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  父の思い出


 父の思い出は、実にたくさんある。
 私の父(黒田久太、くろだひさた)は、生前に国家公務員だった時代がある。しかし、清廉潔白な性格なので贈賄天下りなどはむろんのこと、役得の利用もほとんどしていなかったと思う。まして、汚職などということには関係なかったに違いない。

 私がまだ幼いときに、よく父から

    <天知る、地知る、我が身知る>

と言われ、ちょっとでも悪いことや間違ったことをすると厳しく注意をされたものだ。
 また、

    <足る(たる=足りること)を知れば、不足なし。>

という言葉も、何回か聞いたことがある。
 それは何の出典による言葉か聞き忘れたが、仏教や東洋の哲学以外にも、ギリシアのマルクス=アウレリウスなども言っているようだ。京都の寺にあった「口」の字を中心にして上右下左に配した、

    <吾唯足知=吾ただ足を知る>

から来たのかもしれない。

 とにかく、「貧しくても心豊かな日々」を過ごすことを父から教えられたことは事実。

 また、政治家の中に「礼儀も恥も外聞も知らず、遠慮がなく厚顔無恥な人が多いのは困ったものだ!」などと、何かの拍子に妻(私の母)にグチっていたのを聞いたりもした。そんなために、幼心(おさなごころ)ではあったが、私は「礼儀を知らない人と親しくなっておつきあいをしても、結果的にいいことはない」などと思うようになった次第。
 そして、「一期一会」という言葉の本当の意味を父から学んだのです。

 その父は、現在の私よりもずっと若い年齢(六十一歳)で死に

    久遠院釋道稔信士(くおんいんしゃくどうねんしんし)

という戒名と、

    勲三等旭日章(くんさんとうきょくじつしょう)

という勲章をもらった。
 むろん、本人がそれを願ったのではない。なぜならば、この二つに関して父は、すでに意見を言うことができなかったから。

 父が清廉潔白で、役得を嫌っていたことの話。
 公務員であった衆議院決算委員会の専門委員をやめるときに、道路公団の副総裁の椅子を勧められた。しかし、父はそれを断って仙台にある大学の教授になった。その学校で、財政学の専攻教授がいなかったためと、若い人を育成したかったからと後で私は聞いた。

 しかし、大学へ行って二年目のことである。
 新年の最初の授業をするために仙台に行って前日に泊まった森重という旅館で、脳血栓のために死んでしまった。寒かったためであろう。トイレで倒れていたということだ。そんなわけで、死体を東京に運ぶのも大変と思っていたら、大学側が提案をしてくれた。
 学長が来て、勤務した年数が少ないので退職金は出せないが、葬式をさせてくれと言う。だから、葬式は仙台でしてしまった。私は兵庫県からかけつけたが、とても寒い日であったことを覚えている。
 つまり、ゴージャスな葬式と厳かな戒名は、大学が手配をしてくれたためである。

 いっぽう勲章は、宮内庁から届けられたが、もし父が生きていたら事前に辞退をするだろう。
 おそらく、父の親しい人が勲章を授与する人たちを選考をする役職にあったのかもしれない。お互いに、そのような利権を持ち回っているということも後で聞いた。
 だか、そんなことを知らない母は、恐縮しつつも、ありがたがって受けてしまった。

 ついでながら、昔は組織を維持するために「万全の守り」をしたようだ。内部の秘密を隠したり、もみ消したりもしただろう。大企業はむろん、官公庁にもあったみたい。最近になって、内部からの告発つまり「たれ込み」が増えてきたようだ。もしかしたら、報道のやらせなどから始まったことかもしれない。
 遠い親戚に、妻を日本刀で斬り殺してしまったが、刑を問われなかった人もいるくらいだ。

 また、叙勲ではないが不思議に思うことがある。
 それは、一万円札の肖像に渋沢栄一や大蔵喜八郎でなく、福沢諭吉がなっていること。また、五千円札に卑弥呼はともかく、紫式部や清少納言がなっていないこと。考えてみると、何となく当時の大蔵省印刷局の担当者の立場上の思惑(おもわく)があったかもしれない。つまり、同じ学校卒だったり、同じ出身地だったりすることだ。
 そんなことも、父が叙勲されたときに、ふと何となく考えた。

