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  新句(十九音) 作品集16(2008年10月分)



奇病あり、難病もあり、ドクターHOUSE。


ここのところテレビで、ドクターHOUSEをよく見る。ドラマではあるが、勉強になるからだ。救急でかつぎこまれた原因がわからない患者の治療をするのであるが、まず病気の原因を突き止める。スタッフは意見が異なって、なかなか処置方法が決まらない。
しかし、ドクターHOUSEは自分なりに考えた結論でメンバーに指示する。

ハイになった患者の住んでいた家にまで、調査に出かけたりする。そして、不潔な部屋のだらしない生活などが明るみに出る。日本の病院では、考えられないような調査方法である。まさに、傾向・原因を知ってから対策・処置をほどこすといった手順。
患者の性格までが変ってしまった症状の原因を考えるときに「レジオネラ菌」「ブドウ球菌」「クリプトコッカス菌」なども出てくる。そして、マリファナの肥料に鳩(ハト)の糞を使い、その中にいたクリプトコッカスが体内に入ったなどということがわかったりする。


大食いの癖、なおらずに古希に近づく。


それほど、うまいものが食べたいとは思わない。しかし、腹いっぱい食べたい。そして、その思いがなかなか断ち切れない。歳をとってもそう。

もしかしたら、食べ物が不足していた貧しい時代から、遺伝子の中に強く組み込まれている本能なのかもしれない。そんなためか、私は大食いである。

ちょっと恥ずかしいのであるが、一人前では足りないことが多い。外食でもそうである。何となく、食べたりない。例えば、吉野家で豚丼とビール。ちょっと食べたらずの状態で、ふらふら〜っと帰り道のミスタードーナツに入ってしまう。そして、ドーナットを二つとカフェオレ二杯。それで、至福のとき。

帰り道を変えてドーナットを避けてみたが、部屋に戻るとつい冷蔵庫を開けたりする始末。それで、そんな姑息なことはやめた。


目まいして、フラフラとする症状もあり。


目まいをしたり、フラフラとしたことなどは、今までにあまりなかった。
しかし、最近になって目まいや立ちくらみをするようになった。また、歩いていて身体のバランスを失い、思わずフラフラとしてしまうことがある。
自分の脳がそう感じているのだが、「地震かな?」などと考えてしまう。

つまり、まだ自分を中心として脳が感じているようだ。
自分が、地球という不安定な場に乗っているなどとは思わない。なぜならば、大地はしっかりしているという間違った固定概念があるからである。
そして、それは脳がもたらしている幻影などということに、愚かなほどに気付いていないから。

人間の脳は、奇妙な存在。不思議でもあり、不気味でもある。
目まいをして、フラフラとするようになってから、そのことにも気付いた。


わからない? 過去最高の平均寿命。


すでに2002年9月15日現在で、75歳以上の人が1000万人を突破したと総務省が発表している。そして、その後2005年には平均寿命が男78.56年、女85.52年と過去最高になったと厚労省が公表した。

しかし、長生きを記録しているのは、現代の若者ではなく、明治・大正時代に生れた人たちであろう。おそらく、今後は次第に平均寿命が短くなっていくのではないか。
なぜならば、食べ物の不都合や生活習慣の乱れなどが、あまりなかった時代に比べると、死亡率をどんどん増していく傾向にあるから。

平均寿命などと言って安心をするのは間違いで、何となく統計のからくりのような感じもするが、いかがなものであろうか。


キリがないことを求める脳の空しさ。


現代の社会や科学は、キリのないことを際限なく追求する。同義反復のような言い方ではあるが、それが現実であろう。

つまり、基礎のないままに、次から次へと追い続ける。
それが、経済というものらしい。

ちょうど、醜女(しこめ)のお化粧のようなものである。
醜女は、容貌のみにくい女のことである。また、『古事記』では黄泉(よみ)の国にいる容貌のみにくい女の鬼のことも言っている。

醜いので、お化粧をしても見栄えがしない。さらに、風呂になど入っていないので、不潔極まりない。そんなベースの上にごてごてと盛り付けていくのが、現代の経済や文化なのではないか。


エレウシスの秘儀は、死後の疑似体験か?


