総トップページにジャンプ

  多磨霊園(多磨墓地)



○はじめに
○多磨霊園(多磨墓地)正門 場所
○正門から入門
○みたま堂
○壁墓地
○倶会一処(くえいっしょ)
○行雲流水
○天涯比隣
○旅だち
○出会い
○心
○静
○幸
○愛
○偲
○追憶
○無
○墓という墓
○なんじを飾るべし
○ゆり
○自然石を利用した墓
○石を貼り付けた墓
○小さいピラミッド
○丸
○丸三つ
○三角・丸々・四角
○読書家
○将棋が好きだった人?
○像の好きだった奥さん
○小屋風の墓
○西園寺公望の墓
○高橋是清の墓
○内村鑑三・内村祐之の墓
○倉田百三の墓
○与謝野晶子・与謝野鉄幹の墓
○菊池寛の墓
○ボーズの墓
○平家の墓
○教祖の墓
○総理大臣の墓
○大学の納骨堂
○不気味な黄色
○見られた感じ
○ベラはいやよ!=無言の抵抗?
○ぼうぼう
○ヨセフとアンナ
○ペトロとマリア
○十字架か赤十字か?
○背の高い一家?
○帽子か笠か?
○苔むした墓
○黒田家の墓
○小金井門
○西門


○はじめに

 大正12年(1923年)に開設されたという「多磨墓地」。そして、昭和10年(1935年)に早くも「多磨霊園」と改称されて、現在に至る公園的な風景を取り入れている。個人のでっかい墓が多いが、平成5年(1993年)には新しい墓地形式の「みたま堂」が完成した。
 現在の墓地全体は、約128万平方メートル(およそ40万坪)という。そして、使用者数7万人、埋葬者数40万体。

 私にとっては、この墓地は野川公園と並んで絶好のプチさん(プティ散策)コース。墓地の中は無用心と考える人がいるがそうでない。警備や防犯カメラなどが充実しているので、ほぼ安全。いわゆる多摩動物公園などと同じで、東京都の管理区域なのである。
 だから、ときどき行く。とくに誰の墓に参るわけでもないし、単に神社仏閣に詣でるのと同じく、通りがかりのところを見る。そして、ちょっと変った形の墓に出会うと楽しくなってしまう。

 そんなわけで、気軽にパチリ。そして、ここに貼り付ける。しかし、そんなことを一方的にされては不都合である場合には、連絡をしてくだされば削除をいたします。

 私は、いわゆる丹波哲郎氏の言うような「大霊界」や「死後の世界」などをまったく信じていません。したがって、自分の墓などは少しも欲しくない。もしかしたら、ここにある「みたま堂」などは、私にとって合理的でいいかもしれないが、……


○多磨霊園(多磨墓地)正門 場所

 京王線の多磨霊園駅から「多磨霊園南参道」を歩くと、かなりの距離があります。だいぶ歩いてから、霊園表門(バス停)、つまり正門(表門であり南門)に突き当たります。歩くのがしんどいときは、バスに乗ってしまってもよいでしょう。バスを降りたところから、桜の季節に正門を見ると。




 正門の前は交差点になっている。




○正門から入門

 車は左右に分かれて霊園内に出入りし、その中央に門柱。「東京都多磨霊園」とあります。




 まっすぐ入ると、特種の真ん中に塔。




 その付近に、東郷平八郎と山本五十六の墓があった。いずれも、非常によく似たスタイル。
 石柱には、「元帥海軍大将侯爵東郷平八郎墓」と書いてある。右に半分だけ見えるのは、奥さんの墓。




 「元帥海軍大将正三位大勲位功一級山本五十六墓」とある。




 今度は、墓地の中を南側の道路から写したスナップを二枚。大きな松の木があるので、何となく落ち着いている。




 中では、工事をしている。




○みたま堂

 正門を入ると、すぐ右手(東)に「みたま堂」。長期収蔵のほかに、一時預かりのものもある。




 正面の台でお焼香ができる。




 中へ入ると、大きな塔がある。そして、向こうに見える白い部分が、ぐるりと丸く部屋を囲んで納骨室になっている。その高さは、背丈をはるかに越える。




 堂々たる建物、おごそかな霊塔、その休憩室の外に椅子とテーブル。いずれも霊園内に生えていた木から作ったようだ。ただ切っただけで、加工をしていない。したがって、腐りかけている。座ると何となくお尻が湿気てしまいそう。そこで、私はいつも右手にある控え室の中で休憩をする。たいてい誰もいなく、一人だけで静かである。ときどき、ニワトリの鳴き声が聞こえてくる。




