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  新句(十九音) 作品集(2013年2月分)



何のため、何をしてるか、考えてみる。

ときには、自分が何のために何をしているのかを冷静に考えてみる必要がある。ともすると、目的と手段が逆になっている場合もある。日々の生活には、健康は大切である。しかし、健康を実現するために生きているのではなく、生きていくために健康が必要なのである。もっと簡単に言うと、食うために生きているのではなく、生きるために食うのである。そんな本末転倒なことが、世の中には多くあるのではないだろうか。


手の指にササクレができ、ちょっと気になる。

ここのところ数年、冬になると手の指にササクレができる。そこで、前に聞いたことがちょっと気になる。それは、ササクレができるのは親不孝のしるしと言うこと。何となく、もっともらしく思う。考えてみれば私の一生は親不孝の連続だった。父も母もすでに亡いが、思えば懐かしい。妻の父母もなく、いわゆる親はすでに誰もいない。いま生きていれば、孝行もできるものだと残念である。『方丈記』に、父母のことを思い出すくだりがあった。


ハメマラは、なかなか治りにくい症状。

男の場合であって、歯と目とオチンチン。加齢によってダメになりやすい部分である。歯は、歯周病で抜けて入れ歯になることが多い。目も悪くなって、たいがい眼鏡をかける。そして、前立腺が肥大してきて、オシッコが出にくくなる。実は、私もそうであって、歯間にたまる歯石を定期的に除去してもらう。目は、すでに眼鏡を何回か作り直し、何とか細かい字が読める。前立腺は、数年前に詰(つ)まってしまい、救急車で病院に運ばれて手術してもらった。


最近は、いくら食っても腹が満ちない。

何が原因かわからないが、ここのところ大食いになってしまった。いくら食っても、腹がいっぱいにならないのだ。おそらく、胃拡張か内臓の故障だと思う。次々と腹に入れて、以前の二倍ほどのものを食べると、ようやく満腹する。したがって、あまりカロリーの大きいものを食べたらいけない。身体自体は、それほど多くのエネルギーを必要としていないと考えられるからだ。いずれにしても、高齢になって餓鬼のようになってしまったのは、困ったもんだ。


最近は、ドン=キホーテ症候群ふえてきた。

ここのところ、ドン=キホーテ症候群がふえている。つまり、脳のもたらす妄想によって、おかしな行動をする人が、非常に多くなっている。全人格的におかしくなるのではなく、ある特定な対象にだけ、いちじるしく反応をする。つまり、一種の脳の病気なのだ。例えば、引きこもり・ゴミ屋敷など。それらは、誰が見ても非常識ではあるが、本人にとっては別な価値観があるので、忠告をしても聞き入れられない場合が多い。


やることが、あまりに多く忙しい日々。

ヤフーから、「ジオプラスのホームページ容量を1GBから10GBに大幅アップしました。 会員のお客様は手続き不要で10GBまでご利用できます。」とメールがきた。料金がそのままなので、ありがたい話。そんなわけで、今までは入りきれなくなったファイルを次々とヤフーのサーバーに送った。しかし、基本的な設計が不完全なのでわかりにくいシステムになっている。再設計するには手数がかかりすぎるので、どうしたものかと思う。


この度は、全システムの見直し・合理化。

ヤフーから「ジオプラスのホームページ容量を1GBから10GBに大幅アップしました。 会員のお客様は手続き不要で10GBまでご利用できます。」と言ってきた。ありがたい話である。そこで、無料サービス期間が過ぎたjustシステム(一太カの会社)に仮に置いてあったファイルを引っ越しした。まだ、細かい修正が済んでいないが、かなり大きなものが置ける。今後、少しずつ全体の見直しをして、全システムの合理化を計っていきたい。


たまり気味、日々の仕事のやり残しなど。

ここのところ何となく体調がよくなく、何をするのも億劫である。そんなことで、どうしても仕事がはかどらない。したがって、そのままになっていることが多い。例えば、皿洗い・洗濯・掃除など。後始末のようなことに、気が向かないのである。かつては、そんなことがなかった。体調が優れないのと加齢によるのが、原因であろう。さらに食事をしたり風呂に入るのさえも面倒で、外食や風呂屋に行ったりもする。困ったことである。


懐かしい、いつかどこかで会った絵・調べ。

私は「YouTube」を見るときに、いつも思う。もしかしたら、かつて見た場面や光景があるのではないか。また、いつか聞いた調べが出てくるんじゃないか。そんな期待で、「YouTube」を見たり聞いたりする。何となく懐かしい気分がするのは、かつて似たような場面や旋律が使われているためかもしれない。ストーリなどについても、同じである。まったく記憶と同じでなくとも、デジャビュ(既視感)などの場合もあるので、そう感じるときがある。


何故に襲い来たるか、老後の不安。


前に、「何故に襲い来たるか、不快と不安。」というのがあったが、さらに具体的になった。むろん、私は古稀をとっくに過ぎているので、すでに現在が老後と言ってよい時期である。そして、最近になって不安が増えてきた。つまり、心配になることが次々とある。まず、身体の調子。やはり注意をしても、加齢によって体調は衰える。歩けなくなったらどうしようなどと考える。車椅子になって、押してもらっている人を見かけると、もうじき自分もそうなるのだと思う。


人生は、何のため生き、死ねばどうなる?

