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  新句(十九音) 作品集14(2008年8月分)



老いた日の手持ち無沙汰は、死期を早める?


老いてからの何もすることがない日々は、寿命を縮めるのかもしれない。知人たちを見ていると、さもありなんと思う。ある人は奥さんに先立たれてから、何もしなくなってしまった。そして、半年後に後を追うかのように、あっけなく死んでしまったのである。

亡くなる少し前に、お宅を尋ねた人がいた。すると、部屋の中には物がいっぱい乱雑に置いてある。面倒になって、片づけをしないらしい。それまでは、すべて奥さんが元気にやっていたことである。

部屋の掃除や、整理など。
おそらく、手持ち無沙汰だったのではなく、「やる気力を失(な)くしてしまった」のであろう。その人は、奥さんを愛し、すっかり頼り切っていたのだから。


することがない無学には、ほど遠い我。


すべてのことがわかっている人を「無学」という。そんな状態になるために、日々勉強をするのである。学ぶことがなくなってしまうということ自体、人生の完成かもしれない。

しかし、一方では「無学」になるためには大変な努力をしなければならない。いろいろ考えてみると、「学ぶこと」があったほうが日々の励みになるだろう。また、それがあるからこそ生きがいがある。

そんな意味で、「無学」の状態などは求めるべきでない。と、私は思う。
今のままで、よいのである。必要に応じてその都度とくに知りたいことや興味のあることを学んでいけばよい。どだい、有限の身で無限の知識を追うのは危ういことであると『荘子』には書いてあったと思う。


ちょっとした油断が、命失うことも。


平素からいくら健康であっても、決して油断をしてはいけない。
ムリをすると、やられてしまう。野球でならした大選手でも、少し前の状態によっては倒れてしまう。つまり、体内の水分が枯渇しかかったとき。

「油断」というのは、文字通り「油が切れた」状態であろう。機械は油が切れると、摩擦が大きくなって損傷してしまう。

人間の場合は、油ではなくむしろ水。
細胞の中に入ったり、血管の流れをよくしたり、水の効能ははかりしれない。

いつもポカリスエットを愛用していた先輩が、販売機がないままに半日我慢をしたら、倒れてしまった。夏の暑い日である。
とくに夏季は、注意が必要!


黒田節(くろだぶし)歌えば、何か空しくもあり。


「黒田節」は、もと黒田藩の武士たちが今様形式の歌詞を作って、雅楽の『越天楽(えてんらく)』の旋律で唄ったという。昭和18年(1943年)に全国的に流行した。いわば、筑前今様である。

私は、酒を飲むと帰り道などで黒田節を歌った。かつては、遠くから聞こえてみっともないので、やめるようにと妻にしかられたものだ。しかし、最近は歌が出るようなことはない。

<酒は呑め呑め 呑むならば 日本(ひのもと)一のこの槍を 呑みとるほどに 呑むならば これぞまことの 黒田武士 皇御国(すめらみくに)の 武士(もののふ)は いかなる事をか 勤むべし ただ身に持てる 真心を 君と親とに 尽くすまで 峰の嵐か松風か 尋ぬる人の 琴の音(ね)か 駒をひかえて 聞く程に 爪音(つまおと)しるき 想夫恋(そうぶれん) 君の晴着のお姿を 寿祝う鶴と亀 松竹梅のよろこびを 幾千代(いくちよ)までも祈るらん>


前回に行けなかったが、次の楽しみ。


プチさん(プティ散策)をすると途中で疲れてしまったり、寄り忘れたために行かなかったところが、かなりある。そして、そんなところがあってよいと思う。

それは、次回のときの大きな楽しみとなる。
なぜならば、記事も少しずつ書き足していけばよいからであり、また再訪したところに再発見などがある。そして、それがまた新しいよろこび。

