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  回想創造・自己福音の断片


 生きている証明のために、回想創造法や自己福音書の手法を利用することは、意味のあることではないでしょうか。
 形としては、エッセイでもメモでもかまいません。
 他人に読んでもらおうという意味より、自分自身の「生きている証明」だからです。
 父や母のこと、そして親しかった人のこと、何でもいいのです。
 直接にそのことでなく、回想や連想などでもかまいません。
 鴨長明『方丈記』に、

 <もし、夜靜かなれば、窗(まどい)の月に古人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。叢(くさむら)の螢は、遠く眞木(まき)の島の篝火(かがりび)にまがひ、曉の雨は、自ら木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峯の鹿(かせぎ)の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかる程を知る。あるはまた、埋火(うづみび)をかきおこして、老の寢覺(ねざめ)の友とす。恐ろしき山ならねば、梟の聲をあはれむにつけても、山中の景色、折につけて盡くることなし。いはんや、深く思ひ、深く知らん人のためには、これにしも限るべからず。>

というくだりがあります。
 鴨長明ほどの意志強靱な変人でも、山鳥の鳴き声から父母を思い出したりするようです。
 まして、ふつうの神経の持ち主でしたら、両親をなつかしく思う気持ちは大きいでしょう。とくに、二親ともに亡くなっている場合は、おそらく一層のことです。


Kuroda Kouta (2007.07.13/2007.07.13)