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  新句(十九音) 作品集17(2008年11月分)



生きている意味、知りてより心安らか?


「あれも欲しい」、「これも欲しい」などと思う。
また、「あれもしたい」、「これもしたい」などと考える。
人間の欲望には、まったくキリがないようだ。

しかし、私たちが生きている本来の意味を知れば、そのようなことがなくなって、心が安らかになるのではないか。

とどのつまり、人間を含む動物は「子孫を残すため」に生きているのであり、それが最終目的であり、本来の意味であるらしい。
そのために、例えば「恋人が欲しい」とか「金が必要だ」と考える。思想や哲学、宗教や信仰などは、いわゆる高度に発達した人間の脳がもたらす幻影。
他の動物のことを考えると、何となくわかる。


生き方と考え方を改善・工夫!


生き方と考え方を改善・工夫することによって、人生が豊かになるようだ。
最近になって、そんなことが次第にわかってきた。
高齢になったせいであろうか。若かったときに見えなかったものが、見えてきたのかもしれない。

生きているからには、やがて死ぬだろう。当然のことである。
しかし、生きているときには生き方の改善や工夫がある。また、考え方についても同じ。

生きていて、死んだ後のことを考えるのは、取り越し苦労と言う人もいるようだ。しかし、今までの考え方と異なった考え方があるかもしれない。
そんなことは、ムダナことだろうか。


付けてみる? 「バカにするのもほどほどにしろ」。


私は、あまり俳句のことは知らない。
名句と言われているものが、それほどに感じなかったり、反対に新聞などに載っている小学生の俳句などに感激をすることがある。それが、素晴らしい作品であるからだ。

私は、俳句五・七・五を上句として、下句に「バカにするのもほどほどにしろ」を付けてみる。例えば、「古池に石投げ込めば音がした」という句があったとする。その場合には、「古池に石投げ込めば音がした・バカにするのもほどほどにしろ」とやってみる。

そして、何回か唱えてみてすっきりしたらNO、何となく馴染みがなかったらOKである。そんな評価をして、自分自身の価値観を決めている。


ボケ症状、何とか防止したいと思う。


ここのところ回りの人が、次々と認知症になっているようだ。
Mさんの母上は、アルツハイマー病。お若かったころの才媛の面影はすでにない。Oさんの奥さんは、家庭で面倒がみれなくなって入院。そして、Yさんご自身は前に話したことも忘れてしまったみたい。いずれも「恍惚の人」などを卒業してしまった感じ。

そんなことを考えると、自分自身のことが心配になってくる。
なぜならば、ここのところ度忘れや失念が増えてきているから。もしも、記憶がやられてしまうと生きている意味がなくなってしまうだろう。

古希であるから仕方がないなどと言ってみても意味がない。それよりも、具体的な方法を考えて、何とかしなければならない。少しでも、脳の機能を正しく保ち続けるために。
また、回りの人に迷惑をかけないためにも。


竹島は、日本固有の領土だという。


確かに、そうかもしれない。しかし、相手のあることには難しい問題がある。双方に利害関係が対立するときには、なおさらであろう。

そこで、私は考えてみた。
そもそも、国家間で争うほど愚かなことはない。それで漁夫の利を得る国もあり、そのためにダメージを受ける国もある。チャップリンの『独裁者』ではないが、まったく無意味なことだ。

EUなどを考えると、どこまでが一体なのかを最初に明らかにする必要があるだろう。例えば、人間の身体である。兪曲園『顔面問答』のような言いあいをしても始まらない。仏教の説話にある「蛇の頭と尾」もそうだ。

何となく歴史では、愚かなためにムダな争いを繰り返しているようだ。


ボーン言う、「ベジタリアンは体にいいの!」。


テレビドラマの中であるが、ボーン博士が相棒のブース捜査官に言った。その字幕は、

<菜食主義は体にいいのよ。これは合理的な選択よ!>
(BONES シーズン3の#3『サラブレッドの最期』)

となっていた。
この番組は、エキセントリックな内容が多いが、ボーン博士の言うことはいつも合理的。そもそもボーンは骨のことであって、彼女のニックネームである。死体の骨から、犯罪の事実を探り当てるのだ。
で、かつてブースが彼女をそう呼んだときに、その呼び方はやめてほしいと言ったことがあるが、その後ずっとそう呼んでいる。
些細な発言でも、なかなか教えられることが多い番組だ。


何事も中途半端で、終わるか一生?


