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  新句(十九音) 作品集12(2008年6月分)



キラキラが始まると、もうパソコンはダメ。


眼精疲労を起こして、目が疲れてしまう時期があった。
しかし、最近では目がまともに見えなくなって、水が流れているみたいな光景が映る。それは、目の中でキラキラとする感じ。

友達が言うには、もしかしたら網膜剥離の初期状態かもしれないなどと。しかし、じっとしているとすぐに治ってしまう。

パソコンをやっているときは、その時点で作業を中止する。ムリをして続けると、状態がますます悪くなるからだ。目の構造を考えると正常に見えるということは、何ともありがたいこと。

したがって、ちょっと不都合が起こると、すぐに目を休めるほうが好ましいのではないか。


ことごとく、手数を減らす手順をさがす。


私は面倒なのが大嫌い。そこで横着をするために、ムダな手数を省くことをいつも考えている。「終局的には、自分自身が生きているのをやめるのがよい」などとなってしまいかねないが、そこまではまだなっていない。

そんなわけで、日々の生活のムダを省く努力をしている。食事の支度は安全の観点から、妻でなく私がするようになった。そこで、自宅では肉や魚の料理をしない。野菜や果物も、ほとんどそのまま食べれるもの。したがって、筍(たけのこ)などは食べたことがない。
また、肉や魚もソーセージや蟹缶くらい。後は、煮干とコウナゴ・白州干し程度。自宅までは冷凍や冷蔵でくる。そして、そのまま冷蔵庫へ。

いっぽう、ホームページやメールなども手数を減らす工夫をしている。そんなわけで、お粗末・単純な結果になっているかもしれない。


人生は恥の連続、耐えがたくあり。


まったくお恥ずかしい次第。
人生も終盤戦になって何かと思い出すのであるが、それこそ「後悔先に立たず」。ただ、それを救うのは記憶力が次第に薄れていくことであろう。

いろいろとがんばってみたのだが、あまりにも失敗が多すぎる。私はエンジニアだったので、直接に人と争うことは少なかった。スポーツの選手や碁・将棋の世界だったら、競争や試合が日常茶飯事。競馬・競輪などもそうであろう。

もともと生存競争という戦いの中で、生き残ってきたのが自分。生れる前の精子の時代から、勝ち残るためになりふりかまわず戦っているのだろう。

そんな意味で、恥の連続などを気にかける必要はないのかもしれない。


牛丼で親しくもあり、松井の笑顔。


私は一年前から、吉野家のファン。
以前はベジタリアンだったので、あまり肉や魚などは食べなかった。しかし、二年ほど前に入院・手術をしてから結果があまりよくない。パラサイトが内臓に巣くってしまったため。抗生物質などを使ったが、どうしても取れない。

一時的に陰性になっても、二週間もするとまたぞろ。病院に通ったが、原因不明のまま。おそらく、食事に化学薬品を避け、肉食を嫌ってきた私の身体が、パラサイトの絶好な住処(すみか)であったに違いない。

そんなこともあって、外食では肉も食べることにした。
吉野家に行くと、松井の笑顔があるポスターが貼ってある。野球には関心がないが、とても頼りがいがある感じ。六月から、期間限定「うな丼」が始まったのもありがたい。ビールに合うからである。


「B12食べると脳によい」とドクター。


何気なく見たディスカバリー・チャンネルで、ドクター中松という人が「ビタミンB12が脳によい」と言っていた。面識はないが都会議員の選挙のときに投票をしたり、かねがね尊敬をしている人だから、私はなるほどと思った。

そして、B12は豚肉にあると言う。そこで、私は吉野家で「豚丼」。「とんどん」と言って、ビール(サントリーモルツ中瓶)とともに注文。それでも、計730円。

さらに、ドクターの言葉。「現在77歳であるが、一日一食、700キロカロリーにすると、頭が冴(さ)えて発明がじゃんじゃんできる」そうだ。母親のDNAを強く引きついた人のようで、「母を楽にさせよう」と考えて、石油ポンプなどを考案したらしい。

