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  死に関するエピグラム


改めて、新句で死など綴りてみたし。
ここで言うエピグラムとは、どんなイメージ?
眠りと死、非常に近い概念らしい。
西洋で、メメント モリは「死への警告」。
迷いおり、死は永遠か、一時的かを。
死はやがて、空(くう)に溶け込む状態と見た。
恥ずかしい存在のわれ、生死(しょうじ)わからず。
「空」(くう)の中、「気」が含まれて、「気」にはさらに「意」。
死ぬために生きているとも考えてみる!
結局は「死後の世界」の概念はない。
神さまは、神さまよりも大きい石を……?
死は永久(とわ)の休息なのか? 安息という。
結局は、何もわかっていないこと知る。


改めて、新句で死など綴りてみたし。

改めて、新句で死など綴りてみたし。


ここに、「死に関するエピグラム」というタイトルで、新たにプログを作成しました。安心立命から分離して、テーマを「死」に絞ったわけですが、それでもかなりの大きさになるでしょう。

なお、エピグラムは(epigram)は「ある思想を端的に鋭く表した風刺的な短詩」です。警句や格言などと言われることもあるようです。

ここでは、新句(十九音)という形式を用いて表現をします。そして、それがそのままタイトルになるのです。タイトルの下には、簡単な説明が続きます。
なお、新句(十九音)についての説明は、「日々記憶の断片
 」の右フレームにあるリンク集を参照してください。


ここで言うエピグラムとは、どんなイメージ?

ここで言うエピグラムとは、どんなイメージ?


エピグラム(epigram)とは、ある思想を端的に鋭く表した風刺的な短詩形です。そして、警句や格言などを意味することもあるようです。
死に関する文献には、チベット『死者の書』などがあります。また、有名な源信の『往生要集』。そして、『一言芳談』(いちごんほうだん)など。
『一言芳談』については、『徒然草』第九十八段に

<尊き聖のい云ひ置きけることを書き付けて、一言芳談(いちごんほうだん)とかや名づけたる草紙を見侍りしに、心に會(あ)ひて覺えし事ども。
一 爲(し)やせまし、爲(せ)ずやあらましと思ふことは、おほやうは、爲ぬはよきなり。
一 後世を思はんものは、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持經(ぢきゃう)・本尊(ほぞん)にいたるまで、よき物を持つ、よしなきことなり。
一 遁世者は、なきに事かけぬやうをはからひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
一 上臈は下臈になり、智者は愚者になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。
一 佛道を願ふといふは、別のこと無し、暇ある身になりて、世のこと心にかけぬを、第一の道とす。
この外も、ありし事ども、覺えず。>

という記述がありました。



眠りと死、非常に近い概念らしい。

眠りと死、非常に近い概念らしい。


何となく、私(rik)は「眠り」と「死」が似ているように思う。
死んだことがないのに、そのようなことはわからないはず。しかし、おぼろげにわかるのはなぜでしょうか。むろん、眠りのほうはすでに三万回くらい経験している。しかし、死んだ経験はまだ一度もない。海で溺れかかって、もうダメだと思ったことはあるが、そのときも死ななかった。

しかし、朝起き掛けに死んだような朦朧とした気持ちになるのはなぜか。おそらく、長い間に学習した死のパターンを現実に感じたのかもしれない。まったく、不思議なことである。

もしかしたら、生の中に「死」があって、死の中にも「生」があるのではないか。それは、眠りと目覚めが交互にやってくるように……



西洋で、メメント モリは「死への警告」。

西洋で、メメント モリは「死への警告」。


ヨーロッパやアメリカでは、「死を忘れるなかれ」という意味の「メメント モリ」という警告や確認が行われる。それは、骸骨をデザインしたりして暗いイメージをもっているが、芸術作品などにもなっている。

日本には、道元『正法眼蔵』を大内青鸞(おおうち せいらん、「鸞」の「鳥」は「山」)が要約した『修証義』総序に、
<生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし>
とある。
私(rik)は仏家ではないが、それでも死は一大事と思う。

