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  新句(十九音) 作品集(2013年1月分)



一年の初めとは言い、することはなし。


元日を迎えたが、とくにすることはない。それでも、近くの観蔵院へ除夜の鐘を突きに行って、九頭竜神社に初詣した。喪中であるので、年賀は出さなかった。何をするにも、億劫になったためである。

観蔵院の除夜の鐘は振る舞い酒として、升酒と甘酒が出る。その勢いで、初詣の神社に行く。実際はエレベータで降りて、3分で行けるところにある神社だ。考えてみれば、ずいぶん便利なところである。

やはり、加齢と身体の衰えのためかもしれない。何をするにも億劫になったなどというのは、身体のみならず精神的にも衰えてしまったためかもしれない。困ったことである。


なぜなのか? いくら食べても空腹のまま。


いつごろからだろうか? 食べても食べても、満腹しない状態になった。おそらく、胃拡張か自律神経の失調だろう。

そうかと言って、食べてもあまり太らない。いつまでも空腹感だけが残っている。つまり、餓鬼の状態になってしまったのである。

これには、大いに困ってしまった。食べることだけでなく、飲むことにも言える。そして、飲み物は水やビールや葡萄酒ではなく、酎ハイや炭酸飲料などが欲しくなる。身体の内臓が、おかしくなってしまったのだろうか。


思い付いたことをそのときどきにメモする。


この新句(十九音)においては、思い付いたことをすぐにメモをするのがよいでしょう。後でするなどと言うと、忘れてしまったりするからです。

内容が優れているかどうかなどは問題がありません。自分自身の生きている記録なのですから、自分自身が納得のいく内容であればよろしい。

また、あまり他人が見る目を気にしても仕方がありません。他人がどう考えるかよりも、自分の問題なのです。つまり、文学作品ではなく、自分自身の問題なのです。


「青空のホームページ」に何があるのか?


「ジオプラスのホームページ容量を1GBから10GBに大幅アップしました。 会員のお客様は手続き不要で10GBまでご利用できます。」とヤフーから言ってきた。そこで、整理をしたいと思う。

また、他のプロバイダを利用している「青空のホームページ」上のものも整理をしたい。
日々記憶の断片
facebook
日本健康会(Facebookページ)
青空のはてな!
iGoogle
YouTube
名曲ライブラリ
一幅の絵

これらは、本体のホームページが1GBであることから、補足をする意味で始めたものが多いからである。


あきらめた状態で死ぬ後のくやしさ。


これでは、ちょっと意味がわかりにくい。生前に死や死後のことを考えても、わからないままに死んだら残念であるという意味。

つまり、行き先がわからないままに旅行をしているようなもの。間もなく、そこへ行こうとしているのだが、そこがどこかがわからない。おそらく、行き当たりばったりであろう。

少なくとも、どんなところかの概要くらいは知っておきたいものである。会社で転勤をするときに、その転勤先の情報を知っておくのと同じように、ある程度は、死後に行くところの予備知識が必要なのではないだろうか?


アレキサンダー、ナポレオン、脳の幻想。


アレキサンダー大王やナポレオンの事業は、彼らの脳のもたらした幻想であろうか。そもそも、独りの人間が世界を征服すること自体がムリなのではないか。仮に征服をしても、実際には統治が困難であろう。

つまり、それは脳がもたらした幻影でしかない。もともと、狂気なのかもしれない。チンギスハンやヒトラーなども、同じ類い。

例えば、孫悟空がきんと雲で世界の果てまで飛んだと思っても、お釈迦様の手の中であったという話に似ている。


お漏らしをするようになり、ぼつぼつ襁褓?


オシッコがしたくて、我慢をしていると漏らしてしまう。部屋で寝ているときは仕方がないが、外出しているときには困った問題。その結果、パンツやズボンを濡らしてしまう。そしてその後は、気持ちの悪いことになる。

そんなことがないようにしたいとは思うのであるが、外出をして食堂でアルコールや飲み物を多く摂ったときには、そんなことがありがち。それでなくとも、水分を多く摂っているので、オシッコが近い。

友達の一人は、外出するときには襁褓(おしめ)をするのだという。私は、まだそこまでなっていないが、ぼつぼつ襁褓になりそうである。我慢ができなくなると、一気に出てしまいそうだからである。


わたくしのちょっと変わった健康法は?


