総トップページにジャンプ

  きりはなこくった


 「きりはなこくった」と『すてきな先生(エッセー)』に書いたら、問い合わせが来た。
 そこで、文章技法の権威である高守さんにご教示を願ったところ、下記のような説明があった。

 「きりはなくこくった」は方言ではなく、「木で鼻を括(くく)る」の「発音の訛(なま)りの変化」らしい。
 そして、「木で鼻を括る」は「木で鼻をこくる」の誤用が一般化したらしいということ。ここで、「こくる」とは「擦(こす)る」の意味。
 したがって、「無愛想で冷淡な人を罵(ののし)る」言葉。単に、「木で鼻」と言うこともある。

 私が用いた「きりはなこくった」も、まったく同じ意味。『すてきな先生』では「けんもほろろ」というような意味合いで使ってみた。私が、小学生のころのこと。学校の先生が話したのを聞いたことがある。もしかしたら、「木で鼻をこくる」と言ったのを「きりはなこくった」と聞き違えたのかもしれない。
 とにかく、最近になって用いられないようだ。

 しかし、私には「きりはな」が「木で鼻」とはだいぶ違うが、「括(くく)る」が「こくる」の変化形「こくった」となっているので、かつては使われた言葉であろうことが何となくわかる。また、父母が話していたのを聞いたこともある。したがって、そんな言葉もあったに違いない。
 ちょっと心配だったので、Googleの検索で調べてみた。すると、思ったとおりである。
 おそらく、私が使わなくなったら「死語」になってしまうかもしれない。

(注) 私の『広辞苑』には載っていないが、「べっちょない」という言葉がある。
 それは「別状がない」とか「問題はありません」というような意味で、兵庫県高砂市周辺で使われていた方言のようだ。しかし、便利な言葉なので東京に在住するようになってからも私は使っている。


 日本語は、もはやラフカデル=ハーン(小泉八雲)モラエース、そしてロチなどが来日して感じたような美しさを失ってしまったかもしれない。日本政府の依頼で、日本語の文法教科書を作ったチェンバレン(イギリス人ですが、首相になった人とは異なります)などは、日本語の素晴らしさを述べていた。

(注) モラエースは、「日本語は細かい愛情をもった美しい言葉」であると作品に書き残している。
 例えば、身の回りの品などにも「お」を付けること。「お米」「お茶碗」「お箸」などである。場合によっては、「お日様」のように「お」を付けて、さらに「様」を付ける。
 相手や自然、そして器物までに愛情をもった「美しい心の国民」だからであろうなどと言った。今考えると、そう言う時代もあったのかと知って、私(黒田康太)は恥ずかしい思いががする。

 チェンバレンは、「日本語の豊かさ」についても教科書に書いた。
 日本人は、ものの数まで配慮をする豊かな感性を持っていて、そのために「名付け数詞」という文法上の区分までを作った。例えば、人間は「……人(り・にん)」、牛馬などは「……頭(とう)」「匹(ぴき・ひき)」「羽(ぱ・わ)」、そして神仏は「柱」(はしら)。遺体や遺骨、位牌などもこの「柱」を使う。つまり、「死んだら神になると考えるのではないか」とチェンバレンは言う。

 なお、チェンバレンは初等学校のテキストの序文に見事な日本語、それも文語体で次のような意味のことを書き残している。
 <私は外つ国(とつくに、つまり外国)の人間であるが、この度は文法の教科書を作ることになったので、とてもうれしく、また名誉に思っている。……>
 そして、私(黒田康太)はチェンバレンという人が謙虚で、日本の文化についても博学であったことについて驚いた。


 昔の言葉が失われていく一方で、新しい言葉が次々とできる。カタカナの入った安直な言葉や若い世代が用いる隠語のような言い回し。どうも、私にはわからない。
 フランスでは、アカデミーが認めないと言葉にならないらしい。そんな意味で、フランス語は美しさを保っているのかもしれない。
 それにくらべて、日本ではとにかく流行(はや)ってしまえば辞書に載る。「あさいち」などという安直な言い方や、「けいたい」などという対象を明示しない言葉でもよい。
 「携帯」とか「懐中」と言っても、対象は多い。その中の一つを言うときは、その言葉を使ってしまうと、後で他が生じたときに不便を生じるだろう。しかし、現在がよければ後のことなどどうでもよいという姿勢。これは、ほとんどの問題について同じ。例えば、公害の問題なども。

 いったい文部科学省は何を考えているのだろうか。自国の言葉の美しさを保持しようというような姿勢はまったく見られない。間違った利用法でも、流行(はや)ればよいのであろうか。声が大きいほうが何となく正論になってしまう。

