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 配信メモ(4) 2005年05月から2005年07月分


○計画倒れ? (2005.07.31)
○ノイローゼ(2005.07.30)
○久々の京浜急行(2005.07.29)
○犀(さい)の角(2005.07.28)
○日向(ひなた)の蚯蚓(みみず)(2005.07.27)
○半分ある・半分しかない(2005.07.26)
○マルクス・アウレリウス(2005.07.25)
○つもり違い(2005.07.24)
○モノレールに乗って(2005.07.23)
○アナグラム(2005.07.22)
○ニッポニア・ニッポン(2005.07.21)
○緩衝曲線(2005.07.20)
○電車の最前部(2005.07.19)
○生き物の種類(2005.07.18)
○生生生生暗、死死死死冥(2005.07.17)
○死生観(2005.07.16)
○恐るべき秘密? (2005.07.15)
○ネット中毒? (2005.07.14)
○メンテの必要性? (2005.07.13)
○チャットとメルマガの間(2005.07.12)
○身体の病気とパソコンの異常(2005.07.11)
○夏風邪のご注意! (2005.07.10)
○裸婦魔似の府と糞メル? (2005.07.09)
○天台小止観(2005.07.08)
○ふさわしくないもの?(2005.07.07)
○百舌の速贄(2005.07.06)
○がうなとみさご(2005.07.05)
○畸形の時代? (2005.07.04)
○前後不覚! (2005.07.03)
○待てど暮らせど、… (2005.07.02)
○うつらうつら病? (2005.07.01)
○困ったメール? (2005.06.30)
○エスカレートする困った問題? (2005.06.29)
○注文の多い料理店? (2005.06.28)
○冷凍人間・ガラスの城・水棲人(2005.06.27)
○アオサギ(2005.06.26)
○グリコのおまけ? (2005.06.25)
○浅き夢みし、苦と無常(2005.06.24)
○アルミ缶とペットボトル(2005.06.23)
○困ったときの神頼み? (2005.06.22)
○野川散策(2005.06.21)
○風前の灯火(ともしび)の杞憂(2005.06.20)
○眠りと死について(2005.06.19)
○二分化傾向の時代? (2005.06.18)
○「多摩の横山」の異変? (2005.06.17)
○短歌の試み(2005.06.16)
○作曲技法? (2005.06.15)
○微分方程式と複素函数論(2005.06.14)
○俳句と短歌(2005.06.13)
○ファイアフォックスとサンダーバード(2005.06.12)
○音楽の楽しみ(2005.06.11)
○レディファイン? (2005.06.10)
○キルケゴール『死にいたる病』(2005.06.09)
○私の食生活(2005.06.08)
○人参の葉と大根の葉(2005.06.07)
○自殺の原因? (2005.06.06)
○クロイツェル・ソナタ(2005.06.05)
○「三十にして立つ」(2005.06.04)
○「システム教」(2005.06.03)
○政治・宗教・哲学(2005.06.02)
○「無関心もダメ」(2005.06.01)
○「飽きちゃダメ」(2005.05.31)
○飲兵衛の散歩(2)(2005.05.30)
○飲兵衛の散歩(1)(2005.05.29)
○こくぞうむしとなめくじ(2005.05.28)
○多摩のパストラール(2005.05.27)
○てくてく歩く(2005.05.26)
○しゅりけんにしたい(2005.05.25)
○私は信仰に入った! (2005.05.24)
○地球的規模の無駄づかい? (2005.05.23)
○大倉謙二先生にお願い(2005.05.22)
○仙川考(2005.05.20)
○出歯亀なお願い二つ(2005.05.19)
○私の食生活と生活習慣(2005.05.18)
○予備がないものはない! (2005.05.16)
○私の哲学(2005.05.13)
○トキとコウノトリ談義(2005.05.11)
○裸の女性は前向きか後ろ向きか? (2005.05.09)
○玄米食は危険? (2005.05.06)
○ないものはない? (2005.05.04)
○アトピーは簡単に治るか? (2005.05.02)


○計画倒れ?(フラミンゴ)


 暑い日が続いていますが、皆さんはお元気でしょうか。
 当初は「健康」や「老化予防」に関する資料を調えて、高齢者養護ホームや一人で暮らしている人たちへのサービスをする予定でした。そして、そのためにNPO法人化を考えていたのです。しかし、会長になっていた人が亡くなったので、計画が座礁をしてしまいました。
 なぜならば、私が怠け者だったからかもしれません。ホームページのような緻密な仕事は、何となく嫌いだったからです。会長が元気だったころは、やんのやんのと言って要求を突きつけられていたから、とにかく真面目にこつこつとホームページを作り続けていました。

 しかし、ここのところ何となく意味の薄いことをしているということ自体、実はちょっとうんざりなのです。また、自分が悪いのではありますが、そそのかされていくつかのサイトの管理人になったり、1ギガバイト以上になったホームページに対しても反省をしている次第です。
 来月からは、この日々のメールやホームページの内容について、ちょっと方針を変えてみたいと考えています。いきさつ上、どうしてもやめるわけにはいきませんので、何とか工夫をして面倒でない方法を実行しようというわけなんです。つまり、横着な性格が出たんです。

 また、あまり評判がよくなかった(おまけ)なども、とくに必要のない限りは付けないようにしたいと思いました。なぜならば「本文とは関係があまりなかった」ためでしょう。このメールに「グリコのおまけ」は、必要でなかったと考える人が多かったみたい。
 なぜならば、読んでくださる人々が大人だったからです。つまり、おまけを付けること自体が、失礼にあたることには気付かなかったんです。いつまでも大人になれないピーターパンというのでしょうか、アナトール・フランセのような人は、めったにいないということも事実です。(2005.07.31)


○ノイローゼ(マレーグマ)


 動物を狭い場所に閉じ込めておくと、ノイローゼになるという。多摩動物公園の飼育係の話である。
 哺乳類などの人間に近い種ほど、その傾向が大きいそうだ。例えば、オランウータン。そこで、多摩動物公園では世界一だと言うほどの環境を整えたそうだ。メインハウスから山の上の別邸まで、延々と綱渡りをしていく構造であり、とても広い空間である。

 私の知人にもノイローゼの人がいる。
 おっかないので、その人とあまり話をしないんだ。なぜならば、急に怒り出したり、わからない意味のことを言い出すからだ。ちょっと精神的にも、不安定らしい。
 いちばんいいのは、外に向かって発散をすることである。もしも、黙っていればストレスが貯まるばかりだと思うからである。もともと彼は無口タイプだから、初めからその傾向があったかもしれない。

 メールをちょくちょくしたり、おしゃべりが大好きな人はストレスが貯まりにくく、ノイローゼにもなかなかならないようだ。なぜならば、自分をすでに相手に対しても、見せてしまっているからであろう。
 かつて読んだ「日本人とユダヤ人」という本の最初の部分に、

  <口開けて はらわた見せる石榴(ざくろ)かな>

というのがあった。うろ覚えであるので、ちょっと違うかもしれません。

 本文の内容は忘れてしまったが、この川柳はインパクトが強かったので覚えているのです。そのころキムタカの作った日本史や怪しげな日ユ同祖論のようなものに何となく、不思議な思いがしてたからです。
 そして、その本がはじめから商品として巧みに企画されていたことも学術書でないこともわかってはいたんですが、あまりにも売れてベストセラーになっていたから、つい読んでみようという気にもなったのです。


○久々の京浜急行(エイの裏側にある顔?)


 JRや井の頭線・小田急が狭軌であるのに対し、京浜急行は標準軌という。狭軌はレール幅が、1067mmである。それに対し、標準軌は1435mmだ。
 いずれも自分で測ったわけではない。
 狭軌は、前に万世橋にある交通博物館で知って、覚えていた数字。標準軌は、きのう立会川で線路の点検工事をしていた技術者に聞いた数字である。(なお、交通博物館は近いうちに廃館になっちゃうらしい。小学生のころから私は行っていたので、何とも残念である。)

 標準軌は、狭軌よりもわずか36センチ8ミリしか広くないのだが、安定があって高速が出せるそうだ。新幹線の軌条も、標準軌。(これも実際に自分自身で測ったわけではありません。)
 なぜ日本の鉄道が狭軌であったかというと、アメリカなどの国が最初に技術指導をしてくれたときに、「日本は、ちっぽけな国だから、狭軌でじゅうぶんであろう。」ということだったらしい。
 狭軌のほうが、トンネルを掘るときに工事が簡単であったりする。なぜならば、車両限界の大きさが小さくなるためである。
 むろん、その後にできた私鉄の路線では、京王のように電軌、つまり路面電車方式のところなどは安定性の問題などで狭軌より広く、標準軌より狭い値を採用している。
 しかし、京急は最初から標準機。「メチャ速いぞ」と言う友達がいたので、乗ってみようと考えたわけだ。

(注) レールの幅を自分で測ろうとしてはいけません。
 金属製の曲尺(かねじゃく)や巻き尺を使うと、感電することがあって危険だからです。電車の左右のレール間には、信号用として100ボルトの交流が流れていることが多いからです。そのような場合は、むろんショートをさせて電車がそこにいるような効果をさせてしまって問題も生じるからです。

 レールの幅や電車の仕様については、駅で聞けば教えてくれるでしょう。駅員がわからないときは、調べてくれると思います。
 もっとも聞き方によっては、何となく怪しまれるかもしれませんが、……


 品川から久里浜か京浜厨子まで乗ってみようと思ったんだが、速いということがわかったので、大森海岸で降りた。どうやら車両の加速性能が優れているみたい。そして、時間が早かったので「しながわ水族館」を見学して、区民公園を散策した。(ほんとうは、京浜川崎まで行って戻ったのだが、パスネットで問題なく改札を出ることができた。タイムスタンプが引っかかったら、理由を行って運賃を払おうとしたのだが、面倒なので黙っていた。)

 そこにはとてもよい環境があって、楽しかった。途中、高速道路下のトンネルに素敵な絵(華という題が付いていた)があったり、立会川駅前に、坂本竜馬の銅像が立っていたりしたので、デジカメに収めておいた。後日、ある人に自慢をするためである。

 帰りは、品川から上野回りで山手線を新宿まで乗り、京王線の特急で聖蹟桜ヶ丘まで戻った。しかし、加速の仕方が違うせいか、京王線ではメチャ速いという感じがなく、時速110キロで走っているときも、速さを感じさせない安定をした様子であった。

 電車の仕様は、注文によって異なるらしい。かつて姫路から乗った山陽電車である。加速の仕方が京王線とまったく同じだったので不思議に思ったら、電車が京王線と同じだということだった。むろん色などの外形塗装は異なるが、メーカや基本設計がまったく同じである。
 この日、すべて電車の最前部に乗って、…… とても、楽しい一日であった。
 でも、京浜急行では、品川駅のほぼ真南に「北品川」という駅があるのは、ちょっとばかり紛らわしいと思ったのだが。おそらく、よくある行政上の地番の関係ではなかろうか。(2005.07.29)


(注) 上のように書きましたが、ちょっと心配になってきました。そこで、きょう京王電鉄(株)本社に出向いて聞いてきました。
 すると、1372ミリメートルということです。これで、標準軌1435ミリメートルよりも63ミリメートル狭いことがわかりました。その分がハンディなのですが、それにはまったく気付きませんでした。
 そして、この軌道幅が都電の場合と同じだと聞いたのです。

 そこで、後日に王子まで行って一路線だけ残っている都電荒川線に乗って早稲田まで体験をしました。
 新宿からは、都営地下鉄の車両で調布まで戻りました。そんなわけで、都営の車両と京王線が、同一幅で相互乗り入れできるんだと再確認をした次第です。
 それは京王線自体が、電軌と言ってそもそも路面電車だった経緯から当然のことなのです。

 かつて、三越と伊勢丹のあるところ、確か角筈(つのはず)と言ったと思いますが、そこまで走っていたようにも思います。
 また、八王子市内の甲州街道上を路面電車があったようにも思うのですが、…… その電車は先の大戦のために原料として供出をして、その後は復活しませんでした。
 もっとも、その経営の母体が現在の京王であったかどうかはわかりません。



○犀(さい)の角(角のない犀)


 私の大好きな原始仏教のテキストである『スッタニパータ』というお経の本に「犀(さい)の角」という章がある。そこの冒頭には、

 <一切の生き物に対して暴力をふるうことなく、悩みを与えることなく、またその他に子女を求めてはいけない。まして、友達を求めるなんてもってのほか。犀の角のように、ただ一人で歩きなさい。>

とある。そして、さらに次のようなくだりが、続いて含まれているのだ。

 <親しい人に憐れみをかけ、心がほだされると自分の利を失う。この恐れが親しみにあることを知って、犀の角のようにただ一人で歩いていきなさい。>

 <貪ることなく、偽ることなく、渇することなく、他人を隠すことなく、濁り迷妄を除き、いっさい世間に愛着のないものになって、犀の角のようにただ一人で歩きなさい。>

 <妻子も父母も金も食べ物も、それから親族やすべての欲望までも、すべて捨てて、犀の角のように、ただ一人で歩きなさい。>

 <人々は自分の利益のために友達を作ったり、他人にサービスをする。今日、利益を求めない友は珍しい。自分の利益だけを考える人間は、何とも汚らしい。そこで犀の角のように、ただ一人で歩きなさい。>

 とても私にはできるような内容ではないが、何となくわかるような気もします。皆さんは、どう思いますか?
 なお、多摩動物公園の犀には角がありません。飼育係の人に聞いたら、ストレスがたまって、角を壁に打ち付けたりして凶暴になるので、根元から切ってしまったということです。(2005.07.28)


○日向(ひなた)の蚯蚓(みみず)


 お昼近くになって散歩をしていると、日向(ひなた)のアスファルトの上をよたよたと蚯蚓(みみず)が這っているのに出会う。唐木田の道や多摩川の堤防には、とくに多いようだ。すでに弱って、ほとんど動かないものもかなりいる。
 舗装道路に出てきて、干涸らびて死んでしまうみみず。
 どこへ何をしにいくつもりだったのだろうか。
 土の中に自分のすみかがあるのに、…… つい朝のうちの涼しいときに出てきて、帰る行程の制限時間を忘れてしまったらしい。

 私は、割り箸の古いのを数膳分カバンに入れてある。そんなときに、挟んで涼しいところや水のあるところに移してやる。干涸らびちゃうのを見るに忍びないから。前にいただいたメールにあった「茹でガエル」とちょっと似ていると思う。

 いっしょに歩いているときにそれを見て、私がみみずを箸で挟んで偽善者のようなことをして、いったい何になるのだと言った友達がいた。みみずが自分自身で出てきたのだから、死んでも仕方がないと言う。しかし、そんなもんだろうか。
 なんとなく平素やっていることで、偽善者の振る舞いがあるようだ。だから、一人で歩いているときにだけやるほうがよいのかもしれない。また、こんなことをメールに書いちゃうのも具合の悪いことかもしれない。黙ってすればよいのだ。

 でも、のたりくたりやっていて、やがて死んでしまうのは、前に見た何かを暗示していて、見ちゃいられないので、ついやってしまう。ほんとうは、もっとしなければならないことがあるのだろうが、…… それがわからないので、仕方がない。

 何となくみみずの動きの中に、ちゅうぶうになって死んだ人のことを思い出す。もたもたと全身をくねらすところなどは、まったく似た形になっているからだ。もしかしたら、私も行き場がなくなってしまって、よたよたと動いているのかもしれない。(2005.07.27)


○半分ある・半分しかない


 還暦をとっくに過ぎると、「人生も残り少なくなったなぁ」としばしば思うことがある。
 それは、高級ウイスキーの瓶が半分ぐらいになったときに「残りが半分になっちゃった」と心細く思うのと似ているんじゃないか。もっとも脳天気な私は、かなり最近までは「まだ、半分も残っている。しめしめ」な〜んちゃって、つい安心をしていたんだが、……

 ユゴーは、

 「人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ。」

と書いている。
 もっとも『死刑囚最後の日』という作品の中であるから、そのことを知るとインパクトがちょっと小さくなるのではあるが。しかし、そんなことは前に読んだ朧気な記憶でどうでもよい。
 問題は、「不定の執行猶予期間」ということだ。
 還暦の年に受けた検診の医者が言った「もしかしたら100歳くらいまでだいじょうぶ」という言葉にはショックだった。父のことや祖父のことを考えると、残りがそんなにあるとは夢にも思っていなかったからだ。

 父は、私の年で言えば今から5年前に死んでいるからである。つまり、父よりは5年も長生きをしたことになる。もっとも、健康に細々(こまごま)としたことまで注意をしているからかもしれない。身体の悪くなる箇所は、一般的にかなり限られているようだ。

 しかし、それは致命的にアウトになる箇所のことで、加齢による全体的な不都合は確実にあるらしい。それが、70歳ころから急速に現れるという。私はまだではあるが、そろそろその状態になりかかっているようで、何となく心細くなってきて心配である。

 若いころはともかく、老いてくるとバーナード=ショーの「ライフ・フォース(生命力)」やベルグソンが言う「エラン・ヴィタール(生命の飛躍)」なんてものは、まったく感じられなくなってしまう。簡単にぶっちゃけて言うと、どうやら日々の情熱と気力がなくなるらしい。
 そして、法然や親鸞の説く念仏に近くなっちゃうのは、私一人であろうか? (2005.07.26)


○マルクス・アウレリウス


 何となく先が短くなってくると、前に読んだ本にあった文章のことなどを思い出す。
 それも意識して思い出すのではなく、何かの折りに、ふと記憶が脳裏をよぎる。ちょっとそれは、事故にあって死ぬ直前の人が、過去のことを次々と思い出すというのに似ている。

 先日、上野公園の不忍池(しのばずのいけ)周辺に、あまりにも多くのホームレスの人たちが見受けられたので、ついその時の妻の質問に釣られて、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの名前が出てしまった。なぜか記憶が、ふとそこに辿(たど)り着いたようだ。

 仏典などの他にも『方丈記』や『徒然草』、そして下って『言志四録』『葉隠』などに、私を励ましてくれたり、がっくりさせるような言葉が多くある。しかし、ヨーロッパの本にもなかなか心に重く響いてくるものが多い。例えば、マルクス・アウレリウスの『自省録』である。

 <書物はあきらめよ。これにふけるな。君には許されないことなのだ。……お前は老人だ。……現在与えられているものに対して不満を持ったり、未来に来るべきものに対して不安を抱くことを許すな。>

 <人生は一日一日と費やされていき、あますところ次第に少なくなっていく。……寿命が延びても、その人の智力が将来も変わりなく事物の理解に適し、神的および人間的な事柄に関する知識を追求する観照に適するかどうかは不明である。>

 <耄碌し始めると呼吸・消化・思考・衝動・その他の機能は失われないが、自分自身をうまく用うること、すでに人生を去るべきかどうか判断をすることができなくなってしまう。物事に対する洞察力や注意力が、死ぬ前にすでに働かなくなってくるのだ。>

 <やがてミイラか灰になっちゃうから、ほんのわずかな人生の時間を自然にしたがって歩み、安らかに旅路を終えるのがよい。あたかも熟したオリーブの実が、自分を産んだ大地を誉めたたえ、自分を実らせた樹に感謝をささげながら落ちていくように。>

などとある。
 そして、それらの文章は、いつも私を愕然とさせる。

 私は、むろんマルクス=アウレリウスとは話したこともないし、よくは知らない。しかし、かつて神谷恵美子氏の訳された文庫本を読んで、政治家としても学者としても、いずれにしてもすばらしい人だと思った。そして、そのような人が、現代になぜいないのであろうか?