私の健康法は、「理工式健康法」という。そのいくつかをあげてみよう。

玄米生玄米健康法・アロエ健康法・チビチビ水飲み健康法(よい水を少しずつ飲む)・ビール健康法・ガムくちゃ健康法・サウナ健康法(寒冷浴)・手もみ足もみ健康法・笑い大声健康法・金魚ぶらぶら健康法・ラップリン健康法・レククリス健康法など。

そのような努力をして、糖尿病昏睡などにはなりたくない。細かく動くことも(立ち居振る舞いを億劫がらない)必要であろう。少し前の時代には、一生涯医者にかからなかった人もいる。「フランクリン自伝」に、フランクリンの父母のことが書いてあった。


飲み食いの中に、多くの危険が潜む。


飲み食いは、空気を吸う、水を飲む、食べ物を食べる、そして排泄などとともに生きていくうえに非常に大切な動作である。しかし、その中でも飲み食いについては、多くの危険が潜んでいる。

空気や水もそうであるが、食べ物にはとくに危険が多い。その中には、化学薬品や毒物が含まれていることがあるからである。現代の食料品は、健康そのものよりも商品の保存などを考えて、薬品を添加する。

その結果、微量ではあるが少しずつ体内に蓄積されて、やがてガンなどを発症する引き金になってしまう。仕方のないことかもしれないが、何とかしないといけない。


喉ごしに日々飲むビール、ビールが飲むか?


「初めは人が酒を飲み、中ほど酒が酒を飲み、最後は酒が人を飲む」などと言う。どうやら、次第にアル中になっていくらしい。私も、とうとうアル中の部類になってしまった。

小説ではあるがビール好きに、ネル=ウルフ「(ニール=ドルフ)がいる。実物では、晩年の横山大観がそうであったと言う。彼はビールではなく、日本酒である。

私は、ビールが好き。毎日飲んでいるうちに、一日に平均して大瓶三本を空けるようになった。一週間足らずで、20本入りのケースを注文する。こうなると、私がビールを飲んでいるのか、ビールに飲まれているのかわからない。つまり、ビールが体内から私を飲んでいるのである。


ヴィヴァルディ三昧(ざんまい)、ちょっとうんざりもする。


「The Best Of Vivaldi」というYouTubeを聞いてみた。正直言って、どうしても飽きてしまうのである。いったい、何故であろうか?

だいぶ前に読んだ
<<永遠の音楽家>>ヴィヴァルディ ロラン=ド=カンデ著 戸口幸策訳 白水社
という本に、ヴィヴァルディが長い間なぜか忘れられていた理由として、ド=プロス法院長が「彼は驚くべき作曲の情熱を持った<<老人>>です」とあったり、誰の言葉かを忘れたが「彼は、大きな続いた一曲を残しただけ」というような悪口があった。

そんなために、私が学生のころはヴァイオリンの教則本に紛れ込んだ二曲、そしてバッハの作曲と考えられた編曲・習作が数曲あっただけ。イムジチの「四季」以来の復活が、信じられないくらいである。
http://youtu.be/MPtPLCKe6w8


慌てれば、足がもつれる坂と階段。


最近になって、ともすれば足がもつれて転びそうになる。道が小さな坂になっているところと、階段やエスカレータである。

店の入口が小さい坂になっていたり、二三段になっているところでも危ない。むしろ、最初から階段になっているところのほうが安全である。エスカレータには、乗るときに細心の注意をしないと危ない。

もしかして転ぶと、骨折をすることがある。そんなために、かなり注意をする。手摺りがあるときは、すぐに手を出せるようにしておく。むろん、エスカレータの手摺りには手が届くようにする。ポケットに手を入れたままで、階段やエスカレータを利用する人がいるが、あまり安全ではないと思う。


何となく過ぎた一生、恥と後悔。


とくに誉れもなく、何となく過ぎてしまった今まで。もはや自分は古稀もとっくに過ぎたので、今後は大きな発展や変化もないでしょう。

今までのことを考えると、恥と後悔が多い。すべて自分自身の不注意と努力の足りなさが原因ではあるが、まったくやりきれない気持ちである。それは、大いに反省をすべきことであろう。

しかし、そうかと言って、何をどうすればよいのだろうか。せめて、今後はあまりみっともないことをしないようにしたい。それでは、このような記録もやめてしまうほうがよいのだろうか?