慎太郎などと比べると、ちょっと違って尊敬ができるタイプの人だと思うが、私には一日700キロカロリーは実現がムリであろう。


吉野家の鰻丼(うなどん)小さくて、ちょうどよい。


夏季に期間限定として、鰻丼(うなどん)をする。
私は、それのあるときは二回に一回、ビールとともに注文。とても、ビールと相性がいい。すっかり、ご機嫌になってしまう。

鰻(うなぎ)は大好きで、吉祥寺にいたころは神田川でよく食べた。しかし、いつの間にか店がなくなっている。その後、ベジタリアンを放棄した後で、登亭なども行ってみた。しかし、どうも味が気に入らない。

穴子(あなご)も、好きである。兵庫県高砂市の駅前にある下村あなご店で、串刺しになったのをよく買った。

穴子はさっぱりしているが、鰻はちょっと重い。そこで、量のすくない吉野屋の鰻丼が、いまの私にはちょうどよいのである。


ラッキョウかマトリーシカか? 裏の裏あり。


我々が生かされている空間には、「裏の裏」があるようだ。学問的には証明できないが、何となく直感的に感じる。「メビウスの帯(おび)」や「クラインの壷」のように、位相力学では考えられないことが多いからでもある。

冗談に、猿にラッキョウを与えると皮の下に皮があると勘違いをして最後まで剥(む)いてなくなってしまうという。マトリーシカ(マトリョーシカ)は、ロシアの入れ子人形。幼い子に与えると、中を取り出す。しかし、まだその中にあるということを教えないと、次を取り出せない。
次が出ると、さらに次を出そうとする。そして、もう出なくなっても、一所懸命に小さいマトリーシカをねじったりしている。

人生には、猿や幼児(おさなご)のような勘違いをしていることが、いつまでもあるようだ。


忘れないうちに、整理をしたいと思う。


たいがいのことは、しばらくすると忘れてしまう。むしろ、それが当然のことであろう。そんな意味で、約束などは当てにならない。

しかし、自分自身が己にしたいわば約束がある。何かをしなければならない。何かをしたい。そんなことだ。

それが、なかなかできない。思うようにいかないのだ。そんな葛藤が生じることがある。

そこで、少なくとも忘れにくい工夫をして、それをときどき見直すことが必要。ノートや日記帳に書き込むのでもよいが、ホームページが理想的。なぜならば、グーグルの検索や地図を自分自身用にカスタマイズして使えるからである。そんな方法で整理をしたいと思っている。


何のため、何をするかが大きな悩み。


人生も終盤戦になってくると、日々何のために、何をしているかが問題になってくるのではないか。つまり、たいがいのことは中途半端になってしまいがちだから。そこで、何とかしなければならないと思って途中であせる。

しかし、焦(あせ)ったからとて、その作業が進むわけでない。
考えてみれば、今までの人生には多くのムダがあった。しなくてもよいことをしたり、しなければならないことをなおざりにしたり、いかに自分が愚かだったかがわかる。

その時点では、状態が飲み込めなかったために、そんなことになってしまったわけ。もう少し考えてから、みきわめをつけなければならない。
そんなことが、遅まきながらわかった。


面白くないことばかり、やけくそになる。


日々の生活には、面白くないことがあまりに多い。そこで、やけくそになる人がいるらしい。その結果、事件が発生する。もしかしたら、秋葉原電気街での大量殺人などは、そうかもしれない。

いくら自分が面白くなくても、人を殺したい気持ちになるのは不自然。破壊願望というか、終末思想に近いのかもしれない。つまり、もはや精神的に異常な状態なのである。
金をもっていさえすれば勝ち組で、何をしてもよいなどと考えがちな歪(ひず)んだ近代社会。そして、粗悪な食べ物が「化学薬品症候群」をきたす。

そもそも学校教育の基本方針が間違っているのだから、長期的には当然の結果が出始めているのだろう。この辺で、義務教育の内容に関して「しこめ(醜女)のお化粧」のようなことはやめて、根本的に考え直すべきだ。


