高 杉 露 樹





タンジールへ行こう、と私は思った。
タンジールへ行けば、忘れてしまった何かを思い出せるかもしれない。
タンジールへ行けば、なぜ忘れてしまったかを思い出せるかもしれない。
タンジールへ行けば、きっと思い出せる。
タンジールへ行きさえすれば…。


走る電車の窓から、秒刻みで過去へ飛び去り色あせていく風景を
ぼんやり眼の端で追いながら
私は思った。
私の胸の奥にきざした小さなその思いは
二本のレールをこする、電車の単調な震動と呼応するかのように
次第に大きく膨らんでいき
目に見えぬ不思議な力でもって、私を内面から突き動かした。
駅があった。
私の足はいつしか見しらぬその駅に降り立ち、無人の改札を通り過ぎていた。
駅舎を出ると、真昼の鋭い日差しが目を射抜いた。
額に手をかざし、よろめきながら静まりかえった広場を横切った。
乾いた道があった。
熱い歩道から立ち昇る熱気が、じりじりと足の裏を焼いた。
私は歩いた。
髪の生え際から流れ出る汗が、首筋を伝わり胸の谷間を濡らした。
私は歩いた。
火照った太腿からしたたり落ちる汗が足元の砂を濡らし、瞬時に気化して空中へ散った。 
道は、たぶんタンジールへと通じる道は、果てしなく続いていた。  
太陽は頭上高くとどまったまま、動こうともしない。
私はあえぎ、ただひたすら歩いた。  
影だけが、頼りなげに背後からつき従っていた。  


道のかなたから、老婆がひとり近づいて来るのが見えた。
「お婆さん」と、すれ違いざまに私は呼びかけた。
「歩いても歩いても、どこにも行きつかないのです。どうしてでしょうか?」
「そりゃあ、あんた…」  
身にまとった黒いヴェールの間から落ち窪んだ眼窩だけをのぞかせて、老婆は言った。
「いくら前を向いて歩いてみても、行っちまった昔を捕まえることなぞできっこないがね」
「では、どうすればいいのです?」
「ふぉっふぉっ。自分で考えてみるんだね」  
そう言い残すと老婆は一陣の黒い風となって、私の中を吹き抜けていった。  
仕方なく私は後ろ向きの姿勢をとって、のろのろと後ずさりしながら歩いた。
影だけが、不安げに無言でつき従っていた。


いつの間にか、もうひとりの老婆が近づいて来る気配がした。
私の右肩のすぐ隣りに、老婆の痩せた左肩が揺れていた。
「なぜ、そんな妙な歩き方をしているのかね?」
地の底からつぶやくような虚ろな声で、老婆がたずねた。
「なぜって…お婆さん。前を向いて歩いていたら、タンジールへは行きつけないからです」
「ふん」と、老婆は身にまとった白いヴェールの中で鼻を鳴らしてせせら笑った。
「たとえ後向きに歩いてみても、苦い悔いだけが残るだけさ」
「では、どうすればいいのです?」
「ふぉっふぉっ。自分で考えてみるんだね」  
そう言い残すと老婆は一陣の白い風となって、私の中を吹き抜けていった。  
私は立ち止まり、途方にくれた。
疲れの色が漂う視線を周囲にはわす。
すると、いきなり足元からもう一本の別な道が現われ、遥か彼方へとつながった。
私は、躊躇もせずに新しい道を歩んだ。
重いかかとを引きずり、ただ黙々と歩いた。
影だけが、ひっそりと寄り添うようにつき従っていた。  


やがて視野の中に、小高い丘が映った。
何もない乾いた地表に、それは忽然として現われた。
潮の香りが、かすかに鼻腔を刺激した。
海だ。
タンジールの海だ…!
私はあえぎ、それでも期待に胸を躍らせながら、一気に丘を駆け登った。
丘の向こうには――しかし、何もなかった。
ただ一面、焼けてひび割れた荒地が広がっているだけだった。
あの潮の香りはどこ? 
私は呆けたようにあたりを見回しながら、力なくまた丘を下った。
耐えがたい喉の渇きが一層、焦燥感をつのらせた。