 そう言えば、だいぶ前に中村元氏が「心を読む」という仏教セミナーをしたときに、マルクス=アウレリウスの「尊ぶべきは……」(第6章16)の引用をしていた。そのときの話でも、仏教とスコア派の哲学には、かなり共通をするところがあるように感じたものだ。
 具体的にどんな人かわからないものの、おそらくシェークスピア「コリオレーナス」のような感じだったのではないだろうか。その芝居は、コリオレーナスがダブルの背広を着ていたり、執政官が皮のジャンパーだったりして現代風の振り付けであったものの、…… (2005.07.25)

(注) このメールについて、「スコア派」ではなく「ストア派」であるというご注意があった。調べたら、そのとおりでまったくありがたいことと思いました。
 しかし、私は今までゼノンやセネカなど「スコア学派」だとばっかり思っていました。もう、50年以上の年月です。今までに企業セミナーの講習会や学校の教壇などでも、平気で「スコア哲学」などとも言いました。

 まったくお恥ずかしい次第。ギリシア当時の「講堂」の名前が「スコア」だとばっかり思っていたからです。「スコア」は「得点」とか「相手を言いくるめること」などという、違った意味からも「ストア」と勘違いをしていたのです。
 不注意を反省するとともに、前回(2005.07.24)の「高いつもりで、低いのは教養」「深いつもりで、浅いのは知識」だなぁと思って、反省をした次第です。

 それから、くどくどとした毎回のメールをしっかりと最後まで見てくださる人もいるということがわかって、まったく感謝感激です。たいがいの人は、他人の文章にはあまり興味を持たずに、チラリと見たり削除をする場合が多いようですから、……。


○つもり違い


 ナウマン象の調査をしようと考えて、いつも見学をする高尾自然科学博物館へ行った。すると、閉鎖をしたという看板が出ている。移転でも改築でもなくて、まったく閉鎖をしてしまったということらしい。
 1年ほど前には、そんな気配はまったくなかった。ナウマン象の化石があって、とても貴重な博物館である。ホームページなども、魅力のある内容であったから、この突然の閉鎖については驚いてしまった。

 どうやら、都知事の方針かもしれない。
 私は「文学では大したことはなかったが、政治的手腕のまったくすごい人」と思った。利用者や老人のことなどは、ほとんど考慮をしない決断をしばしばするからだ。

 つい先日、上野動物園の両生爬虫類館に行ったときのことである。
 あまりにもホームレスが多いので、妻がいぶかって「都の方針や対策はどうなっているのでしょうか」と聞いた。異様な状態を不思議に感じたらしい。
 そのときも私は返答につまって、「弱者切り捨て思考の愚かな政治家がいるからそうなるので、せめてマルクス=アウレリウスの100分の1くらいの能力と心がけがある人」を都民が選挙で選ばなかった結果であろうと答えた。

 しかたないので、ケーブルカーを利用して薬王院に登ってみた。すると、修行をする坊の入り口に、次のような掲示があった。

    「つもり違い十ヵ条」

(1) 高いつもりで、低いのは教養
(2) 低いつもりで、高いのは気位
(3) 深いつもりで、浅いのは知識
(4) 浅いつもりで、深いのは欲
(5) 厚いつもりで、薄いのは人情
(6) 薄いつもりで、厚いのは面(つら)の皮
(7) 強いつもりで、弱いのは根性
(8) 弱いつもりで、強いのは我(が)
(9) 多いつもりで、少ないのは分別
(10) 少ないつもりで、多いのは無駄

 戦場で敵を味方と勘違いするのは、もはや戦いとは言えません。
 なぜならば、逆効果になるからです。『葉隠』ではありませんので、そのような常識を現在で有するのはアナクロニズムかもしれません。
 でも、西へ4キロメートル行くときに、東に4キロメートル行ったならば、むしろじっとしていたほうがよいのです。勘違いをして、逆な状態になってしまうことがしばしばあるので、気を付ける必要があります。(2005.07.24)


○モノレールに乗って


 電車の最前部に乗るのも大好きだけれども、モノレールはもっと素晴らしい。
 なぜならば、高架の走行をしているので見晴らしがよいからだ。次々と風景が変わっていくのが、何とも楽しく、いつまで乗っていても飽きない。
 私が楽しむためによく乗る多摩モノレールには、大きな川を越えたり、トンネルがあったりする。そして、走る速さもあまり早くなく、景色を見るにはもってこい。そんなわけで、用があって乗るのではなく、反対に乗るために用を作っているような感じ。

 月に数回、とくに用がないのに小川まで行くんだ。そして、音楽大学のライブラリに入ってみたりする。そこでは、CDとともにその楽譜も借りれる。こないだは、チマローザのピアノソナタを楽譜を見ながら聞いた。そんな曲が作ってみたかったからだ。

 ただ残念なことに、私は卒業生でもないし教職員でもない。したがって、一般で入るのである。一般の場合は、借り出しができないので室内の設備で聞くしかない。しかし、他の学生がいたり、ヘッドフォンで聴いたりするのだが、環境がよいので楽しい。

 帰りは小川駅から玉川上水沿いに下って、国分寺駅まで歩いちゃう。かなりの距離だが、散歩をするにはもってこいの道。まだ、何となく武蔵野の風情が残っている。つまり、パストラーレ風の郊外がそこに発見できる場所も残っていて楽しみである。 (2005.07.23)

(注) 後で地図を見て、勘違いに気づきました。
 「小川」までではなく、「玉川上水」まで行くのです。そこは、西部拝島線とクロスをしているところで、国立(くにたち)音楽大学があるんです。音楽大学のライブラリで楽しんだ後は、国分寺まで歩くのがふつうです。

 しかし、暑いときや疲れたときなどは途中にある「ふれあい下水道館」を見学して「鷹の台駅」(津田塾大学の南西角)から電車を利用して帰ることもあります。



○アナグラム


 あなたは、アナグラム(anagram)というのをご存知でしょうか?
 いわゆる「字謎」の一つなんです。
 例えば、「emit」という4文字のアナグラムは「time」「item」「mite」などがそうです。
 それでは、

   「あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの
   はひふへほ まみむめも やゆよ らりるれろ わをん」

の46文字をそれぞれ一回だけ用いて、何とか文章を作ってみてください。
 そのときに、あまり細かいことは言いません。例えば、

(1) 濁点、半濁点などを付けてもよい。つまり、「ば」も「ぱ」も「は」と同じとする。
(2) 促音も一文字とする。つまり、「努力(どりょく)」は「とりよく」と同じとする。
(3) 「づ」と「ず」なども、厳密には言わない。
(4) 「……は」は「……わ」でも、「……へ」は「……え」でもよい。
(5) 常用読みで表記をして、例えば「不平(ふへい)」を「ふへえ」と読んでもよい。

などのかなり緩い基準でかまいません。
 なぜならば、ここでは芸術作品を作るのではなく、老化予防の効果などのいわゆるボケ防止を目的としているからです。

          『健康いろは』

   健康(けんこう)で 豊(ゆた)かな毎日(まいにち)、
   努力(どりよく)すれば 自(おの)づ来(き)ぬ。
   朝日(あさひ)誉(ほ)め 空(そら)見(み)る、
   不平(ふへえ)わ止(し)せ 病(や)むも寝(ね)ろ。

 どうも、なかなかうまくできないよ〜。
 どなたか素晴らしい作品を作って、発表をしてください。(2005.07.22)


○ニッポニア・ニッポン


 いつも行く多摩動物公園のことである。
 質問コーナーがあって、動物学の専門家などがいる。大学の教授だったような人が、嘱託で入園者の質問に応えるべく常駐している。私は、ときどき質問をする。そんなわけで、向こうも何となく気安いのだろうか、ふと本音を漏らすことがあるようだ。

 カラスは動物園の運営にとって、好ましくない存在だそうだ。そこで、増えすぎないようにしているらしい。カラス小屋のことを聞いたら、ちょっと気まずそうな顔をしたが、それでも弁解がましい回答があった。カラスを罠で捕まえて、処分しているとのこと。
 オオタカは、多摩川の写真愛好家にとってヤマセミと同様、写すだけでも誉れの高い貴重な鳥。しかし、多摩動物公園ではときどきやって来て、他の飼育をしている動物にちょっかいを出す困った存在の鳥ということらしい。したがって、貴重でないと言う。

 アオサギは多摩川でも最大級の鳥。個体が少ないせいか、なかなか見られない。ダイサギやコサギなどと比べると非常に珍しいが、あるQ&Aでは、まったく別な見解。近所の高い木の上に巣を作って、ギャーギャーと鳴くのでうるさくて困ると書いてあった。
 その上、糞の臭(くさ)い臭(にお)いまでが漂ってくると言う。そんなわけで、何とか退治する方法はないかというのが、その人の質問であった。私には、まったく回答が思いつかなかった。いつも多摩川で小一時間ほど、飽かずに眺めているのだが、……
 つげ義春の「鳥飼い」だったか「鳥射し」だったか、かつて名作を読んだことがある。そこにあった調布付近の多摩川のアオサギに思いを馳せて、そんなことはまったく考えていなかったからだ。

 多摩動物公園では、コウノトリの保護と繁殖にものすごく力を入れているらしい。動物園の規模に比べて、べらぼうにその小屋の数が多くあり、またコウノトリの飼育数自体も多いのに気付く。
 私は、すでに滅びてしまった「ニッポニア・ニッポン」という何とも輝かしい学名をもった鳥のことをふと思い出した。そして、保護するかしないかは全体数の問題だとも考えたのである。ゴキブリなども絶滅寸前になると、昆虫館で保護することになるであろう。(2005.07.21)


○緩衝曲線


 関東では、例えば京浜急行などはメチャ速い。
 京王線も、スピードを110キロメートルくらい出して、かなり速い。しかし、井の頭線はそれほどではないんだ。それは、どうやら軌道の幅の関係らしい。
 井の頭線と小田急は、かつて同一系の経営路線。だから下北沢駅には、互いに改札がなかった。今はどうであろうか。中学生のころに悪いのがいて、小田原あたりから帰ってきて、通学定期で出ちゃう。このごろは、入札タイムスタンプのない切符や定期では自動改札を出られない。

 それはともかく、小田急やJRの在来線は1067ミリメートルのいわゆる狭軌である。
 したがって、スピードの限界があるらしい。JRでも一時スピード化を測るために、小田急のロマンスカーを借り出して走行試験をしていた時期がある。その車両は、車両間に台車があって、振り子車でもないのにかなり安定して高スピードが実現できたからである。

 電車の先頭に乗って前方を見ていると、カーブのところにさしかかるといつも気がつくことがある。カーブがいっぺんに始まるのではなく、緩衝曲線というゆるやかなカーブから入っていくことである。カーブが終わって直線になるときも、やはり緩衝曲線を経て徐々に直線に戻るのである。
 曲率を最初は大きくとって、次第に実際の曲率にして、直線に戻るときは逆な行程をたどる。
 つまり、大きなカーブから入って実際のカーブになるわけだ。それが、実にうまくできているので何となく見ていると気持ちまでスリリングになってしまう。ちょっと、それは「子どものやんちゃなどをいっぺんに修正するのではなく、少しずつ方向を変えていく」と言ったような感じだ。(2005.07.20)


○電車の最前部


 私は電車の最前部に乗って、前方の景色を見るのが好きだ。
 むろん、最前部といっても運転席の後ろである。右のほうが空いていないときは、運転手の肩越しに前方の景色を見ることになるが、それはそれでよい。
 なぜ、いつもそんな乗り方をするかというと、

(1) 最前部が、いちばん安全だと思うから。
(2) 前方を見るので、眼のためによい。
(3) 景色や緩衝曲線を楽しめるから。

 しかし、ホームをかなり歩かないと最前部にいけないことがある。そういうときは、必ずしも最前部に乗るとは限らない。また、電車がやってきたために途中に乗ってしまうこともある。

 以前は終点から終点まで乗ってみたり、ぐるっと大きく迂回をして楽しんだもんだが、最近はそれができなくなった。なぜならば、切符やカードに入場時のタイムスタンプが記録されるようになったらしいからである。まったく不便になったものだ。

 先日、友達が新宿で飲んで車内で眠りこけ、終点までを何回か往復したらしい。そして、出札時に引っかかってしまって改札が通れなく、くどくどと駅員に聞かれたそうだ。自動改札になって便利になったものの、時間まで管理されると逆に不愉快だったという。

 かつて、三鷹事件の現場を見に行ったことがある。そして、その車両が証拠物件として三鷹電車区に長く置かれていたときも見に行った。何となくわかったことは、2両目の前あたりが危ないんじゃないか。しかし、最近の連結棒式の車両ではどうだろうか。
 いずれにしても、居眠りをしていたり、ぼんやりとしているときの衝撃は身体にダメージが大きい。しかし、「これから衝突するぞ」とわかるのは最前部だけ。したがって、そこにいて事故にそなえて身体を防備するのが、何となく安全だと思うんだが、……

 前方を見るのは、眼の焦点距離を大きくするので、とくにパソコンをやっていたり、読書の多い人にはいいだろう。私は、ほとんど読書をしないがパソコンは午前と午後に2回、合計して一日に3時間くらいはする。最初の仲間との手前、どうしてもしないといけないのである。

 緩衝曲線については、次回にでも記そう。じつに見事な美しさをしているので、見ているだけで何となく楽しいし、あっという間のスリリングな体験ができるからである。(2005.07.19)


○生き物の種類


 生きているものだけを「生き物」と言ったら、トゥトロジー(同義反復)と笑われるだろう。
 しかし、そうでない生き物もいるんじゃないかと私は思うようになった。例えば、「石」や「風」なども生きているんじゃないか? フランチェスコの「ブラザーサン、シスタームーン」ではないけれど、何となくすべてに命があるように思えてならない。

 冗談はさておいて、ここでは動物に限って考えてみよう。
 ふつう、動物の種類は「脊椎動物」と「無脊椎動物」に分けられる。そして、脊椎動物は哺乳類・爬虫類・鳥類・両生類・魚類である。いっぽう無脊椎動物のほうは、節足動物の昆虫類をはじめとして種々雑多である。

 わかりやすく、表のような形にしてみよう。な〜んちゃって、実は多摩動物公園の昆虫園で写してきたもんだが、……(^_^;)

 脊椎動物   ●哺乳類  6000種
          ●爬虫類  6000種
          鳥類   8600種
          両生類  2800種
          魚類   20000種
 無脊椎動物  節足動物  ●昆虫類  1800000種
                  クモ型類  36000種
                  多足類   10000種
                  甲殻類   20000種
          棘皮動物  6000種
          軟体動物  130000種
          環形動物  89000種
          腔腸動物  10000種
          海綿動物  5000種
          原生動物  5000種

 昆虫については、現時点ではおよそ180万種といわれているが、研究が進むと数百万から数千万くらいになるそうです。
 なお、●は当面の私の研究対象が含まれる類なんです。(2005.07.18)


○生生生生暗、死死死死冥


 『荘子』の中に蝶の話があります。
 それは、蝶になった夢を見て「ひらひらと飛んで楽しかった」というんです。そして、目が覚めてみるとその実感があまりにも生々しかったので、「実際には自分が蝶で、人間の生活を夢で見ているのかもしれない」というような内容だったように思います。
 私たちの生命は、太古から連綿と続いているので、潜在記憶などを含めると膨大なものが生殖細胞や遺伝子に残されているのかもしれません。しかし、ふつうは忘れられたり失われたりしてしまい、特殊な場合にだけ現象が生じるのではないでしょうか。

 それはともかく、知人で私より年配の人ではあるが、最近になって「くらい、くらい」と口癖のようにいう人がいます。老いて気分的に暗くなっちゃったほかに、眼にも実際に障害があって、ここのところ白内障か緑内障で、なおさら視力が弱ってきているようだ。

 私は、空海の「生生生生暗、死死死死冥」を思い出した。
 それは、空海の『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)のはじめにある韻文で、

   生まれ生まれ、生まれ生まれて、生の始めに暗く、
   死に死に、死に死んで、死の終わりに冥(くら)し。

と読むのでしょう。
 そして、さらにそれよりも道元の『正法眼蔵』「生死」の巻にある

   生は生に任し、死は死に任す

というくだりのほうが、私には何となくわかるような気がします。
 また、道元は死生観について

   生は全機現なり、死は全機現なり。

とも言っているので、なるほどなぁとも思います。
 道元の意味は、「一瞬一瞬を生は生として全力投球し、死は死としてやはりそうするというのが何となく真実であろう」と言っているようにも思うからです。なぜならば、道元は別なところで

   生より死にうつると心うるは、これあやまり也。

と、はっきり書いているからです。

 空間の中に時間の進行が加わると、すべてのものが無常に見えます。しかし、道元のように時間を空間の中に包括してしまうと、無常もまた常住になるのです。
 ここのところ、私も現実の死が近くなってきたために、「死とは何か、無とは何か。それでは、空の概念とは?」などと、疑問は果てしなく続くようです。

 これらのことについて、自分なりに整理をしているのですが、やはりオパーリンやアレキシス=カレルなどから始まり現代に至る近代科学よりも、何となく「老荘が『無』を説くのに対し、仏教では『空』を説いている」ことから考えるのが、私にはわかりやすいような気もするのですが、……。
 前便の「精子は命」メールを下さった人のように、これに関連をしたことをご存知の場合は、今後ともいろいろとご教示をしてください。(2005.07.17)


○死生観


 死生観について
 いったい「死」とは何であろうか。それは、生が失われた状態であると言える。そんなことは当然なことで、わかり切っていることと思う。しかし、それでは「生」とは何であろうか。

 そのように、生と死を分けて考えるとわかりにくくなってしまうようだ。つまり、もともと分けられないものを思考で弁別しているからであろう。ふつうは、何となく「死生(しせい)」と言う。
 しかし、仏教ではひっくり返して「生死(しょうじ)」というまとまった概念で捉えているらしい。
 それらは、ちょうど人間を「精神の面」と「肉体の面」に分けて考えるようなものであろうか。

 元来一つのものを取扱いやすいように便宜的に分けただけであるから、やはり一方だけでは解決できない問題も多く含まれているのかもしれない。
 例えば、病気である。
 肉体に欠陥は見られないが、健康でないこともしばしばある。つまり、精神と肉体で一人の人間を構成しているのではなく、始めから全人格的な一人の人間なのである。
 それと同じように、生と死は「空」に含まれているようだ。

 「空」は、生と死が織りなすことによって生じる一つの場なのだと私は思う。一人の人間の一生を考えると、そのことがわかるだろう。生まれる前には生はなく、また一生を終えて死んでしまうと同様に生はなくなる。そんなことは、当たり前のことであるともいう。

 ここでは、蒟蒻(こんにゃく)問答をしているのではない。
 人生の残りが少なくなってきた人間が、真面目に考えているのだ。
 しかし、「生きていると考えている」一生の間にも、もしかしたら「生きていない時間」があるのではないか。…… (2005.07.16)


○恐るべき秘密?


 あなたは「ある日の午後10時過ぎ…」という「マイクロソフトのOffice」に関する広告をご覧になったことがありますか?
 それは六齣マンガなのですが、内容としては単なる二人のビジネスマンがオフィスでする意味のあまりない会話なんです。
 しかし、一人が最後に「くっそぉ〜!! いつまで待ってりゃいいんだょ〜〜!?」って言うのが、何とな恐怖を含んだ暗示的な言葉に、私には聞こえるのです。
 また、同社の他の広告でもいいんですが、問題はその人物の顔なんです。

 学説や常識は、ある時期から根本的に覆(くつがえ)されることがあります。
 かつて、ガリレオやコペルニクスの意見とは異なって「地球の回りを太陽が回っている」とか、グールモンの考えとは真っ向から対立する「神がヒトを作ったので、ヒトが神を作ったんじゃない」とか、いろんな意見が当然のことのように常識として存在したようにも思うのですが……。

 私は、かれこれ30年くらい以前から「人類の祖先は哺乳類のほかにも、ごくまれな場合に爬虫類の人の場合もある」と考えるようになったものの一人です。なぜそのように考え始めたかというと、社会現象を見ていると、私には理解しがたいことがあまりに多いからです。

 だから、その後に読んだデビッド・アイクや中丸薫のような考え方をする人の書物に書いてあることが、何となくわかるような気がしたのです。彼らは、相当な覚悟でもって自分の意見を堂々と出版物に発表をしています。それこそ、身命を顧みずと言ってもよいでしょう。

 私は、一部の祖先が爬虫類などという奇想天外な意見が、後になって単に杞憂でしかなかってということを心から祈っています。でも、最近になって世界的企業の広告という媒体を利用して、周知化を計り始めた事実が、何となく不気味で現実化をするようで恐ろしいのです。
 あなたは、この不気味な傾向の現象をどのように理解しておられますか? (2005.07.15)


○ネット中毒?


 皆さん、お元気ですか?
 ネット中毒に陥りやすい人がいるといいます。ヤフーの知恵袋などを見ていると、そんな人も何人か見受けられるので、逆に何となくうらやましく思ったりもしてるんです。
 なぜならば、私はパソコンの作業があまり好きでなく、むしろ出かけたり散歩をするのが好きだからです。しかし、雨の日などは長時間することもあるのですが、それもCDなどを聴きながらでないと飽きてしまったりするんです。

 やはり、自分の置かれている立場によって「ネット中毒」にはまりやすい傾向があるようですね。
 例えば、

(1) 時間の融通がとれる人たち(無職または年金生活者・自由業者・学生・主婦たち)
(2) 自宅にこもっている人たち(専業主婦・失業中の人たち、無職も含みます)
(3) 自分に不満を感じている人たち(克己心のある学生、受験生、サラリーマン、無職たち)

などです。
 そして、私の場合は、いずれにも自分自身が含まれているので、ちょっとばかり心配。

 客観的に見ると、浪人生・失業中の人・専業主婦たちに多いようです。
 それの人たちは、ネットに繋ぐ時間があって、自分自身の置かれている立場に何らかの不満を持っているからではないでしょうか。
 でも、このメールが行くサイトやグループの皆さまには、どうもそんな心配はなさそうで、管理人は安心をしとります。(2005.07.14)


○メンテの必要性?


 皆さん、お元気ですか?
 自動車が古くなってくると、ていねいなメンテナンスが必要です。同様に、パソコンも使っているうちに、同じような現象が生じてきます。メンテナンスをしないと、動きが鈍くなってしまったり、場合によっては誤動作をするようになってしまうからです。

 とくに、ハードディスクの中については、ソフト的なメンテが必要になってきます。なぜならば、一連の記録の内容が、クラスタやセクタなどをまたがって書き込まれてしまうからです。いったんそうなると、ディスクのアクセスが遅くなってしまいます。

 フリーソフトの「不要ファイル掃除機」などを利用して、OSやアプリケーションなどが一時的かつ勝手に作成をした「ゴミファイル」を削除しなければなりません。そうしないと、不要ファイルが多くなって身動きが取れなくなるからです。

 また、Windowsの「コントロールパネル」に用意されている「パフォーマンスとメンテナンス」にある「空き領域を増やす作業」や「デフラグ」なども定期的に行って、少しでもハードディスクの中身をすっきりさせておく必要があるでしょう。

 さらに、そのようなことは自動車やパソコンと同様に、自分自身の持ち物などについても必要になってくるでしょう。すなわち、身の回りもメンテナンスをする必要があるのです。さらに、自分自身の身体さえも、メンテナンスをしないといけません。

 つまり、適当なメンテナンスをすると、ムリな使用をせずに長持ちもするし、まぁまぁふつうの利用には問題がないような状態ですむことが多いんじゃないでしょうか。酷使をするときに、アウトになることが多いというのが、実際の結果といえるからです。
 そんなわけで、パソコン、そしてあなた自身もお大事に。(2005.07.13)


○チャットとメルマガの間


 皆さん、お元気ですか。
 このサイト、グループは気軽に会話をするところでした。しかし、いつの間にかメールをする人が少なくなってしまい、何となく管理人のメルマガじみてきたみたいです。
 親しい人の言うには、「お前のやり方がいけないからじゃん」ということです。
 もっともなことでしょう。

 でも、その人はパソコンをもっていなくて、絶対にメールをしないんです。つまり、多摩市の健康の仲間で、パソコンは市の情報公開室(VITAの7階)で見ているんです。
 そこには、10台以上のパソコンがあって大繁盛なのですが、なぜかメールができないのです。また、プリンタによる印刷もできません。
 無料で使えるのですが制限が何かとあります。初心者でも市の担当員がていねいに指導をしてくれますので、それでも有難い次第です。

 その人は、私のメールも毎日見ていると言います。そして、厳しい批判をしてくださいます。メールが見られないパソコンですが、ホームページのほうで見てくださるのです。
 そして、その人たち、パソコンについては外野席、と言ったら失礼であろうか、その人たちもぼつぼつパソコンを買い込んで、何やら始めかけた人もいるそうです。

 きっと、やってみて面白くなってきたのでしょう。そんなわけで、この「てんせいじんご」もやめるわけにいかんのです。そして、秋ごろからは本題に入っていく計画なのです。
 つまり、老いも若いも誰でもが、やがて迎える死に対して、

(1) 「転生」の問題をどう考えるか?
(2) 「人」の生命の「後」には、いったい何があるか?

