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  新句(十九音) 作品集13(2008年7月分)



飽きちゃって、何をするのも疎(うと)ましくなる。


若いころには、そんなことが少ないだろう。しかし、老いてくると何となく物事に対する考え方が違ってくるみたい。

「疎ましい」とは、「いやだ」とか「いとわしい」気持ち。「その名前を聞くのも疎ましい」などと言う。またさらに、「普通でなく、おっかない」とか「気味が悪い」つまり「不気味である」というような感情。

体調がよくないと、何をしても飽きちゃって、いやにさえなってくる。そして、生きていることにさえ飽きてしまうのである。すると、人生が何となく惰性で続いているみたいな気がする。

肝心なのは、そういうとき。人を殺してみたくなったり、もっとすごいのは人類が滅亡してしまったほうがよいと考える。若くても、化学薬品症候群によって思考力が異常になってしまった脳をもつ人は。とくに、ご用心!


ひたすらに来世を信じ、思考しており。


私は、いわゆる「死後の世界」などは信じない。
しかし、生死(しょうじ)にかかわらず「気」を考えざるをえないのである。その「気」は、「霊」とは異なる。単に質量のないプラズマ体としての存在である。

プラズマ(plasma)は、物質の正イオンと電子とが電離をして混ざった状態。また、生物学・医学では「原形質」や「血漿」(けっしょう)のことも単にプラズマと言い、抗体を作る形質細胞のことを「プラズマ細胞」とも言う。そして、プラズマジーン(plasmagene)は、細胞質に存在する遺伝子、つまり核外遺伝子のことである。

しかし、私が言っているのは宇宙空間を占める割合の大きい正イオンと電子が交じり合って「気」を構成する存在として考えるのです。


恥ずかしい思い出ばかり、なぜ次々と来る?


失敗した記憶や恥ずかしい思い出が、次々と脳裏に浮かぶ。楽しいひとときや得意だったころのことは、まず出てこない。
どうしてだろうか。

「人生を思い出して、楽しかったことはほんの少しだ」と、晩年のゲーテがエッカーマンに語ったそうだ。つまり、記憶している全体量のほとんどが不愉快な内容だったらしい。

ゲーテほどの偉人であってもそうなら、私などほとんどが面白くないことであっても不思議でもないし、また仕方ない。恥ずかしいことの思い出が多いのも、むべなるかなである。
そして、そんなことが次々とやってきて、自分を苛(さいな)むのである。とっくに忘れたころの今ごろになって。


一人でも見てくれる人、いればやめない。


このプログを始めたのが、最初。そして、次々と画像プログを三つ。いずれも、使い勝手を調べるためにテストをしていたのだが、それぞれが素晴らしい特徴をもつ機能なので、ずるずると今日まで続けてしまった。

そして、それなりの反応があるので、やめれなくなった。なぜならば、途中でやめるということは、何となく自他共に失敗をしたことを宣言することになるからだ。また、途中でやめるくらいならば、最初からしなかったほうがよかったと考えてしまうから。

とにかく、四つのプログを毎日こつこつとアップロードするのは大変。そこで、やめてしまうことを考えないでもない。しかし、それでは自分自身に対する挫折のような感じになるので、やめれない。
まったく、恥さらしのことではあるが、……


身体(しんたい)の「重い」「軽い」は、感覚次第。


最近になって、体(からだ)が非常に重く感じるときがある。また、逆に軽く思うときがあったりもする。
疲れたときなどに、階段を上がる。とてもしんどい。自分なりに、別な重力の場に置かれるからだろうか。実際に、目方が重く感じるのである。宇宙飛行士が帰還後、数ステップの階段にも登れない。そこで、エレベータを設ける。宇宙を知らない人が見たら、何とも不思議な光景である。

ちょっと強い風が吹いたときに、体が飛ばされそうになったりする。風に吹かれて、よろめくほど軽い体重ではない。しかし、実際にはよろよろ〜っとしてしまう。飛ばされることはないだろうが、感覚としてはリアルに感じるのである。

