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  新句(十九音) 作品集18(2008年12月分)



探偵のニール、モースもビールを好む。


テレビドラマのことなので、実際にその俳優がビールを好きなのかどうかはわからない。しかし、どちらも実にうまそうにビールを飲む。

ニール=ドルフは、かつて文庫本で読んだデブの探偵。蘭が趣味で、手入れのときは仕事をしない。そして、食事のときは必ずビールを飲む。テレビドラマでは、「グルメ探偵ネロ=ウルフ」となっていた。
探偵モースも、ビールが大好きである。

ん、でなぜこんなことを書くのか?
もしかしたら、ビールは脳を活性化するのではないかと思うからだ。
いずれの探偵も、推理がすばらしい。
で、そういうわけではないが、私も昼は吉野家で豚丼と瓶ビール。なお、豚丼はドクター中松が頭の回転にいいと言ったから。


アルコール、飲めば飲むほど脳が縮小!


これまで、「少量の飲酒は健康によい」と考えられていた。
しかし、2008年10月ウェルズリー大学(米マサチューセッツ州)のキャロル=アン=ポールの研究チームは、神経学の専門誌(Archives of Neurology)に次のような研究結果を発表したという。

<アルコールを飲めば飲むほど、脳が縮小する>
<アルコールと加齢による脳容積の減少を食い止めることは不可能>

そして、酒を飲まなかった人は、いちばん脳容積の減少が少なく、次に飲酒をしていたが今は飲まない人、適度な飲酒をする人、現在大量に飲酒する人、という順序で脳容量減少の割合が大きくなっていくらしい。
脳の縮小は認知症をもたらすので、何ともおっかない話である。と、私(rik)は思う。


生きること、「自己再生」と言えばよいのか?


生きているということは、心臓や肺などの機能が、絶え間なく働いていることであろう。栄養は血液になって全身に運ばれ、細胞の一つ一つまでが常に更新されていくらしい。

しかし、精神的なこともそうあって欲しいと思う。
考え方などが固定化してしまうと、発展性がなくなってしまう。絶えずフレキシブルな状態が、日々好ましいのではないか。

つまり、心の中でも自分自身を入れ替えて、いわゆる更新をしていく。それは、「自己再生」と言ってもよいだろう。なぜならば、考え方が固定化してしまうと、柔軟な判断ができなくなる。いきおい、体調も崩れてしまうことが多い。
「自己再生」できるうちは、高齢になっても若いのである。


『海獣の子供』を読んで、異次元を知る。


五十嵐大介の『海獣の子供』三巻まで三冊を読んで、何となく異次元空間があるのではないかと思った。ファンタジックなストーリで、登場人物は
 安海琉花(あづみ るか)……話べただが積極的な中学生。
 海(うみ)……フィリピンの沖合いで保護された少年。
 空(そら)……海の兄と思われる。病弱で、入退院を繰り返す。
 ジム・キューザック……海洋生物学者。
 安海正明(あづみ まさあき)……琉花の父で、いま水族館に勤務。
 安海加奈子(あづみ かなこ)……琉花の母で、水族館に勤務していた。
たちである。

「琉」の字が「琉球」の「琉」であったり、空海(弘法大師)の「空」と「海」があったり、命名にもムーやアトランティスなどの意図があるのかもしれない。また、実話の「アマラとカマラ」や「アヴェロンの野生児」などにも思いが馳せる。
第四巻は、2009年に出るという。


目がチクッ、脳梗塞の前兆なのか?


最近になって、目がチクッとすることがある。何となく、軽く針に刺されたような感じである。
おそらく、目の毛細血管が一時的に詰まったのであろう。そして、それは重篤な症状をもたらす前兆なのかもしれない。

目の毛細血管は非常に細いという。だから、血管の中に少し大きな異物があると引っかかるのではないか。脳で引っかかると脳梗塞、心臓で引っかかると心筋梗塞。
目で引っかかっても致命的ではないだろう。もしかしたら、最悪の場合には失明をするのかもしれない。