などを明らかにしていく計画なんです。
 でも、宗教じゃないので、安心をしてください。

 いくら愚かな人でも、死んだ後に天国や地獄などがあるとは、考えないでしょう。しかし、恐ろしいことに、ふとしたことから私は「脳」と「心」に関する恐ろしい事実を発見したのです。
 死んだ後の心の問題、つまり意識を考えれば古来からの考えなどが、的はずれでもないことがおわかりと思います。何もかもなくなるのでしたら、靖国神社なども不要になってしまうでしょう。
 むろん、仏壇も教会のミサ台なども違った意味になってくるようです。もっとも、奥義やアルカナでは一般信者では計り知れないことになっているのかもしれませんが、……

 それについて、いま勉強中ですから、ある程度まとまりましたら皆さんに聞いていただきたいと考えているのです。そんなために、日々練習のためにこのメールを出している次第です。

 以上が私の考えです。
 皆さんも、皆さんの考えでこのサイトやグループを利用されるとよいでしょう。
 例えば、

(1) 自分自身の自慢をする。自己宣伝をしてみる。
(2) 困ったことを他のメンバーに相談して、アイディアを求める。
 さらに、
(3) あまりえげつくならない範囲で、自分の信用している商品を遠慮しながらメールでメンバーに推薦をしてみる。

などの場としての利用価値があるのではないでしょうか?
 むろん(3)はプロバイダ側で禁止をしているのですが、えげつくしなければ、情報の提供という形でOKでしょう。(2005.07.12)


○身体の病気とパソコンの異常


 皆さん、お元気ですか?
 お陰様で、私は今のところ何とか元気です。そして、2台あるパソコンも何とか元気なのです。

 現代は、「奇病と難病」が流行する時代のようです。
 かつて、ヨーロッパにペストやコレラが蔓延したように、私たちの周りには死に至る病が、何となく増えているようで不気味です。そうは、お思いになりませんか?
 問題は、いくつかの病気が身体の中で、同時に進行をしているということです。ちょうど、有吉佐和子さんの『複合汚染』のような状態が、私たちの身体で起こっているのです。したがって、結果を見る限りでは何がどうしたのかが、なかなかわかりにくいんです。

 そして、その原因の大半がすでに体内にあるということです。むろん、空気汚染のように、体外から徐々に襲ってくるものもあるでしょう。アスベストのニュースがありましたが、私が子供のころの学校の天井は、ほとんどがホモゲンホルツというアスベスト板でした。

 ここのところガンも、急速に増えてきました。
 「癌」という字を見ると「品物が山のようにある病」ということになるのでしょうか。豊かな社会なのに、品物で病んで死に至るとは、まったく不思議なことですね。

 「スタートレック」や「タイムマシン」などは、未来に外部を征服していく話ですが、現実は近未来に内部から制服され、滅んじゃうような気さえします。つまり、人間の身体がミクロコスモスであって、そこにアスベストのような無機物やウイルスのような生き物が来ます。
 したがって私は、自分の生活を何とか「口」の周りに「五隹止矢」で我慢をします。これは、京都のお寺にある蹲い(つくばい)に書いてある文字ですが、同じものを多摩センターのパルテノンにあるプールで、先日見つけました。とても、そのときはうれしかったです。

 皆さんは、いかがですか?
 繰り返しますが、ここ急速に「奇病・難病の時代」とも言われ、同時にいくつかの病気が併発して、治りにくくなっていくようです。すでに体内に入った有害な物質は、何とかして身体から除かねばなりません。その方法は、意外と簡単でちょっと努力をすればOK……

 いっぽうでは、電子メールを介して感染するウイルス(ワーム)の被害が広がってます。私は、ケーブルテレビ局の常時接続をしているので、メールでなくても、直接に「トロイの木馬」などがやってくるので悩まされます。そして、送受信がなぜできないかが不思議です。
 メールのウイルスは、差出人に知人の名前を用いたり、有名企業の名を詐称するタイプが増えてきました。ほんとうに、困ったことです。お互いに疑心暗鬼になったりする人もいるので、管理人としては大いに注意をしなければなりません。ずいぶんと手数がかかります。

 悪いことに、自分のパソコンが感染したことに、気が付かないというようなケースも多発しているようです。ウイルスの仕組みも複雑になって、ほぼ毎日のように新種が発生し、利用しているセキュリティソフトのウイルス定義ファイルが間に合わないこともあるようです。

 そんなことを恐れてはいませんが、追いかけごっこのような馬鹿さ加減に、ほとほとうんざりしています。もしも、ウイルスが検出された場合は、直ちにパソコンをインターネット回線から切り離して、ウイルスを駆除する作業をしなければならない面倒があるからです。
 どうぞ、皆さまもお身体とパソコンをお大切に! (2005.07.11)


○夏風邪のご注意!


 皆さん、お元気ですか。
 ここのところ、夏風邪が流行(はや)っています。夏風邪は、なかなか治りにくいとも言います。
 また、ウイルス性のものでしたら、潜伏期間があったり、直るまでに長期間を要したり、ちょっと注意が必要です。
 どうぞ、こじらせないようにしてください。

 高齢になっていると、風邪をバカにしてはいけません。肺炎を併発したりするからです。悪化させると死ぬこともあるくらいです。食生活と生活習慣の見直しをして、疲労やストレスにも丈夫な身体にすることをお互いに、ちゃんと考えましょう。
 お大事に。(2005.07.10)


○裸婦魔似の府と糞メル?


 皆さん、お元気ですか。
 雨模様の日が多いので、私は部屋に閉じこもりがちです。
 そんなわけで、新しいほうのパソコンで、CDの整理をしてリストを作成しました。
 ラフマニノフを出そうと思って変換をすると、「裸婦魔似の府」と出たのでびっくり。何となく「役所の名前」のようでもあるし、もっとおっかない「閻魔の庁」などにも思える。それにしても、いったい何をするところだろう? そんなことを考えたのです。
 さらに「糞メル」、「血麻呂ー座」、「酢刈るらってぃ」なども、何となく変だよ!

 フンメルはベートベン時代の有名な作曲家。私は、むしろある意味ではベートベンよりも偉大な作曲家・演奏家だったと考えているので、この「糞メル」とはちょっと意外だった。何となくメールで、お互いにスカトロジでもするんじゃないかと心配だ。
 フンメルの「ピアノ協奏曲第2(イ短調作品85)」などは、おそらく古今のピアノ協奏曲の中でも絶品であろうが、あまり演奏を聞かない。とくに、3楽章のシンコペーションがかったピアノが淡々と奏でる美しい旋律は何とも言えない。そして、ふと発見。

 ベートーベンの「ヴァイオリン協奏曲」の1楽章メインモチーフである。それが、そこにもあるのだ。どちらが、どう影響をしたのかは学者でない私が知る由もないが、とにかくその美しい旋律は互いに似通っていて、いわば姉妹関係のようでもある。
 弦を伴ってピアノがとうとうとうたうところで、不覚にも私は「鳥肌が立ってしまったり」「涙を落としそうになってしまう」こともある。そして、いつもこのような美しい旋律を作った人は、いったいどのような人物だったかに限りない想像を馳せるのだが。

 また、ピアノソナタがかなりあるのだが私の聞いた(作品13、20、81)のは、なかなか素晴らしい。それらは、ういういしいのである。「ソナチネアルバム」や「ソナタアルバム」を始めて、クレメンティやハイドンを聞いたときのような気持ちにもなるんだ。

 フンメルが有名でないことについて、私はヴィヴァルディのことを考えた。
 私がまだ中学生のころは、ヴィヴァルディの曲については、ただ2曲ほどが知られている程度であった。しかもそれは、ヴァイオリン教則本に紛れ込んだ「イ短調」と「ホ短調」の協奏曲で、単にレッスンに使うためのもの、ピアノ伴奏版としてであった。
 すばらしいファゴット協奏曲ホ短調(RV.464)を聞いて感激してしまい、次の日にCD全6巻(37曲)を買った。チェロ協奏曲を聴いたのは、だいぶ後のことだ。また、詩篇第126『ニシ・ドミヌス』を聞いてジローの想像をしたりして、楽しんだのは数年前。

 そんな意味で、イ・ムジチのしたことは大きな業績であろう。「宮沢賢治のトランク」の中を整理した人達と同じくらい、世の中に新たに喜びを与えたのだから、……
 バッハがヴィヴァルディに学んで作った曲が、いつまでもバッハの曲であったみたいに、またモーツアルトとサリエリの挿話のように、さらにはこのフンメルとベートーヴェンのように、何となく歴史の陰に隠れてしまうこともあるようだ。あるいは、永遠に。
 それでも、チャイコフスキーやヴィヴァルディは最初から変換がOKだった。

 また、先日はメールを出そうと思ってベルグソンとやった。前のパソコンでは「グ」でも「ク」でも、両方とも大丈夫。しかし、新しいほうでは「ベル愚尊」「ベル句尊」。澄んでも濁っても、学習をするまではダメ。でも、何となくお地蔵さまのような感じである。
 いかめしく難題な『創造的進化』が、何となくかわいらしいお地蔵さまのイメージになっちゃうので好ましい。そして、そんなことを考えるだけでも、結構楽しい。もしかして、そんな無意味なことをしても、脳が活性化をしてリフレッシュするのかもしれない。(2005.07.09)


○天台小止観


 「天台小止観」というのがある。でっかい「天台止観(摩訶止観)」のほうではない。
 それは、すべての悩みが解決して、清々しくなるという。そして、いつ死んでも問題がないそうだ。なかなか魅力のある内容ではあると思う。しかし、いったい、ほんとうなのだろうか。

 前に、松居桃楼の解説で天台小止観を読んだことがある。私には、わかりやすくて面白い内容だった。なぜ「解説」で読んだのかというと、その原文には、何となく抵抗があったからだ。
 それで、いま思い出して自分なりにまとめているところ。そろそろ私もお迎えがくるんじゃないかとも考え、用意をしておくためである。しかし、よくわからない。

 何となく、摩訶不思議なのである。
 天台小止観に関心のある人がいたら、教えてください。(2005.07.08)


○ふさわしくないもの?


 皆さん、お元気ですか?
 かつて『RKOホームページへようこそ!』に、「笑いの話題 健康訓」としてジョークのつもりで書き始めたのですが、ここのところ、それが私にはなぜか皮肉にも現実味を帯びてきました。そして、すっかり意気消沈をしてしまった次第です。

 それは、次のような話なんです。
 ある長者が、莫大な費用をかけて大きな屋敷を新築した。そこで、多くの人を招待して披露をすることになった。そして、その披露宴で、多くの客に豪華な食事を出して挨拶をした。

 「すべて家具や調度も新しくしました。新しくないものはありません。もしも、この家で古くてふさわしくない物があったら、どうぞ言ってください。」

 すると、貧しいなりをした聖人のような男が言った。

 「およそこの家にふさわしくないのは、あなた自身だけだ!」

 以上が、そのページからコピー&ペーストをした記述です。
 つまり、古くなってしまって全体に調和をしないのは、自分自身だけなのです。そして、自分が道具をチェンジしたのですけれど、道具一式から見ると自分が相応(ふさわ)しくなくて、チェンジしたほうがいいというんです。
 それが、老いてきた自分自身の立場と何となく似ているような気がしないでもありません。
失礼ですが、あなたはいかが? (2005.07.07)


○百舌の速贄


 「百舌(もず)の速贄(はやにえ)」という言葉がある。もしかしたら、「百舌の生贄(いけにえ)」ということもあるようだ。生贄とは、元来は生きたまま神に供えることを言う。
 百舌は「鵙」「百舌鳥」とも書き、長い尾と鉤(かぎ)状の鋭いくちばしをもつ鳥。攻撃的で昆虫やトカゲ・カエルなどを食べるが、ときには獲物を木の枝などに突き刺しておいて、後で自分が食べるのを忘れてしまうことがあるという。

 つまり、それではせっかく用意したものを放置してしまうことである。自分にとっては、まったく無用のことをしたわけだ。むろん、他の鳥に食べられてしまうわけではあるが、そのようなことをするのが百舌の習性であるから仕方がない。

 そして、私にもそれと似たことが、このパソコンに多くあるので恥ずかしい。苦労してインストールした高価なソフトや、これから使おうと考えて購入をしてセットしたものが忙しかったり、忘れてしまったりして、そのままになっているからだ。
 高性能の動画ソフトを入れてあり、「ガンダム」クラスのロボット3体と『14歳』にあったチキン・ジョージ博士の「ティラノザウルス号」みたいなのを1機作る計画だったが、練習だけをして、その後そのまま忘れていて、何もやっていない。
 そんなわけで何とか思い出して、この夏休みに整理をしてみたい。
 さらに、パソコン以外のもっている道具や衣服についても、早めにそうしたいと思う。
 少なくとも耄碌をしたり、死ぬ前には……

 しかし、その「百舌の生け贄」を探し出す作業には、重大な欠陥が潜んでいた。つまり、ほっておけば少々の損害で済むところが、考えてみると次回(明日)送信するメールのように自分自身の必要性にまで疑わしいものになってしまうんだ。
 例えば、衣服についても言えること。
 宇野浩二『蕗の下の神様』のコロボックルの話。私のはコロボックンクルとなっているが、神様が一生分の食べ物と着物をくれる。食べ物は置いてあるが、着物はない。そこで、聞くと「お前が着ているのが、一生分の着物だ」と言う。
 また、『RKOホームページへようこそ!』「安心立命とは?」の「宗教と信仰について」にある「Q(クー)のオリジナル版」。倉を建てて1年分の食料を確保した男に、神が言う。

 「……『大ばか者! 今夜あなたの魂は取り上げられる。あなたが生産したものは、いったい誰のものになるのか?』
 自分のために富を積んでも、神の目に豊かでない者は、これこのとおりだ。」

などを考えてしまうからだ。(2005.07.06)


○がうなとみさご


 皆さん、お元気ですか。
 数行のメッセージで楽しい会話がしたいと思っているのに、で〜んと長い論文のようなメールが次々とくることがある。うんざりしちゃって、見るのもいやになる。そして、「こんなところに返信メールなどできるか」という気持ちにもなるだろう。

 しかし、反対に本文がきわめて短く、URL付きのメールもある。チェックプログラムのウイルステーブルの更新をしていないときは、注意をしなければならない。本文のほうは「お元気ですか?」などと、何となく注意をそらすような書きぶり。

 20年ほど前に私が心配をしていたことが、とうとう日々の現実になってしまった。それに興味のある人で、我慢強い性格の場合は『RKOホームページへようこそ!』にある「プロフィール」を見ていただきたい。

 せめてパソコンでは、あまり肩の凝らない話がしたいと考えている人がふつうでしょう。現代は、「意味のないことが、大いに意味のある」ことなのらしい。つまり、携帯電話などと同じ感覚で、パソコンのメールを使いたい人も多くいるのだ。

 それを年配の人たちは、まったく知らないことが多い。だから、還暦を過ぎた人は、少し考えを新たにする必要があるかもしれない。なぜならば、時代は大きく変わっているからです。考えを変えないと、シーラカンスのようになっちゃうでしょう。
 いわゆる軽薄短小の時代に、ずっしりと重かったり、長々とするのは、何となくそぐわないようだ。また、理路整然と論旨を展開していくというのも、ちょっと時代錯誤であるみたい。世界は理論どおりに進んでおらず、何となく逆行しているのか、…… (2005.07.05)


○畸形の時代?


 何となく「畸形の時代」に入ったようだ。
 私たちは、少々のものを食べても大丈夫。化学薬品でも環境ホルモンでも、さらに界面活性剤などを体内に多かれ少なかれ取り込んでいる。また、放射能や電磁波など浴びても、少量ならば問題はない。しかし、それは人体の外見上に大きな変化がないということ。
 実際には、遺伝子が破壊されているのであろう。そのような場合は、生まれてくる子が畸形であることが多いのではないか。私は学者ではないし、統計を取ったわけではない。しかし、ここのところ何となく心配をせざるをえない状況になっているのではないかと思うが。

 ここからは、少しフィクションの話。
 いま、ここに「巨匠入魂の人間愛のカルテ!!『ブラック・ジャック』不思議な病気編」という本を眺めている。目次を見ると「獅子面病」「畸形嚢腫パート2」「奇胎」「木の芽」「白葉さま」「からだが石に……」「光る目」「人面瘡」「ちぢむ!!」などとおっかない内容ばかり。
 最終話の「ちぢむ!!」では「人間を小さくして食糧問題を解決するのが神の摂理かもしれない」と最後に言って死ぬ戸隠先生の言葉は、かなり切実である。そして、ブラック・ジャックが「医者はなんのためにあるんだ」と絶叫をする。何となく、人間の未来図を垣間見る。

 しかし、世界の状況を考えると誰もが小さくするのが簡便であると必然的に考えるであろう。かつて私もそう思った。嘘だと思ったら、「自己福音書」にある「水棲人」というのを見ていただきたい。

 また、上の手塚作品と同時に『ガラスの城の記録』というのも読み直してみた。これは未完の作品であるとロキさんから教えてもらったのだが、むしろそれでよかったのかもしれない。冷凍保存によって脳が異常をきたすために、札貫一家の不幸が次々と起こるからだ。
 未完の作品は、深い作者の考えがあってのことかもしれない。例えば、芥川龍之介の『邪宗門』なども、なかなか見事である。当時は該博であったことで知られた『往生要集』の作者である源信僧都のことを無能者のような書き方をしたので、展開を控えたのであろうか。

 そう言えば、『侏儒の言葉』に「卜部兼好の『徒然草』を中学校のテキストくらいの価値しかない」と言うくらいだから、芥川にはそれなりの考えがあったのであろう。私は『邪宗門』が未完であるために、想像力をたくましくして、展開を自分なりに考えることができてうれしい。
 『ガラスの城の記録』に出てくるヒルンの登場もスマートである。やはり、脳が異常になっていることを暗示させるからです。「二千年眠った女」というサブタイトルも見事。そして、札貫一郎が「そんなバカな! 二十年前に冷凍睡眠がはじまったのに」というのは劇的でもある。

 それはそうであるが、ヒルンのような女は、旧約聖書の時代にもいたようだ。高級の遊女で、「ヘタライ」と言っただろうか。もしかしたら「ベタライ」「ベベタイ」だったかもしれない。忘れてしまった。でも、「ヘブライ」でなかったことは確かだ。誰か知っていたら、教えてください。
 記憶にはっきりしていないのだが、「旧約聖書」の「ソドムとモゴラ」が記述されているあたりだったとも思うし、またソロモンの詩でシバの女王がやってくるあたりだったかもしれない。いずれにしても、我ながらあやふやな記憶で、何となく耄碌をしてしまったものだとがっくりだ。

 ここからは、ちょっと現実のほうに戻った話。ヒルンとは、ちょっとシチュエーションが違うのであるが、やはりフィクションの類(たぐい)かもしれない。
 それは「うつろ船の女」というタイトル。
 享和三年癸亥の二月二十二日に常陸の国の浜に丸くなった船状のものが流れ着いた。それは、長さ三間あまりで、上部に硝子がはまって松脂で固めてあった。そして、「その中には一人の婦人ぞいたりける。」とあって、その婦人の姿図がうつろ船の形とともに示されている。
 その女は、眉と髪の毛が赤く、肌の色は白かった。そして、二尺四方の箱を大事そうに持っていたのである。しかし、婦人は生きていて、元気ではあっても言葉が通じない。そこで、仕方なく役人たちは相談をして、ふたたび女をうつろ船に乗せ、船で沖まで運んで捨てたという。
 何とも残酷な話ではあるが、ヒルンのことを考えると、それが正解かもしれない。

 ここからは、サイトやグループの皆さんが教えてくれた話。
 イラクへ派遣された自衛官が、放射能汚染のために、その生まれた子が、手の指が2本しかないなどと言う。蟹のようだ。そういえば、ベトちゃんやドクちゃんのことなどを思い出させる。放射能や化学薬品は、大きな図体の人間に対して、少々のことで身体に変化をもたらさない。
 しかし、それは当人のことであって、次の世代には畸形をもたらすのが普通である。なぜならば、遺伝子を修復できないほど傷つけているからでしょう。だから、女性が妊娠をしたときには大事にするのです。昔から、日本ではそのような素晴らしい習慣があったのだが、……

 私は、放射能や電磁波などに注意をしている。そんなために、電子レンジや携帯電話なども使わない。また、化学薬品、界面活性剤、環境ホルモンなども体内に入れないための工夫をしている。自分自身のために。おそらく、私も妻も今後さらに子孫を増やすことはないのだが。(2005.07.04)


○前後不覚!