「我々の武器は知識」と、ポワロは言った。


『ABC殺人事件』という映画の中のことである。エルキュール=ポワロが言った言葉。そして、さらに「我々は、そのことに気付いていないかもしれない」と補足する。

まったく、その通りだと思う。
この作品は、人間の深層心理を描き出していて、ちょっと現実離れをしているものの、よくできたストーリだ。非常にずる賢くて冷酷な人間がいて、真面目で小心なセールスマンを暗示にかけて事件に引きずり込む。考えてみれば、そのこと自体が恐ろしいことである。

さらに、考えれば何となく傀儡師(くぐつし)に操られているような気配が、世の中のすべてに感じられるので、物語がその秘密を洩らしているようだ。でくのぼう(木偶の坊)などとも呼ぶが、とんでもない。


作品を論理で見ずに、経験で見る。


まったく、その通りです。「論理」などは、まったく浅いものかもしれません。私は、さらに「直感」で見なければいけないと考えます。

実は、上のテーマはアガサ=クリスティの作品中でエルキュール=ポワロが言った会話です。『雲をつかむ死』(1992年イギリス)という映画の中で、ポワロがシュールレアリズムの美術館で、スチュワーデスにアドバイスした言葉、

<彼らの作品は、論理で見てはいけません。経験で見るのです。>

というくだり。
彼女が絵を見て、<よくわからない。>とつぶやいたときに、即座にポワロが言いました。私は、「なるほど」とうなずき、さらに作品だけでなくすべての対象にも、そう言えるのではないかと考えたのです。


訃報聞き、今日は他人(ひと)の身、明日(あす)はわが身か?


親しかった友人の奥さんから電話がきた。口調ですぐにわかったが、やはり訃報であった。だいぶ前から弱っていたので、とうとうという感じである。

元気で互いに仕事をした日々がなつかしい。考えてみると、夢のようである。いったい、人の死などはいつ来るかわからない。弱っていても、なかなかアウトにならない人もいるからである。

そんなことを考えると、自分自身がいつアウトになるかわからない。つまり、大丈夫だという自信が、まったくないのである。ここのところ、疲れがたまって身体がだるい。また、記憶力も急速に薄れていくようだ。度忘れや失念が、多くなったのも事実。

念仏などを唱える時期に、私もなったのであろうか。


ムダ多きインターネット、泥縄みたい。


いつも思うのであるが、何ともムダの多いインターネット社会である。ウイルステーブルなどは、日に数回も追加される。いきおい、大きなファイルになってしまう。フィッシング詐欺検出テーブルなども同じ。

つまり、次々と泥縄の状態なのである。
ある国が、地球を七回半破壊できる核兵器をもったとする。すると、もう一つの国が、負けてならじと八回地球を壊滅できる準備をする。何のことはない、イソップだったかの「蛙の腹自慢」と同じ。

さらに結局は、「猿の惑星」ではないか。いったい何のために何をやっているかが、わからないのである。損失が相手に及ぶと同時に自分にもくるので、つまらないルール違反はやめたほうがよい。プロレスの試合で、救急車が数回来るようなことはない。互いに原則を守っているからだ。


1000句目の新句(十九音)になりぬ、続いたもんだ!


この作品で、ちょうど1000句目。よくもまぁ、続いたもんだと思う。
日々の思い付きを、「五・七・七」十九音にまとめて、何とかアップロード。中には、いやほとんどが下らない内容であろう。でも、自分自身にとっては「生きている証明」なのだ。

さらに、「こんなことをして何になる」と言ってしまえば、それまで。
しかし、日記をつけるのと同じで、自分自身がよければそれでよい。むろん、ウェブ公開をしているから、誰でも見れる。見られても、一向にかまわない。とくに、秘匿するようなことはないつもり。