いずれにしても、食べ物と飲み物に注意をして、血液を浄化して通りやすくしておく必要があろう。


やってみて、飽きないことは退屈しのぎ。


人生は、とかくすると倦怠感が生じる。つまり、飽きてしまうのである。なぜかというと、日々が単調であるから。変化の多いときは、そんなことは感じないだろう。
例えば、借金取りに追われているときになどは退屈をしないと思う。私はその経験がないが、おそらく心やすまるときがないからだ。

反面、不思議なことに満ち足りていると、退屈が生じがち。日々の生活に追われていると、退屈などが心にすきいることがないが、時間にゆとりをもたらすと退屈が始まる。
つまり、人間は満たされないのが本来の状態かもしれない。そこで、充足のための努力をする。しかし、ある程度満たされると精神的な問題になる。

まったく、不思議なことである。


恥ばかりかいた生き様、消したくもあり。


とっくに還暦を過ぎてしまったが、現役のころを考えると、まったく恥のかきっぱなし。中途半端なことばかり、何一つ満足にできなかった。
思い出しても、慙愧(ざんき)の念に苛まれるばかり。

むろん、力が及ばなかったことは自分でもわかる。つまり、無能力者であったのだ。しかし、「盲蛇に怖じず」で物事の真実や正体を知らなかったばかりに、その恐ろしさや結果もわからない。我ながら無知な者は、向こう見ずなことを平気でするもんだなぁという体験を得ただけ。

さて、それではどうすればいいのかということになるのだが、この期に及んでそれもはっきりしない。だって、未だに似たり寄ったりの日々。
でも、おそらく記憶力が次第に衰えていって、あまり過去の恥や外聞が気にならなくなるのであろう。


三橋氏の書き残された人生の知恵。


「経団連友の会」で、ご一緒した三橋伝三郎さんがお亡くなりになって久しい。かつて、いろいろとご指導をいただいたので感謝をするとともに、とても懐かしい思いがする。
この度、ご子息の三橋章氏から三橋さんの書き残された冊子
 『健康美を実現する方策』……健康なきところに幸福なし
 『神仏の恵み』……幸福・調和・平和への道
 『不思議な話』……事実は理論に勝る
の三冊をいただいた。

いずれも短い言葉の中に、含蓄のある内容がつまっている。古今東西の知恵の結晶ともいえる引用もあって、素晴らしいエッセイだと思う。
大いに学ぶことがあるので、何回も読み直してみた。すると、不思議なことに三橋さんが眼前におられるような気がする。
合掌。


最近は、「コロンボ」よりも「俺がハマーだ」。


テレビドラマは、ふつう一時間。コマーシャルなどが入るので、正味45分くらいになる。そして、他にも二時間ものと30分ものがある。
「コロンボ」は、二時間番組。いっぽう「俺がハマーだ」は、30分。30分のものは、ふつう一時間に二本が入る。

かつては、「コロンボ」のような長編推理・探偵映画が好きだった。しかし、最近になって、何となく見る気がしなくなってしまった。内容が面白くないというわけではない。時間が長く感じるからである。
いっぽう「俺がハマーだ」などのように、ストーリが単純・明快であって短いものが気楽に見れる。少々の論理飛躍があっても、簡潔なほうが楽しい。同じ時間でも、小品が続いたほうが楽なのである。

もしかしたら、私(rik)の脳が弱まってきたのかもしれない。


減量をする必要があると思いつ。


一般的に、老いてくると食べる量が減るという。しかし、私は還暦を過ぎても大食いが治らない。食べないと、腹が減ってしかたがないからだ。

そこで、つい大食いをしてしまう。
その結果、血圧が上がったり、糖尿が出たりする次第。なぜならば、体内の血液量が増えたり、インシュリンの効きが悪くなったりするかららしい。
さらに、体重が増えることによって、膝にかかる負担も大きくなる。やがて、膝痛のために歩行が困難になるだろう。

したがって、何が何でも減量をしなければならない。そう思いつつも、確実な減量ができない。いったん減量を実現しても、意思が弱いために、しばらくしてリバウンドしてしまうからだ。
情けない次第である。


糖尿と高血圧は、困った問題!