 皆さん、お元気ですか。
 次のような相談が多摩市在住の高齢者(71歳)の人からありました。
 その人が言うには、…… むろん、起きているときは、意識がはっきりとしている。そして、散歩に行ったり、買い物をしたり、また友達に会って話をしたりする。
 しかし、ここのところ床について眠ると、何となく問題があるという。
 それは、意識が宇宙に溶け込んだ状態とでもいうのであろうか、前後不覚になってしまうらしい。ちょっと、前のメールの「うつらうつら病」の状態とも、心の状態が似ているようだ。

 だから、寝ているときだけは、もしかしたら病気なのかもしれないともいう。その理由は、身体が脳のコントロールを離れるからではないか。眠りが全体に浅くなったことも、その一つの原因なのかもしれない。
 むろん、夢などもみる。しかし、その夢はフロイトの言う「願望の充足」なんていうものでは決してない。
 むしろ、「なりたくないことの実現化」なのである。なぜならば、自分自身が生きているのか、死んでいるのかわからないほどの混沌状態になった夢が多いからだ。
 気分もうつらうつらして、いったい自分自身がどこにいるかもわからない状態である。
 そして、はっとして目が覚めて、現状に戻るのである。そんな状態になるようになって、かれこれ1年になるとその人はいう。

 私も、その体験が何となくわかるようにも思う。なぜならば、似たようなことがよくあったからだ。
 いったい、何なんだろうか? 私は医学にうといので、何となく次のようなことをしている。
 つまり、眠るときに水枕をするのである。昔ながらのダンロッブのゴム製のものである。アイスノンでもよいかもしれないが、…… それに、水を入れる。そして、頭の下に敷いて眠りにつく。ときには、おでこの上に乗せてみるのもよい。そんなことをしてみると、何となく落ち着いてきて安らかな眠りができるようだ。
 水だけだと、すぐに暖まってしまうので、少量の氷を入れてもよいだろう。
 夜に寝られないのは昼間も疲れちゃうので、工夫をして安眠してください。
 お大事に。(2005.07.03)


○待てど暮らせど、…


 ここのところ、パソコンの動きが前よりも何となくのろのろとしてきた。
 まだ「我慢の限界?」ではあるが、そのうちに「待てど暮らせど…」になりそうである。
 皆さんのパソコンは、いかがでしょうか。

 起動するときも、かなりの時間がかかる。そして、終了時もそうだ。また、メーラーの起動にも、ずいぶんと時間がかかってしまう。
 40ギガバイトの半分しか使用していない、わずか20ギガバイト弱分のノートパソコン内のハードディスク全域ウイルス検査に1時間半もかかる有様になってしまった。

 何とかならないものだろうか。
 高速のパソコンに変えないと、もはや直らないなのだろうか。
 皆さんは、どのように考えていますか? (2005.07.02)


○うつらうつら病?


 皆さん、お元気ですか。
 いよいよ七月である。七月は文月(ふみづき)とも言って、文章や手紙を書く月ともいわれる。また、恋人どうしが逢う月でもある。織り姫に牽牛がまみえるからです。とにかく月が変わって、気分が新たになる。
 しかし、ここのところ気になることがあります。医学的には、「うつらうつら病」なんていうのがあるかどうか、私は知らない。しかし、注意をして見ると老いも若いも、それにかかっている人がかなりいるみたいだ。
 症状というのか、その特徴は「とにかく眠い」そうだ。いくら寝ても、昼間つい「うつらうつら」と眠くなる。電車の中で座ったりすると、すぐにその症状が出てしまう人もいるという。起きていられないのである。

 いったい、それはどうしたことであろうか。
 また、何が原因なのでしょうか。
 もしかしたら、体内に化学薬品、環境ホルモン、界面活性剤などが蓄積してしまったためかもしれない。なぜならば、それらは身体に大きな負担をかけるからだ。つまり、それだけですでに重労働なのである。
 いま、私はそのことについて調べているところです。
 もしも、皆さんの中に詳しい知識をもっている人がいたら、教えてください。(2005.07.01)


○困ったメール?


 朝一番でパソコンを起動したときに、私はウイルステーブルの書き換えをする。
 面倒ではあるが、ここのところメールの中に悪意のものが、かなり含まれてきたようだ。そんなわけで、メールを受信する前にテーブルを更新しておかないと、できたての新種ウイルスには対応できないからである。安全を考えると、仕方のないことだ。
 本当は、メールを受信するたびに事前にテーブルを更新するのが好ましいのであろう。しかし、そこまではできない。だから、朝一番にすることにした。

 考えてみると、最近になってウイルスのテーブルが膨大な大きさになっているようだ。
 先日やったときは、「ウイルス定義ファイル」が何と「6886KB」もあった。その結果、メールを開くだけでもチェックのために、急激に長い時間がかかるようになってきた。そのうちに、遅い処理速度のパソコンでは、数分もかかるようになってしまうことだろう。
 そして、そんな対策を仕方なく、CPUの高速化で解決しようというのは、何ともバカみたいな話だと思いませんか。
 ここのところ、「インターネットセキュリティ」の更新が、ほぼ毎日のようにある。つまり、新種のウイルスが日々増えているので、そのテーブルを更新しなければならないためです。まったく、これは煩わしく馬鹿馬鹿しい作業である。生産的作業でないからだ。

(注) この直後にしたNorton Internet Security の LiveUpdate では、2022KBであった。
 そのときのメッセージは、次のようになっていた。しかし、何故か何となく同じことを2回しているようでもある。

次の更新版が見つかりました:
> Norton Internet Security URL 更新、1741.4 KB
> Norton AntiVirus ウイルス定義ファイル、281.1 KB
ダウンロードの合計 2022.5 KB

Norton Internet Security URL 更新 (1 / 1) のダウンロード中。完了。
Norton AntiVirus ウイルス定義ファイル (1 / 1) のダウンロード中。完了。

Norton Internet Security URL 更新 (1 / 1) のインストール中。完了。
Norton AntiVirus ウイルス定義ファイル (1 / 1) のインストール中。完了。

LiveUpdate セッションが完了しました。



 さらに、「Windows」自体の更新までも頻繁にある有様。
 そんなときに、何をどうしているのかがわからないままに、仕方なしに指示どおりするしかない。
 そして、「インターネットセキュリティ」の更新途中に「仮想メモリの最小値が低すぎます」などという思いもよらないメッセージが出たりする。そんなことを考えて、あらかじめハードディスクの半分以上も空けてあるのに、まったくひどすぎる話だと思う。
 いったい、どんな設計になっているOSかとも疑いたくもなる。少なくとも「マルチタスク」・「マルチユーザー」をうたっているからには、もう少しスマートであって欲しい。「ハングアップ」や「待ち時間」の多いのは、ユーザー側にかなりの損失を与えるからです。

 私は、ふと顔や身体の原型をとどめないほどに整形をして、そんな状態で何とかスーパースターの地位を築いている人と、このパソコンのWindowsというOSを作った世界一の会社の状態が、基本的には何となく似かよっているようにも思ったりした。
 そもそも、ウイルスなどはわざわざチェックプログラムを購入してインストールしなくても、本来はOS本体内部で処理をすべきものであろうに、……
 そうは言っても、次のようなことも考えられるのではないでしょうか。
 もしかしたら、日本中のパソコンを破壊しようという企画者がいるのかもしれない。つまり、サイバーテロのターゲットに、すでに日本がなっちゃったのかもしれない。あまりにも執拗なウイルスの蔓延は、単に愉快犯の仕業ではないようにも考えられる。

 そんな背景の日々の中で、皆さんは、どのようにやっておられるでしょうか?
 メールに関して、これからは新たな考え方をせざるをえない。
 ご参考までに、いままで私のところに来たウイルス付きの困ったメールをご紹介しよう。

(1) 本文が短くて、URLなどが付いている。
 そのURLをクリックすると同時に、アウトになるようだ。
(2) 親しみやすい口調の文章、なれなれしい語り口である。
 例えば、「ご機嫌いかが?」とか「元気かい?」というのでウイルス付きがあった。
 そして、不用意に軽い気持ちでURLをクリックさせようとする。
(3) 形としては、私が2年前に恐れていた『青空の入門・創作ページへようこそ!』の『HPの作り方入門』にある「ウイルスチェックについて」の「ウイルスの困った問題」で心配したような「プロバイダを装った」操作や開封に紛らわしいタイプのものが増えてきたことだ。
(4) それでも、まだ本文自体にウイルスを組み込んだものの来信はなかったようだ。
 そんな意味で、メール本来の初期設定であるHTML形式のメールも危なくなってきたようだ。おそらく、今後はそのようなタイプが増えてくることでしょう。

 なお、上記(1)と(2)についてはクリックをすると変なサークルの有料会員になっちゃうタイプのものもあるので、注意をしていただきたい。
 また、ウイルス全体の詳細については(3)を参照してください。「トロイの木馬」などを初めとした実際の対処方法などが画面図でコメントされています。
 お互いに注意をしましょう。(2005.06.30)


○エスカレートする困った問題?


 いつ頃からパソコンのウイルスが盛んになったのだろうか?
 ここのところ、何とも煩わしい問題である。メールを受信すると、何通かのウイルスが紛れ込んでいるからです。
 ウイルスに関しては、『RKOホームページへようこそ!』の「回想創造法」にある「仕込まれたウイルス」が、基本的な理解の参考になるかもしれません。

 あまり生産的な活動とは考えられないが、それは仕方のないことでしょう。いつの世にも変わった人がいて、愉快犯のようなことをするからです。その人は、もっと別の生産的なことをすればよいことを自分では知らないのです。
 私のところには、1日に200通くらいのメール来信があります。そして、その中に、ふつう10通くらいのウイルス付きが混ざっています。また、常時接続をしている関係で、トロイの木馬クラスのすごいのが週に数回もやって来ます。
 そのようなわけで、サイトやグループの皆さんに問題を生じさせないために、管理人として私は、いつも下記のような注意をしています。

(1) ウイルステーブル更新は、1日1回以上行う。第1回目のメーラーを開く前には必ず行う。万一、新種のものに引っかからないようにするためです。
(2) メーラー付属のアドレス帳は使わない。自動的にアドレスを登録してくれますので、定期的にすべて削除をする。つまり、アドレスを登録しないのです。
(3) フリーソフトから、なるべく画像や音楽などを気軽にダウンロードしない。なぜならば、ウイルスを潜ませたものがあるようです。そんな注意もします。
(4) このメールのように、できたらテキスト形式で送る。むろん、送信の前にウイルスチェックをしていてOKなのですが、相手側が心配をするといけないので、管理人としての配慮をする。HTMLを疑わしく考える人もいるからです。
(5) 添付ファイルを用いるのを避けて(これも相手側のことで、まったく心配ないのですが、疑い深い人もいるので)、別にハイパーリンク方式を用いる。

 ウイルスの一種にスパイウエアというのがあります。すでにご存知のことと思いますが、個人情報などを特定の場所に送るためのソフトです。つまり、ユーザのパソコンに対して、常にスパイ活動をするのです。
 似た言葉に、アドウェアというのもあります。これは、ソフトのインストールをすると同時に侵入をします。フリーソフトに多く含まれるタイプで、無料で使用される代わりに、ユーザー側の活動などを調べるのです。
 今後も、いろいろと手の込んだものが出回ってくるようです。
 注意をして問題にならないようにしなければなりません。(2005.06.29)


○注文の多い料理店?


 ホームページを作り始めて、何とか2年が過ぎた。
 その間、最初に考えたほどの訪問者もなかったし、また勉強になったこともほとんどない。ただ、うんざりするような手続きと、面倒くさくて、あまり意味のないことを非常に多く覚えたことは事実。
 覚えたと言っても、そのほとんどを忘れてしまっただろう。しかし、記憶力の弱い私は、安心のために後のことも考えて、すべてメモっておいた。それが、自分自身に今でも大いに役立っている。

 思ったよりも、手数の割りには効果のない広報だと反省している。それでも、今後の発展があるんじゃないかとも考えながら、少しずつではあるが、何とか手直しをしたり、追加をしている次第だ。
 最初のころの勢いこんだ情熱は、飽きっぽい私にはすでにないが、……

 何となく株や相場に手を出した客が、営業マンから「いまやめると、今までのことがすべてムダになっちゃいますよ」と言われて、助平根性でだらだら続け、最後はすってんてんになる場合と似てる。
 店開きをしても、閑古鳥が鳴くような流行(はや)らない料理店のようなもの。お客の来店にそなえて、材料を仕入れたり、仕込みをしたりしているものの、期待したほど客はなかなか来てはくれない。
 そんな塩梅で、たまに客が来たりすると、逆に客に注文をする「注文の多い料理店」になりかねない。「注文のない料理店」は得てして、そんなものになる危険性と可能性をもっているのではないか。

 前に、そんなおっかない宗教があったようにも思う。
 また、それとは別に『先生の言葉』にある次の文章を思い出す。
 なお、ここに記述をする『先生の言葉』は『RKOホームページへようこそ!』の「安心立命とは?」ににある「宗教と信仰について」から『Q(クー)のオリジナル版』の一部をコピーしました。
 しかし、いわゆる宗教ではありませんので、ご安心を!

 「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったので、彼は僕(しもべ)を客人のもとに遣わして言わせた。
 『さあ、もう用意が整いましたので、お越しください。』
 するとみな、言い訳を口にし始めた。最初の者は彼に言った。
 『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください。』
 別の者は言った。
 『牛を二頭ずつ五組買ったので、調べます。どうか、失礼させてください。』
 また、別の者は言った。
 『新婚ホヤホヤなので、行けません。』
 僕は帰ると、このことを主人に報告した。
 すると、家の主人は怒りを爆発させて、僕に言いつけた。
 『さあ、すぐに町の通りに出て行き、見かけた者を手当たり次第連れて来るのだ。』
 そこで、僕は通りに出て行き、見かけた者を集めて、連れてきた。こうして、その家は客人でいっぱいになった。」

 「自分が呆けないために」とか何とか言っちゃって、大手のQ&Aサイトに出かけたり、フリーメールの管理人をしたり、手当たり次第連れてくる僕(しもべ)が何となく僕(ぼく)の中にもいるようなので、まったくいやになる。(2005.06.28)


○冷凍人間・ガラスの城・水棲人


 私は最近になって、いちおう原則として本を読まないことにしている。
 しかし、平山峻氏の『二〇五〇年 冷凍人間の朝』という本を読んだ。帯には、<最先端医療が考える、2050年の現実に、人間が託すべき未来は、本当にあるか?>と書いてあるのだが、……。
 また、まえがきの部分に日野原重明という人がわかりやすい推薦の文を書いている。そして、平山氏の医学上の経歴とともに、一方ではクリスチャンであることを書き添えてあったので、興味を覚えた次第。
 なぜそんな本を読んだかというと、親しくしている先輩の親しい友がその著者で、贈呈を受けて読んでくれということであったからだ。私はそのことよりも、医者でクリシチャンである著者にちょっと関心がある。
 それは、ルカの場合などと同じような論理なのだ。
 そして、その本は私にとっても、とても面白い内容だった。

 前に読んだ手塚治虫の『ガラスの城の記録』というのも面白かった。しかし、その2巻以後の内容は読んでいない。したがって、知っている人がいたらストーリの展開を教えてください。
 つまり、平山氏の本の内容は、何となく手塚作品の実話的近代版に書かれているので、文章が平坦ではあるが興味深い。むろん、編集者による修正がされているだろうが、文の表現が上手でないことも魅力。
 ついでながら、手塚治虫の本は私の手持ちのものでは、初版発行が昭和51年(1976年)。その1巻の表紙カバー裏に、<一九七一年−−人類は冷凍睡眠による長寿法に成功したが、それは脳細胞を破壊する危険なものだった。一代で財を築いた札貫札蔵一家は、すでに邸内に冷凍睡眠室を作り、ケースの中で眠っていた。
そして、二十年後……。巨匠がSFの世界に仮託して描く、人間の愛と憎しみの大河ドラマ!>
とある。

 なお、いただいた平山氏の本の第一刷表示は、1999年になっている。
 手塚治虫は医学を専攻した人なので、30年前に現代一線の医学者と同じ内容のものが書けたので、さすがと思った。もっとも、いずれもフィクションの域を出ない創作なのであるが、……
 同じような設定で、医学には関係のないど素人が書いたものがある。『RKOホームページへようこそ!』の「自己福音書」ページにある『水棲人』というタイトルの短編小説。

 この『水棲人』には、セミプロ級アナウンサーの朗読が付いています。したがって、本文を見ながら朗読を聞くこともできますし、朗読だけでのヒアリングも可能です。
 医学の知識がないから冷凍のことは知らない。また、基礎がないから設定が非常に安易である。それでも、何となく設定スケールが平山氏の本よりは、かなり大きいのではないかと思ったりもした。
 手前味噌、我田引水ではあるが、……
 超プロが作ったものであろうが、専門の学者の著作であろうが、それを読むよりも自分の考えを入れる余裕があるもののほうが、私には楽しい。(2005.06.27)


○アオサギ


 きょう、多摩川の散歩をしていたら、珍しくアオサギがいた。
 狛江当たりの川幅の広いところでは見かけることが多いが、関戸橋や京王の鉄橋付近にはあまり来ない。
 さらに上流に行って、浅川の日野市清掃部辺りにはよくいる。
 関戸橋のすぐ下にいたので、うれしくなってデジカメで撮影した。

 400万画素のデジカメ(2272×1704ドット)で撮ったものから、384×288ドット部分を切り出した。そのために、ちょっとボケてしまいました。
 もともとこの大きさでは、この分解能だからです。でもなんとか望遠などの技法を利用したつもりなんですが、……
 実際には、カメラから120メートルほど離れた川の中流にある中州の手前にいた。ダイサギやコサギ、そしてゴイサギなどとくらべると、かなり神経質なので人のそばには来ないようだ。

 もっと、うまく撮影する方法はないものだろうか。また、ボケの修正方法や補正のやり方などを知りたいとも思う。
 Paint Shop Pro 9というのがインストールしてあるんだか、まだ使い方がわからないんだ。(2005.06.26)


○グリコのおまけ?


 「グリコのおまけ」をご存知でしょうか?
 まだ、私が子どもであったころは、マラソンの選手みたいなデザインで「一粒○○○メートル」と箱に書いてあったと思う。しかし、その後その記述がカロリー的に問題になって、変更をしたようだ。つまり、実際に1粒を食べて、必ずしも○○○メートルを走ることができたということではないらしい。

 とにかく、「おまけ」が付いていて、それがとても楽しみで買ったものだ。飴そのものの味は、別に言うほどのことはなかったと思う。その「おまけ」という概念は、老人になっても喜ぶようだ。何となく、ほのぼのとした感じもあるが、いっぽうでは意地汚く「老醜現象」の一つになったのかもしれない。
 「老醜現象」については、『RKOホームページへようこそ!』の「老けないために」にある「なぜ人は老化をするのでしょうか?」に説明があります。

 また、「グリコ・チョコレート・パイナップル」というのもあった。やったことがある人もいるでしょう。ジャンケンをして、「グー」で勝つと「グリコ」と3歩進み、「チョキ」で勝つと「チョコレイト」と5歩進み、「パー」で勝つと「パイナツプル」と言って6歩進む。もしかしたら、歩幅が違っていたかもしれません。

 やはり、私がまだ小学生のころに「紅梅キャラメル」というのがあった。これは、野球選手のカードがおまけに付いていて、そのカードを1チーム分集めると、賞品がもらえた。それが、また大きな楽しみでもあった。ようやく1チーム分に揃えて、その工場まで交換をしてもらいによく行ったものだ。
 それは京王線の「桜上水」が、まだ「京王車庫前」という駅名であったころのこと。駅から北へちょっと行って甲州街道を越え、玉川上水の右岸にその紅梅キャラメルの大きくもない工場があった。しかしその後、なくなってしまったようだ。大人になってから、「紅梅キャラメル」の名前を聞かない。

 玉川上水の反対側には、「ムラキ部品」という自動車用品の卸会社があって、ガソリンスタンドなどにアクセサリなどを配達していた。当時、私の同級生の父親が社長だった。やがて、社長が死んで同級生が社長になったのであるが、その後は知らない。もしかしたら、やめたのかもしれない。
 何が言いたいかというと、「おまけ」という言葉の魅力についてである。
 あなたは、「グリコのおまけ」について、どんな思い出をもっていますか。
 そんなことで、今後はこのメールでもなるべく「おまけ」を付けることにしました。(2005.06.25)


○浅き夢みし、苦と無常


 『平家物語』や『徒然草』などに書かれている仏教的(?)無常観は、ちょっと異なっているように私は思う。なぜならば、そこにある無常観は「ただ世の中のはかなさを詠嘆しているだけで、感傷にひたっている」ように、私には思えてならないからだ。
 あなたは、いったいどのようにお考えでしょうか?

