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  新句(十九音) 作品集(2013年3月分)



早朝に、生玄米とビールいただく。

妻の勤務の関係で、私も早朝に起きる。そして、パソコンで音楽を聞いたり、文章のインプットなどをする。すると、やはり腹がすく。そこで生玄米とビールで、軽い食事をする。生玄米は半カップ分をコーヒーミルで挽(ひ)いて作る。ときには、ゴマやシラス干しを入れる。ビールは、味噌大匙一杯分をつまみにして飲む。しかし、ビールは利尿効果が大きいので、オシッコが出るたびに、生水を飲む。この朝食が、私の健康法にもなっている。


わくわくとしながら探す、新たな動画。

私はYouTube動画を見るときに、いつも思う。初めての動画であっても、かつて見た光景が含まれているのではないかと期待したりする。光景ではなくて、音楽なども同じ。いつかどこかで聞いた調べではないかと感じるときがある。ディジャビュ(既視感)のような直接的ではない懐かしさをもっている作品が、ときどきある。そんな望みと楽しみとで、初めての動画を見るのではあるが、なかなか出会えない。むろん土地などは、行った場所があるが、……。


することがない日々になり、それでも迷う。

古稀を過ぎたころから、とくに日々することがない。それでも、食事や洗濯、それから買い物などは必要。しかし、以前のように会社の経理をしたり、決算や確定申告などは必要がなくなった。最小の手続きで済むようになったのである。つまり、自分自身の身の回りの必要なことと、いまだに働いている妻の世話が残っている。そんな日々でも、いろいろなことに迷ってしまうことがある。自分の処理能力が、小さくなってしまったせいであろうか。


すぐ飽きる悪い習慣、治したくあり。

かなり以前からのこと。何かをしても、すぐ飽きてしまうのである。つまり、飽きっぽくなってしまった。興味や関心が、長く続かないのである。もしかしたら老いて、脳がダメになりかかっているのかもしれない。認知症の一歩手前だったら、どうしようかと思う。脳ではなくて、体力が減退したためかもしれない。とにかく、頑張りがきかないのを治したいのではあるが、とりあえず複雑な作業をするときは、細かいステップに分割をしておく必要があるようだ。


強烈な個性が故に、友少なかりき。

この季節になると、親しかった友達のことを思い出す。よく、河津桜を一緒に見に行った大岩先生である。博覧強記の素晴らしい人であったが、ちょっと気むずかしく、誰とでも口論をしていた。長くトラブルなしで付き合ったのは、私くらいであろう。しかし、脳血栓で倒れてしまい、リハビリ中に亡くなってしまった。残念なことである。三鷹のSOHOでも、かなり論戦をしたようで、内容はアカデミックなものでも、口角泡を飛ばす勢いであった。


多摩川の堤防を行く、友と二人で。

親しい友と、昼食後に多摩川の堤防を歩くことがある。あまり長距離は歩けないので、サイゼリアのところから堤防に出て、京王線のガードの先くらいまでである。それでも、三月になると堤防には、オオイヌノフグリが咲いていたり、新しい緑が芽吹いていたりする。帰りは、ぐるっと回って、ふたたび聖蹟桜ヶ丘駅まで戻ってくるのだが、この間行ったときは、まだバス停の向こうにあるカイコウズには藁が巻かれていた。


思い知ること多くあり、日々の生きざま。

義姉が死んでから、私の人生観は大きく変わった。日々の生きざまについて何となく自信がなくなってしまった。それほど、義姉の死は私にとってショックであった。このブログで義姉として検索をすると、記事がかなり出てくる。その一つ一つについて呆れかえってしまうほどである。結局は、「何のために人は生きるか」というような本質的なことになってしまい、敬虔なクリスチャンではあったものの、人生について義姉から学ぶことはあまりなかった。


生きている意味などはなく、ただ生きている。

しばしば、生きている意味を問われる。しかし、実際には、単に「生きている」だけなのである。生きている目的などを考えるのは、脳のもたらす一種の幻影であろう。落語の枕に、ごろごろと寝ている与太郎に、大家が説教をする話がある。大家が、「若い者は働け」という。与太郎は、「働くと、どうなる?」。大家、「働くと金が入る」。与太郎、「金が入ると、どうなる」。大家、「金が入れば、一日中寝ていられる」。与太郎、「もうすでに寝ている」。


病がち、身体が弱くなってきたため?