どうも、ここのところ体調がよろしくない。
朝、いちばんで糖尿の検査をすると、かなり出ていることもある。とくに、前日に肉を食べた場合。肉といっても、せいぜい大戸屋の鶏肉ソースカツや吉野家の豚丼くらい。
もしかしたら、大食いをした翌日かもしれない。

それに、高血圧。
上が200前後、そして下は100を越えることがある。いつの間にか、まったく危ない状態になってしまった。雨が降ったりして、出かけられなかった日の翌日の朝は、かなり高くなってしまう。

もしかしたら、運動不足が血圧を高めるのかもしれない。
いずれにしても、ぼつぼつアウトになる前兆のようでもある。何とかして糖尿と高血圧は、早めに直しておきたい。


インスリン、不足しがちな身体(からだ)愛(いと)しむ。


なぜだろうか。身体が失調してしまって、食後にインスリンが満足に分泌しないらしい。そのために、いつまでも血糖値が高いことがある。つまり、尿糖が数時間「+++」(2000mg/dl)くらいの価になってしまう。

その結果、うつらうつら。気分も朦朧としている。
以前は2時間で「検出限界以下」に戻ったのであるが、最近になって6時間も戻らないことがある。
おそらく、ホメオスタシスが入院・手術後に失調してしまったのであろう。
非常に困ったことである。なぜならば、この状態が続くと失明をしたり、やがて廃人になったりしてしまうからだ。また、認知症やアルツハイマー病を発祥する懸念もあるらしい。

早めに、何とかしなければならない。


ニワトリの飼い方などと、比べてみたり。


ケンタッキーにある広い養鶏場。たくさんの鶏(ニワトリ)がいる。しかし、彼らは白い背広を着てでっぷりと太った笑顔のカーネル=サンダースおじさんが考えていることなどを知るよしがない。

実は、その養鶏場で何が行われているか、私(rik)は知らないんだ。
そこで、一般的な話。まず、放し飼いの場合。ある程度の自由はある。
しかし、よく見ると毛がないのがいる。他のニワトリがつつくからである。それでも、いじめられたニワトリは仲間のほうによろよろと近づく。そのようなのを入れておかないと、ストレスがたまってしまうらしい。
楳図かずおの『まことちゃん』には、美人コンテストのときに引き立つように一人だけ見劣りのする小さな美佳ちゃんを入れたと企画者に言わせている。

個別に、檻で育てる方式もあるらしい。餌などは、ベルトコンベアで運ばれる。さらに、運動をする必要がないので、ひよこのときに両足を切断してしまうとか、……


意味などは、脳のもたらす幻影なのか?


「無意味の意味」を考えてみて、「脳のもたらす幻影」ではないか? と、そんなことから、またいわゆる「人生には、とくに意味がない」などとも気付いたのは、すでに66歳を過ぎたころ。もっと早く気が付くべきであった。

むろん、40歳代、そして還暦のころにもそのような感じがおぼろげにしたことが何回かある。しかし、あまり頭脳明晰ではない私(rik)は、うかつにも気付くのが遅かった。

操作をされた現代社会。つまり、経済をはじめとしてあらゆる仕組み、例えば競争・戦争・資本主義や近代社会などの巧みに作られた策略の中に置かれている。
何となく飼われているニワトリと同じではないか。おそらく、フィアフィル=マアソン(フィアフィル魔亜尊)の仕業であろう。


人生の意味、知りてより心安らぐ。


それなりに、何とか人生の意味がわかった。その驚くべき結果に、我ながら最初はちょっと疑問を抱いたのだが、……

絶えずあくせくと捜し求める。そして、右往左往する。
また、回りの人に気を使う。つまり、右顧左眄をするのだ。
そんなために、落ち着きがない。

若かったころは、いつもそのような感じではなかったか。
しかし、諦めというと間違っているが、最後は悟りのような心境になるらしい。
シューベルトの『冬の旅』という歌曲集がある。フィッシャー=ディスカウの歌ったCDをよく聴く。すると、最後に「辻音楽師」というのがある。何となく聞いていると、その心境がわかるような気がする。


求められないことをする無意味と愚か?