 なぜ私が、そんなことを考えるかというと、ここのところ、かなり以前に読んだそれらの書物の疑問点を解決しておきたいと考えたからです。そしてさらに言うと、私も人生の残りが少なくなって、死に近づいてきたので、この辺で信仰を確立したいから。

 若いころに何となく惹かれたキリスト教も、老いてくるとちょっと親しみにくさと戸惑いを感じてきた。そして、やはり仏教の教義のほうが、自分に合っているような気がし始める。もしかしたら、それらの宗教が発生をした地域の風土のためかもしれない。
 宗教とその地域性や風土には、かなりの関係があるんじゃないでしょうか?
 前に読んだ和辻哲郎の本に、そんなことが書いてあったような気がする。日本とは多くの自然条件が異なっている砂漠に生まれた宗教には、日本人には考えられないようなことも含まれているようだ。割礼などの習慣も、水に関する問題なのであろう。

 人生も残り少なくなって、膨大な量の本を読むのは面倒だ。前に「旧約」と「新約」を一気通巻して読んだときは大変だった。キリスト教もそうであるが、仏教にも膨大な経がある。「スッタニパータ」や「サンユッタニカーヤ」などから始めてすべては読めない。
 三蔵法師が天竺(インド)から(中国へ)持ち帰った仏教の経典でも、35部5048巻とも言う。
 いずれにしても、目も悪くなっちゃった自分には、読める量ではない。そこで、知っている人に教えを請うのである。それは、ヤフーの「知恵袋」に学校の宿題をそのまま質問する中学生と同じでん。ときどき回答者が、「自分で調べろ」と説教をしている。

 旧約39書、新約27書は読むだけでも大変なので「Qの福音書」つまり『先生の言葉』というタイトルにして、かつてサマリーを自作してみた。それからは、それを読んでイエスを理解しようと努力した。だから、その後は読むたびに大いに感動をしたものだ。
 もしもご関心があれば、『RKOホームページへようこそ!』の「安心立命とは?」にある「宗教と信仰について」の「Q(クー)のオリジナル版」を見てください。

 いま、仏教についても信仰を深めるために、テキストにまとめようとしている。
 その方法として「三学」のうち「慧学(えがく)」を中心にして、まず人生の真実を知る。そして、そこから「四法印」へと進み、中でも「諸行無常」と「一切皆苦」を極めたい。なぜならば、そんな方法が仏教の真実に迫る最短コースであると、私は考えたからだ。
 そして、さらに「苦諦(くたい)」として「四苦八苦」を確認し、いっぽう「道諦(どうたい)」としては「八聖道(はっしょうどう)」に進んでいくという100ページくらいのマンガ入りのテキストにしたいと思う。そんな中で、私はかねがね不思議に思っていることがある。

 一般的に、日本における仏教の考え方は、ちょっと悲観的になりすぎているのではないか。
 「苦」は、もともと「苦しい」という意味ではない。「四苦八苦」というように「思うようにはいかない」ということだ。したがって、たまたま「苦」という文字を翻訳のときに割り当てたので、その結果「苦しい」という概念になるのである。つまり、行程が逆だったのだ。
 「無常」も「あわれ」とか「はかない」とか「わびしい」などという意味ではない。それは、単に「あらゆるものが絶えず変化をしていく」という事実をただ平然と述べただけ。その中には、むろん「あわれなどの無常」もあるだろう。しかし、あわれそのものではない。
 もともと、仏教での意味は「あらゆるものが絶えず変化をしていく」から「それに対応して、力強く生きなければならない」という意味合いのものであったらしい。

 ただ自分なりに、心安らかに死ねればいいと考えて始めたことである。つまり、自分なりの安心立命の確立がしたいのだ。むろん、妻も何となく関心をもっているみたい。また、仲間の中でも自分自身の信仰に、かなりの疑問を持ち始めている人もいる。
 イエスや日蓮のようなエキスキュルーシブな宗教には、老いてくると何となく信仰が揺らぐのかもしれない。そんなことが、死んだら「無」の状態に戻って宇宙に溶け込むという私の「安心立命」との理念からは、ちょっと親しみやすさを欠いていると言える。

 つまり、他を認めないという考えは、老いてくると受け入れがたいということがわかったんだ。
 ここのところ、なぜか日本人全体が何となくムードや勝手な考え方で物事を処理する傾向にあるらしいので、ここに皆さんの意見を聞きたいと思う。
 いったい、どういうことなのでしょうか。(2005.06.24)


○アルミ缶とペットボトル


 アルミが多量に体内に入ると、アルトハイマー病になると言った人がいる。
 さらに、環境ホルモンなどが体内に入ると、相乗的に健康には好ましくなくなるらしい。
 そこで私は、缶ジュースなどをあまり飲まないことにしている。
 アルミ缶の忌諱のほかに、アルミホイールもなるべく使わない。ついでながら、我が家には電子レンジがないのだ。だから加熱するときに使うことはない。分子レベルの加熱が、人間の遺伝子にどのように作用するかが私にはわからないので、使用を見合わせているわけだ。

 さらにまた、ペットボトルもなるべく飲まない。
 ペットボトルの場合は、二重のデメリットがあるからだ。いわゆる中身は死に水である。「アルプスの湧水」を詰めたと言っても、法律で定められている煮沸をしてしまえば、いわゆる源水ではなくなってしまう。それは、ヒトが昔から飲んできた「生水」ではなく「死に水」なのである。
 つまり、人類が過去から数万年にわたって飲んできた水とは違った種類の水分を近年になって飲み始めたわけだ。遺伝子レベルでは、それに慣れるだけ変化をまだしていないだろう。
 もっとも、フランス製の「エビアン」などは法律が異なるので、煮沸をしないで源水のままだと言う。しかし、カルシウムを多く含んでいるので、健康にはあまり好ましくない。そのカルシウムは内蔵に結石ができやすくなるので、私は飲まないことにしている。

 アルミ缶の場合は「その入れ物」に、ペットボトルの場合は「その中身」に、どちらかというと問題があるのではないか?
 一般的に、「喉越しにうまい」というのと「健康によい」というのは、まったく違ったことだと思う。
 気持ちがいいのが、必ずしも健康によいとは限らないことは、例えば麻薬などの薬物を考えたらわかるでしょう。
 しかし、「そんな考えは、杞憂である」と知人は私にいつも言う。
 いったい知人が言うことのほうが、正しいのだろうか。(2005.06.23)


○困ったときの神頼み?


 皆さん、こんにちは。お元気ですか?
 お陰様で、私はとても元気ですが、実は心配なこともあって、高幡不動尊で護摩をたいてもらいました。そして、ついでに(と言うと失礼ですが)サイトの皆さんのご健康とご発展も祈願しました。勝手な振る舞いで、ご迷惑かとも思いましたが、いちおうご報告をしておきましょう。

 私は、20年くらい前からベジタリアン(と言っても完全菜食者ではない)なのです。
 また、学生時代からそれなりの信仰(義の教師イエスの系列、共観福音書の立場と似ているが、原始仏教にも共通する)に入っていますから、いつも心が平安なのです。
 そんなわけで、市の定期検診を受けたときに担当医師が検査の結果を見て「もしかしたら、100歳くらいまで生きるかもしれない」などと、冗談を言うんです。だから、脳梗塞や心筋梗塞は大丈夫、心不全や交通事故がなければ、そうかもしれないと自分でも思うようになりました。
 なぜならば、ガンもいつの間にか治ってしまいましたし、危ぶまれていた前立腺もなかなか出てこないようですから、……

 しかし、ここのところ自分自身の重大な欠陥に、何となく気付き始めたのです。それは、「アルトハイマーがかってきている」のではないかということなんです。そこで、親しい医者の先輩に相談をしたら、何と真面目な顔で彼が言うには「厄払いか、呆け封じをしろ」とのことです。
 どうも、冗談のような忠告なのですが医学の専門家の言うことですから、それなりに何らかの意味があるのでしょう。そんなわけで、仕方なく高幡不動尊に行って、護摩をたいてもらったんです。平日ですいていましたが、太鼓がでんでん鳴ったりしてなかなか荘厳な儀式でした。(2005.06.22)


○野川散策


 先日、仙川の水源地について武蔵野市境一丁目のように言ったら、小金井市だと言う人がいた。確かに2万分の1の地図で見ると、小金井市の貫井北まで書いてある。そして、始点から通りを越えると東京学芸大学があって、そこはもう小平市である。
 そう言えば、前に車で通ったときに公団の小金井団地の中に仙川の標識があったことを覚えている。なぜ、先日そのことを思い出さなかったのだろうか。おそらく、疲れてしまったんで歩くのがいやになって「自己防禦のからくり」が働いたためであろう。

 そんなために、野川も再確認しようと思って出かけた。野川の水源は、一つは中央線を越えて日立の中央研究所ということを知っていたからだ。また、もう一つは国分寺(武蔵国分寺跡)の「真姿の池湧水群」である。前に何回か行ったので経験ずみ。
 だから、そこまで行って文化保存館と万葉植物園に行き、文化財資料展示室を見学して、府中まで歩こうと考えたのである。が、どうも歳のせいだろうか、そうならなかったのだ。つまり、始点から下流に向かうことにしたんだ。そのほうが楽だから。

 京王線飛田給(現在は、味の素スタジアム前ともいう)で降りて、武蔵野の森公園と調布飛行場の横を通って、てくてくと歩く。もと米軍が関東村と行ったところだ。南側の甲州街道には、東京オリンピックのときのマラソン折り返し点の記念碑がある。
 さらにアメリカンスクールの横を抜けて、野川公園の二枚橋に出る。この辺りは、戦後米軍やGHQが大いに利用をしたところ。キリスト教大学の大きな敷地も何となく政策的。また、かなり長い間、水栽培の野菜を作っていたり、牛の牧場などもあった。

 つまり、日本でできる野菜には蛔虫の卵が付いていて不衛生なので米軍は自作をしたのだ。また、牧場を作って牛肉やミルクまでの占領政策。そして、食料の自足をしなくなったらゴルフ場になって、さらに米軍がいなくなったら都立公園になったのだ。

 野川の水は非常に少なく、ところどころで河床が乾いていた。むろん、伏流水は流れているのだろう。しばらく行くと、再び水があるからだ。二枚橋から三鷹の天文台くらいまでは、ずっと国分寺崖線(がいせん)と並行していて、そこから大きく離れてしまう。
 暑い日だったので、シオカラトンボと赤トンボがいた。赤トンボはアキアカネのようだったのだが、もしかしたら季節柄違う種だったのかもしれない。リンドウに関するooiwさんのメールがあったが、突然変異がこの地区で起こっているのかもしれない。
 リンドウに関しては「ゲストルームアネックス」を見て欲しい。「見て欲しい」と行っても、そこに入るにはJavaの起動やホットメディアのセットがあるので、う〜んと時間がかかってしまい、間が抜けた感じがするので、ちょっと我慢してほしい。

 佐須の祇園寺まで行って、そこから引き返して調布に出た。佐須用水に並行して流れている「逆川」を確かめたかったのだが、埋められてしまってわからなかった。その川は、季節によって流れが反対になったりするという珍しい川であったらしいから。
 そこから、調布まで出て電車で聖蹟桜ヶ丘まで帰った。駅に隣接しているので電車に乗ってしまうと、帰りは楽だ。それでも、地図で実測すると9キロメートルほど歩いたことになる。しかし、川を下流に向かって歩くのは、上流に向かうよりもはるかに楽。(2005.06.21)


○風前の灯火(ともしび)の杞憂


 最近になって、「とても疲れやすく、どうも忘れっぽい」という人が多くなったようだ。そんなことが、よく話題になったりする。また、私の回りには「ここのところ名前などが、なかなか思い出せなくなった」とグチる人もいる。
 むろん、度忘れは誰にでもある。高齢者には、致し方のない現象でもあろう。しかし、それが頻繁になってきたときは、ちょっと注意をしたほうがよいかもしれない。また、何事にも「飽きやすくなってしまう」のも付帯現象。
 おそらく、身体に何らかの異常が起きているのかもしれない。まず、考えられるのはグルミューが機能しなくなっていることだ。そのために、基本的な代謝などが働かないのであろう。そして、全身に不調をきたすのだ。

 それは、「風前の灯火」のような状態に、循環器系がなっているのかもしれない。つまり、体内に養分を運搬する機能が損なわれている心配がある。化学薬品や環境ホルモン、そして界面活性剤などが影響するらしい。
 学問的に検証をしたわけではないが、そもそもラットの実験でOKだからヒトにも大丈夫というような短絡的なわけにはいかないのではないか? そんなわけで、私は用心をして安全側に自分をもっていく努力をしている。
 結果が出てからでは遅いからである。むろん、後で考えたら杞憂であったというようなことが多いかもしれない。それでも、いいんだ。自分の判断で行ったことであるから、それのために反省をしても、後悔はしないでしょう。

 例えば、「電子レンジを使わない」とか「携帯電話を持たない」というと、せせら笑う友達がいる。そう言えば、20年前に自動車をやめたらバカにされた。でも、バスに乗ったり、引っ越しのときにレンタカーを利用したりはする。
 妻が言うには、私が「大型免許証と自動二輪の免許をもっているので、運転をしないのはもったいない」と言う。しかし、私には、その理屈がわからない。もっているものを使わないのが、必ずしも愚かではないと思うからだ。
 むしろ、不必要なものにまで次々と関わることのほうが、貴重な人生の時間のムダ使いと思うんだが。私も人生の残り時間がだんだんと少なくなってきたので、つい考えちゃう。皆さんの場合は、いかがなものであろうか? (2005.06.20)


○眠りと死について


 『徒然草』第三十九段に、

 <或人、法然上人に、「念仏の時、睡にをかされて行を怠り侍る事、いかがしてこの障りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、……>
 とある。
 そして、さらに

 <往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり>
 <疑ひながらも念仏すれば、往生す>

と続く。
 いったい、これはどういうことであろうか。
 私は、ふと「ある疑念」をもったのではあるが、とても恐ろしくてここには書けない。

 ここのところ、知人が「睡りが浅くなった」とよく言う。
 例えば、TamaさんやUdaiさんである。実は、私もそうなのだ。
 また、妻のグループの高橋さんも夜に3時間くらいしか眠れないので、昼間に眠くなってしまって困っていると言うそうだ。
 睡りは、脳が休息をするためにあるのだと言った学者がある。
 睡りの分断化については、あまり心配をする必要がないのかもしれない。
 なぜならば、誰でもレム睡眠とノンレム睡眠を小一時間ごとに繰り返しているので、あまり気にすることはない。眠れないという人であっても、結構眠っているはずである。そのように、私はいつも自分自身に有利な考え方をするので、能天気だと妻に笑われる。

 睡りには個人差があるので、一概には言えないところにも問題がある。
 もしかしたら、睡りは「夢」と関係があるのかもしれない。
 ソクラテスやパスカルは、睡りと死を関連づけて考えたようである。
 そもそも一日に8時間も眠らなければいけないなどと、誰がなぜ言うのであろうか。
 睡りは食事などよりも、もっと個人差が大きな問題だと思う。脳がそれぞれに異なるからだ。
 ナポレオンは、一日に3時間くらいの睡眠でじゅうぶんであったとも言う。

 まとまりのない話になってしまった。
 最初に意気込んで言おうとしたことを、恐ろしくなって途中でやめちゃったからかもしれない。
 ごめんなさい。(2005.06.19)


○二分化傾向の時代?


 若い人たちはそうでもないだろうが、高齢者の間では何となく「無気力・無感動の部類」もあるようだ。何だか、目までトロンとしている人が増えてきたみたい。いっぽうでは、ますます元気のいい高齢者がいるのだから、すっかり二分をしてしまったようだ。
 それは、さもあろう。
 仲間たちが、次々とダウンしていく。つまり、自分自身の健康や意欲を損なってしまったからではないか? フレッシュでエネルギッシュな人は、まったく少なくなってしまった。そして、循環器系障害やガン悪化によるほかに、奇病・難病も増えてきたみたい。

 まだ死に至ってはいないが、その初期状態として「身体がだるい」「身体が重い」「やる気がしない」「すぐ疲れちゃう。疲れやすくなった」「何事もするのが億劫だ」などと言い始める。また「あまり多く食べられなくなった」「なかなか眠れなくなった」なども多い。
 それは、もしかしたら人生が終わりかかっている信号なのかもしれない。自分自身で自分自身の身体を支えきれなくなったり維持できなくなると、後はゆっくりと死に向かうのみ。ふつう、ゆっくりと死に向かうのではあるが、急速に衰えて死ぬ人もいるようだ。

 もっとも、そのような人はむろん若い人にはなく、還暦を過ぎた人ばかりだからだろう、……
 仏典の『スッタニパータ』にあったと思う。屠所にいる家畜が、順番を待って牽かれていくように、次々と死におもむく。それは、いたしかたのないこと。
 どこに隠れてもダメだ。山奥に隠れても、地下室に隠れても、また誰もいない南海の孤島に隠れてたとしてもダメだろう。死は、どこまでも追いかけてくるからだ。そして、必ずいつかは捕(つか)まってしまう。およそ、捕まらない方法などはないのかもしれない。
 でも、老いてくるのだから、仕方のないことと言って単純に諦められるか。

 『RKOホームページへようこそ!』の「老けないために」の「なぜ、人は老化をするのでしょうか?」にある「サムエル・ウルマンの『青春』という詩」のようには、わかっていても普通人には、なかなかいかないものらしい。ちょっと発想の転換をすればよいのに、……なぜだろうか?
 私は、40歳代からウルマンの『青春』を心がけてはきたのだが、……
 いっぽう市のパソコン情報室に行くと、利用者のほとんどが若い人。いつも高齢の仲間たちの質問に応えるために行くのだが、やりながら若い人の観察もする。すると、ずいぶんと意欲的なことをやっているのがわかる。若いということは何ともすばらしいことだ。

 いつの時代にも、若い人たちは元気がいい。
 やはり、世代は交代していくのであろうか。(2005.06.18)


○「多摩の横山」の異変?


 <多麻河泊尓左良須弖豆久利佐良左良尓奈仁曽許能兒乃己許太可奈之伎>(万葉集 巻第十四 3373)
 <阿加胡麻乎夜麻努尓波賀志刀里加尓弖多麻能余許夜麻加志由加也良牟>(万葉集 巻第二十 4417)

 いったい、これはなんじゃい?
 実は、またやっちゃったんだ。
 いくら金があって豊かな生活をしていても、死は逃れられない。それどころか、裕福な人ほど特急券をもっているようだ、と。私の辛辣な言葉に、仲間は辟易しているらしい。そこで、鉾先を反らすために、上のことも含めて弁解をしておこう。

 例えスーパースターのような元野球選手でも、人気横綱になったような相撲取りでも、食べ物によって循環器系に欠陥が生じたり、消化器系のガンになったりしてアウトになる。「食生活が豊かであるほど、その危険は大きいのである」と言っちゃった。
 私のところは、30階ほどの高さがある超高層。したがって、てっぺんのフロアに上がれば、かなりの範囲が見渡せる。すると、救急車が頻繁に走っている区域がはっきりする。もっとも、パプパプ音だけでも、それがどこかわかるのではあるが、……

 それは、「関戸」という待避線もない田舎駅を「聖蹟桜ヶ丘」という駅名に変えて、特急まで停車をさせて大規模に京王が分譲をした高級住宅街。桜ヶ丘○丁目という地番をもっているところ。そこは、今でも閑静な佇まい。しかし、世代が高齢化をした。
 会社の重役などが住んでいるらしい。すでに引退をしているが、私の知人も数人いる。何でも京王の社長も、その一角にいるそうだ。前にピアノの演奏のことでお願いをした素敵な先生もいる。美人ではあるがお嬢さん育ちで、とてもわがままだった。

 そこの人達の間で、どうやら異変が起きているようだ。70歳前後の人が、次々と倒れているらしい。救急車が寒い日の明け方などは、1時間に4回くらい。ときには、2台が来ている。つまり、ひっきりなしに運ばれていく。場所がら、交通事故ではない。

(注) 「多摩の横山」を削って作った高級住宅街のモデルは、東急線の田園調布であったという。


 さて、冒頭に掲げた最初の和歌は、

 <多摩川に さらす手作り さらさらに 何ぞこの児の ここだ愛(かな)しき>

となる。
 私がいつも散歩する調布あたりの多摩川を豊嶋郡の黒女(くろめ)という婦人が読んだものである。そして、その流域がだいぶ変化をしたり、すでに布をさらしたりはしなくなっているが、相変わらず川は流れていて、万葉の面影を偲ぶことができる。

(注) あとで調べたら黒女が歌ったのは、後の「多摩の横山」のほうの和歌だった。ごめんなさい。
 その歌の後に「右一首豊嶋郡上丁椋椅部荒虫之妻宇遅部黒女」とあるからです。
 なお、「多摩川」の歌は違った作者の作品らしいのが九首あって、最後に「右九首武蔵国歌」とコメントが付いている。


 二番目の和歌には「多摩の横山」と歌われている。私の窓から南に一望できるところにあった小高い連山であったろうに、団地や高級住宅街のためにざっくり切り取られて、裾野だけを残して平らになっちゃった。だから、その面影はほとんど残っていない。
 だからを連発して、だからここでは読みだけを示しておこう。
<あかごまを やまのにはかし とりかにて たまのよこやま かしゆかやらむ>
やっぱり、これは何じゃいみたいだが、ご勘弁を。(2005.06.17)


○短歌の試み


 ホームページの作成を誰も引き受けないままに、お鉢が私に回ってきて、押しつけられたのが2年前。初めに考えたように、なかなか大変だった。今度は、短歌のセミナーをするという。そしてまた、誰もいなので「お前がやれ」ということだ。
 あまり短歌には詳しくないのに、さらにケーススタディ方式でして欲しいという要求。つまり、高齢者でも最初からある程度わかりやすく体験ができる方式でないと、長続きがしないということらしい。ちょっと無理かなと思うが、他には誰もいない。

 しかし、読み慣れた宮柊二の『自選歌集』や誰かの『サラダ記念日』などをテキストにして、「ここは技巧的にまずいので、こう直しなさい」とか「この歌は、愚劣な表現だ」などということは、いくらあつかましい私でも、ちょっとばかり言いにくい。
 また、この短歌は「なかなかよくできている」とか「それなりにリズムが整っている」などと誉めても、ちょっとまずいだろう。そこで、考えてしまった。主に高齢者(若い人でもいいんだが)が対象だが、初心者たちが学ぶテキストだからである。

(注) 『サラダ記念日』は俵 万知さんの歌集です。高齢者のグループの人たちは、最近の短歌界の情報にうといので作者のお名前を省略しました。


 そんなことを考えてみたら、私もかつて10歳代の初めから20歳代の半ばころまで、ちょっと短歌に親しんだことがある。そこで、そのときの作品を利用することにした。「ここがまずい」とか「これは幼稚だ」などと、じゃんじゃん言えるからだ。
 その歌集は、多摩市立の図書館にも置いてあるし、原稿がワープロで打ってあったので、ちょっとデザインを変えて、そのまま利用できた。そして、あつかましくも『青空の入門・創作ページへようこそ!』に「やさしい短歌入門」として、貼り付けてみたのである。

 考えてみれば50年以上も前のことであるから、何とも自分自身で見ても変なものである。作品というよりも、ぐどぐどと気持ちを綴った感じ。それで、入門者が作品の中に「欠点」や「問題」や「表現の不適切」を指摘するには、もってこい。
 それでも、ちょっと勉強をしようと考えた。そして、前に土岐さんだったと思うが、サイトに入会することを勧めてくれたことを思い出した。付け焼き刃のようになるが「短歌の試み」というサイトに入って、今風の作り方を覚えてみようと思っている。

 でも、自作したものが何とか利用できるので、新たに作らずにすんでやれやれ。
 年をとると、何をするのも面倒になってくるようだ。
 間もなく、死ぬのだろうか?(2005.06.16)


○作曲技法?


