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  新句(十九音) 作品集(2013年4月分)



人間は生まれながらに、政治的なり。

アリストテレスは、「人間は生まれながらにして、政治的な動物である」と言ったそうである。つまり、生きている間は、どこでも政治的な動きをするということであろう。私は、政治や宗教は苦手であって、なるべくそれに関係がしたくないと思っている。映画や芝居などを見ていると、監獄の中までも牢名主がいて、何となく政治的である。つまり、日常の政治の中で別の社会ができて、そこに別の政治が作られるようだ。


それぞれの群に孤独を好む性(さが)あり。

春先に咲くオオイヌノフグリ。多摩川の畔(ほとり)などに、群生して咲く。しかし、よく見ると他のものと、ちょっと離れたところに咲いているものもある。つまり、何となく孤独を好んでいるようだ。オオイヌノフグリなどと言うと花が小さいので、どれも同じだと思ってしまう。あたかも個性などというものが、ないのではないかと考える。人間の中にも、ディオゲネスのような生き方の個性があるので、小さい花でも個性があるのだと思う。


経済は、世界支配の陰謀らしい?

あまり詳しいわけではないが、何となく政治や経済は世界を支配するために利用されているようにも思う。ちょうど、ニワトリなどの家畜が、檻に入っている構図である。ある程度の自由はあるが、欺かれた日々の生活を強いられている。やがて、自分がフライドチキンになることを知らない。デビッド=アイクは、「その支配に入らないことが大切である」と言っている。つまり大切なことは、すべてが被支配になっては、そこで終わりということであろう。


何故に忘れられたか、アポロニウスは。

ティアナのアポロニウスという人がいたらしい。イエスのプロトタイプに当たる人だと言う学者もいる。イエスの行った奇跡と同じことを残していて、私はキリスト教ではないが何となくわかる。アポロニウスが行った奇跡は、当時としても素晴らしいものだったから、すべてイエスの業績として残されたのではないか。新約聖書の中にも手紙の内容が書き加えられて残り、そのタイトルだけが福音書として現存しているように、今となってはわからないことが多い。


ガム噛めば唾液が分泌(ぶんぴ)、健康によい?

ガムをくちゃくちゃと噛めば、口腔に唾液が分泌してくる。そして、その唾液を飲み込むと、健康によいかもしれない。貝原益軒『養生訓』に「痰(たん)は吐き捨てて、唾液は飲み込みなさい」という記述があったと思う。そもそも、食事のときによく噛むというのは、唾液の分泌をうながすための方法ではないだろうか。また、最近のガムにはキシリトールが入っているので、むし歯の予防にもなるようだ。


「ラマンチャの男」と似たり、仮想空間。

「ドン=キホーテ」である。基本的な学問はしているものの、一部分が荒唐無稽で支離滅裂である。風車を悪魔だと勘違いして突進をしたり、農家の娘をドルシネア姫だと思ったりする。そして、その武士道とも似た命がけの仮想空間が、物笑いの種になる。最後に、臨終の場でよきキリスト教徒に改心する。しかし、ラマンチャの男のほうは、地下牢から階段を登って、宗教裁判に向かうことになるようだ。


アイスノンすれば、スッキリ頭がさえる。

水枕のようなもので、アイスノンというのがある。冷蔵庫や冷凍庫に入れておけば、短時間で冷たくなる。それをタオルに包んで、枕にする。スッキリして、気持ちがいい。ふつう、そのままで朝まで冷たい。後頭部から脳を冷やすことになって、健康にもよいらしい。私も愛用者で二つ持っていて、真夏の暑い時期などには交互に使う。気持ちがいいので使っているが、実際に健康に有益なのかどうか、あまり詳しくは知らない。


人生の記憶をここに、残しておこう。

この『日々記憶の断片』のことである。今まで、ずいぶん長い間、書き綴ってきた。文学的な価値はないであろうが、自分自身のメモ帳としては、かなりの意味があるだろう。なぜならば、その都度思ったことを「記憶の断片」として、正直に綴ってきたからである。つまり、「新句(十九音)」という短詩形で綴った断章用プログなのである。俳句や短歌とも似ているが、文字数が少し異なっている新しい短詩形。私は、引き続き人生の思い出を残していきたい。


何もかも面倒になり、疲れるばかり。

人生の一時期には、何をするのも面倒になって、身体が疲れてしまう時期がある。とくに、還暦を過ぎた高齢者の場合に多い。私は、還暦のころはまだまだ元気があったが、さすが古稀をすぎることから、気力を失ってしまうことが多くなった。気力はあっても、体力がない還暦以前の状態と比べて、何事も面倒になってしまう最近の状態は、困ったものである。何もかも面倒になり、疲れるばかり。億劫という仏教の言葉があるが、まさにその通りである。


義姉の骨、教会葬とすることになる。

本来ならば、義姉の骨が入る墓地に「いっしょに入れたくない」などと言う者がいて、困っていた。そんなときに、カトリック教会から、五日市の教会墓地に納骨を引き受けると言ってきた。そんな次第で、四月六日(土曜日)に遺骨と埋葬許可書、そしてお別れ金(五万円)を教会の人に依頼した。やれやれである。生前に兄弟たちとトラブルがあって、葬儀なども私と妻が出席しただけで、他の兄弟は最後まで姉のキリスト教を理解していなかったようだ。


恐ろしい水に関する事実を知った。

最近になって、体内にある水に関して、恐ろしい事実を知った。それは、喉が渇いたときには、すでに脳血栓などの一歩手前であること。つまり、渇きを覚える前に補給をしなければならない。ヒトの体内の半分以上が水分であるから、当然なことかもしれない。それでは、どんな水を補給すればよいか。生水(湧水や地下水)、ペットボトル、ビールなど。ボトルなどは、煮沸されていることが問題。生ビールは良質な水を5パーセントのアルコールで消毒している。


