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  新句(十九音) 作品集15(2008年9月分)



久々に、府中病院尋ねる羽目に。


ぐるっと回って、元に戻るようなケースがある。
健康について自信がなくなったので、総合診断をして欲しいと思った。人間ドックのような精密検査とその結果の処置・加療である。以前、会社の厚生保険加入社だったときにした「一日人間ドック」のように費用がかかってもよい。

そこで、所轄の府中社会保険事務所に行った。すると、すでに非加入者だから、保健所へ行ってみろと言う。そこで、調布経由で永山にある保健所を尋ねた。しかし、そこでも検査はしていないと言う。そして、市へ行けと言う。

仕方ないので、そこから歩いて市役所に行った。すると、健康関係は「健康センター」でやっているという。何のことはない、関戸の九頭竜会館である。私の住んでいるところから、歩いて五分足らず。
次の日に行って係官と話した結果、結局は市で対応ができなくダメだから、前に入院をした府中病院に行くのがベストだとわかった次第。
あるいは、行かないのがベストかもしれないが、……


楽しみは、まれに友来て語り合うとき。


何となく橘曙覧風である。しかし、私にとって、事実は事実。正直な気持ち。
かなり以前に、

「たのしみは、まれに友来て語りあうとき。」

というのがあったと思う。

そこでは、私の心に「ふっと生じたり、何気なくやってくる」友の思い出などを語った記憶がある。親しかった友だちの多くが、すでに亡くなってしまった。花が咲いたりしても、その友を思い出すことがあって、蝋梅(ろうばい)の季節になると、大岩さんが偲(しの)ばれる。」と言った内容。

新句(十九音)では、まったく同じ作品が何回あってもよい。


豺狼のごとくに群れる閉店のとき。


「閉店」には、「その日の営業を終えて店をしめる」ことと「本来の仕事をやめてしまう」ことの意味がある。ここでは後者、つまり店じまいのことである。

いつも思うのであるが、そんなときには人がいっぱい。今までの閑古鳥が不思議なみたい。食べ物や衣類などの店のほかにも、ローカル線などの運転でも同じ現象。まったく、豺狼のようである。

「豺狼」(さいろう)とは、野犬や狼の類。ダメになりかかったところへ群がる人々の性格は、蛆(うじ)やウイルスの習性と似ていて不気味でもある。

「豺狼、路に当たれり、いずくんぞ狐狸を問わん」とは、「野犬や狼が前にいるときに、狐や狸などを問題にしていれるか?」という意味。大悪人が権勢を誇っているときに、その下の小童(こわっぱ)を除いても仕方がない。
つまり、欲求にしたがって行動することよりも、その貧困な思想という生来の原因を除かなければならない。


プチさん(プティ散策)は、老いたる日々の知的探検。


知的探検などと、ちょっと大げさかもしれない。
伊能忠敬や松尾芭蕉のことを考えると、何の目的もなく駅周辺をぶらぶらするのは、ちょっと恥ずかしい。また、種田山頭火のように僧形(そうぎょう)をして、全国をほっつき歩くわけでもない。

何のことはない。身近で安全な気分転換と足のトレーニング。つまり、自分がボケないための工夫と足萎(な)えないための運動。

しかし、それでいいんだ。
そして、それを「知的探検」などと考える。大きいか小さいかは、考え方次第。パラサイトから見たら、私の身体は銀河系くらいあるかもしれない。いっぽう、FMから見たら芥子(けし)の種子より小さいであろう。


いつまでも歩いていたい、自分の足で。


ここのところ、ちょっと足の具合が悪い。
かつては、20キロメートルくらい歩いても何ともなかったので、健脚だと言われた。しかし、最近は4キロメートルくらいが、せいぜいのところ。

あまり長く歩くと、膝が痛くなってしまう。
親しかった人を見ていると、歩けなくなるとアウトみたい。杖をつく程度ならよいが、ひどいのは車椅子。そして、寝たきりになる場合も多いようだ。

何としてでも、車椅子や寝たきりにはなりたくない。
いったいどうしたらよいのだろうか。

青空のホームページ』の「健康のページ」にまとめてゆきたい。


用もないのに歩くのは、愚かなことか?