 2年前には、ホームページのBGM(バックグラウンド ミュージック)をすべてCDからコピーすることを考えた。そこで、著作権などのことを市のパソコン相談員に尋ねたら、無断で使うと問題があるという。何でも、いちいちJASRACというところに届け出て、何がしの費用を払うらしい。
 また、古い曲でも演奏をした人の権利があるので、ふつうそのまま使うわけにはいかないとのこと。いろいろ聞いてみると、簡単に考えてCDをそのまま自分のホームページに使い、トラブルや訴訟が生じている人もいるらしい。私は、人と論争をしたり、喧嘩をするのが大嫌いである。
 だから、面倒であったが自作自演をすることにした。つまり、紙に平行線を5本書いて、それにオタマジャクシの音譜を一つずつ書いていったんだ。結構それは、やってみると面白かった。

 そんなわけで、何とか12曲ほど作ってみた。そして、妻を初めとしてあまり上手ではない素人の自称ピアニストが手分けして弾いた。タダで問題がないから、仲間たちも使っている。最近になって「俺も作るから教えろ」という人が出てきた。しかし、教えるほど音楽のことには詳しくないので、ちょっと困った。

 そんな意味で、仕方なくシャンソン風のものや浜崎あゆみが踊っているような曲を作ろうとしているところ。しかし、作曲はなかなか気が向くまで始められないので面倒である。
 いままで考えたり、クラシックの教科書を真似て何とかやったメモが、『青空の入門・創作ページへようこそ!』の「BGM 作り方扱い方」なんだ。いちおうクリックをして演奏が聞けるようになっているので、関心がある人は見て(聞いて)欲しい。

 素人の作るものは、そんな程度であるが、それでも作らないよりはマシだろう。また、年寄りが若い世代の感覚をもっていないというのは致し方がない。そんなわけで、何とかナウイ曲を作ろうとして頑張っているんだ。でも、すべて我流であるから、結果的に変なものができるかも、……。
 皆さんは、BGM どうしていますか?(2005.06.15)


○微分方程式と複素函数論


 どうもここのところ度忘れが激しい。もしかしたら、すでに耄碌をしたんじゃないかと心配。人名や書名、つまりものの名前とその実態との関連付けが、だいぶ怪しくなってきたみたい。我ながら、まったく困ったことだ。
 若い時代には決してそんなことはなかったんだが、いつごろからのことであろうか。きっと体内に化学薬品や環境ホルモン、そして界面活性剤などを一時的ではあるが、大量に入れてしまったためかもしれない。

 学生時代には、いろいろな思い出がある。そして、その中でもいちばん強烈に悩まされた記憶が、微分方程式と複素函数論。いま思い出しても、うんざりするほど複雑で、馬鹿に難解だったという感じだけが残っている。
 でも、無事に卒業をしたのだから、それらも何とかマスターして、試験に通ったはずである。もしも、試験がダメであったら追試験になったり、落第したのであるから。今となっては、その内容自体をまったく覚えていない。

 サイン・コサインだけでも結構面倒なのだが、ハイポブリックサインとかハイポブリックコサインがあって、まったく複雑だった。しかし、卒業をして実社会に出てからは、それらを一度も使ったことがない。
 そう言えば、学校で習ったことを社会に出てから有効に活用した覚えは、あまりない。せいぜいブール代数をコンピューター設計のときに、利用をした程度だ。学校のときは、わざわざ「記号論理学」と言ったように思う。
 しかし、ブール代数などは桁上がりもなく簡単な約束なので、ことさらに学校で教えなくても、必要なときにちょっと勉強をすれば、わかってしまう。嘘だと思ったら『RKOホームページへようこそ!』の『インターネットの入門』を見て欲しい。

 いつも思うことだが、頭の訓練だけをするのならともかく、もっと実用的で有効なことを学校で教えたらいいのではないか。いくら科学が進んで、広い範囲になったからと言って、上っ面だけをなぞるようなやり方は意味がない。
 一年間に4キログラムの化学薬品を食べて、3万人以上の病人がいる国、そんな国にならないようにしてほしい。健康で満ちあふれた、健全な考え方、そして明るい将来が老若男女、すべての国民にあまねく欲しいものだ。
 私はすでに歯と目がダメ。これは死ぬまで治らないであろう。微分方程式の代わりに「ハをダメにしない方式」、そして 複素函数論の代わりに「メ論」などの講座があって、選択ができたらよかったなぁと思うんだが、……。
 さらには、テレビなどで「健康によい」と言っているが「実際には逆効果の食べ物」、そして「好ましい生活習慣」として紹介されるが「実際は具合悪くなる習慣」などを「それヤッチャだめ学」などとして教えてくれると有難い。(2005.06.14)


○俳句と短歌


 古来から、俳句や短歌の形式をもつ短詩形がある。五七五(ごしちご)の音感や三十一(みそひと)文字の魅力だ。そして、そのファンはものすごく多いらしい。
 だから、俳句のサークルや短歌の研究会などが目白押し。新聞の日曜欄や一般雑誌などにも、必ずといってよいほど定番。そこで、そんな形の情報交換や互いの鑑賞も有効だろう。

 多摩川に乞田川・大栗川が合流するところ、警察犬の訓練場がある。そして、そこに

   <この柵に入るべからず警視庁>

というのがあった。
 また、

   「いろいろと思案をすれば僕たちが、生きていること自体が不思議。」

のように文章でも、何となくリズムをもつこともあるようだ。

 近年になって情報量が増えたために、必ずしも素晴らしい場所へと人が集まらなくなりました。それでも、自分自身の趣味と同じものをもった場合、それなりに興味を示す人が多いようです。
 そして、その代表的なものの一つが俳句、川柳、和歌、短歌などと考えたからです。Tamaさんのような人生の先輩に対して、老婆心のようなアドバイスすみません。
 失礼をお許しください。(2005.06.13)


○ファイアフォックスとサンダーバード


 <結婚……それから思いがけない幻滅、妻の口臭、性欲、虚飾! それからあの死んだような勤め、金の心配、こうして一年、二年、十年、二十年と過ぎていったが、−−すべては依然として同じである>(トルストイ『イワ゛ン・イリッチの死』より)

 メーラーを変えたいと思い「シュリケン」なども検討してみた。しかし、どうも単純な私が使うにしては、かなり複雑すぎるようだ。また、加入しているサイトにも、どうやら経験者がいないみたい。
 そこで次に、有名な「サンダーバード」を検討してみようと考えた。ついでに、ブラウザも「ファイアフォックス」にしてしまうつもり。だが、やはり勉強するのは面倒なので、誰かに聞いてしまおう。
 なぜ、そんな横着を決めこもうとしているのか?
 前に「インターネットエキスプローラ」の代わりに、2つのブラウザを検討したことがある。一つは「モジラ」という名前で、もう一つの名前は忘れてしまった。そのときに、いろいろとやって1ヶ月近くの日数を費やしてしまった。しかし、いずれもバグが残っていたので不採用。

(注) 後で思い出したのであるが、もう一つのブラウザは「Opera」というのであった。
 ここのところ度忘れが頻繁。もしかしたら、耄碌したのかアルツハイマーじゃないかと、ちょっと心配です。


 そんなわけで、もしも経験者がいたら教えてください。
 最初から付いていた「インターネットエクスプローラー」と「アウトルックエキスプレス」の問題には、ずるずると今まで付き合ってきたが、辛抱強い私にもやはり我慢の限界がある。
 もっとも、自分自身の責任でも、自分自身の無分別から始まったことであるから、誰にも文句の言えないことである。そんなことはわかっているのだが、わかっているけどやめたい。
 それは、現在の妻に多大な忍耐と遠慮と不愉快を強いられていることと同じで、自分自身が選んだので勝手にやめるわけにもいかずに、しかたがないと諦めているような状態だ。
 よろしく。(2005.06.12)


○音楽の楽しみ


 無料で楽譜がダウンロードできたり、その音楽の一部が聞けるサイトがある。
 皆さんは、ご存知だろうか? いつも私は、そのサイトをありがたく利用させてもらう。そして、感謝をしている。一例として、

http://icking-music-archive.org/

である。
 そして時間があるときは、そのサイトを見て、数多くの作曲家の楽譜を見たり、音楽を聞いたりするんだ。そんなことをしていると、とても楽しくて、あっという間に1時間ぐらいが過ぎてしまう。まったく、夢中になれる時間だからだ。

 とくに雨が降っていたりすると、どうしても散歩に行けない。そんなときは、本、と言ってもマンガが多いが、を読んだり、CDやレコードを聞いたり、あるいはパソコンをする。そして、パソコンでも大好きな音楽を聞いたりもするんだ。

 もっとも、残念なことに、すべての曲があるわけではないから、聞きたい曲がないこともある。それでも、そんなときは別の再発見ができたりして、とてもうれしい。ずいぶん奇特な人が運営しているサイトだと、つくづく感心をする。
 皆さんも、いかが?(2005.06.11)


○レディファイン?


(1)
 先日、実に妙なことに気付いた。いつもの散歩コースでのことだ。
 住んでいる公団賃貸住宅のすぐ裏が大栗川、そこから下流に向かっていつも歩く。すると1キロほどで、乞田川(こったがわ)に合流する。その乞田川をさらに1キロほど下ると川幅が広くなって、多摩川の本流に注ぎ込む。

 その乞田川のこと。具体的には、多摩記念病院の手前のゆるやかな流れである。そこに「大栗川」と国土交通省の標識が出ているのだ。地図には、ちゃんと「乞田川」と書いてあるのに。念のために地元の人に聞いた。
 すると、昔から「乞田川」と言ったそうだ。だから、公式の標識を立てた位置が間違っているか、名称が変更になったのかもしれない。さらに、もしかしたら1本の川の右岸よりと左岸よりに、別の川が流れているのだろうか。

 「乞田川」というのは、何となく変な名前であるが由来がある。
 「昔、農民が殿様に願い出てもらい受けた荒れ地を水田にしたので、乞田という名前にした。そして、そこを流れているから乞田川なのである。江戸時代のことか。

 つまり、同じ川に2つの名前が付いているのかもしれない。そして、役所の部署ごとに都合のよいように呼ぶんじゃないのかとも思った。また、役所の標識にも「乞田川」となっているものと「大栗川」となっているものがある。

 川の改修工事がなされる以前は、もしかしたら並行をして多摩川に注ぎ込んでいたのかもしれないとも私は考えたのであるが……
 ご存知の人はいるだろうか?

(2) 義姉に聞かれた「納豆に「国産大豆100%」と書いてあるのは、本当でしょうか?」という質問。
 値段から類推すると、考えられないことである。私が常用している納豆の4分の1の値段だから、もしかしたら国産でないだろう。

 そこで、「その記述は省略をしてあるようだ」と答えた。
 何が省略してあるかと聞くので「中」という文字を省いたらしいと言っておいた。そして、その国に行けば正しく「国産」なのであるから、その国でした印刷と考えるべきか。

(3) 必ずしも名前が内容を表すものとは限らない。
 「○○民主主義共和国」と言っても、民主主義による共和国でない国もあるでしょう。それは、ちょっと「クレタ人が、クレタ人は嘘つきじゃない」と言うのと似ている構図なのである。

(4) 戦後まだ混沌とした時代のことである。昭和22、3年のころのこと。
 三鷹市の南端、調布市の北端のかなり広い場所を勝手に「新川600番地」とした。いま杏林大学病院、航空宇宙研、そして消防研から丸池のあった辺りまで。

 全体で80ヘクタール(約25万坪)もある土地だが、そこにちらほらと農家が点在するだけであったから、問題はなかったのでしょう。今のように一戸建ての民家やマンションが密集していまうと、そんなことがあったとは考えにくい。

 しかし、その後しばらくして行政によって確定をしたようだ。行政は、何でも決めるのが大好きであるからだ。それは、何となく『星の王子さま』に出てくる話のようだ。次々と決めていかないと、することがなくなっちゃうからでしょう。

(オマケ) かつてプログラマだった時代に「レディファイン」という命令があった。つまり、1つのデーターに複数の名前を付けて、どちらを使ってもよいというマクロ命令。今でも、COBOLのDATA DIVISIONで使われているみたい。(2005.06.10)


○キルケゴール『死にいたる病』


 前のメール「自殺の原因?」で、つい「死に至る病」と言ったら案の定、先輩から「君は、キルケゴールの『死にいたる病』を知っとるのか?」と言われた。そこで「これはまずい!」と思ったものの、次のような説明をした。数人の仲間がいたので、仕方なかったんだ。

 もっとも『死にいたる病』からの引用は2つほどで、残りはこのメールのために手控えを見て写したんだが、…… どうも哲学は苦手で、そうならないように「自殺の原因?」メールには、書名と違う言葉の「死に至る病」としておいたんだが、わかってしまったらしい。

 以下はうろ覚えな、ちょっといいかげんな説明だが、このメールは哲学のサイトにも届くので、詳しい方がいたら修正やご教示をくださることだろう。

 私は、いつもパスカルとキルケゴールには手を焼いている。なぜならば、『パンセ』と『死にいたる病』は、いずれもキリスト教を基点に考えているから。
 パスカルはそれでキリスト教の理解を、キルケゴールはキリスト教の論理から作品を理解させようとしているらしい。しかし、私はキリスト教に関して、あまり勉強をしていないし、自分で作った『先生の言葉(Q資料)』くらいしか、内容を覚えていないからだ。

(1) キルケゴールは、デンマークの哲学者。むしろ、宗教思想家といったほうがよいかな。現実のキリスト教や教会を批判して、純粋な生き方を追求したようだ。

 虚弱な体質ながら厳格に育てられ、その父がかつて神に対して自分の貧困をグチったり、女中に自分を生ませたことを知って、罪の意識にずいぶん悩まされた。二十代後半に婚約をするが、内面的苦悩を理由に一方的にこれを破棄。これも、大きな絶望の一つ。

 大衆雑誌の暴露記事に対して、いちゃもんをつけたりするのだが、仕返しのために誌上で侮辱され、市民中の笑いものになっちゃう。また、信じていた牧師に裏切られたりして、さんざんの目にあう。それにも懲りずに、いろいろな相手と喧嘩をおっぱじめる。

 そうこうするうちに、論戦の最中に体力が尽きて倒れてしまい、42歳で死んだ。
 その哲学は独特のものであり、近代哲学が世界や自然、社会など、普遍的な問題を中心課題としてきたのに対して、彼は「人間」の生き方を問題とした。

 キルケゴールは、「人は神とともにあらなければならない」とも言った。ところが、考えてみると「神を礼拝するだけではだめ」と単に言葉でいっても、「礼拝される側」と「礼拝する側」との間には、かなり大きな質的な断絶があるから、どだい無理! これも絶望。

(2) 『死にいたる病』
 そこから、いくつかの言葉を拾ってみよう。

・ 堪えられないことは、自己自身から抜け出すことができないということなのである。
・ 絶望、つまり自己における病は、死にいたる病なのである。絶望者は、すでに死病にかかってるんだ。

・ 人間とは精神である。しからば精神とは何であるか。精神とは自己である。自己とは自分自身に関わる一つの関係である。
・ 絶望であることを本人が知らないという絶望。言いかえれば、人が自己を、しかも永遠的な自己を持っているということについての絶望的な無知。
・ 絶望とは死にいたる病である。自己の内なるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである。それは、死を死ぬことである。
・ 罪は消極的なものでなく、積極的なものである。
・ 青年は希望の幻影を持ち、老人は思い出の幻影を持っている。

 『死にいたる病』は「イエスがラザロの死に臨んで、「この病は死には至らず」と言った」ことによるらしい。つまり、肉体が滅びることは、死ではないと言うのだ。そして「死にいたる病」とは「絶望のことであり、その絶望こそが最大の罪」なのである。

 ソクラテスは「罪は無知である」と言うかもしれない。
 また、原始仏教では「知らないということは大きな罪」とも言う。さらに、キリスト教でいう「罪」は「正しいことを知らないことなのではなく、知ろうとしないこと」「知っても知ったように行為しないこと」までをも含む。
 その罪を知りつつ、その罪に絶望するという意味で、「絶望という罪」は自分自身に積極的なものになってくる。そして、罪にとどまることは、「罪を重ねる罪」となっちゃうんだ。したがって、「罪にとどまる各瞬間ごとに罪」は増大していく。

などと、キルケゴールは言っているように私は思う。
などというような話を私は70歳前後の4人の人に対して、臆面もなくやっちゃった。
お恥ずかしい限り。(2005.06.09)


○私の食生活


 先輩に「君は、冬でも薄着で元気だが、いったいどんなものを食べているのか?」と聞かれた。
 私は、一年中上下とも肌着と上1枚、つまり全身で4枚しか着ていない。そこで、ちょっと恥ずかしい内容の食生活を説明した。

 実は、ここ20年来ほど

(1) 主食は玄米。
(2) 野菜は、ほとんど生食。
(3) 動物の死骸や死体は、なるべく食べない

ことにしている。

 玄米は、化学薬品の含まれていないものを購入。ときどき「かるがも米」というのもある。
 ここのところ、玄米でアトピーや病気になる人が多いので、とくに注意をしている。購入したものは、ときどき発芽試験をする。

 野菜は、生で食べられるものが主。
 例えば、トマト、キュウリ、レタス、キャベツ、ほうれん草(サラダほうれん草という生食用のもの)などが定番。それにキウイフルーツ、ミカン、リンゴ、その他の四季の果物などだ。

 レタス、キャベツは丸ごと食卓に出す。むろん全部は食べれない。一枚ずつむいて、必要なだけ食べる。細かくきざんだりはしない。食べるだけを外側から取ったら、のこりはビニールの袋に入れて、冷蔵庫に戻す。

 ナスやゴボウなどの煮なくてはいけないものは、あまり食べない。しかし、人参と大根は別格。つまり、人参はふつう生でかじってそのまま食べる。大根は、とても辛いので小さく切って、酢で漬けておいて食べる。
 それらの葉は、やってみたが生ではちょっとムリ。そこで、煮て食べる。本当は、人参の葉などは天ぷらにするとおいしいという。しかし、我が家には天ぷらの装置がないし、その油もないんだ。だから薄味で煮る。

 なぜならば、化学薬品無添加の醤油と昔からの製法の酢、そして自然発酵の味噌しか調味料がない。砂糖も塩も、化学調味料も台所にはない。風呂場には「海の精」が置いてあるが、ふつう料理には使わない。

 家庭では、動物の死骸や死体を食べたことがない。とくに血の出るものは食べない。
 例外として煮干し、こうなごくらい。しかも、それらは無添加のものだから、冷凍した状態で配達される。だから、そのままで食べる。
 煮干しは、まれにする煮物に使うことがあるが、酒のおつまみなどに使う。むろん、ときどきテストをする。参考までに言うと、常温で数日置いて、蛆(うじ)が出てこないかどうかのチェックなどです。他にも、あるが。

 また、電子レンジがないのでレトルト食品や冷凍食品はとくに買わない。もっとも、神農で配達される食品の中で、竹輪やさつま揚げ、こうなごなどは冷凍で来る。なぜならば、防腐剤がそれらには入っていないから。
 それらは、ふつう自然解凍することになる。つまり、室温で解凍をするのである。その方法が、いちばん味がいいらしい。急いでいるときは、お湯につけたり暖めたりして解凍をする。ふつうは、1時間くらいでOK。

 そんなわけで、食べている食品の数は限られていてとても少ない。毎日、毎日ほとんど似たような食事の繰り返しなんだ。「生で食べる」というのは、正直のところ健康の問題よりも、調理の手数の面倒くささのため。
 ざっと、そんな説明をしたら、その先輩は驚いてしまい「君は、必ず長生きをするよ」と、あきれたように言った。(2005.06.08)


○人参の葉と大根の葉


 葉付き人参の季節である。
 私は、いつも配達をお願いしている神農で、それを注文する。
 すると、本体である赤い根の部分の4倍くらいの長さの葉が付いた見事な人参がくる。その葉の部分を食べるのである。たいがいは煮物にする。あまり美味しくはないが、独特な味がして、完全な繊維食物でもある。
 きっと、胃腸の調子をよくして、健康によいことでしょう。

 いっぽう大根は、黙っていてもふつうは葉が残っている。その代わり、洗っていないので根に泥が付いている。スーパーのは自動洗浄機を通すので、葉を取ってしまうらしい。しかし、大根の葉をみそ汁などに入れると、とてもうまい。
 大根の葉は、古くから利用をしていた健康食だと思う。
 人参の葉や大根の葉も、食べてみるとなかなか味があります。
 私は、どちらも好きだ。
 皆さんは、いかが? (2005.06.07)


○自殺の原因?