白茶けた岩のそばに、曲がりくねった太い樹の幹が、ぽつんと一本立っていた。
申し訳程度に葉をつけた干からびた枝を、宙に向かってうめくように伸ばしている。
羽を生やした少年が、その樹の前で私に向かって手招きをした。
少年の右肩には白い羽が、左肩には黒い羽が生えていた。
「水をください」
息を切らせて、私は頼んだ。
「お願いです。喉が乾いて死にそうです」
少年は無言のまま、両手を前に突き出した。
右の手のひらには黒い水の入った木の椀が
左の手のひらには白い水の入った木の椀が乗っていた。
どうでもよかった、喉の乾きさえ癒されるものなら…。
天使だろうと悪魔だろうと、絶え間なく照りつけるこの太陽から逃れられるものなら…。
私は、白い水に口をつけた。


見渡す限り、白い砂漠が続いていた。
私は砂の上に座っていた。
いや、砂ではない。これは硬く粗い布―途方もなく大きなキャンバスだ!
巨大な絵筆が空間を破って飛び出し、私の顔すれすれにかすめていった。
青緑色にうねった線を、キャンバスの砂漠の上に次々と縦横に描いていく。
私は絵筆から逃げまどった。
腕が、髪が、青緑色に染まっていく。
「いや、だめだ。糸杉には…」
唐突に、耳元で少しいらついた声が言った。
「バーミリオンを入れてごらん。ほんのちょっとだけ」


私はゆっくり振り返った。
理知的な黒い瞳の若者が、私の肩ごしにイーゼルの上のキャンバスをのぞき込み
絵筆を握った私の手を取って、鮮やかな朱色を青緑色の上に重ねて置いた。
「ほうら、生きてきただろう。この葉の緑にはバーミリオンが似合うんだ」
声も匂やかに弾んで聞こえた。
「あなたは…誰?」
戸惑いながら、私は尋ねた。 すると
「ふうん。もう忘れてしまったのかい?」
若者は伸びやかな手足をやさしい西風にそよがせながら、遠い声でささやいた。


思い出せそうで、思い出せなかった。
やっと少し思い出しかかったとたん、若者の顔はもう別のものに変わっていた。
また少し思い出しかかったとたん、若者の顔はまたもや別のものに変わっていた。
「たぶん…」
と私は唇を噛みながら、自分自身に言い聞かせた。
「たぶんここがタンジールなら、すぐにでも思い出せたはずよ」


しかし若者は、冷ややかな目で笑った。
あたりの景色が急速に黄昏の中に沈んでいく。
冷気が私のからだを包み込んだ。
そのとたん、若者の手足は見る見るうちに青緑色の葉に変わり
その姿は天にも届く喬木と化して、バーミリオンに燃え輝いた。
「あ、あなたは…誰?」
震える声で、再び私は尋ねた。
すると糸杉になった若者は、黒々とした梢を冷たい夜風に揺らしながら、
「『忘れてしまった。忘れてしまった』。生あるものは、みなそう言う。
ならば、思い出せ。思い出すのだ、タンジールへ行かずとも」
若者は背筋を凍らす声で、歌うように葉を揺らした。
私は恐ろしさに駆け出した。
糸杉は―キュパリッソスは―ああ、いにしえから墓所の番人だったのだ!