私のことではなく、親しい友達。あんなに元気だったのに、最近は病がちだ。大学時代には、野球選手でならしたのであるが、二年前くらいから調子が悪いみたい。とくに、奥さんに先立たれてからは、次第に体調が衰えてきたようだ。病がちと身体が弱くなってきたのとは、どちらが原因で、また結果であるかははっきりしない。私が思うには、食べ物の結果による。外食ばかりで栄養が偏ったり、化学薬品を食べたりしているのが原因ではないだろうか?


何事も、エネルギッシュに進められない。

何でも精力的にするのが理想的である。しかし高齢になると、なかなかそうもいかない。すぐに疲れてしまうからです。張り切りすぎると気疲ればかりか、実際に身体も疲労してしまう。そこで、気分だけはエネルギッシュではあるが、実際には少しばかり手抜きをする。つまり、体力を消耗させないような仕事の仕方をするのである。いっぺんに多くのことをしないのも、長続きをする秘訣かもしれない。


することを減らしていこう、老いたるが故。

若いころは、「あれもしたい、これもしたい」などと思った。今でも思わないわけではないが、体力が衰えたので、それはムリだとわかった。そんなわけで、まず日々の基本的なことだけをしっかりとしていこうと考える。つまり、衣食住である。着物は最低限でよい。冬の寒いときは、夏物を重ねて二枚着る。食べ物は玄米にして、最小限の品目。そして、生水とビールを飲む。むろん、清浄な空気を吸う。そんな質素な生活が、この歳になって始まった。


キリのないことはやめよう、もうこの辺で。

際限なく続くようなことを情熱をもってする。若いころの趣味などは、それでよかった。しかし老いてくると、いくら集めても仕方のないことである。例えば、図書などは集めてみても、読み返す時間がない。つまり、自分には必要のないことをしているのである。また、たいがいの図書館に行けば、その本がある。さらに、インターネットで検索をすれば、かなり貴重な知識が居ながらに見れる。そんなわけで、ぼつぼつ人生の時間を有効に使いたい。


衰えて外出できず、ただ考える。

老いが始まって衰えたために外出が不自由になると、部屋で考える時間が増える。ただ「考える」と言っても、行動がともなわないので突飛(とっぴ)なことも多い。単に、空想の域を出ない夢のようなことを現実に考えるのである。そもそも夢は、脳が昼間になしたことを整理するためにあるらしい。私は考えること自体が記憶の整理だと思う。『パパラギ』という本に「考えるという重大な病気」というくだりがあった。


昔から、キャベツとタマネギ、胃腸の薬。

昔から、キャベツとタマネギは、胃腸の薬と言う。そこで、何とかして日々それらを食べていきたい。いずれも野菜で、それほど値段の高いものではない。そこで、私はうどんやソバの中に入れて、煮込んでしまう。砂糖は台所に置いてないので、外食でコーヒーを飲んだときのものを持ち帰って使う。すると、ほのかな甘さの中に、キャベツやタマネギの味が、素晴らしい。砂糖や調味料を台所に置かなくなって久しい。


朝飯は、生米と生水、生ビール。

妻の勤務の関係で、朝は5時くらい。それからパソコンをするのであるが、ちょっと腹が空く。そこで、朝飯。ふつう、生玄米をコーヒーミルで挽いて粉状にして食べる。一合カップ3分の1くらい。ゴマやシラス干しをかける場合もある。そして、生水。生水は多く飲めない。そこで、「キリン一番搾り」の出番。喉ごしに、ぐいぐい。すでに地下水のような清冽な水は、現実には飲めないのだ。ビールの原料である水は、天然水に近い良質な水である。


生ビール、飲み干すときの喉心地(のどごこち)よさ。

冷たい生ビールを飲むときの、喉心地のよさは至福である。シェーキーズで「ピッチャー」を飲んだり、サイゼリアで「ジョッキ」を飲むときは、むろんのこと。自宅でキリンの「一番搾り」を飲むときも同じ。一杯目を喉ごしにするときは、また格別。その瞬間に、自分は幸せだと思う。たかがビール一杯で、幸福感が得られるのはなぜであろうか。宗教も、宗派によってはアルコールを禁じているところがあるらしい。


フラフラとすることもあり、加齢のためか?