ギリシア時代にアテネでは、「エレウシスの秘儀」が行われていたという。それは、エレウシス(地名)に集まって松明(たいまつ)をかざし、死後の復活を祈るのである。そして、各自が「死後の世界」つまり「死」を疑似体験する。

そのようなことが、当時は秘かに行われていたらしい。
ギリシア時代にも、やはり死後のことが心配であったことを物語っている。

私も古希になって、ぼつぼつ死ぬのであるから、死後の心配が生じてきた。でも、そのようなことを言うと誰もが笑う。死んでしまったら、何もなくなるので、そのようなことを考える必要がないらしい。
そうは言っても、用心をしておくのにこしたことはないだろう。


こんなもの、やめちゃえばとも思うことあり。


何かをしていて、何となく億劫になることがある。
それは、「こんなことをしていて、意味があるのだろうか?」などという疑問が生じたとき。

あまり意味のないことに、せっせと取り組んでいる自分が愚かしくも哀れになってくる。
例えば、ホームページやプログ。
誰も見てくれないとは言わないまでも、ほとんど訪問者がない。それを次々と書き足していく。何とムダなことであろう。

そんなことを言えば、自分自身の存在や人生はどうか?
あまりにも意味のないことではないか? 自己嫌悪に陥ってしまうほど、存在価値のない自分に愕然とする。


ロンギヌス、血で眼の病みを癒されたのか?


ロンギヌスは、キリストの処刑のときに槍で刺したローマの兵士。すでに、眼を病んでいたらしい。しかし、キリストの血が眼に入ったので、治ったという。

そのようなことは、伝説であるかもしれない。
しかし、「ベン・ハー」や「聖衣」などのようなストーリもあるので、事実だったか創作かどうかは、一概には言えないだろう。

旧約聖書では、血液を非常に大切にするようだ。もしかしたら、こころが血液にあると考えていたのかもしれない。
現在の科学は、「こころが脳にある」と考える。しかし、かつてはこころが心臓にあると考えた時代があった。そして、実際には心臓を流れる血液が主体なのであろう。脳の場合も、血液がないと記憶できないと私は思う。


何となく、やる気がなくて身体(からだ)がだるい。


ここのところ、何となく体調が悪い。数年前の入院、その後のずいぶん長かった通院。すっかり、身体(からだ)のホメオスタシスが狂ってしまったようだ。

その結果、どうやら気力まで失ってしまったみたい。
「気は心」とか、「健全な身体に、健康な精神が宿ればいいなぁ」などという諺(ことわざ)を思い出したりする。

別に死にかかっているわけでもないが、何かをするときに面倒であったり、億劫である。つまり、やる気がしないんだ。それは、もしかしたら病気ではなく、単に加齢による現象なのかもしれない。

でも、私より歳をとっている人で、矍鑠(かくしゃく)・溌剌(はつらつ)としている人もいる。もっとも、私の歳で死んでしまったり、寝たきりやアルツハイマーの人もいることはいるが、……。


面白くない記事を見る人は、少ない。


まったく、その通りである。
プログやホームページなどを見ていると、訪問者の多い記事は面白い。時事問題や社会の風刺、そして独自の見解など、読んでいても興味深い。また、趣味などの記事もなかなか充実していて、有意義なものが多い。

しかし、このプログのように自分が自分自身のために書いているものは、他人が見てもあまり面白くはないだろう。なぜならば、独りよがりで身勝手な内容だから。
ちょうど、売れない芸能人の芸と似ている。客観的に見ると、何となくバカバカしく哀れである。本人はがんばっていても、誰も見ないのだ。しかし、本人がそれでよければよい。と、私(rik)は思う。
つまり、「はためかない旗」や「馬耳東風以前」なのである。


もう一度、行ってみたいと思う場所あり。


老いてくると、かつて行った場所で、何となく改めて行ってみたいと思う場所がある。ノスタルジックとでもいおうか、自分なりに印象に残った思い出があるからかもしれない。
しかし、その思い出と言ってもそれほど大げさなものではなく、ほんの些細なことが多い。