ライフワークなどという言葉がある。
しかし、なかなか満足な回答が得られない。「健康」と「老化予防」、そしてさらに「安心立命」の研究をしているのだが、正直なところ自分自身さえも健康とはいえない。むしろ、慢性の疾患をもった病人である。

また、老化予防の調査や研究をしたものの、どんどんと老化をしていく。それどころか度忘れが多くなって、認知症の初期症状のようだ。もしかしたら、アルツハイマー病が発症しているのかもしれない。

さらに、安心立命についてはまったく覚束ない。暗中模索といったところ。そんな次第で何もわからないままに、一生が終わってしまうのかもしれない。
残念なことである。


大食いの癖、なおらずに古希に近づく。


それほど、うまいものが食べたいとは思わない。しかし、腹いっぱい食べたい。そして、その思いがなかなか断ち切れない。歳をとってもそう。

もしかしたら、食べ物が不足していた貧しい時代から、遺伝子の中に強く組み込まれている本能なのかもしれない。そんなためか、私は大食いである。

ちょっと恥ずかしいのであるが、一人前では足りないことが多い。外食でもそうである。何となく、食べたりない。例えば、吉野家で豚丼とビール。ちょっと食べたらずの状態で、ふらふら〜っと帰り道のミスタードーナツに入ってしまう。そして、ドーナットを二つとカフェオレ二杯。それで、至福のとき。

帰り道を変えてドーナットを避けてみたが、部屋に戻るとつい冷蔵庫を開けたりする始末。それで、そんな姑息なことはやめた。


つきつめて考えてみれば、すべては「空」。


いったい、何のことか?
ここでいう「空」とは、私の考えている一つの概念である。
『般若心経』の「空」とも、ちょっと違う。

それでは、どういうことか。なかなかうまく説明ができない。
しかし、簡単に言ってしまうと、自分自身をトポロジー的に考えて一つの「外管」という開いたパイプ状のものと考える。そして、それを「内管」という閉じているパーツとしての空間に分けて考えてしまう。
すると、それに「外管」までを含まぬ空間が、いわゆる「空」なのである。

わざわざ位相力学まで持ち出すことはなく、単に感覚でも理解できる。つまり、自分自身が一つの空間に溶け込んでいるということが。
そして、その場を「空」というのである。


体内に、日和見菌がいることを知る。


日和見菌(ひよりみきん)とは、日和見感染をする菌。つまり、普通は病原性を示さない菌が、身体の抵抗力が弱まったときに感染をするのである。

私たちの糞便には、1グラムあたり3000〜5000億個の細菌がいる。ふつう、便の半分くらいは細菌。それらの細菌の大半は、腸の中に住んでいる。腸内には200〜300種類ぐらいの細菌が100兆個も住みついている。それらは、体調や健康状態との関わりで「善玉菌」「悪玉菌」「日和見菌」などに分ける。
腸内にいる「善玉菌」と「悪玉菌」の関係は、善玉菌が増えると悪玉菌が減り、善玉菌が減ると悪玉菌が増加するという。

善玉菌には、ビフィズス菌・アシドフィルス菌・ガセリ菌・オリゴ糖などがある。
悪玉菌は、大腸菌・ウェルシュ菌・ブドウ球菌など。
日和見菌は、緑膿菌(MRSA感染症)・レジオネラ菌・カンジダ・クリプトコッカス・ヘルペス・トキソプラズマ・クリプトスポリジウムなど。