何となく足下が頼りなく、フラフラとすることがある。古稀を過ぎたころからである。もしかしたら、脳に異常があったり、三半規管が正常に働かないためかもしれない。50年以上も使った身体である。考えてみれば、仕方のないことかもしれない。いちばん困るのは、フラフラとして身体の重心が取れずに、転んでしまうこと。それでも声をかけてくれた人に、「大丈夫です」と言ったり、救急車に乗らなくてもよいとだけは、まだ言えるのである。


汗かくと、免疫力が高まると言う。

人体の体温が高いほうが免疫力があって、病気をしにくいという。つまり、汗をかくほどの運動をしていると、病気になりにくいらしい。病気になりにくいということは、健康でいられるということ。冬になると冷え性で、体温が下がってしまう人がいるが、どちらかと言うと私は高め。そんな意味で、今まで病気に罹(かか)らなかったのであろう。しかし、古稀を迎えたころからは、何となく身体が冷えてしまって、病がち。何とかならないだろうか。


はっとするような曲なく、いつもがっかり。

YouTubeには、「あなたへのおすすめ」が表示され、そこには新たな曲などが表示される。実際に、まだ聞いたことがない曲も多い。そこで、新たな期待をもって、聞いてみる。つまり、素晴らしい曲との出会いを期待しているのだが、実際にはイメージが異なっていることが多い。こんな曲が聞きたかったのだということは、めったになく、何となく期待はずれが。例えば、ディジャビュであってもよいのだが、なつかしさや親しみを感じる曲さえも少ないのが現実。


いろいろな悲しみがあり、親子の間。

テレビや新聞のニュースを見ていると、親子間の問題もかなりある。親が子を殺したり、子が親を殺したりもする。中には、生まれて間もない自分の子を殺して捨てたりする母親もいる。いったい何が、そのようなことをさせるのか。貧しさや煩わしさのほかに、自分自身の置かれた立場をわかっていない親も多い。つまり、道徳や常識の欠損が簡単に動作に及んでしまって、ニュースになるのではないか?


現実を知らないほうが、むしろ幸せ。

いったい、何がどうなっているかを知らないことが多い。例えば、私たちの身体である。実際に、どのような仕組みで機能をしているかなどは、あまり知らない。それでも、日々何とか過ごしている。もしも、実際に機能や仕組みを知ったら、健康でいられるほうが不思議である。そんなことが、身の回りに多くあって、深く考えないからこそ、過ぎていくことが多い。世の中のことには意外にも、そんなことが多いのかもしれない。


キリのないことを次々するのは愚か?

若いころは、何がキリのないことかがわからない。そこで、ある程度は深入りしなければならないだろう。しかし、高齢になってくるとたいがいのことは先が見えてくる。ひどいのは、いったい何のためにそれをやっているのかがわからないことがある。ある程度、完成させたいのならば、大いに考えなければならない。単にそれは趣味であって、それをしていることに意味があるなどと言う人がいる。呼吸や食事などのようにである。


とくにすることがない日も、パソコンを見る。

ここ数年来、毎朝パソコンを動かす。「日々記憶の断片」をアップすることと、かつて行った「駅周辺」を自分自身でアップして見ることである。そんなことをしても仕方がないと言う知人もいるが、私は老化予防の一環として、それらは非常に有効であると思う。前者は、日々の思いつきであるが、メモや備忘録として後日になっても、全体から検索ができるので便利。後者は、かつて行ったところの回想が、改めて認識できる。


