためにやらなければ、誰があなたのためにやってくれるか? (ヒレル)
(2005.08.01)


Kuroda Kouta (2005.08.01/2007.09.09)