求められないのに、自分の考えで何かを相手に押し付けたり、一方的に物を与えたりするのは考え物である。なぜならば、相手が求めているものと異なったものは、逆に迷惑になることが多いからだ。

『荀子』だったか『荘子』だったか、あるいは他であったかを忘れたが、「幼い子どもが井戸に落ちかかっているときに、思わず駆け寄って助ける」というのがあった。性善説か何かの説明の箇所だったと思う。そんな瞬間的な判断を除いて、何かを意図的にすると、思わなかった結果を生じることがある。

とくに利害関係が逆になることには、留意をしなければならない。
慈善のために金銭や物を施すのも、結果的に必ずよくなるとはかぎらないようである。


治らない病気、ほとほと持て余しけり。


なかなか治らない病気は、困ったものである。
通院をして、いろいろとやってみたがダメ。まったく方法がわからない。最近になって、ほとほと持て余してしまった有様。

どうやら私(rik)の体内に入ったパラサイト軍との長期戦のようである。
それは宗教や思想が違う民族が、利権などに関して長期的にゲリラ戦などをしているのに似ているのだろう。互いに自分のほうを正当化する。そして、聖戦などと言ってすべてを犠牲にしても戦い続ける。

おそらく、私の体内に住み込んだパラサイトは十字軍の騎士よろしく、破壊活動を正当化しているのだろう。そして、相手がアウトになるまで戦い続ける。
困ったものである。


考えてみれば、今まで無為の連続。


無為は「むい」のほかに、「ぶい」とも読む。
ふつう、「何もしないでブラブラしていること」だが、「ぶい」と読むときは「自然にまかせて、人為をくわえないこと」。
『老子』には「無為自然」(むいしぜん)と言って、「知識や欲望をもたないで生きること」を説いている。また、支配者がとくに何もしなくても、人民が自然に教化され、国が統治できることが好ましいとも説く。

私(rik)の場合、無為はむしろ無意味に近い概念となる。
そして、生まれてから今まで、ブラブラして意味のない生活を繰り返してきたことに気付く。ぼつぼつ古希を迎えるにあたって後悔をするのだが、今さらどうすることもできない。

少なくとも安心立命を確立してから、この世の生を終えたいと考えている。


「無意味論」などということ、考えており。


すべてのことに意味づけをして考えるのが、近代科学の動向のようである。
また、科学の進歩によって先端技術が大幅に進んだ。
まったく、すばらしい時代である。

しかし、いくら遺伝子の構造がわかっても、例えばヒトについてわかるだけ。つまり、「なぜ自分があるか?」とか「なぜ自分はヒトであるのか?」などということはわからない。

さらに、「死んだらどうなるのか?」などということについては、高度な次元で考えると、何となく納得できないのも事実。
もしかしたら、各自が脳のもたらした幻影に惑わされているのかもしれない。そんなことを考えると、何とも心細い限りである。


階段を降りるときには、注意をすべき!


若いときはともかく、高齢になると階段はかなり要注意!
登るときはいいが、降るとき。まず、転ばないようにしなければならない。還暦を過ぎた人が転ぶと、骨折をしかねない。骨がもろくなっているからだ。
また、膝に障害が出てくる。それでなくても、膝の関節が減って痛みかけているので、負荷をかけることは禁物。できたら、一段を二歩で降りるくらいがよい。若いころは、二段づつかけ登ったり、かけ降りたりしたのに、まったく衰えてしまったようだ。

さらに、手摺のあるところでは、手をかざしていつでも掴まれるようにしておくことが必要。ポケットに手を入れたまま、階段を降るというようなことは無用心・危険きわまりない。
なるべく事故や怪我から遠ざかりたいものである。


何となく、失敗ばかり続けてきたり。


考えてみると、幼いころから今日に至るまで、何となく失敗ばかりを繰り返してきた人生でもあるようだ。それでも、淘汰をされずに生きてきたので、我ながら不思議でもある。

いろいろと反省をすることが多い。
しかし、若い時代は過ぎてしまって、身体の具合が悪くなっている。そんなわけで、いきおいムリが効かない。
高齢になってからは身体そのものではなく、むしろ精神的な楽しみ方が必要になるのかもしれない。