そんな次第で、こころの持ち方により「重い」「軽い」は異なってくるのではないだろうか。


日に増して衰えてゆく身体(からだ)哀れむ。


自分自身のことであるが、何となく哀れである。日を追うごとに、体力がなくなっていく。衰えていくというよりか、ガックリなのである。そんな自分を大いに嘆くとともに、哀れになってしまう。

足が弱くなっていることも、歴然とした事実。もしかしたら、歩けなくなってしまうのではないかというような不安感さえつのる。そして、いま現在すたすたと歩けるほうが不思議になってくる。

道で杖をついている人や車椅子の人に出会うと、何となくドキッとする。なぜならば、間もなくなるであろう自分自身の姿をそこに垣間見るからである。

年老いるということは、何とも仕方のないことなのであろうか。


一日に、何回も手を洗う習慣。


面倒くさがらずに、手を洗う習慣をつけよう。一日に、十数回である。
お手洗いに行くときは、できたら用を足す前に手を洗う。つまり、ばい菌の付いた手で、オチンチンやお尻を触れないようにする。

大小便が終わったときは、衣服に触れる前に手を洗う。
食事の前や食べ物に触れるときは、必ず手を洗う。とくに、料理を作るときの前には、入念に洗って水ですすぐ。

歯医者の先生を見ていると、患者一人が終わったら、必ず手を洗っている。おそらく、患者の口の中には異なった菌が多くいるからであろう。
むろん、無害な菌もいるが、おそろしく繁殖力の強い有害な菌がいるに違いない。
用心をして、口や鼻から体内に菌が入らないようにしたい。


ちょっとしたことでもメモを残しておこう!


ほんの些細なことでも、大きな問題のきっかかりになることがある。そんなためには、メモを残しておかなければならない。いったん忘れてしまうと、二度と出てこないこともあるからだ。

メモの残し方にも、いろいろとあるだろう。
単にメモ用紙に書き残すだけ。それはそれでもよい。しかし、多くなってくると何が何だかわからなくなってしまう。

そこで、私が考えたのはこのプログに残すという方法。後で整理や分類ができるし、また検索機能をもっているので、何かと都合がよい。
タイトルを五・七・七の新句(十九音)の形にしておいて、それに十数行のコメントを付けておく。すると、モチーフばかりかある程度の手順も残しておける。そんなことを今後も続けてやってみたい。


グールドとバーンスタイン、協奏不調。


グレン=グールドというピアニストをご存知だろうか?
私の大好きな演奏家であるが、レコードやCDの中に鼻歌(はなうた)や掛声(かけごえ)が、ときどき入っている。それも、かなり大きなレベルで。

グールドは独特な考えをもっているようで公衆の前で演奏をしたのは、カーネギホールでバーンスタインと、ブラームス『ピアノ協奏曲 第一番』が最後。
指揮者のバーンスタインと意見が合わなかったそうで、非常に遅い語りかけるようなテンポであったという。さらに、演奏の前にバーンスタインからのアナウンスが会場の聴衆にあったりして問題になった。

その後、グールドはスタジオにこもって音楽活動を続けた。独特な生き方で、私(rik)は素晴らしいと思う。作曲もあるが、シェーンベルグの十二音階に似ている。


つきつめて言ってしまえば、脳の幻影。


ああでもない、こうでもないなどと、迷ったり考えたりする。しかし、そのような考えは、つきつめて言ってしまえば、一種の脳のもつ幻影にすぎないのではないか。「人生の目的」や「死後の世界」などについても。

つまり、その思考に振り回されてしまうのである。欲望には限りがないということ自体が不自然であるということを忘れてしまうのもそうだ。

何のために何をしているかが、わからなくなってしまった現代。
例えば、生きるために食べるのであるが、それが食べるために生きているようになってしまう。金は生きるために必要であるが、金のために生きているのではない。

本末転倒なことが、何となく常識になってしまったのは、脳がもつ幻影によるものだろうか。


フロストは、「仕事が支え、それがオレだ」と。


『フロスト警部』#11「追いつめられた男」(1995年イギリス)をたまたま見ていたら、同性愛の若い女を刺した中年の美しい女が取調べ室で、ヒステリックにフロストに言った。

<男は得よね。老いても失うものがない。>

フロスト警部 <……>
つまり、黙っていて何も答えないのである。もしかしたら、答えられなかったのかもしれない。

別な若い女にののしられて、フロストは答える。

<仕事が支えなんだ。それがオレだ!>


情報が氾濫の中、さらに追加を?