素朴な疑問ではあるが、私たちの人生は何のためにあるのだろう? 人生は、生きるためにあると言ったら、同義反復( トートロジー Tautology)のそしりを免れない。しかし、もともと生命は生きているので、それ自体が自然なのである。生きる目的とか、将来どうなるかなどというようなことは脳がもたらした幻影。出世しようと考えるのは価値観や教育の結果だと思う。私は、ただ健康で日々心地よく生きて、安らかに死ねばよいと思う。


人が死ぬことは、いったい何であろうか?

いわゆる人が死ぬということは、いったい何を意味することであろうか。脳が機能をしなくなったら、すべてが終わって死んだことになるのだろうか。それにしても、宗教の多くがそれと反対のことを言っている。私は、まだ医学的に脳自体を解明しきっていないようにも思う。そして、私は「もしかしたら脳はヒトに寄生をした別の生命体ではないか」とさえ考える。さらに、どうやらダーウインの進化論とは別な人間の進化があったのではないかとさえ疑うのである。


重心がとれなくなって、転ぶことあり。

なぜだろうか? ふとしたはずみに、身体の重心が取れなくなって、フラフラとしたり、転ぶことがある。つまり、身体のバランスが取れない。そして、転んでしまう。自分でも、その状態は自覚している。ヨロヨロとして、そのまま立っておれないのである。そんなことは、今までになかった。もしかしたら、脳や平衡感覚(回転加速度)を司る三半規管(さんはんきかん)の故障かもしれない。人生も齢七十歳になると、いろいろなところが次々と故障するようだ。


脳自体、自己を見つめる機能があるか?

いったい脳自体は、自分自身を見つめる機能をもっているのだろうか。何となく得体の知れない脳ではあるが、やはり人間の一部であることには変わりない。白血球やミトコンドリアなどよりも、かなり複雑であるので一種の寄生・共同体などと考えるのはムリであるだろう。学問的に、いろいろなことが判明しているので、脳が寄生体などと言うとバカにされてしまう。脳の手術をするときに、麻酔などは必要でなく、ザックリと切っても痛くないらしい。


陰湿ないじめは脳の欠陥による。

脳の欠陥といおうか、本来の不健全な特性がもたらしたものらしい。鶏などを放し飼いにするときに、一匹だけをいじめの対象としておく。すると、どの鶏も突(つつ)くので、毛が抜けてしまう。楳図かずお『まことちゃん』に、美香ちゃんが美人コンテストに出る話があった。誰かが「あの小さいのは何ですか?」と聞くと、解説者が「独りだけ変なのを入れておくと、他が張り切るのです」と答える。人間の脳は、そんな程度のものらしい。


この記事は、自分自身の知的空間。

こんな幼稚な『日々記憶の断片』であるが、自分自身にとっては一つの知的空間である。毎日、記録をすることによって、そのまま「生きている証明」にもなる。内容が哲学的に優れているとか、科学的に論理付けられているなどということは、気にしなくていい。とっぴな考えでも、かまわない。とどのつまり、がんばってみても、それが自分なのであるから、あまり他人の目を意識する必要はないのである


ときどきは、裸になって清拭をする。


どうしても、身体は垢などで汚れて臭(くさ)くなる。清拭(せいしき)とは、病人などの身体(からだ)をタオルなどでふいてきれいにすること。清拭き(きよぶき)という言葉もあるが、それは濡(ぬ)れた布でふいたあとで、仕上げとして乾いた布でふくこと。私は、ときどき清拭をして肌着をかえる。そうすると、とても気持ちがよい。夏はシャワーなどをするが、冬は清拭ですますことが多い。まっ裸になってするのであるが、健康にもよいらしい。


寝ていても、やたらに喉が渇くのはなぜ?

ふつう寝ているときは、朝までトイレに行きたくならないし、喉も渇かない。それが、私の場合は異なる。夜中にも数回、オシッコに行きたくなるのである。おそらく、腎臓が機能しなくなっているのでしょう。水分の摂りすぎが原因かもしれない。そもそも喉が渇くから、水分を摂るのである。それでは、なぜ喉が渇くか。それは糖尿病が末期症状になっているためだろう。それでも、他の症状は出ていないので、精密検査をまだしていない。心配ではあるが、……


できるまでダラダラとするのは悪い癖。

たいがいのことは、区切りのよいところまで仕上げたい。そこで「もうちょっと」という気持ちで、いつまでも続ける。実際の作業ならば、それでよいだろう。しかし、ゲームなどのときもそうだ。例えば、ソリティア。何度やっても上がれないことがときどきある。そんなときに「もう一回、もう一回」などとしてしまう。しかし、最近になって疲れが大きいので、きっぱりとやめてしまうようになった。そして、人生のすべてについて、何となく諦めが早くなったようである。


何となく疲れてしまった、老いたる故か?