いやいや、とんでもない。用がないからこそ、歩くのである。老いてくると、それを日課として、健康を保持しなければいけない。

唐木田の福祉センターに来ていた人。落合に住んでいたのだが、仲間と口喧嘩(くちげんか)をしてから、来なくなってしまった。そして、家でブラブラとしている間に足が衰えてしまって、出歩きが不自由になってしまったという。

さらに、そうこうするうちに倒れてしまい、そのまま救急車。それでも、一命は取り止めなかった。つまり、お陀仏になってしまったんだ。

用はなくても、足が萎(な)えないようにするため、少しでも歩くようにしたい。口喧嘩をするのなら、あまり人がいるところへは行かないほうがよいかもしれない。と、私は思う。


忍び寄る二つの恐怖=「栄過」と「化症」。


「栄過」は栄養過多。「化症」は化学薬品症候群。
最近では、栄養過多が病気の原因になることが多い。また、不注意による塩分や砂糖の取りすぎにも、かなりの問題があろう。それが何年か経って、突然に重い症状が現れるというところが、現代生活の恐怖だ。

ちょうど殺人鬼が相手を定めて、見えないところから狙っているというのと似ている。狙われるほうにも不注意があったからだろう。

最近の食品は、砂糖と塩のオンパレード。例えば、清涼飲料水などにも、かなり砂糖が含まれているようだ。そのようなものばかり、飲み続けると当然のことながら、やがて糖分の摂りすぎになる。
 また、塩分にも油断がならない。佃煮(つくだに)や塩辛(しおから)には、多量の塩分が含まれていることはわかる。しかし「こんなものに」というようなものにも、塩分が多量に含まれている。例えば、パンである。

一つ目の恐怖を取り除くにためは、砂糖と塩が多量に含まれている食品自体を多くは摂らないこと。もう一つは、化学薬品を体内に入れないこと。


持ち物の整理をしよう、非常時のため!


ここのところ、何となく身の回りが不安定。社会情勢もあまりよくない。いつ事件に巻き込まれても、不思議ではないと思う。
第一、自分自身の健康についても、自信がなくなってしまった。

そんなわけで、万一のことを考えて、ぼつぼつ身の回りの整理を始めた。
しかし、よくよく考えてみると整理するようなものはあまりない。財産もなければ、信用もない。恥のかき捨てでよければ、何もしなくてよいことがわかる。

ホームページの中も、このプログでもみっともなくてよければ、そのままでよいことがわかった。しかし、そのままでは自分自身でも何が何だかわからない。せめて必要なときに、どこに何があるかをすぐに思い出せるようにしておきたいものだ。


ものすごい可能性もつ、ペイントショップ。


今までは、フォトレタッチツールとして用いていた「Paint Shop Pro」というソフト。主に、デジカメ写真のトリミングや縮小、そして修正などに使っていた。
最近になって、ホームページの文章に手書きの挿絵やカットを入れようと考えた。そこで図形を書こうとして、この「Paint Shop Pro」を利用したい。

ずっと以前は、「花子」というのを「一太郎」というワープロとともに使っていたのだが、それらをやめてから久しい。

そんなわけで、図形作成にも「Paint Shop Pro」を使い始めたのではあるが、何ともすごい可能性をもっていることがわかった。もっとも、一回バージョンアップしたのだが、それに付いていけなかったので、以後はしていない。
何とかして、自分自身が使えるツールにしたいものだ。


一時期は、衰えつつも回復があり。


初期の疾病であると、自分自身の体力によって回復をする。いわゆる、ホメオスタシスというのであろう。

しかし、ある時期を越えると、坂道を転がり落ちるように病状が進むという。そして、留まるところを知らないように悪化していく。

私たちの身体には、いわゆる耐用年数が決まったような箇所がある。例えば、膝の関節である。もともと、動物は子どもを作った時点で、自分自身の存在が不要になるらしい。

現代のように長生きをして、日々楽しむように身体はできていない。遺伝子が、そのようには作られていないからである。そこで、何とか衰えないように自分自身で工夫をする必要が生じる。
少なくとも、思考をつかさどる脳の機能については。