長旅というほどではないが、逗留した場所やホテルや旅館の部屋に対してなつかしさもある。ちょっとしたことでも、記憶の中にはっきりと残っていることがあって、郷愁を感じるのだ。

松尾芭蕉は、死去に先立って<旅に病んで夢は枯野をかけめぐる>と詠んだらしい。もしかしたら、私も身体が不自由になって外出ができなくなったら、「夢がかけめぐる」かもしれない。


NPO法人化する予定だったが、……。


健康や老化予防を実行・推進するグループとして市の文化団体として発足したものの、あまり効果のないままに三年が過ぎた。「石の上にも三年」などと言うが、さっぱりである。

「ホームページで広報をしたら?」と言った会長も、すでに亡くなってしまった。また、グーグルにサークルを作ってくれた大岩さん、ヤフーにグループを申し込んでくれた田中さんもすでに鬼籍の人。

そんなわけで私一人が、ほそぼそと運営・維持している。
最初は、メンバーが増えたらNPO法人化して健康や老化予防に関する研究などを強力にしたいと考えた。しかし、ホームページなども今となっては、単に私のメモに過ぎない内容になってしまった。いいかげんなページがあったり、「百舌の速贄」になっちゃった記事がかなりあるのはそのため。
「絵に描いた餅」で、お恥ずかしい次第。


「ありがとう」という気持ちで、パソコン止(と)める。


いつも「ありがとう」という気持ちと、「やれやれ」というほっとした気分で、パソコンの電源を切る。

例えば、「FFFTPのファイル転送」である。
ファイルの数が1万近くなると更新チェックのサーチにも時間がかかり、中には読み込みエラーが生じてしまう。そして、そのままハングアップ。
もっとまずいのは、正常転送をしたような結果の動作をして、ページファイルのお尻の部分が切れてしまって、失われたままセーブしてしまうケース。
そんなためにファイル転送をした後は、必ずリバージョンをしたページを読み出して、最後にある年月日の記述を確認しなければならない。

とにかく、思うように動かなくても、また作業がはかどらなくても、パソコンを終えるときは感謝の気持ちで、ほっと安堵するのである。


老いたらば、独り静かに日々送りたし。


あれもしたい、これもしたい。あれも欲しい。これも欲しい。
そのようなことは、若いときのこと。
老いてくると、あまり希望や物欲がなくなるみたい。

とくに、身体の不調箇所が増えてくると、自分自身のメンテナンスをすることで精一杯。俗世間の細かいことには、手が回らなくなってしまう。
また、その結果であろうか、物があまり欲しくなくなるようだ。

つまり、せいぜい自由奔放に考えて、健康を維持することが最優先。そんなことが、晩年の日々の務めと生きがいであろう。
むろん、老いてから恋人を作ったり、蓄財に励む人もいる。実際に何人かを知っている。しかし、私の場合はせいぜい文章を作ったり、デジカメで写真を撮ったり、それらを整理する楽しみの程度である。
あなたの場合は、いかが?


新しい発見もあり、楽しい散歩。


ここのところ、散歩に忙しい日々。
原則として、晴れた日には「プチさん」(プティ散策)。そして、雨が降ったり、雨模様のときは部屋で読書をしたり、パソコンをする。

何ゆえか、パソコンのホームページについても、前のように情熱がなくなってしまった。もしかしたら、訪問者があまりにも少ないからだろうか。

しかし、自分自身の「老化予防」の一環として、そこが理想的な場であることは事実。とくに、グーグルの検索オプションでドメインの指定をすると、自分が今まで「どこに何を書いたか?」を直ちに知ることができるようになった。おそらく、従来の自分自身でインデックスを作る方法よりも確実であろう。

散歩をして発見したり、再発見をしたことは、必ずホームページにメモをしておく。後で思い出して「老化予防」ができるので、素晴らしい。


ミニかプティ、あるいはペケを考えてみた。


ミニは、ご承知のとおり。
プティは「プチ」と書く場合もあり、フランス語の「petit」。もともと「小さい」という意味があり、複合語として「プチブル」などと使う。また、「Le Petit Prince」はストーリの内容から意訳して「星の王子さま」。
ペケは、スペイン語の「peque」。
いずれも小さいという意味。