私は走った。
だが走れば走るほど、糸杉の数も増えていった。
一本が二本に、二本が四本に、四本が八本に…。
私はいつのまにか、円を描いて走っていた。
私のまわりを無数の糸杉が取り囲み
それぞれの枝がメラメラとバーミリオンの焔を焦がし、私のからだを嘗め尽くした。
身を焼かれる苦しさに、私は叫び悶えながら、金色の火の粉を噴き上げる火焔樹となり
自らの墓所に美しく照り輝いた。
金の粉は満天に散り、妖しくきらめく星々を生んだ。
いつしか私は流れ星に変わっていた。
そしてある日、乾きひび割れた地表へ落ちた。








白茶けた岩のそばに、曲がりくねった太い樹の幹が、ぽつんと一本立っていた。
 申し訳程度に葉をつけた干からびた枝を、宙に向かってうめくように伸ばしている。
羽を生やした少年が、その樹の前で私に向かって手招きをした。
少年の右肩には白い羽が、左肩には黒い羽が生えていた。
「水をください」

息を切らせて、私は頼んだ。
「お願いです。喉が乾いて死にそうです」
少年は無言のまま、両手を前に突き出した。
右の手のひらには黒い水の入った木の椀が
左の手のひらには白い水の入った木の椀が乗っていた。
どうでもよかった、喉の乾きさえ癒されるものなら…。
天使だろうと悪魔だろうと、絶え間なく照りつけるこの太陽から逃れられるものなら…。
私は、黒い水に口をつけた。



街は、黒い闇に覆われていた。
時折、遠くの空に白い稲妻がひらめいた。
私は左右に揺れるトラックの幌の中で、ひざを抱えてうずくまっていた。
誰もが黙って座っていた。
やがてタイヤのきしむ音がして、トラックが止まった。
「海だ…」
誰かがつぶやいた。
波の打ち寄せる暗い響きが、私の耳に広がった。
人々は無言でトラックを降り、ひとかたまりの群れになって岸壁に進んだ。
星明りを浴び、鉛色に鈍く光って海は横たわっていた。


私たちは待った。なまぬるい風が頬をなでて通り過ぎる。
時折、遠くの空に白い稲妻がひらめいた。
三艘のボートが岸壁に着いた。
人々はやはり押し黙ったまま、波間に揺れるボートに乗り移った。
「タンジールへは…?」
と、私は早口に尋ねた。
「タンジールへ行く船は、どれでしょうか?」
「タンジールへ行く船は、もう終わってしまった」
頭上で野太い声がした。
日に焼けたたくましい腕の老人が、パイプをくゆらせ私に答えた。
「あんたには気の毒じゃが、他を当たってみなされ。わしらは急いでいるもんでな」
私一人を残して、三艘のボートは静かに岸壁を離れていった。



と、不意に強烈な光が波間を照らし出した。
それはまったく突然に襲いかかった。
船上の人々は、慌てふためいて身を伏せた。
真昼のように明るいサーチライトの光の輪の中で、人々の顔は海よりも鈍い鉛色に錆びついた。
数発の砲弾を浴びた三艘のボートは、急流に巻き込まれた木の葉のようにきりきり舞いを始め
人々の空しい悲鳴を残したまま、暗い水に飲み込まれていった。



やがて、海面にほのかな燐光が漂った。
ひとつ、またひとつ、燐光は次第に数を増してゆき
海一面を青白い冷たい焔で覆い尽くした。
それぞれの焔は長くきらめく光の尾を持つ不思議な鳥と化し
いっせいに天の彼方へ飛び立っていった。
「待って! 置いてかないで…!」
宙に向かって取りすがる私のからだは、その場で鉛色の石に固まった。
なまぬるい風が、無機質の頬をなでて通り過ぎる。
時折、遠くの空に白い稲妻がひらめいた。
潮風が私のからだを侵食してゆく。
いつしか微小な砂粒となり、私は風に運ばれていった。









見渡す限り、白い砂漠が続いていた。
私は砂の上に座っていた。
石英の清らかな粒子が、沈む夕日を受けて物憂い影に彩られていく。
地平線をラクダのキャラバンが横切っていった。
私は叫んだ。
だが、ラクダも人も蜃気楼の中へ霞んで消えた…。
私は立ち止まり、途方にくれた。
疲れの色が漂う視線を、力なく右側にはわす。
すると、いきなり足元からもう一本の別な道が現われ、遥か遠方へとつながった。
私は新しい道を歩いた。
重いかかとをひきずり、ただ黙々と歩いた。