み仏のうてなに乗りた心地する日々。


晩年になると、あまり欲をかいたり、我をとおすことがなくなるみたい。
むしろ、どうにでもなってくれ。なるがまま。そんな流れに自分を置くようだ。
あたかも、み仏の台(うてな)に乗ってしまった心地。
すると、不思議なことに安心立命ができる。

なぜだろうか。
自分の我執(がしゅう)がなくなると、物事が素直に見えてくるらしい。
次々と心配をしたり、あれこれと詮索をしても、いたしかたない。
そんな日々になると、結構いろいろなことがわかってきて楽しい。

芸術や科学や文化にも疎(うと)くなって、むしろ自然の風景や草木など、さらには風や空などに、今までに見なかったものが見えてくる。
何とも楽しいことではないか。


「もう少し先で休もう」などと言いつつ。


友達とプチさん(プティ散策)をする。
お互いに古希前後であるから、すぐに疲れてしまうんだ。そこで、ベンチなどがあると「休もうか」と相成る。

しかし、友達には先が見えない。つまり、行程を理解していない。私は、まだ行かなければならない場所を知っている。したがって、あまり休んでは目的地に行けなくなってしまう。

もともとプチさん(プティ散策)ではムリをしないことが原則。しかし、途中でへたってしまっては帰れなくなる。そこで、早々(はやばや)とそこをスタートせざるをえない。

友達は、いつも恨(うら)めしそうな顔をする。


友は言う、「オレにはオレの考えがある!」。


それはそうかもしれない。自尊心の高い友達の話である。
確かに彼は気位は高いが、どうも人生に対して謙虚さがないように見受けられる。私も、彼と同様に謙虚さがなく不真面目であるかもしれないが。
しかし、彼は私の比ではない。

まず、人生観というものがなく、悪く言うと刹那的である。つまり、生きるという考えの根底が見られない。
例えば、「人は何のために生きているのか?」とか「死んだらどうなるのか?」などと考えることは、あまりないようだ。
また、宗教などももっていない。無宗教でもよいが、ブレーズ=パスカルや西田幾多郎の書いているように、それなりに人生観の確立が必要であろう。

私(黒田康太)は、なるべく彼とは言い争わないようにしている。


面白くないことばかりあるのが老後。


若いころは楽しいことが多かったと思う。何をしても、やりがいがあったり、充足感を味わえた。しかし、歳をとってしまうと違うみたい。
まだ、私は日々楽しいことが結構あるが、姉の友達の話を聞くとうんざりしてしまう。

その人は、老人ホームに入っているという。
しかし、そこでの生活が面白くなくて苦痛だというのである。よい環境で、衛生的にもしっかりしている。また、食事も注意して作られる。

では、何が面白くないのか。
聞くところによると、人間関係が問題らしい。つまり、意地の悪い人がいるのである。そして、不愉快なことが多い。だから、別なホームに移りたいと言っている。
しかし、どこへ行っても同じことだろう。もともと、娑婆(しゃば)という言葉が作られたくらいだから。つまり、四苦八苦の後のほうである。


楽しみは、歩いた路を地図で見るとき。


雨が降ったりすると、プチさん(プティ散策)に出かけられない。
そんなときはパソコンで、グーグルの地図を見る。また、ときにはヤフーの地図。いずれも、航空写真まで見れる優れもの。縮尺も、思いのまま。とても、便利である。

しかし、グーグルとヤフーの違いはある。ヤフーのはアルプス社の地図で、かつて冊子になっているものを使っているらしい。だから、地番表示などは色分けがしてあって、何となく見やすいようだ。

まず、いずれの場合でも、ふつうの地図を見る。そして、拡大率を定めてから航空写真の鳥瞰図。自分の歩きを上から見る体験ができて、何とも面白い。いつまで見ていても、なかなか飽きない。幹線道路では、グーグルのストリートビューも面白い。
いずれの地図も、スクロールで移動ができる。歩いた路を少しずつずらしていって、再体験ができるのが何とも楽しい。