インターネット上の情報は、まさしく膨大な量。必要・貴重なデータのほかにも無意味や有害、いかがわしいデータなどを含めると、もはや天文学的な数であろう。

そんな中で、プログなどを見ていると1秒に1つくらいのテンポでアップデートされる。プロバイダは一つでなく、かなりあるから全体では何ともすごい情報増加になる。

一人ひとりはせっせと作っている。しかし、もはや誰も他人のまで見る余裕がなくなってしまったみたい。
私のように、自分自身のために作っているのならともかく、この情報過多時代にホームページやプログは広報効果が少なくなってしまったようだ。そして、郵便受けに入っているチラシなどと何となく同じ状態になってしまったのではないか。


「これでもか?」「これでもまだか?」では、キリがない。


人間の欲望は、際限がないようである。
ほどほどにすればいいのであるが、いきつくところまで行ってしまう。『猿の惑星』ではないが、個人の場合も社会全体の場合も、最終的には同じような結末を迎(むか)えるだろう。

むろん、その恩恵をこうむるものもある。最近技術を駆使した家電製品などがそれらだ。戦前のことを考えると、まったく夢のようなありがたい文化的な生活環境になったものだと、つくづく思う。

いっぽう、法律などは複雑になるばかり。次々と新しい法律ができて、国会などはいつも大わらわ。聖徳太子の時代と比べると、かなり膨大な法律があるのではないか。何となく「泥縄方式」の感じがしないでもない。
いかがなものだろうか。


デジャビュとも似たようなこと、幾たびもあり。


「デジャビュ」は「既視感」とも言って、それまでに経験をしたことがないことをどこかで経験したことがあるように感じることをいう。
『徒然草』第七十一段の後半に、

<またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。>

というのがある。
見たことばかりか、感じたことも含まれている。つまり、香りや感覚なども含まれるのだ。私は、その他に「以前これを調べた」「かつて、そのことを考えた」というようなことが多い。
もしかしたら、それを前生で実際に体験をしているのかもしれない。


極端に言えば、自分のことは二の次。


いったい人生の目的とは何だろうか?
「オレがオレが」とか「金さえ入れば、それでよいのだ」などと考えがちである。しかし、私はおそらく常不軽の生まれ変わりであるかもしれないので、極端に言ってしまえば、自分自身のことは二の次で、相手のメリットや成功を考えなければならない。

そんなことで、それ自体が人生の目的であるから、常に相手の立場になって考えたり、全体の調和のもとに生きなければ落ち着かないのである。

本当は若いころからそうでありたかったのだが、気付いたのがおそかった。還暦を過ぎたころに、ようやく信念が深まった次第。そして、それを実践していこうと遅蒔きながら決心をした。
つまり、自分のことは二の次にするということである。それぞれは異なるが社会をよくするために、そういうことは誰にでもあるのではないか。


秘書さんの梅酒おいしく、なつかしき味。


妻が働いている会社の秘書さんが梅酒をくださった。その方の郷里のお母さまが作られたものという。さっそく、私もご相伴(しょうばん)。

とても丸みがあって、なつかしい味。このような昔風の素晴らしい梅酒は久しぶりである。私が幼いころ、母が作ってくれたことを思い出す。梅干や梅酒を作る手伝いをして、できるのが楽しみであった。

ここのところ、食品の味がすっかり変ってしまった。工業化をしているためであろうか、化学薬品などをふんだんに入れる。その結果、自然の味というか、風味が損なわれてしまった。