それよりも、「継続は力」なのである。
そんなことがわかれば、それでよい。自己満足かもしれないが、……


何故に襲い来るか? 終末思想。


最近になって、ふと終末思想とでも言えるような内容の考えが、脳裏に思い浮かぶことがある。もしかしたら、自分自身がアウトになりかかっているのかもしれない。

とにかく、私たちが何となく不安感がただよう社会の中に置かれていることがわかる。安定しているように見えるが、実は脆(もろ)くて不安定。確実なように見えるが、実は不確実。
そんな漠然とした不安感である。

ここのところ、やけくそになる人が増えてきているようだ。それらの人は、事件を起こして社会の表面に出てくる。しかし、いつそれが自分の番に回ってこないかというような、曖昧な漠然として不安感をいだく人が、現実に増えてきているのではないか。


考えてみれば、私も発狂寸前?


ここのところ、急におかしくなって世間を驚かすようなことをする人が増えた。奇怪な行動をしたり、人を殺したりする。すでに、脳が犯されてしまった状態である。

まず考えられるのは、長年にわたる化学薬品の飲用などによる「化学薬品症候群」。人類がその過去の歴史に摂ったことのない物質を多量に食べたり、飲んだりするのだから結果は思わぬことになる。
むろん、実験結果などはない。せいぜいラットの小規模なテスト。人体の場合とは結果が異なるだろう。

つまり、誰もが事件を起こした犯人や当事者になりうるのである。そんなことを考えると、最近になって大声を出したくなるようなことがある。もしかしたら、すでに脳が犯され始めているのかもしれない。
あなたは、どうですか?


「犯行に及ぶまで」なる小説を書く。


ある男が、ある犯罪を決意して綿密な計画をたてる。そして、犯行に及ぶのである。私は、そんな短編小説を書こうと思った。

しかし、考えてみれば私は実際にその犯行をした経験がないのである。
そこで、いろいろと考えてみた。
でも、どうしても「主人公の犯罪の心理」や「心の内面の葛藤」がわからない。そんなわけで、作業は進まない。挫折したのである。

『イワン=イリッチの死』という小説がある。
ある男の死ぬまでの心理状態が、恐ろしいほどの克明な描写で書かれている。私は、それを読んだときに「この人は、それまでに死んだ経験がないのに、何ともよく書けているなぁ」と感心した。


この世では、自分で一つ宇宙を作る。


大きいか小さいかなどは、いうなれば相対的な問題。
私にとって、銀河系の宇宙は確かに大きい。しかしウイルスにとってみれば、一人の人間の身体が銀河系くらいになるのでは。

そんな状態に置かれていることを考えれば、自分自身で一つの宇宙空間を作るしかない。つまり、自分自身の「知的空間」である。そのようなことをして、「心の安らぎ」を求めるのがよいのではないか。

もっとも、自分の置かれている立場などをあまり意識しないほうがよいのかもしれない。道に描いた白い線の上を歩くのは、まったく簡単であろう。しかし、千尋の谷に渡された同じ幅の橋を渡るのは、非常にむずかしい。心理的な問題があるからである。
危なっかしい状態にあるということを知ったならば、自分自身の知的空間を作るのが「心の安らぎ」つまり「安心立命」を得る一つの方法。


大発見! 左右の眉に白髪(しらが)があった。


平成二十年(2008年)、春の明るい日。
何となく眉に長い毛があるので、切ろうとして鏡を見たらびっくり。その長い毛は、右の眉に一本だけあって白髪である。抜かずに切って、左の眉も見てみた。すると、短いがそこにも白いのが一本。

まぁ、左右に一本ずつであるから驚くほどのことではないが、眉は白髪になりにくい箇所なので、「やれやれ、自分も老いたんだなぁ」という気持ち。
だいぶ前から、オチンチンの上の部分には白髪というか、白い毛がかなりある。考えるに、衰えた部分から白くなるのではないか。どうやら、眉はなかなか衰えないものらしい。