 私は、私の祖先のことにはあまり興味がない。
 また、郷里(兵庫県たつの市)に関する故事なども、とくに知りたいとは思わない。
 かつて、高守さんから「お前は聖徳太子か日蓮の生まれ変わりだ」などと奇想天外のことを言われたことがある。私はそういうことに、あまり関心がないので「そうであってもよい」と思っている。しかし、あるいは「石川五右衛門」の子孫であっても、一向にかまわないのだ。

 しかし、一代前の直接に人間関係をもった父に対しては懐かしさとともに、限りない関心が今でもある。すでに死んでしまったのであるが、生きていてくれればよいと思っている。
 インターネットで「黒田久太」とインプットすると、衆議院の算委員会の専門員だったときの議事録などが残っていて出てくる。何となく、なつかしく感じる。そんなわけで、私は父に会いたいときにグーグルで検索をするのである。

 戦前、つまり私が小学校に上がる前、父はめったに家にいなかった。憲兵が見張って、追いかけていたからである。当時としては、非合法の活動をしていたのだ。
 そのように妻、つまり私の母と結婚をする前から、ずっと地下活動をしていたらしい。

 学生時代には、河上肇博士を中心とする京大事件に連座して、長く刑務所に入っていた。そして、戦前は国内で就職ができないので、妻とともに満州に渡ったようだ。新京特別市というところ。今の長春(ちゃんちゅん)である。そして、そこで私は生まれた。
 そのときに満州の年号が「康徳元年」であったので、私の名前は「康太」になったらしい。

 ともかく、まっとうな職についたのは戦後のいわゆるレッドパージなどが解かれた時代。
 しかし、父は共産党員ではなく、かつての社会党に属していたようだ。だから今でも、社会党の名誉党員になっているらしい。社会党というのは、土井たか子さんではないが発達した現代社会の中では、どうもぱっとしない政党のようだ。
 現在は、どうなっているのだろう。もしかしたら、解散をしたのかもしれない。

 つまり、戦後になってから国家公務員として、衆議院予算委員会や決算委員会の専門委員になった。
 そんなわけで、兵庫県たつの市(かつての龍野市)から三鷹の上連雀にあったバラック建ての曙住宅に上京したわけだ。

 だいぶ前に、河上会からの色紙や文鎮などの記念品を送ってきた。
 色紙には、

    <凡そ学に志す者は才の乏しきを悲しむなかれ 努むることの足らざるを恐れよ ……>

とあって、大いに学ぶことが多かった。
 そのころ知人から、

    「河上肇『自叙伝』に「黒田某」とあるのはお前の父親か?」

と聞かれたことがある。
 しかし、私にはそんなことは、どうでもよい。
 とくに返答をしないで「調べておく」と言って、そのままになってしまった。むろん『貧乏論』や『自叙伝』は何回も読んでいる。『自叙伝』は、岩波文庫のものでもかなり分厚い5分冊になっている。

 勲三等の勲章は、母が赤いルビーの部分と白っぽい金具の部分、そして、紐の部分に分けてしまった。
 そして、私は長男だったので赤いルビーの部分をもらったのである。しかし、子どもが幼かったので、おもちゃにしていて、どこかになくしてしまったみたい。

 その他、父に関する思い出は多い。後日、少しずつ書き足していこうと思う。

 最初に、父は「清廉潔白な性格なので贈賄や天下りなどはむろん、役得の私利用もしていなかったと思う。」と書いた。しかし、衆議院共済会の設備などはこまめに申し込みをして、よく利用をしたようだ。
 私たちも、そこへ連れて行ったもらうのが楽しみであった。
 そんな思い出の一つ。

 『RKOホームページへようこそ!』

の2行目にある「自己福音書」の『食用がえる』である。
 そして、そのくらいの権利使用くらいが、公務員だった父のせいぜいする範囲であった。


Kuroda Kouta (2007.07.13/2007.07.16)