そういえば、人生そのものの変化も少しずつの場合が多い。決定的な変化やダメージは、平和な社会ではむしろ少ない。ありがたいことだ。

いっぺんに物事を完成しようと思ってはいけない。ムリが生じるからである。少しずつ完成に向かうのが、いちばんいいんじゃないだろうか。


プチさんは、老いたる日々の知的探検。


「知的探検」などとは、ちょっと大げさかもしれない。
しかし、大げさでもいいんだ。何事にも興味がもてるということは、老化予防の一つであるから。
サムエル=ウルマンの『青春』という詩にも、

<六十歳であろうと、はたまた十六歳であろうと、心中に不思議なものに興味をもつ気持、
 子どものような未知への探求心、人生への興味と喜びがある。
 あなたにも私にも、目に見えない中継所が心の中にある。>

というのがある。
その、未知への探究心、人生への興味、そんなことを手軽に、そして安全に求められるのがプチさん(プティ散策)なのである。


足萎(な)えて盲(めしい)る前に、歩いておこう!


今の状態から考えると、やがて歩けなくなってしまうでしょう。足や膝をやられて、車椅子のお世話になりそうです。また、もしかしたら目がダメになるかもしれません。網膜剥離の初期状態にあるからです。

そんなわけで、何とか歩けるうちは少しでもプチさん(プティ散策)。
晴れた日はデジカメをもって行って、思い出になるようなところでパチリ。考えてみれば、小さくてつまらないことかもしれない。しかし、それでも何とか日々の励みになっている。

したがって、文章のほうは概略のみ。もしも、歩けなくなっても時間があれば書き足すことができるなどと思っている。甘いかもしれないが。
そんな意味で、自分自身の先行きを見極めた一つの趣味・日課なのである。


日米の差を思うとき、争いはムダ。


若いころにアメリカ留学をしたという山本さんが言った言葉にも、そんな内容があったと思う。また、プールつきの広い住宅に住んでいる人が多くいても、不思議ではない。

考えてみれば、アメリカの人口は日本の二倍。そして、国土の面積は25倍である。単純に考えると、一人当たり十倍以上の土地をもっていることになる。資源についても、同じことが言えるのではないか。

そんな国を相手にして、互角に戦おうというのは愚かしいことかもしれない。短期的にはともかく、長期戦になると日本はジリ貧になってしまう。

私の母は先の戦争に負けた日に、「しっかりと勉強をして、アメリカを見返しなさい」と言った。「仕返しをしなさい」などとは、決して言わなかったことが印象的。私は、「知的空間で物質の不足をカバーする方法」を何とか思いついた。


睡眠が短くなって、疲れがたまる。


いつごろからだろうか。睡眠時間が、かなり短くなった。実際には、睡眠時間が短くなったのではない。睡眠が分断されて、二・三時間ごとに起きてしまう。オシッコがしたくなるのではなく、それは「目覚め」というよりも、むしろ「眠りの中断」である。

したがって、いくら寝ても疲労困憊(ひろうこんぱい)してしまう。いわゆる疲憊(ひばい)という状態である。それが原因であろうか、しばしば日中でもうつらうつらすることがある。

私は自動車の運転をしていないので、事故は起こさない。しかし、何となく危険な状態である。例えば電車に乗っていて、つい乗り過ごすことなどがある。はっと気付くと、次の駅。

若いころも、そんなことがあった。しかし、それは大酒を飲んだとき。何となく、歳をとったら酒を飲んでいるときによく似た状態になるのだろうか。


「コカ」と「ムー」、十日発売、楽しみであり。


「コカ」という雑誌がある。正式には、小中学生用の月刊誌で「子供の科学」という。その内容は、私のレベルにちょうどよい。大いに学ぶことがあるからである。
毎年、四月号には「コカ・ダイヤリー」が付録になる。翌年三月までの日記と基礎知識がある。日記には、天体の様子や種々の記念日などがわかるようになっている。「子供の科学」の発売予定日も、ちゃんと書いてある。