「白眉」(はくび)という言葉がある。中国では、眉が白いのは優れたものを言うようだ。でも、日本で二本ではダメだろう。
さらにまた、私が思い出すのは兪曲園の『顔面問答』にある目・口・鼻に対する「眉の言い分」である。


チュパカブラ、いるかいないか私は知らぬ。


地球に住んでいる私たちは、ようやく月や他の惑星にも行けるようになった。そして、それは次々と広がる。しかし、銀河系をすべて行っても、まだ数限りない銀河があるという。まったく、広大な宇宙に驚く。

しかし、ウイルスを考えてみれば、それは空間に対する捉(とら)え方の問題だということが何となくわかる。ウイルスにとって、私たちの身体は大きい。一人の人間は銀河系くらいだろうか。そして別な人に感染すれば、他の銀河系に行ったようなもの。銀河系は、世界の人口ほどある。

何がいいたいかと言うと、チュパカブラかチュパカプラか忘れたが、そのようなものがいても不思議はないのである。つまり、ウイルスにとって宇宙のすべてが見渡せないのと同じことであろう。地球外生物か、はたまた国家が作った秘密兵器なのか、今後の調査である程度はわかるであろうが、……


恥を知れ! みっともなくも続けるプログ。


先輩が、かつてしてくれたアドバイス。
「お前は、みっともないプログを毎日なぜ続けるのか? ぼつぼつ恥ずかしいと考えて、やめたらどうか?」

「恥を知れ!」とは、まったくその通りだと思う。すでに、1000回を越えたところだ。しかし、そんなことを言ってしまえば、私自身をやめなければならない。つまり、極端に言うと死んでしまったほうがよいかも。

自分自身がお粗末な人間であるから、当然のことながらプログやホームページの内容も大したもんではない。つまり、当然ながら作ったものも中途半端でいいかげん。
そこで、開き直るのである。つまり、「私は、みっともなくてもいい。恥ずかしいとも思う。しかし、自分自身が『生きている照明』をしてるんだ!」。


雨の日は、不要な物の整理などする。


雨が降ると、散歩に出かけられない。それでも傘なしでデパートに行けるので、買い物があったりすると出かける。しかし、ここのところ買い物もなくなってしまった。食材は、すべて安全素材を宅配で取っているからである。

そこで、雨の日には不要な物の整理をし始めた。万一、自分が倒れたり、死んだりした場合に備えてである。

知り合いが亡くなって、しばらくしてから「資料をいただきたい」と申し出たら、ご子息が「業者にたのんですべて廃棄処分した」から何もないと言われた。
また、別な人は仕事で留守をしている間に、大事にしている品物を娘さんが大量にゴミとして出してしまったという。つまり子にとっては、あまり大切なものではなかったのであろう。

考えてみれば、ほんとうに必要なものは少ないのかもしれない。


人生は悔いの連続、恥のかき捨て!


まったく、いやになってしまう。
もっとも、これは自分だけのことかもしれない。とんとん拍子に成功をして、堂々と生きている人も多いからである。

私の場合、今までは悔いの連続と言ってよいだろう。何をしてもダメ、ずいぶんと努力をしたのだが、うまくいかなかった。そんなわけで、後悔先に立たずと言ったような按配。

いきおい、恥ずかしい一連の行状記である。
どうも、ぐちったところで始まらないのであるが、やはり力量と配慮が不足していたのだろう。
とまぁ、そんなことが遅まきながら古希を迎えるに当たって、とうとうわかった次第。


「下らん!」と言えばそれまで、プチさん(プティ散策)記録。


何事もそうであろうが、「下らん!」と言ってしまえば、それまでである。「下る」か「下らん」かは、それぞれの価値観であろう。したがって、他人がそのことをとやかく言うべきものではないらしい。

正直なところ、私は自分自身でも「下らん」とまでは言わないものの「この作業は、あまり意味のあることではないぞ!」などと、つい思ってしまうことがある。つまり、なぜこんなことをしているのかに対して、本人がちょっと自信をなくしてしまうんだ。