 ちなみに、「ちなみに」などという本来ならば「書き言葉」で用いる接続語を平気で話し言葉に入れたりもする。しかも、頻繁に。もしかしたら、有名人が間違って使ったのを若い人が安直に真似たのかもしれない。
 そこで、手持ちの『インターネット入門』という本を調べてみた。すると、さすが「ちなみに」は一つもない。なぜならば、その本は話し言葉の技法を取り入れて書かれた本であるから。
 似た語法で、「因(ちな)んで」というのが
 「ボーは最初、モールス符号用の単位として使われました。通信工学の先駆者Boudot因んで付けられた単位です。」
とう文章が、一つあっただけである。

 私のもっている
  ノーバート=ウィーナー 池原止戈夫ほか訳『サイバネティックス動物と機械における制御と通信−』岩波書店
という本には、システムという言葉が一つも使われていない。
 「制御系」などとあって、まだその言葉が当時は定着をしていなかったことがわかる。

 言葉でも定着をするものと、そうでないものがある。
 戦前(少なくとも昭和3年以前)に『小公子』の素晴らしい翻訳を残された若松賤子氏は、ちょっと変わった表記を残しました。その冒頭「前編自序」に引き続く「第一回」の最初の部分は、

 <セドリックには、誰も云うて聞かせる人が有りませんかッたから、何も知らないでゐたのでした。おとッさんは、イギリス人だッたと云ふこと丈(だけ)は、おッかさんに聞いて、知ってゐましたが、おとッさんが、おかくれになったのは、極(ご)く小さいうちの事でしたから、よく記憶(おぼ)えて居ませんで、ただ大きな人で、眼が浅黄色で、頬髭(ほほひげ)が長くッて、時々肩に乗せて、座敷中を連れ廻られたことの面白さ丈しか、瞭然(はっきり)とは、記憶(おぼ)えてゐませんかッた。>

のようになっています。
 ただし、原文は縦書きでアンダーラインは右側にあります。また、ふりがなも、やはり右側に小さいルビになっています。ここでは、便宜上かっこの中に入れてしまいました。

 戦後の一時期に流行をしたトニー=谷氏の言葉などは、どうなったのでしょうか。その後、ほとんど聞かなくなったようです。また、だいぶ前にNHKでやっていた小林よしのり氏の「おぼっちゃまくん」などの言葉は定着をしなかったようです。

 言葉にも、流行があるようだ。
 やはり、言葉はその時代の社会の背景を映し出しているのだろう。それは、病気の流行とよく似ているかもしれない。
 例えば、陰茎ガンはほとんどなくなって、前立腺ガンが急激に増えているという。前者は各家庭に風呂やシャワーが完備して衛生環境がよくなったこと、後者は高カロリーの栄養を取りすぎるようになったこと、そんな「社会環境の変化」に影響をしているのではないか。


 下記は、「青空ブログ」に書いた記事。(ブログを五七七専用にするために削除するので、ここに移した。)

 どうもよくわからない「きりはなこくった」の意味と自信のない「五七七」の意義について、高守さんの意見を聞きに久我山まで行った。
 「きりはなこくった」は「けんもほろろ」に似た意味があるのではないか。しかし、日本語ではないようだ。なぜならば、国語辞典にはないからである。そんなこともあって、高守さんに教えてもらおうとした。
 すると、「もしかしたら韓国語かもしれない」ということだった。(後で、「木で鼻をくくる」のアドバイスを手紙でいただいた。)
 「マンマンデー」は中国語であるが、しばしば使う。しかし、私の広辞苑には「マンマンデ(慢慢的)」としてあって、一字異なる。そんな種類の言葉かもしれない。

 それから「五七七」の短詞形を考えたので、ご意見をうかがった。俳句は短くてむずかしいし、短歌はちょっと近づきがたい。旋頭歌や川柳はなれるまでが大変だろう。
 七五三では、やってみるとちょっと作りにくい。そこで、私は種田山頭火や尾崎放哉を様式化した定型短詞形として、五七七を思いついたのである。
 もしも、五七五になっちゃったときは最後に「けり」をつけて、けりをつけるのもよいだろう。また、詠嘆の「かな」なども用いることができる。
 最後の「七」の頭に付けるには「でも」とか「また」などもよいかもしれない。

 「五七七」の作例を示すと、駄作かもしれないが

 つきつめて、思うことなく、人生終わる。
 疲れ果て、思考衰え、それでも生きる。
 何故に、襲いきたるか、死後のことなど。

などのようにである。


Kuroda Kouta (2007.06.07/2007.06.12)