いっぽう「ムー」というのは、学研の出している月刊誌。
やはり、私はときどき買う。発売日になると書店に行って、興味のある内容であるとうれしい。
例えば、私たちが常識では考えないテーマなども扱われる。それが、かなり科学的アプローチなので説得力がある。つい引き込まれて、自分の考え方を修正したりすることがあるくらい。


母が子と、父を殺すに至るときまで。


仲が悪い夫婦があって、いつしか互いに殺意を抱くようになった。そんな中で、息子も父を嫌って母に加担するようになる。しかし、気立てのよい次女は父も哀れだと思った。

と、まぁそんな小説を書こうと計画した。
しかし、いくら心理的な描写をしてみても、それは日常茶飯事のこと。よくある三面記事の内容である。

殺してからの遺体の処理なども考えた。そして、そこには新しい斬新な物語になる素材が見つからない。少なくとも、私の実力では。

そんなために、「なりゆき」(仮題)という作品は挫折をして、取りやめになった。子どもが母を見ていると、そこには何とも愚かしいことが多くあることも事実だから。


反復が続くミニマル・ミュージック! ライヒ。


他の番組の途中で、ダイヤル切り替えをしたときにちょっと見ただけだから、スティーヴ=ライヒ(Steve Reich)だったかどうかはっきりわからない。NHKのBS103で、録画演奏をやっていたように思う。管楽器が多い10人以下の編成で、何となくミニマル・ミュージックのような調べだったので印象に残った。

いつまでも執拗にリズムを反復する。そして、それは少しずつ微妙にずれていくようだ。その旋律の中に斬新さがある。ラベルのボレロなどとは、ちょっと違う斬新的な現代風の響き。

そんな刺激を受けたので自分自身のペースに合わせて、シンコペーションを効かして作曲してみたいと考えた。十二音階的な技法を使ってもよいだろう。しかし、あまり知識がないので手掛けるのにちょっと躊躇をしてしまう。


気付かずに、間違いのまま記述したミス。


うっかりして記述ミスをしたり、勘違いをしてインプットすることがある。そのときは、あまり深く考えなかったのでそのことを忘れてしまう。しかし、後で読み直したときに愕然とする。なぜ、こんなミスをしたのだろうかと。

裸の王様ではないが、誰かにそそのかされて過ちを犯す。それがいいなどと言われて、その通りをする。また、周囲の顔色を気にして自分の考えと異なることをしてしまう。

そんな程度ならまだしもいいが、まったく気付かずにやっていることが何と多いことか。

したがって、救いようのない状態ではあるが、それでも少しずつ自分自身で見直していきたい。


少しずつ直していこう、間違った箇所。


間違った箇所を直すのもメンテナンスの一つ。どんどんと作るばかりが能じゃない。したがって、前に作った箇所を見直すのだが。

すると、どうであろう。自分自身で考えたことが、今になってみると恥ずかしいほどの内容である。つまり、自分自身が見たくないと思うほど、お粗末な論理が多い。

そんなわけで、つい見直したくなくなる。
さらに、すべてを削除したい衝動に駆られることもある。しかし、必死になってその誘惑に打ち勝つ。そんなことをすれば、自分自身の一生がムダであったことを自分自身で証明することになるからである。

間違った箇所は、ムリをしないで少しずつ直していこう。


間違っているかもしれぬ、死後の概念。


死んだらすべてが終わりだという。確かに、そのとおりかもしれない。
しかし、私は死後の概念いついて別な考え方をしている。

むろん肉体は焼かれて、なくなってしまう。脳も灰になってしまうから、もはや生前のような機能はしないだろう。
しかし、意識が残るような気がする。それは、死後の世界とか丹波哲郎さんが言うような大霊界などとはまったく違って、単に感覚だけの空間ではないだろうか。意識というかこころというか、知覚の一種である感覚なのである。

その感覚は、電磁波やプラズマのようなものであって、空間を漂うことができる。つまり、物質ではない。それは感じるものであって、古くから寺や神社などがあるのもうなずける。こころが脳にあるというのは、もしかしたら間違っているかもしれない。と、私は思う。