高齢になると、皮膚にも菌が繁殖。


高齢になってくると、身体全体の抵抗力が弱くなってしまうらしい。とくに細菌に犯されやすくなるみたい。むろん、努力をして何とか肌を清潔にしているのではあるが、……

仕方のないことであろうか。
また、いったん傷口ができてしまうと、なかなか直らない。若いころは、すぐに直ってしまったが、老いてくると直るどころか、悪化をしていくことがある。
化膿をしたりするのも、そのためであろう。

おそらく、細胞自体のホメオスタシスが弱くなって、回復力を失ってしまうためらしい。そして、ついにはパラサイトの餌食になってしまう。
何とかして、いつまでも若くありたいものだ。


1000社ほど参拝すれば、病気が治る?


ここのところ、神社仏閣を回っている。「寺社巡り」や「古事巡礼」とでもいおうか。それには、わけがある。つまり、参拝することによって病気を治そうという目論み。あまり、科学的ではないかもしれない。

しかし、そもそも日本に神社や仏閣が多いのはなぜか。
かなり昔は、国家が祈祷をして治療しようとした時代があった。聖徳太子の時代などは、神さまのほかに仏教が台頭して、やはりそうだったようだ。

実際に、千社札などを貼っている人がいる。三鷹井の頭の黒門さんは、あちこちの寺社で見受ける。かなり敬虔(けいけん)の念が深いか、あるいは勢力範囲を示しているのかは、私にはわからない。

それでも、たくさんの寺社を参拝するのは、「苦しいときの神頼み」ではなくて、それなりにご利益(りやく)があるかもしれない。


人生の意義を考えてみた時期あり。


若いころは、真剣に「人生の意義」などを考えてみた時期もあった。いったい何のために生まれてきて、何をしたらいいのだろうか。
また、いったいどこから生まれてきて、どこへ行こうとしているのだろうか。さらに、死んだ後は……。

しかし、考えてみると人生の目的は単に一つ。それは、子孫を残すことである。それに付帯することは多くあるが、動物であるかぎり子孫を残せば、それでよいのだろう。

健康であるとか、老化予防をするとか、それも目的のように思うが、実際には大きな目的のための手段のような気もする。
人間の発達した脳がもたらす幻影と寿命が大幅に伸びたことから、人生の意義が哲学的になってしまったのかもしれない。


ダイアナやバタフライなど、言葉の響き?


ダイアナという王妃がいた。写真で見たかぎりでは、清楚で美しい人だったと思う。
しかし、言葉の響きとしてはどうであろうか。ダイアナ妃を知らない人は、何を想像するか。何となく文字変換をすると出てくる「大穴」という語から、変な想像をしてしまうかもしれない。

また、マダム・バタフライつまり蝶々夫人を知らない人は、悲劇の主人公である薄幸の女性を想像しないで、何となく脂ぎった感じの女を考えるかもしれない。それは「バタ」と「フライ」があるからだろう。
さらに、もっとひどいのはストリップガールの前を隠す布を想像するだろう。

言葉の響きには、不思議なものがある。


目的をとくに決めない気軽な散歩。


かなりきついスケジュールであったり、予定をびっしり組むのは、高齢になると苦手。途中で体調が悪くなったり、膝が痛くなったりして、ときには事前の計画を守れないときがあるからだ。

そんなためにプチさん(プティ散策)は、目的を厳密には定めない。まぁ、言ってみればブラブラと気分によって歩くのである。そのように、目的を決めないということは、気楽でもあり、気軽でもあろう。