そして、化学薬品症候群などがぼつぼつ問題化してきたようだ。
なるべく自然の形で作られたものを食べたり飲んだりしたい。


サンダルが足によいのは、ほぼ自明の理。


日本の気候には、四季がある。したがって、年間を通じて同じ履物を用いること自体がムリではなかろうか。とくに、梅雨の季節が問題だ。そんなときに靴を履いているのは、足の健康上よろしくないだろう。

ギリシア時代などは、サンダルを履いていたらしい。それが、気候にもかなっていたからだ。日本でも、戦前は下駄(げた)や草履(ぞうり)が主な履物だった。それが、明治の近代化と戦後のGHQ指導のもとに、子どもたちまでが靴になってしまったみたい。

成長期に靴を履くというのは、厳寒な地方ならばいたしかたないが、温暖な気候や湿度の高い梅雨のときなどは、纏足(てんそく)に似て足の健康と成長に問題を生じるのではなかろうか。
少なくとも子どもたちに対しては、考えてほしいところだ。


一つずつ見直してゆく、自分のために。


始めてから四年になろうとしているが、思いついたり必要に追われるままにホームページやプログを作ってきた。そして、気がついてみると内容の薄いみっともないものばかりである。

そんなために、つい見直すのが億劫になったり、またホームページビルダーがのろのろとしているので、編集作業がはかどらずに面倒になってしまった。

しかし、この辺で全体の見直しをしていかなければならない。
あまり大きくしても、まとまりのないものになってしまう。自分自身の覚えやメモのためにしたことは、自分でわかればよいと考えて無責任な表現をしていることがある。
少なくとも、見られても筋の通るようにしておきたいと思う。


可能性さぐりてみたり、HPのあり方?


ホームページやプログは、誰もが作れる時代になった。いきおい、非常に多くのホームページやプログがアップロードされている。

しかし、そのほとんどが訪問客は少なく、いわゆる閑古鳥が鳴くあり様。実は、私(rik)が管理者をしているところもそうなんだ。

そこで、「訪問者参加型」のホームページやプログにしていこうと思う。
例えば、プチさん(プティ散策)の駅周辺シリーズである。全国の駅をアップロードしていくのであるが、むろん一人で全国の各駅を回るわけではない。賛同してくださる人々に記事をお願いしたり、リンクをするのである。

「Wikipedia」や「青空文庫」のような厳格さを必要としないから、互いに楽しみながらホームページやプログを育てていくことが可能ではないか?


ニンジンやダイコンなどは健康によい!


昔から私たちが食べていたニンジンやダイコン。それらが、健康によいであろうということは何となくわかる。しかし、最近のように農薬やポストハーベイをしてある野菜はどうであろうか。

例えば、ジャガイモ。ふつう、冷蔵庫に入れないと芽が出てくる。その芽には有害物質が含まれているので、食べてはいけない。

しかし、いつまでたっても芽の出ないものもある。おそらく、発芽防止処理がしてあるのだろう。薬物を用いたり、放射線処理をしてある。
また、牛乳でもホモライズ加工をしてロングなどと言って、机上に放置しても腐らないものがある。しかし、それはもはや本来の自然な牛乳ではなく、防腐剤入りの化学製品である。
痛んだり、腐ったりしない食品は、むしろ不気味だと私は思う。


カタルシスしてすっきりと、なると限らぬ。


カタルシスという言葉がある。ギリシア語(katharsis)で、そのことについてはアリストテレスも述べている。もともと、「浄化」とか「排泄」の意味。

文学作品などの中で展開されている世界へ、読者が感情移入することによって、日々の生活で抑圧されていた気持ちが解放される。そして、快感がもたらされる。悲劇を見たときの効果として、アリストテレスが説いている。