○壁墓地

 最初は一区画が10坪近かった墓地も、次第に手狭になってきたのだろう。みたま堂などと同様に、工夫が必要である。そこで、13区には壁墓地が現れた。しかし、それでも民間の墓地と比べると一人当たりはかなりのスペース。広々としている。




 回りの環境などは、整然としていて桜が咲いていた。




○倶会一処(くえいっしょ)

 「倶会一処」は、仏教で使われる言葉。その意味は、「念仏を唱える人はすべて等しく西方浄土に往生できるので、死んでもまた一つの場所で会える」ということ。阿弥陀経の「諸上善人倶会一処」による。




 下の墓も、どうやら「倶会一処」のようである。あまりにも達筆なので、一文字ずつの読み方には、ちょっと自信がないけれど。




○行雲流水

 乞食(こつじき)の僧たちが、することであろうか。
 行雲流水(こううんりゅうすい)は、もともと「空を漂う雲」と「川を流れる水」。つまり、「行雲流水の生活」などと言って、「物事に執着をしないで、淡々として自然の成り行きに身をまかせる」こと。




○天涯比隣

 天涯比隣(てんがいひりん)とは、いったいどういう意味だろうか。
 「天涯比隣の若し」は、漢詩から「お互いに遠い所にいても、心は常に通っている。つまり、隣に住んでいるのと同じように親しく思う。」という意味。いったい、どうして死んでしまった人たちと、まだ生きている私たちが、天涯比隣なのだろうか。




○旅だち

 なかなか素晴らしい墓標ではないか。
 私は、ふと「冥土の旅の一里塚」などと言う言葉を思い出す。そしてそれとともに、芭蕉の最後の句の「旅に病で(やんで)夢は枯野をかけ廻る」を連想し、さらに『奥の細道』の序文
 <月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。>
を考えてしまう。

 なお、写真の左に「4区1種25側」という白く小さな標識が立っているのがおわかりだろうか。そのような方法で、すべての場所が示されるのである。「区・種・側」の次に「番」を言えば、どの墓かがわかるようになっている。しかし、このページでは墓の位置が問題なのではない。だから、「区・種・側・番」などは示さない。したがって、次に行ってもどこかわからないことがある。それはそれでよい。




○出会い

 出会いという言葉も、なかなか意味深長である。このような人、実際にはご遺族は、どんな人であったろうかと、私はつい偲(しの)んでしまう。




○心

 丸い石に、「心」と刻んだ墓がありました。植木も丸く刈り込んであるので、何となく全体のイメージがぴったりと落ち着いています。




○静

 「静」ということは、お墓の中で心静かにしたいということであろうか。




○幸

 生前から、いつも幸せを願っていた人かもしれない。




○愛

 愛し、愛された人であろう。




 この愛には、名前があるので先立つ人へのメッセージかもしれない。




○偲

 「偲び」(しのび)と読むのであろうか。あるいは「偲ぶ」(しのぶ)かもしれない。




○追憶

 追憶というタイトルは、何となくノスタルジックではないか。




○無

 究極の墓碑銘は、「無」になるようです。あるいは、「空」かもしれません。




○墓という墓

 単に「墓」という字を書いた墓があった。




○なんじを飾るべし

 すごいメッセージを残した人だと思う。
 <なんじを飾るべし 愛する魂よ>
とあるが、誰が誰に言っているのであろうか。
 当然、死者が墓前にいる人に命じている文章。もしも、遺族が亡くなった人の魂(たましい)に言っているのならば、不遜のそしりを免れない。と、私は思う。もしかしたら原文が、旧約聖書の『詩篇』にでもあるのかもしれない。




○ゆり

 ゆり(百合)という墓があった。場所から考えて、新しい墓であろう。百合のところに、写している私の顔が映ってしまった。




○自然石を利用した墓

 庭の造作のように、大きな自然石がで〜んと置いてある。色合いと言い、なかなか見事。




○石を貼り付けた墓

 墓柱に石を貼り付けた墓もあった。何となく素人が作った意匠みたい。




○小さいピラミッド

 ピラミッド(pyramid)は、もともと石や煉瓦で造られた四角錐形の建造物。古代エジプトでは、王や王妃などの墓として建設された。でかいのは、高さ146メートルもあるらしい。「金字塔」とも言う。