近くの京王線沿線各駅からの散歩、つまり「小さい散歩」を「プチさん」とした。つまり、プティ散策である。
最初、「ミニさん」「ペケさん」なども考えたのであるが、どうやらプチさん(プティ散策)が何となくいいんじゃないかという結論。
ペケさんでは、ちょっと語呂が悪かったのも事実。


眠りと死、似た概念と気付き始める。


ここのところ眠りと死とが、かなり似た概念でないかと気付き始めました。よく、死のことを「永遠の眠り」などというのも、何となくわかったつもりです。
なぜならば、「生」と「死」について私は、まったく「新しい考え方」をするようになったからなのです。

つまり、生きていても死んでいる場合があるし、死んでしまっても生きている場合があるからです。いったい何のことかと思われますが、細胞やミトコンドリアの活動、そして心臓や肺、さらに脳の機能、そのようなことは単に物理的なことにすぎないからです。

誤解があるかとも思われます。改めて詳細を述べる予定です。
しかしここでは、それは学問ではなく一種の考え方、すなわちあたかも「信仰もどき」のこととでもしておきましょう。


一生は、すべてのことが一期一会か?


何となく、日々同じことを繰り返しているような気もする。
『伝道の書』ではないが、日はまた昇るのである。基本的なことは、何もかも反復かもしれない。そもそも、私たちの身体、例えば心臓や肺なども同じことの繰り返しのように思う。
しかし、その反面ではことごとく新しく違って感じることもある。基本的には同じであっても、一つ一つは新たなのかもしれない。

「一期一会」(いちごいちえ)という言葉がある。
茶の湯の「一期に、一度の会」からきたらしい。つまり、茶会では「これが一生に一度だという思いで、主客とも心から真剣に行わなければならない」と説くという。

そして、そこから転じて「一生に一度しかない出会い」すなわち「これは、一生に一度かぎり」と考えることらしい。


在るものを上手に利用する生活を。


「あれも欲しい、これも欲しい」などと言ったら、それこそキリがない。
そこで、もっているものを上手に利用することを考えよう。また、いわゆる廃物などを再利用することなども工夫する。

そんなことも実際にやってみると、身近な喜びとなってくるから不思議。
『荘子』に「有限の身でもって、無限のことを追いかけると危うい。」というような記述があった。

現代は、物が余っているような有りがたい社会である。考えてみると、そのような時代はあまりないのではないか。言葉通り「有り難い」のである。

また、仏教や禅で言う「吾唯足るを知る」ということは、ギリシャ皇帝マルクス=アウレリウスほど偉大な人も書き残しているので、もしかしたら人生の秘訣なのかもしれない。


いつの間にか、古来稀(こらいまれ)になっちゃった私。


間もなく、古希(こき)である。考えてみれば、よくここまで生きられたものだ。人生の持ち時間も、残り少なくなってしまった。それでも、日々元気に何事もなく過ごせるので、つくづくありがたいと思う。

晴れている日は、小さい散歩をする。電車に乗ってどこかの駅で降り、その周辺をぶらぶら歩く。とくに目的はない。神社や仏閣を回って、参拝をする。公園や名所があったら寄る。
そうかと言って、信心が深いわけではない。また、そのご利益(りやく)を求めているのでもない。つまり、足が萎(な)えないため。何とか歩けるうちは、少しでも歩く。

そのためには、ちょっと見知らぬ場所のほうがよい。興味をもって、いわゆる小さな知的探検ができるからだ。「鬼のいぬ間(ま)の洗濯」ではないが何とか歩けて、目もしっかりしている間の習慣なのである。


プチさん(プティ散策)は、老化予防が主な目的。


プチさん(プティ散策)の主目的は、老化予防である。したがって、とくにその他に目的がなくてもよい。いくら運動不足の解消と言っても、スポーツクラブや自宅でするランニングマシンでは何となく飽きてしまう。