 先日、ラジオニュースで聞いた。
 昨年の自殺者が、32,325人だったそうである。そして、そのうちの7割が男。
 原因を考えると、「健康問題が半分以上」。これには、ちょっと驚いた。「経済的な理由」が、その第一と考えていたからだ。

 「死に至る病」が、トルストイ『イワ゛ン・イリッチの死』にあるような病からではなく、それが原因であっても自分自身で「死に至る」とは考えてもいなかった。これは、とても大きなショックであり、人ごとではないとつくづく思った。

 健康問題については、いつも考えている。いったん病気になると、なかなかリカバリーをしないのが現実。だから、私たちは「超予防」というか、「病にならないための細心の注意と絶え間ない工夫」を日々の努力としている。
 つまり「死に至る病」に、肉体的にも精神的にも近づかないようにするのがベストだ。いったん、いわゆる「病ぐせ?」が付いてしまうと、どんどんと悪い方向にいってしまい、なかなか戻れないから。つまり、一方的に向かう。
 ついでながら、インターネットで情報交換をすることによってなされた自殺が22件、59人という。
 そしてそれは、ますます増える傾向にあるらしい。原因は知らないが、過去に集団自殺をして滅びた宗教や国もあるらしい。
 皆さん、お大事に。(2005.06.06)


○クロイツェル・ソナタ


 調べたいことがあって、図書館で「トルストイ全集」を2冊借りた。
 ロキさんのアドバイスがあったからだ。ロキさんは文学に造詣が深いが、とくに露文学については詳しいみたい。だって「プーチン」という名前を猫に付けるほどだから。
 もっとも、それは私の想像であって、ご自分の愛情の表れが名前となるとは必ずしも言えない。マッカーサーが「アイ シャル リターン」と言って逃げ出す前に飼っていた猿が「トージョー」という名前で、呼ぶときに「ヘイ トージョー」と言ったそうだ。

 話を戻して、とりあえず

○トルストイ全集1『幼年・少年・青年』
○同9『後期作品集』

の2冊を借り受けてみた。
 「トルストイが信仰に入ったいきさつ」を調べるわけであるが、もしかしたら「1」の「青年時代」の中にあるような気もしたからだ。しかし、ロキさんのアドバイスどおり、「2」の中の「光あるうちに光の中を歩め」というのも調べてみた。

 しかし、ざっと見てどちらにもないようだ。
 「2」には「クロイツェル・ソナタ」の他に短編集18編「狂人の手記」「イワン・イリイチの死」「光あるうちに光の中を歩め」などが入っている。何となく他のものも読みたい誘惑に駆られる。

 でも、ぐっと我慢をして「イワン・イリイチの死」だけを読んでみた。だいぶ前に読んだので、内容がうろ覚えになっちゃっていたからだ。なぜ読み直したかというと、「人生における病と死」のことについて、詳細に述べているからだ。そのテーマは、自分に身近になってきたから。

 トルストイ全集は、他に『戦争と平和』3冊、『アンナ・カレーニナ』2冊、『復活』1冊などの大物が含まれている。私も、かつてその3作品をもっていたのだが、引っ越しのときに処分をしてしまった。しかし、書棚を調べたら大型の本から逃れて、文庫本が何冊かまだ残っていた。

 米川正夫訳『クロイツェル・ソナタ』(岩波文庫)。これは、捨てきれなかったのだろう。
 同じく米川正夫訳の『イワ゛ン・イリッチの死』(岩波文庫)。私のは「ワ」が濁点になって「ワ゛」である。この「ワ゛」がローマ字変換で出ず、カタカナ変換にするまで1分ほど考えた。
 そして、原久一郎訳『復活』(新潮文庫)の下巻だけがなぜかある。

 いろいろと頑張ってみたが、探している箇所がなかなかない。
 全集には、宗教論が上下になって2冊、その「下」のほうに「わが信仰はいずれにありや」があり、もしかしたらそれの中かもしれない。
 また、トルストイではなくて、ドストエフスキーかツルゲーネフあたりだっかもしれないのである。そんなわけで、とうとう探すのを諦めることにした。

 その代わり、「クロイツェル・ソナタ」も読んでみようとした。しかし、途中で目が痛くなったのでやめた。代わりに映画の感激を新たに思い出したのである。そして、さらにジノ・フランチェスカッティの演奏をCDで聴いてみた。
 ベートーベンの曲は全体的には何となく好きではない。しかし、この曲とウイルヘルム・バックハウスの弾くピアノソナタ全32曲、そして後期の弦楽四重奏曲は、何回聴いても素晴らしいが。(2005.06.05)


○「三十にして立つ」


 「三十にして立つ」に関する質問が、「◆立(りつ)」というサイトの人からあった。
 『論語』「為政第二」に「吾れ十有五にして学を志す」というのがある。それを読んで、私は「自分が非常に遅蒔き」であることを反省する。なぜならば、文学や音楽、そして政治や宗教、さらに哲学などに「学を志」したのは、還暦を過ぎたころであったから。

 それはともかく、「三十にして立つ」というのを読んだ戦国時代の将軍が、「孔子ほどの人でも30歳まで「立って」歩けなくて、「はいはい」をしていたのか」と言ったという。このことについて、ちょっと意味不明だという質問なので、ここに改めて補足をしておこう。

 ある将軍が、覇者になろうとしていた。その側近が「あなたは多くの人の上に立つので、少しは勉強をしておいてください」と言って、『論語』を将軍に献呈した。それは、巻物になっていたのであろうか。将軍は戦闘にも常に『論語』携えていき、折を見て読んだ。
 そして、あるとき将軍は側近に言った。
 「孔子ほどの人でも、30歳まで立てなかったようだ。私は3歳ですでに立って歩いたのだが。」

 実際には、ちょっと内容が違うのではあるが、現時点では、なにしろその将軍の名前を度忘れして思い出せない。そこで、何とか理解しやすいようにストーリを展開してみた。皆さんの中で、その将軍の名前を知っている人がいたら、どうぞ教えてください。

 さらに思うことは、デオプラトスの人さまざまではないが、「男としてのもの」が三十歳になったころ、ようやく「立つ」人もいるだろう。そして、『道徳経』を残したという母親の胎内で百歳まで育ってから生まれたとも言われるような聖人さえもいるんだから、……
 その老子のことも、どこで何を読んだか度忘れをしてしまった。だから、もしかしたら人名などがうろ覚えなのかもしれない。したがって、これもよろしく。

 一般に中国人の考え方は雄大でもあり、オーバーでもあるのかな?
 百歳なんて嘘じゃないかと思うが、「白髪三千丈」などという言葉もあるほどだから、何らかの意味があるのかもしれない。
 間違っていたら、教えてください! (2005.06.04)


○「システム教」


 きのう、冗談気味で「システム教」のことをメールにしたら、さっそく電話で問いただしがあった。その人は必ずメールを読んではくれるが、なぜか自分ではメールをあまり出さないんだ。

 そこで、顔が見えないので「教」については、一方的に次のように答えた。
 正式には、「大宇宙システム統合創価イデア」と言う名前で、それは非常に有難い教えなんだと。
 
 次に、「信者は何人いるか」というので、仕方なく一人だと正直に答えた。
 また、「システムとはエンジニア的だな」というので、そうじゃなくて「死」と「捨」と「無」の概念を取ったので、「system」とは関係がないと答えた。そして、「無」とは「自分自身が宇宙にとけ込んだ状態」なのだという説明で、お茶を濁した。
 すると、その人生の先輩は「君は長生きをするよ」とあきれたように言った。(2005.06.03)


○政治・宗教・哲学


 お恥ずかしい話だが、この歳になって「政治」と「宗教」と「哲学」については、あまり自信がない。自信がないというのは、今までに勉強をしていないから。そして、その話題には触れないように、いつも逃げていたわけだ。
 しかし、ここのところ仲間の間で、その話がかまびすしい。
 「政治の貧困が自分の不幸の因」とか「ある新興宗教にだまされた」とか「人生に哲学がないから君は不幸なんだ」などとのたまわく。もはや、黙ってはいれないよ。

 そこで、遅まきながら勉強をすることにした。政治については、戦後のいきさつなどについて、「小説吉田学校」などを読むんだ。ただし、小説でない。実はさいとうたかをの『劇画 小説吉田学校』というのが、わかりやすかった。

 それに、父の名前でGoogleを検索すると出てくる「衆議院会議録情報」の「決算委員会」や「大蔵委員会」の膨大な資料をときどき読む。それぞれに当時の問題を討議したもので、なかなか面白い。内容はわからないが、……

 哲学については、招待いただいた「思想談義笑む得る☆」の人たちのメールを見ていると、何かと勉強になる。まったく知らない分野のことを互いに談義しているからだ。とくに、若い人たちの意見は、いつでも参考になる。

 宗教については、学生の時代から、何となく本質を見抜いた感じがした。そんなわけで、現役で仕事が忙しかった最中に、少しずつ考えながら自分用に新しい宗教を作ったので、それに入信をした。「システム教」というんだ。

 なぜそんな馬鹿馬鹿しいことをしたかというと、親しい友人や先輩が新興宗教に入信することをしつこく勧める。そんなことが、何回かあったので何かの宗教に入っていないとダメだとわかったので、私一人用の宗教を作った。

 『論語』「為政第二」に「吾れ十有五にして学を志す」というのがあるが、私は非常に遅まきである。もっとも、「三十にして立つ」というのを読んだ中国の将軍が、「孔子ほどの人でも30歳まではいはいをしていたのか」と言った。
 自分なりの生き方で、いいんじゃないか? (2005.06.02)


○「無関心もダメ」


 最近になって、妙なことに気付いた。
 健康グループの仲間と話していると、何となく事態に「無関心」なのである。ふつう、私の健康談議は非常に辛辣なので、不愉快な顔をする人がほとんど。しかし、ここのところ黙って聞いている人が、なぜかとても多くなった。
 また、話の途中で前後の脈絡がないことを言う人がいる。その言おうとしている途中で、人の名前を忘れてしまった人が多いのに驚く。「度忘れ」というのだろうか。そんな感じの人が、ここのところめっきりと増えてきたみたい。

 しかし、若い人には「無関心」などということはないかもしれない。なぜならば健康グループは、もともと健康センターの集会場に来る人が集まって始まったものだから。そして、集会場には満60歳以上の入館カードが必要なのだ。
 つまり、60歳を過ぎて回りに対して「無関心」になった人が、私の回りに次々と増えているのだ。もしかしたら、物事は相対的であるので、私が無関心になっているのではないかと恐れた次第。いったい、何が原因なのであろうか。

 実は、私も度忘れが多く、学生時代に読んだ本の中に出てくる主人公の名前を、はっきりとは覚えていないのだ。どこで、何を言ったかなどは記憶に明白であるのだが、肝心のその人の名前を忘れている。非常に困ったことだ。

 私も若かったころは、こんなことを想像だにしなかった。ここのところ急速に進んだのである。今のところ、身体はいたって健康なのだが、ぼつぼつ精神が犯されてきたのかもしれない。その他、いろいろ不都合な現象が出てきた。

 もしかしたら、自分自身にも何らかの症状が出ているかもしれない。どうやら、心配をした『老醜現象』というのが、やはりあるらしい。そんなために、自分用に用意をした警告の書が、『RKOホームページへようこそ!』にある「老けないために」にある。

 なぜ、そんなことを言うかというと、自分自身もその傾向にあるからだ。そんなことを心配して、だいぶ前から自分を戒めるために書き綴って、よかったと思う。曾野綾子さんの『戒老録』と同じ主旨で「無関心」を避けるためにである。
 先日、壁に貼った「飽きちゃダメ」の横に「無関心もダメ」と書いた紙も貼った。(2005.06.01)


○「飽きちゃダメ」


 若いころ、そんなことは決してなかったんだが、ここ数年、何となく飽きっぽくなった。
 日々何をしても、結構楽しいんであるが、エネルギッシュになれないのである。なぜだろうか? もしかしたら、老人になったためかもしれない。

 横井也有の『老嘆辞』や『徒然草』の第百十二段、そしてソクラテスの「老人の貢ぎ物」のことなどを考えてみると、それは仕方のないことかもしれない。でも、そんなことを言うと、「お前は、建前と本音が少し違うじゃないか」と追求をされそうだ。

 いっぽうでは、市の最初の仲間たち、彼らの平均年齢は70歳であるが、かなり情熱をもっている人がいて、このメールを毎日見てくれるという。そこで、連休明けからは期待に応えるべく、日ごとに最低1通は出すようにしないといけないらしい。


 曾野綾子さんの『戒老録』にある「遅くまで窓に明かりを灯して、老女が疲れた旅人の道しるべにして迷わないようにした」という話ほど、このメールは立派なものではない。ただ、個人的に「やっぱりあいつも飽きちゃった」と言われたくないためである。

 何とも面倒ではあるが、仕方がない。もっとも宮柊二先生の言ったように、それを自分自身の「生きている証明」と思えば、そんなことを言うのはむしろ贅沢かもしれない。ものは、考えようである。自分に都合良く考えると、だいぶ気楽になるんだ。

 呼吸や食事に飽きてしまっては、生きていけない。またパソコンに飽きたり、妻に飽きたり、自分自身に飽きちゃったらダメ。すごい人は「人生に飽きた」と言っている。彼は、すでに90歳を超えてはいるが、とても元気、どうも本音ではないようだ。
 そこで、私は「飽きちゃダメ」と紙に書いて、机の前の壁に貼ってみた。(2005.05.31)


○飲兵衛の散歩(2)


 散歩をするときには、注意をしてほしいという妻のアドバイスがあった。
 近所の人に「お宅の御主人が妙な格好で歩いている」と言われるからだ。
 冬でも、開襟シャツ、半ズボン、素足にサンダルの状態だから、ちょっと変に思われるのだろうか?
 そこで、まず聖蹟桜ヶ丘から電車に乗って、降りた駅から歩くのが普通。
 また、電車で帰るときと大栗川沿いに裏から帰るときがある。駅から3分、その間はデパートだから目立ちにくいんだ。裏から帰るときは、ふうふうと言って階段を12階まで登る。

 そんなわけで電車に乗って、2駅の分倍河原で降りるときがある。しかし、たまたまそこにサントリー工場行きの見学バスがいると、もうダメ。つまり、そのバスに乗ってしまうから。そして、工場見学を小一時間くらいお義理でして、できたてビールの試飲。
 たいがい5〜6杯飲んで、ふらふらになって多摩川沿いを帰る。その日は、帰ってもすぐにグーバタン。むろん、パソコンはできない。その代わり、次の日は朝1時頃に目が覚めちゃうんだ。日々楽しいけれど、自分はいったい、何をやっているのだろうか。(2005.05.30)


○飲兵衛の散歩(1)


 昨日は、妻といっしょに吉祥寺に行ってみた。
 そして、久々に「いせや」に入ったんだ。私は、ふつう動物の死体を食べない。しかし、妻が食おうというもんで、つい自分自身の「掟」を破ってしまう。
 なぜならば、「些細なことに逆らわない」という「掟」も常習しているからだ。かつてのように、各自がチュウ1杯、そして二人で「煮込み」「レバ刺し」「焼き鳥8本」「モモ焼き」「シューマイ」とやった。そして、そのほとんどを妻が食べちゃう毎度のことだ。

 焼き鳥は、「レバ」「タン」「ハツ」「シロ」各2本である。レバは豚の肝臓、タンは舌、ハツは心臓、シロは腸管の略だ。またレバ刺しとは、レバの生肉。実際には、栄養があってとてもおいしい。それが、いつの間にか、デイリーサービスではなくなっていた。
 モモ焼きは鳥の足の部分で妻の大好物、シューマイは肉らしくなく見えるので、私のせめてもの妻への抵抗である。でも、とてもいい気分になって、次に「ロジャース」に行った。そこでは、またいつものように下着を数着買った。素晴らしい店だからである。

 吉祥寺から仙川で降り、またそこから聖蹟桜ヶ丘まで帰ったのが、午後4時。桜ヶ丘駅前、つまり私の住まいの前のスターバックの店先で、チョコレートアイスクリームを食べた。なお、仙川で降りたのは、身体から毒物を除くサウナ銭湯に入るためだ。
 妻のお陰で、ふだんとはちょっと異なるとても楽しい一日だった。(2005.05.29)


○こくぞうむしとなめくじ


 皆さん、おはようございます。
 「コクゾウムシ」と「ナメクジ」をご存知でしょうか?
 それでは、最近それらを見たことがありますか?
 私は、ときどき見るんです。

 コクゾウムシは、いつも買う玄米に入っていることがあるからです。それは、胡麻よりも小さい虫で、虫眼鏡で見ると鼻の部分が長くなっていて象のような感じですから、その名前が付いたのでしょう。

 また、レタスなどにはよくナメクジが付いています。
 なめくじは塩で熔けるといいますが、私は野菜に塩を用いませんので、ナメクジを取り除いてから、ふつう生で野菜を食べます。
 エスカルゴというのでしょうか、カタツムリを料理して食べる国もあるので、もしも気づかずに食べてしまっても大丈夫だと思うのですが、…… (2005.05.28)


○多摩のパストラール


 皆さん、お元気ですか?
 先日、聖蹟桜ヶ丘から平山城址公園駅まで行って、そこから京王堀之内まで歩いてみました。毎年、この時期には三和でゴム草履を3足ほど買うからだ。まあ、それが目的というわけでもないが、とにかく私にとっては、楽しみのあるコースなんです。

 約4キロメートルくらいの距離ではあるが、途中に山越えがあるからきつい。とくに平山城址から京王の研修所を抜けるまでが、胸突き八丁である。身体が80キログラム以上あるので、自分自身が重く感じるためである。そこで、あ〜しんどとなる。

 それでも気を取り直して、城址公園から東京薬科大学に入る。垣根の破けているところから入っちゃうんだ。そこは、すばらしい空間である。池があって、カワセミがいる。また、こんな時期にすでにトンボがいた。大きさから、山ヤンマのようだった。
 そのベンチで、30分ほどいつも休む。そして、気が向いたときには植物園も見学するんだ。そこには温室もあるが、小さい山がすべて植物園になっている。蚊のいない時期や友達と一緒のときは、そこで1時間くらい楽しむんだが、その日はやめた。

 薬科大学からかたくり園のところまでが、何ともパストラールなのである。思わず詩を作りたくなるような光景だ。また、何となくメロディーを口ずさんでみたくもなるほど。まだ、行ったことのない人は、ぜひ行ってみてください。きっと気に入ると思うよ。
 大きなトンネルが3つもある道じゃなくて、小さな川に沿って下っていけばよろしい。むろん、農家や民家があることはあるが、それでもいまだに田舎風のたたずまいである。つまり、多摩の開発地域から外れた区画になっていて、開発されていないのだ。(2005.05.27)


○てくてく歩く


 Udai さん。皆さん、こんにちは。
 せっかく連絡をいただいたのに、留守ですみませんでした。
 きのうは、調べることがあって植物園(多摩市立グリーンライブセンター)、土器館(東京都立埋蔵文化財調査センター)、そして図書館(多摩市立関戸図書館、市に6つある図書館の一つ)へ行ってきました。
 ちょっとここに、その「植物園」と「土器館」の宣伝をさせてください。

 「グリーンライブセンター」には熱帯植物のある温室の他に、ウッドデッキやロマンチックガーデンがあって、とても楽しいところです。私は「相談コーナー」をよく利用するのですが、専門の先生がいつも親切に対応してくれます。
 また、そこの都市緑化植物園はとても気持ちが和みますし、庭の一角に水琴窟などもあって清々しい音を聞かせてくれます。

 「埋蔵文化財調査センター」は、多摩ニュータウンを開発したときに出た縄文時代や弥生時代の土器類などが整理され、保存されています。また、「縄文の村」が復元展示されていて、とてもわかりやすい実物大模型です。
 そんな中にいると、ちょっとタイムスリップをしたような感じの空間で、私はいつも小一時間は、そこで過ごしてしまいます。

 なお、「植物園」も「土器館」も最寄り駅は、京王線または小田急線の「多摩センター」です。駅から歩いて10分以内で、どちらも入場は無料です。昨日のような平日ですと、ほとんど誰も来ていません。つまり、ガラガラなんです。

 そんなわけで、3箇所の強行軍で、ちょっと疲れちゃったですが、とにかく元気で帰ってきました。回りの人たちの質問や要望があったり、自分自身の疑問があるので、どうしても調べに出歩くことが多くなって、つい留守になりがちなんです。
 3箇所を回って、てくてくと8キロメートル以上を歩いたことになります。

 ◆立サイトや他のサイトの方々は、すべての人がパソコンをもっています。つまり、このメールを受信してくださる方は、パソコンをお持ちになっているわけです。
 しかし、他の一グループは、93歳、89歳を始めに、平均して70歳前後の人たちが10数人いるのですが、パソコンをもっているのは私の他に一人だけです。それは市の高齢者のグループで、すべての人が、すでに60歳以上だからです。

 そこでは、私がいちばん若く見えますので、福祉センターへ行くと皆さんのお茶を入れたり、場合によってはお風呂で背中を流す役目(三助)なのです。前に、誰かに「君はなぜここにいるんだ?」と言われたことがありました。
 私の平素の格好が、若々しいというよりか、ちょっと幼稚だからでしょう。

 また、そのグループで先輩たちから学んだことを「老醜現象」としてまとめてみました。それは、曾野綾子さんの『戒老録』ではありませんが、私なりに先輩を見て大いに感じたのです。お互いに話をしていると、得るものがありました。
 そしてそれらは、見習うような現実とは異なって、むしろ「そうしてはいけない」というような忠告側の観点のものが多かったみたいです。ちょっと、「人のふり見て、我がふり直せ」とでも言うのでしょうか。そんなことも発見しました。

 そんなわけで、そのグループでは、人生の先輩たちにパソコンについて皆に教えてあげなければならない立場なのです。その人たちの中には、市の情報ルームのパソコンをやってみて、ぼつぼつ関心を持ち始めた人もいるからです。
 そんな次第ですから、いろいろな場所で、いろいろと教えていただけることを非常に有難く思っています。まだ、私は Windows を始めて2年になったばかりで、何もわかっておらず、仲間から期待されると大いに返答に困るからです。

 今までは、わからないことはわからないままに自己流に進めてきました。そんなわけで、HPが大きくなってくると、面倒くさくなってきます。また、メールを出すのも億劫ですが、出さないと投げ出したと思われてしまうのです。

 そんな事情ですから、必要な最低限のことしかしなかったのです。面倒なことが嫌いな私にとって、すでにHPの作成も負担が大きすぎるようです。HPは広報ですが、メールやサイト、そしてQ&Aなどの活動は、もともと開業医の知人が呆け防止に効果的だとのアドバイスがあって始めたことでした。
 つまり、健康に関する広報やPRにも、期待がもてると勧められたのです。
 ありがとうございました。(2005.05.26)


○しゅりけんにしたい


 いま用いているメーラーは、「送信者への返信」をしたり「転送」をすると、どうも書式が崩れてしまうようだ。また、それ以前の問題もある。それは、原稿どおりに送られないことが、しばしばあるという致命的なことである。問題だらけではあるが、中でも

(1) 分かち書き(字空き)がうまくいかない。
(2) 段落という概念がないようである。
(3) 折り返しに不都合を生じる。

などの大問題があって、もはや日本語のメーラーとしては、話にならない。

 100行程度の小さい文章であればよいのだが、ちょっと大きくすると、もうダメ。新聞社や企業などが用いないことからも、欠陥ソフトの事情を垣間見るようだ。
 リバースエンジニアをやったわけでないので、はっきりとは言えないが、文全体のフォーマットを記録する部分が別にあって、そこのところが保持できなくなるらしい。明らかに、まだ残っているバグであろう。

 しかし、英文のハイフォーネーションやプロポーシャルなどは、不思議にうまく行っているので、英語圏内では評価が高いのかもしれない。ただ、それをそのまま日本語に当てはめると、不都合が続出するのではないだろうか。

 そもそもプロポーシャルは横書きの日本語になじまないし、また文字をハイフンで続けることも少ないだろう。例え縦書きだって、「森林太郎」を「木林林太郎」などのように、1文字目と2文字目で行替えをする人は、まずいまい。
 むろん、横書きだって「森木木太郎」などとは、間違っても絶対にしない。「林」さんのペンネーム「木木高太郎」ではあるまいし。「木木」は、林ではなく「この木、あの木」という別な意味になってしまうから。

 また、行間が10パーセントあるかないかで読みにくいことこの上なし。日本語の横書きは、せめて50パーセントくらいは欲しいものである。私のホームページは、最初にHTMLで、50パーセントの指定をしてしまうんだ。この文章の行間が、そうである。

 とにかく、おまけ・無料といいながら Outlook Express には困ったもんだ。
 いっそしゅりけんにしたいようにも思うのだが、それもどうなっているかがわからないので、考えているところだ。

 しゅりけんについては、いろいろと先輩がメールで言ってくれた。「つい先日、カカクコムがやられたので、皆さんもウイルス対策を万全にして、まずメーラーを変えたほうが無難だ」というのだ。
 しかし、具体的に何をどうすればよいのかがわからない。
 いったい、どうしたらよいだろうか? (2005.05.25)


○私は信仰に入った!