橘曙覧の『独楽吟』や神沢杜口の『翁草』などを読むと、高齢にもそれなりの楽しみが多くあるみたい。
ぼつぼつ、そのようなことを学んでみようか。


恥ずかしい存在の我、やめたくもあり。


いままでのことを考えると恥ずかしいことがあまりに多い。失敗と後悔の連続である。思い出して、いたたまれなくなることもしばしば。大声を上げたくなることさえある次第。

考えてみると、何をやっても中途半端だった。いいかげんなことばかり。自分自身ではがんばったつもりではあるが、やはり力量が不足していたのだろう。

そんなわけで、自分の存在自体が恥でさえあると考えざるをえない。しかし、いまからやりなおすわけにもいかないので甘んじたり、諦めてしまう。
そして、次第に消極的になる。つまり、自分自身の可能性を自ずから放棄してしまうんだ。古希を迎えるにあたって、消極的にならざるをえない。
何とかならないものか。


いつも飲む中瓶のビール、とてもおいしい。


入院・手術をしてから、体力をカバーしなければならなくなった。なぜならば、体内のパラサイトがなかなか陰性にならなかったからだ。そこで、長年やったベジタリアンを放棄した。つまり、肉食を始めたわけである。

しかし、家庭では肉食ができない。電子レンジなどの調理道具がないからである。そんなわけで、外食をする。例えば、吉野家。いつも、プチさん(プティ散策)を終えて、午後2時ごろに行く。ガラガラなことが多い。

たいがい、豚丼と中瓶ビール。牛丼は、めったに食べない。豚肉が脳の活性化によいと中松氏が言っていたから。ビールは、自然水を使ったサントリーの500ml。大瓶は633mlであり、ちょっともてあます。中瓶しか置いてないので、やれやれ。
そんな意味で、吉野家は私のような菜食主義だったものにありがたい。


ソリティアは、老化予防に好ましくあり。


あなたは、ソリティアというトランプの一人遊びをご存知でしょうか?
全カードを赤黒のカード交互に、マウスをドラッグして数の逆順に並べていき、占いや運勢などを自分なりに調べるゲームです。持ちカードのあるタイプでなく、私は単純なすべてめくりカードになっているのをします。

なかなか手順を説明するのはむずかしいものですね。
「百聞は一見にしかず」と言います。
そこで、ここをクリックして、ご自分でやって確かめてください。ここに紹介した優れものは、GAMEDESIGN社さんの無料ソフトです。

パソコン作業の合間などに、気分転換の意味も含めて、私はときどきします。三回分のチップを用いて、いつまでもすることのないようにして、老化予防のための有効なツールとして活用させてもらうのです。


よいよいにならねばよいと、いよいよ思う。


ここ二年で、次第に体調を崩してしまった。
そして、いよいよ現実の問題として「よいよいにならなければいいなぁ」などと思うようになった次第。なぜならば、私は父と母から、その遺伝子をいただいているからである。
父は脳梗塞で倒れて、その翌日死んだ。また、母はやはり脳出血で片麻痺(半身不随)で入院、そしてリハビリをしたものの甲斐がなく間もなく死亡。そんな家系に私はあるので、大いに心配。

よいよいや寝たきりには、何としてでもなりたくない。
そのために、いろいろと調べたり、やってみたりしている。

もともと、『青空のホームページ』は「健康」と「老化予防」、さらには欲張って「安心立命」のために始められたものだ。


霊魂は不滅か否か? 三橋氏の説。


私が尊敬をしている三橋伝三郎さんの書かれた『神仏の恵み』には、
<これは昔からの大問題である。霊魂の存在、存続を認めないと人生は不合理になるということで、その存在を認めた哲学者があったようだが、一般人には納得しかねよう。その存在を認めざるを得ない事実を知れば、詳細は分からぬとしても、その存在を疑えなくなるだろう。>
とある。

まったく断定などをしないで、その文章通りだとつくづく思う。
学生時代に読んだ西田幾多郎『善の研究』にも、そのようなことが書かれていた。もしかしたら、霊魂でなく宗教となっていたかもしれない。

とにかく、あるかないかの問題は「ない」と片付けてしまうのではなく、「あって」もよいようにフレキシブルに考えておくほうがよいのではないか。来るか来ないかわからない地震に、しっかりと備えておくように、……


不可解な現象多く、限界を知る。


この世には、理解しがたいような現象があまりに多い。科学が進み、学問が細分化した今日でも、説明のできないようなことがある。もしかしたら、私たち人類とは異なる知的生命体がいるのではないかと思うことさえある。