道を歩くことによって、注意が環境や景色に向くだろう。だから、単にトレーニングマシンによる運動よりも、楽しく時間が過ぎる。すでに歩いたところでも、新しい発見や再発見もあろう。

そして、体力的にムリのない範囲で行えるから、激しい疲労感などもない。帰ってから、グーグルの地図で歩いたところを見直してみる。また、ときには歩行距離などを計ってみるのもよいだろう。

そんな楽しみが、そのまま老化予防になるのでありがたい。


いつまでも地図眺めおり、スクロールして。


最近の地図は、ドラッグして周辺地域が次々と見れる。また、グーグルやヤフーの地図は、航空写真も装備している。いつでも切り替えることができるので便利。そんなわけで、いつまでも飽きずに楽しめる。
むろん、縮尺も自在。距離の測定ツールもある。
まったく、至れりつくせりである。さらに、すばらしいことはその費用が必要でないこと。

以前は地図や辞書などは有料のソフトを使ったものだが、最近は地図のみか、辞書も簡単に利用できる。辞書でわからない言葉でも、ウェブ上で検索をすると、たいていヒントになるようなことがある。まさに、百科事典や万巻(ばんかん)の書をもっているのと同じ。

まったく、素晴らしい時代で、ありがたいことである。


いっさいが意味のないこと? ムダかもしれぬ。


ふと、妙なことを考えた。
人間のすることなど、いっさいは意味のないことではないかという、何となく心を過(よ)ぎるはっきりとしない不安感。
そしてそれは、脳という器官のもたらした幻影なのではないかということ。

つまり、誰もが幼少時からの学習や教育によって、必然のごとくつちかわれた価値観。それによって、あたかも馬が御者によって操られて走るように人馬一体となる。そして、何としてもレースに勝たなくてはならないと、がむしゃらに走るのである。

しかし、他の馬も他の脳に操られて同じことをしている。
馬自体にとっては、馬券を買った観客ではないので、自分自身がそいう状態におかれていても、あまり意味のないことかもしれない。
てなことを考えること自体が、もしかしたら意味のないことかもしれない。


人生の残り時間をいかに過ごすか?


だんだんと人生の残り時間が、少なくなってきた。
もっとも、それは考え方次第。
例えば、高級洋酒のボトル。半分になった場合。

「もう半分しか残っていない。残り少ないなぁ」

と思うか、あるいは

「まだ半分も残っている。しめしめ」

と考えるかの違いであろう。
しかし、小心の私は残りをいかにしようかと思い悩む。今さらのように、現在の自分をいとおしみつつ。時間の概念に対して、愚かな心のなせる業(わざ)であろうか。


「運命は決まっている」と言う人もあり。


「運命論」などというのがある。人生のすべては、あらかじめ決まっているので、何を努力してもムダだなどという。今まで私は「まったくバカバカしい考えだ」などと、そのことを思っていた。
何を努力してもムダであきらめるのであれば、そのあきらめることもすでに決まっていたことになる。そんな言葉の堂々巡りは、思考のムダ使いだと思う。

しかし、最近になって遺伝子のことを学んだり、宇宙のことを教えられたりしてから、「運命論」が何となくわかるような気がし始めた。そもそも「運命」とか「宿命」などという言葉が考えられて、すでにあること自体、何か私たちには知りえないブラインドスポット(盲点になっている秘儀のような事実)が、あるのではないだろうか。
今後は、いろいろと調べてみたい。


ガクガクとする膝耐えて、階段降りる。


平地にあるのは問題ないが、高台にある寺や神社では階段が急なところが多い。登るときは、ふうふういいながらそれでも何とか。問題は、くだるとき。体重が一気に足にかかる。したがって、膝の負担が大きく、ともすると痛くなってしまう。

それは、寺社でなくても同じ。駅の階段などでも注意が必要。テレビのコマーシャルではないが、軟骨がすり減っていて当たるためかもしれない。いつごろからか、そうなってしまった。