○丸

 丸い玉が、そのまま墓石になっています。




○丸三つ

 丸が三つというか、球を三つ重ねた墓があった。




○三角・丸々・四角

 てっぺんが三角、そして丸が二つ、その下が四角。何となく雪仏(ゆきぼとけ=雪だるま)が箕の笠をかぶって、台の上に乗っているような感じを受けるのだが、そんなふうに考えるのは、仏さまに対して不遜であろうか。




○読書家

 もしかしたら、故人が読書家だったのかもしれない。




○将棋が好きだった人?

 もしかしたら、将棋が好きだった人の墓かもしれない。もしかしたら、プロの棋士(きし)だったのかも。私は何となくそう思うのであるが、あなたはどうお考えでしょうか?




 もう少し古い墓だが、この人もそうかもしれない。でも、ちょっと上の角度が違うかも?




○像の好きだった奥さん

 像を作ったのは亡くなったご本人ではないでしょう。ご遺族が、偲ぶために像を作ったのかもしれません。右に観世音菩薩の立像がおられるのも、コントラストとしては見事。昔の分譲で広い敷地だから、少々大きくてもいろいろな物が置ける。




○小屋風の墓

 小屋風の墓とでもいいましょうか。小さいながらも、家の形をしていて郵便ポストまであります。




○西園寺公望の墓

 西園寺公望(さいおんじきんもち 1849〜1940)は、政治家。明治法律学校(明治大学)を創立。文相・外相・蔵相などを歴任した。パリ講和会議の首席全権だった。




○高橋是清の墓

 正二位大勲位となっている。高橋是清(たかはしこれきよ 1854〜1936)は、財政家であり政治家だった。日本銀行総裁や蔵相を経て、首相。金融恐慌や世界大恐慌に対処したが、二・二六事件で暗殺された。




○内村鑑三・内村祐之の墓

 内村鑑三の墓があった。
 内村鑑三(1861〜1930)は、無教会派キリスト教伝道者。教育勅語に対する敬礼を拒否して免職となったり、日露戦争に対して非戦論を唱えたりした。『余は如何にして基督信徒となりし乎(か)』『基督信徒の慰』などの著作がある。
 息子の内村祐之は、クレチェマーの『天才の心理学』を翻訳した。その本は、塩入円祐さんの勧めで昭和39年(1964年)ごろに読んだことがある。




 内村鑑三の娘さんの碑らしい。「再た会ふ日まで」という言葉が、刻まれている。




 墓碑には、神を崇める詩が英文で書いてある。




○倉田百三の墓

 倉田百三の墓。




○与謝野晶子・与謝野鉄幹の墓

 同じ大きさで並んでいる。向かって右が、与謝野晶子の墓。夫婦というよりか、何となく双子の墓みたい。




○菊池寛の墓

 菊池寛の墓があった。




 本の形になった石碑があったが、どうやら息子さんのものらしい。




○ボーズの墓

 もしかしたら、チャンドラボーズ(チャンドラ=ボーズ)の墓かもしれない。あるいは、ビハリボーズ(ビハリ=ボーズ)かもしれないが。しかし、私は墓参に来たわけでないので、どちらでもかまわない。
 なお、チャンドラボースは「インド独立の父」と言われる。また、ビハリボーズも同じく革命に関係したが、新宿中村屋の「インドカレーの生みの親」でもある。
 それでも墓に、わざわざ「ボース家」とあるのはなぜだろうか。
 「杉並区の寺」にある蓮光寺で、チャンドラボーズの像を見たことがある。




○平家の墓

 平家の墓があった。




○教祖の墓

 何とも見事で、厳かな墓。鳥居まである。右側の小さいのは、どなたの墓であろうか。




○総理大臣の墓

 歩いていると、聞いたような何となくうろ覚えの人の墓がある。そんなときに私は「老化予防」の一環として、帰って調べる。すると、いろいろなことが分かる。この墓は、かつて首相だった人ではないだろうか。「平沼騏一郎墓」とある。