水母(くらげ)には、脳がなくても目があるという。


ふつう、情報判断は五感をもとにして、脳が行っている。
水母(くらげ)には、その脳がないらしい。しかし、目が六つあるものがいる。越前くらげである。

どのようにして、目で捉えた外部の情報を処理しているのだろうか。
すでに、目に脳の機能が備わっているのではないか。したがって、くらげの場合は、別に脳という器官を必要としなかったのではないか。

人間などよりも、ずっと長い期間を生存してきた生物であるから、それはそれなりに理由があるのであろう。
私は学問とは別に感覚で、人間の脳という器官について、何となく異常な感じを受ける。また、さらに不気味さまで感じるのであるが、どうしたものだろう。


ただ今が、「一期一会」と思い知るべき。


「また今度しよう」とか「次の機会に」などと言ってはいけないらしい。そのときが、一期一会であるからだ。

もともと、「一期一会」(いちごいちえ)は茶の湯が「一期(いっき)に一度の会」であったことから起こったらしい。つまり、年一回か四回か私は知らないが、それでも「一生に一度」であるという思いで、その都度主人と客は真剣に対話を行うべきことを説いた。

後にそのことから転じて、「一生に一度しかない出会い」や「一生に一度だけ」であることを言うようになった。
私は、「また今度にしよう」とか「次の機会に」ということ自体、それも一期一会であると思うのだが、……。


ほどほどにしてはいけない! 知的空間。


自分自身の知的空間を構築するときに、ほどほどにしてはいけない。無限と言ってもよいほど広がっている自分の宇宙、つまり知的空間があるからだ。

その中には、小さな発見や小さな楽しみが無数にある。しかしそんなことをつい見逃してしまいがち。そして愚かにも目は、自分自身の外に向いてしまう。

確かに素晴らしい文学や芸術などはある。しかし、自分がその中に入れなかったら意味がなかろう。「猫に小判」や「豚に真珠」となってしまう。宗教などにおいてもしかり。

『正法眼蔵』に「法華、転法華」というのがあるが、その辺の事情を言っているのではないだろうか。


多くある未処理事項を諦めるとき。


あれもしたい、これもしたいと考えたことが、今までに多くある。しかし、残る人生で、そんなに多くのことはできないだろう。いずれにしても、ぼつぼつ取捨選択をしなければならない時期になった。

つまり、さし当り生活に必要でないことは、諦めなければならない。
すると、残ったものは何であろう。生活をしていく上で、それがどうしても必要であるというものは。

今までもそうであったが、仕事といっても食うためにした場合が多い。また、打ち込んでしたことと言っても自己満足、悪く言えば自己欺瞞かもしれない。

考えてみると、心豊かに生きていくためにすることは、あまり多くないことがわかる。少なくとも、私の場合は。


老いてから学ぶ気持ちが、あれば青年。


いつまでたっても、学ぶ気持ちがある。老いて、気力が失われかかっても。
素晴らしいことである。もしも、そうであれば若々しい証拠。
サムエル=ウルマンの『青春』の詩のように。

なぜならば、ふつうインプットはアウトプットに備えるのが原則。単なるガメクリや知識欲というのでは、何となく悪趣味の類(たぐい)。

不要なものが多すぎると、全体が不透明になってしまう。
自分なりに知識を整理して、アウトプットできるようにしておくのが、脳の若さを保つための秘訣であろう。

仏教の修行者の持ち物、イエス=キリストが言った旅に出るときの所持品、それらは必要な最小限のものであろう。つまり、多くを持っているほうが好ましいなどとは、決して言っていない。


「下らん」と言われてみれば、それまでのもの。


四年前に仲間たちと始めたホームページ。だんだんと大きくなって、1ギガバイトを超えてしまった。仕方がないので、暫定的にプログでサポートする方式にしてある。しかし、不便なので有料の10ギガバイトを申し込むつもり。

