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  死のあらまし=従来の常識とは、まったく異なった考え方



はじめに
死に関する研究
「死」の概念
記憶断片のカットバック
『歎異抄』第二条
ホモサピエンスの異常な発達
夢と死

はじめに

 エレシウスの秘儀は、参加者が「死」や「死後の世界」を疑似体験したという。一方では、単にギリシア人の考えた想像の産物という人もいる。しかし、合理的に物事を考えたギリシア人のことだから何らかの根拠があることに違いない。と、私は思う。だって、ギリシア人は彼らが見たことのない原子をすでに考えていたのだから。


 Dr.HOUSEというテレビドラマ。
 71歳の医者が、ラットの実験中に原因不明の症状で倒れ、救急車で運び込まれる。そして、数日後に亡くなるのであるが、その前にハウスに尋ねる。ドラマではあるが、対話の双方が医者である設定だから、言葉には医学的な意味深(いみしん)の内容が含まれているのではないか。
 瀕死の医師 「一つ聞きたい。死後の世界には何があるのか?」
 ハウス 「何もない」
 (233チャンネル『Dr.HOUSE』シーズン3 #3 字幕版)


 最初に、おそるおそる記述をしておきましょう。それは、このホームページが従来の常識とは、まったく異なった考え方であるということです。そして、そのあらましは、次のとおりです。

(1) 時空、つまり時間・空間ともに一つの概念であり、宇宙には始めもなく終わりもない。

(2) その中における人間の一生についての生前・誕生・成長・老病・死・死後なども単に概念にすぎない。つまり、生後まもなくから死の直前までが、ふつう一連の意識として捕らえられる。

(3) 人間は、すでにわからないものに支配をされているらしい。

 以上のようなとっぴな考え方をしているので、なかなか理解はしてもらえないでしょう。しかし、このホームページは自分自身の安心立命のために作成しているので、誤解をされても仕方ありません。自分なりに何とか納得ができれば、それでよいからです。
 ここでは、学問をしているのではなく、自分が死ぬに先立って考え方をまとめているのです。そんな意味で、科学的というよりかむしろ宗教に近い内容かもしれません。
 そんなわけで、トンデモ本ならず「トンデモ ページ」と言われても仕方のない内容なのです。


 「オッカムの剃刀」(かみそり)(Ockham's razor)ということわざがあります。哲学者オッカムが論理的思考をするときに用いたことに因んだ言葉ようです。それは、「存在は、必然性なしに増加されてはならない」という原則。つまり、「必要以上の仮説をたてるな」ということでしょう。広範囲の事象を説明するには、単純な理論がよりよいとする考え方で、「思考経済の原則」とも言われています。しかし、ここでは仮説自体が途方のないものです。したがって、上の三つのべらぼうな仮説を承認しないと、先に進みません。


 とくに、死んだら自分がどうなるというのではなく、ある程度の認識をして納得をしておきたい。
 むろん、死んだら肉体は焼かれて分子に分解してしまうでしょう。同様にも、宇宙に溶け込んでしまうと考えるのです。それで終わりと考えるのですが、ちょっと不手際のようにも思えます。
 それを(まき)が火にくべられて、燃えることに例えた人がいます。灰になってしまえば、元には戻らないというのです。道元の『正法眼蔵』にも、そのような記述がありました。しかし、私には分子や灰も、高度な技術によれば再生ができるように思うのです。

 当然のことながら、私たちの置かれた宇宙や時空について、人間は人間の常識で考えます。しかし、「大きさ」や「時間」はそれ自体一つの概念なのです。大きいか小さいか、長いか短いかも、相対的なことでしょう。わかりやすく例えてみれば、人間のパラサイトであるウイルスにとっては、私たちの身体自体が宇宙ほどの大きさに感じるのではないでしょうか。
 また、時間も運動のあるところに相対的に見られる概念で、変化をしないときは時間そのものの意味合いがあいまいになってしまうでしょう。なぜならば、人間は自分自身の一生の長さをスパンとして考えるからです。何万光年という単位から、ナノセカンドなどという時間の概念です。


死に関する研究

 いったい「死とは何か?」という問題については、科学的・医学的な立場や宗教上の問題などで、非常にわかりにくくなっています。それで、その辺のことについて、自分なりにわかりやすく考えてみました。
 しかし、残念ながら科学的な証明はしていません。でも、自分自身で納得ができれば、それでいいんです。


「死」の概念

 「生死」とか「死生」と言って、「生」と「死」を対立的に考えるのがふつうである。しかし、そもそも「生」と「死」は第三者から見た状態に過ぎないのではないか。それは、置かれた時間と空間によって異なるのである。どこまでが生きている状態で、どこからが死んだ状態などと定義をすることは、きわめて困難なことであろう。

 それは、あたかも「幸福」とか「健康」「金持ち」などという考え方に似ている。
 例えば、百万円以上持っているものを金持ちと言うとする。すると、九百九十九万円しか持っていないものは貧乏ということになる。そんな考え方は、まったく矛盾していると思う。


 そのような曖昧模糊とした奇想天外の考え方に到達したのです。そして、ドン キホーテのようにそれに向かって行くのです。


記憶断片のカットバック

 走馬灯・バックフラッシュのような現象。
 欧米では、超能力者が犯罪の捜査に加担しているともいう。FBI関係でも、ジョー=マクモニーグルナンシー=マイヤーなどがいる。
 日本にも、宣保愛子(ぎぼ あいこ)氏や前田和慧(まえだ わけい)師、木村藤子氏のような特異な能力をもつ人が現実にいる。そのことをどう考えたらよいのだろうか。彼らは、距離や時間に関係なく、知覚ができるのかもしれない。
 かつて、テレビで早稲田の小太りの先生が宣保愛子氏に対して反駁されていたが、その先生は何となく次元が低く、考え方がお粗末であるような気がする。私も早大工学部の出身であるが、なぜか番組を見て、恥ずかしい思いがしたことを覚えている。
 なお私は、人間の生の状態を一種のプラズマと考える。むろん、その存続時間については、短時間であるなどということには、別な価値観をもっている。このことについては、別な箇所で説明する。


『歎異抄』第二条

 一 おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに「往生極楽のみちを問ひきかん」がためなり。しかるに、「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」と、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都・北嶺にもゆゆしき学匠たち、おほく座(おわ)せられて候ふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(=法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

 たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆへは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

 弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし。このうへは、「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々(めんめん)の御はからひなり」と。云々。


ホモサピエンスの異常な発達

 分娩にも不都合なほどの脳の発達。


夢と死

 夢と死は、何となく似た概念です。
 夢は、脳が記憶の整理をしているといいます。レム睡眠とノンレム睡眠。
 死は、記憶や思い出のクリア。ダライラマや勝五郎のような場合。



○私たちは、そこに置かれていながらに、気付かない不思議な現象。
 家畜が飼われている状態。水槽の中の金魚。


○科学は物質のみを対象とすることの不思議。
 脳の錯覚。脳の外側にも、現実にある世界はないか?


○死後の領域の存在。
 そのようなことを考えるのは、愚かなこととする現代科学。


○現代科学を信じるという習慣は、日本ではいつから始まったか?
 弥生時代・鎌倉時代・江戸時代・明治時代・GHQが支配した時代。


Kuroda Kouta (2008.09.12/2011.01.23)