人生の終わりにあたり、何をすべきか。

私は、とっくに古稀を過ぎた老人である。つまり、人生の終わりに近いのだ。そこで、いったい何をすればよいかを考える。この「日々記憶の断片」は、言葉通り毎日の心の状態を綴ったものであるが考え方だけで、その内容までを記述してはいない。あまり大がかりなことはできないが、それでも何かについて、自分なりにまとめることはできるでしょう。そこで、「青空のホームページ」の内容を何とかして完成したいと考えるのではあるが、……


つきつめて、考えることなく生き、老いる。

いったい人生とは何か、そして何のために生きているのか。さらに死んだら、どうなるのか、などということを真剣に考えたことはない。ただ、何となく日々を過ごしてきたのである。つまり、生きているといっても、とどのつまり実態がないのである。ダラダラと日々生業(なりわい)や方便(たつき)が過ぎていく。「たつき」とは、方便や活計の意味で、「手(た)付き」の意味。つまり、生活の手段・生計の意味。そんなことで、とうとう老いてしまった。


生きていることより、むしろ生かされている。

最近になって、しばしば思うことである。自分が生きているというよりも、大きな自然の中で生かされているのではないか。自分の意思もあろうが、むしろ大きな自然界の成り行きによって生きている。つまり、自然の中に生かされているのである。むろん、自分自身の意思でしたいことが、ある程度はできる。しかし、思うようにいかないことが多いのは、努力が足りないのではなく、自然の摂理がそうなっていないのではないかと考えるようになった。


歩行には、「転ばぬ先の杖」などと言う。

老いてくると、何となく足がもつれることがある。さらに膝が痛くて、ついよろめいてしまうこともある。加齢によって、足の筋肉が弱ってくるためかもしれない。転ばぬ先の杖などと言うが、手摺りなどを利用すると安全である。例えば、階段の手摺り、エスカレータの手摺りなどを握るだけでも、転ばないためには充分。しかし、そこにはバイ菌などもいるので、どうも衛生的ではない。そこで、手袋をしたり、ハンケチで覆ったりする


老いてから目やに・鼻汁、出るようになる。

汚い話ではあるが、還暦を過ぎたころから、目やにや鼻汁が出るようになった。目やには朝起きたとき、鼻汁は体調の悪いとき、何となく出てくる。もしかしたら、目やには寝ている間に少しずつ出るのかもしれない。横井也有の『歎老辭』(歎老辞・嘆老辞)にも、似たようなことが書かれていたが、「老い」というのは誰にでも来る、仕方のない現象のようである。芥川龍之介や川端康成のように、それを避けようとした人もいたようだが、……。


いまここに、こうしているのが不思議なくらい。

現実に自分が生きて、ここにこのようにしているのが不思議なくらいである。今までに、何度も体調が悪くなったり、交通事故を起こしそうになったりした。つまり、何回も死にかかったことがある。しかし、何とか無事で、今日という日に続いてきた。不注意な自分にとっては、幸福なことである。もっと細心の注意を払って、日々の生活をしなければいけないと思う。残りの人生が少ないので、日々を大切にしなければいけない。


往く者は追わず、来る者拒まずという。

自分から去って行く者は、おっかけない。また、自分を求めて来る者は受け入れる。孟子の言葉である。何となく当然のことであるが、実際の人間関係について考えると、必ずしもそうでない。つまり、さらりとしていないのである。往く者をしつこく追っかけて、事件になったりもする。未練があったり、自分自身の人格ができていないためであろう。また、やってくる人を受け入れなかったり、嫌うこともある。やはり、自分自身の人格の欠如かもしれない。


世の中のすべてが何となく、うとましい。

ここ数年前から、世の中のことが、何となくうとましくなった。うとましい(疎ましい)とは、「好感がもてなくて、近づきたくない」感情である。つまり、いやなのである。例えば、「その名前を聞くのもうとましい」などと使う。また、「異様で恐ろしく、不気味」であるときなどにも用いる。何となく、「面倒くさい」「億劫である」などの延長線上の言葉のような気もする。しかし私がどうして、自分がそうなったかは解らない。

Kuroda Kouta (2013.03.03/2013.03.31)