総トップページにジャンプ

  仏・仏典についての研究



はじめに
そもそも信仰とは何か?
仏・菩薩・明王・天

仏典
仏像の製作
仏像の価値
「捨身飼虎」と「捨身羅刹」
 雪山偈(せつさんげ)=「捨身羅刹」
 サッタ太子「捨身飼虎」
仏教についての基本的な考え方
私の仏教(サマリー)


はじめに

 仏や仏典について独自な立場で、いろいろと考えてみよう。
 大げさに研究などと言っても、私が思いつくままに記述している未完成のページです。そんなわけで、何とも見苦しい内容です。時間をかけて少しずつ記述を整えていきますので、よろしくご理解ください。(2010年6月1日現在)


そもそも信仰とは何か?



仏・菩薩・明王・天



仏の種類


仏の文字が入る言葉や地名
 仏子(ぶっし) 仏の弟子たち。仏教を信じる人たち。仏弟子とも言う。また、広義には「一切の衆生」つまり「すべての人々」。

 仏子駅(ぶしえき) 埼玉県入間市仏子にある西武鉄道池袋線の駅。

 小仏(こぼとけ) 小さい仏像のこと。子供の遊びの一つ(「かごめかごめ」に似ている。)

 小仏峠(こぼとけとうげ) 東京都八王子市と神奈川県相模原市との境にある峠。かつて甲州街道の要道だった。現在は、小仏関跡が残っている。


仏典



仏像の製作

 最初は釈尊の足型、つまり仏足石などが信仰の対象になっていたようですが、やがて仏像が作られるようになりました。その仏像は、木や石や金属などを素材としました。「磨崖仏」(摩崖仏)(まがいぶつ)のように、自然の崖や大きな石に仏像を彫刻したものもあります。
 日本でもすでに平安時代に、大分県臼杵(うすき)や栃木県大谷でも、磨崖仏が作られています。それらの磨崖仏は、石仏の一種と考えてよいかもしれません。

 宇野浩二に『木佛金佛石佛』という短編があります。そのタイトルに振り仮名は、「きぶつかなぶついしぼとけ」となっています。しかし、ふつう「石仏」は「せきぶつ」とも読みます。むしろ、「いしぼとけ」は「感情を表面に出さない人や、非常に口数の少ない人」のことを言うようです。

 最近になって、コンクリート製の大仏や大観音が作られるようになりました。強度的に耐えられるからです。しかし、大船の観音様のように地盤に心配のあるところでは、全身像の建設が無理で、上半身だけになったということです。

  大仏と大観音と江戸六地蔵。


仏像の価値

 仏像は信仰の対象ですが、やはり人が作ったものですから、時代によって価値観が異なってきます。鎌倉の大仏さまでも、一時期に銅の目方で売りに出されました。しかし、解体費用と運賃がかかるので買い手が現れなかったのです。だから、今でも国宝としてで〜んと長谷に鎮座ましましているのです。




 国宝第1号となった京都広隆寺の弥勒菩薩です。まったく、何とも言えないほど美しいお姿です。四十年ほど前に、大学生が頬ずりをしようとして薬指を折ってしまった事件がありました。
 ドイツ人哲学者カール=ヤスパースは、この弥勒菩薩を前にして

 <私は、これまでに古代ギリシャの神々の彫像やローマ時代に作られた優れた彫刻も見てきた。しかし、今日までこれほど人間実存の本当の平和な姿をした芸術品を見たことがなかった。>

と言わしめています。そして、さらに

 <この仏像は、私たち人間の持つ心の平和の理想を、真に余すところなく最高度に発揮している>

とまで言ったそうです。
 宗教の違いで顔を削(そ)ぎ落としたり、爆破して壊したりすることがあります。たとえ芸術作品でも、信仰の対象として考えると、そうなるのでしょうか。


「捨身飼虎」と「捨身羅刹」

「捨身飼虎」「捨身羅刹」という話があります。いずれも釈尊の前生譚といいますが、何ともすごい物語です。
  「捨身飼虎」「捨身羅刹」は、信じられるか?


 雪山偈(せつさんげ)=「捨身羅刹」

 雪山(せつさん)は、ヒマラヤ。「諸行無常 是生滅法 生滅滅已(めつい) 寂滅為楽(いらく)」は『涅槃経』(ねはんぎょう)にある。後に釈尊は迦葉(かしょう)に、「私は半分の偈文のために鬼の餌として身を捨てようとした。それから長い時間を経た結果、さとりを開いたのである」と説いた。
 なお、この偈文の意味をとって「いろは歌」ができたという。弘法大師の作ともいわれたが、七五調四句の今様歌の成立は、ずっと後の時代である。


 サッタ太子「捨身飼虎」

 「サッタ太子の本生譚」は、釈尊の前世の話という。
 サッタ太子は、二人の兄と山へ狩りに行った。すると、飢えた母虎と子虎数匹に出会う。サッタ太子は力尽きた虎の前に体を横たえたのだが、虎には食べる力も残っていなかった。そこで、サッタ太子は竹で自分の首を刺して、血を流すことによって虎に食べさせた。

 私は、これはすごいと思う。
 法隆寺の玉虫厨子「捨身飼虎」(しゃしん しこ)」の絵で有名。『金光明最勝王経』などに説かれているらしいが、他にもいろいろある。古いものでは莫高窟の第428窟にもあって、北周時代という。


仏教についての基本的な考え方

 唯円が記録をした親鸞の言葉。『歎異抄』第十八条つまり最後の条、しかもその最後の箇所に、次のような驚くべき記述があります。文脈を知るために、後のほうも引用しておきましょう。
 なお、(かっこ)の中の記述はわかりやすくするために、私が補ったもので、原文にはありません。

 「聖人(=親鸞)のつねの仰せには、:「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばく(=説明をしにくい)の業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(=善導の『散善義』)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。

さればかたじけなくも、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。

聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こころによし(=善し)とおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、よき(=善き)をしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、:煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもて(もって)そらごと、たはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ、仰せは候ひしか。

まことに、われもひとも、そらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。

そのゆへは、念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたかい勝たんがために、まったく仰せにてなきことをも、仰せとのみ申すこと、あさましくなげき(=歎き)存じ候ふなり。

このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふなり。これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈のゆくぢ(=往く路)もしらず、法文の浅深をこころえわけたることも候はねば、さだめてをかしきことにてこそ候はめども、古(=故)親鸞の仰せごと候ひし趣(おもむき)、百分が一、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、書きつけ候ふなり。

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直(じき)に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めて、これをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。」


 上の最初の部分です。
 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばく(=説明をしにくい)の業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
とは、驚くべき述懐ではないでしょうか。
 私も、「一人がためなり」には、まったく同じ考え方なのです。


私の仏教(サマリー)



Kuroda Kouta (2010.05.22/2014.03.30)