やがて視野の中に、緑豊かな谷間が映った。
砂のほかに何もない乾いた大地に、それは忽然と現れた。
私は半ば疑い、半ば期待に胸躍らせながら、一気に谷間を駆け下った。
その谷は静寂に包まれていた。
木の葉はそよとも動かず、小鳥のさえずりさえも聞こえない。
中央の窪地に、澄んだ小さな池があった。
乾いた唇を潤そうと、私は両手で水をすくった。
だが口元に運ぶ途中、まるで生き物のように巧みに身をくねらせて
水は指の隙間から逃げ出していった。
私の目から三粒の涙がこぼれ落ちた。
涙は泉のおもてに当たってはね返り
銀色にかすかに響く和音を奏でた。



「何が悲しいの?」と、泉が訊いた。
「あたしが意地悪して、水を逃がしてしまったから?」
「いいえ」と、私は首を横に振った。
「何が悲しいか、思い出せないからなんです」
「どうして思い出したいの? 
思い出してしまったら、悲しみが増すだけなのに」
「でも、『忘れてしまったという悲しみ』は忘れることができますわ」
「ホホ…そうね」  
水面に細かい波紋を作って、泉は笑った。
「とても素敵な、都合のよい思いつきね。
いいわ、教えてあげる。
この道を西へ向かって、まっすぐ進みなさい。
少し疲れたら北へ進み、空に星が瞬き始める頃に東へ進むの。
遠くで稲妻がひらめいたら、すぐに南へ方向を変えると糸杉の森に出るから      
今度は西へ向かうのよ。
そうすれば、タンジールへはあとわずかだわ」


親切な泉にお礼を言ってから、私はそのほとりを離れた。
「どういたしまして」
再び波紋を作って、泉は笑った。
少し離れたところから振り返ってみると、泉はまだ笑っていた。
黒いヴェールの老婆の顔で笑っていた。
また少し離れたところから振り返ってみると  
今度は白いヴェールの老婆の顔で笑っていた。
最後に振り返った時、泉は私の顔に変わり
奇妙にひきつった泣き笑いを浮かべていた。









泉が教えてくれた通りに私は歩いた。
やがて、潮の香りがかすかに鼻腔を刺激した。
海だ。タンジールの海だ…! 
私はあえぎ、それでも期待に胸躍らせながら、さらに足を早めた。
白い壁の家並みが現われた。
ターバンを巻いた老人が、ゆっくりとうつむきかげんに歩いてくる。
物売りの少年の早口のスペイン語が、紺碧の空に溶け込んでいった。
タンジールだ!
今度こそ間違いなく、ここはタンジールだ!
早く香り高いメンティー(ハッカ茶)を飲みたい。
そしてメンティーの香りに酔いしれながら、海を、
タンジールの海を心ゆくまで確かめるのだ。



海鳴りが聞こえた。
私は走った。
これでようやく思い出せる。
去ってしまった大切な何かを、ようやくこの手に取り戻せる!                  
足元がさらさらした砂地に変わった。
海が大きく轟いている。
あと少し、あと少しで…きらめく波光を見ることができる。
ああ、だが
打ち寄せてはまた返す波のささやきは、あまりにやさしく慈悲深く
潮の匂いはいっそう甘く官能的で
抗う心とは反対に、私のからだを砂上に音もなくくず折れさせ
両のまぶたをうっとりと閉じさせて
深く静かな眠りの園へと
次第次第に誘なっていくのだった…。


タンジールへ行こう、と私は思った。 
タンジールへ行けば、忘れてしまった何かを思い出せるかもしれない。  
タンジールへ行けば、なぜ忘れてしまったかを思い出せるかもしれない。  
タンジールへ行けば、きっと思い出せる。  
タンジールへ行きさえすれば…。  
走る電車の窓から、秒刻みで過去へ飛び去り色褪せていく風景を
ぼんやり目の端で追いながら
私は思った。



(2006.03.26/2006.03.26)