マンタとはマントの意味で、不思議な魚。


水族館の大水槽などに、マンタという魚がいる。見ていると、悠々と泳いでいて何とも不思議な姿である。海底の砂などにもぐるヒラメはともかく、たいがいの魚は胴が丸く流線型である。

マンタ(manta)はラテン語で、和名はオニイトマキエイ。エイ類で、全長約6〜7メートルの大形魚。しかし、食べ物は微小なプランクトン。大きな口から大量に吸い込む。

いつも動いているのは、動いていないと呼吸ができないかららしい。その鰓(えら)の構造から、そうなったのかもしれない。
また、マンタは魚でありながら交尾をするという。そして、卵ではなく親と同じ格好をした子を産むという。
水族館で、いつまでみていても飽きない魚である。


プチさん(プティ散策)は、老いてもできる楽しい日課。


高齢になると、何かと面倒になる。そして、日々の生活などもだらしなくなることが多い。そうかと言って、老人センターなどへ行ってみても、誰かから学べるようなことはあまりない。むしろ、「あんなふうには、なりたくない」などということを私は学習体験するのである。

そこで、一人で街へ出てみる。
行き慣れたところでもよい。しかし、ちょっと遠くへ行ってみるのも楽しい。ささいな発見が待っている。体調の悪くならない程度に、数キロ歩いてみてもよいでしょう。
つまり、一人でできる楽しみが「プチさん」(プティ散策)である。あまり費用もかからないし、また生活の一部として手軽にできる。そんなことで、それを晴れた日の日課に取り入れてしまうと、毎日の楽しみが増すでしょう。


すぐ疲れちゃう体質に、いつしかなりぬ。


若いころには考えられなかったことであるが、ここのところ疲れが出てしまう。ちょっと歩いたりすると、何となく先に進むのがいやになる。
つまり、何かをすると疲れをすぐに感じてしまうのだ。
おそらく、身体が弱くなっているためであろう。

ふつう、日中に眠くなることなどなかった。それが、電車に乗って座ると、とろとろと眠い。うっかりすると、下車駅を寝過ごしてしまう。

どうも愚痴ったらしい言い訳だが、やはり加齢による変化なのだろうか。私の場合、体内のパラサイトが大きな負荷になって関係をしているようにも思う。疲れてしかたがないのは、寄生しているものにまでエネルギーを取られてしまうからかもしれない。どうも、困ったことである。


あくせくと何を求めて日々を過ごすか?


いつも不思議に思うことである。
いったい何を求めて、自分は生きているのであろうか。

あくせくと追われるような気持ちがするのはなぜか。
それは、一種の脅迫概念。教育によってつちかわれた一種の考え方にすぎない。むろん、その脅迫概念は人間の本能でもあろう。

しかし、それを煽(あお)って互いに競争をさせるところが、何とも不自然でもある。ヨーロッパでは中世の「宗教」による支配から、近世になって「教育・学問」などによる支配に移行したことが明白である。
特権階級のマインドコントロールによって、形成されている社会構造が何となく見えてくる。
あたかも、家畜が牧場主に飼われているような。


清貧の日々の方便(たつき)に幸せがあり。


人生も終わりに近くなって、清貧の中には心の安らぎがあることがわかった。したがって、方便(たつき)は必要最小限にしたい。
方便(たつき)は「たずき」「たづき」とも読み、もともと手付き(たつき)の意味。つまり、生活の手段や生計のことである。

さらに、何かをするためのもとになることを言う。つまり、様子(ようす)、模様(もよう)、状態など。

『万葉集』に、

<言ふすべの方便もなきは 我が身なりけり>(四〇七八)

とある。


「記憶帖」「生きる証明」、日々の方便(たつき)に!