何事も、あまり緊張してはいけない。若いときは、経済社会の中にいるので自分勝手なことができない。しかし、年金生活者になったら意のまま、気分のままができる。

そんな意味で、一人で歩くのが気疲れをしなくていいと私は思う。


ふと思うこと、ことごとくメモにしておく。


ふと思いついたことをメモに残しておくことは、後で考えるために必要である。なぜならば日にちが経つと、忘れてしまって内容を思い出せないことが多い。

いったんメモにしてしまうと、それを資料にして何らかの作品ができるであろう。つまり、メモは記憶の断片として、そのままモチーフになるのだ。
むろん、無意味な内容のものもある。また、後になると何のことかわからないような記録もある。そのようなときは、そこで削除をすればよい。

言葉を使うこと自体、老化予防の効果があると思う。つまり、言葉は自分自身に対する対話を実現できる。師彦(しげん)和尚の自分自身に「主人公!」と呼びかける独り言は、そのよい例であろう。
 いつまでも若々しくあるためには、ささいなことでも文章にする習慣を付けておくことが、必要なのではないだろうか。


コーネルの箱、グールドの歌、似たイメージあり。


ジョゼフ=コーネル(1903〜1972)は「箱のアーティスト」。シュルレアリスム芸術に影響を受けたあと、「箱」を生涯にわたって作り続けた。両手で抱えられる大きさの箱の中に、品々を置いた作品。それらは自分自身の宝箱であり、自分の世界観を構築する場でもあった。

グレン=グールド(1932〜1982)は、カナダの音楽家。バッハの演奏においては著名。1964年のリサイタルを最後に公開コンサート活動から引退。それから没年まで、レコーディングやラジオ・テレビなどのメディアを音楽活動の場とした。録音された作品の中にも、掛け声や鼻歌が入っている。50歳の若さで脳卒中で倒れ、一週間後に他界。

いずれも自分自身が孤独に世界に入って、自分自身を見つめている感じ。私も、才能はないものの二人のようにありたい、と思っているのだが、……


プチさん(プティ散策)は身近で楽し、晴れた日によし。


還暦を過ぎたころから、運動不足気味になるという。そこで、身近な解消法としてプチさん(プティ散策)をしよう。
とくに、晴れた日にはもってこい。

行き先は、どこでもよい。しかし、あまり遠いところはダメ。なぜならば、事故が起こりやすくなるからだ。
私は、駅の周辺で閑静なところに行く。例えば、神社仏閣。公園。博物館・美術館など。

デジカメをもっていって、いろいろなものを写してくる。そして、それを帰ってから編集。数が多いので、どこで撮った写真かを忘れてしまうこともある。
それでも、そんなことをしていると楽しく、時間があっという間に過ぎてしまう。


地図を見る楽しみもあり、居ながらにして。


身体、とくに足が衰えてくると、あまり出歩くことができなくなるだろう。
私はまだ、それほどではなく、何とかあちこちに行けるので幸福である。

しかし、何らかの理由で外出が不自由になったら、地図を見て楽しむのがよいかもしれない。かつて行ったところであれば、居ながらにして楽しい時間が過ごせるのではないだろうか。

そして、それは一つの知的空間と言ってよいだろう。
例えば、絵に描いた餅は食べれないが、過去に行った場所の写真は思い出せる。むろん、すでに忘れてしまったり、現状が変わってしまっているかもしれない。それでも、それなりに想像力をかきたてる。
つまり、居ながらにして一つの楽しい空間ができるのである。


老いたらば、一人で遊ぶことを覚えよ。


老いてくると、誰かに何かを言って欲しくなるという。
曽野綾子の『戒老録』に、そんなことが書いてあった。確かに、身体の調子が悪くなって、思考力も衰えてくるから、何となく誰かにやさしくして欲しい。

しかし、そのようなことを利用した悪質な商法や犯罪が多発する。それらは、心の隙(すき)に入り込んで用意周到な計画で行われるから、たまったものではない。そして、後になって「こんなはずではなかった」とか「あんなにいい人だったのに」などとこぼす。

すべて、老人の愚かさから始まって、悲惨な結果になる。あまり他人を頼ることも考え物だと、私は自分が老人になりかかっている時期になって、つくづくと気付いた次第。


両方の歯で噛む習慣、つけておくべき。


あなたは食事のときに、どちら側の歯で噛みますか?
ふつう、よいほうの歯で噛むようです。とくに虫歯があったり、隙間があったりすると、そちら側は使いません。なぜならば、痛くなる心配があるからです。