そんなわけで、駅などではエスカレータやエレベータを利用する。しかし、寺や神社には設備がない。ただ、階段のほかに坂道があることもある。また大きな寺社では、自動車が本殿の横にまで行けるようになっている。そんなときは、登りは階段、下りは坂道。それが、最近の習慣になった。


「いずれまた機会がある」と思うは空し。


相手が高齢者の場合は、意外に機会を失うことが多い。
それこそ、一期一会と考えておかねばならないだろう。
つまり、お互いに生身の人間であるから、いつどうなるかわからないからだ。

私も、知人から教えてもらいたいと考えたことが多くある。
例えば、大岩唯浩さんからは植物に関すること。そして、高橋伝三郎さんからは健康のこと。などなど。
しかし、もう教えてもらうことはできない。
なぜならば、それらの方々は、すでに亡くなってしまったからである。

また、「孝行したいときに親はなし」などと言って両親の場合も同じ。さらに、「墓に布団は着せられぬ」などとも言う。孝行はともかく、親にも聞いておきたいことも多くあった。


食べ物に気をつけましょう! 健康のため。


ここのところ、食べ物に異物が入っているニュースが多い。
輸入食品にもあるが、国産の一流会社の製品にもしばしば。
化学薬品などで人体に有害な物質が入っていて、ニュースになる。食べた人が不調を訴えたり、入院をしたり、ひどいときは死亡する。
常に「化学薬品症候群」には、細心の注意が必要である。

なぜ食品に有害な化学薬品や毒物が混入するのであろうか?
製造工程の故障でそうなるときもあるが、人為的になされたような傾向もかなり見受けられる。

スーパーなどで少しでも安ければ、そのほうを買ってしまうというのは、ちょっと考え物である。そんなわけで、私は原則として、生産者の氏名が明らかなものしか買わないことにしている。


ギョッとするほどのニュースが日々あまたあり。


毎日、私は必ずと言ってよいほどNHKのニュースを見る。
そこには、実に驚くほど異質な事件や不思議な現象が次々と現れる。また、常識では考えられないようなこともしばしば。

科学技術が進み、交通機関が発達し、電化製品などが普及した快適な生活の中で、なぜ凶悪な犯罪などが次々と発生するのだろうか。
おそらく、互いに人間の本質がわかっていないのであろう。
そこで、「人間とは何か?」というような原点に返って考えてみようと思う。

つまり、ポアンカレの宇宙トポロジーを人間について考えてみる。私はサーストンの8種類のパターンではなく、単に「内包」(球)と「外包」(ドーナッツ)の二種類で、理論を構築していこうと考えているのだが、……


何となく、苦し紛れの神社仏閣。


「苦しいときの神頼み」などと言います。
また、切羽詰(せっぱつま)って「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」、または「イエスさま」「マリアさま」などと唱える人もいるでしょう。

私はここのところ何となく体調が優れないままに、あちこちの神社や仏閣を参拝してみました。なぜならば、古来からその方法が行われているからです。現代でも、地鎮祭や各種の祈願が行われているが、それらはバカバカしいこととは思われないからです。

病むということは、身体の不調が次第に大きくなることです。
しかし、必ずしも物理的なこと、つまり肉体の状況ばかりによらないで、「病は気から」などというように、気持ちが原因の問題もあるでしょう。
そんなことも、つい考えるのです。


地図を見て、行きたいところ限りなくある。


地図を見ていると、行きたいところが次々と出てくる。まず、かつて行こうと思って行けなかったところ。そして前に行って、もう一度行ってみたいと思う場所。あまり費用もかからないし、時間があるので行けないことはない。しかし、なかなか実現ができない。

なぜならば、ここのところ体力が心配だからである。
したがって、日帰りでムリなところはビジネスホテルを利用して、行き先で一泊する。そのような方法になってきた。

地図を見て、いろいろと計画を立てるのも楽しい。以前は国土地理院の地形図を利用したが、最近はグーグルの地図。最初は、大きな倍率にしておいて計画を練(ね)る。そして、現地を詳細を見れる倍率にする。そしてさらに、航空写真モードにするのである。
そんなことをしていると、とても楽しい。


Kuroda Kouta (2008.10.31/2008.10.31)