「記憶帖」は、三木アヤ先生の歌集にあった名前。
「生きる証明」は、宮柊二先生が言っておられた言葉。
「方便」(たつき)は、「たずき」とも言って、「生活の手段など、つまり生計」のこと。そこに、私は「記憶帖」や「生きている証明」を取り入れたり、またその場にしてしまう。

そこは、「事をなすためのよりどころ」自体であるからだ。
さらに、「様子(ようす)や状態などを知るためのきっかけ」でもある。

古くから言われた言葉で、『万葉集』(四〇七八〉にも

<言ふすべのたつきもなきは 我が身なりけり>

とある。


オシッコとウンコをする場、ないのが不思議。


テレビドラマや小説などに、飲み物を飲んだり、食事をするシーンがしばしば出てくる。しかし、その結果であるオシッコとウンコの場は、非常に少ない。オシッコやウンコは、生理的にも大切な行動であるが、なぜか忌諱したために表面には出てこない。何となく、隠れてすることのようである。

そういう意味では、セックスと似ているのかもしれない。
しかし、セックスの場はあからさまに描写をしないまでも、歌舞伎や映画にも多くある。日本語では「濡れ場」などと言う。
また、太宰治の『斜陽』などには最後の貴族であった母が、庭の草陰から立ち上がって「いま何をしていたか」を私(主人公の語り手)に聞くくだりがある。しかし、具体的な行為の記述はなかったと思う。

ウンコはともかく、オシッコを汚いとする考えは間違っているのではないか。


あまりにも「百舌の速贄」、多くはないか?


人生において、次々に新しいことをする。そして、前にやったことをそのまま放置してしまう。「継続は力なり」などとは、まったく考えない。つまり、「百舌の速贄」(もずのはやにえ)である。
しかし、心臓や肺の機能などのことを考えるまでもなく、百万陀羅尼ではないが反復・継続が大切なのではないか。
宮本武蔵が、

<千日の練習を「鍛」とし、百日の反復を「錬」と言おう。>

と言ったことなども印象的。さらに、

<自分の考えでしたことに関しては、後で悔やまないようにすべきだ。>

とも言っている。
私も、まったくその通りだと思う。


だらだらといつまでもする癖、ほどほどに。


ソリティア(トランプ一人占い)などをすると、なかなか上がれない。
そんなときに、私は三回でやめる。一回するごとに用意したチップ(小片)を除いていって、それがなくなったら潔(いさぎよ)くやめる。
うまくいかなくても、そこで「もう一回」などとは言わないようにする。
そうすると、だらだらと際限がなくなってしまうからだ。

もしかしたら、人生も同じかもしれない。
「姥捨て山」や深沢七郎の『楢山節考』ではないが、不要になったものを捨ててしまうほど思い切った時代も過去にあったのだろう。貧しかったのかもしれない。インドの『ジャータカ』などにも、同様な話がある。

もっとすごいのは、楳図かずおの『イアラ』に出てくる女性を育てた老婆。自分で噴火口に登って行って、飛び降りてしまう。その『イアラ』全5巻から、私は多くを学んだ。


自(おの)ずから、求められないことを続ける。


誰からも求められたことではないのに、意味のないことをせっせと続ける。そんな日々でも、いいではないか。

文学にしたって、美術や音楽などの分野でも、プロは自分の中にあるものが次々と自ずと出てくるのであろう。
しかし、私は文学や美術、そして音楽など、いわゆる芸術には疎(うと)い。残念ながら、とりわけ感性があるわけではない。だから、出てこない。

私は、「健康」や「老化予防」、そして「安心立命」のために、文学らしきこと、美術もどきのこと、そして音楽まがいのこと、そんなことをやってみた。そして、それは結構それなりに楽しい経験になった。
言うなれば、自分自身が必要だったからしたことで、求められなくてもよいのである。


車内にて、席譲られて「老い」を認識。


最近になって、電車の中などで席を譲られることがある。とくに、シルバーシートの近くではそう。やはり、他人の目から見ると老人なのであろう。

そもそも、自分が老人などと感じ始めたのは、いったいいつごろからだろうか。やはり、入院をして手術を受けたときから、少しずつ始まったみたい。退院後の経過がよくなく、いつまでもパラサイトが身体から除けなかったせいであろう。