しかし、あまり深く考える必要もないだろう。
なぜ、呼吸をするか。なぜ、食事をするか。なぜ、眠るのか。それは生きていくうえに必要だからである。プチさん(プティ散策)も生きていくうえに必要だと単純に思えばよいのである。


プチさん(プティ散策)は、老いたる日々のささいな励み。


老いてくると、生活に変化がなくなってくる。そして、そのような状態が続くとボケが始まる。そうかと言って、緊張の連続ではアウトになってしまうだろう。

そんなわけで、身近な散歩などがよい。
しかし、同じコースの散歩ではどうしても飽きてしまう。心のフレッシュを保つために、ある程度の新しい刺激も必要。

そこで、駅周辺のプチさん(プティ散策)を始めた。
費用もかからないし、あまり危険ではない。今までに気付かなかった発見や新しい感覚の再発見もある。そんな小さいことが、きっと歓びにもつながろう。
つまり、ささいな楽しみを求める日々の励みと言ってよい。


プチさん(プティ散策)は、駅周辺の知的探検。


「知的探検」などと言ったら、ちょっと大げさだろうか?
人間は誰でも、またいくつになっても好奇心があるものらしい。もしも、そのような気持ちがなくなってしまうと、急速に衰えて老いる。そして、その結果として死期を早めるだろう。

そんなわけだから、元気なうちは「小さな知的探検」をするのがよい。
いつも通る道の一本裏を歩いても、見知らぬものがあるかもしれない。そして、それが再発見や知的発見の発端になるのである。

私たちが見る対象のものは、何でもよい。
実際にあるものをあれこれと考えたり、詮索をするのもよいでしょう。他人に迷惑がかからない範囲で、デジカメに撮ったりするのも記録を後で整理するための「知的探検」の方法でもある。


晴れた日は、プチさん(プティ散策)をする楽しみが大。


晴れた日に自分の体調がよければ、楽しくなってしまう。なぜならば、プチさん(プティ散策)ができるからである。

曇った日や雨の日は、デジカメの写りが悪い。とくに、空がどんよりしていると建物の屋根と空との境界がくっきりしない。いっぽう青空の場合は、とてもきれいに仕上がる。

また、コントラストなども晴れた日のほうがよい。すべて、オートで写しているので大いに違う。また、フラッシュなども用いない。それほど効果がないみたいだから。お寺の本堂の中などは、フラッシュをたかなくてもじゅうぶん。
そしてノーフラッシュには、読経(どきょう)などをしていても後ろから気軽に写せるというメリットがある。


人間は、馬鹿げたことをするのがふつう。


アガサ=クリスティのポワロシリーズ『メソポタミア殺人事件』(2001年イギリス映画)の中のことである。

美貌の夫人が、自分宛に脅迫状を書いているのではないかと疑われる。実際は、筆跡を真似て嫉妬深い学者でもある夫が書いていたのだが……

それはともかく、ヘイスティング大尉が「馬鹿げたことをするもんですね」と訝(いぶか)って言う。すると、ポワロは直ちに

<人間とは、馬鹿げたことをするもんです。>

と応える。
私も、そんなもんらしいと思う。


「これでもか」「これでもまだか」と、エスカレート。


近代科学や技術は、目覚しい進歩。かつて考えられなかったほどの技術革新だ。また、社会の仕組みや企業のシステムなども日進月歩で、目まぐるしく合理化されている。

利益追求や発展に対する人間の欲望には、際限がないのかもしれない。
しかし、経済的利益を最優先に求めたり、本末転倒や枝葉末節な問題も多くあって、何となく本質を見逃しているようだ。つまり、発展をさせたために人間社会の根底が、もはや崩れかかっているのではないか。

『荘子』にあるように、「有限の身体で、無限の問題を追うのは危うい」のではないかとうことも、ここのところ考えなくてはならない。いくら追求と言っても、『蛙の腹自慢』ではないが、自分自身すなわち人類が破滅をしてしまっては、まったく意味がないのである。


Kuroda Kouta (2008.07.01/2008.07.01)