図体はでかいが、内容はお粗末なもの。つまり、内容の濃いものではない。だから、「下らない!」と言われてしまえばそれまで。ホームページと言っても、箱庭や模型などの趣味にちょっと似ているのではないか。

箱庭に「大自然がある」などと言っても、不思議に思う人がいる。また、模型の電車などは「走っても仕方ない」と思う人もあろう。
つまり、文学や美術や音楽なども含めて、価値観が異なると「わかってもらえなくても、仕方のない」世界なのである。


考えてみれば、多くの意味のなきこと。


よくよく考えてみると、かなりムダなことに日々あくせくしている。それが「意味のない」などということに、まったく気付かずにいることも多い。

人生には「しなければならないこと」と「してはいけないこと」がある。どうしてもしなければならないことは、生きていくということであろう。してはいけないことは、例えば「自分の欲望を追い続ける」ことではないか。

そんなことを考えると、無意味なことに努力をしていることがわかる。それに、愚かさの「痴・瞋・貪」が付きまとう。人生も残りわずかになると、「意味がなかったということに気付かなかった」ではすまされない。

この辺で、何とかしなければならない。


「マグノリア」という言葉が、脳裏をよぎる。


なぜだろうか。突然に「マグノリア」という言葉を思い出した。しかし、意味を忘れている。したがって、何のことだかわからない。

仕方がないので、辞書を引いてみた。
すると、「マグノリア(ラテン語 magnolia)は、モクレン科モクレン属の植物の総称」とあるではないか。モクレンと言えばわかるのに、何でマグノリアが出てきたのかわかった。

豪徳寺の閑静な住宅街に瀟洒なマンションがあった。1年ほど前に歩いたときのこと。その表札に「マグノリア」とあったのだ。そして、そのときに「木蓮荘としたら何となく野暮ったくなっちゃうなぁ」と思ったことを思い出した。

香りには関係がなく言葉の意味が、脳裏をよぎったささいな経験。


楽しみは、見知らぬ道で新たな発見。


何のことはない。初めて行った道で、目新しいものを見ることがある。それを大げさに発見などという。

変った形の家があった。川の流れに、白い鯉が泳いでいた。お寺の中に、神社があった。たいがいどれも他愛のないことである。それでも、私にとっては大きな喜び。

実際には市中を歩いても、あまり驚天動地のようなことはないかもしれない。しかし、そこには今までに気付かなかった些細な再発見がある。それは、異なった視点で見ることによって、初めて気がつくこともあろう。

そんなことがあるから、ちょっと裏道を行ったり、いつもとは違う道を歩くのである。


すぐ眠くなるのは、何か病気だろうか?


古希が近くなってから、何かをするとすぐに疲れちゃう。そして、眠くなってしまうんだ。
4キロメートルほど歩いて、電車に乗って帰る。すると、座るとウツラウツラする。そして、はっとすると下車駅を過ぎていたりしちゃう。
若いころは大酒でも飲まないかぎり、そんなことはなかった。おそらく、身体の組織や細胞などが衰えてきたのかもしれない。

何となくバッテリーのことを思い出す。
自動車でもデジカメでもそうだが電池が古くなると、充電をしてもすぐに放電して使えなくなってしまう。つまり、古くなると保持能力が弱くなってしまうらしい。

新しいものに変えると、何とか元通りになる。人間の場合も、同じことが言えるのかもしれない。


雨の日は、部屋にいながらプチの株分け。


雨の日は、プチさん(プティ散策)ができない。そこで、パソコンを起動して現在のページをいくつかに株分けする。そんな楽しみも大きい。

あちこちと行くと、デジカメ写真が次第に増える。また、新しい知識を得たり、再発見がある。そんなことを次々と追加・編集していく。いきおい、一ページが大きくなる。そして閲覧時には、煩わしいほどのろのろと動いてしまう。