自分とは、いったい何か? 閉じた空間。

自分とは、いったい何なのだろうか。ふつう、皮膚で閉ざされた一連の物質を考えている。そして、その物質に何を着せようか、食べさせようかなどと執着する。注意が向くし、関心がある。しかし、プラナリアを考えてみると、必ずしもどこまでが自分かわからない。プラナリアは、ヒルやサナダムシと同じ扁形動物。 再生力が非常に強く、細かく切っても2週間ほどで個々に再生する。つまり、どこまでが自分かわからないのである。


村八分、その習慣も、いつしか失せた。

昔から「村八分」という習慣があった。村の者が、誰も相手にしない人たちである。つまり、爪弾(つまはじ)きにして、関わりになりたくない変人や罪人たち。もっとも、現在は村というような構成単位が、機能していないので、村八分など行われていないのでないか。八分はよそ者として扱い、二分は身内とする。つまり、火事と葬儀。しかし、現代は孤独死をしたり、脳に異常をきたして出火をする高齢者が増えてきたということだ。


何となく疲れて、何もする気がしない。

季節の変わり目のためだろうか。何となく身体が疲れてしまって、何もする気がしない。つまり、気力がなくなってしまったのである。おそらく、糖尿病の末期症状と院内感染をした肝炎タイプの病気のせいであろう。とにかく、立っていてもフラフラとすることがある。立ちくらみ・ふらつき・よろめき、そして身体のバランスが取れなくなって、しゃがみ込んでしまうときもある。困ったことで、何とかしなければならない。


何故かこころの中に住み着く思い。

ちょっとしたことが、いつまでも忘れられない。それは、映画一本の全体というようなイメージではなく、その中に出てくる些細(ささい)な断片である。また、日常生活などでも、ほんの数分間のことである。むろん、その数分間を含む一日であることもあるが、思いとしては短い時間帯である。そして、そのような断片が、ときどき思い出される。それらは、自分にとってあまり愉快ではない記憶のことも多い。なぜであろうか。


何故かこころの中に住み着く思い。

ちょっとしたことが、いつまでも忘れられない。それは、映画一本の全体というようなイメージではなく、その中に出てくる些細(ささい)な断片である。また、日常生活などでも、ほんの数分間のことである。むろん、その数分間を含む一日であることもあるが、思いとしては短い時間帯である。そして、そのような断片が、ときどき思い出される。それらは、自分にとってあまり愉快ではない記憶のことも多い。なぜであろうか。


何故か、恥の記憶に苦しめられる。

具体的には言えないが、過去にやった恥の記憶が次々と出てきて、苛(さいな)まれることがある。それは、あまり体調がよくないときなどに多い。人間の脳が、記憶を司っているので、脳のその部分が記憶を再現するらしい。そして、体調のよくないときに、そのようなことが多いというのは、何かのサインかもしれない。それはともかく私はそんなときに、いつもいたたまれない気持ちになってしまう。


身の回り、不要なものはすべて廃却。

身の回りを見渡すと、不要なものがずいぶんあることに気付く。若いころだったら、何でも取っておいて後で何かの役に立つだろうと考えた。それが、古稀を過ぎたころから、何となくムダであると気付く。つまり、自分の生涯には関係のない事や物だと何となくわかるのである。そこで、不要なものは廃却をしてしまおうと思う。しかし、そうは言っても、まだ何がはっきりと不要であるかがわからない。そんなわけで、その作業は遅々として進まないのである。


今までに生かされていた自分が不思議。

おっちょこちょいな自分が、今日あるのが不思議。なぜならば、交通事故や大病気などにあわずに、いま何とか生きている。とっくに古稀を過ぎ、すでに七十四歳である。まさしく、そのこと自体「古来稀なり」なのであろう。むろん、寿命が長くなっているので、珍しいことではない。しかし、とくに通院をしたり、治療に通っていないのは自分でも、不思議。ただ、歯だけは治せないので、月に数回、歯石を除いてもらうために歯科医に通院しているが。


冬の日の手のささくれは、すでになくなる。

冬にしつこくできた手の指のささくれは、春になって治ってしまった。ささくれができるのは、親不孝のためだとも言う。もしかしたら、生前の父母に私が孝行していなかったのかもしれない。そんなことを思うと、父母が何となくなつかしく感じる。方丈記にも、父母に対する鴨長明の記述があった。彼ほどの独立心が強く、反社会性をもった人でも、ときには父母を恋うものかと、私が不思議に思ったくだりである。


トマトの葉、食べたらなつかしき味がする。

私のところは、トマトやきゅうりなどの野菜を生産者から直接仕入れている。そのトマトには、「茎」というか「蔕(へた)」というか、それまでに果実を支えていた緑色の部分が、そのまま付いている。そこで、それをそのままよく噛んで食べる。かつて、子供のころに食べたなつかしい味と香りがする。そんなわけで、その部分が枯れていたり、汚れていないときは食べることにした。工夫をすると、それまでにない新しい味の発見があって楽しい。


サスペンス、身近なことで恐ろしくあり。

ときどき、テレビでサスペンス映画を見る。そこには身近なことが、一連の事件になっている。むろん、自分自身は関係をしていない。しかし、何となく現実性に近い話で、ひよっとしたらその中に自分がいるのではないかという錯覚におそわれる。そして、その当事者の立場に、自分がなっているのである。かつて学生時代に読んだ本にもあったことだが、サスペンスのほうが身近で恐ろしい現実性を秘めている。

Kuroda Kouta (2013.04.04/2013.04.22)