また、無意識の層に抑圧されている心の中の固執を外部に出すことで症状を除く精神病の治療法なども言う。通利療法とも。

うんこをすると、スッキリすることが多い。しかし、必ずしもそうなるとは限らない。と、私は思う。


気のせいか? 疲れがたまり取れなくなった。


ここのところ、何となく疲れ気味である。若いときのように、一晩眠ると翌朝はスッキリなどとは望まないが、それでも日中に眠くなってしまうのはどうしたことだろうか。

もしかしたら、体内に化学物質が蓄積してしまったためかもしれない。
なぜならば、若い人にも見かけるからである。電車に乗って見ていると、まだ二十歳前後の人がうつらうつら。そして、隣の人に倒れ掛かっていたり、後ろにのけ反(ぞ)ってガラス窓にゴツン。大きな音で、本人もびっくり。目が覚めてしまう。しかし、すぐにふたたびうつらうつら。

他人のことは、とやかく言うべきではないが、パソコンをしているときに眠くなってしまう。おそらく、あまり意味のない作業ということを自分自身で認識しているからかもしれない。


プログには、悲喜こもごもがこめられており。


最近は、プログが大はやり。私(rik)も、二つ利用している。この「ニンジャプログ」と「gooプログ」。他にも、いくつかやってみたが難しいのは解約をしてしまった。

このプログにも画像を入れたことがあるが、もっぱらメモ的な文章用。そして、gooプログは私たちの「作品」や「画像」が主体。がんばって作ったのだが、いずれのプログも内容はともかく、デザイン自体が何となく野暮ったい。

そこで、勉強のためにときどき他のプログを拝見。
すると、そこには多くの悲喜こもごもが見られる。数行の記述の中にも、その人の人生が異なった方向に行ってしまうようなことも見られるので驚く。また、人生の分岐点になりかねないような独白も。コメントもときどき書くが、人生観がまったく異なる人には遠慮をしておいたほうが無難であろうか。


少しずつ書き足していくプチさん(プティ散策)の記事。


いっぺんには、疲れてしまうので回れない。そこで、数回に分けてリポートをする。いきおい、ページの大きさは次第に増していく。

また、前に行ったところの修正や追加をする。二回目に行くと、勝手がわかるので手早くできる。そこで、終わったら時間の余裕があって、新しい発見ができたりする。

いろいろとやってみると、プチさん(プティ散策)は楽しい日課になるでしょう。むろん、雨模様の日にはできない。そんなときは、今までのページを見直したり、再編集をするとよい。

改めて異なった視点で見ると、自分自身を客観的に見ることができる。そんなことも、プチさん(プティ散策)の魅力である。


靴を履く習慣などは、愚かなことだ!


戦前は下駄(げた)や草履(ぞうり)があった。さらに以前は、草鞋(わらじ)を履いた。しかし、現代は靴が一辺倒。大人も子供も、そして一年中。

日本のように湿度の高い国では、足を密閉するような履物は好ましくない。靴下を履くのも、不都合だろう。おそらく、素足にサンダルが健康的でよいのではないか。

裸足(はだし)で歩いている国に、靴を輸出したが売れなかったという。しかし、日本の戦後GHQなどの方針は絶大的。小学生まで、すべて靴になってしまった。日本では、大いに靴が売れたのである。しかし、何となく「集団纏足(てんそく)」を行っている感じ。
少なくとも子どもたちには、健康の観点で何とかならないものであろうか。


人生は「待ちくたびれ」て、いつしか終わる。


いよいよ私も人生の終盤戦。救世主の現れるのを待ち続けていた民族があるが、私は別に救世主を待っているのではない。それでは、何を待ち続けて待ちくたびれたのか。

それは、一言では言えない。
しかし、無理やりに言ってしまえば、何と言おうか「心の安らぎ」とでも考えたらよいのだろう。何回も参考資料として引き合いに出すので恐縮ではあるが、「私の福音書」(自己福音書)にある「黒い皮袋」である。

そもそも、福音書とは「幸福の音信(いんしん)」の略で、新約聖書冒頭の四福音書や共観福音書のようなスタイルではないと思う。むしろ、パウロの手紙のような書式である。それが、度重なる修正・加筆のために伝記のようなスタイルになってしまったのであろう。……
今年は、パウロの生誕2000年である。


デジカメは手に和む大きさ、私には。


初めて買ったオリンパスの「μ-20 DIGITAL」(400万画素)は、いまだに愛用している。まったく私の手に和む大きさで、扱い方も簡単。晴れた日は、オートにしておいてもよく撮れる。