最近になって、疲れ気味である。何となく、身体に疲れが出てくるのである。とくに、重労働をしたというわけではない。もはやきつい作業はできないので、ついダラダラとしている。あたかも古くなったバッテリーと似ている。それは充電をしても、すぐ使えなくなってしまうので何回も充電するのであるが、放電が早いので効率が悪い。人生も老いてくると、身体の機能が衰えてきて、そんなものかもしれない。


楽しみは、自分で作り、確かめること。

自作自演ではないが、自分で手がけた作品を自分で確かめることも楽しい。若いころはともかく、万巻(ばんかん)の書を読んでも、また多くの名画を次々と見ても、名曲を飽きるほど聴いても、仕方ないと私は思う。そして、それよりも拙(つたな)い作品であっても、自分自身が作ったものを体験することのほうが、楽しく生き甲斐がある。自分の作品でありながら、読んだり見たり聞くことの中に、追体験のような楽しさが含まれているのではないだろうか。


たいがいの病気は治る、生玄米で。

私の経験であるが、たいがいの病気は生玄米を食べることによって、知らず識らずのうちに治ってしまう。また、生玄米を習慣的に食べていると発病をしにくくなる。例えば、糖尿病の末期であっても、透析などは必要がなく、何とかふつうの生活ができるようである。むろん、個人差の問題があるので、私がそうだからと言って、一概には言えない。おそらく、生玄米には栄養素がまんべんなく含まれているので、それが影響をするのかもしれない。


情報が、あふれかえっている身の回り。

グーグルで調べると一つのことに関しては、多くの情報が見られる。「健康」に関しては、あまりにも多くて見切れない。しかし、組み合わせた関連記事は、思ったよりも少ない。例えば、「健康」と「老化予防」と「安心立命」。この三つをまんべんなくカバーするような記事は? 今のところ、「青空のホームページ」とfacebookページの「日本健康会」くらいである。そして、それ以外はホームページからfacebookのノートを利用する「理工式健康法」。


ほどほどにすれば、気持ちが落ち着くだろう。

何でも熱中して、次から次へと進める。その中には、自分の能力を超えるようなことがある。それでも、いろいろとやってみる。そんなことの中に、生き甲斐があるのかもしれない。しかし、ほどほどの程度にしておくと、気分的には楽である。つまり、自分の能力の範囲内ですると、気分的にも楽であって、しかもそのことに楽しめる。つまり、時には何のために何をしているかを冷静に考える必要があるのかもしれない。


老人は、とかくモタモタ・ヨロヨロとする。

レストランの勘定をするときなど、老人はモタモタとして時間がかかる。何事も、動作が遅くなってしまったようだ。また、道を歩いているときはヨロヨロしている。杖をついている場合もあるが、すでに車椅子になってしまって家族の誰かに押してもらっている人も見受ける。何とも困ったことであるが、実は私もそれに近い。まだ車椅子になってはいないが、足がすでに萎(な)えかかっているので、早晩そうなるのではないか。


食うと寝る、その間(あいだ)には多少の方便(たつき)。

私の日々の生活である。食うことと寝ることがメイン。そして、その間(かん)には方便(たつき)がある。何となく「生きるために食う」のではなく「食うために生きている」というような感じ。もっとも、たつきは「生活の手段・生計」という意味があるから、食うことも寝ることも含まれるかもしれない。また、手がかり・手段・方法なども、たつきと言う。さらに、様子などを知るための手段・見当なども含まれている。古くは「手(た)付き」を意味したらしい。


プチさんの追体験を自分自身で。

ふつう追体験というと、「誰か他人の体験を、その作品などを通してたどることによって、自分の体験としてとらえる」こと。しかし、私は自分自身が過去の体験を思い出したり、辿(たど)ったりすることによって、楽しみになるのではないかと思う。例えば、だいぶ以前に行った場所。もはや、体力が弱ってしまって、なかなか行けない。そこで、過去に自分が写した写真によって補う。また、部分的に行ってもよい。プチさんには、そんな楽しみもある。


久々に会いたる友が、「痩せましたか?」。

駅前の道で、親しい友達にあった。一年ほど会わずに居たので、久しぶりである。すると、私を見て、「痩せましたか?」と聞くではないか。確かに、一年ほど前と比べると、体重が5キログラムは減っている。つまり、だいぶ痩せたのである。自分自身では、あまり気にしていないが、体型や顔が一回り小さくなっている。すでに糖尿病が末期症状になっているので、仕方ない。少しづつ変化をするので、自分自身では気付かないのだろう。

Kuroda Kouta (2013.02.01/2013.02.28)