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  死ねばすべてが終わりか(死後の状態)



はじめに
死はすべての終わりか?
生命の定義?
死生観
仏教の死生観
キリスト教の死生観
死後の状態?
宇宙
時間と空間
ニュートン時間とベルグソン時間
アウグスティヌスの時間
エリザベス=キューブラー=ロス
死はよろこびか?
関連次項


はじめに

 還暦をとっくに過ぎて、いよいよ古希。ばつぼつお迎えが来るんじゃないかと思います。そこで、安心立命に関する私のいままでの疑問などをここにピックアップしてみました。
 今後、あなたの疑問やアドバイスを追加していきたいと思います。よろしくお願いをいたします。

死はすべての終わりか?

 「死はすべての終わり」ではなく、むしろ始めなのです。
 それは、あたかも一冊の書物を読み終えたときと似ているのではないでしょうか。なぜならば、その内容に刺激を受けて、想像が膨(ふく)らむからです。つまり、自分自身の考えと著者の記述とが心の中で葛藤をするからです。そして、やがてそれなりに自分なりの結論が出るのです。

 古代エジプト人にとっては、死は終わりではなかったようだ。なぜならば、『死者の書』が残っているからだ。その『死者の書』は、楽園に導いてくれる一種のガイダンスやマニュアルのようなものである。そこには、生前にやってはいけないことが42も列記してあり、それをもって裁かれるらしい。そこで、そのことについて返答を用意しておくために、『死者の書』があった。やってはいけないことが細々と書かれているが、そこには旧約聖書の「モーセの十戒」が含まれている。
 死ぬとしばらくして蘇えり、オリシスの前で自分の心臓を計って審判を受ける。エジプト人は「脳にではなく、心臓に感情が宿る」と考えたらしい。つまり、当時は「こころは心臓にある」として、審判でアウトになって、野獣に心臓を食われることは破滅を意味した。

 プラトンは人間の不滅を考えたが、その証明ができなかったそうです。つまり、肉体が死んでも魂が残ると信じていたのです。プラトンほどの人が「人間の魂の不滅」を書き残しているのですから、私も考えを改めざるをえないのです。

 ポーの「モレラ」には、妻が残した娘を溺愛する話がありました。妻は、その子の出産のときに死んでしまったのです。その娘は、妻とそっくりな美しい容貌になります。しかし、娘はやがて身ごもります。娘も、妻と同じように死後の生命を信じていました。その男は、その考えを馬鹿にしてせせら笑いをしたのです。
 やがて、娘も身ごもって死ぬのです。父に隠れて逢引をしたので相手が誰かわからないまま、子供を残して死んでしまいます。そして、男は娘と孫娘を妻の生まれ変わりと悟ったのです。


 「死後の世界」などと言っても、宗教や信仰の単なる「想像の産物」では過ごされない面があると思う。そのような人知の及ばないことが、現代においても多くあるからです。スエーデンボルグの書物を読むと、何となく笑ってすごされないものを感じるのは私だけでしょうか。


 原文『方丈記』全巻には、次のようなくだりがありました。

 <朝(あした)に死し、夕(ゆうべ)に生るゝ ならひ(習い)、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より來りて、何方へか去る。また知らず、假の宿り、誰(た)がために心をなやまし、何によりてか、目を悦ばしむる。その主人(あるじ)と住家と、無常を爭ふさま、いはば、朝顔の露に異ならず。或は、露落ちて花殘れり。殘るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花は萎みて露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。>

 このページは、おそらく完成できないでしょう。しかし、安心立命のためのメモとして次々と追加をしていく予定です。


生命の定義?

 有機物、つまり炭素化合物。しかし、炭素自体は無機物。
 しかし、ここで私(rik)は「鉱物である石にも生命がある」と考える。


死生観

 いま自分が生きているということは、紛れもない事実。そして、間もなく死ぬということも、否めないことであろう。とくに、古希を迎えた私にとっては。
 実は、いままで死生観などについては、ただ漠然としか考えてこなかった。それは、あたかも知らない土地に旅行をしようとしているときに、そこのことを調べないのと同じ。ふつう、サラリーマンは海外赴任をするときなど、その土地の事情をいろいろと調べるでしょう。
 しかし、これから間もなく死のうとするときに、先のことを考えないというのは、まったく不思議である。雨が降りそうな曇った日に、傘を持参して外出する。そして、雨に降られなくても、後悔はしない。用心である。
 同様に、死後のことを考える必要がなかったと後で知っても、悔やむ必要がない。実際に、そんなことを知れなくてもよいのだ。

 現代においては、死生観などについては誰も真剣に考えない。
 自分の生や死が、宇宙の中でどのような意味をもっているかなどについては、あまり考えないようだ。いったい、死んだらどうなるのかなどについても、なおざりにされているように思う。


仏教の死生観

 釈迦が弟子の一人に「死後の状態」について問われたときに、「矢を射られた王子」の話をしたという。つまり、直接の回答を避けたのである。


キリスト教の死生観

 イエスほどの人でも、死ぬことについて十字架上で悩んだらしい。福音書を読むと、そのようなことがわかる。


死後の状態?