各画像の縦・横変換や角度調整、そしてトリミングなどを「Paint Shop Pro」でする。そして、ホームページのアルバムに次々と貼り付ける。すでに、約一万枚の画像を作成した。
その他に、動画(ムービー)もかなりある。

そんなわけで、デジカメはもはや手放せないツール。
なぜオリンパスにしたかというと、かつて「オリンパスペン」というハーフサイズのカメラを愛用。しかし、重さや大きさなどははるかに改善されている。また、DPEの必要もない。ずいぶんと進化をしたものだ。


数日で、固有な文字を拾ってくれる。


ホームページやプログに、固有な文字をインプットする。直後はムリだが、数日後にはすでにその文字を拾っているようだ。
後になると、その文字をどこに書いたかを忘れてしまう。そんなときには、Googleで自分のURLをドメイン指定してウェブ検索をする。すると、またたく間に出てくる。

もっとも、特殊なものであればドメイン指定は不要。
例えば、「松柏林天満宮」。今のところ、二件。
また、「きりはなこくった」は分解されたものも出てくる。そこで、両端を「”」で囲んで「”きりはなこくった”」のようにインプットする。すると、検索上の一語になってドメイン指定をしなくても私のだけが並ぶ。

そんなわけで、後になっても書いた場所が簡単に探せる。したがって、そこを参照したり、書き加えたりすることが可能になる。このウェブ検索では。何とも、ありがたいシステムである。


衰えることは、いったいどういう意味か?


人間は誰しも老いて、衰える。当たり前のことである。人間ばかりでなく、たいがいの生物はそうである。この「衰える」ということは、単に一つの経年変化ではないか。機械や道具などでも、そのようなことがあるだろう。

しかし一方では、いつまでも衰えずに若い人がいる。めったにいないが、いることは事実と思う。自分はそうでないが、何となくわかるような気がするのだ。

「老いる」とか「衰える」というのは、時間に関する現象である。もしも、時間が止まっていたら、「老いる」ことも「衰える」ことも起こりえないのかもしれない。そして、さらに私は「時間自体が実在しない概念なのかもしれない」とも感じるのだが。何となく支離滅裂で、論理を構築するのが困難ではあるが、……

あなたは、どうであろうか。


大きいか小さいかなど、問題がない。


最近になって妙なことに気付いた。それは、きわめて曖昧模糊(あいまいもこ)とした空間と時間に対する概念。つまり、宇宙観とでもいおうか。

「壷中(こちゅう)天あり」という。また、お釈迦さまの手の中から出れなかった孫悟空。つまり、私たちは「時間と空間」の歪(ひずみ)の中で錯覚をしているのではないか。

そもそも時空それ自体が線形であるなどと、誰が考えたのだろう。壷老人や孫悟空は、直感的に反駁している。
考えてみれば、大腸菌などのパラサイトは「私たちの身体を銀河系よりも大きく感じている」かもしれない。そして、その銀河系が無数にあるという事実にも、ちょうど私たちの知識の場合と同じ。
まだちょっと言い足りないので、別な機会に補足をしよう。


面倒になってしまった! 記事の書き込み。


新たな記事を書く。あるいは、前に書いた記事を修正する。つまり、日々更新をしていく。しかし、そんなことがいつしか面倒になってしまった。なぜならば、いつまでたっても自分自身の考え方が確立していないということが、つくづく身にしみてわかったからである。

「字を識(し)るは、憂患の始め」と、宗時代の蘇軾(そしょく)が言ったという。まったく、そのとおりだと思う。字ばかりか、知識を次から次へと求めていくと煩わしくてキリがない。

とどのつまり、未完成の自分がいくらがんばって文章を作っても、その文章は未完成ということになろう。不完全のそしりを免れない。『荘子』にあるように、有限の身で無限を求めるのは、いわゆる「しこめ(醜女)のお化粧」のようなものであろう。自分で気付かないうちが花。


Kuroda Kouta (2008.08.02/2008.08.02)