また、『葉隠』の中にも武士道と関連して、死を重要視している。それは「死んでしまえ」ということではなく、「死の中で生きよ」ということらしい。

親鸞『歎異抄』には、弟子の唯円が死んだ後の極楽について、
<本当は勇躍歓喜して逝くところであろうが、どうもその気にならないのは、なぜでしょうか>
などと聞いたりしている。
人生の残り時間の中で、死を窮めておく必要があるのかもしれない。



迷いおり、死は永遠か、一時的かを。

迷いおり、死は永遠か、一時的かを。


「旧約聖書」『詩篇』の第九十篇「モーセの祈り」には、「死は永遠である」という意味のことが書かれている。しかし、仏教の「輪廻転生」思想では、「死は一時的な存在」だとはっきりいう。
いったい、どうなんだろうか。

この辺で私も、ぼつぼつ「死の覚悟」をしなければならない。「メメント モリ」ではないが、知人が次々と逝っているからだ。
そこで、まず死に臨んで孤独に耐えられる訓練をしておく必要があろう。死んでしまったら、おそらく永遠の孤独が続くであろうから。身体は焼かれて失われているので、足もないし、口もないだろう。だから、誰かに会いに行ったり、そこで話をしたりはできないかもしれない。むろん、脳がもはやないのだから生前のような思考はできないと思う。
 
だから、自分だけで気持ちを保つことをあらかじめ可能にしておきたい。どうも言っていることが支離滅裂で、論理的ではない。しかし、死んでしまったら論理の体系などはなくなって、いわゆる感覚だけが残ってしまうのではないだろうか。
などと私(rik)は考え始めた次第。



死はやがて、空(くう)に溶け込む状態と見た。

死はやがて、空(くう)に溶け込む状態と見た。


いったい人間の死とは、何であろうか?
その前に、そもそも人間とは何か?
わかっているようで、私(rik)には理解できない。

ふつう、人間と言えば皮膚に囲まれた一連の組織である。と、思いがち。それはほとんどが有機物で、細胞や組織から成っている。そして、筋肉・骨格、内臓、目・耳・鼻・舌などの器官から構成されると思う。
さらに、例えば骨格を上から頭蓋骨・下顎骨(かがくこつ)・鎖骨(さこつ)・肋骨(ろっこつ)・肋軟骨(ろくなんこつ)・脊椎・仙骨・骨盤・大腿骨・膝蓋骨(しつがいこつ)・脛骨・ひ骨、そして肩から手の部分は肩甲骨(けんこうこつ)・上腕骨・とう骨・尺骨などと考える。

しかし、それでは何となくわかったというに過ぎない。やはり、細胞などの部分にいっても、理解しがたい。もっと細かく考えて、人間は原子から構成されるとしたほうが、私にはわかりやすい。つまり、炭素をはじめとする有機化合物とカルシウムなどの金属(無機化合物)の集合体ではないだろうか。
 
そして、お迎えが来て棺おけに入り、焼き場で灰になる。その灰を撒けば、空(くう)に溶け込んだ状態になる。撒かなくて骨壷に入っていても、墓に埋葬されても、時間の経過とともに同じであろう。



恥ずかしい存在のわれ、生死(しょうじ)わからず。

恥ずかしい存在のわれ、生死(しょうじ)わからず。


生死(しょうじ)とは、「しょうし」とも読んで「生きることと死ぬこと」。つまり、「生と死」。しかし、生のほうを除いて「死ぬこと」つまり「死」だけをいうことがある。『徒然草』に、
<生死の到来 ただ今にもやあらん>
というくだりがある。

仏教用語として使われる場合には、「
衆生(しゅじょう)が生まれたり、死んだりする苦しみや迷いの世界」を意味する。「輪廻」(りんね)のことである。また、「生死即涅槃」(しょうじそくねはん)とも言う。
その意味は、
<すでに悟られた仏の知恵と比べれば、凡人の生死の迷いは、まだ不生不滅の涅槃の境界>
であるという意味。
さらに、「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)とも言う。