 どなたかご存知の方がおられたら、どうぞ教えてください。
 ロシアの大作家だったと思う。それまで、無信仰だったのだがキリスト教に入信するのである。何となく「余はいかにしてキリスト者になったか?」というような感じのタイトルだったと思う。しかし、もしかしたら「自叙伝」の中の一節だったかもしれない。

 そして、私もそのキリスト者になった動機が知りたくて、その本を学生時代に読んだことを覚えている。当時、私はまだ今のようにちゃらんぽらんではなく、真面目だった。だから、そのときの気持ちまで、今になっても何となく彷彿とするのである。

 わくわくしながら読んでいくと、そこには「余は突然、ある日、信仰に入った」というような意味合いのカタストロフィーになっていて、何ともバカにした書き方だと残念に思ったことを覚えている。つまり、入信の理由が、ただそれだけの記述だったからだ。

 そんなために、そこでがっくりして、その本を投げ出した。でも、今となってみるとその大文豪の気持ちがわかるような気がする。誰の何という本か、知っている人がいたらよろしく願います。
 その箇所を、もう一度見たいのです。(2005.05.24)


○地球的規模の無駄づかい?


 皆さん、こんにちは。
 現代社会において、各自が生活の見直しをすれば、地球的規模の無駄づかいをやめることができるともいう。つまり、大幅な「エネルギーの節約」が実際に可能なのだそうだ。資源の涸渇化が、急速に進む中で、……
 例えば、「電子新聞」にすると「紙の新聞」の20分の1のエネルギーしか消費しないという。
 まったく信じられないような大きな数字だが、その分野の専門家が詳細な計算をしたのだから、それなりの理由があるのだろう。

 また、牛肉1キログラムを食べなければ、その飼料となっている大豆などの穀物を5キログラム食べれるという。そうすると、全世界の人たちが飢えることなく食べられるので、栄養失調の子どももいなくなるかもしれない。

 ずいぶんと現実には大きなムダがあるようだが、それは本当なのだろうか。
 私も大いに反省をして、何とかしようと考えている。
 しかし、もっと大きなスケールで、国や行政も、そんな見直しを積極的に進めてほしいと思う。(2005.05.23)


○大倉謙二先生にお願い


 いつも何かとご好意をたまわり、ありがとうございます。
 お陰様で、今年に入ってからパソコンの作業が忙しく、つい無沙汰をしています。
 毎週、ごていねいに哲学の資料などを届けてくださることに、心から感謝します。

 最近になって、一日に問い合わせメールが100通以上も来るようになってしまいました。そしてその中に、質問ではありますものの、サイトでは送信できないような個人的な問題が幾通かあります。
 とくに、「健康の相談」とか「身の上相談」などです。そのような場合は、いちいち個別にメールをしなければなりません。それが、かなり手数がかかり、どうしても時間が足りません。
 そんなわけで、先生に差し上げる手紙を書く時間が、なくなってしまったのです。

 そこで、お手数ですがこの「ゲスト配信メモ」というところをご覧いただきたいのです。
 パソコンは、市の情報公開室(VITAの7階)を利用してください。操作法などは、初回のときに係員が説明をしてくれるでしょう。
 ただし、先生のことをメールの中でだけ、今後は「OKさん」などというように呼ばせていただきたいのです。なぜならば、先輩の言うには、メールの世界では先生とか、弟子とはあまり言わないということだからです。
 ちょっと親鸞の言ったことと似てもいるようですが、……
 そんな事情ですから、以後、よろしくお願いします。

 パソコンを持っていない神村さん、高瀬さん、そしてパソコンはあるがメールの嫌いな臼井さん、またメールはくださるがフリーメールに参加なさらない田中さんにも、後日お願いをするつもりです。
 とくに最初に親しくなった先生と同様に、唐木田の福祉センターに来ておられた皆さまは、ほとんどの人がパソコンをお持ちでないので、私の一方的都合から、このようなお願いをするのは、ちょっと恐縮ではありますが、……
rik こと Kuroda Kouta(2005.05.22)


○仙川考


 サイトの皆さま。
 このメールは、「仙川の再発見」に関する記事を「メーラーの折り返しテスト」も兼ねて作成しましたので、あなたが読みやすい適当な幅にして、ご覧ください。

 きょうは、京王線仙川駅から仙川に沿って、武蔵境まで歩いてみた。なぜ、そんなことをしたかというとサークルで、「野川」や「仙川」の話題がよく出るからだ。しかし、多くの人は、並行して流れている「入間川」や「新川」(いまはなくなっている)などと、ごっちゃにしているようだからだ。
 私は20年くらい前に、ほとんどの川を実際に歩いたのだが、今となっては、どうも記憶が定かではない。そこで、思い切って再確認をしてみたのだ。

 聖蹟桜ヶ丘から京王線で、仙川まで行く。そこから北に向かって、バス発着場の前を通り白百合女子大の手前の「弁天橋」から、川沿いに上流に向かって歩く。
 「三鷹市東部下水処理場」を左に見て、中央高速の下を抜ければ、「東一之橋」。そこで、「新川天神山」に登ってみた。さらに、上流に行けば「丸池」がある。
 丸池の前の「勝淵神社」で、サイトの皆さんの健康と発展を祈願した。
 「祓(はら)え給(たま)い、清め給え、神(かむ)ながら、守り給い、幸(さきわ)え給い」

 丸池から少し上流のところに、コサギとカワセミが数匹いた。しかし、しばらく行って東八道路を少し過ぎたところ、「野川宿橋」で急に細くなり、暗渠化をしている。なお、この橋の名に「野川」が入っていることも誤解のもと。
 それからは、禅林寺(森林太郎と太宰治の墓がある)の横を通って、三鷹第三小学校のところで、ふたたび川に出会った。川は、すでに両側を鉄の枠で固めた、いわゆる排水路のような形になっていた。
 それをさらに辿っていくと、日赤の東で北方向に折れ曲がり、日本獣医畜産大学の横を通って、中央線を越える。確認のために、遠回りをして線路を抜けてみると、しばらくして再び川は地上に出た。しかし、少しいくと暗渠になってしまうのだろうか、まったくなくなってしまう。

 そんなわけで、仙川駅から武蔵境駅まで、8キロメートルを歩いたことになる。そこからは、西部是政線経由で無事に帰った。とにかく仙川の再発見ができて、とても楽しい半日だった。
 なお、道中の写真は『RIKOホームページ』の左フレームいちばん下、「参考資料・参照画面」にしばらく貼り付けてあります。ご関心があれば、見ていただきたい。(2005.05.20)


○出歯亀なお願い二つ


 ここのところ、毎週数回はサウナに行く。冬場には、行く回数が多いんだ。
 なぜならば、ふだん汗をかかないから。しかし、これから夏に向かって、行く回数は減ってくる。
 体内に入ってしまった化学薬品、環境ホルモン、界面活性剤などの毒物と多量の塩分を除くために行くのだから、2時間くらいはねばる。そしてその間、サウナと水風呂の交互を5回ほどする。

 それ以外に目的はないので、回りの人をそれとなく観察するのだ。あまり、じろじろと見てはいけない。何気なく、見るのである。目が合うと、話しかけてきたりするので、面倒くさい。
 裸の人間を観察するのは、非常に面白い。男だけで残念である。むろん、小さい女の子がときどきいる。父親と一緒で、はしゃいでいる。しかし、近い将来に、それが男との関係ができるように成長するのが、何となく不思議。

 ふつうは、男の一物を観察する。すると、まったくさまざまである。それでも、よく見ると不気味に黒ずんでいる人が多い。そしてまた、若い人たちに包茎が多いのにも驚く。
 楳図かずお『まことちゃん』などで、「ミスターブラウン」と言っている意味が何となくわかるような気がする。ブラウンが褐色という意味だからだ。そして、美術館に見学に行ったとき、漆を塗った彫刻も包茎であったことを思い出す。

 一物以外だと、水虫や黒爪、そして爪白癬など足の障害をもっている人が、非常に多い。ちょっとすれば治るんであるが、面倒だからほっておくのでしょう。盲腸の手術の後のような大きな直線切り傷の人もいるが、理由はわからない。
 ギリシアの彫刻を見ると、若いモデルはたいてい包茎である。また、そもそも大切な部分なので、皮で守っているという説が妥当。アフリカだったであろうか、ペニスサック(ペニスケース)をつけ、尚一層一物を大事にする民族があった。

 前置きが長くなったが、ご教示いただきたいお願いが二つある。

(1) だいぶ昔に読んだ本。たしか天皇の外戚の女性がお書きになったものだ。
 そこには、明治天皇、大正天皇、昭和天皇が割礼をなさったとあった。何となく、「旧約聖書のしきたりのようだな」と思ったことを覚えている。
 その書名、作者、そしてことの真偽を知りたい。つまり、ユダヤのしきたりが、なぜ天皇家で行われるのだろうか。

(2) だいぶ昔に読んだマンガ。男の一物が主人公。松茸をスマートにしたような形で、女性のあそこに入っていくのだが、失敗をするという内容。その書名が、思い出せない。いわゆるポルノ漫画であったと思う。
 作者は手塚治虫であるが、書名を知っている人は教えてください。うろ覚えであるが、「ペニスくん」のような感じのタイトルだった。カタカナ3文字だったような 気がする。
 「ピノコ」(ブラック・ジャックが作った女の子)のような響きでもあり、「どろろ」のような語感でもあったと思うのだが、忘れてしまった。
 以上、2点、お願いします。(2005.05.20)


○私の食生活と生活習慣


 食べ物が、私たちの日々の生存にとって、大きな意味があることはわかる。
 しからば、どんな食べ物がよいかとなると、なかなかその選択がむずかしいし、無神経だとやがて思わぬ結果になることさえもあるようだ。
 それは、飲み水についても言えることです。
 また、最近では日々呼吸をしている空気などについても、注意をしなければなりません。そして、個人差もあるので一概には言えないことも、不調をきたしたり、病気になる原因なのです。

 よいと思ったことが悪くなったり、また悪いと言われることが、何も悪影響をもたらさないことさえもあるのです。また、何が正しいかということさえも、その時代によって、大きく変わってくることもあるから要注意。

 一つ一つの食品を購入するときに吟味をすることは、現実問題として不可能。
 したがって、信用のおけるところから買うのがよい。そしてその中で買うときに、それぞれ品名について、いろいろと吟味するのである。

 私は神農(中国の伝説に出てくる農業の皇帝ではない。神奈川県農産物安全生産グループである)から、すべての食材を買っている。その組織は、かなり前から安全な食べ物を作る努力を地道に続けて来た実績があるからです。

 最近は、そのようなグループが全国的に広がっているので、最初はそんな所を利用するのがよいかもしれない。私は、個人的に種類ごとについて、生産地まで行って畠などを見てきた。
 また、主食(玄米)については、年に数回は、発芽試験などをして確かめている。

 しかし、そこですべての品目を買うわけではない。とくに、自分に合ったものを選んで買うんだ。だから毎週、ほとんど同じものを買うことになる。それが自分の身体に合っているということがわかっているものだけを注文する。
 体質に合っているものだけを食べているのでしょう。そんなために、日々健康。
 そして、何となく毎日が楽しい。生活習慣についても「理工式生活習慣法」という方法を考え出したので、いままとめているところだ。
 皆さん、お大事に。(2005.05.18)


○予備がないものはない!


 最近になって、仲間どうしの「健康問答」がかまびすしい。いつも不愉快な警告を発し続ける私が、どうしてもやり玉になってしまうようだ。
 日々の不注意のために、仲間のうちに「不用意にもダウン」してしまう人がいるからだ。高校生の友達どうしや、40歳前後の趣味グループなど、そんなところではあまりないことだが、還暦を過ぎたおっさんやおばんには深刻だ。

 次々と救急車のお世話になって、よいよいになったり、おしめをし始めたり、ひどいのはあの世に行っちゃう。食べ物がいけなかったり、生活習慣が少し間違っているためだろう。

 何でも「日本人一人当たり、年間に4キログラムの化学薬品を体内に取り入れている」とか「日本には、いま3億人以上の病人がいるぞ」などと、つい言ってしまうことがあるので、鉾先は急先鋒に私に向かってくる。
 立正大師の安国論ではないが、そんなことを辻説法でやる。すると何となく私が、病人や死人を作っているというような文句の言われかたになる。

 こんなことがあった。
 福祉センターに来ていた元○○大学教授の人である。コンビニ店で買ってくる弁当を自慢していた。鮭の切り身が減塩であるから「健康によい」という理論なのだ。
 そこで、私は言い返した。もっとも、大学や学問や技術やエンジニアリングなどが大嫌いな私の言葉に、刺(とげ)があったのかもしれない。その人とは、永遠に決別をしてしまった。もう絶対に、仲直りができないのだ。

 私の言ったことは、
 「それは、その通り。しかし、塩を用いないで腐敗を防ぐには、化学薬品などを大量に使用するのが低コストですむ方法、それも、そうなってるんじゃない?」

 おそらく大量の防腐薬品を食べ続けたのも原因でしょうか。その人は、その言い合いをした年の冬に永眠をしたんです。しかし、その人の予備があったのである。
 その人の屋敷の前を通ると、表札の姓が同じであるから、きっと息子さんであろう。すっかり、新しく改築をして住んでいるようだ。
 しかし、ガレージにあった車は、その人が乗っていたBMWのままであった。(2005.05.16)


○私の哲学


 多摩動物公園に行くたびに、パンダに会う。カンカンとランランである。
 ただし、2頭とも剥製になっちゃっているんだ。それでも、私は会うのがとても楽しみ。
 先日行ったときは、ランランが貸し出し中で、カンカンだけが、一人で寂しそうであった。カンカンは「康康」と書いて、私の「康太」とも同じ字であるから、とくに親しみを覚える。

 それに、もっと大きな意味があるのだ。それは、カンカンが、かつて私に哲学を教えてくれたのだ。彼が、まだ上野にいたころのことである。その内容は、『RIKOホームページ』の「自己福音書」にある『パンダのぬいぐるみ』を参照いただきたい。
 もしも、読むのが面倒であれば、女性の声でナレーションを聞いてほしい。(2005.05.13)


○トキとコウノトリ談義


 ここのところ、連日のように多摩動物公園に行っている。
 いつも見て不思議に思うのは、コウノトリの檻とカラスの檻である。
 それは狭い動物園の中に、コウノトリの小屋がいくつもあって、またかなりの数がいることだ。それと、小さいけれどカラスの小屋があって、数匹が入っている。

 コウノトリは絶滅寸前ということで、繁殖の保護ではないかと思う。また、カラスは園内でも増えすぎるので、捕らえて間引きをするためらしい。
 動物園全体として、何ともアンバランスな光景であるからです。私は、ふとトキ(朱鷺)のことを考えた。

 若いころに、よく新潟に遊びに行ったことがあるが、その頃はまだ、保護センターに数匹がいた。それを見に行ったことはないが、五泉や亀田の知人が、町や名所に招待してくれたものだ。そして、よくあちこちに行って遊んだ。まだ、古町川を埋め立る前で、その上にあった「雀」という焼鳥屋によく行った。

 ふつう、三国峠を越えて、車で新潟へ入る。雪が降り出すころには、直江津を回って行く。
 しかし、道が走れなくなると朱鷺という特急で行くのだ。そのころ、その列車が大増発されていたからです。

 トキのキンキンだったかキンちゃんだったかが死んだのは、その前後だったと思う。
 私は、ニッポニア・ニッポンという学名をもった種が、日本からいなくなったのは、何とも残念なことだと思ったのを覚えている。
 だから、コウノトリの大げさな保護を見て、しないよりもしたほうがよいと思うものの、何とも莫大な費用がかけられているであろうとも考えるのだ。(2005.05.11)


○裸の女性は前向きか後ろ向きか?


 いつも気になってしょうがないんです。
 ちょっと肉付きのよい裸の女性のシルエットですが、その裸の女性の姿のことです。前の緑色の豆女については、何となくわかるのですが、裸女については、今もって定かではありません。
 前向きか後ろ向きかで、私のイメージがかなり異なってくるからです。

 ゆっくり自動スクロールさせると、「切なくて」という調べよりも、ちょっと遅く終わります。お暇な人は、いちどご覧になって、もしもわかったら、メールで教えてください。
 『青空の入門・創作ページへようこそ!』にある

ロキ ファンタジー ノベル「海の回廊」

の5つ目のイラストを見てください。(2005.05.09)


○玄米食は危険?


 私は玄米食を始めてから、かれこれ20年近くになった。
 そのために、今までは身体の調子が非常によく、毎年の市の健康診断でも非常によい結果で、すべてOKでした。そんなために、多くの人から玄米食の是非について聞かれます。
 しかし、いつも「ふつう玄米は危険です。アトピーや皮膚障害を引き起こすからです。 できたら、白米にしておいたほうがよいでしょう。」と答えることにしています。

 皆さんも玄米の恐ろしさに、細心の注意を払ってください。
 詳細が必要でしたら、『RIKOホームページ』の「食べ物考」を参照してください。「主食と副食」にある「*玄米は安全で健康によいか?」というところです。(2005.05.06)


○ないものはない?


 健康のグループに、ちょっと物事を論理的に考えたがる人がいる。
 健康問題から発展して、『翁草』より森鴎外『高瀬舟』の話になって、話題が「安楽死」や「死の問題」になっちゃった。
 そこで、仕方なく死の概念など「ないものはない」と話したら、勘違いされたようだ。

 物事を論理数学で考える必要が出てきたわけだ。ブール代数などは、学校でやったので何となくわかりやすい。ド・モルガンの定理などは、今でもよく覚えているからだ。
 「ないものはない」が「なんでもある」になる理由は、『RIKOホームページ』の「インターネットの入門」にある「情報は、どのようにして取り扱うの?」の「論理演算」(マンガで説明!)を参考にしてください。(2005.05.04)


○アトピーは簡単に治るか?


 きのう健康の仲間がやってきて、アトピーについての話し合いがあった。
 前に、何の気なしに「アトピーは簡単に治る」という意見を言ったら、顰蹙(ひんしゅく)を買ったらしく、その質問だ。あのときに、ちょっと舌足らずでもあったからだ。

 正直に言って、「アトピーは簡単に治る」場合もあるが、「簡単には治らない」場合もあるのだ。
 一概には言えないし個人差もあるのだが、一般的には「簡単に治る」場合とは、自分の不注意で短期間になった場合である。そんなケースは、意外に治りやすい。

 そして「簡単に治らない」場合とは、母親から受け継いだ場合である。
 残念ながら、生まれ落ちたときから、その病的特徴をもっていたときは、かなり悲劇的である。ふつう、赤ちゃんのときは、病気に対する免疫性をもっているのだが、遺伝性の場合にはそうならないようだ。

 ここでは、比較的に短時間でなったアトピーについて考えてみよう。
 結論から言うと、その病気が発生するまでの経過を逆に辿(たど)ればよいのである。例えば、食べ物の見直しと生活習慣の改善が必要になるであろう。そんな方法で、かつての状態に戻すのだ。
 つまり、体内から毒物を除いて、外界からくる空気中の物質や食べ物の中の化学薬品などと反応をしないようにすることだ。また、水についても注意が必要である。ここのところ、空気汚染が進んだことと、私たちの人体内にも化学薬品が貯まってしまったらしい。

 なお、アトピーや健康全般に関する詳細については『RIKOホームページ』の「健康のページ」に関連事項があります。(2005.05.02)


Kuroda Kouta (2005.04.29/2006.09.09)