 プラズマ

 心(こころ)

 意

 気


宇宙

 宇宙という言葉。


 ホーキングは、<宇宙がどのようにして始まったかを解明する理論にたどりつけたかもしれないが、宇宙がなぜ始まったかという答えはまだ見出していません。>と言っている。

 ちょっと似たことかもしれませんが、私(rik)は「人体の仕組みがわかり、遺伝子などの構造まで解明された現代でも、なぜ私が人間に生まれてこられたかがわかりません。」と思う。


時間と空間

 時間と空間を超えたような現象のあるのはなぜか。
 超常現象。
 霊視などという事象。

 時間について述べるときには、空間つまり宇宙の広がりまでを考えなければならない。
 例えば、私たちは「もっとも近い恒星シリウスの約9年前」と「アルタイルの16年前」を同時に見ていることになる。なぜならば、地球からシリウスまでの距離は約9光年、アルタイルまでの距離は16光年であるからだ。
 つまり、私たちは「異なる時間」を「同じ瞬間」に見ていることになる。


ニュートン時間とベルグソン時間

 ニュートン時間
 ベルグソン時間

 ベーコンは、
<若いときは一日は短く、一年は長い。歳をとると一年は短く、一日は長い。>
と言っている。
 単に意識の仕方、つまり感じ方ではあるが、なるほど哲学者らしい考察だと、私(rik)は思う。


アウグスティヌスの時間

 アウグスティヌスは、「時間は、この世が神によって創造されたときに生まれた」と考えたようです。
 『告白』(第11巻第13章)で、次のようなことを言っています。

 <あなた(神)は、創造のときに時間も造られました。天地が存在する以前には、時間もなかったのですから、「そのときには、何をなさっていたか?」などと尋ねるのは、「そのとき」がないのですから、まったく無意味ですね。>

 とどのつまり、宇宙が始まる前に何があったかなどという問いは、まったく言葉の遊戯と言ってもよい内容であって、ナンセンスであるのかもしれない。


エリザベス=キューブラー=ロス

 1926年(大正15年または昭和元年にあたる)スイス生まれ。チューリヒ大学医学博士。元シカゴ大学精神医学部教授。
 著書に、
  『死ぬ瞬間』
  『死ぬ瞬間の対話』
  『続 死ぬ瞬間』
  『死ぬ瞬間の子供たち』
  『新 死ぬ瞬間』
  『エイズ 死ぬ瞬間』
などがある。

 彼女は、一度死んで生き返った多くの人にインタビューして、次のようなことがわかったと書いている。つまり、蘇生者の体験談である。

() 死の直後に自分自身が自分の肉体から離れていく感覚がある。そして、死んだ肉体を上から見下ろしているように感じる。

() いったん死ぬと穏やかな気分になる。自分を蘇生させようとしたり、嘆いたりしている人に「そんなことをしなくても大丈夫です」と言いたい思い。

() 死んで、しばらくすると光に向かって進む。トンネルをくぐったり、川を渡ったりする。

() 自分の一生が次々と映し出される。

() 天国や地獄のイメージではなく、自分自身で自分を裁くのではないか。

 しかし、実際に死んだ人が話したのではなく、蘇生した人の体験であるから、もしかしたら上記は単に「脳のもたらした幻影」かもしれないとも、私(rik)は思うことがある。
 ボスの絵などにも、トンネルのイメージがあった。


 また彼女は『死ぬ瞬間』で、死にゆく人には五段階の心理プロセスがあると言う。
 それは、

(1) 否認……死期が迫っていることを否定しようとする。
(2) 怒り……なぜ自分が死ななければならないかと周囲に怒りや不満をいだく。
(3) 取引……これからは正しく生きるから、死にたくないと延命を願う。
(4) 抑うつ……自分が死んだ後の家族のことなどを考えてうつ状態になる。
(5) 受容……最後に、運命をなるべくしてなったものと受け入れる。

である。
 このようなことは、『十王経』などにも書かれていたと思う。


 ロスは、『「死ぬ瞬間」と臨死体験』に、「私の神秘体験」として次のように書いている。
 <科学の理解を超えた世界が確かにあり、それらは真実であり、現実であり、人間なら誰でもそれを体験できます。…… 神秘体験を得るために、山の頂上に行ったり、隠遁をしたり、インドに行ったりする必要はないのです。人間は誰でも肉体の部分、感情の部分、知性の部分、そして霊的な部分があります。>

 また、彼女は『「死ぬ瞬間」と臨死体験』の最後のほうで、自分の自分自身のことについても語っている。
 <1988年8月、脳卒中で倒れ、全身麻痺になって口がきけなくなりました。>
 その後、P&R(レストとリラックス=休息とくつろぎ)を実践することによって回復をしたそうです。


死はよろこびか?

 ロスの本には、「死はよろこび」というような記述も見受けられた。

 日本にも古くから、そのような考えがあったかもしれない。
 『歎異抄』第九条には、

 <一 念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころ、おろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに、よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。

踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと。云々。>

とある。
 なかなか意味深長なくだりだと私(rik)は思う。
 いかがなものであろうか。


関連次項

 仏教に出てくる菩薩は、生まれ変わって社会に奉仕するという。
 何の経だったか忘れたが、次のような驚くべき釈尊の言葉があったと思う。
 「お前たちは、私が王子として生まれて、城を出て修行をして今日があると思っているだろう。しかし、そうじゃなくて私は何万年も生きていて、今日があるのだ。」


Kuroda Kouta (2008.09.12/2011.01.24)