むろん、私(rik)は現時点で生きている。まさか、死んではいないだろう。 しかし、それは単に生物的なこと。実際には、死んでいるような日々が続くこともある。そんなわけで、一日も早く「生死を離れたい」。つまり、「何とかして悟りを開き、不必要な煩悩を捨てちゃって、生死流転を繰り返す世界から脱する」ことを望む。つまり、「生死の苦海(くがい)から出(い)ずる」ことである。

そんな意味で、恥ずかしいことではあるが、まだ私には何となく生死がわからない。



「空」(くう)の中、「気」が含まれて、「気」にはさらに「意」。

「空」(くう)の中、「気」が含まれて、「気」にはさらに「意」。


いったい何のことじゃい?
ここでは、「空」(くう)と「気」と「意」の関係を述べようとしている。しかし、私(rik)の幼稚な思考は、まだ支離滅裂。まだすっきりとは、体系がまとまっていない。それでも、とりあえずイメージをメモしておこう。

空気という言葉があるが、私は「空」と「気」が一体ではないと思う。
つまり、「空」の中に「気」が含まれているのではないか。そして、「気」の中にはさらに「意」がある。だいぶ以前から、そんな多重構造を考えていた。

それでは、そもそも「意」とは何じゃい?
よく「魂」(たましい)などという言葉を昔から使う。内容は少し異なるが、その「魂」が「気」のイメージにはぴったし。

今後とも、このページは書き足していくつもり。



死ぬために生きているとも考えてみる!

死ぬために生きているとも考えてみる!


まったく荒唐無稽なことかもしれない。しかし長い間にそのような考えが、自分自身の中に培(つちか)われてしまった。だから、ここにメモをしておいたほうが、ベターではないか?

『葉隠』ではないが、本質を見抜くのは難しい。武士道と言って、当時の武士は誰でも考えたことであろう。しかし、その究極については何であるかわかりにくい。

そのようなことは、芸術についても言える。また翻(ひるがえ)って、人生についても同様。
私は、必ずしも『孝経』を信奉するものではないが、
<身体髪膚これを父母に受く。敢(あえ)て毀傷(きしょう)せざるは考の始めなり。>
については、まったくもっともなことだと思う。
しかし、そのすぐ後に記述されている
<身を立て道を行ひ、名を後世に揚げて以て父母に顕はすは、孝の終りなり>
とあるのは、ちょっと理解できない。
そして、それを戦前の教育では、具体的に立身出世を「大臣」とか「大将」というように具体化して教えたからだ。

生きている間の幸福などは、たかが知れているのではないだろうか。
芥川龍之介『奉教人の死』の冒頭にある、
<たとひ三百歳の齢(よわい)を保ち、楽しみ身に余ると云ふとも、未来永々の果(はて)しなき楽しみに比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如し。−−慶長訳 Guia do pecador−−>
という引用のほうが、私(rik)には何となく現実を帯びている。

どうも書き進めると、次第に支離滅裂の度合いが増すようである。
だから、今回はここでやめるが、無責任の謗(そし)りを免れるために、次の一行を書き加えておこう。
「気」つまり意識や記憶などは、肉体とは別に残るのではないか?