喉ごしに飲む水の味、ビールに勝る?


ビール好きの私であるが、最近になって感じることがる。それは、水のほうがビールよりも美味(うま)いのではないかと言うこと。やはり水でない清涼飲料水には糖分が含まれていたり、ビールにはアルコールが入っている。それらは、糖尿病や内臓にとって好ましくないであろう。

若い時代に酒の大吞(おおのみ)をした翌日、冷たい水がおいしかったことを覚えている。そのときは、もう酒などはこりごりで、飲みたくないと思ったからである。

しかし、そのような反省があっても、数日後には酒を飲むのである。そして、やがて同じことの繰り返し。思うに人体は、清冽な水に対して美味(うま)いと感じる本能をもっているのではないか。酒や清涼飲料水や甘味のない時代から、……。


面倒や億劫が増え、生活鈍る。


最近になって身体が衰えたためであろうか、何かをするときに面倒や億劫(おっくう)を感じるようになった。その結果、何となく生活がだらしなくなってしまった。

身体の衰えばかりではなく、義姉の死などによって大いに人生観が変わってしまったためかもしれない。人は何のために生きていて、そして死んだらどうなるんだろうなどと、真剣に考えるようになったからである。それほど義姉の死は、私にとって大きなショックであった。

とどのつまり、義姉自体も何一つわからないままに死んだのであろう。三つも洗礼名をもっていた義姉ではあるが、いわゆるクリスチャンとしての自覚はなかったみたいで、その死にざまも見事ではなかった。ゴミ屋敷に閉ざされて、死んだからである。


どうしても不足しがちな栄養補給。


現代生活において、どうしても不足をしてしまう栄養分がある。現実には微少栄養素などが、食べ物から補給できない。そこで、サプリメントなどから摂取することになる。仕方のないことであろう。

スーパーで売っている野菜なども最近になって、かなり栄養配分が異なってきているらしい。

例えばトマト。かつて一つ食べればよかったものが、三つくらいを食べないとダメらしい。栄養価が、ずいぶんと下がってしまったからである。その製法が異なってしまったために、まったく含まれなくなってしまった栄養素もあるらしい。困ったことである。


何となく、何をするのも億劫であり。


体調が衰えたために、やる気が出ないのかもしれない。とにかく、何をするのも億劫(おっくう)なのである。怠け者になってしまった感じである。

それでも、腹が空く。しかたがないので、あるもので食事をすます。何もないときは、酒を飲んで食事の代わりにする。横山大観のようになってしまえばよいのだが、ビールだけでは腹がふくらまない。そこで、玄米の飯を炊く。

おかずなどを作るのも面倒であるから、その炊きあがった飯にゴマや小女子(こうなご)をかけて食べる。つまり、ビール大瓶一本と玄米で一食をすましてしまう。今後とも、大丈夫だろうか?


いろいろな試みは、ただ空しくもあり。


いろいろなことをやってみたいと思うのであるが、どうも気力がない。そこで、考えるだけで終わってしまう。何となく、ただ生きているだけと言った感じでもある。

生きているだけでも、健康であれば幸福かも知れない。日々生きる最低のことをしていれば、そのうちに何とかなるだろう。

しかし考えてみると、生きているというよりは、生かされている感じが強い。飼われている動物、例えば篭の中に入れられた小鳥や、金魚鉢に入った小魚のようでもある。なぜかというと、誰かに見られている感じがするからである。そんなことが、互いにないだろうか? ……


新しい発見もあり、年老いてから。


人生も終盤になってから、いろいろと新しい発見をする。今までは、すべて科学的に考えたり、学問的に納得をできないことは信じなかった.。しかし、最近になって直感的に物事を判断をするようになった。その結果、世の中の常識などとは、大きく異なってくることがある。

それを証明できなくともよい。自分自身が、そう思えばよいのである。その大きなテーマの一つが、脳。脳がすべてを考えると考えること自体が、一つの幻想だと思うのである。確かに脳は、身体のすべての部分と連絡をしている。それは、事実である。白血球やミトコンドリアなどと比べると、非常に複雑な構造をしている。