今でもそうであるが、ちょっとそれは「扶養家族が多いので、働いても働いても金が足りない」などという状態に、似ているのかもしれない。つまり、そんな状態が顔に出て、とくに若い人が見たときに「疲れている哀れな老人」に見えるらしく、席を譲ってくれるのだろう。


老いたらば、見ない、買わない、一人で遊ぶ。


まったく、みみっちく、年金生活者らしい独りよがりの話かもしれない。
「見ない」とは、ほとんど自分には関係がなくて、プラスにならない世界のことである。例えば、芸能人の秘密と言うかその日常の生活模様。
「買わない」とは、あまり自分に必要のなく、手に負えないだろう品物のことである。よくテレビ通販でやっている健康器具など。

なぜならば見ても買っても、それらはあまり意味のないことが多いから。
そこで、一人でも遊べる方法を考える。その一つが、ホームページ。見るよりも作るほうが、老化予防には役立つ。下らないことでも、一向にかまわない。

多磨霊園を散策して、「墓百選」を自分なりに作ったり、身近な川を歩いて「美川(びせん)コンクール」を開いてもよい。そんなことは意味がないというが、それはそれなりに自分自身の楽しい趣味の世界になるだろう。


カンパネラ、やさしく弾ける工夫をしたり。


パガニーニのヴァイオリン協奏曲からリストが編曲をした「ラ・カンパネラ」は、超絶技巧の曲といってもよいだろう。よほど熟練をしたピアニストでなくては、満足に弾けない。
まして初心者には、ちょっとムリ。
そこで、バイエルとブルグミューラの中間でも弾けるように編曲をしてみた。鍵盤を左右の指で叩くので、小さい指でも弾ける。「猫踏んじゃった」ではないが、左右交互に弾くのは何となく簡単である。

『青空のホームページ』から、簡単に試聴をできるようにしてみた。
かつて千葉のピアノ教室で採用をしていただいて、発表会に使ったという。実は素人が、自分の可能性チャレンジという意味合いで作曲をしたものであるが、そうなると喜ばしいことだ。
そこで楽譜も、ダウンロードできるようにしてみた。


使徒パウロ、生誕の年2000年前。


今年は、「パウロ年」。
キリスト教会、例えばカトリック(カソリック)ではパウロ年としての多くの行事があるらしい。
新約聖書の「使徒行伝」や一連のパウロの手紙から、パウロの人柄が何となくわかる。私は、パウロが真面目な素晴らしい人だったと思う。二つの「ティモテオ(テモテ)への手紙」などを読むと、デリケートな性格だったことがわかる。
もっとも、太宰治などはパウロを高くは評価していない。いろいろな人のいろいろな見方があるのは当然。

私は、パウロのサウロからの転向がすごいと思う。そして、転向後の精力的な活動も素晴らしいと思う。
最近になって、生きているのではなく生かされていると思うようになった。


日々アロエ、漢方習い薬用酒など。


化学製品である薬は、劇的に効くほど効果があるだろう。しかし、副作用があることも事実。したがって、長期間の治療には用いないほうがよいと思う。
また、しばらく用いると効果が弱まってしまうかもしれない。

そこで、長期的に患っている症状には、食べ物で治療をするのがよいのではないか。しかし、いわゆる食材のほかに、アロエ、ニンニクなども用いる。つまり、古くから漢方にあるものも利用する。

それらは単独に用いるのではなく、日常の食事と合わせて摂取する。
さらに、薬用酒なども大いに結構。そんな方法を心がけて、何とか日々の健康を保持したい。それでも具合が悪くなったら、病院に行って処置をしてもらったり、薬を処方してもらえばよい。


ハ・メ・マラを大事に使い、古希まで元気!