結局は「死後の世界」の概念はない。

結局は「死後の世界」の概念はない。


よくよく考えてみると、「死後の世界」などというものが特別にあるわけではない。つまり、私(rik)の思いついたところによると、死んだ後に別な世界があるなどとは考えていない。生の中に死があり、そして死の中に生があると考えているからである。

さらに、宇宙に始まりがあって、やがて終わりがあるなどとは考えない。宇宙は、非常に大きくはあるが一つの概念にすぎなく、初めからあって、いつまでもある。その終焉などというものを考える必要はないだろう。一部分、例えば太陽系を考えて、太陽の燃え尽きるときを終わりなどと考える必要はない。

そもそも、「はじめ」とか「おわり」などと言うのは、あまり意味のあることではない。それは、ニワトリと卵のどりらが先にあったかを論議するようなものであろう。と、私の論理では結論付ける。
そして、そのような議論は果てしなく続いて、結論は出ないであろう。なぜならば、立場が変れば「はじめ」が「おわり」であったり、また「おわり」が「はじめ」であったりするからだ。

この項についても、なかなかわかりにくい。
改めて、私の考えている「系」(コスモス)について述べるであろう。


神さまは、神さまよりも大きい石を……?

神さまは、神さまよりも大きい石を……?


「死後の世界」つまり「死後の生」を考えるときに、神さまの概念が必要になる。そこで、まずタイトルのようなことを考えてみる。

ある人が、教会にやってきて、神父(牧師)に尋ねた。
「神さまは、ご自身よりも大きい石を持ち上げることができるのでしょうか?」
そこで、神父は困ってしまう。
なぜならば、「できる」と答えると石が神より偉大なものとなってしまうし、「できない」と答えると神の限界を示してしまう。
そこで、単に
「神を試みてはいけない。」
と言う。

もともと二律背反ではなく、わからない回答なのである。神さまに、「自己の限界」などを求めるのが間違っているのだ。「わからない」または「答えられない」というのが答えなのであろうが、それでは神の尊厳が失墜してしまう。
そこで、「神を試みてはいけない」などと質問自体を無効にしてしまうのではないか。


死は永久(とわ)の休息なのか? 安息という。

死は永久(とわ)の休息なのか? 安息という。


死のことを永眠(えいみん)などという。それは、永久に眠るということであろう。もう目覚めはないのだ。つまり、「目覚めのない眠り」が死なのである。そして、それが生(せい)から隔絶したものの安息や安らぎなのであろう。

ホームページには、「死後の世界」などという変なタイトルを付けてしまった。
しかし実際は、「死に関するハンドブック」または「死のハンドブック」とでもいった内容。それも自分自身に対してのもの。考え方には実に多種多様があるから、ハンドブックなどとしては誤解を招く。
また、「死後の生」とでもすべきかもしれない。やはり、誤解されるであろう。私(rik)は、「生の中にも死があり、死の中にも生がある」と考えている。オッカムの剃刀(かみそり)(Ockham's razor)ではないが、仮説の上に仮説を構築するのは身勝手なのかもしれない。なぜならば、「存在が必然性なしに増加されてはならない」という原則を離れるからだ。広範囲の事象を説明できる単純な理論がベストなのであるが、死についてはなかなかそうはいかない。昔から思想・宗教などによって、複雑な理論になってしまったからである。

例えば、医学でいう死の考え方と『葉隠』に書かれている武士道の死については異なっているであろう。
そんな意味で、私は恐々(こわごわ)と「死後の世界」の研究を始めたのである。もしかして、「意味のないこと」あるいは「ムダなこと」かもしれないという疑念に苛(さいな)まれながら。



結局は、何もわかっていないこと知る。

結局は、何もわかっていないこと知る。


いろいろと自分なりに、生死(しょうじ)について調べてみた。エジプトやチベットの『死者の書』なども、どうやら古くからのもっともな伝承が書いてあるらしい。また、スエーデンボルグやシュタイナーなどの文献にも、それなりの説得力がある。さらに、宣保愛子さんの残した言葉なども、なるほどと思う。

しかし、それらは何となく私がイメージしているものと違う。
確かに現代は科学万能のように思われる時代である。それでも、科学で割り切れないものが、まだ残っているのではないか。いろいろと考えてみると、結局は自分自身でも納得できないことがらが多く残ってしまった。

とどのつまり、何もわかっていないことを何となくわかった次第。
今後とも、もっと掘り下げて体系付けていきたい。



Kuroda Kouta (2008.12.20/2011.01.23)