そんな次第で、つい片方の歯ばかりを使いがちです。
しかし、食べ物を噛むときには交々(こもごも)に歯を使う必要があります。もしも、長年にわたって片方ばかり使っていると、顔が曲がってしまうからです。

口の両端の高さがかなり違った人をときどき見かけますが、そのような人は何らかの事情で、片方の歯ばかりを使っていたのでしょう。
いくら片方の歯が丈夫だといっても、そちらばかりを使っていると、使わないほうの歯がダメになってしまいます。歯は、左右バランスよく使いましょう。
とくに若い時代には、注意をしてください。


「生きている」感じではなく、「生かされている」。


だいぶ以前から、いわゆる「生きている」感じがしなくなった。むろん、自分が生きていることの感覚や実感はある。しかし、何となく「生かされている」ように感じることが多い。

つまり、いつごろからか私は「何かによって飼われている」ような気配を感じるのである。あたかも鶏(にわとり)や蚕(かいこ)が自分たちの最後を知らずに、日々せっせと卵を産んだり、巣作りの糸を吐き出すのと同じ。

家畜は、もはや自然界の動物とはいえないだろう。人間の社会に、単なる食材として組み込まれてしまったからだ。それと同じことが、人間にも言えるのではないか。
経済や戦争などを考えると、多くの人間は消費者や将棋の駒のようなもの。グレート・サムシングやFMの存在が、うすうす見えてくる。


エロスからアガペーになる? 単に衰え。


若いころは、精力絶倫だったオチンチンも、最近になってすっかり萎えてしまった。もしかしたら、前立腺を切ったためかもしれない。いずれにしてもそれは、老いのために仕方のないことである。

むしろ、現実を「エロス(性愛)からアガペー(神の愛)への昇華」と考えたら、どうであろうか。何事も、年とともに少しずつ変化をしていくのだから。

物欲や名誉欲は、次第に薄くなっていくようだ。そして、生きているのが面倒に感じることさえもある。子どもを作って、育てることも。それは単に、生物や動物に課せられたこと、遺伝子に組み込まれたことかもしれない。

そんなことを考えたりする。それとも、単に「自分が衰えた」と諦めるか。
あなたは、いかが?


女好き、いつになってもなおらない人。


私のことじゃないよ。
男性であって、すでにシルバーになった浜田山の知人のことである。
天真爛漫というか、永遠の青年というか、若い女性がいると気楽に話しかける。さすが、色目を使ったりはしないが、それでも何となくいわゆる「女好き」。

もはや高齢者であるから、ダイレクトに「情事そのことを好む」のではなく、むしろ「男好き」という言葉に対して言っている。つまり、その「男の容姿や性格が女の好みに合う」ことの逆な場合。

しかし、気楽に話しかけられた相手の若い女性は、何と思うであろう。
イエスは、そのような目で見たり、考えただけでも、すでに「姦淫を行った」と言ったらしい。「聖書」にも書いてあるみたい。
古い時代から、物議をかもしだした問題かもしれない。


次々と機能失い、老いは進みぬ。


体力が減少するのは否めないけれど、他にも例えば内臓が弱くなったりする。かつては食べても大丈夫だったものでも、何となく腹の具合が悪くなってしまうことがある。つまり、消化ができにくくなったらしい。

器官の機能も失われるようだ。目が悪くなる。眼鏡をかけても、目がかすんでくる。耳が遠くなる。また、ピ〜ンと音が鳴っていることがあるようだ。耳鳴りというのだろうか。

しかし、ここでぐちってもしかたがない。せめて、頭脳だけでも正常であって欲しい。ここのところ、物忘れや度忘れが多い。もしかしたら、などと考えると恐ろしくなる。
私の先生は、すでにアルツハイマーが進んでしまった。もはや、相手を認識できないらしい。
何とかして、脳の機能だけは失いたくないものだ。


Kuroda Kouta (2008.10.04/2008.10.04)