で、ありたいと思うが、ダメかもしれない。
高齢になると、どうしてもダメになるのが歯と目。そして、魔羅。
魔羅と言っても、還暦を過ぎたらセックスのことではない。魔羅は、男ならばいちばんやられやすいところ。前立腺肥大症、そして前立腺ガン、現代の食生活ならば、それは当然の成り行きだから。

また、新しく病名が付けられた「過活動膀胱」の人も多い。つまり、オシッコが近いのである。頻尿という言葉があるが、何回もトイレに行く。膀胱の容量が次第に小さくなってしまう病気である。

目も白内障・緑内障、そして網膜剥離などになりやすい。とくにパソコンをすると、ドライアイから悪化するので注意が必要。歯は、永久歯が残っている間、荼毘に付されるまでずっと歯周菌との戦いである。
皆さんも、お大事に。


堤防の散歩を工夫、バック・目つぶり。


晴れた日には、多摩川の堤防を散歩することが多い。
まず大栗川に沿って、多摩川に合流する小さな公園まで行く。そして、そこから多摩川の右岸沿いに聖蹟桜ヶ丘駅まで堤防上を歩く。

平日ならば、ほとんど人が歩いていない。
そこで、まずバックして歩く。つまり、ボートを漕ぐときのように、後ろを見ながらまっすぐに進む。ちょっと平衡感覚が違ってくるが、健康によいらしい。
次に、前向きで眼をつぶって歩く。曲がってしまうと、左右の草が生えているところに入るので、すぐ気付く。やってみると、目を閉じているとどうしても曲がってしまう。

なお、川に沿って歩くときは上流に向かうときよりも、下流に向かうときのほうが楽である。歩く距離が長いときは、疲れにも関係をしてくるようだ。


難病や奇病もありて、さらに誤診も。


ここのところ、テレビで連続放映している「ER」「ドクターHOUSE」「チャングムの誓い」などを見る。実況ではなくドラマではあるが、医療の現場を窺い知ることができるから面白い。

一つの症状に対して、いろいろと原因を探っていく過程などが、実に興味深い。そして、いかに多くの病気の原因が体内に潜んでいることを知らされる。まったく、恐ろしい話である。

また、一方では医療に携わる人たちの間の葛藤のようなことも垣間見る。まったく驚いてしまうが、さもありなんということもしばしば。
現実とドラマでは異なっているかもしれないが、それでもドラマの中で多くのことが学べるのでありがたい。


チャングムとドクター=ベルの言葉に学ぶ。


ここのところケーブルテレビのドラマをよく見る。
いずれも数年前の再放送らしいが、例えば「チャングムの誓い」にある
チャングムの言葉。

<病は医者が治すものでなく、病人が治すものです。>

これは前半を言うと、王様がすでに覚えてしまって後半を言う場面があった。
また、「コナン=ドイルの事件簿」(#1ドクター・ベルの推理教室)でドクター=ジョセフ=ベルが言う言葉。

<いいですか、奥さん。病気に勝つことは、希望をもつことですよ。>

そんなことをドラマで聞くと、それもやはり事実だと思うのだが、……


そうならぬ前に、何とかしなければダメ。


何事もそうであるが、問題が大きくなる前に解決をしなければならない。
例えば、病気や火事、そして戦争などもそうであろう。
行き詰ってしまう前である。

わかりやすくするために、自殺を考えてみよう。
ある人が、思い悩んでビルの屋上から飛び降りた。そして、そのまま真っ逆さまに地上に落ちて死んでしまった。
この場合、落ちていく途中で仮に「やめたい」と考えても、ムリであろう。また、誰かが落下を停めて、助けるわけにもいかない。

少なくとも、まだ屋上にいて飛び降りる前であったら、計画を中止することができる。また、誰かに相談をすることも、そして思い直すことも可能。
しかし、落ちていく最中になっては「助ける」ことや「中止」することは、きわめて困難。大事でも小事でも、そのようなことを忘れないようにしたい。


Kuroda Kouta (2008.12.04/2008.12.04)