それでも、「何のために生きているのか?」とか、「自分は死んだら、どうなるのか?」などと、脳自体は考えていないらしい。もしも、考えていれば世の中に巨万(ごまん)とあるような愚かしいことは、なくなるはずであるから、……。つまり、「思いもよらなかったこと」など、なくなってしまうのではないか。


水を飲む方法もあり、脳梗塞に。


ここのところ脳梗塞で倒れたり、亡くなっている人が多い。残念なのは一回倒れて、そのリハビリ中に死んでしまうことである。しかし、本当はそうならない秘訣がある。

私たちは、空気や水や食べ物が生きていく上に必要なことを知っている。空気は、数分間でも止(と)めるわけにはいかない。三分ほど空気を吸わなければ、窒息をしてしまうからである。呼吸ができなければ、死んでしまうから、喉に穴を空けて応急的に対処することがある。

食べ物は断食を含めて、かなりの時間が食べずにいられる。個人差があるが、腹が減るまで我慢をすればよい。水も飲まないで、我慢ができる。しかし、それは危険である。空気ほどではないが、補給をしばしばしないといけない。なぜならば、喉が渇いたときにはすでに危険が迫っているからである。ヒトの身体が半分以上は水であるのに、水の補給について日々おろそかにしていることが不思議である。清冽な水を少しずつでよいから、しばしば補給をする習慣をつけていれば、脳梗塞にはなりにくいと思う。


はみ出した鼻毛は抜かず、切るほうがよい。


鼻毛が伸びると、鼻の穴からはみ出してくる。何となくこそばゆいので、つい鼻くそを掘ったり、鼻毛を抜いてしまう。しかし、そこからバイ菌が入って化膿することがあり、危険である。

そこで、小さい鋏で切るのがよいでしょう。鋏の中には、先が丸くなって怪我をしにくくしてあるものもある。

鼻毛を抜いたほうがよいという意見もある。横田順彌編「日本SF古典集成[II]」にある平賀源内の『風流志道軒伝』には、次のような文章があった。「これはみんな、不偏不易の理を知らず、鼻毛を抜かないことから起こった大たわけなのじゃ。唐は唐、日本は日本、むかしはむかし、いまはいまだ。」 なお、私は医学でない文献に鼻毛が出てくる他のものを知らない。


外食は楽しくあるが、注意も必要!


自宅で食事をするのがベストではあるが、何となく準備が面倒である。また、皿洗いなどの後の仕事も面倒くさい。とくに冬場は、お湯で皿や鍋を洗わなければならないので、何となく億劫である。冷たい水で洗っていると、血管が切れたりして問題が生じるからである。

そこで、外食。私は、あまり脂っこいものを食べない。また、糖分の多いものも食べないように注意をしている。素材が怪しいものも、注文をしない。

吉野家では、最近になって「新小町セット」というのが用意された。少し小さい牛丼に、小品が二つと味噌汁が付いて490円である。例えば、小品は海藻サラダやひじきサラダなど。さらにそれで食べたりないときは、ミスドに行く。そこでは、オールドファッション1個とブレンドコーヒー。コーヒーには砂糖やミルクを入れない。水に入っている氷を入れて、体温近くの温度にして二杯いただく。オールドファッションは、いちばん糖分が少ないらしい。そんな配慮をする私の外食である。


外食で摂る水分に注意をしよう。


外食のときに摂る水分である。スープや味噌汁などの場合は、味付けに注意をしないといけない。また、単にお茶や水のときも、気を付ける必要がある。

味噌汁やスープには、ややもすると味をよくするために多量のグルタミン酸ナトリウムなどの化学薬品・調味料が入っていることがある。そのようなものを摂り続けるとガンになる場合が多いらしい。お茶なども、安いものは化学製品のようである。

ミスドなどで出してもらう水は、氷の断片を入れてもらう。そして、それをコーヒーに入れる。温度が下がって、体温くらいになるので、二杯ぐらいは軽く飲めてしまう。つまり、一種の水分補給と考えてよい。


血尿が出て、もうアウト? まだ大丈夫?