そこで、大きくなった一ページをいくつかに分ける。つまり、まとまった単位に分割する。それは、ちょうど植木の株分けと似ている。そして、さらに大きくなりすぎたら、改めて再株分け。そんなことを続けるのは、思ったよりも楽しい。
各ページも、次第に成長をしていくのである。


価値観は各自異なる、知的空間。


むろん考え方や価値観などは、誰もが異なっている。それは、当然のことでしょう。それはその人の習慣や知識によって、日々少しずつ形成されてきたものだから。

したがって、とどのつまり自分自身の知的空間を作るしかない。それが、ちょっと特異であっても、また私のように幼稚であっても。
しかし、あまり内容が薄いものが人目にふれることは、恥ずかしいことかもしれない。そして、製作途中でアップロードしてしまうのも、みっともない次第。
それでも、それが自分自身だから仕方のないことである。
つまり、自分自身の知的空間を構築するときには、恥や外聞を考えることは意味がない。せいぜい、自分が精一杯がんばればよいのである。自分自身を隠すこともないし、他人に諂(へつら)うこともない。
そんな知的空間なのである。


雨の日は部屋で編集、楽しくもあり。


雨が降っていると、プチさん(プティ散策)に行けない。
そこで、部屋にこもってデジカメ写真の編集などをする。さらに、中途半端になっているホームページの箇所などを追加・編集する。

そんなことをしていると、何となく楽しい。
実際には、くだらない無意味なことかもしれないが、自分自身の生きているという「実感」がもてる。つまり、そのことが「生きている証明」なのである。

ノスタルジック(nostalgic)という言葉は、「郷愁を感じる」ことや「郷愁を感じさせる」ことなどを言うが、思い出すこと自体が自分自身の心のノスタルジーなのかもしれない。
なぜか「こんなことが、かつてあったなぁ」などとデジャビュを感じることも多いからだ。


見れば見るほどに、楽しいグーグルの地図。


雨の日などは、散歩に行けない。
そこで、パソコンを始める。グーグルの地図を見るのである。

大きな地図で見る
場所がないので小さくしたが、実際には「大きな地図で見る」をクリックして、倍率を変えたり、航空写真にしたりする。一ヶ月前から、大きな地図にするとストリートビューも見れるようになった。そんなことをやっていると、面白くてなかなか飽きずに楽しいときを過ごせる。


居ながらにして、楽しめるプチさんの記事。


雨の日は、どこにも行けない。せいぜい行って、隣のデパート。京王デパートやアートマンなどは、傘なしで行ける。

しかし、たいがいは部屋でテレビを見たり、パソコン。
前に作ったプチさん(プティ散策)のページなどを見る。思い出などもあって、なかなか楽しい。そして、必要に応じて書き直したり、書き足す。

作家の誰かが志賀直哉を訪ねたら、引き出しから小品を取り出して加筆・訂正を楽しそうにしていたという。私は、そんな記事をかつて読んだことがある。つまり、「小説の神様」などと言われた人でも、何回も書き直すらしい。
したがって、才のない私が書き直すのは、当然のことであろう。


新しい発見があり、楽しいプチさん。


「プチさん」とは、「プティ散策」の略。つまり、「小さい散歩」のこと。
とくに、改まった目的もない。また、どこまで行くかとか、どことどことに行くなどとは、最初から決めない。むろん、疲れたら途中でやめる。

そのときどきの気分や天候の変化によっても、スケジュールが変わる。
そんなのんきな散歩である。

それでも、いつも通らない一本裏の道などを行くと、いろいろな発見がある。つまらないようなことでも、自分自身にとって新たな感動や驚きがあることもあろう。
また、今までに気付かなかったことがあったり、再発見があったりする。例えばマンホールの蓋なども、よく見ると面白い。何とも、プチさん(プティ散策)は気軽で、楽しいもんだ。
ぜひ、あなたもやってごらんなさい。


Kuroda Kouta (2008.09.07/2008.09.07)