また、際限のない抗争を繰り返しているのも不思議である。
原始時代と比べると、すでに現代の生活は夢のような状態。それでも、次から次へと新しいものができる。

すでに豊かな社会なので、ある程度の要求は満たされている。したがって、こころの豊かな社会が実現してもよいのではないか。
次から次へと争いが生じるのは、いったいどうしたことだろう。
「かえるの腹自慢」や「オケラのきんたま」のように、何となく影の支配者に「やらせ」られているのではないか。


仕組まれた現実の世は、空しかるべし。


結婚式の式次第のように、人生もあらかじめ仕組まれているのかもしれない。そんなことを何となく、ふと思うことがある。そしてその結果が、もしかしたら自分自身がわかっていないだけだと、つくづく感じる場合も多い。
つまり、ビデオを見直すときのように、同じ場面にふたたび遭遇する。すると、前に見たときのことを知っているので結果がわかる。そのためか、初回のときのような感激や驚きが、あまり大きくはならない。

私たちの人生は、一連のビデオのようになっていて、喜怒哀楽を伴って起承転結を繰り返すのではないか。そして、巻き戻しのようなことを何回かして、終わってしまう。

最近になって、私(rik)を含めて社会全体が、何となく仕組まれたシステムの上を走っているような気がしてならない。
あなたは、そんなことを感じませんか?


うねうねと連なる多摩の横山ゆかし。


私(rik)のいる部屋から、目の高さに多摩の横山が見える。かつてはもっと高かったのであるが、桜ヶ丘の分譲地を造成したときに削られてしまった。

八王子の横山町あたりから、是政の多摩川南側まで連綿と続いていたらしい。『万葉集』巻二十(四四一七)に宇遅部黒女の短歌がある。
<赤駒(あかごま)を 山野に放し捕(と)り不得(かに)て 多摩の横山 歩(かし)ゆか遺(や)らむ>

「ゆかし」は「ゆかしい」の文語形。(自信がないが、だと思う) 「床しい」とか「懐しい」などと当て字を書く。(これもうろ覚え)
ふつう、なつかしく感じられたり、昔がしのばれること。また、好奇心が生じて、見たり、聞いたり、欲しくなったりすることを言う。『竹取物語』の中で、かぐや姫が言い寄ってきた五人の男たちに、
<ゆかしき物を見せ給へらむに>
と言って、プロポーズを受ける態度を示した。


金持ちの末路もあわれ、ハワード=ヒューズ。


一世を風靡して、世界中の富の半分をもった男。しかし、その最期は何となくエキセントリックで、哀れでもある。
ハワード=ヒューズ(Howard Robard Hughes, Jr. 1905〜1976)は、アメリカの実業家であり映画製作者。また、飛行気乗りで20世紀を代表する大富豪として知られた。

しかし、晩年はホテルに引きこもり、細菌に感染することを恐れて、誰にも会わなかったという。そして、ティッシュペーパの箱二つに片足ずつを入れて、靴の代わりにして歩いていたらしい。その後、アスピリンの長期摂取のため、腎機能がダメになって、ガタガタな身体で七十歳で死んだ。

アスピリン(Aspirin)はアセチルサリチル酸の薬品名で、解熱・鎮痛薬。もとは商標名だった。


十九新句、十七俳句、三十一(みそひと)短歌。


古来、万葉の時代から短歌はあった。短歌が次々と続く形式や長歌、旋頭歌(せどうか)などの中で、単に和歌などと言う。
俳句は、連句から独立して芭蕉の時代に完成したらしい。

いずれにしても、短歌・長歌・今様・俳句・川柳などは難しい。
鑑賞はよいにしても、いざ自分で作るとなると実力がないから、なかなかできない。私(rik)には十七音では少し舌足らず、三十一音では冗長度を満足できない。つまり、やってみると短歌ではまとまりがなくなってしまうんだ。

そこで、この新句(十九音)なるものを考えた次第。
俳句の連句をするときの結句のような形をしているので、言い切るのに都合がよい。
いかがなものであろうか。


Kuroda Kouta (2008.12.31/2008.12.31)