ときどき血尿が出る。オシッコが薄いので、まだ多量ではない。中には、胡麻粒くらいの血の固まりがあることが多い。まだ、痛くもないので病院には行っていない。

おそらく、アルコールの摂りすぎではないだろうか。胃腸などの内蔵が、とうとう痛んできたような気もする。

長年やった健康食も、大食いとアルコール摂取でダメになってしまったようだ。もともと身体が丈夫だったので、この程度で済んでいるのかもしれない。ぼつぼつ、気を付けていかなければならないようである。


健康は、生玄米と生水による。


私の健康法である。末期的な糖尿病や院内感染をした身体を何とか回復したいと思って、最近になって開始をした。原則として、一日二食。

朝は、九時くらい。妻の勤務の関係で、朝四時三十五分には、いったん起きる。ホット紅茶は飲むが、食事はしない。パソコンの日記をつけて、六時くらいから寝てしまう。そして九時前に起床。

朝飯は、生玄米。半カップほどをコーヒーミルで挽く。ゴマや小女子(こうなご)などをかけることもある。そして、ゆっくりと噛んで食べる。メインは、それで終わり。次に生水かビール。ビールのときは味噌をつまみにして、大瓶一本を空ける。身体が冷えないように、ゆっくりと飲む。そんな朝飯のことが、ここのところ多くなった。


このブログ、プレビュー書式、乱れてしまう。


二日前の「血尿が出て、……」から、なぜか一「覧プレビュー」の書式がベタになったりした。また、その日のアドレス表示も、べらぼうに長くなった。おそらくプロッセッサ側の一時的エラーであろう。そこで、今後は(今日から)校正がしやすいように、短い一段落の記述にしてみた。身の回りには、次々と不都合が生じるようだが、何とか工夫をすることによって、簡単に解決していきたい。


複雑にすべきではない、今の状態。


高齢になってくると、体力が衰えてしまう。そこで、若いころのような複雑なことはできない。したがって、新しい物事などは、始めてみても満足にできないことが多い。そんなわけで、ものを買ったり、始めたりすることに躊躇をしてしまう。その費用は僅かではあっても、時間が足りなくなってしまうからである。いきおい、工夫をすることが強いられる。そして、それは老化予防に関しても好ましいことではないだろうか。


そのグルメ、ちょっとだけ待て、考えてから。


外食をするときは、何でもおいしく見える。そこで、その店に入って注文をするんだが、ちょっと待ってその食事が健康に好ましいかどうかを考える時間を作る。グルタミン酸ナトリウムなどの化学薬品が多く含まれている食事は、後で問題が生じる。ただ美味(おい)しくするために入れてある成分には、身体の健康に好ましくないものがあるからである。


大食いの癖、治らずにはしごしばしば。


この歳になっても、なかなか大食いの癖が治らない。とくに外食のときは、腹がいっぱいにならず、一軒では物足りないことがある。例えば、吉野家で牛丼を食う。それでは、何となく腹がふくらまない。そこでミズドにはしごして、オールドファッション1個とブレンドコーヒー2杯。いちばん砂糖が少ないと思うドーナットとお代わり自由のコーヒーである。それで、ようやく満足をすることが多い。困ったことである。


生きている意味、あまりなく、ただなるがまま。


何となく最近になって、日々の生活が惰性のようになってしまった。義姉の死によって、根本的に人生観が異なってきたためであろう。それほど、義姉の死は私にとって大きなショックであった。敬虔なクリスチャンであったものの、そうかと言って信仰の奥義などは、まったくもっていなかった。そんなわけで、いったい信仰とは何かと言ったような基本的な疑問さえ、,私には湧いてきたのである。


この月も、今日でとうとう終わりになった。


新しい年になり、私にも一ヶ月が過ぎた。まず、平穏無事と言ってよかろう。世の中には、いろいろと変わった事件があった。しかし、年金生活者の私にとっては、あまり関係がないようである。もしかしたら、単に私の認識が甘いだけなのかもしれない。個人的には末期症状になってしまった糖尿病と、院内感染でやられてしまった内臓を何とかして治したいとも考えている。そんな意味で、希望の年なのである。

Kuroda Kouta (2013.01.24/2013.01.31)