 同じく、「斉藤実」。首相であったが、海軍の軍人でもあった。




○大学の納骨堂

 大学の納骨堂があった。おそらく、解剖などに使われた人の骨が納められているのでしょう。
 「東邦大学納骨堂」とある。確か「東邦大学」は医大であったと思う。




 ちょっと見にくいが、「慶應義塾大学医学部 納骨堂」とわざわざ「医学部」としたところに、意味があろう。




○不気味な黄色

 何となく黄色は、墓にそぐわない。そう思いませんか?
 豊田(日野市旭ヶ丘)にある富士通ファナックの工場の色や、高尾(八王子市初沢町)にある楳図かずお氏の家などは、ちょっと常識外れで私には馴染めないでしょう。




 近づいて見ると、三人の女性の浮き彫り。残念ながら、真ん中の字が私には読めない。




○見られた感じ

 墓の中のプチさん(プティ散策)をしていて、ふと見られた感じがした。どなたの墓かは知らないが、鳥居まで付いていて、おごそかな雰囲気である。その霊屋(たまや・れいおく)が、目があって何となく顔に見えたからだろうか。もしかしたら、墓の中から何かを語りかけているのかもしれない。




○ベラはいやよ!=無言の抵抗?

 「ベラ・アンナ 最愛の人達と安らかにここに眠る」とある。そして、この墓を建てた人の名前。でも、一族の人々の墓は、草ぼうぼう。ベラさんの墓は、一族の人を避けるように、そしてのけぞるように右に傾(かし)いでしまった。




○ぼうぼう

 すごい墓があった。手入れをしていないので、雑木林のようになっている。




○ヨセフとアンナ

 ご主人がヨセフ、そして奥さんがアンナ。そして、左隣(ひだりとなり)のカップルは、は奥さんがマリア・アンナ、ご主人は洗礼名なし。十字架の位置でもわかる。この「マリア・アンナ」であるが、もしかしたら洗礼名を二つもっているのかもしれない。しかし、そうではなくて「マリア・アンナ」が一つの名前であるのかも? 例えば、「マグダラのマリア」つまり「マリアム」のように。
 しかし、私にとっては「どちらでもかまわない」のである。




○ペトロとマリア

 「瑪利亜」を「マリア」と読むのはよいにしても、「伯名禄」を「ペトロ」とは読めなかった。ついでながら「瑪」の字も、本来の読みは「バ」か「メ」である。




 なぜそんな難しいことがわかったかというと、下の墓碑で洗礼名を見たからである。




 また、この墓だった隣の墓だったか覚えていないが、下のような絵が墓石に刻んであった。日本の墓にしては、何となく珍しかったので写しておいた。むしろ、ピエタ(piet)のイラストのほうがよかったかもしれない。ピエタは、「敬虔」とか「慈悲」のことで、図形としては「イエスの遺体をひざに抱いて悲しんでいる聖母マリア」を表す。つまり、嘆きの聖母像。




○十字架か赤十字か?

 クリシチャンの人であろうか、赤十字関係の人だったのだろうか。もしかしたら、赤十字関係でクリシチャンの人であったかも。




○背の高い一家?

 もしかしたら、マサイ族のように背の高い一族・一家なのかもしれない。何となく、そんな気もするのだが。なお、マサイ族(Masai)はアフリカのケニア南部からタンザニア北部にかけて住む部族。つまり、マサイ語を話す諸部族の総称。




○帽子か笠か?

 墓標のてっぺんに帽子か笠のようなものが付いている。あるいは、傘をさしているのかもしれない。
 あなたは、どのように思いますか?




○苔むした墓

 てっぺんに苔(こけ)が生えて、落ち着いた感じの墓。堂々としていて、門戸(もんこ)を閉じ、何となく参拝者を睥睨(へいげい)している感じ。




○黒田家の墓

 黒田家の墓があった。もしかしたら、親戚かもしれない。でも、花が絶えていなかったので、やれやれ。




○小金井門

 小金井門を入ったところにある塔。




 小金井門を外から見たところ。東八道路から南を見て写す。




○西門

 西門は浅間山公園に近く、開放的である。
 なお、浅間山そのものは多磨霊園の中(25区と26区の間)にあって、「きすげ橋」で浅間山公園と行き来ができる。「きすげ橋」は、「日光きすげ」と似た「浅間きすげ」という植物の名前にちなんで付けられたらしい。




Kuroda Kouta (2007.10.05/2010.03.07)